第四話

文字数 10,656文字

 薄暗い閨の中で囁かれる睦言。
 笑いながら重なり合う身体、溶け合う体温。
 荒い吐息の合間に聞こえる粘つく水音が糸を引き、絡み合う舌と身体は蛇のようで。
 恥ずかし気もなく部屋中に響く嬌声と、背に這う赤く細い傷跡。
 逝くと叫んで果てた後、お互いの瞳の奥に映るは、シビトの――。

   ×   ×   ×

 現実セカイにおいて、この場が何処に当たるのかは解らないが、何処かの薔薇園なのだろう。
 非現実セカイの青い青い空の下。
 咲き乱れる薔薇が森のようになっているそこに誰が置いたのか、無造作に置かれている大きなテーブルには、真っ白なテーブルクロスが掛けられている。
 ただしこのテーブル、長さと大きさが半端ではない。何せ、両端が見えないのだ。そのクセ、テーブルの両脇には当たり前のように膨大な数の椅子が並べられており、テーブルの上には色取り取りの食器やお菓子が並べられていて、その合間合間に、何故か置き時計が大量に置かれている。
 そんなテーブルの脇に立つのは、継ぎ接ぎだらけのシルクハットを被り、継ぎ接ぎだらけのタキシードを身に着けている青年。トレードマークと云うべきは、鼻の下から生えている個性的なカイゼル髭だろうか。
 青年は、『帽子屋』と名が入った柄杓入りの手桶を片手にぶら下げながら、
「平和っていいよねぇー」
 と、しみじみした様子で独り言を口にする。
「ここ最近、外界から来るお客さんが多かったし。そのお客さん達は、なんでか僕のところにお菓子を買いに来るし。その所為でお茶会を開く暇が全然無かったし。って云うか、僕は帽子屋であってお菓子屋じゃないのに、お菓子を買いに来られてもねぇ」
 と、同意を求めるように視線を向けたのは、テーブルの上。
 青年こと、帽子屋の視線を受けたのは、テーブルの上にある超巨大な豆大福――にしか見えない恰幅の良い猫だった。
 この超巨大豆大福にしか見えない恰幅の良すぎる白と黒のぶち猫が、ゆるゆると顔を上げ、帽子屋に同意するかのように、にゃあと一声鳴くと、
「だよね、だよね。眠り猫もさ、可愛いとかなんとか云われて色んな人にもみくちゃにされて、満足にお昼寝出来てなかったしねー」
 どうやら、この猫の名は眠り猫と云うらしい。眠り猫は、にゃあと、もう一鳴きすると、ゆるゆると顔を元の位置に戻し、ぷうぷうと鼾を掻いて寝始める。
「ああ、でも一番なんて云うか、許せなかったのは、ロケーションが良いって云って、薔薇の茂みに隠れて交尾してくコ達だよ! 君達は隠れてるつもりだったかも知れないけど、こっちには丸聞こえだったし」
 行為に及んでいる本人達は、それも含めて『好い』のかも知れないが、勝手に巻き込まれている者の身にもなってほしかったと、帽子屋は盛大な溜息を吐いたところ、
「あ、悪ィ、聞こえてたか?」
 なるべく、声は殺してたつもりだったんだけど、と声。
「へ?」
 何の話かと、帽子屋が声のした方に目を向けると、そこにはアリスが居り、
「なんか、この薔薇園に足ぃ踏み入れたら、急にヤリたくなっちまってさー」
 はっはっはーと笑いながら、テーブルの上にところ狭しと置かれたお菓子や食器を手で乱暴に振り落とし、地面に叩き付けていた。
 当然のこと乍ら、お菓子は無残にばら撒かれ、食器は派手な音を立てて割れる。
 そうして、人一人が座れる空間をテーブルの上に作りだしたところで、アリスは何処からともなく紫色をした渋い座布団を取り出すと、今作りだしたばかりの空間にそれを置き、
「よいっしょ、っと」
 靴を脱ぎ捨て、テーブルの上によじ登り、座布団の上に胡座を掻いて座った。
「誰かと思ったら、アリスじゃないか。久しぶりだねぇ」
 いらっしゃいと、帽子屋。先程までアリスが取っていた行動を咎める様子は一切ない。
 だが、眠り猫は、睡眠を妨げられたと云うように顔を上げ、アリスを睨む。
「ありゃ、ネムリを怒らせちまった」
 機嫌が悪いのかなと、アリスが首を傾げたのには理由がある。
 先程アリスがとった行動は、普段、帽子屋に元へやって来たアリスが取る行動と何一つ変わりがないのだ。それなのに、あんなに不快そうな顔をして睨まれるとは、余程虫の居所が悪いのだろうかと、ネムリ猫の様子を窺うアリスに、
「最近、外界から来るお客さん達の所為で、眠り猫はちゃんと寝れてなかったからね」
 眠ることが仕事である眠り猫。
 唯一の仕事を散々邪魔され続けた結果、自分の意思に反して起こされると、とても機嫌が悪くなるのだと帽子屋が云えば、
「そっか。そりゃ、悪かったなネムリ。お詫びに、ここおいで」
 ここにと、アリスが自分の膝を叩いて見せると、眠り猫はむくっと起き上がり、欠伸一つせぬまま立ち上がる。そして、どすんどすんと小さな足音をさせアリスに近づくと、その膝の上に先ずは前足を乗せ、もみもみと寝床を整える仕草をしてから、くるくるとアリスの膝の上に収まった。
「相変わらず重いなー、ネムリは」
 だが、この重さが良いのだと、アリスは眠り猫のふかふかでやわらかな毛を撫でる。
 するとネムリは直ぐに、ぷふぷぷふと鼾を掻きながら寝始めた。
 寝付くのが早いのは、流石猫と云ったところか。
 アリスは、眠り猫の毛を撫でながら、
「あのなー、帽子屋。この薔薇園の入り口に、なんか催淫効果がある植物が植わってたってさ」
「え、それ本当?!
 催淫効果がある植物なんて物は、本来このセカイには存在しないのだ。が、昨今、様々なセカイから、人だけでなく、物も入って来ていたのは事実である。
 そう考えれば、そう云った植物の姿形が見慣れぬ物であれば直ぐに気付くことが出来るだろうが、雑草と同じ姿形であったり、それこそ薔薇に擬態していたりしたら、全く気付けない。気付くことはない。
 そうして、何食わぬ顔で育った植物が、何らかの目的の為に催淫効果のあるナニカを散布し、それに触れてしまった者がそうとは気付かずに淫らな行為に耽っていた。
 だから、淫猥で卑猥な行為をする者が後を絶たなかったのだとしたら、それは全くあり得ないと云える話ではない。
「でな、それを放っておいたらって後々面倒なことになるだろうって。だから、今、チャシャが火炎放射器使って、根絶やし中」
「え、何それ、本当? うわー、全然気づかなかったよ。後でチャシャくんにお礼しなきゃ」
 と、云ってから、帽子屋が、あれ? と、首を傾げたものだから、どうかしたのかと云うように、アリスが首を傾げ返したところ、
「あのね、アリスが云うことを疑うわけじゃないんだけど、そんな物が植わってたのに、なんで僕には何の効果もなかったのかなーって」
 帽子屋は、三百六六十五日、ほぼ二十四時間、この薔薇園に居る。
 まあ、風呂に行ったり、トイレに行ったり、食事をしに行ったりして、この場から離れることもあるが。
 それはそれ、これはこれ。
 催淫効果のある物か植わっている場にずっと居たにも関わらず、その効果を一度も感じたことがないのは何故か、と。
「……帽子屋、相手居ないからじゃん?」
 世の中、催淫効果を得ただけで誰彼構わず発情してしまう者もいることはいるが、そうして発情したところで、それを発散する対象がいなければ辛いだけだしと、アリス。
「そう云うもんかなぁ」
 アリスの云う通りだとしたら、随分と親切な有害植物だとは思う。
「そう云うもんだろ」
 深く考えると眠れなくなるからやめておけとアリスに云われれば、それもそうだねと帽子屋は納得出来ぬまま納得し、
「あ。アリス、何か飲む?」
「コーヒー牛乳が飲みたい! ってか、お前が俺を追い出そうとしないなんて、今更だけど珍しいな」
 帽子屋が主催するお茶会に、アリスは招かれていないにも関わらず、遅刻してやって来ては、そのまま無理矢理居座って、飽きたら帰る。なんてことを繰り返しているものだから、帽子屋はアリスの姿を見ると何かしらの文句を云ってくるのだが、今日はそれがない。
「まあ、未だお茶会を始めてないって云うのもあるけど」
 でも、と、帽子屋。
「そう云われると、何時ものアレ云っておかないとスッキリしない気がするし、気持ち悪い気もするから云うね」
 コホンと咳払いをし、
「アリス、遅刻だよ! 今、何時だと思ってるんだい? 三時はとっくに過ぎてる。今日は十二時の三時からのお茶会だったのに、一時間半の遅刻だよ!」
 もう! と、云うと、
「ああ、うん。それ云われると、帽子屋のとこに来たなーって感じする」
「うん。ボクもこの台詞を云うと、アリスが来たなーって感じがするよー」
 そんなことを云いながら帽子屋は手桶を足下に置くと、継ぎ接ぎだらけの帽子を脱ぎ、逆さにして振る。と、そこから瓶入りのコーヒー牛乳が幾つか落ちて来た。
 帽子屋は地面に落ちて転がる瓶入りコーヒー牛乳を拾い上げると、その蓋を何処からともなく取り出した蓋開けで外し、アリスに手渡す。
「はいどーぞ。それにしても、有害植物があるなんてよく解ったねー。アリスのことだから、そんなのが植わってるって解ったら面白そうだからって、そのままにしておきそうだって思ってたのに、わざわざチャシャくんに撤去をお願いしてくれたなんて、明日は槍が降るかもしれないね。けど、そんな天気に加担することになっても、今日ばかりはアリスを歓迎するから、遠慮無く何でも云ってね」
「なんだそりゃ。そこは素直に俺を歓迎して感謝すべきじゃねぇのか」
「え、してるよ? 素直に歓迎と感謝」
「なら、引っかかる云い方すんなよ」
「えー、だってさー」
 だって、ねぇ? と、帽子屋。もごもごと何かを云っているのだが、口の中で発せられているその言葉を聞き取ることは出来ない。
「ま、いいや」
 帽子屋に会いに来たのは、有害植物を見つけたからではなく、他の理由があるからなのだ。
 だから気にしないでおいてやろうと、アリスは手にしているコーヒー牛乳を半分だけ飲み干す。
 そして、本題に入る為、
「なあ、此処にシロウサギが来なかったか?」
 と、問うた。
 唐突と云えば唐突で、何の脈絡もないと云えば脈絡のない問いに、
「は? シロウサギ?」
 帽子屋は目をぱちくりさせながら聞き返してしまう。
「え、シロウサギって、あのシロウサギ?」
 『あの』とは、『どの』シロウサギに当たるのかは解らないが、アリスは解るのだろう。こくこくと何度か頷き、
「そ。その、シロウサギ」
 と、答える。
「えッ!? シロウサギが見つかったの?!
 そりゃ大変だと帽子屋は驚いて見せるが、
「あ、でも、何日か前に外界との切り離しが起こったでしょ? それから此処には誰も来てないよ。ほら、お茶会も開いてなかったし」
「そっかぁ」
「あ、でも、これから誰かが来るかも知れないし、その中にシロウサギが居るかもしれない。今回のシロウサギは、どんな感じのひとなの?」
「んー、今回のシロウサギか」
 今回のシロウサギは、と、アリス。
 白兎と名乗った、あの彼の容姿を思い出しながら、
「個性がないのが個性、みたいなヤツだった」
「つまり目立たないヒトなんだね。じゃあ、ウチの國に居たら、逆に目立ちそうだね」
 帽子屋のこの言葉は、ある意味正しい。
 この國に、このセカイに住まう者は、良くも悪くも個性の塊みたいな者しかいない。
 だから、と云うわけではないが、『普通』なんて曖昧な言葉は、全く意味を持たないのだ。
「もし、そのシロウサギが此処に来たら、お城への行き方を教えれば良いんだよね?」
 何時もみたいに、と、帽子屋。
「おう、頼んだぜ」
「それくらいなら、お安いご用さー」
 失礼の無いようにオモテナシもするしと、帽子屋は意気込んでみせ、
「あ。アリス、飲み物のおかわりいかが?」
 何時の間にやら空になっているコーヒー牛乳の瓶を指さす。
「そーうだな。あ、コーヒーゼリーをさー、崩して飲むヤツにしたの、名前解んないんだけど。それ、あるか?」
「あー、あるよ、あるある。流石はアリス、お目が高いねー。それは最近外界の人から教えて貰った新メニューさ!」
「じゃ、それと、何か菓子を適当に頼む」
「おっけー。お菓子は、何系が良い?」
「クリームたっぷり系」
「はいはーい」
 今取って来るから待っていて欲しいと、帽子屋。
 継ぎ接ぎのタキシードの懐からオカモチを取り出すと、テーブルの奥の方、奥の方へと歩いて行き、やがて姿が見えなくなった。
 帽子屋を見送ってから、アリスは薔薇園の入り口へと目をやる。
 そろそろチャシャが自分の元へと戻って来て良い頃合いな気がするが、その気配がない。
 と、云うことは、それだけ手こずっていると云うことだろうか。
 まあ、植物は地に根を張る物だ。その張った根も、それこそ、根こそぎ滅さなければ、どう云うことになるかは明白。
 また、根絶やしにする作業が大変だろうからと、手伝いに行ったところで、足手まといになるだろうことは、解りきっていること。
「なー、ネムリ」
 と、アリスが眠り猫に声を掛けたところ、眠り猫は眠たそうな欠伸を一つして、のっそりと立ち上がり、その場で伸びをしたかと思えば、アリスの膝の上から、ぴょいと降りて、帽子屋が向かった方向とは、別の方向へと歩き出す。
「あら、俺、ネムリにフラれた?」
 寂しいなあと、アリス。
 何となしに周囲を見回し、現在一人であると云うことを確認してしまったところ、全身がゾクリと震えた。
「ヤバ……」
 アリスは、一人で居ることが苦手なのだ。
 どうしてかは解らない。
 ただ、普段は何だかんだと完全に一人で居ると云うことが少ないから、気にしないでいるのだが、こうして一人でいることを認識してしまうと、どうしよもない恐怖に襲われ、酷いと呼吸が出来なくなってしまう。
 このままではマズイと、一度目を閉じて、深呼吸をしようとしたところ、薔薇の茂みが、ガサガサと音を立て始めた。
「何だ?」
 何が現れようが、これはナントカの助けだと、アリスは音を立てている茂みへと目をやり耳を澄ます。
 すると、茂みを掻き分ける音に混じって、二つの全く同じ声が聞こえて来た、
「「アリス、居るかな」」
 と。
 この声には聞き覚えがある。
 やがて姿を現したのは、鏡映しのよう、髪型、顔つき、身に着けている物、怪我をして流血している部分まで、寸分違わず狂わず、左右対称であるが故に、どちらがどちらであるのか判別不可能な、ツンツン頭と三白眼が特徴的な双子の青年。
 だが、一人は大剣を背負い、一人は龍刀を背負っているので、そこで判別することが出来そうである。
「「あ」」
 と、双子青年が声を出し、
「あ」
 と、アリスが声を出したのは、三人が顔を合わせたその時のことである。
「えーと、お前らは武器持ちだからパンチとジュディ……、じゃなくて、ディーとダムの方、か?」
 合ってるよなと云うように、アリスが双子青年に目を向けると、
「「酷いな、アリス。実に千八百七十一昼夜ぶりの再開だと云うのに、あんな連中とぼくたちの区別が未だにつかないなんて」」
 と、返ってきて、
「幾らアリスだからって、云って良いことと悪いことがある」
「これは決闘ものだな」
 と、ここで初めて、双子青年がバラバラに喋り出し、
「ぼくがディーで、」
「ぼくがダムだよ」
 こう名乗ったのだが、名乗られたところでやはり区別が付かない。
 ただ、
「あ、やっぱり、ディーとダムで間違ってはいないんだな」
 と、アリス。
 ディーとダムは、何かと理由を付けては、お互いの正当性を賭け、喧嘩と云う名の『決闘』をしている双子である。その『決闘』の理由によっては、他人を巻き込むこともあるのだが、二人の『決闘』が、決着したことは今まで一度もない。
 因みに、アリスが間違えそうになった『武器持ち』ではない方の双子、パンチとジュディは、ディーとダムと同じく鏡映しにしたような左右対称の双子であり、会う度におやつを巡って喧嘩をしている双子である。まあ、この双子のおやつを巡る喧嘩も、決着がついたためしがないのだが。
「で、俺に何か用か?」
 と、アリスが訊ねたのは、ディーとダムが薔薇の茂みの中に居た際に、アリスを探しているような発言をしていたからで、
「あ、決闘ならお断りだぞ」
 こう釘を刺すのは忘れない。
「「さっきは、ああ云ったけど」」
 ディーとダムの云う『ああ云った』とは、『決闘ものだな』と云った言葉のことだろう。
「きみと決闘しようとすれば、〝アリス〟を惑わし導く者の一族の頭領である彼が、必ず出てくるだろう?」
「しかも、その頭領との勝敗に関係なく、そう云ったことをしたって云う噂が彼の長兄の耳に入ったりしたら、とんでもないことになる」
「ぼくらだって、人災による災害には弱い」
「ぼくらだって、命は惜しいんだよアリス」
 こうした双子の訴えに、
「あ、あー……」
 解る気がすると、アリスが頷いたところで、
「「そもそも、きみの身が掛かっているとなると、あの一族の頭領は役目と役割を忘れて、荒れ狂うからね」」
 わざわざ自ら危険に身を晒す真似はしたくないと、双子。
「「と、云うことで、本題に入ろうと思う」」
「あ、うん。つか、話、長くなりそうなら座ったら、どうだ?」
「「いや、お構いなく」」
 双子は用件を済ませたら行くところがあるので、立ったまま失礼と、付け足してから、
「「今日、アリスに会いに来たのは、お使いを頼まれてね」」
「お使い?」
「「あぁ。マザーの遊郭街を知っているだろう? そこに、ぼくらが馴染みにしている姐さんが居てね、彼女からアリスに渡して欲しいって渡された物を届けに来たんだ」」
 マザーの遊郭街と云うのは、グースと云う名の女性がたった一人で運営管理している、の名の通りの『遊郭街』だ。
 対価さえ払えば、種族・性癖・趣向・性別・年齢・その他諸々、細かいことをいちいち気にすることなく、満足するサービスが受けられると、評判の遊郭街である。そこで働く者は、グースと何らかの契約を結んでおり、その契約が終了するまでは、絶対に娼館街から出られない、らしい。
 だからと云って、遊郭街の外と連絡を取ってはいけないと云う決まりはなく、外と連絡が取りたい場合は、そこで働く者や、懇意の客に使いを頼むのだと云う。
「ん、ちょい待ち、俺は何処に驚けば良い?」
「「驚く箇所が何処かにあったかい?」」
「いや、何カ所かあっただろ?!
「「ぼくらだって、健全な青年男子だからね。遊郭に行くことだってある」」
 そうして通っているうちに、馴染みの姐さんが出来たところで、何もおかしいことはないだろうと云う双子に、
「あ、うん。まあ、うん。そうだな」
 アリスは何もおかしいことはないと頷いて見せたが、この双子それぞれに馴染みの娼妓がいるのか、それとも双子で一人の娼妓を馴染みとしているのかが気になるところである。
 気になると云えば、この双子の性癖も気になる。
 遊郭へ行き、対価を払って娼妓を買い、果たしてどんなプレイをしているのやら、と。
「「アリス、顔がだらしなくなってる」」
「おわ!?
 マジかと、アリスは慌てて、何故か口元を拭った。
「「欲求不満なのかい? アリス」」
「んなことはない。けど、この薔薇園の出入り口にな、催淫効果がある植物が植わっててな」
 出入り口からやって来なかった双子は気付かなかっただろうがと、アリス。
「「ああ、アリスは、このセカイで起こる全ての現象の影響をモロに受けるからね」」
 と云うことは、と、双子は顔を見合わせると、にんまりと笑う。
 双子のこの顔に気付いたアリスは、
「うわ、悪い顔すんな! 余計なこと考えるな! 俺は戦闘能力がなくて、可愛いだけが取り柄なんだからな! とっとと用件を云え」
 さもないとと、双子を脅すように近くにあったチョコレートケーキ1ホールを引き寄せる。
 おそらく、アリスはそれを投げる気でいるのだろう。
 双子は、それを喰らったら一溜まりもないと、
「「姐さんが、これをアリスに、と」」
 ディーとダム、どちらかは解らないが、どちらかが竹で出来た虫籠を取り出してアリスに差し出した。
 虫籠の中には、細長く白い虫が一匹入れられている。
「何で遊郭に居る娼妓が俺にこんなもんを渡せって、お前らに頼んだんだよ?」
 世の中、蛍や、蟋蟀と云った虫なら、観賞用の贈答品として、やりとりされることもある。それこそ、珍しく美しい虫等に到っては、マニアが大枚叩いて買い付けることもあるくらいの価値がある。
 だが、この虫籠の中に居る虫に、そんな価値があるしは思えない。
 もしかしたら、何か価値のある虫の幼虫かも知れないが、それにしたって、と、アリスが云うと、
「「さあ? アリスは有名だからね」」
 こう返した双子の言葉はその通りで、アリスが知らなくともアリスを知る者はセカイ中に、ゴマンと居るのだ。
 否、ありとあらゆるセカイにおいて、アリスの名を知らない者なんぞは殆ど居ないだろう。
 それくらい、アリスは有名なのだ。
「「姐さんは、アリスのファンなんじゃないかな」」
「っても、虫なんか貰ったって困るぞ」
 ただ、双子の云う通り、好意の証しとして送られたのなら、その気持ちを無下にすることは出来ないので、その気持ちだけ受け取って逃がしてやるのが、アリスにとっても、かごの中の虫にとっても一番に違いない。
「……つーか、今は正直、虫なんて見たくない」
 と、アリスがぼやいたのは、森の中で出会ってしまった三月の発言の所為である。
「なあ、ディー、ダム。お前ら籠開けて、これ逃がしてやれよ」
 アリスがこう云うと、ディーとダム、どちらかが虫籠をテーブルの上に置き、その蓋を開けた。
「「このまま放置しておけば、そのうち外に出て行くだろうさ。ぼく達はアリスにお届け物を無事に届けたと、姐さんのところに知らせに行って来るよ」」
 また千八百七十一昼夜後にと、双子は丁寧なお辞儀をして、来た道を戻って行く。
 あの双子が、薔薇園の出入り口に向かわず、わざわざ来た道を戻って行ったのは、本能的にチャシャを回避しているのだろうか、なんてことを思いつつ、
「気をつけてなぁ」
 アリスは、ひらひら手を振りながら、双子を見送った。
 そのタイミングで、
「おぉーい、アリスー」
 飲み物とお菓子を持ってきたよと、帽子屋が戻って来るのが見えた。
「あ、帽子屋じゃん。おかえりー」
 遅かったなあと、アリス。
「やー、お菓子の安全性を確かめるのに手間取っちゃってさー」
 参った参ったと、お待たせしてごめんねと云いながらアリスの元までやって来る直前、帽子屋が何かに躓いて、コケた。
「あ」
 と、先ず声を出したのはコケた帽子屋だ。
 帽子屋はそのまま地面に転がり、
「あ」
 と、続いて漏らしたアリスが視線を向けたその先には、帽子屋が持っていたはずのオカモチが、宙で綺麗な弧を描きながら舞っていた。
 そうして弧を描いていたオカモチの蓋がゆっくりと開いて、中に入っていたお菓子と、飲み物が、座っていたアリスの直ぐ側に落下すれば、
「ぎゃーっ!?
 と、アリスは叫び声を上げる。
 落下してきた物の犠牲になったのは、エプロンドレスの一部と、ディーとダムが置いていった虫籠である。
 が、それを見て、
「ぎゃーっ!?
 と、再びアリスが悲鳴を上げたのは、虫籠があった場所からそれが消え、代わりにとでも云うかのよう、大きさ30cm程の人形が、うつぶせで落ちていたからだ。しかも、落下してきた生クリーム系の菓子と抹茶系の飲み物をモロに被ってしまったらしく、なかなかにグロテスクな様相となっている。
「うっわ……」
 怖ッ、と、アリスが呟く。
 そんなアリスの呟きに混じり、
「ぐぇ」
 と、何かが潰れた音がしたが、それは宙を舞っていたオカモチが、コケていた帽子屋の上に落下し、トドメを刺した物のようだ。
 と、まあ、それで済めば良かったのだが、このトドメの声に反応したかのよう、30cm大の人形が、ずりずりと這うようにして動き始めたものだから、
「え、ちょ、なに? これなに?! なになになに?! なんなんだ?!
 これはと、アリスがパニック状態で喚き出せば、
「アリス?」
 どうかしましたか? と、チャシャがアリスの直ぐ傍らに姿を現す。
 また、チャシャの真似をしたわけではないだろうが、眠り猫もひょっこりと姿を現したので、
「あれ! あれ!!
 あれをどうにかしてくれと、アリスは人形を指さした。
 すると、合点承知と云わんばかりに眠り猫が人形の首元を咥え、猛ダッシュで走り出す。
 その際、ちらりと見えた人形の顔は、白兎に似ており、
「あ、ネムリ!!
 ちょっと待ってと、急いで声を掛けたものの、眠り猫はアリスが厭がる物を遠ざけてやろうと、四本の短い足をテーブルの上で一生懸命に動かし、遠くへ遠くへと走って行ってしまう。
「アリス」
 どうしますか? と、チャシャがアリスに声を掛けたのは、あの人形の顔に気が付いていたからだろう。
「と、とりあえず、ネムリを追っかけて、人形っぽかったアレが何なのか確かめろ!」
 俺も行くけど、と、アリス。
「御意」
 では、お先に、と、チャシャは眠り猫を追いかける為にとテーブルに上がり、音を立てずに走り出す。
 ただ、どう云う仕掛けがあるのやら、テーブルの上に処狭しと並べられた菓子や食器類が、その足の犠牲になることはなく。
「えっと」
 チャシャとネムリを追いかける前にと、アリスは倒れたままの帽子屋にちらりと視線を向け、
「帽子屋、生きてるか?」
 と、帽子屋に声を掛けてみた。
 だが、返事はなく、
「帽子屋の屍を超えて行かなきゃか」
 色々とカタがついたら、墓を建ててやるから、それまでは化けて出ないでくれと、アリスは合掌してから立ち上がり、
「あー、これが終わったら一旦帰って、また風呂はいろーっと」
 ぱたぱたとテーブルの上を駈け出そうとした、その時、
「ん?」
 けふと、咳が出て来たので口元を覆った。
 それから、だんだんと咳が酷くなり、それはなかなか止まらず、やっと止まった時には、眠り猫の姿も、チャシャの姿も全く見えなくなっていた。
「喋りすぎたかな」
 その所為で喉が渇いて、あんなに咳が出てしまったのかも知れないと、なんとなしに口元を覆っていた手を見たところ、ぽつぽつと赤いものが見えた。
 それに心当たりがあるらしいアリスは、
「あー……」
 参ったなと呟いて、赤い斑点のついた手をスカートの裾で拭い、溜息を吐き出した。
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登場人物紹介

アリス〈AЯICE〉

現世に那由他の数程存在するであろう〝不思議の國〟の〝アリス〟。

腰まで伸ばした黒髪のてっぺんに黒色のリボンを結んだ、可愛らしい少女のような見た目をしている少年。

ただし、可愛いのは見た目だけで言動は年頃の少年のそれである。

雪のように白い肌を〝アリス〟の制服である黒いエプロンドレスで包んでいる。

チャシャ

〝アリス〟を惑わし導く者としての役割を担う〝チェシャ〟一族の長。 

『チャシャ』と名乗っているのは、当代の〝アリス〟にそう呼ばれているから。

 無表情で抑揚の無い声で喋る。

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