第三話
文字数 10,359文字
現実であれば、商店街へと続く街の大通り。
非現実では、旅人が行き交う大きめの街道。
現実であろうが、非現実であろうが、特に何か変わったところはない場所。
ただ、今はNPC以外、人っ子一人居ないが為に、若干不気味さを感じる。
そんな場所の道の端に置かれているベンチに腰掛け、ぼーっとしているのは白兎だ。
どうしてこんな場所にあるベンチに座り込み、ぼーっとしているのかと問われれば、アリスに城に行くように云われた際、突如足下に空いた穴に落ち、落っこち続けて、続けて落っこちて、落ちて、漸く浮遊感が無くなったと、穴から抜け出せたのだろうと、一息吐いたところ、こうしてベンチに座っていたからである。
だからと云って、ずっと座っていたわけではない。
一度は立ち上がり、城へ向かおうと思いはしたものの、現実へと戻る気力が湧かず、ついでに云えば、その城とやらへ行く道が解らなかったが故に、地図で調べてみようと、再びベンチに腰掛けてしまったところ、動く気力が完全に失われてしまったのである。
動く気がなくなったのなら、無理して動くことはあるまいと、ぼーっとして非現実の風景を眺めているわけだが、時折、現実の風景が見え隠れする。
まあ、現実のセカイとリンクするように創られた非現実、仮想現実のセカイだ。
現実よりも、仮想現実の方で長く過ごしていると、そこから抜け出した際、どちらが、どちらなのか判別が着かなくなることがあると云う。
だから、その逆も、また然りなのだろう。
ただ、現実から逃げる為に非現実セカイへとやって来たと云うのに、イヤでも、現実が非現実の中で、非現実が現実の中で、ちらちらとちらつくのは、何とも云えない気分になる。
それはさておいて、
「これから」
どうしようかと、白兎は一人呟く。
いや、どうするもこうするも、アリスに云われた通り、城に行かねばならないことは解っている。
解ってはいるが、行きたくない。
行きたくないのは、非現実から現実へと戻りたくないからだ。
そう。
ポータル広場の噴水前で、ぼんやりとしていた際。突如、PKが現れ、謎のウィルスを撒き散らした所為で、ログアウトが出来なくなった、あの時。
正直云って、嬉しかったのだ。
現実に戻ることが出来なくなって。
現実に戻りたくない理由。
それは、色々とあるけれど、現実が辛いからとか、そう云った理由ではなくて。
現実に戻ると、嫌でも目にしなければならない物があるからだ。
それから目を背ける為に、わざわざ現実から非現実へとやって来たのに。
それなのに。
非現実の外側にある現実が、見えないはずのそこが、ちらりちらりと見え隠れするものだから、白兎は堅く目を閉じた。
白兎がそうまでして目を背けたい現実とは何なのか、それを知る者は、おそらく白兎本人だけだとは思うが。
そうして、どれだけ目を瞑り続けていたのか。
白兎が目を開けたのは、
「柳生、死すべしぃぃいいいいいい!!」
と、云う、謎のわめき声が聞こえてきたからだ。
それを云うなら、柳生ではなく、野獣ではないかと云うツッこみはさておいて、一体全体何なのかと、声のした方に目を向けてみた。
すると、麦わら帽子に、ボロボロの蝶ネクタイとカーディガンを身に着けた男児――三月が、木の枝片手に猛烈な勢いで走って来るのが見えた。かと思えば、そのまま通り過ぎて行った。
今のは一体何だったのかとは思うものの、君子危うきになんとやら。
非現実には現実から、完全に解放されたと思い込み、タガを外して奇行に走る者は割とする。
さっきのあれは、おそらくそのテの者だろう、と、納得しかけてふと気付く。
今は、非現実に現実の者は、居ない、はず、では? と。
だって、さっき、《緊急メンテナンスのお知らせ》と云う文言が空に踊り、それを見た者達が次々とログアウトして行くのを見ていたのだ。
だから、この非現実の空間に居る者は皆、NPCと呼ばれる、運営が創りだした架空の人形だけの、はず。
否、アリスのように見回りをしていると云う運営の者がいたとしても、あのように狂った者は居ないはずだ。多分。
だったらあれは、と、白兎は三月が走り去った方を改めてみやるのだが、三月の姿は既に影も形もなくなっている。
これは、何も見なかった、とか。
現実に帰りたくがない故に見えた夢幻の類いにして、気のせいで済ませておいた方が良いのかも知れない。
溜息を一つ吐き出したところで、
「「……あら?」」
と、云う、鈴の音のような声が聞こえてきた。
この声の主が気になったのだろう白兎が顔を上げたところ、二人の少女の姿が目に飛び込んで来た。
片方は、純白のドレスに身を包み、純白の日傘を差している、亜麻色の髪の上品で可愛らしい少女。
もう片方は、真紅のドレスに身を包み、真紅の日傘を差している、亜麻色の髪の上品で可愛らしい少女。
二人の少女は双子なのだろう、鏡に映したようにそっくりで。見分けの付け方は、着ているドレスの色と、差している傘の色の違いだけか。
白と赤、二人の少女は、白兎の顔をじっと見た後、気品溢れる笑顔を見せ、
「「どうかなさったの?」」
と、首を傾げた。
この白と赤の双子姉妹は何者だろうか。
こんなNPC居ただろうかと思いつつ、
「あ、あの、実は」
その……と、白兎。
信じて貰えるかどうかは解らないし、此方の言葉を適切に理解し、返答があるとは限らないと思いつつも、先程目の当たりにした三月の話をしてみたところ、
「まあ、それは三月じゃないかしら」
「そうよ、きっと三月だと思うわ」
と、白と赤の双子姉妹は顔を見合わせると、こくりと頷く。
「サンガツ?」
とは、あの謎の単語を喚きながら走り去って行った者の名だろうかと、白兎は小さく首を傾げると、
「アナタ、三月を知らないの?」
と、白い双子の片割れが云い、
「そう云えば、見掛けない顔ね」
と、赤い双子の片割れが、まじまじと白兎の顔を見やる。
このあまりにも自然なやりとりと、しなやかな動きに、この白赤双子少女はプログラムにより創り出されたものではなく、本物の『ニンゲン』なのではないかと思わずにはいられない。
いや、もしかしたら、アリスと同じく運営側の者で街を見回っているのかも知れないが、そう考えると色々とおかしい部分が出て来るな、と。
「アナタ」
と、白い双子の片割れが、白兎に声を掛け、
「お名前は?」
と、赤い双子の片割れが、白兎の名を訊ねる。
「あ、白兎、です」
しろいうさぎって書いて白兎、と、アリスに名乗った時と同じように、白兎は名乗った。
すると、
「はくと? そんな称号を持った方、このセカイに居たかしら?」
「もしかして、余所のセカイから遊びに来られている方かしら?」
「そうだとしたら、三月を知らないことにも納得が出来ますわ、お姉様」
「えぇ、そうね。それなら、三月を知らなくても仕方が無いわね」
白と赤の双子姉妹は口々に云って、何か納得した様子を見せる。
目の前で繰り広げられている会話に、一人首を傾げている白兎に、
「貴方」
と、声を掛けたのは、双子の片割れの赤い方だった。
「次、三月を見掛けても、見て見ぬフリをしなさいな。あの子の言動をいちいち気にしていたら、キリがないわ」
「もし、三月に話しかけられても言葉を交わしてはいけないわ。あの子と関わるとロクなことが無いの」
「もし、あの子に話しかけられて返事をしてしまい、偶然にも会話が噛み合って、そのまま会話を続けることが出来たとしても、気付いた時には壊されているかもしれないわ」
「あの子はオカシイの」
「あの子は狂っているの」
「だから、あの子と会話が出来るのは、アリスだけよ」
「だから良いこと? またあの子を見掛けても、喋り掛けられても、絶対に無視なさいな」
良いわね? と、凜とした声音の赤白双子姉妹に詰め寄られれば、
「はい」
解りましたと、頷くしかない。
「あぁ、それと、パンチとジュディ兄弟と、ディーとダム兄弟にも注意した方が良いわ」
「そうね。あの決闘マニアの双子達に関わると、ロクなことがないもの」
解ったわね、と、再び凜とした声音の赤白双子姉妹に詰め寄られれば、その二組の兄弟が何者かとも訊けず、ただ、
「はい」
解りましたと、やはり頷くしかないのだが、
「「貴方、素直ね。気に入ったわ」」
赤白の双子姉妹に、白兎はそう捉えられてしまったらしい。
同時にこう云ってから、
「ワタクシは、白の女王」
と、双子の片割れである白い方が名乗り、
「わたくしは、赤の女王」
と、双子の片割れである赤い方が名乗る。
「今、白の騎士にお茶を用意させるわ」
「今、赤の騎士にお菓子を用意させましょう」
「「私(わたくし)達の無聊の慰みに、貴方のセカイのお話を聞かせて頂けないかしら」」
そう云った赤と白の双子女王姉妹は、白兎の返事も聞かずに左右に分かれると、彼の隣にそれぞれ腰掛けた。
× × ×
一言で例えるなら、そこは高級温泉旅館自慢の浴室。
その浴室に相応しい豪勢な造りの大きな檜風呂に浸かっているのは、アリスである。
この檜風呂がある場所は、街の一等地に建つ豪邸・公爵夫人宅であり、公爵夫人と云うのは喪服姿の未亡人で、非現実セカイを旅する者の為に、無料で宿を提供している――と、云う設定になっている人物のことだ。
檜風呂の縁に両腕を置き、身体を浮かせてぱしゃぱしゃと足を動かしつつ、気持ち良さそうに鼻歌を歌っているアリスのその様子は、中年男性が買うゴシップ雑誌のエログラビアコーナーを飾れると断言出来てしまうような、色気と艶がある。
ただし、湯船の中に大量のアヒルの玩具がなければ、の話であるが。
「やーぱー、風呂サイコーにゃー」
風呂に浸かっていることで肌を桜色に染め、顔を蕩けさせるついでに、語尾すらも蕩けさせている。
「アリス」
と、脱衣所から柔和な声が掛かり、
「タオルと着替え、置いておくわね」
曇りガラスの向こう側に、ほっそりとした女性らしいシルエットが浮かび上がる。
アリスは慌てた様子で、風呂桶の中での居住まいを正し、
「公爵夫人、ありがと!」
と、礼を云った。
「そろそろ、カエール達と一緒に御夕飯のお買い物に行って来ようと思うのだけど。アリス、今夜は何が良いかしら?」
「あ、俺ね、また出掛けなきゃなんないんだ。だから、飯は外で済ませてくるよ」
「あら、そうなの? 帰りは遅くなるのかしら」
「ん、解んない。シロウサギが見つかったかも知れないから、城に行かなきゃなんなくてさ」
「あらあら、それは大変ね。じゃあ、アリス、出掛ける時は気を付けて行くんですよ」
この言葉を最後に、公爵夫人は脱衣所から出て行ったらしく、柔和な声がアリスに語りかけてくることは無くなった。
「シロウサギ、か」
それにしても何処に行ったのだろうと、アリスは檜風呂の縁に頭を乗せ、天上を眺めながら呟く。
白兎と名乗る青年と出会い、城へ行くように云った後。
惨劇の広場を見て回ってから、直ぐにシロウサギ、もとい、白兎を追いかけたつもりだったが、彼には会えず。
代わりに出会ったのは、別の『ウサギ』である三月だった。
その三月にロクでもないメに遇わされた所為で。
「うん、チャシャと久しぶりにヤれたのは良い」
うん、うんと、何やら一人満足そうにアリスは頷く。
「あいつ、何でか最近すっげー忙しそうだからなー」
これも、ニンゲンのセカイと、此方のセカイを無理矢理重ね合わせて、簡単な手続き一つで誰でも行き来が出来るようにしてしまった結果だろうかね、と、考える。
そうだとしたら、と。
「どーせ、殿がチャシャに何か命じてるんだろうけどー」
このセカイにおいて、アリスの云う『殿』の云うことは絶対だ。
『殿』に逆らえば、たとえアリスであっても、たちまち『その首を刎ねてしまえ』と云われ、首と胴体が離ればなれになってしまう。
そうなれば、どうなるかなんて、誰にでも解ること。
それに、神出鬼没で、謎の戦闘能力を有するチャシャは、諜報活動等々に持ってこいだろうから、王たる者が、己の手足として使いたがるのも解る。
解るが、と
「あいつは、殿のモンじゃなくて、俺のモンなのにー!」
もう!! と、アリスは手足をバタつかせ、湯船に張るお湯を、ばしゃばしゃと波立たせる。
「つーか、チャシャもチャシャだ! チャシャはもう少し、俺を構うべきだ」
と、云いながら、アリスはふと昔のことを思い出す。
それは、アリスがアリスになる前のこと。
色彩と呼ばれる物も、景色と呼ばれる物も一切存在しないこのセカイにやって来たばかりで、右も左も解らなかった時、目の前にチャシャが現れた時のこと。
あの時、チャシャが冷たくも温かい手でこの手を取って、アリスと云う称号を与えてくれて、このセカイのイロハを教えてくれた。
そのお陰で、何もなかったはずの自分は〝アリス〟となることが出来て、このセカイそのものに迎え入れてもらうことが出来て、それから、と。
「はっ!」
チャシャが傍に居ないと、時折どうしようもない不安に駆られるのは、その所為だと前から思っていた。が、なんとなく、卵から孵った雛鳥が、初めて見た動くものを、親鳥と勘違いするアレに似ているな、と、そんなことを思ってしまったものだから、
「あいつは、俺にとってのニワトリ!」
と、自分でも、それはどうなのかと思う言葉を口にしてから、
「ニワトリ……」
ニワトリは朝を呼ぶ鳥ではあるが、それと同時に、悪夢の卵を産む鳥でもある。
だから、
「ニワトリは違うな」
自分にとって、チャシャは悪夢なんかではない。むしろ、悪夢を見ていたら、それを払い、引き上げ、助けてくれる存在なのだ。
じゃあ、と。
適切なたとえは、と、そう考えているうちに、アリスは一時的にではあるが、〝シロウサギ〟のことを完全に忘れ去ってしまっていた。
× × ×
「貴方のお話はとても楽しかったわ。ねぇ、お姉様」
「えぇ。妹の云う通りよ、貴方のお話はとても刺激的で面白かったわ」
白と赤の双子女王姉妹は、満足そうにこう云って、コロコロと笑う。
「もっとお話を聞いていたいけれど、そろそろ行かなくては」
「またお会いすることが出来たら、お話を聞かせてくださいましね」
白と赤の双子女王姉妹は優雅に立ち上がると、
「もしよろしければ、次は拳を交えてみたいわ」
「もしよろしければ、次は拳を交えましょうね」
と、物騒な言葉を放った後、
「「では、ごきげんよう」」
小さくお辞儀をして、二人仲良く何処へともなく去って行く。
赤白双子女王姉妹に呼び出され、お茶とお菓子の準備をさせられていた赤い甲冑と白い甲冑姿の『騎士』二名は、それらの物を片付けてから、白兎に一礼して去って行く。
赤と白の双子女王姉妹、それと、白と赤の騎士二名を、一言で言い表すなら、嵐。
そう、嵐が来て、去って行ったようだと、白兎。
ところで自分は、あの赤白双子女王姉妹に、どんな話を聞かせていたのかが、全く思い出せない。
最初は、ただ自分の身の回りの、誰にでも訪れる日常話をしていただけな気がするのだが、そんな何の変哲もないただの話を、あの赤と白の双子女王姉妹は、まるで異国に伝わる聞いたこともない御伽噺を聞くかのように、もっともっととせがんで来るものだから、ついうっかり、話してはならないことまで話してしまったような気もする。
もしも、知られてはいけないことを、話してしまっていたのなら。
それが、たとえ、自分のミスであっても、あの二人を、双子を、姉妹を、女王を、生かしてはおけない。
生かしておいたら、現実セカイに戻った際に、自分は、と、白兎はゆらりと立ち上がった――までは良かった。
そう、そこまでは。
「!?」
こう、何とも云えない痛みと衝撃が、全身を襲ったのは、立ち上がって直ぐのことだった。
言葉にすることが全く出来ない衝撃と痛みに、白兎は暫し、その場でのたうち回る。
それが和らいだ頃、漸く自分が地面の上に転がっていることに気が付いた。
これは一体どう云うことだと思いつつ、怪我や骨折等々をしている箇所はないかと確かめながら、立ち上がる。
若干の擦り傷や小さな傷はあったものの、骨折やら何やらと云った箇所はない。
この後どう動くにしても動くことそのものに問題はなさそうだと、白兎はホッと安堵の息を吐き出した。
ただ、改めて、あの赤と白の双子女王姉妹の後を追おうとしたところで、ある違和感に気が付いた。
その違和感と云うのは、遠近感と云うか、周囲にある物の大きさが明らかに違って見えると云うか、兎に角、何もかもが巨大に見えると云うことだ。
これは、どう云うことか。
さき程まで座っていたベンチに目をやれば、それは見上げなければならない程に巨大化しているし。
普段であれば、何も考えずに踏みつけているだろう程の大きさしかない小石も、巨石にしか見えなくなっている。
更には、この道を行き交う人々が、巨人にしか見えないのだ。それは、メイド服姿の少女然り、喪服姿の夫人然り、何故か殴り合いながら歩いて行く双子然り、それぞれに剣と盾を構え口論しながら去って行く双子然り、然り、然り、然り、然り、然り。
白兎は、だんだんと開いた口が塞がらなくなって来ていた。
このままでは、途方に暮れる以外の選択肢がなくなると、途方に暮れ始めた頃、
「おや、アンタ。どうなすったね?」
と、背後から声を掛けられた。
振り向いて見ると、人の良さそうな老紳士がパイプ片手に、立っていた。ただ、見た目と云うか、身に着けている背広の色合いと云うか、帽子の下から覗いている特徴的な前髪と云うか、それらの物がどことなく虫を連想させる出で立ちである。
そんな老紳士の背丈は、白兎より頭一つ分小さいくらいだ。
「見慣れない顔だが、何かお困りかね?」
この老紳士は、困っている者が目の前に居たら手を差し伸べたくなるタイプの者なのだろう。
「あ、あの!」
と、白兎は迷うことなく、自分が今困っていることを、何の迷いもなくそのまま伝えた。
そうして、白兎に突然身体が小さくなった気がして困っていると云われた老紳士は、白兎のその言葉を疑ったりするような素振りは一切見せず、そうした現象は何処にでもあり、誰の身にでも起きるとコトだと云わんばかりに頷いた後、身体が小さくなったと感じる前に何か口にしなかったかと、そうであれば心当たりがあるとでも云うかのように問うた。
そう云われてみればと、白兎。
白赤双子女王姉妹が、白い騎士と赤い騎士それぞれにお茶とお菓子を用意させ、その用意させた菓子と茶を、勧められるままに口にしたことを思い出し、そう答えると、
「そりゃあ、赤の女王と白の女王が用意した菓子が、メアリ・アン製の物だったんじゃないかね」
老紳士曰く、この『メアリ・アン』と云う者は、見目麗しい菓子を作るのが得意なのだそうだ、が、それだけで、その見た目に欺されて食べるとトンデモナイ目に遇うと云う、毒菓子造りの名人なのだと云う。
しかも、一切の解毒剤が効かず、本人は無自覚でそう云った菓子を作っているからタチが悪い。
しかしながら、この毒を回避する方法が全くないわけではない。
それは、メアリ・アンが作った菓子には必ずメモ書きがついて、そのメモ書きに従って食べれば、何の問題もなく、見目麗しい菓子を、そのまま美味しく頂くことが出来る、のだそうだ。
ただ、
「〝女王〟の称号を持つ者は、他の称号を持つ者が無意識に発揮する効果を、その権限で全て消すことが出来るからのう」
メアリ・アンが作った見目麗しい菓子を、その見目麗しいまま、美味しく食べることが出来るのだと、老紳士は云う。
つまり、その効果を持つが故に、赤と白の双子女王姉妹はメアリ・アンの菓子が持つ毒性を忘れてしまっていて、悪気がないまま白兎に勧めてしまったのではないか、と、老人はそう云うのだ。
「まあ、小さくなってしまったことに悲観することはない。もし良ければ、我々の仲間として迎え入れようと思うが」
どうかね? と、老紳士。
何だ、この、次から次へと起こるイベントは。
こちらの言葉に、的確に返してくるNPCは。
幾ら現実に帰りたくないとは云え、これではまるで。
まるで、なんだ?
そうだ。
まるで、ニンゲンの手で創られた非現実ではなく、非現実の中の者達の手により創られた現実のようではないか。
それは、現実の中に住まう非現実の者達が、現実に住まう者達を欺す為に、それらしい言葉を並べ立てて創り上げた、非現実の中にある現実で。
そこに並べ立てられている言葉にまんまと欺されていると気付かぬ者だけが、アプリ、乃至、ソフトを使うことで、現実と非現実を、非現実と現実を行き来することが出来、そのカラクリに気付いてしまった者は、どちらかのセカイに捕らわれてしまうのではないか。
――とか、そんな風な考えは、普段であれば、何を莫迦なと一蹴してしまうところだが、もしも、この莫迦な考えが『現実』のものだとしたらと、そう考えるとしっくりと来るようなことがあったのは、事実。
では、誰が一体、何の為に、そんなことを、と。
また、自分は何の為に、このセカイに閉じ込められたのか、と。
それを確かめる為にも、
「あ、いや、その、申し出は嬉しいんですけど」
お断りしますと白兎が云うと、老紳士はここで初めて不満そうな表情を作り、
「何か不都合があるかね? なに、最初は戸惑うことも多いだろうが、森の中に住まう者達が手取り足取り、色々と教えてくれるじゃろうて」
だから、と云うように手を伸ばす。
この手を取ったらどうなるのか。
多少の好奇心はあったものの、
「城に行かなきゃいけなくて」
「城に?」
「はい。あの、アリスにそこに行くように云われてて」
だから、老紳士の誘いには乗れないのだと、なるべく穏便に、やんわりと断れば、
「おお、アリスに城に行くよう云われているのか」
アリスに云われているのなら仕方がないと、老紳士。
あっさりと引き下がり、
「しかし、アリスが城に誰かを呼び出すとは。お前さん、ナニモノだい?」
と、とても不思議そうに首を傾げて見せた。
それはこちらが聞きたいことだと、
「アリスが、城に誰かを呼びだすのは、珍しいことなんですか?」
と、逆に問うてみたところ、
「そりゃあ、お前さん。アリスが誰かに対し城へ行けと云ったと云うことは、アリス自身も城へ行くと云うことじゃて。アリスが城へ行くと云うことは、この世の終わりが始まると云うことだ。何せ、終わりは始まりを意味し、アリスは裁判に掛けられ、判決を言い渡される。その首を刎ねてしまえ! とな」
こうした、謎の答えが返って来た。
「もう、儂らは、何度その光景を見てきたことか」
「はぁ」
「今回も、無事に何も終わらなければ良いが」
それはどう云う意味かと問いたいところだが、問うたところで答えが返ってくるとは思えない。
また、返って来たとしても、此方には理解出来ない、解らない答えが返って来る可能性も捨てきれないのだ。
「ああ、お前さん、城へ行くなら急いだ方が良い。少しでも、あのお方の機嫌を損ねたら、アリスより先に、お前さんの首が刎ねられてしまうからのう」
老紳士の言葉の意味が解らなくても、
「はあ」
と、白兎は頷くだけだった。
「そうそう、城に行く前に、帽子屋のところに寄って行くが良い。きっと、その身体を元に戻す菓子が置かれているはずじゃ」
「帽子屋、ですか?」
何故に帽子屋のところなのか。
それとも、そう云う屋号の店があるのか。
そう云えば、この非現実セカイにおいて、冒険者用のアイテムを売っているNPCの店の名前が、『帽子屋』だったなと思いつつ、
「そこへはどう行けば?」
「昼の一時半になったら、六時になるじゃろ? そうしたら、何処かの家の庭先に現れるはずじゃよ」
と、これまた要領の得ない答えが返って来たものだから、
「はあ」
と、白兎は頷くことしか出来ない。
「まあ、後はお前さんの運次第じゃろうが」
それは、今までの言葉と比べれば、大分的確な言葉であるが、ある意味で一番曖昧な言葉でもある。
「何で、運が必要なんですか?」
「何事にも、運は関係してくるぞい」
良く考えてみるが良いと、老紳士。
今の白兎の身長はだいたい、6cm前後。
もし、誰か人に声を掛けたところで、気付く者は全く居ないと云って良いだろう。
それだけではない。
普段は何でも無い、取るに足らない全てのものが、己の命を奪う原因になりかねないのだ、と。
例えば、雨が降って来たら、その雨粒で。
例えば、風が吹いて来たら、その風圧で。
例えば、小鳥が餌を探す為に地を啄んだ際、嘴に咥えられて。
例えば、地を歩く人々が我々の存在に全く気付かず、踏みつけられて。
等々、尽きることなく続く例え話は、生々しく恐ろしい。
因みに、この例え話は、老紳士が目の前で見てきた友人達の最後だと云うから、それは例え話ではないのでは、と、突っ込みたくなる。
「まあ、アリスに城へ行けと云われているのだから、そんな心配は要らんじゃろうが」
カッカッカッと、何処ぞのご隠居のような豪快な笑い方をする老紳士に、要らぬ心配なのであれば不安になるようなことは何も云わないで欲しいと、そう云いたくなった。
が、
「道中気をつけての」
と、云った老紳士が、飛んできた巨鳥の足に掴まれ、青い血を滴らせながら、断末魔の叫びと共に何処かへ連れ去られたのを見て、白兎は背筋を凍らせると同時に、言葉を失った。
非現実では、旅人が行き交う大きめの街道。
現実であろうが、非現実であろうが、特に何か変わったところはない場所。
ただ、今はNPC以外、人っ子一人居ないが為に、若干不気味さを感じる。
そんな場所の道の端に置かれているベンチに腰掛け、ぼーっとしているのは白兎だ。
どうしてこんな場所にあるベンチに座り込み、ぼーっとしているのかと問われれば、アリスに城に行くように云われた際、突如足下に空いた穴に落ち、落っこち続けて、続けて落っこちて、落ちて、漸く浮遊感が無くなったと、穴から抜け出せたのだろうと、一息吐いたところ、こうしてベンチに座っていたからである。
だからと云って、ずっと座っていたわけではない。
一度は立ち上がり、城へ向かおうと思いはしたものの、現実へと戻る気力が湧かず、ついでに云えば、その城とやらへ行く道が解らなかったが故に、地図で調べてみようと、再びベンチに腰掛けてしまったところ、動く気力が完全に失われてしまったのである。
動く気がなくなったのなら、無理して動くことはあるまいと、ぼーっとして非現実の風景を眺めているわけだが、時折、現実の風景が見え隠れする。
まあ、現実のセカイとリンクするように創られた非現実、仮想現実のセカイだ。
現実よりも、仮想現実の方で長く過ごしていると、そこから抜け出した際、どちらが、どちらなのか判別が着かなくなることがあると云う。
だから、その逆も、また然りなのだろう。
ただ、現実から逃げる為に非現実セカイへとやって来たと云うのに、イヤでも、現実が非現実の中で、非現実が現実の中で、ちらちらとちらつくのは、何とも云えない気分になる。
それはさておいて、
「これから」
どうしようかと、白兎は一人呟く。
いや、どうするもこうするも、アリスに云われた通り、城に行かねばならないことは解っている。
解ってはいるが、行きたくない。
行きたくないのは、非現実から現実へと戻りたくないからだ。
そう。
ポータル広場の噴水前で、ぼんやりとしていた際。突如、PKが現れ、謎のウィルスを撒き散らした所為で、ログアウトが出来なくなった、あの時。
正直云って、嬉しかったのだ。
現実に戻ることが出来なくなって。
現実に戻りたくない理由。
それは、色々とあるけれど、現実が辛いからとか、そう云った理由ではなくて。
現実に戻ると、嫌でも目にしなければならない物があるからだ。
それから目を背ける為に、わざわざ現実から非現実へとやって来たのに。
それなのに。
非現実の外側にある現実が、見えないはずのそこが、ちらりちらりと見え隠れするものだから、白兎は堅く目を閉じた。
白兎がそうまでして目を背けたい現実とは何なのか、それを知る者は、おそらく白兎本人だけだとは思うが。
そうして、どれだけ目を瞑り続けていたのか。
白兎が目を開けたのは、
「柳生、死すべしぃぃいいいいいい!!」
と、云う、謎のわめき声が聞こえてきたからだ。
それを云うなら、柳生ではなく、野獣ではないかと云うツッこみはさておいて、一体全体何なのかと、声のした方に目を向けてみた。
すると、麦わら帽子に、ボロボロの蝶ネクタイとカーディガンを身に着けた男児――三月が、木の枝片手に猛烈な勢いで走って来るのが見えた。かと思えば、そのまま通り過ぎて行った。
今のは一体何だったのかとは思うものの、君子危うきになんとやら。
非現実には現実から、完全に解放されたと思い込み、タガを外して奇行に走る者は割とする。
さっきのあれは、おそらくそのテの者だろう、と、納得しかけてふと気付く。
今は、非現実に現実の者は、居ない、はず、では? と。
だって、さっき、《緊急メンテナンスのお知らせ》と云う文言が空に踊り、それを見た者達が次々とログアウトして行くのを見ていたのだ。
だから、この非現実の空間に居る者は皆、NPCと呼ばれる、運営が創りだした架空の人形だけの、はず。
否、アリスのように見回りをしていると云う運営の者がいたとしても、あのように狂った者は居ないはずだ。多分。
だったらあれは、と、白兎は三月が走り去った方を改めてみやるのだが、三月の姿は既に影も形もなくなっている。
これは、何も見なかった、とか。
現実に帰りたくがない故に見えた夢幻の類いにして、気のせいで済ませておいた方が良いのかも知れない。
溜息を一つ吐き出したところで、
「「……あら?」」
と、云う、鈴の音のような声が聞こえてきた。
この声の主が気になったのだろう白兎が顔を上げたところ、二人の少女の姿が目に飛び込んで来た。
片方は、純白のドレスに身を包み、純白の日傘を差している、亜麻色の髪の上品で可愛らしい少女。
もう片方は、真紅のドレスに身を包み、真紅の日傘を差している、亜麻色の髪の上品で可愛らしい少女。
二人の少女は双子なのだろう、鏡に映したようにそっくりで。見分けの付け方は、着ているドレスの色と、差している傘の色の違いだけか。
白と赤、二人の少女は、白兎の顔をじっと見た後、気品溢れる笑顔を見せ、
「「どうかなさったの?」」
と、首を傾げた。
この白と赤の双子姉妹は何者だろうか。
こんなNPC居ただろうかと思いつつ、
「あ、あの、実は」
その……と、白兎。
信じて貰えるかどうかは解らないし、此方の言葉を適切に理解し、返答があるとは限らないと思いつつも、先程目の当たりにした三月の話をしてみたところ、
「まあ、それは三月じゃないかしら」
「そうよ、きっと三月だと思うわ」
と、白と赤の双子姉妹は顔を見合わせると、こくりと頷く。
「サンガツ?」
とは、あの謎の単語を喚きながら走り去って行った者の名だろうかと、白兎は小さく首を傾げると、
「アナタ、三月を知らないの?」
と、白い双子の片割れが云い、
「そう云えば、見掛けない顔ね」
と、赤い双子の片割れが、まじまじと白兎の顔を見やる。
このあまりにも自然なやりとりと、しなやかな動きに、この白赤双子少女はプログラムにより創り出されたものではなく、本物の『ニンゲン』なのではないかと思わずにはいられない。
いや、もしかしたら、アリスと同じく運営側の者で街を見回っているのかも知れないが、そう考えると色々とおかしい部分が出て来るな、と。
「アナタ」
と、白い双子の片割れが、白兎に声を掛け、
「お名前は?」
と、赤い双子の片割れが、白兎の名を訊ねる。
「あ、白兎、です」
しろいうさぎって書いて白兎、と、アリスに名乗った時と同じように、白兎は名乗った。
すると、
「はくと? そんな称号を持った方、このセカイに居たかしら?」
「もしかして、余所のセカイから遊びに来られている方かしら?」
「そうだとしたら、三月を知らないことにも納得が出来ますわ、お姉様」
「えぇ、そうね。それなら、三月を知らなくても仕方が無いわね」
白と赤の双子姉妹は口々に云って、何か納得した様子を見せる。
目の前で繰り広げられている会話に、一人首を傾げている白兎に、
「貴方」
と、声を掛けたのは、双子の片割れの赤い方だった。
「次、三月を見掛けても、見て見ぬフリをしなさいな。あの子の言動をいちいち気にしていたら、キリがないわ」
「もし、三月に話しかけられても言葉を交わしてはいけないわ。あの子と関わるとロクなことが無いの」
「もし、あの子に話しかけられて返事をしてしまい、偶然にも会話が噛み合って、そのまま会話を続けることが出来たとしても、気付いた時には壊されているかもしれないわ」
「あの子はオカシイの」
「あの子は狂っているの」
「だから、あの子と会話が出来るのは、アリスだけよ」
「だから良いこと? またあの子を見掛けても、喋り掛けられても、絶対に無視なさいな」
良いわね? と、凜とした声音の赤白双子姉妹に詰め寄られれば、
「はい」
解りましたと、頷くしかない。
「あぁ、それと、パンチとジュディ兄弟と、ディーとダム兄弟にも注意した方が良いわ」
「そうね。あの決闘マニアの双子達に関わると、ロクなことがないもの」
解ったわね、と、再び凜とした声音の赤白双子姉妹に詰め寄られれば、その二組の兄弟が何者かとも訊けず、ただ、
「はい」
解りましたと、やはり頷くしかないのだが、
「「貴方、素直ね。気に入ったわ」」
赤白の双子姉妹に、白兎はそう捉えられてしまったらしい。
同時にこう云ってから、
「ワタクシは、白の女王」
と、双子の片割れである白い方が名乗り、
「わたくしは、赤の女王」
と、双子の片割れである赤い方が名乗る。
「今、白の騎士にお茶を用意させるわ」
「今、赤の騎士にお菓子を用意させましょう」
「「私(わたくし)達の無聊の慰みに、貴方のセカイのお話を聞かせて頂けないかしら」」
そう云った赤と白の双子女王姉妹は、白兎の返事も聞かずに左右に分かれると、彼の隣にそれぞれ腰掛けた。
× × ×
一言で例えるなら、そこは高級温泉旅館自慢の浴室。
その浴室に相応しい豪勢な造りの大きな檜風呂に浸かっているのは、アリスである。
この檜風呂がある場所は、街の一等地に建つ豪邸・公爵夫人宅であり、公爵夫人と云うのは喪服姿の未亡人で、非現実セカイを旅する者の為に、無料で宿を提供している――と、云う設定になっている人物のことだ。
檜風呂の縁に両腕を置き、身体を浮かせてぱしゃぱしゃと足を動かしつつ、気持ち良さそうに鼻歌を歌っているアリスのその様子は、中年男性が買うゴシップ雑誌のエログラビアコーナーを飾れると断言出来てしまうような、色気と艶がある。
ただし、湯船の中に大量のアヒルの玩具がなければ、の話であるが。
「やーぱー、風呂サイコーにゃー」
風呂に浸かっていることで肌を桜色に染め、顔を蕩けさせるついでに、語尾すらも蕩けさせている。
「アリス」
と、脱衣所から柔和な声が掛かり、
「タオルと着替え、置いておくわね」
曇りガラスの向こう側に、ほっそりとした女性らしいシルエットが浮かび上がる。
アリスは慌てた様子で、風呂桶の中での居住まいを正し、
「公爵夫人、ありがと!」
と、礼を云った。
「そろそろ、カエール達と一緒に御夕飯のお買い物に行って来ようと思うのだけど。アリス、今夜は何が良いかしら?」
「あ、俺ね、また出掛けなきゃなんないんだ。だから、飯は外で済ませてくるよ」
「あら、そうなの? 帰りは遅くなるのかしら」
「ん、解んない。シロウサギが見つかったかも知れないから、城に行かなきゃなんなくてさ」
「あらあら、それは大変ね。じゃあ、アリス、出掛ける時は気を付けて行くんですよ」
この言葉を最後に、公爵夫人は脱衣所から出て行ったらしく、柔和な声がアリスに語りかけてくることは無くなった。
「シロウサギ、か」
それにしても何処に行ったのだろうと、アリスは檜風呂の縁に頭を乗せ、天上を眺めながら呟く。
白兎と名乗る青年と出会い、城へ行くように云った後。
惨劇の広場を見て回ってから、直ぐにシロウサギ、もとい、白兎を追いかけたつもりだったが、彼には会えず。
代わりに出会ったのは、別の『ウサギ』である三月だった。
その三月にロクでもないメに遇わされた所為で。
「うん、チャシャと久しぶりにヤれたのは良い」
うん、うんと、何やら一人満足そうにアリスは頷く。
「あいつ、何でか最近すっげー忙しそうだからなー」
これも、ニンゲンのセカイと、此方のセカイを無理矢理重ね合わせて、簡単な手続き一つで誰でも行き来が出来るようにしてしまった結果だろうかね、と、考える。
そうだとしたら、と。
「どーせ、殿がチャシャに何か命じてるんだろうけどー」
このセカイにおいて、アリスの云う『殿』の云うことは絶対だ。
『殿』に逆らえば、たとえアリスであっても、たちまち『その首を刎ねてしまえ』と云われ、首と胴体が離ればなれになってしまう。
そうなれば、どうなるかなんて、誰にでも解ること。
それに、神出鬼没で、謎の戦闘能力を有するチャシャは、諜報活動等々に持ってこいだろうから、王たる者が、己の手足として使いたがるのも解る。
解るが、と
「あいつは、殿のモンじゃなくて、俺のモンなのにー!」
もう!! と、アリスは手足をバタつかせ、湯船に張るお湯を、ばしゃばしゃと波立たせる。
「つーか、チャシャもチャシャだ! チャシャはもう少し、俺を構うべきだ」
と、云いながら、アリスはふと昔のことを思い出す。
それは、アリスがアリスになる前のこと。
色彩と呼ばれる物も、景色と呼ばれる物も一切存在しないこのセカイにやって来たばかりで、右も左も解らなかった時、目の前にチャシャが現れた時のこと。
あの時、チャシャが冷たくも温かい手でこの手を取って、アリスと云う称号を与えてくれて、このセカイのイロハを教えてくれた。
そのお陰で、何もなかったはずの自分は〝アリス〟となることが出来て、このセカイそのものに迎え入れてもらうことが出来て、それから、と。
「はっ!」
チャシャが傍に居ないと、時折どうしようもない不安に駆られるのは、その所為だと前から思っていた。が、なんとなく、卵から孵った雛鳥が、初めて見た動くものを、親鳥と勘違いするアレに似ているな、と、そんなことを思ってしまったものだから、
「あいつは、俺にとってのニワトリ!」
と、自分でも、それはどうなのかと思う言葉を口にしてから、
「ニワトリ……」
ニワトリは朝を呼ぶ鳥ではあるが、それと同時に、悪夢の卵を産む鳥でもある。
だから、
「ニワトリは違うな」
自分にとって、チャシャは悪夢なんかではない。むしろ、悪夢を見ていたら、それを払い、引き上げ、助けてくれる存在なのだ。
じゃあ、と。
適切なたとえは、と、そう考えているうちに、アリスは一時的にではあるが、〝シロウサギ〟のことを完全に忘れ去ってしまっていた。
× × ×
「貴方のお話はとても楽しかったわ。ねぇ、お姉様」
「えぇ。妹の云う通りよ、貴方のお話はとても刺激的で面白かったわ」
白と赤の双子女王姉妹は、満足そうにこう云って、コロコロと笑う。
「もっとお話を聞いていたいけれど、そろそろ行かなくては」
「またお会いすることが出来たら、お話を聞かせてくださいましね」
白と赤の双子女王姉妹は優雅に立ち上がると、
「もしよろしければ、次は拳を交えてみたいわ」
「もしよろしければ、次は拳を交えましょうね」
と、物騒な言葉を放った後、
「「では、ごきげんよう」」
小さくお辞儀をして、二人仲良く何処へともなく去って行く。
赤白双子女王姉妹に呼び出され、お茶とお菓子の準備をさせられていた赤い甲冑と白い甲冑姿の『騎士』二名は、それらの物を片付けてから、白兎に一礼して去って行く。
赤と白の双子女王姉妹、それと、白と赤の騎士二名を、一言で言い表すなら、嵐。
そう、嵐が来て、去って行ったようだと、白兎。
ところで自分は、あの赤白双子女王姉妹に、どんな話を聞かせていたのかが、全く思い出せない。
最初は、ただ自分の身の回りの、誰にでも訪れる日常話をしていただけな気がするのだが、そんな何の変哲もないただの話を、あの赤と白の双子女王姉妹は、まるで異国に伝わる聞いたこともない御伽噺を聞くかのように、もっともっととせがんで来るものだから、ついうっかり、話してはならないことまで話してしまったような気もする。
もしも、知られてはいけないことを、話してしまっていたのなら。
それが、たとえ、自分のミスであっても、あの二人を、双子を、姉妹を、女王を、生かしてはおけない。
生かしておいたら、現実セカイに戻った際に、自分は、と、白兎はゆらりと立ち上がった――までは良かった。
そう、そこまでは。
「!?」
こう、何とも云えない痛みと衝撃が、全身を襲ったのは、立ち上がって直ぐのことだった。
言葉にすることが全く出来ない衝撃と痛みに、白兎は暫し、その場でのたうち回る。
それが和らいだ頃、漸く自分が地面の上に転がっていることに気が付いた。
これは一体どう云うことだと思いつつ、怪我や骨折等々をしている箇所はないかと確かめながら、立ち上がる。
若干の擦り傷や小さな傷はあったものの、骨折やら何やらと云った箇所はない。
この後どう動くにしても動くことそのものに問題はなさそうだと、白兎はホッと安堵の息を吐き出した。
ただ、改めて、あの赤と白の双子女王姉妹の後を追おうとしたところで、ある違和感に気が付いた。
その違和感と云うのは、遠近感と云うか、周囲にある物の大きさが明らかに違って見えると云うか、兎に角、何もかもが巨大に見えると云うことだ。
これは、どう云うことか。
さき程まで座っていたベンチに目をやれば、それは見上げなければならない程に巨大化しているし。
普段であれば、何も考えずに踏みつけているだろう程の大きさしかない小石も、巨石にしか見えなくなっている。
更には、この道を行き交う人々が、巨人にしか見えないのだ。それは、メイド服姿の少女然り、喪服姿の夫人然り、何故か殴り合いながら歩いて行く双子然り、それぞれに剣と盾を構え口論しながら去って行く双子然り、然り、然り、然り、然り、然り。
白兎は、だんだんと開いた口が塞がらなくなって来ていた。
このままでは、途方に暮れる以外の選択肢がなくなると、途方に暮れ始めた頃、
「おや、アンタ。どうなすったね?」
と、背後から声を掛けられた。
振り向いて見ると、人の良さそうな老紳士がパイプ片手に、立っていた。ただ、見た目と云うか、身に着けている背広の色合いと云うか、帽子の下から覗いている特徴的な前髪と云うか、それらの物がどことなく虫を連想させる出で立ちである。
そんな老紳士の背丈は、白兎より頭一つ分小さいくらいだ。
「見慣れない顔だが、何かお困りかね?」
この老紳士は、困っている者が目の前に居たら手を差し伸べたくなるタイプの者なのだろう。
「あ、あの!」
と、白兎は迷うことなく、自分が今困っていることを、何の迷いもなくそのまま伝えた。
そうして、白兎に突然身体が小さくなった気がして困っていると云われた老紳士は、白兎のその言葉を疑ったりするような素振りは一切見せず、そうした現象は何処にでもあり、誰の身にでも起きるとコトだと云わんばかりに頷いた後、身体が小さくなったと感じる前に何か口にしなかったかと、そうであれば心当たりがあるとでも云うかのように問うた。
そう云われてみればと、白兎。
白赤双子女王姉妹が、白い騎士と赤い騎士それぞれにお茶とお菓子を用意させ、その用意させた菓子と茶を、勧められるままに口にしたことを思い出し、そう答えると、
「そりゃあ、赤の女王と白の女王が用意した菓子が、メアリ・アン製の物だったんじゃないかね」
老紳士曰く、この『メアリ・アン』と云う者は、見目麗しい菓子を作るのが得意なのだそうだ、が、それだけで、その見た目に欺されて食べるとトンデモナイ目に遇うと云う、毒菓子造りの名人なのだと云う。
しかも、一切の解毒剤が効かず、本人は無自覚でそう云った菓子を作っているからタチが悪い。
しかしながら、この毒を回避する方法が全くないわけではない。
それは、メアリ・アンが作った菓子には必ずメモ書きがついて、そのメモ書きに従って食べれば、何の問題もなく、見目麗しい菓子を、そのまま美味しく頂くことが出来る、のだそうだ。
ただ、
「〝女王〟の称号を持つ者は、他の称号を持つ者が無意識に発揮する効果を、その権限で全て消すことが出来るからのう」
メアリ・アンが作った見目麗しい菓子を、その見目麗しいまま、美味しく食べることが出来るのだと、老紳士は云う。
つまり、その効果を持つが故に、赤と白の双子女王姉妹はメアリ・アンの菓子が持つ毒性を忘れてしまっていて、悪気がないまま白兎に勧めてしまったのではないか、と、老人はそう云うのだ。
「まあ、小さくなってしまったことに悲観することはない。もし良ければ、我々の仲間として迎え入れようと思うが」
どうかね? と、老紳士。
何だ、この、次から次へと起こるイベントは。
こちらの言葉に、的確に返してくるNPCは。
幾ら現実に帰りたくないとは云え、これではまるで。
まるで、なんだ?
そうだ。
まるで、ニンゲンの手で創られた非現実ではなく、非現実の中の者達の手により創られた現実のようではないか。
それは、現実の中に住まう非現実の者達が、現実に住まう者達を欺す為に、それらしい言葉を並べ立てて創り上げた、非現実の中にある現実で。
そこに並べ立てられている言葉にまんまと欺されていると気付かぬ者だけが、アプリ、乃至、ソフトを使うことで、現実と非現実を、非現実と現実を行き来することが出来、そのカラクリに気付いてしまった者は、どちらかのセカイに捕らわれてしまうのではないか。
――とか、そんな風な考えは、普段であれば、何を莫迦なと一蹴してしまうところだが、もしも、この莫迦な考えが『現実』のものだとしたらと、そう考えるとしっくりと来るようなことがあったのは、事実。
では、誰が一体、何の為に、そんなことを、と。
また、自分は何の為に、このセカイに閉じ込められたのか、と。
それを確かめる為にも、
「あ、いや、その、申し出は嬉しいんですけど」
お断りしますと白兎が云うと、老紳士はここで初めて不満そうな表情を作り、
「何か不都合があるかね? なに、最初は戸惑うことも多いだろうが、森の中に住まう者達が手取り足取り、色々と教えてくれるじゃろうて」
だから、と云うように手を伸ばす。
この手を取ったらどうなるのか。
多少の好奇心はあったものの、
「城に行かなきゃいけなくて」
「城に?」
「はい。あの、アリスにそこに行くように云われてて」
だから、老紳士の誘いには乗れないのだと、なるべく穏便に、やんわりと断れば、
「おお、アリスに城に行くよう云われているのか」
アリスに云われているのなら仕方がないと、老紳士。
あっさりと引き下がり、
「しかし、アリスが城に誰かを呼び出すとは。お前さん、ナニモノだい?」
と、とても不思議そうに首を傾げて見せた。
それはこちらが聞きたいことだと、
「アリスが、城に誰かを呼びだすのは、珍しいことなんですか?」
と、逆に問うてみたところ、
「そりゃあ、お前さん。アリスが誰かに対し城へ行けと云ったと云うことは、アリス自身も城へ行くと云うことじゃて。アリスが城へ行くと云うことは、この世の終わりが始まると云うことだ。何せ、終わりは始まりを意味し、アリスは裁判に掛けられ、判決を言い渡される。その首を刎ねてしまえ! とな」
こうした、謎の答えが返って来た。
「もう、儂らは、何度その光景を見てきたことか」
「はぁ」
「今回も、無事に何も終わらなければ良いが」
それはどう云う意味かと問いたいところだが、問うたところで答えが返ってくるとは思えない。
また、返って来たとしても、此方には理解出来ない、解らない答えが返って来る可能性も捨てきれないのだ。
「ああ、お前さん、城へ行くなら急いだ方が良い。少しでも、あのお方の機嫌を損ねたら、アリスより先に、お前さんの首が刎ねられてしまうからのう」
老紳士の言葉の意味が解らなくても、
「はあ」
と、白兎は頷くだけだった。
「そうそう、城に行く前に、帽子屋のところに寄って行くが良い。きっと、その身体を元に戻す菓子が置かれているはずじゃ」
「帽子屋、ですか?」
何故に帽子屋のところなのか。
それとも、そう云う屋号の店があるのか。
そう云えば、この非現実セカイにおいて、冒険者用のアイテムを売っているNPCの店の名前が、『帽子屋』だったなと思いつつ、
「そこへはどう行けば?」
「昼の一時半になったら、六時になるじゃろ? そうしたら、何処かの家の庭先に現れるはずじゃよ」
と、これまた要領の得ない答えが返って来たものだから、
「はあ」
と、白兎は頷くことしか出来ない。
「まあ、後はお前さんの運次第じゃろうが」
それは、今までの言葉と比べれば、大分的確な言葉であるが、ある意味で一番曖昧な言葉でもある。
「何で、運が必要なんですか?」
「何事にも、運は関係してくるぞい」
良く考えてみるが良いと、老紳士。
今の白兎の身長はだいたい、6cm前後。
もし、誰か人に声を掛けたところで、気付く者は全く居ないと云って良いだろう。
それだけではない。
普段は何でも無い、取るに足らない全てのものが、己の命を奪う原因になりかねないのだ、と。
例えば、雨が降って来たら、その雨粒で。
例えば、風が吹いて来たら、その風圧で。
例えば、小鳥が餌を探す為に地を啄んだ際、嘴に咥えられて。
例えば、地を歩く人々が我々の存在に全く気付かず、踏みつけられて。
等々、尽きることなく続く例え話は、生々しく恐ろしい。
因みに、この例え話は、老紳士が目の前で見てきた友人達の最後だと云うから、それは例え話ではないのでは、と、突っ込みたくなる。
「まあ、アリスに城へ行けと云われているのだから、そんな心配は要らんじゃろうが」
カッカッカッと、何処ぞのご隠居のような豪快な笑い方をする老紳士に、要らぬ心配なのであれば不安になるようなことは何も云わないで欲しいと、そう云いたくなった。
が、
「道中気をつけての」
と、云った老紳士が、飛んできた巨鳥の足に掴まれ、青い血を滴らせながら、断末魔の叫びと共に何処かへ連れ去られたのを見て、白兎は背筋を凍らせると同時に、言葉を失った。