第五話

文字数 9,300文字

 自分は、何も、悪くない。
 あれや、これやと、君の云う我が儘は何でも聞き入れて来たのに。
 自分は、何も、悪くない。
 あれや、これやと、君の云う我が儘は何でも聞き入れられなくなっただけ。
 自分は、何も、悪くない。
 自分を、現実から目を背けさせた君が、悪い。
 自分は、何も、悪くない。
 だから、そんな目で、見るな。
 自分は、何も、悪くない。
 だから、君から離れる為に。
 悪いのは、全て君なのに。
 それなのに、  が全て悪いような云い方をするから、  を  して、 丁寧に めてあげたのに。
 それなのに、  は、 われることになり、 いつめられた所為で、姿形を偽って、わざわざこんなセカイにまで、逃げ込むハメになって。

 それなのに、どうして、こんな目に遭うのか。

   ×    ×    ×

 はっとした様子で白兎が目を開け、先ず目にしたのは、木製の天上だった。
 続いて、白いシーツが敷かれた夜具。
 そこに自分が寝かされているのだと分かると、白兎は不思議そうに首を傾げた。
 確か自分は、と。

 ひょんなことから、アリスと名乗る少女に出会い、城に向かうようにと云われ。
 その言葉に従おうと思ったものの気が進まず、ぼーっとしていたところ、白の女王と赤の女王と名乗る少女に出会い、この二人の少女とお茶をした後、どう云うわけか身体が縮んでいた。
 この出来事に途方に暮れていたところ、親切な老紳士に助言を貰い、帽子屋と呼ばれる者の元へ向かっていたが、何かに捕まってしまい、あれよあれよと云う間に、牢に入れられ、白粉臭い場所に連れ、その先で妖艶な女性と会話をしたところまでは、記憶している。
 つまり、そこから、今こうして目が覚めるまでの記憶が無いと云うことだ。
 さてはて、此処は一体何処なのか。
 それを確かめる為にもと、のっそりと起き上がったところで、
「お目覚めですか?」
 と、全く抑揚無い声がした。
 だが、この声は何処から聞こえてくるのやら。
 それを確かめる為にと白兎が周囲を見回してみたところ、何処にも誰の姿も見えないものだから、
「誰だ?!
 と、ついキイツ声で訊ねてしまった。
 すると、一瞬の間が空き、
「これは失礼を」
 と、抑揚のない声が詫びの言葉を口にしたかと思えば、水の上にぽたりと落とされた墨がじわりと滲むかのよう、闇で作ったのかと思われる黒よりも黒が濃いローブを身に纏った長身の者――チャシャが姿を現す。
 チャシャの姿を見て、白兎は思わず息を呑み込んだ。
 それはそうだろう。
 白兎はポータル広場で、見ず知らずの者達とともにチャシャに殺されかけているのだから。
 その時の恐怖を思い出したのだろうか。
 言葉を失った白兎が、ぱくぱくと口を動かし、何かを云おうとしていると、
「貴方が聞きたいと思われることを、ざっとご説明しましょうか?」
 と、チャシャ。
 現状、白兎にとってチャシャは得体の知れない者である。
 そんな得体の知れない者にこう問われて素直に頷くのもどうかと思うが、白兎は小さく頷いた。
「では先ず、この場の説明から致しましょうか」
 曰く。
 此処は、公爵夫人と呼ばれる未亡人宅のアリスが下宿部屋であるらしい。
 だから、か、どうかは解らないが、部屋の中に置かれている家具は必要最低限の物しかない。
 次に、白兎が此処に居る理由は、アリスが帽子屋のお茶会へと出向いた際、そこに遊郭の娼妓からの贈り物だと、ある双子が持って来た虫籠の中に居たとかで、そこから紆余曲折色々なことがあったりなかったりして、現在に至るのだ。と、そう説明を受けたお陰で、己の身にどんなことが起こったのかが、だいたいであるが理解することが出来た。
 しかし、説明の途中、中途半端に大雑把に端折られたのは何故か。
 それはそうと、気になることと云えば、
「今、アリスって?」
 と、云うことである。
 アリスと云えばと、白兎。
 彼女に出会い、正直にその言葉に従わなかった結果が、それこそ現状である。
 と、云うことはさておいて。
 何故、非現実セカイの運営側に居る者が、そのセカイを脅かすであろう者と居るのか。
 いや、そもそも、今までのことを振り返ると、どうしても引っかかる。
 やはり、このセカイは、と。
 そう、考え始めたところで、
「貴方は、どうにも私と同じニオイがする」
 と、チャシャ。
 唐突にこんなことを云われれば、
「は?」
 と、返さずにはいられない。
「失礼ですが、今まで何人、その手に掛けられましたか?」
 闇色のフードの下にあるチャシャの鋭い目が、白兎を射貫く。
「アリスは偶に間違えるんですよ。貴方のようなニオイをさせている者と、シロウサギを」
 それは全くことなる『もの』。
 それなのに間違えてしまうと云うことは、アリスがアリスになる前の、最後の記憶が関係しているのではないかと、チャシャ。
「あ……アンタ、何を?」
 云っているのか、と。
 唐突に意味の解らないことを云わないで欲しいと、白兎はチャシャを睨む。いや、睨んだつもりだったが、実際にはどう云う目で彼を見ているのかが解らない。
「このセカイにアリスが必要なのと同じように、アリスにはシロウサギが必要なのですよ、アリスがアリスである為に。しかし、本来アリスは外界に紛れ込んだシロウサギを偶々見つけたことで、その物珍しさから追いかけ、このセカイに招かれざる客としてやって来て、攪拌しながら去ってゆくだけの存在。それが、貴方のセカイに住まう連中が好き勝手にこちらのセカイを弄りに弄りまくってくれた結果、このセカイはゆっくりと歪み、壊れ続け、アリスとシロウサギの立場が逆転してしまったが故に、シロウサギが居なければアリスは存在することすら、出来なくなっている」
 この意味、解りますか? と、チャシャに問われれば、白兎は首を横に振る。
 しかし、そんな白兎を無視し、
「今のアリスに残された時間は、風前の灯火。アリスはそのことに気付いていて、身体に異変が出ているにも関わらず、私達にはそのことを隠し、隠せているつもりでいる。それ故に、アリスは焦り、シロウサギの資格がない者を、無意識にシロウサギと間違えてしまう。しかし、貴方に本当にシロウサギの資格があったとしたら話は別になりますけど、それが私からアリスを奪うことに繋がるなら、取り敢えず、今此処で死んで欲しいのですが」
 どうでしょう? と、同意を求められたところで、はいどうぞ、等と頷けるはずがない。
 そもそも、白兎にはチャシャが口にした言葉の意味が解らない。
 いや、違う。
 意味が解らないのではない、理解が出来ないのだ。
 白兎からしてみれば、チャシャの言葉は、非現実セカイに長く居すぎたが故に現実から遠く離れ、非現実セカイに自ら閉じ籠もってしまった狂人のそれ。しかも、アリスのストーカーなのではと疑いたくなる言動をしている。
 世の中、このMMORPGに限らず、御伽噺や寓話をモチーフにしたゲームが量産され続けているのは、そうした世界観は誰にでも知られているが故に、その世界観の説明やら小難しい設定やが要らず、誰にでも馴染みやすいからだろうと考えられるのだが、その馴染みやすさ故に、ハマるとこのようになってしまうのか、と、白兎は考える。
 と、云うことは、と。
 思い出すのは、アリスと初めて出会った時のこと。
 あの時、アリスがポータル広場に居たのは、GMとしてではなく、この男から逃げていたからなのでは、と。
 そうだとしたら、この男を、 し、て、アリスを、助け、て。
 そして。
 ああ、そうだ。
 白兎は何かを思い立ったかのよう、ゆらりふらりとベッドの上に立ち上がる。
 立ち上がって、気付いた。
 何かがおかしくないか、と。
 こう、何と云うか、目線がおかしい気がする。
 いや、まあ、目線の位置がおかしいのと、周囲の遠近感がオカシイのは、今に始まったことではないが。
 それにしたってと云うか。
 こう、何と云うか、さっき目を開けるまでは周囲のナニモカモが超巨大に見えていたが、今はそれが少し小さくなって、それなりの大きさにしか見えないと云うか。
 それよりも、身体のバランスが取りにくいような、そんな気がすると思っていたところ、感覚としては尻からコケてベッドの上にぺたんと座ってしまった。
 その様子を見ていたチャシャが、
「こんなにも殺しやすい姿形をしているのに、〝シロウサギ〟かも知れないと云うだけで、この手に掛けられないとは、なんとももどかしいものですね」
 と、何やら、ぶつぶつ呟き始め、
「私に与えられたこの称号も役割も、全てはアリスの為に。そう思っているのに、アリスの為に動こうとすると、この称号と役割が邪魔をする」
 忌々しいと溜息を吐き出し、
「こう、兄さんの首を贄に〝魔女〟とやらと、取り引きすることは出来ないものでしょうかね。殺せないなら殺せないなりに、こうして赤ん坊の姿をしているのだから、豚の姿に変えて貰う、とか」
 豚と赤ん坊がどう繋がるのかは解らないが、『赤ん坊』と云う言葉に、白兎はハッとする。
 そう云われてみれば、自分が感じている目線の高さや、見えている物の大きさは、赤ん坊の程度の大きさであれば、納得のいく見え方なのである。
 それよりなにより、ちらりと見てみた自分の手の大きさは、まさに赤ん坊のそれ。と、云うことは、目の前に居る男に放ったこちらの言葉は全く通じていなくて、今までの会話はこの男のただの独り言なのだとしたら、それはそれで納得はいくが、なんとなくゾっとする。
「おや。アリスが呼んでいるから、行かなくては」
 チャシャはちらりと、白兎を見やり、
「ほら、貴方を悪の魔の手から守るお守りですよ」
 大事になさいと、どう見てもペッパーミルにしか見えないそれを、無理矢理白兎に抱かせるなり、パッと姿を消してしまった。
 しかし、『悪の魔の手』とは一体、なんなのか。また、ペッパーミルが、どうやってそれから守ってくれると云うのか。

   ×   ×   ×

 公爵夫人宅名物、高級温泉旅館自慢の檜風呂がある浴室。
 その浴室のタイルの上に、全裸のアリスは座り込み、咳き込んでいた。
 その咳き込み方が尋常じゃない。
 肩を大きく振るわせており、身体には咳き込んだことで飛び散った唾、ではなく、血が散っている。
 暫くそうやって咳き込み続け、やっと収まってきたところで、
「うー、あー」
 口の中が血生臭いと、アリス。
 取り敢えず風呂入ってて良かったと、アリスは近場に置いておいた風呂用の手桶を手にし、予めその中に入れておいた湯で自分とその周りを清める。
「はー……」
 落ち着いたかなと軽く深呼吸をしながら、
「ちょっと、間隔が短くなって来てる気がすんなあ」
 どうしたもんかと、アリスはぼやく。
 アリスがこうした咳をするようになったのは、何時の頃だったか。
 それは、つい最近のことのような気もするし、随分前からのような気もする。
 ただ、このセカイが歪みはじめ、本来であれば出会うことすらなかったはずの外界の者との交流が始まった頃から身体に異変が起こり始めていたと、そう覚えている。
 アリスは何となく周囲を見回した。
 誰も居ない。
 それは解っているが、それが解ったからこそ、ほっと息を吐き出した。
 もしも、こんなところを誰かに見られたりしたら、特にチャシャにでも見られたら、どうなることか。
 おそらくチャシャは、何も云わずに外界に住まう〝魔女〟とやらの元に行き、後先何も考えずに平気な顔して己の身を犠牲にし、自分を助ける術を得て帰って来るだろう。それが、たとえ、このセカイを、他のセカイを滅ぼすことになろうとも、おかまいなしに。
 まあ、今はなんとか隠せているから良いが、バレるのは時間の問題。
 バレてしまう前に、なんとか、と。
「あ」
 まただと、アリス。
 こう呟いて、再び肩を振るわせ、口から鮮血を散らす。
 咳を一つする度、血を一滴散らす度、自分が内部から壊されているのが、なんとなしに解るのが、嫌だ。嫌だが、不思議とそれを恐怖に感じないのが、救いか。
 今回の咳は、直ぐに収まった。
 血の散り方も、先程に比べたら、かなり少ない。
 アリスは、蛇口を捻り水を出すと、その水を風呂用の手桶に汲んで、汚れた場所を清める。
「むぅ、折角風呂に入りに来たっつーに、逆に冷えっちまったい」
 これは一刻も早く暖まらなければと、アリスは蛇口から出しっ放しになっている水を止め、湯船の中へと移動する。
 ちょっと熱めに湧かされた湯は、じわじわと体力を回復させてくれているような気がした。
「ふにゃー」
 生き返るにゃーと、溶けながらアリスは、風呂桶の縁に両腕を乗せ、
「そういや、温泉卵っての食べると、寿命が延びるっつーけど、今の俺に利くかな」
 なんてことを呟いたところ、
「それなラ、ボく達を、食べてみるかイ? アリス」
「ソレナら、ぼク達ヲ、食ベテミルカい? ありす」
 と、全く同じ事を、全く違うイントネーションで喋る二つの声が聞こえた。
「あ?」
 と、アリスが湯船に視線を向けたところ、ぷかぷかと浮かぶアヒルの玩具の背に、鶏が産んだ物と思わせる卵が二つ、ちょこんと乗っかっていた。短い手足が生えている卵は、それぞれに白と赤の蝶ネクタイを胴体に巻いているのだが、何処をどう見ても顔がない。
 顔がないクセに、
「やァ、アリス。実に千八百七十一昼夜ぶりだネ」
「ヤぁ、ありす。実ニ千八百七十一昼夜ブリダね」
 と、悠長に挨拶をし、丁寧にお辞儀をして見せた。
 アリスはこの二個の卵を見て驚きもせず、
「ハンプティとダンプティじゃねぇか」
 久しぶりだなぁと、親しげに挨拶を返す。
 ハンプティとダンプティは、悪夢の卵と呼ばれるモノで、人が夢を見る環境に居るのなら、何時でも、何処にでも現れる。
 悪夢の卵。
 それは、人が見る夢に潜むモノ。
 それは、人に悪夢を見せるモノ。
 卵の殻の中には虚無が詰まっており、それから孵るモノは何時も決まって――。
「つか、なんでお前らが、此処に居るんだよ」
 自分は今、起きて風呂に入っているはずなのにと、アリス。
 否、風呂に入っているからこそ、なんで悪夢の卵である彼らが此処に居るのかと、アリスは首を傾げた。
「今、このチャンスを逃すト、もう出番がない気がしてネ」
「ソウソう、オトナノ事情ッテヤツさ」
 悪夢の卵の言葉は、相変わらず意味が解らないと、アリスはますます首を傾げる。
 と、
「まァ、冗談ハ」
「置イトイて」
 ハンプティとダンプティは、何かを置く仕草をし、
「ぼク達は、君ノ悪夢を引き取りに来たんだヨ」
「ボく達ハ、君ガ見テイル悪夢ヲ引キ取リニ来タンダよ」 
 と、云う。
「俺が見てる悪夢を引き取りに、だと?」
 アリスが、俺にも解るように喋れと、そう説明を求めたところ、
「アリス、君はこのセカイを救いたいと焦るあまリ、無意識に自らを崩壊へと導いていル」
「ありす、君ハコノせかいヲ救イタイト焦ルアマり、無意識ニ自ラヲ破滅ヘト導イテイる」
「だけド、ぼク達は、それを認めなイ」
「ダケど、ボく達ハ、ソレヲ防ギタい」
「その為にハ、アリス。とある人物が見ている悪夢に捕らえられてしまっている君ヲ、救わなくてハ」
「ソノ為ニは、ありす。トアル人物ガ見テイル悪夢ニ感化サレテシマッテイる君ヲ、掬ワナクテは」
「アリス」
「ありす」
「書き換えられた嫌な記憶ヲ、ワザワザ元ニ戻ス必要はなイ」
「土ニ埋メラレタ嫌ナ記憶ハ、ワザワザ掘リ返ス必要ハナい」
「アリス」
「ありす」
「君ハ、アリスなのだから」
「君は、ありすナノダカラ」
「このセカイを蝕む悪夢ハ、手放しテ」
「コノせかいヲ壊ス悪夢は、手放シて」
「君を惑わす悪夢ハ、悪夢の卵であるぼクとダンプティガ」
「君ヲ惑ワス悪夢は、悪夢ノ卵デアルボくトはんぷてぃが」
「「引キ受けルかラぼクラを」」
 と、ハンプティとダンプティが――、


 ――。
「アリス?」
 呼ばれたなぁ、と。
 どうしたのだろうかと、アリスが目を開けたところ、チャシャが顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか?」
 と、訊かれれば、何のことだろうかと、アリスは自分の様子を確かめる。
 そう云えば、自分は風呂に入っていたはずなのに、きっちりと服を着た上で、脱衣所の床の上に転がっている。
 いや、転がっていると云う表現は正しくない。
 脱衣所の床の上に正座して座っているチャシャの膝の上に頭を乗せられ横になっている、と云うのが正しい。
「えーと?」
 何がどうしてこうなっているのかと、アリスが問うように首を傾げたところ、
「アリスに呼ばれた気がして此処に来たところ、アリスが床の上で倒れてましたので」
 と、チャシャが答える。
 倒れていたと云うのは、事実なのだろう。
 それはあまり良いこととは云えないが、この際良いとして、自分は風呂に入っていて、そこでハンプティとダンプティと話していた気がしたのだが、あの悪夢の卵の姿、その欠片と思わしき物は何処にもなく、
「俺、風呂に入った痕跡、あった?」
「えぇ。お風呂から上がって、着替えた後で私を呼んだようでしたが」
 チャシャが来た時には、既にアリスはこの状態で倒れていたと云うのだ。
「つー、ことは、逆上せて、ぶっ倒れたのかな」
 そうでなくともそう云うことにしておこうと思ったのは、ハンプティとダンプティの名を出すとチャシャが機嫌を悪くすると云うこともあるが、その方が色々と都合が良いからでもある。
 アリスの言葉を、チャシャが信じたのかどうかは解らないが、
「逆上せるまで風呂に入らないでください」
 と、窘めるように云う。
「ん、次から気を付ける」
 逆上せる前に上がると云って、アリスは上半身を起こす。
「そういや、あいつは?」
「あのシロウサギ候補のことですか?」
 抑揚なく喋り、一切の感情を隠しているかのよう無表情なチャシャ。
 しかしアリスには、チャシャが表に出さない感情やら何やらが解ってしまうものだから、
「他に居ないだろっつーか、あからさまに嫌そうな顔すんな」
 苦笑せずには居られない。
 チャシャは今のアリスの言葉には何も返さず、
「彼なら、相変わらず赤ん坊サイズのまま、アリスのベッドの上で大人しくしていますよ」
 先のアリスの言葉に、こう返した。
「って、ことは、やっぱりメアリ・アンのとこに連れてかないとかー」
 アリスが帽子屋のところで、ひょんなことから再会した白兎。彼の身に何が起こったのかは解らないが、紆余曲折色々とあったのだろうことだけは解った。何せ、白兎は現在、赤ん坊と変わらぬサイズの身長となっており、言動も赤ん坊のそれとなっているのである。
 そのサイズのまま、彼が行くべきところに連れて行ったところで、骨折り損の草臥れ儲けになってしまうであろうことは解っている。
 だったら、そうならぬようにと、多少こちらが骨を折り、彼が元に戻る可能性がある場所――、つまり、このセカイで唯一、身長体重を自由に変化させることが出来る毒薬、もとい、菓子を無意識で作り出しているメアリ・アンの元へと連れて行くべきだろう、と、アリスは思っているわけだが、
「縊り殺すのなら、今のうちだと思いますが」
 チャシャがこう云えば、
「縊り殺すな」
 アリスはありとあらゆる思いつく限りの殺害方法を口にし、それを実行することは許さないと、チャシャに釘を刺す。
 すると、チャシャが明らかに不満そうな目で、アリスを見やったものだから、
「赤ん坊って、どうやって運べば良いんだろうな」
 と、話を反らす。
 赤ん坊と化した白兎を、帽子屋のお茶会会場から、この公爵夫人宅まで運んで来てくれたのは、眠り猫だ。
 眠り猫が公爵夫人宅まで赤ん坊白兎を運んだ後、アリスの部屋まで赤ん坊を運んでくれたのは、公爵夫人である。
 その公爵夫人に赤ん坊の抱き方を訊けば良いのではないかと思うだろうが、公爵夫人はまたも出掛けてしまっていて、何時帰って来るのかが解らない。
「赤ん坊は、キャベツ畑の中から収穫されると聞いたことがありますが」
 チャシャは相変わらず抑揚の全くない至極真面目な声で、こう云った。
 これには流石のアリスもツッコみを入れるかと思いきや、
「それなら、チシャんとこの塔の魔女に声を掛ければ、キャベツ分けて貰えるかもなあ」
 と、こちらも至極真面目に頷く。
「アリス、冗談でも魔女に頼る等とは」
 云ってはいけません、と、チャシャ。
「ん」
 それは解ってはいるのだと、アリスは返す。
 ただ、ニンゲンと云うものは、一度ラクを覚えてしまうと、そのラクに頼ろうとしてしまうフシがある。その『ラク』の為に、どんな代償を払うハメになるうとも。それが原因で、どんなメに遭おうとも。
「でも、赤ん坊は、母親本人か、母親が指定したヤツ以外が触ると、子豚に変わるからなぁ」
「そのことですが」
「うん?」
「あの赤ん坊の生みの親ではない公爵夫人が触れても、豚に変わらなかったと云うことは、誰が触れても大丈夫と云うことではないでしょうか?」
「あー!」
 そう云われてみればと、アリス。
「じゃあ、普通に触っても大丈夫ってことか?」
「おそらくは」
 ですが、と、チャシャ。
「アレは、私が運びますので」
「お前、俺がアイツに触るのが嫌なんだな」
「当然です」
 そんな解りきったことを云わないで欲しいと云わんばかりに、チャシャは溜息に良く似た息を吐き出した。

   ×    ×    ×

 ペッパーミルを抱えさせられている白兎は、困っていた。
 それはそうだ。
 ペッパーミルなんぞを抱えさせられ、自由に動けぬ身のまま、独りで見知らぬ部屋に放置されているのだから。
 どうにかして、どうにかならぬものかと身体を捩ってみるのだが、どうにもならない。
 何とか自由になる首だけを動かして、ベッドの真横にある窓を見てみれば、窓台のところに白くて丸い物体が、二個、乗っかっている。
 その丸い物体は、まん丸いわけではなく、楕円形で、
「アレが例の悪夢の元だネ、ダンプティ」
「あれガ例の悪夢ノ元ダよ、はんぷてぃ」
「思ったよりモ、孵化が近イ。もう此処まで来たラ、ぼク達の手に掛けることは出来ないネ」
「思ッタヨリも、孵化ガ早イ。モウ此処マデ来タら、ボく達ノ手に掛ケルコトハ出来ナイヨ」
「でも、放っておくことも出来ないナ」
「ウン、放ッテオイコトハ出来ナイね」
 等と、独特なイントネーションで口々に喋っているのだ。
 更には、
「「アりスにあァ云ッた手前、どウシよウか」」
 と、
「アリス?」
 コイツらも、アリスと口にしたと、白兎。
 しかし、その声は聞こえていないらしく、
「そうダ、ダンプティ」
「何ダい? ハンプティ」
 と、白兎の声を無視し、再び喋り出した。
「シロウサギなラ、アレを持っているはずだヨ」
「しろうさぎナら、確カニ持ッテイルハズダね」
 アレ、とは一体何なのか。
「アレを奪って行こウ」
「ソレハ良イ考エダネ」
 アレを、と、楕円形が頷きあったかと思えば、白兎に向かい飛び降りたではないか。
 白兎はそれを避けることが出来ず、その身に二つの衝撃を受けることとなった。
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登場人物紹介

アリス〈AЯICE〉

現世に那由他の数程存在するであろう〝不思議の國〟の〝アリス〟。

腰まで伸ばした黒髪のてっぺんに黒色のリボンを結んだ、可愛らしい少女のような見た目をしている少年。

ただし、可愛いのは見た目だけで言動は年頃の少年のそれである。

雪のように白い肌を〝アリス〟の制服である黒いエプロンドレスで包んでいる。

チャシャ

〝アリス〟を惑わし導く者としての役割を担う〝チェシャ〟一族の長。 

『チャシャ』と名乗っているのは、当代の〝アリス〟にそう呼ばれているから。

 無表情で抑揚の無い声で喋る。

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