第一話

文字数 10,420文字

 ――現実を仮想現実にカエる虚構MMORPG〝黄金色の午後の庭・オンライン〟。
 このゲームは、任意のデバイスにソフト、乃至、アプリをインストールし、起動するだけで、現実を一時的にではあるが、仮想現実として書き換えてしまう独自のシステムを採用している。
 見慣れた何時もの風景が指先一つで、非現実へと、現実ではあり得ないファンタジー世界へと、一瞬で変わるのだ。
 非現実(ファンタジー)
 そこでは、現実に居る者の姿形も、非現実に合わせた者の姿形へと変わる。
 強者は弱者に。
 弱者は強者に。
 現実は夢に。
 夢は現実に。
 法と秩序で守られた世界は、無法と無秩序に溢れた世界に。
 無法と無秩序で溢れた世界は、法と秩序で守られぬ世界に。
 そこに現世の理はなく。
 全てが理不尽と不条理と矛盾と、不条理と理不尽と矛盾で出来ている。

 それは、全てが嘘偽りのフェイクだからこそ出来ることであり、それこそが、このゲーム最大のウリである。
 しかし、だからと云って、他のMMORPGと全く違うわけでもない。
 何せ、運営会社は集客の為か、それとも既に居る顧客の為か、今日も今日とて、何かしらのイベントを実施している。
 それは、ログインするだけで仮想現実用のアイテムが貰えると云ったものであったり、強敵討伐イベントであったり、アイテム収集系のイベントであったりと多岐にわたるが、どのイベントにも強制参加等の義務はなく、各々好きなことを、好きなようにして過ごしているのは、どのMMORPGでも見られる風景だろう。
 だが、ウリのシステムがシステムなだけに、中毒者が続出。仮想現実から現実に帰って来ない者が日に日に増え続け、社会問題になりつつある。

 だが、運営側や、ゲームを実際にプレイしている者にとって、そんなことは何処吹く風。

 現実では地方都市の駅前広場と、その周辺に乱立するビル群として存在し。
 仮想現実では、各地へのワープ地点として活用されているポータル広場前の、ビルの森として存在する場。
 此処は、何時如何なる時でも、人が絶えない場所で、仲間との待ち合わせや、冒険者向けの商売に情報収集、クエストへ出発する為の臨時人員集め等々の看板が処狭しと乱立している。

 そんな風景を、とあるビルの屋上から見下ろしているのは、二つの影。
 一つは、腰まで伸ばされた黒髪のてっぺんにベロア地で出来た黒く大きなリボンを結び、ロング丈の黒地のワンピースにシンプルな白地のエプロン――所謂、黒いエプロンドレスを身に纏い、愛らしいと表現するに相応しく人好きのする容姿をした、金色の双眸を持つ少女、にしか見えない者。
 もう一つは、闇で作ったのかと思われる黒よりも黒が濃いローブを身に纏った長身の者である。が、フードを目深く被っている為に、容姿については解らない。
 寄り添うようにして立つ二人の身長差は、お互いの頭二つ分と云ったところか。
「見ろよ、チャシャ」
 と、眼下を指さす少女擬きの口から漏れたのは、少女のものであるとも、少年のものであるともとれる、魅力的な声音。
 その声音に、
「はい」
 と、応えた声は青年の声は、抑揚が無く、その所為で感情と云われるものですら全く見えないものであった。
 が、そうした声音を気にすることなく、
「文明の利器ってのは、ホント便利だよな。現実から目を背けた何も知らないシロウサギ候補が、こんなにも集まりやがってくれてるんだからよ」
 くっくっと喉を鳴らして笑う少女擬きの口元は、美しく歪んでいる。
「アリス」
 相変わらず抑揚のない声が、少女擬き――アリスの名を、窘めるよう口にした。
「あんだよ?」
 チロリと、アリスは青年――チャシャを見やる。
 チャシャは、アリスを見返すこともなければ、何も口にしない。
 だが、アリスにはチャシャが口にしようとしていることが、解るらしく、
「相変わらず、お前は〝シロウサギ〟が嫌いなんだな」
 と、大きな溜息を吐くと、
「でもな、今回ばっかは諦めろよ、チャシャ。何せ、ニンゲンどもが俺達のセカイに土足で入り込んだ挙げ句、好き勝手に弄くってくれてる所為で、今じゃあちこち、何処のセカイも、セカイそのものが滅茶苦茶になっちまってる。ここらで一回、セカイを元に戻さにゃ、俺らのセカイはどんどん歪んで狂い続けて原型を無くして、そのうち俺らが俺らですら居れなくなっちまう。で、そうならねぇよーにするのにゃ、俺達の世界に適合するニンゲンであるシロウサギが必要不可欠になる。そのシロウサギを探す為に、殿が頑張ってニンゲンのセカイに、わざわざこっちから浸食してやるシステムを創り上げてくれたんだから、その苦労を無にするわけにゃあ、イカンのだよ」
「承知しております」
「お前の場合、承知してるだけ、だろ」
 アリスは苦笑いに良く似た表情を浮かべると、チャシャから視線を外し、
「取り敢えず、だ」
 そのまま視線を駅前広場の人集りに向け直す。
「ウチんとこのシロウサギは一匹で良いからな。残りは、この間の礼にスノウとか、赤の字への線香代にスペシアル・ハンターとか、後、灰のとことか、ヘングレ姉弟だののとこに、熨し着けて押しつけてやるとして、っと」
 それにしたって多いなと、
「チャシャ」
 間引け、と云う言葉を出さず、アリスがチャシャに目配せをすると、
「よろしいのですか?」
 チャシャは首を傾げるような仕草こそ見せないものの、抑揚のないあの声で確かめるように訊ねた。
「わざわざ確かめるようなことかよ」
 アリスは苦笑いを浮かべ、好きにしろと云いそうになったが、はたとした様子でその言葉を呑み込み、
「あ! 最低でも、一匹は残せよ」
 この間みたいに全滅はさせるなと、釘を刺すよう慌てて返せば、
「承知致しました」
 と、チャシャ。
 返事をしたのが先であったのか、はたまたビルの屋上から音もなく飛び降りたのが先だったのか、チャシャの姿が消えると同時に、ポータル広場から、悲鳴と血飛沫が上がりはじめ、
「ちょ、チャーシャー!? お前、俺の話、ちゃんと聞いてたんだろうなー?!
 アリスはそう云いながらも、ビルの屋上から地上の様子を眺めているだけだった。


   ×    ×    ×

 広場に居た者にとって、それは突然の出来事だった。
 空から何かが降って来たことに誰も気付かず、気付いた時には、あちらこちらから悲鳴が上がっていたのだ。
 すわ、運営側が用意していたイベント用のモンスターが発生したのか、と、思った者も居たようだが、イベント用のモンスターは集客力も然る事乍ら、技術的な問題も発生しやすいとのことで、街中には現れないことになっている。
 それに、そうしたトクベツなイベントがある際には、予め告知がされる。
 では、誰かが、モンスター召喚用のアイテム――通称、『テロの箱』を使って、モンスターを呼び出したのだろうか。
 後者であれば、日に数回はあることだ。
 仲間内だけで遊んでいたところ、運が良いのか悪いのか、俗に云う『ボス・モンスター』が召喚されてしまい、どうにも対処が出来ず、周囲に居る者を問答無用のまま巻き込んでしまうことは、よくあること。
 こうした出来事に巻き込まれた場合、戦えない者は文句を云いながらその場から去り、戦える者は経験値とドロップアイテムを目当てに、多少の罵詈雑言を口にしながら戦に参加するのだ。
 だが、今日は違っていた。
 誰も彼もが純粋な悲鳴を上げて、四方八方に逃げていく。
 空から降ってきた『何か』の着地点近くに居た者や、物珍しさから『何か』の正体を確かめようと武器を握り、その『何か』に挑んだ者達は、悉く四肢を切断され、肉片と血を周囲に撒き散らしながら、地へと転がる。転がされる。
 このゲームでは、何らかの理由で『死亡』した場合、装備品の効果や甦生系の呪文やアイテムを用いれば、その場での即時再開(リスポーン)が可能となっているが、そうした物を持っておらず、呪文等々による手助けも出来ない・されない場合は、光るエフェクトと共に一旦身体が消え、近場の再開地点に移され、そこからの再開となる。
 だから、と云うわけではないが、敵に斬られたり、殴られたりしても、残酷な描写はなく、ただの効果音だけで済まされて終わるはずなのだ。
 それなのに、と。
 誰かが、叫んだ。
 頭のおかしいPK野郎が出た、と。
 PKが可能なゲームにおいて、それをする者の殆どは、周囲に敵意を持っており、己のナニカを満たす為にやっていると思われているのだが、それはやっている本人にしか解らぬことである。
 と、云うことはさておいて。
 PKが可能な場所は、現実ではスポーツと公園と云われる場所や、それが出来るところとだけと云われているのだが、それはただの暗黙ルールとなっているだけであり、実際に出来ないわけではない。
 だから極稀に、街中でもこうしてPKが行われることがある。
 ただその際は有志が立ち上がり、ルールに違反した者を返り討ちにし、何事もなかったかのよう日常を取り戻して終わるのだが、今回は一筋縄ではいかないようで、こんな叫び声が聞こえてきた。
 このPKはチーターで、凶悪なウィルスをバラまいている、と。
 そのウィルスに感染したら云々、と。
実際にあり得そうな出来事で、ゲームをプレイしている者にとっては恐怖でしかない言葉を鵜呑みにし、皆逃げ惑っているらしい。
 だが、そうして逃げ惑うのも仕方の無いことだ。
 何せ、現実には『タイセツなもの』が何もないと、そこに愛着を持たず斜に構えている者程、非現実には『タイセツなもの』が幾つもあり、そこに愛着を持ち素直に生きているものなのだ。
 此処は現実でないから、全てを失い零の状態から簡単にやり直せるとしても、それが辛いと云う者は多く、実際にソレを経験した者の多くは目の前の非現実から離れ、別の非現実へと移って行ってしまうので、運営はそうしたことにならないようにと、細心の注意を払っている、はず、なのだ。

 それなのに。

 やがて、悲痛な叫び声は一つ残らず消えた。
 地に転がる四肢の山は、草に変わり、木に変わり、血溜まりは無色透明の液体となり、土に吸収され、ビルの森には何処から生えてきたのか蔦に覆われ。
 ポータル広場だったこの場は、あっと云う間に緑に覆われた場に――、例えるなら、現世に生きているニンゲンが滅び、文明が崩壊した後、地上にある物はこうなるであろうと云われているような、そんな風景に変わる。
「ふむ」
 ポータル広場のシンボルである噴水の上に立ち、そこからぐるりと周囲を見回したのは、チャシャである。
 実はこのチャシャ、ビルの屋上から飛び降りた後、この噴水の上に着地するなり、アリスに云われたことを早々に実行していたわけだが、一体どんな術を使って、このような惨事を引き起こしたのか。
「やり過ぎましたかね」
 ぽつりとこう呟いたのは、アリスに『一匹は残せ』と云われたのに、見た限り一匹も生存者が残っていなさそうだからだろう。
 ただ、こうして呟かれた声には相も変わらず抑揚がない為、一切の感情が読み取れないので、本当にやり過ぎたと思っているのかどうかは解らない。
「……まあ、数時間後には、この代わりの者共が害虫のように復活することですし」
 と、独り言を呟いていたチャシャが、ふとした様子で噴水の丸い水瓶の縁に目を向けたところ、その縁の蔭に隠れるようにして身を丸め震えている一つの影があることに気が付いた。
 それを見て何を思ったのか、短く小さい息を吐き出したところ、
「チャーシャー!!
 と、怒鳴るようなアリスの声が、頭上から聞こえてきた。
 あの声は、云いつけを守らなかったと勘違いし怒っているものだなと、チャシャはアリスの居る屋上を見上げる。
 実際、チャシャの思っている通りなのだろう。
「っの、馬鹿!」
 そんな言葉と共に、白地に赤いフリルの着いた日傘らしき物を広げたアリスが、ビルの屋上から飛び降りる姿が見えた。
 屋上から飛び降りる、なんてことを現実で行えば大惨事となるが、ここは非現実。
 アリスが手にしている日傘には、非現実に相応しい効果が付与されているのだろう。
 日傘を片手に物理法則を完全に無視し、ふわりふわりとゆるやかに落下し続けていたアリスは、音もなく噴水の水瓶の縁に着地すると、
「馬鹿チャシャ!!
 直ぐさま日傘を畳み、
「一匹は残せって云っただろー!?
 こう云いながら、両手で持つ武器よろしく勢いよく日傘を振り回したわけだが、その勢いがあまりにも良すぎたのかバランスを崩し、水瓶の縁から足を滑らせてしまう。
「あ」
 やっべ、と、呟いた時には、雑草の生えるアスファルトの上に尻餅をついて座り込み、イタタと尻をさすっている――はずだったのだが、その身は何時の間にやら、傍らに立つチャシャに支えられていた。
「お怪我は?」
と、訊ねるチャシャに対し、
「ないっ!」
 大丈夫だと答えたアリスは、直ぐにチャシャから離れると、その場で仁王立ちをして見せた。
「アリス」
「あんだよ?」
 自分の云い付けを守らなかったことに対する云い訳をするつもりなら聞いてやると、アリス。
 しかし、チャシャの口から出た言葉は、「その日傘は、どうしたのですか?」
 と、アリスが手にしている日傘は自分が見たことのない物だと、何処で手に入れたのかと云うことを、アリスに問うものであった。
 このタイミングでその質問かと、アリスは思わず呆れたような表情を浮かべてしまう。
 だが、長い月日を共にしているチャシャに、否、自分(アリス)のこととなると、何でも把握していないと気が済まない相手(チャシャ)に、そんなことどうでも良いだろう……なんて、口にすれば、どうなるかは火を見るより明らかなことなので、
「白と赤の双子女王姉妹から貰ったんだ。俺は肌が白いから、日焼けしないように使えってさ」
 こう素直に答えると、
「そうですか。やはり暴力姉妹は腐っても女王と云うことですね。女王の名を持つ者に相応しくセンスだけは素晴らしい。とても良く似合っていますよ、アリス」
 と、若干不満そうにアリスを褒めた。
 因みに、チャシャが明らかに不満を覚えている原因は、自分からではなく他人から送られた物を、アリスが使っている所為である。
「なんかあの二人に対して、さらりと暴言吐いてないか、お前」
「気のせいです」
「じゃあ、そう云うことにしといてやるから話を元に戻そうぜ」
「元に、とは?」
「お前ねぇ」
 トボけるんじゃないと頬を膨らませるアリスが何を云わんとしているのか、それが解らぬチャシャではない。
 アリスに云われた通りのことをしたはずが、広場に居た者達を一人残さずバラしてしまった――と、自分でも思っていたのだ。噴水の水瓶の縁、その蔭に潜み丸まっている人影を見つけるまでは。
 とは云え、チャシャがそのことに気付いても、アリスが居た場所からこの人影に気付けるわけがなく、
「人っ子一人残ってねぇじゃねぇか、この馬鹿!」
 馬鹿莫迦バカばーか! と、アリスはチャシャに詰め寄る。
 思った通りのアリスの言動に、チャシャがフードの下にある顔を僅かに綻ばせたのは、束の間のこと。
「アリス、そのことですが」
 噴水の水瓶の縁の蔭を見て欲しいと云うように、そこを指さして見せた。
「あ?」
 そこに何があるのかと、アリスが素直にチャシャの指先を辿ったところ、噴水の水瓶の縁の蔭に潜み丸まっている人影に気付く。
「一人は」
 残っていた、と。
 残しました、と、チャシャは言葉に出さずに云う。
「ただの偶然だろ」
 絶対にと、アリスが人影に向かってしゃがみこんだところ、空気に溶けるようにしてチャシャの姿が消えた。
 そんなチャシャに、アリスは視線すら向けることなく、
「おーい」
 と、未だ震えている人影に声を掛けた。
 人影は応えようとしなかったが、根気よく声を掛け続けたところ、漸く身を起こして、こちらに視線を向けた。
 非現実の中に入る際、だいたいの者は己を良く見せようと、仮初めの姿に己の美意識を反映し、所謂『美』と云う言葉が冠に着く容姿をしている者が多いのだが、今アリスに視線を向けている者は、良くも悪くも『普通』で、それこそ『モブ』と称されるに相応しい当たり障りがなく目立たない二十歳前後の青年男子と云った容姿をしていた。服装は、現実で身に着けていても決しておかしくはない、TシャツにGパン、足下は現実で履いていても全く違和感のないスニーカーである。
 ただ、アリスに向けられている目は普通ではなく、恐怖や畏れ、それと僅かな好奇心と警戒心が宿っているのが見てとれた。
 アリスはこの青年を安心させる為、柔らかい笑みをその顔に浮かべると、
「大丈夫か?」
 と、出来るだけ優しい口調で訊ねたのだが、青年からの返答はなかった。
 それでも、返事くらいしろだの何だのとは云わず、微笑を浮かべたまま青年からの返答を待っていたところ、
「……あ、あ。うん、大丈夫、です」
 はい、と、青年が頷いた。
 それからほんの少しの間を空けて、
「あの、キミは? キミは大丈夫?」
 と、訊いてきた。
 これは、チャシャの起こした惨状を目の当たりにし、混乱していた頭や思考、感情、その他諸々が冷静さを取り戻し、自分以外にも助かった者が居たと見ての問いなのだろう。つまり、つい先程まで繰り広げられていたアリスとチャシャの会話は、全く耳に入っていなかったとみて間違いない。
「俺は、大丈夫」
 アリスは笑顔を絶やさずに答えた。
 少女の姿をした者の一人称が『俺』であるにも関わらず、
「そう」
 良かったと、一人称を気にする素振りも見せずに受け入れた青年が大きく安堵の息を吐き出したのは、現実と非現実の性別が必ずしも一致するとは限らないと解っているからだろう。
 そう、折角非現実で過ごすのだからと、現実とは違う性を選択し、その性になりきって過ごしている者なんて、掃いて捨てる程いるし。わざと異性の姿を選び、中身は現実の性別のまま過ごしている者も、ゴマンといる。
 また、現実では同性愛なんてと差別発言をする者でも、相手の現実での性を知りながらも非現実であればと、現実と非現実で、非現実と現実では同性同士であっても関係ないと、恋人関係になる者も、呆れてしまう程に多い。
 と、云うことはさておいて。
「さっきの、ヤツは? それに……」
 この異常なまでの静けさは一体と、青年は辺りを見回した後、ギョッとした様子を見せた。
 それはそうだろう。
 活気が溢れていた虚実入り交じるファンタジー都市であったポータル広場は、人がこの地から居なくなって何百、何千と云った年月が経ったと云われても疑いようがない廃墟の森と化しているのだ。
 ついでに云えば、自分と目の前に居る少女擬以外、誰も、人っ子一人居ないのだ。
 普段であれば。
 そう、普段であれば、たとえモンスターが街を襲撃するイベントが起こり、あちらこちらに死体が転がるような有様になったとしても、こんなに、耳が痛くなる程の静けさに見舞われるようなことは、今まで一度もなかった。
 それなのに、と。
「さっきのアレだけどな」
 と、アリス。
 流石に、自分がチャシャに命じて云々と云うことは口に出さず、
「アレはバグだったみたいだぜ」
 『バグ』とは、童話や寓話の中に住まうイキモノをモチーフに造られたこの非現実世界を闊歩しているモンスターのことである。なので、バグの形状や名称は、誰もが一度は目にしたことがあるモノばかりである。
「バグ?」
 あれが? と、青年。
 あのバクは、普段目にするモノとは違う形状をしていたような、と。
 それだけではなく、名も伏せられていたような、と、青年が首を捻ったのは、NPCやバグは一目でそうと解るようにと、その頭上に名称が表示されているのだが、この広場を襲ったモノにはそうした表示が無かったと覚えているからだ。
 しかし、一方的な殺戮が始まって直ぐに、噴水の水瓶の縁の蔭に隠れてしまったので、偶々それが確認出来ていなかっただけなのかも知れない、と。
「突発イベント用のバグ、だったのかな」
 極稀に、何の告知もなく開催されるイベントがある。
 それは、シークレットイベントとか、突発イベント等と呼ばれているのだが、一切告知がされずに唐突に始まるわけではない。
 このテのイベントが開始される直前になると、必ず何らかのアナウンスがされ、その流れでイベントが開始されるのだ。
 また、こうしたイベントでは、普段はお目にかかれないイベント専用の特別なバグが出現することが多い。
 今回もまた、そうしたバグが出現し、目の前に広がる風景はイベント用の特別演出であると云うのであれば、なんとか納得することが出来る。
 まあ、それにしたって、とは思うが。
「あのバグはな、そのテの正規のバグじゃなかったらしい」
「え」
「誰かが改造して持ち込んだウイルス付きのバグだったんだとさ」
 そのウイルスの所為で、ポータル広場はこのように書き換えらてしまっているのだ、と。
 また、何らかのことが原因となりウイルスが他の地区に行ってしまわぬようにと、一時的にこのポータル広場は閉鎖されていると、アリスは最もらしいことを口にする。
 ここで、青年はハッとした様子で改めてアリスを見やる。
 アリスは、どうしてそのようなことを知っているのかと、
「キミは、もしかしてGMさん?」
 要するに、運営側のニンゲンなのかと訊ねる。
「そ」
 と、アリスが頷いたのは、そうではないことを目の前に居る青年に話したところで、今は無駄なことになると解っているし、それより何より、自分の存在と、この世界についての説明をするのは、とても面倒なことであるからだ。だからこそ、今は青年の思い込みに合わせるようにして、話を進めようと決めている。
「で、俺はアリスって云うんだけど」
 と、何気なくアリスが名乗ったところ、青年が云われてみればと云わんばかりに、アリスの全身を上から下まで見回した。
 昨今、童話や寓話をモチーフにしたゲームは数多く創られており、この場――現実を仮想現実にカエる虚構MMORPG〝黄金色の午後の庭・オンライン〟も、例外ではない。
 だからかどうかは解らないが、この非現実に集うPLが名乗っている偽名は童話や寓話の登場人物に因んだものが多い。しかし、そんなことを抜きにしても、自分の目の前に居る〝アリス〟は、イメージカラーが違うだけで、どう見ても。
「アンタは?」
 と、アリスが青年の名を訊ねたところ、
「しろいうさぎって書いて、白兎(はくと)」
 青年は、こう名乗った。
「白兎、か」
 青年が名乗った名を、小さく口の中で繰り返したアリスは、僅かに口元を歪めてから、
「んじゃあ、白兎。アンタ、ログアウト出来るか試してくれるか?」
「あ、うん」
 白兎はもそもそと、ズボンのポケットからスマホを取り出すと、開きっぱなしのアプリ画面から{ログアウト}と書かれたキーを押す。
 が、何も起こらない。
「あれ?」
 何時もであれば、このキーを押すだけで否応なしに現実に引き戻されてしまうのに、
「あれ? あれ?」
 何度押しても、押しても、押しても、非現実から現実に戻される際に発生するエフェクトも出ないし、僅かに感じる浮遊感もない。
「なんで?」
 と、思わず白兎は溢した。
 だが、その口調に驚きや焦りと云った感情は感じ取れなかった。
 その代わりに感じ取ったのは、喜怒哀楽で云えば『喜』の感情。
 アリスはそれに気付いたが、わざと気付かぬフリをし、
「んー、ログアウト出来ない、か。ま、アンタはバクが発生した場所の近くに居た、謂わば唯一のイキノコリだからな。そーすっとってことで、ご足労掛けるが、このセカイを管理してる城まで行って、精密検査受けてもらっても良いか?」
 何せと、アリス。
 またもや尤もらしい言葉を並べ立てて口にしたところ、白兎はアリスの言葉を疑うことなく信じこんだらしく、こくりと頷いた。
「話が早くてありがたい。じゃ、これ」
 アリスは何処からともなく、銀色の懐中時計を取り出して、白兎に差し出す。
「これは?」
「管理者パスみたいなもんさ。それがあれば、管理側で閉鎖してる立ち入り禁止区域も、問題なく通れる」
「成る程……、お借りします」
 白兎はアリスから懐中時計を受け取ると、ズボンのポケットに仕舞いこむ。
「で、俺はこれから、一仕事しなくちゃならなくてさ。アンタと一緒にいてやることが出来ないんだけど」
「こっち側(ゲーム内部)の管理事務所まで行けば良いんですよね? 大丈夫ですよ」
 実際に行ったことはないが、ゲームをプレイしている者であればなんとなく知っている場所にある。
 それは、そう云う場所なのだ。
「用事が終わったら、急いでアンタの後追っかけるな」
「はい」
「じゃ、この地区の出口はあちら」
 アリスは、パチンと指を鳴らした――のだが、不発に終わる。
 これに、むぅと片頬を膨らませると、
「ああ、もう!」
 カッコくらいつけさせろよと悪態を吐き、
「〝開け! ウサギ穴〟」
 地面に向かってこう命じたところ、白兎の足下に小さな穴が開いた。
 と、同時に、
「え、えぇ!?
 絶対に落ちることのないサイズのその穴に、何の前触れもなく落下した白兎は、当然の如く悲鳴を上げながら、真っ暗な地下へ地下へと落ちてゆく。
 その様子を、穴の入り口から覗いていたアリスは、
「あいつが本物のシロウサギだと助かるんだけどなー」
 こればかりは城に着くまで解らないしと、溜息交じりに立ち上がる。
「ま、先ずは一仕事完了っと。帽子屋のとこにでも行って、お茶しよーっと」
 アリスは日傘を広げると、中棒を肩に掛けるようにしてさし、鼻歌交じりに歩き出す。
 そうして、二、三歩ほど行ったところで、アリスの姿は霧のように消えた。
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登場人物紹介

アリス〈AЯICE〉

現世に那由他の数程存在するであろう〝不思議の國〟の〝アリス〟。

腰まで伸ばした黒髪のてっぺんに黒色のリボンを結んだ、可愛らしい少女のような見た目をしている少年。

ただし、可愛いのは見た目だけで言動は年頃の少年のそれである。

雪のように白い肌を〝アリス〟の制服である黒いエプロンドレスで包んでいる。

チャシャ

〝アリス〟を惑わし導く者としての役割を担う〝チェシャ〟一族の長。 

『チャシャ』と名乗っているのは、当代の〝アリス〟にそう呼ばれているから。

 無表情で抑揚の無い声で喋る。

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