第4話

文字数 5,244文字

◆二〇〇九年◆
 いつものようにシリアルだけの朝食を食べていたら、母さんがダイニングにやって来た。いきなり、昨日はどこに行っていたの、と聞くので、慌てて「なぜ?」と返す。
「お隣のエイミーが、あなたが珍しく、中心街行きのバスに乗ったのを見たって」
「別に、ちょっと買い物に行っただけだよ」
 プライバシーのかけらもない、昔ながらのこのアパートの馴れ合いに反吐が出そうになりながら、僕は答える。いや、アジア人である僕たちを、分け隔てなく地域の仲間として扱ってくれるのはありがたいのだけど。ちょっとヒヤっとしたのがバレないように、母さんに背を向けて、食べ終えた食器を食洗器にセットする。
「今日はどこに?」
「仕事だよ、母さん。仕事が終わったらすぐに帰るから。いつもそうだろう?」
 僕が言うと、母さんは少し安らいだ表情で微笑んだ。目尻のシワが濃い。年を取った。僕も母さんも。
「今日はニーナが来る日だからね」
「ニーナ?」母さんがキョトンとした顔で僕を見る。
「ホームヘルパーのニーナだよ、週二回、来てくれるだろう」
 母さんは、ああ、ああ、分かっているわ、と手を顔の前で振った。僕はリュックを背負い、家を出た。アパートの入り口のところで、近所のおばさま連中とお喋りに興じているエイミーと鉢合わせる。エイミーはニッコリと大げさに微笑んで、僕に挨拶をする。自分でもぎこちないと分かる笑顔で挨拶を返し、地下鉄の駅に急ぐ。薄曇りの五月はまだまだ寒く、ブルゾンのジッパーを一番上まで上げた。
 先週ニーナに、最近母さんの認知症が進んできているから、なるべく一人にしないようにと言われた。でも、僕が仕事をしなければ、ヘルパー代だって払えない。数年前に父さんが死んで、母一人子一人、ひっそりと暮らしているのだ。
 いつもの地下鉄に乗り込んで、手すりのそばに立つ。窓に映る自分の姿を見て、ふと、このブルゾンを学生時代から着続けていることに気づく。顔には皺が出来、頭髪は薄くなっているのに、昔と同じ服を着て、もう二十年同じ職場で、同じ仕事をしている。なんて代わり映えのない人生。
 投げやりな気分になりかけて、昨日の出来事を思い出す。昨日は変化の乏しい僕の人生の中で、だいぶ異質な日だった。昨日、一人の女性に会った。彼女は、昔に僕が犯した無責任な行いのせいで、遠い異国の地からわざわざ僕に会いに来る羽目になった。地下鉄の窓に浮かぶ、自分のうろんな顔を見つめながら、僕は彼女に思いを馳せた。
 
 始まりは一通のメールだった。タイトルを見てぎょっとした。そこには僕が忘れることのできない、ある精子バンクの名前があった。十九年前、僕は軽い気持ちから、そのバンクに協力したのだ。バンクは僕が関わってからほどなくして破産したと聞いていたのに、数年前、大々的にニュースに取り上げられた。
 そのバンクは、高額な利用料と引き換えに、「優秀な遺伝子」を提供することをウリにしていた。身体情報のみならず、IQや学歴、スポーツの実績などまで考慮して、利用者は精子を買うことができた。
 バンクは開設して間もなく、ひどい経営難とドナー不足に陥り、虚偽のドナー情報を提示するようになった。つまり、優秀でもなんでもない、むしろどんな出自かもはっきりしない人間の精子を、利用者に提供していたのだ。もちろん、遺伝しうる病についての説明も無い。大問題だ。このバンクの精子から産まれた青年が、遺伝上の父親について調べ始めたことをきっかけに、この所業が明るみに出た。
 そのニュースがテレビで流れると、母さんは顔を顰め、「協力する方も利用する方も、気がしれないよ」と言い、僕は脇の下に冷や汗をダラダラかきながら、興味無さそうに相槌を打った。それからしばらくは、生きた心地がしなかった。どこからか僕の所業が明るみに出て、全てを失うのではないかと怯えた。
 ところが、日々は何事も無く過ぎ、いつの間にかニュースの続報も聞かなくなった。きっと、僕の精子を使う人はいなかったのだ、僕はそう考えるようになった。僕はこの国では少数派のアジア系だし、提供したのだって一回だけだ。きっと誰からも選ばれないまま、僕の精子も情報も処分されたに違いない。
 そうやって安心しきっていたところに、あのメールが来た。寝起きに屈強な男に突然頭をぶん殴られるくらいの衝撃だった。僕はくらくらする頭と震える手で、メールを開いた。送信者は大手出版社の編集者を名乗る男で、メールには日本のルポライターが僕に会いたがっていると書かれていた。彼らは僕のさまざまな情報も抑えているようだった。日本人ルポライターは、あの精子バンクについて調べていて、僕の精子から生まれた日本人女性と共に、ぜひ僕と面会したいのだという。
 僕はメール画面から目を離し、天を仰いだ。どうしよう、なんて呟いたけど、もう彼らと会うことは半ば決まったようなものだった。僕は、流されやすい。自分の意志というものがあまり無く、誰かに頼まれると、なかなか断れない。十九年前だって、そうだった。
 あの頃も僕は今と同じ職場で、今と同じカスタマーサポートの仕事をしていた。大通りに面した、古びたビルの地下。広いけど天井が低く、圧迫感の強い空間。パーテーションで区切られたデスクが大量に並び、みんな同じヘッドセットを付けてデスクに向かっている姿は、機械の中の部品じみていた。
 ある朝僕が席に着くと、当時の同僚のマリオが、隣の席のパーテーションから顔を出し、話しかけてきた。彼はもっさりとした容姿で、女好きなのに全然モテなくて、僕としては親しみの持てる相手だった。
「おい、いい小遣い稼ぎがあるぞ」彼は言った。「こないだバーで一緒になったおっさんに誘われたんだ。簡単だ、お前にもできる」
 絶対にヤバい話だ、と思ったけど、僕はマリオの話を聞いてしまった。当時、父さんが病に倒れ、両親が細々と営んでいたチャイニーズレストランを閉めたところで、金銭的に不安があったのだ。結局それが、件の精子バンクへの精子提供の話だった。
「おっさんの経営してるクリニックに行って、一発出せば謝礼が貰える。俺と友達も行ってきた。安全だ、信じてくれ」
 そう言ってマリオは、クリニックの名前と住所の書かれたフライヤーを僕に渡した。後から分かったことだが、彼はクリニックから紹介料を貰っていた。マリオはすぐに電話をかけ、経営者の男と話をつけ、僕は流されるままに、そのクリニックへ赴いた。
 クリニックは閑静な住宅街の一角にあり、面構えからして清潔そうだった。僕がインターホンを鳴らすと、口髭を蓄えた、疲れた風貌の男が出迎えてくれた。中もピカピカで、白一色の清潔そうな空間だったが、従業員エリアに一歩足を踏み入れると、古びたビルの内装が顔を覗かせた。表面だけを取り繕った、ヒビとカビに覆われたくたびれた建物だった。
 ここがどういった施設で、僕がこれから何をするのか、男から簡単な説明があり、契約書にサインをした。僕がサインを終えると、男は、今度アジア人の予約が入っているから、助かったよ。アジア人の精子は少なくて。うちは、豊富なメニューが売りなんだ。と言った。
 メニュー?と僕が聞き返すより先に、男がいくつか質問させてくれ、と言った。簡単な経歴や、持病・体質を聞かれる。スポーツの経験を聞かれ、子供の頃、地域のサッカークラブに入っていたことがあるくらいだ、と答えた。万年三軍で、お世辞にも上手くはなかった。男は、上出来だ、と呟いてメモに何か書き付けると、僕を小部屋に案内した。薄暗くてカビの匂いがする、一つの目的に集中するためだけの部屋。一時間もせずに全てのことを終え、僕は月収十分の一くらいの謝礼を受け取って、クリニックを後にした。
 そのときの僕は、お金が貰えてラッキー、くらいにしか考えていなかった。言い訳をするなら、その時点では、そのバンクがドナーの優秀さを売りにしていると知らなかった。詐欺まがいのことをしていることも。だから、重要な遺伝病さえなければ良いだろう、なんて軽く考えていたのだ。
 これこそ僕のダメなところだ。狭い範囲のことにしか目がいかない浅はかさ。何で優れた人たちがドナーとして協力しなかったか。自分が起こした行動の先、繋がっていく命があること、そこに対しての責任。そこまで考えたら、誰だって躊躇うだろう。そんな所業を小銭程度で引き受けるのは、僕らみたいなしょうもない男なのだ。
 ともかく、十九年の年月を経て、僕は自分の犯したことの重大さを目の前に突きつけられた。遺伝上の娘というかたちで。
 そして昨日、中心街にある出版社の会議室で、僕は彼女に会った。ルポライターが、僕のプライバシーは確実に守るなど、さまざまな説明を済ませた後、一人の女性を会議室に招き入れた。それが僕の娘で、名前はヒカリと言った。
 事前のメールのやりとりから、ヒカリの母親が有名人だったために、日本ではこの精子バンク事件がかなりスキャンダラスに報道されたのだと知った。少し検索すれば、その女性の情報に辿り着くことができた。美しく、自信に満ちた笑顔を浮かべた、一目で上流階級だと分かる女性だった。現実で僕みたいな男が彼女に選ばれることなんて、逆立ちしても無いような。
 ヒカリは、母親にはあまり似ていなかった。じゃあ僕に似ているのか、と言われると困るけど。控えめで、困ったような笑い方をする子だった。
 僕は緊張に任せていろいろと喋った。ヒカリに日本のこともいろいろ聞いたけど、ほとんど忘れてしまった。だいぶ時間が経ってから、僕はようやくオブラートに包んで提供に至った経緯を伝え、当時の浅はかさを詫びた。
 それまで静かに僕の話を聞いていたヒカリは、テーブルの上で組んだ自分の手を見つめながら、訥々と話し始めた。
「幼い頃から母に、私はとても優秀な人の精子から生まれた、特別な子供だと、繰り返し聞かされてきました。これまでずっと、その特別に見合う人になろうと生きてきました。でも、その全てが嘘だったと知って、正直とても怖かった。今まで自分だと思っていたモノが、突然失われたような感覚でした」
 また、頭をガンと殴られたような気がした。今まで自己保身ばかりに目を向けていた僕は、自分の犯した罪の重さを、影響を、たぶんそのときようやく理解したのだ。苦しんでいる生身の人間を目の前にして、ようやく。
「今回の取材の話がきて、すぐに了承しました。私は、自分が何者なのか知りたかった。あなたに会って、自分のルーツを確かめないと、前に進めないと思いました。だけど……」
 ヒカリは視線を上げ、僕を真っすぐに見つめた。
「今日ここに来て、見た目とか体質とか、あなたから受け継いだんだな、と感じたものはいくつかありました。でも、当たり前なのですが、遺伝上の父親に会ったところで、一番知りたかった『自分は何者か』なんて、ちっとも分からなかった。それでようやく、それは遺伝子によって決まるのではなく、私の手で作り上げていくものだと思えたんです。私が生きて、見て、聞いて、考える。それを積み重ねていくしかないって」ヒカリはそう言って、小さく頭を下げた。「ありがとう。あなたと会えたから、この考えにたどり着けた」
 僕は何も言えなかった。この子が抱えた不安、受けた痛み。全て僕のせいだ。だけど僕は、その責任を取ることさえできない。僕の人生は、本当は彼女と交わってはいけない。こんな僕にさえ感謝を口にしてくれる彼女に、僕ができることといえば、謝ること、それから――。
 僕は長い時間を置いて、ようやく口を開いた。
「これからの君の幸せを、心から祈るよ」
 そしてもう一度、心からの謝罪を述べた。ヒカリは僕の言葉を最後まで聞いてから、「あなたも、どうか幸せに」と、ニッコリと微笑んだ。
 陽が差したように周りがパッと明るくなる笑顔で、そんな笑い方もできるんだ、と驚いた。そうやって笑うと、ヒカリは彼女の母親によく似ていた。
 
 駅から吐き出され、古びたビルの地下に潜る。圧迫感のあるフロアの隅、パーテーションで囲われたデスクに着く。パソコンを立ち上げて、猫背でどんよりした同僚たちに挟まれながら、ヘッドギアを装着する。
 幸せになれるだろうか。こんな僕が。だって僕は、浅はかで、低収入で、病気の母がいて、冴えなくて……なんて、すぐに自虐に逃げたくなる。でもそれではダメなんだ。
 今手元にあるものは、これまでの僕が積み重ねてきた人生の結果だ。その中に、僅かでも大切なものがあるなら、きちんと大切にする。そうやって、少しずつ幸せの方に向かっていく。それを諦めてはいけない。犯した罪は消えないけれど、これからの人生、せめて、僕なんかの幸せを願ってくれたあの子に恥じないように。背筋を伸ばして、もう一度、僕は心から神に祈った。
 どうかあの子の輝く笑顔が、この先もずっと続きますように。
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