第1話〈明るい部屋〉

文字数 1,313文字

 アレからどれくらい経っただろうか。記憶は錯綜し、混濁している。もちろん記憶とはそういうものだけれど。
「アレ」というのは、ぼくが

のなかにいた時間のことで、ぼくはその時間のことを〈夢の時間〉と呼んでいる。
〈夢の時間〉の最中は、いつも身体が地面から数センチ浮いているかのような浮遊感があったし、時には警察に追われる犯罪者でもあったし、神から啓示を受けた羊飼いであるメシアだった。
 そうした夢の残滓が本当のことなのか、それとも本当のことではなかったのかについてはどうでもいいのだけれど、ぼんやりとした頭で、ある小説家が書きつけた、〈幻想というのはいつも、おおかれすくなかれ現実ばなれがしているようで、そのくせとても現実的だ〉ということばを思いだす。
 いまではぼくは長い、長い夢を見ていたのだと考えている。

〈夢の時間〉が終わりに近づいたことを確信したとき、ぼくは〈自分が全世界から無視しつくされ、全世界の無関心と沈黙の中に放置されていると考えて涙を流した〉。此岸や彼岸が実際にあるとしても、この現実−−五感にそのリアリティを訴えかけてくる、ある手触りがあるもの−−が地獄−−たとえば「生き地獄」という俚諺(りげん)があるように−−であるのは一目瞭然で、たとえ夢は夢でしかなかったとしても、現実と出逢わなくて済む夢のなかでまどろんでいるのはとても幸福な時間だった。

 まどろみから醒めたとき、はじめて見たものはなんだったろうか。
 母の顔かもしれないし、父の顔かもしれない。でも、両親ではなく、住んでいたマンションの天井についているただの染みかもしれない(とにかくそこは〈明るい部屋〉だった)。
 というのも、ぼくは母も父もあまり好きではないからで、母は本来は自己主張が強いのに、父に気兼ねして話半分も出来ず、言えなかったあれやこれやを心の内に溜めこんでいるから自閉気味になっていて、でも内にためたものはいずれ爆発すると相場は決まっているから、間欠的にヒステリーを起こす。母は一方で「あなたの自由にすればいいじゃない」と言いつつ、もう一方では「ああしなさい、こうしなさい」とがんじがらめにしてくる。そんな母はあまり得意ではない。
 一方、父は、父として機能していないと思う。正確には正しい父の機能を果たしていないと思う。父の役割というのは、社会の秩序を子どもに教えることだけれど、彼の欲望はその躾だけに向けられている気がする。でも、父の機能は厳しさだけではないはずで、子どもを受けいれる、受容する−−端的にいえば褒めるということが大事な機能だと思う。息子という存在は、母よりも父に褒められたいものだと思うから。

 まどろみから醒めたぼくはまるで異邦人で、地球に来た宇宙人みたいに(もちろん宇宙人は見たことはないけれど)、しげしげと世界を眺めまわしていたものだった。車の車窓から。あるいは自宅の窓から。時には、ドアに取りつけてある覗き穴から外を飽くこともなく眺めていたこともある。
 世界は様変わりしていた。
 それは、3・11のせいかもしれないし、新型コロナのせいかもしれない。
 もちろん一番ありうる可能性はぼく自身のせいだ、というものだけれど−−。
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み