文字数 33,684文字



 僕は、ある国の王宮で生まれて育った。
 ビクセン王国といって、荒地と岩山しかない国だった。面積は大きかったけれど、まわりをいろいろややこしい国々に囲まれていて、戦争とか領土紛争とか、面倒くさいことも多かった。そしてこの国は、フィーンディアという若い女王が治めていた。
 でもフィーンディアって、変な名前だよね。フィーンドというのは悪魔という意味だから、フィーンディアだと文字通り『悪魔のような女』ということだもんね。僕だけは省略してフィンと呼んでいたけれど、他の人がそう呼ぶところはみたことがなかった。
 実はこの国では、この名で呼ばれる女王は、彼女が初めてじゃなかった。ものすごく古い話だけど、二千年前にも一人いたんだ。
 そんな大昔のことだから、本当にいたのかどうなのか、確かめようもなかったのだけどね。とにかくその時代には、この国はとても栄えていたらしい。面積も今の二倍以上あったらしいしね。でも、女王が国民から愛されていたわけではなかった。戦争をさせれば右に出るものはおらず、思慮深く計算高く、だけど冷酷で、国民たちからはひどく恐れられて、黒王妃とあだ名されていた。そういう女王だったのだけど、あるとき幼い息子をなくした悲しみで精神の平衡を失い、そのまま歴史の舞台から姿を消したということぐらいは、歴史に興味のない僕でも知っていた。
 僕のフィーンディアはそんな女王にちなんで名づけられていたわけだけど、黒王妃にはぜんぜん似ていなかった。もちろん僕は、二人の顔が似ていないといっているのじゃなくて、フィーンディアには黒王妃みたいな邪悪なムードは全然なかったという意味だよ。フィーンディアは陽気で穏やかで、国民の間でも人気があった。国をかじとりするにはまだ少し若かったかもしれないけれど、この時代のビクセンもそれなりに繁栄していたからね。
 本当の話、フィーンディアが女王に即位したのは十三歳のときだった。母親のゾディアが突然病死したからね。僕も、戴冠式のときのフィーンディアの美しいドレス姿はとてもよく覚えている。
 僕は、フィーンディアの同い年の従兄弟だった。フィーンディアのことを姉妹のように感じていたと思う。フィーンディアも同じようで、とても親切にしてくれた。どちらも両親はもう死んでいて、それどころか、僕とフィーンディアがこの国の王族の最後の二人だったんだ。ビクセン王室では一時期、なぜか死産や早死にがあいついだことがあったからね。
 王宮は首都を見下ろす丘の上にあって、七階が王族の住まいになっていて、東半分を僕が、西半分をフィーンディアが使っていた。王宮にはそのほか、女官や侍女、官吏や警備兵などが、住み込むか交代で泊り込むかしていたから、つねに四十人ぐらいは人がいたと思う。王宮の六階から下は王国政府や軍のオフィスになっていたから、昼間の人口はその何倍にもなった。
 それで、僕が今から話そうとしているこの物語なのだけど、僕は本当に若くてというか、ほんの子供で、まだ学校だって卒業してはいなかった。フィーンディアには専属の家庭教師が数人いたけど、僕は普通の子供と同じように学校に通っていた。
 ビクセンは赤道に近い国ではなかったけれど、それでもあの日はとても暑かった。僕が通っていたビーカー学園は首都の中心部にあって、校舎の窓はすべて開け放してあったけれど、生徒たちはみんな暑さでうんざりしていたと思う。
 大きな教室で、生徒は六十人以上入っていた。みんなイスに座っているが、床は階段状になっていて、後ろへ行くにしたがって高くなる。前には黒板があり、教師が立っている。ビクセンの伝統にのっとって、この校舎も石灰岩で作られていたけれど、分厚い石の壁でも、この日の暑さを防ぐことはもちろんできなかった。窓から夏の午後の太陽が差し込んで、教室の床にくっきりした影を落としていた。
 もちろん僕も、暑さでうんざりしていた。数学の授業中だったけど、教科書もノートも微分も積分も何もかも放り出して、どこでもいいから水の中に飛び込んでしまいたくなった。僕はノートにいたずら書きをしながら、水の匂いをなつかしく思い出していた。そんなの、最後にかいだのはいつだったろうという気がした。
 僕は窓の外を眺めた。王宮の中庭にある池のことを思い出した。中に飛び込まないまでも、そのへりに立てばとても気分がいいに違いない。太陽の光が水面にきらきら反射して、その下を銀色の背びれをした魚たちが泳いでいて、水の中に指先を突っ込むと、エサをくれるのだと勘違いして、やわらかい口を押しつけてくる。くすぐったくてたまらない。そうだ。王宮へ帰ったら、すぐにあの魚たちを見にいこう。
「クスクス殿下、きいていらっしゃるのですか?」教室の中に、突然大きな声がした。
 僕は、びくっとして前を向いた。教師とどんぴしゃりで目が合った。
 やせた中年の教師で、僕はぜんぜん好きじゃなかった。いつもえこひいきしてもらっている数人を除いては、生徒の全員が嫌っていたと思う。いつも安っぽい香水の匂いをさせていて、混雑した廊下ですれ違ってもすぐにわかった。授業中に生徒に質問をして、その生徒が答えられないとわかる瞬間に意地悪そうに笑う以外は、まったく表情のない男だったから、「あいつの正体はきっと吸血鬼で、実は何百年も前に死んでいて、それでも生にしがみついてこの世をさまよっているのだけど、身体から発する死の匂いを隠すためにいつも香水を使っているんだ」と生徒たちは噂していた。あだ名はもちろん『犬歯伯爵』
「窓の外に何か見えますか?」
 黒板の前で、犬歯伯爵が僕を見て、にやりと笑っていた。
 あの顔でにやりと笑われて、背筋がぞっとしないやつなんかいないと思うよ。納骨堂にたまった数百年分のホコリとカビと、乾ききった皮膚と骨の匂いを連想させる笑いなんだから。
「いえ、別に」僕は首をすくめたに違いない。ほかの生徒たちがけらけら笑った。いたずら書きを隠すために、僕はノートのページをそっとめくった。
「ではここへきて、この計算問題を解いていただけますか?」
 そういわれると、僕は立ち上がるしかなかった。机と机の間を抜けて、教室の前へ出ていった。黒板には、長ったらしい微積分の練習問題が書き出されている。
 それで、結果はどうだったのかって? 僕はちゃんと問題を解くことができたのかって?
 そんな失礼なこと、あからさまに質問するもんじゃないよ。


 数日後、王宮の七階でのこと。朝早くだったけれど、フィーンディアが僕の部屋へやってきていた。
 フィーンディアは、いつものように真っ黒な軍服を着ていた。なんたってビクセンは軍事国家だったからね、女王は軍の総司令官もかねていた。フィーンディアはすらりと背筋が伸びていて、とても姿勢がいい。短いつばのある帽子がよく似合っている。ビクセン軍の階級に詳しい人が見れば、フィーンディアが大将よりも上の位であるとすぐにわかるだろうね。フィーンディアは、ドレスのような女らしい姿よりは、こういう服装のほうが普通だった。制帽の正面にそっと添えられている水色の短い線が、この人が王族であることを示していた。
「クスクス、新聞にこんな記事が出ていますよ」とフィーンディアは言った。
 僕はまだベッドの中にいた。目を覚ましたばかりだった。フィーンディアは軽くノックをして入ってきて、ベッドのそばに立ったんだ。手に新聞を持っている。
 僕は起き上がって、新聞を受け取って眺めた。見出しが目についた。どうでもいいけど、見たこともないぐらい大きな活字を使っていた。他に載せる記事のない日照りのような日だったのかもしれないね。だから、最高にくだらない記事に大きな活字を使って、少しでもスペースをかせぐ。


  卒業試験合格は疑問。クスクス殿下は落第か?

 情報筋によると、ビーカー学園で本日行われる卒業試験において、クスクス殿下が合格点を取るのは非常に難しいとのこと。特に数学がおできにならないので、それが原因で落第することになるのではないかとの観測が流れている。そうなれば、女王陛下がお悲しみになるのはもちろんのこと、わが国の教育制度や教育水準が諸外国から疑問の目を持って眺められるにいたるのは避けがたく…


 僕はフィーンディアを見上げた。僕は、相当不満そうな顔をしていただろうと思う。
「あなたが落第しそうだから、みんな心配しているのですよ」とフィーンディアは言ったけれど、かすかに微笑んでもいた。
「おもしろがっているようにしか見えないけど」僕は新聞をフィーンディアに返した。フィーンディアは受け取って、かさかさと音を立てながらたたんだ。
「朝食にしましょう」フィーンディアが言った。
「うん」僕はベッドからはいだした。
 実をいうと僕も、自分は落第するかもしれないとは思っていた。でも、あまり気にはしていなかったんだ。学校を落第するなんて珍しいことじゃないし、両親ももう死んでいたから、ガミガミ言われる心配もなかった。フィーンディアだってそんなこと、気にしないに違いないし。それに白状すると、女王の従兄弟を落第させるなんてかなり勇気のいることだろうから、あそこの教師たちにそれだけの気概があるか、お手並み拝見という気分でもいたんだ。
 でもそれを、この記事がいっぺんにぶち壊してしまった。僕は突然、落第することがものすごく恥ずかしく思えてきた。数日後、予想通り僕が落第したという記事が、またまた新聞に大きく掲載されてしまうんじゃないかという気がした。
 だから僕は、フィーンディアの手前少し恥ずかしかったのだけど、朝食の席に数学の教科書を持ち込んだ。もちろんフィーンディアはすぐに気がついたけれど、何も言わなかった。
 あの朝なにを食べたかなんて、僕はぜんぜん思い出せない。僕はフィーンディアの顔を見もせずに、微分方程式のとき方を暗記しようとしていた。
 朝食をすませると、フィーンディアはすぐに、オフィスへ仕事をしに行ってしまった。僕は自動車に乗せられて、学校へ連れていかれた。
 あとから聞いた話だけど、あの後しばらくの間、僕は近衛兵たちの笑いものになっていたらしい。なぜって、自動車が走っている間も僕は一度も顔を上げずに、眉にしわを寄せてページをにらんでいたらしいから。学校について自動車から降りて、近衛兵たちに囲まれながら教室へ歩いていく間だって、ずっと教科書に顔をうずめていたらしいから。でも僕は、何も覚えてない。
 その後のことで僕が覚えているのは、試験がすんで王宮へ帰ってきたときのことだ。中庭で自動車を降りて、建物の入口を入ってすぐのところで、僕はスタウに出会った。スタウがあとで言っていたことだけど、あのときの僕の足取りはとても重くとぼとぼとしていて、カバンだって手からすべり落ちてしまいそうだったので、ほっておけなくて話しかけたのだそうだ。
 スタウは、がっしりした身体つきの軍人だ。フィーンディアの直属の部下で、階級は大佐だった。年齢や経歴から言って、とっくに少将になっていていいはずだったけど、本人が辞退し続けていたので、のびのびになっていた。少将は師団を指揮するという不文律がビクセン国軍にはあって、そうなるとスタウも王宮を離れて、どこかの師団の長におさまることになる。でも、「私はフィーンディアさまのおそばを離れたくない」とスタウは言い張っていて、それでもう何年も大佐のままだったが、本人は気にしていないようだった。スタウもフィーンディアと同じデザインの軍服を着ていたけれど、胸の厚さも肩幅もぜんぜん違う。腰につっている銃だって、フィーンディアのようなスマートなリボルバーではなくて、あんまり銃身が太くて長いから、僕の目には機関銃の親戚のように見えた。
「試験はいかがでした?」そのスタウが、王宮の建物を入ってすぐのところで僕に話しかけてきたんだ。
 僕は立ち止まって、振り返ってため息をついた。どんな言葉も出てこなかった。
「おできにならなかったのですか?」スタウは目を丸くしているようだったけど、そんなに驚いているようでもないのが、ちょっとしゃくに触った。
 だから僕は腹が立って、そのまま無視して歩いていってやろうかと思ったのだけど、スタウがこういったので、また振り返った。
「フィーンディアさまは、さきほどビーカー学園へお出かけになりました」
 僕には意味がわからなかった。「何をしに?」
 スタウは、ゆっくりと首を横に振った。「さあ、私にもわかりません」
 スタウと別れて、僕は七階の自分の部屋へ行った。カバンは机の上に放り出してしまって、もう手を触れる気もしなかった。そのまま机の前に座ってぐずぐず考えごとをしていたのだけど、一時間ぐらいして、とうとうフィーンディアが帰ってきた。すぐに僕の部屋へやってきた。
 フィーンディアの表情からは、何も読み取ることができなかった。いつものように落ち着いたフィーンディアだ。どこか茶目っ気があるが、でもフィーンディアが何を考えているのか、僕には見当もつかなかった。
「何をしに学校へ行ったの?」立ち上がって、僕は話しかけた。
「校長と少し話をしてきました」フィーンディアは答えた。いつもと同じように穏やかでやさしい表情だ。
「話?」僕は、ちょっと不安になってきた。きっと校長とフィーンディアは、僕のみじめな成績のこと話し合ったのだろうから。僕の答案用紙を眺めて、大きな声でさんざん笑ったのかもしれない。
 フィーンディアは僕の手を引いてそばの長イスに座らせ、自分も同じように腰かけた。フィーンディアは僕のひざに、軽く手を置いた。「校長は、あなたが卒業してくれることをあなた以上に望んでいましたよ」
 それは、僕にはとても意外に聞こえた。教師たちって、子供を学問や試験問題にしばりつけて、締め上げたりいじめたりするのが好きなんだと僕は思っていたから。だから教師たちは、生徒が悪い成績を取ると、とてもうれしそうに舌なめずりをするじゃないか。
「どうして?」
 僕にはフィーンディアが言っている意味がわからなかったから、こんなセリフしか出てこなかった。フィーンディアがにっこりした。
「点数は少し足りませんが、校長は目をつぶってくれるそうです」
「えっ?」僕は、よけいに意味がわからなくなった。どうひいき目に見たって、僕の答案は点数が取れるようなものじゃない。白紙とは言わないけど。
 フィーンディアはもう一度微笑んだ。「あなたは合格したのですよ。おめでとう。今夜はお祝いをしましょう」
 僕にはやっぱり理解できなかった。僕の成績が悪いのを見逃してくれるって? あの怒ったアナグマみたいな顔をした女校長がよく承知してくれたもんだと思ったけれど、本当の意味には気がつかなかった。それを知ったのは、もっと後のことだった。


 卒業式が近づいた。資格を満たしてもいないのに卒業させてもらえるという点については、僕はひどく罪悪感を感じていたのだけど、落第する勇気もなかった。だからそのまま、ずるずると卒業式の日が来てしまった。
 だけど、いい加減な人間だと自分でも思うのだけど、卒業式が本当に近づいてくると、僕はそんな罪悪感なんか忘れてしまった。とりあえず一仕事すんだんだというほっとした感じだけがあって、自分の学力の不足については、しばらく忘れることにしたんだ。それに別の理由で、僕はそわそわするようになったしね。
 卒業式そのものは、どうということはなかった。僕のそわそわの原因になったのは、卒業式の後に開かれるダンスパーティーのほうだった。
 ビーカー学園は男子生徒だけがいる学校だったのだけど、卒業式の夜、卒業生たちは、近くの女子校で開かれるダンスパーティーに招待されることになっていた。この女子校はコルク学園といったのだけど、パーティーの夜には、女子生徒たちはドレスで着飾って、ビーカー学園の卒業生たちを迎えた。ここ何十年も伝統のようになっていた。だからもちろん、僕もそこへ招待されるわけだった。
 卒業式の日が来て、卒業式がすんで、夕方になった。僕もほかの卒業生たちと一緒に、ダンス会場へやってきていた。コルク学園の中にある大きなホールだ。僕もちょっとはおめかしをしていた。
 だけど正直に言うと、どんな服を着て行けばいいのか、僕は何日も前から悩んでいた。いろんな人のアドバイスも受けたのだけど、とうとう面倒くさくなって、ふだんフィーンディアにくっついて儀式に出るときに着るいつもの服をそのまま着ていくことにした。僕はまだ公的な役職にはついていなかったのだけど、船の進水式とか新しい橋の開通式とか、毎年の新年の儀式とかにフィーンディアにくっついて出席することは多かった。そういうときに着る服を、僕は何着か与えられていたんだ。
「服なんか、もうどうでもいいよ」卒業式の数日前、王宮の廊下で、僕はハニフにむかって言った。「考えるのもいやになった」
 ハニフは王宮の執事だった。もうかなりの年のじいさんで、フィーンディアの母親が若かったころから王宮で働いていた。やせて背が高くて、ワシのようにとがった鼻をしている。髪は白くて、頭のてっぺんのあたりは丸くはげている。
「それはそれでよろしいでしょう」とハニフは答えた。「かえってクスクスさまらしいかもしれません」
 どういうのが僕らしいのか、僕にはぜんぜんわからなかったのだけど、とにかくいつもの服を着て、僕はパーティー会場に来ていた。だけど、これは意外にうまい手だったみたいで、会場に来ている連中が、みんなちらちら僕のほうを見て、小声で何かをささやきあっているような気がした。ささやきあうといっても、もちろん眉をひそめてじゃない。まあ、ハンサムかそうではないかは別にしても、僕はこの服を着てフィーンディアと一緒に写真にとられ、その写真が新聞に掲載されることがときどきあったから、みんなこの服には見覚えがあったのだと思う。
 ところで、ダンス会場へやってきてからというもの、僕はバカみたいにまわりをキョロキョロしていた。どっちを向いても、着飾ったきれいな娘たちが目についた。ピンク、淡いブルー、若草色。そういうさまざまな色のドレスで、僕はもう目がくらんでしまいそうだった。みんないわゆる名家のお嬢さん方だったのだけど、髪を上げて髪飾りをつけて、絹の白い手袋をしていた。優雅に歩を進めるたびに、長いドレスのすそからぴかぴかの靴のつま先が顔を出し、かかとは高からず低からず、ときどき扇子を持っている娘もいて、僕はもうぼうっとしてしまっていたので、そばへ行ってそれであおいでもらいたいぐらいだった。
 僕は、フィーンディアのことなんか完全に忘れてしまっていたと思う。フィーンディアは美人だから、ここにいたどの娘にも負けなかったと思うけれど、正直に言うと、僕はもう思い出しもしなかった。たしかにパーティー会場の壁際には、僕をエスコートしてきた近衛兵たちが控え筒の姿勢をしたままで何メートルおきに並んでいたから、それを見るたびに『フィーンディア』という単語が頭の中でちかちかしたことは認めるけれど、それ以上のことではなかったんだ。
 時間になって、楽団が演奏を始めた。十数人編成の本式の楽団が待機していたんだね。僕はホールのすみっこでもじもじしていたのだけど、やっぱり王族であるおかげだろうけど、数人の娘たちがすぐに僕を目指して歩いてきて、ダンスに誘おうとした。
 僕はもううれしくて、死んでしまいそうだった。王族に生まれてよかったとこれほど思ったことはなかった。三人の娘たちが同時に僕を誘おうとしていた。ワインのような赤、山吹のような黄色、海のような青のドレスを着た娘たちだったけれど、僕の前に来て、三人同時に会釈をして、競って僕の手を取ろうとした。
 ところがそこへどういうわけか、とつぜん横から別の娘が現れた。明るい灰色のドレスを着ていたけれど、同じ色のベールをかぶっているから顔は見えなかった。金色の髪をカールさせて、ガラスかルビーか知らないけど、青い大きな宝石のついた銀のティアラを飾っている。そういう愛らしい姿だったのだけど、でもこの娘はひどく強引で、三人の娘たちの手を押しのけるようにして、僕の手を横から奪い取ってしまった。だから僕は気がついたら、その娘に手を引かれてホールの中央へ出ていくところだったんだ。振り返ってみる余裕はなかったけれど、あの三人はものすごい顔でにらみつけていただろうと思う。なぜって、僕を連れ去りながら灰色の娘がちらりと振り返って、小さな声で「失礼」と言うのが聞こえたから。
 僕は、そのほかのいろいろなものと一緒で、ダンスもへたくそだった。自信なんか全然なかった。だから今夜だって、お嬢さん方を眺めるだけで、踊る気ははじめからなかったんだよ。でもこうやって灰色の娘に引っ張られて、気がついたらホールの中央にいたんだ。
 灰色の娘は、ダンスはとてもじょうずだった。僕に合わせて、ゆっくり踊ってくれた。もちろん音楽は決まった速さで演奏されているのだけど、僕がついていけなくなりかけるとすぐに気づいて、一拍か二拍飛ばして、待っていてくれた。そしてすぐにリズムに追いついて、また僕をリードしはじめる。
 ベールのおかげで顔は見えないのだけど、「これはいったい誰なんだろう」と僕は思いはじめていた。このダンスの上手さはただ者ではないのかもしれない。それに彼女は、我慢して僕に合わせているのではなくて、彼女自身も本当に楽しんで踊っている感じだったから。
 あっという間に一曲終わってしまった。ついさっき踊りはじめたばかりなのに、という気がした。僕も本当に楽しんでいたのだと思う。
 数分間の休憩があった。さっきの三人の娘たちが僕に近寄ってこようとするのをすぐに察知したのだろうけど、灰色の娘はまた僕の手を取り、ホールを横切って反対側へ歩いていきはじめた。意味はわからなかったのだけど、僕はされるままついていった。
 ホールは着飾った人々であふれている。飲み物を運ぶメイドたちもいる。ところどころ、飲み物や食べ物を乗せるテーブルも出ている。そういうのをよけながら、灰色の娘は僕を引っ張っていった。いくらも行かないうちに、あの娘たちをまいてしまったようだった。
 気がついたら、僕はホールの出口近くにいた。すぐそこに、外へ通じるドアがある。目隠しのために、ドアとホールのあいだは大きな観葉樹を置いて仕切ってある。ここにももちろん近衛兵がいるけれど、彼らは黙って立っているのが仕事だ。
 娘が手を離したので、僕は立ち止まった。娘が振り返る。彼女が、近衛兵からは見えない観葉樹の死角に立ったことに、僕はなんとなく気がついた。娘は息をととのえながら、僕を眺めている様子だった。
 僕は、娘がベールに手を伸ばすのに気がついた。絹の手袋をした指先で、そっとはしをつまんだ。娘は、ベールをほんの少し持ち上げて顔を見せた。
「あっ」僕は、思わず大きな声を出してしまった。灰色のドレスを着たフィーンディアが、にっこりしていた。
「なんで?」
 僕はよっぽどおかしな顔をしていたのかもしれない。フィーンディアがくすっと笑った。
 そこへ、さっきの娘の一人が現れた。海のような青いドレスの娘だ。僕を探して追いかけてきたらしい。フィーンディアはすぐにベールをもとに戻した。
「クスクス殿下、私と踊っていただ…」
 青い娘はそう言いかけたけれど、セリフは途中で消えてしまった。フィーンディアが顔を近づけて、ベール越しにそっと僕のほおにキスをしたから。
 青い娘はひどく驚いた様子で、急いでまわりを見回した。助けを求めるために、一番近い場所にいた近衛兵に向かって駆け出すのが見えた。
 それにはフィーンディアも同時に気がついたらしい。「ゆっくり楽しんできなさい。私は駐車場で待っています」と小声で僕にささやいて、さっときびすを返していってしまった。近衛兵をつれて青いドレスの娘が戻ってきたときには、もうフィーンディアは背中を見せていた。
「クスクスさま?」近衛兵が話しかけてきた。
 だから僕は振り返ったのだけど、よく顔を知っている近衛兵だった。
「あれを知ってたの?」僕は、フィーンディアの後ろ姿を指さした。
「何がです?」近衛兵は不思議そうな顔をした。
「ううん」
 僕は首を横に振った。僕は納得していた。フィーンディアは、近衛兵たちにも知らせずにここへきていたんだ。
 僕はホールの中を歩き回って、三人の娘たちに一人ずつおわびを言い、まだ帰るには早い時間だったのだけど、ホールを出て中庭へ急いだ。
 コルク学園の中庭は、この日は臨時の駐車場になっていた。大型の自家用車が何十台も止まっていたけれど、その中には近衛兵たちが乗ってきたトラックも数台混じっていた。乗用車に比べたらふたまわりぐらい大きなトラックだったけれど、フィーンディアが自家用車代わりに使っているハーフトラックに比べれば、きゃしゃでかわいらしかった。そのハーフトラックが駐車場のすみ、夏の日に日影を作るためにあるのだろうけど、藤棚の下に隠れるように停車しているのが見えた。
 僕はハーフトラックに近寄った。車体の前半分はトラックと同じようだけれど、後ろ半分は装甲車のように四角くて、後部には観音開きの大きなドアがある。機関銃の弾丸ぐらいならはね返してしまう頑丈な車体だ。僕はそれを見上げて、なぜだかため息をついた。そのドアを、げんこつでどんどんたたいた。すぐに女の兵士が、内側から開けてくれた。
 ハーフトラックの車内はとても広い。文字通りの四角い箱のような車内だ。キャタピラのせいで床はとても高いけれど、天井も高いから、立って歩くことができる。フィーンディアはすみっこのベンチに腰かけて、僕を眺めていた。
 フィーンディアはもう軍服に着替えていた。そばでは、侍女がドレスのあとかたづけをしている。そのむこうには、機関銃座と運転台が見えている。わきには無線機が控えている。フィーンディアに手を引いてもらって僕が乗り込むと、運転手がエンジンをかけた。戦車に使われているのと同じ型の巨大なエンジンが、排気管から真っ黒な煙を噴き上げた。



 目を覚まして、僕はすぐに気がついたのだけど、もう朝になっていて、窓のカーテンの透き間から太陽の光が派手に差し込んでいた。ビクセン王宮は丘の上にあって、日当たりだけはとてもよかった。夏は南から暑い風が吹いて、冬には北にある山から強い風が吹き降ろして、とても寒いのだけど。
 時計を見るとまだ起きるには早かったので、僕はベッドの中でじっとしていることにした。起き出して学校へ行かなくてもいいというのが、とてもうれしかった。もちろんだからって、もう勉強しなくていいというわけではなかった。学校へ行く必要はないというだけのことで、王宮内で家庭教師をつけられることになっていた。それでも僕にとっては、学校へ行かされることよりもよっぽど気楽だったんだ。
 かすかな音がして、誰かが外からドアをそっと開いたことに僕は気がついた。僕がもう目を覚ましているか、さぐっているようだ。でも僕は知らん顔をしていた。こういうところって、僕は結構いじわるなんだよ。
 軽い足音が聞こえて、その誰かが部屋の中に入ってきた。寝たふりをしたまま目のすみっこでちらりと見たら、女官のひとりだった。マーガという名前で、女官の中では一番年上で、特にガミガミ口やかましいわけではないのだけど、他の女官や侍女たちや、官吏や軍人たちの間では恐れられていた。思ったことをずけずけ言うタイプで、フィーンディアのことは少女のころから面倒を見ていた。今では王宮で最も古株で、王宮内での習慣やしきたりについて何か疑問が起こると、結局みんなマーガの意見を聞きにいくことになった。
「クスクスさま、お目覚めでしょうか」ベッドのそばに軽くかがんで、そのマーガが言った。
「どうしたの?」僕は目を開いた。いま目が覚めたばかりだというふりをした。
「フィーンディアさまがお呼びです。すぐに会議室へおこしになるようにと。ロシュケンのことのようです」
 あくびをしながら僕がベッドの上に身体を起こすと、マーガは黙って部屋を出ていった。ロシュケンというのは、隣国の一つだった。ビクセンとは仲が悪くて、いつもケンカをしていた。何度か戦争もした。これまでのところは、なんとかビクセンは負けずにいた。でもそれだって、いつまでもつかわかったものではなかった。
 僕はすぐに着替えて、階段を下りていった。王宮の六階から下は、軍と王国政府のオフィスになっていた。僕は、五階にある会議室へ行った。
 ここは広い部屋で、真ん中に楕円形の大きなテーブルがある。そのまわりに、イスが三十脚ぐらい並べてある。戦争のときには、このテーブルの上には大きな地図が何枚も並べられるのだけど、このときはまだ一枚もなかった。
 軍人たちが二十人ぐらい集まっていた。みんな軍服を着て、ざわざわ話をしている。僕が入ってくると、軍人たちはそれぞれ軽く会釈をして迎えてくれた。全員がそうしたと思うけれど、ざわざわしたおしゃべりはやまなかった。自分でもよくわかっていたのだけど、僕は重要人物とはみなされていないようだった。あまり気にもならなかったけれど。
 僕も軍人たちの間に混じって、イスに腰かけた。軍人たちは、まだ私語を続けている。でもそこへとうとうフィーンディアが入ってくると、ぴたりと静かになった。
「それでどうなのです?」僕のほうへ向かって歩いてきながら、フィーンディアが言った。フィーンディアは僕の隣に座った。あちこちで咳払いが聞こえて、軍人たちはイスの上で座りなおして、背筋を伸ばした。その中にはスタウもいた。
「状況はよくありません」スタウが言った。「ロシュケンが例の新型戦車の本格的な量産に入ったという知らせが入りました」
 ロシュケンは工業力が優れた国だった。戦車や飛行機も、いつもとても性能のよいものを作った。ただ、国土の面積や人口はビクセンのほうが上回っていたから、性能のよくないビクセンの兵器でも、多勢に無勢というやつで、これまではなんとかロシュケンからの攻撃をはね返すことができていた。
「一枚だけですが、写真も手に入りました」
 スタウは立ち上がって、その写真をフィーンディアに手渡した。フィーンディアが手に取ると、僕も首を伸ばしてのぞきこんだ。この時代のことだから白黒写真だけど、大きく引き伸ばしてある。砂漠のどこかの風景を、離れたところから望遠レンズを使って隠し撮りしたもののようだ。粒子が粗くて不鮮明で、ピントもきちんとあってはいないけれど、戦車が写っている。車体の後部から排気ガスを出し、キャタピラで砂ぼこりを立てながら走っている。一台や二台ではなくて、少なくとも二十台はいる。望遠レンズで撮った写真だから風景が小さく切り取られていて、全体を見回せばその何倍もいるのだろう。車体も砲塔もクサビのようにとがっていて、とてもスマートな戦車だ。墓石のように四角いビクセンの戦車とはぜんぜん違う。
 いろいろなところから得た情報で、この戦車とビクセン戦車の間には、かなりの性能差があるだろうと思われていた。ビクセン戦車の薄い装甲板を、この戦車の砲なら簡単に破ることができるだろう。逆に、ビクセン戦車が撃った砲弾では、この戦車を破壊することはできないだろう。きっと砲弾は、装甲板にするりとはじかれるだろう。もちろん、ビクセン戦車の砲を増強したり、装甲板を分厚くしたりすればいいようなものだけれど、エンジンの馬力の関係で、これ以上車重を増やすことはできなかった。ビクセンでも新型戦車の研究が始まっていたけれど、完成はまだ先になるという話だった。
 結局この日の会議は、何の成果もないままで終わってしまった。我々も新型戦車の開発を急ぐということが決まっただけで、それ以外は何もなかった。だけど数日後、フィーンディアが僕を自分の執務室に呼んだ。フィーンディアの執務室は、王宮の六階にあった。
 ところで、学校を卒業してしまうと、僕にはすることがなくなってしまった。ちゃんとした役職を与えられるには若すぎたからね。もちろん、フィーンディアにくっついて何かの儀式に出席することはあったけれど、それだってそうそう毎日のことじゃなかった。だから僕は、ふだんは本を読んだり、フィーンディアの執務室へ行って、書類の整理を手伝ったりしてすごした。そういう仕事は、本来はフィーンディアの秘書の役目だから、秘書たちはいい顔をしなかったけれど、僕は気がつかないふりをしていた。
 だけど僕も、いつまでもそうしてはいられなかった。だからフィーンディアに頼んで、半分冗談だったのだけど、『女王執務室蜂追い係』というのを新設してもらった。
 フィーンディアの執務室には、どういうわけか年に一度か二度、開け放ったままの窓から大きな蜂が迷い込んでくることがあった。僕は、それを部屋から追い出す役職に任命されたんだ。もちろん無給だったのだけど、僕の名前はその役職名で王宮の勤務者名簿に載せられた。それどころか、役職が新設されるときには、その由が官報に記載されたりした。
 フィーンディアはその蜂追い係を執務室に呼んで、こういったんだ。
「サウカノ王国の女王から手紙が届きました」
「イプキンから?」
 サウカノも、ビクセンの隣国の一つだった。イプキンという女王がいる。王家はお互いに親戚で、何世紀か前に分家した関係だときいたことがある。
 フィーンディアはうなずいて、僕にその手紙を手渡した。それは、分厚くて滑らかで高級そうだけれど、それでもただの白い紙に書かれたものだったから、まあまあ普通の手紙だね。でもフィーンディアの机の上には、これが入れられてきたらしい二重の木箱が置かれていたから、国家間の正式な外交文書だ。たぶんサウカノ大使の手でじかに届けられたのだろうけど、こういうのを目にするたびに、僕はいつもあきれてしまった。たかだか手紙一つにものすごい無駄づかいだ。普通なら、切手を一枚貼ればすむことなのに。
 フィーンディアの部屋のすみには、木製の小さなスツールが置いてあった。誰が決めたわけでもないけれど、これはいつの間にか僕専用のイスになっていて、誰か他の人が座るところは見たことがなかった。僕はそれを机のそばまで引っ張ってきて、座って手紙を広げて読みはじめた。少し長い手紙だったけれど、要約すると、「ロシュケンの新型戦車については私も聞いている。ビクセンは戦車の数が足りておらぬようだが、わが国は少し余裕があるから、いくらか貸してやろう。礼を失せぬように、ふさわしい地位の者を受け取りによこせ」というものだった。
 どうやらイプキンも、ロシュケン戦車のことには神経をとがらせていたらしい。もしビクセンがロシュケンの手に落ちたら、サウカノはロシュケンと直接国境を接することになるわけで、そんなことになるよりは、ビクセンを援助するほうが得策だと判断したのだろうね。
「それで?」僕は、手紙をフィーンディアの手に返した。フィーンディアは僕を見つめた。不意に、ダンスパーティーの夜にキスをされたことを思い出した。
 フィーンディアが言った。「この役をあなたにお願いしたいのです。私の従兄弟であれば、資格として十分でしょう。行ってくれますか?」
 もちろん僕は、首を縦に振った。ビクセンの首都はビクセンシティーというのだけど、一週間後には、サウカノから迎えの列車が到着していた。目立たないように、ビクセンシティー中央駅の荷物専用プラットホームに入ってきた。僕が乗り込んで、真夜中に発車した。
 すぐに寝台車へ案内されたけれど、僕はまだ眠くはなかった。この列車にはサウカノ王宮から女官が乗り込んできていて、僕はその女官に頼んで、列車の中をあちこち見せてもらった。
 一番驚いたのは、この列車には冷房装置があることだった。ビクセン王宮にだって、冷蔵庫はあっても冷房はまだなかったから。それにこの列車には、食堂車だってきちんとしたのが一両あったし、お付きの者が使う供奉車も三両あった。ふだんはイプキンが旅行するのに使っている列車だそうだけど、そのときにはこの車内が本当に満員になるそうだった。
 女官のあとをついて廊下をキョロキョロ歩きながら、この列車にはいくら維持費がかかってるんだろうと僕は思った。それがそのままサウカノの経済力を示しているわけだけれど。これに比べるとビクセン王室の専用列車は古びていて、たった二台しかなくて、だいぶみすぼらしかった。冬には隙間風が吹いたし、ときどきは雨漏りもした。
 列車は走り続けた。冷房のきいた寝室でベッドに入って、僕は眠り込んだ。翌朝になって、起き出して朝食を食べているときに国境を越えた。
 国境を越えると、急に緑が多くなった。サウカノは雨の多い国ではないから、どこかから水を引いてきているのだろうけど、小麦の畑がずっと広がっている。その中を列車は走っていった。
 一日中走って、列車は真夜中にサウカノの首都、サウカニアンに着いた。くたびれてひどく眠たかったから、列車がプラットホームに止まるとすぐ、僕は大きく口を開けてアクビをした。それを見て、サウカノの女官がにっこりした。
 駅で自動車に乗せられて王宮へ連れていかれて、部屋に入れられると、僕はすぐにベッドに入ってしまった。イプキンには、明日の朝、会うことになっていた。
 朝になって目を覚まして、僕ははじめてまわりを観察できるようになった。昨夜は、眠たかったこと以外は何も思い出せなかった。まず僕は、部屋の中を眺めてみた。
 きれいにととのえられた広い部屋だった。窓が三つあって、淡い水色のカーテンが引かれていた。でもこういう砂漠の国だから、どれも大きな窓じゃない。床にはごく薄い茶色のじゅうたんが敷いてあって、やわらかなイスや、天蓋のついた大きなベッドが並んでいる。ガラス戸のついた戸棚があって、本が何冊も並んでいるのが見えた。
 僕は着替えて、戸をあけて部屋の外に出てみた。すぐそこがテラスになっていて、そのまま中庭に通じていたので、ちょっと散歩してみることにした。
 まだ朝が早いから、太陽の光は城壁にさえぎられている。それでも背後の建物の壁に反射して、力強く差し込んでくる。それがあんまりまぶしいので、僕は思わず手をかざした。そうしながら見回した。
 とても広い中庭だ。ビクセン王宮の中庭の倍ぐらいはあると思う。砂漠の国なのに緑であふれている。花壇が作られ樹木が植えられ、日陰が作られている。魚がいる池もあって、かすかに水の匂いがする。どれもこれも、ビクセン王宮とは手のかけ方が違う。いかにも豊かな国だという感じがする。ビクセンも決して小さな国ではないけれど、ロシュケンと隣り合っていないぶん、この国は有利なのだろうね。
 振り返って、僕は王宮の建物を見上げた。窓の小さい、いかにも砂漠の国風の建物だ。赤茶けた色の四角い砂岩のブロックを積み上げて作られている。少し向こうに背の高い塔が見えていて、とがった屋根の上にサウカノの国旗がはためいていた。
 砂岩でできたベンチがあったので、僕は腰かけてみた。鳥がちゅんちゅん鳴いて、そこらの木の枝にとまったり、僕の頭の上を飛んでいったりした。
「ここにおられましたか」
 声が聞こえたので振り返ったら、列車の中で一緒だった女官が立っていた。ワシプウという名前だということは、もう僕は知っていた。マーガよりは少し若いけれど、同じように位の高い女官だそうだった。
「はい」
 そう答えて、僕は立ち上がった。
 ワシプウはにっこりして、僕を見つめ返した。「朝食の仕度が整ってございます」
「イプキン陛下にはいつお目にかかれます?」ワシプウについて歩きながら、僕は言った。
 ワシプウはちらりと振り返った。「朝食後すぐにとのご指示をいただいております」
 僕は建物の中に戻った。寝室の隣にはもう一つの部屋があって、テーブルがあって、その上に朝食が用意されていた。油で揚げて砂糖で甘い味をつけたうすっぺらいパンと、山羊のミルク。ゆでたウズラの卵。鉛筆の芯みたいな色と形の、なんとかいう名前の植物の茎。
「これは何ですか?」僕はイスに座りながら、平らな皿に盛られた〃鉛筆の芯〃を見下ろした。
「やわらかくゆでてあります。お試しください」
 僕はフォークに手を伸ばした。鉛筆の芯を一本だけすくって、おそるおそる口に入れてみた。
 まずくはなかった。それどころか、塩味がきいてて結構うまかったよ。
 僕の様子を見て、ワシプウは満足そうに微笑んで、部屋を出ていった。
 朝食をすませたあと、ワシプウに案内されて、僕はイプキンのいる広間へ向かった。
 僕とワシプウは廊下を進んでいった。もう日が高くて、外はかなり気温が高くなっていたはずだけど、建物の中はひんやりしていた。どこかで窓が開いているからだろうけど、わずかだが風も吹いている。砂岩でできた建物の内部は、洞窟のように薄暗い。床と壁は、淡いブルーのタイルを敷き詰めて飾られている。陶器のタイルだ。暖色系の内装など、この国には用はないのだろうね。
 何度か廊下の角を曲がった。ワシプウはどんどん歩いていくから、僕はかなり遠くまで連れていかれるらしかった。ところどころに歩哨の兵が立っているが、あまりにも動かずに石像のようだから、はじめは本当の石なのだろうかと思った。でもすぐに、気をつけをして立っている衛兵なのだとわかった。
 僕は、とうとう広間へ入っていった。一目見ただけで、ここもとても金のかかった場所だとわかった。運動会ができそうなぐらい広くて、床も壁もピカピカした黒い石だし、左右だけじゃなくて、天井にも大きな明かり窓がいくつもある。この明かり窓は、巨大な雲母の板がはめ殺しになっているが、左右の窓はすべて開かれていて、涼しい風がゆっくり吹き込んでくる。
 イプキンはその広間の中央、ツヤツヤした黒い木でできた玉座に座って僕を待っていた。玉座のところどころには、きらきらした貝を使った飾りがはめ込んである。光を受けて虹のように光る。
 それを見た瞬間、ビクセン王宮の広間には玉座と呼べるほど立派なイスはないことを僕は思い出した。女王が座るイスはあるにはあるけれど、ただ大きいだけの木のイスに過ぎない。
 何年も前には、もちろんビクセンにもそれらしい玉座があったらしい。でも、僕やフィーンディアが生まれる少し前に王宮内で小さな火事があり、そのときに玉座も焼けてしまった。いまビクセン王宮にあるのは、その直後に作られた仮の玉座だったのだけど、いつかはちゃんとしたものに作り直すつもりだったのだろうが、フィーンディアの母親が倹約家だったこともあって、そのままになっていた。そのあと即位したフィーンディアも、玉座を新しく作り直す気などないようだった。
 イプキンは玉座に腰かけて、僕が近寄ってくるのをじっと見つめていた。年を取った小さな女だ。地味な灰色のドレスを着ている。年齢は八十歳をすぎている。
 イプキンの姿を見て、僕はとても驚いた。噂に聞いたのと同じ姿だなとも思ったのだけど、正直に言うと、びっくりのほうがその何倍も大きかった。それが表情に出ていたのだろうけど、イプキンはすぐに気づいて、にやりとしたようだった。イプキンの前に出ると、きっと誰もが同じことを思い、同じ表情を浮かべるのだろう。僕もそうだろうとイプキンは予想していたに違いない。
 イプキンに似た人というのを、僕は一人も思いつくことができない。少なくとも僕は、そういう人には会ったことがない。とても背が低くて、身体も手足も小さくて、小学一年生ぐらいの大きさだ。髪の毛はすべて灰色になっているがとても薄くて、ドームのような丸い形にきれいにゆってあるけれど、それでも頭皮が透けて見えている。頭のてっぺんには、ボールのように丸いまげが座っていて、金色に光るくしが一本突き刺してある。よく見ると、その先端では赤い宝石が光っている。親指の先ぐらいある大きな石だけれど、まさかガラス玉じゃないと思う。
 耳はとても大きい。おとぎ話に出てくる魔法のランプの取っ手みたいに、丸い形で左右に大きく突き出している。顔の輪郭は丸いのだけど、この耳のせいで、左右にとても大きく広がった顔に見える。皮膚にはしわがたくさんあり、小さな二個の目がその中に埋まって、光を反射しながら僕を見つめている。首は短いが、年のせいでしわがたくさん重なっていて、まるで首飾りを何重にもぶら下げているように見える。
「やはりフィーンディアは蜂追い係殿をよこしたか」
 イプキンの口が動いた。でも、不満を述べているような口ぶりではなかった。
 だけどその声は、僕が想像していたものとは違っていた。しわがれて力を失いつつある老人の声じゃなかった。もちろん若い声ではないが、それでも張りがあって、自分が何をしゃべっているのかきちんとわかっている人間の声だ。だますのがもっとも難しいタイプの人間。僕はそんな気がした。きっとイプキンはあの玉座の上から、僕が想像したこともないような様々なものを眺めてきたのだろうね。それも、僕が生きてきたよりもずっと長い間。
 でも僕は、そういうイプキンの前に出て縮こまっていたとか、緊張していたとかいうのではなかったと思う。自分でも不思議だけれど、僕はとてもリラックスしていたような気がする。だますことが不可能な相手の前に出て自分を偽ろうとしても無意味じゃないか。僕が飾ろうが飾るまいが、あちらはすべてお見通しなのだから。
「はい」僕はお辞儀をして、暗記してきたセリフを口にしようとした。「このたびのお心づかい、本当にありがとう存じます。ビクセン女王と国民にかわりましてお礼を…」
 イプキンの表情が変わった。僕は胸がどきんとしたけれど、もちろん悪い方向に変わったのではなかった。イプキンは、もうおやめというしぐさをし、口を開いた。「そんなくだらない口頭試問みたいなセリフはおやめ」
「え?」
 イプキンはまじめな顔でつづけた。「戦車は二百五十台貸し出す。明日の朝、駅で受け取るがよい」
 僕は何か返事をしようとした。でもその前にイプキンが動いた。身体の前で手を軽く振り、もういいからお下がり、というしぐさをした。
 これって、ひどくぞんざいなしぐさだったと聞こえるかもしれないけど、実はそうじゃなかった。僕は別に、ひどい扱いをされたような気も、バカにされたような気もしなかった。もちろん、もっとイプキンの前にいたいとか、もっと話をしたいというのでもなかった。僕はにっこり笑って、くるりと振り返って、広間を出ていった。広間の外ではワシプウが待っていて、僕を部屋までつれて帰ってくれた。
 翌朝、僕は自動車に乗せられて、サウカニアン駅まで連れていかれた。駅の表ではなくて、裏の貨物操車場のほうだったけれど、イプキンが言ったとおり戦車が二百五十台、貨車に積まれた状態で待機していた。屋根のない平らな貨車に乗せられて、みんなカバーをかけておおってあったけれど、僕に見せるために、一台だけカバーがはずされていた。
 ビクセンの戦車よりも一まわり大型で、砲も大きく長く太いものがついていた。車輪が小さいせいで、全体にワニのように背が低くて、不恰好ではあるけれど。幅の広いキャタピラが、かえるの水かきのように左右に出っ張っている。
 身元がわからないように、車体に書かれた文字はすべてペンキで塗りつぶしてあったが、形を見ればどう見たってサウカノの戦車だった。でもイプキンは、そのことでロシュケンから苦情が来ることなんか気にしていないのだろうな、と僕は思った。サウカノの経済力は、ロシュケンとしても敵にまわしたくない規模だったから。
 その日のうちに僕と戦車たちは出発し、二日かけてビクセンシティーまで戻った。駅には、フィーンディアが迎えにきてくれていた。そしてすぐに聞かされたのだけど、この戦車のことをもうロシュケンはかぎつけたようで、新型戦車の製造ペースを落としはじめているということだった。



 その記事を見つけて、一番びっくりしたのは僕だったと思うよ。ある日、新聞に大きな記事が出たんだ。僕に結婚の話が持ち上がったという記事だった。
 本当に僕は何も知らされてはいなかったんだ。何回も読み返したけれど、間違いなく僕のことが書かれていた。クスクス殿下に縁談が持ち上がっている。少し早い目ではあるが、結婚にまったく不向きな年齢というわけではあるまいとかなんとか。
 もちろん王宮から正式に発表されたことではなかったけれど、なぜか新聞社は自信を持って書いているようだった。だから翌日には、それは事実であると王宮も認めざるを得なくなった。
 自分のことなのに、僕もハニフやマーガたちから聞かされただけなのだけど、花嫁候補はイプキンの娘だということだった。だけどみんなが不思議がったのは、イプキンに娘がいるなど誰も聞いたことがないことだった。でも、イプキンがどこかの娘を養女に迎えたらしいという噂もすぐに流れてきて、それで一応けりがついた。あとは、僕がその結婚を受け入れるかどうかというだけの話になった。
「どうしよう?」簡単に想像がつくだろうけど、僕はフィーンディアに相談した。
 僕は、またフィーンディアの執務室にやってきていた。フィーンディアの机の上には、新しい戦闘機の設計図が置かれている。試作された機関銃のサンプルも転がっている。そういった火薬くさいものの向こうにフィーンディアは座っていて、今はちょっと横を向いて、窓の外の風景を眺めていた。窓の外には、スモッグのかかったビクセンシティーの空が見えている。
 フィーンディアの口が動いた。「イプキンには義理があるから、このお話を断ることはできそうもありませんよ」
「そのために戦車を貸してくれたのかな?」
 そう僕は言ったのだけど、自分がうんざりした声を出しているのか、がっかりした声を出しているのか、期待に満ちた声なのかどんな声なのか、自分でもさっぱりわからなかった。結婚なんて僕には、他の惑星と同じぐらい遠い世界の出来事としか思えなかったから。
 だけどきっと、僕はひどく不安になって、頭が混乱していたのだと思う。だって、いつもの自分だったら真っ先に気にするであろうことにだって、ぜんぜん気が回らなかったのだから。いつもの僕だったら、花嫁が美人かどうかを真っ先に気にしただろうけど。
 フィーンディアは振り返って、ちらりと僕を見た。でもまた、すぐに窓の外を眺めはじめた。「そうかもしれません。見返りなしに援助をしてくれるような人ではありませんから」
 僕は口を開き、何かを言いかけた。でも、その前にまたフィーンディアが言った。
「あなたにはガボウニイの離宮をあげましょう。そこで花嫁とお暮らしなさい。落ち着いたら、花嫁を連れて遊びにきてください」
 なんだかフィーンディアは、意外なくらいあっさりしていた。こっそりとだったけれど、僕はため息をついた。まったく、これこそ政略結婚というやつだろうね。王族として生まれた以上、会ったこともない相手といつかは結婚させられるに違いないということは、小さいころから僕も覚悟していた。それがとうとう現実になったわけだった。それでも王族をうらやましく思うかい?
 この後は、もう何もかもが本当にめまぐるしく動いた。僕には何が何やらわからなくて、気がついたときには、僕がこの結婚を受諾したという記事が新聞に出ていた。花嫁は、野山へ出るのが好きで、ダンスもじょうずな活発な人物だということだったが、新聞記者たちだけじゃなくて、僕にも不思議だったのは、花嫁については、イプキンがそれ以上は何も知らせてこないことだった。写真一枚送ってこなかった。
 だから僕は、またまた不安にならなくてはならなかった。花嫁ってどんな人なんだろう。写真も送ってこないのはなぜなんだろう? まさか、額にツノなんか生やしちゃいないよね。でももう僕は王宮を出て、離宮で暮らしはじめていたから、誰にも相談することができなかった。離宮では、花嫁を迎える準備が始まっていた。ただ、花嫁は家財道具つきで嫁にくるということだったから、特に大きなしたくは必要なかった。
 数週間して、花嫁がビクセンシティーに到着したという知らせが入った。結婚式の朝が来た。僕はまだ顔も知らなかったのだけど。
 女官たちが寄ってたかって、少しは見栄えがよくなるようにしたあとで、僕は自動車に乗せられて、離宮を出発した。前後を装甲車が守っていた。
 この離宮はガボウニイという村にあって、首都からは少し離れたところで、まわりは平らな畑が広がっていて、ずっと遠くに山脈が見えているほかは、視界をさえぎるのは農家だけだった。かやぶき屋根の大きな農家や小さな農家がポツンポツンと並んでいた。以前からフィーンディアが所有していて、宮殿というよりは、田舎の普通の屋敷と呼ぶほうが似つかわしかった。でも静かな場所だから、僕はとても好きだった。
 僕を乗せた車列が村を出ると、さらに何台かの護衛がそこに加わった。街道に出て、速度を上げて走りはじめた。行き先は、首都の中心部にあるストカスの神殿だった。
 ストカスというのは、運と確率をつかさどる女神で、どういうわけでか知らないけれど、王族の結婚式はここで行われるのが習慣になっていた。大きな広い神殿だし、結婚とは運試しのようなものであるという意味も込められていたのかもしれないけど。ストカスはうら若い乙女の姿をした女神なのだけど、酒が大好きで、吐く息はいつもアルコールくさいというこまったお人だった。酒のつまみには、新鮮なぶどうがお好みだそうだ。酒が好きなのは、「運命の管理者なんてつまらん役をしらふでやってられるか」という意味なのかなあと、僕はかねてから思っていたのだけど。
 後部座席にひとりで座って、窓の外をぼんやり眺めたまま、僕は思い出そうとしていた。ストカスの神殿って、どんな場所だったっけ? 小学校のときに遠足で一度行ったきりだな。
 車列はビクセンシティーに入った。町の通りは見物人でいっぱいだった。ストカスの神殿の前は、もっと人が多かった。警察官が列を作って、見物人たちが道路にあふれ出さないように押さえていた。
 車列が神殿の前で止まった。神殿は、ああいう建物お決まりの魔法使いの帽子みたいにとんがった屋根をしていて、それよりは少し背の低い鐘楼が二つ付属している。右側の鐘楼が朝の鐘を、左側のが夕刻を告げる鐘を鳴らす。王族の結婚式のときにだけ、二つの鐘が同時に鳴らされるのだと僕は聞かされていた。
 神殿の前には、一個中隊の近衛兵が整列していた。金色のボタンがきらきらした儀典用の制服を着ている。数年に一度しか着る機会のない服だから、みんな張り切っているのかもしれない。列の一番手前にいる近衛兵が、僕のために自動車のドアを開けてくれた。
 僕は自動車の外に出た。僕は、昨日仕立てあがったばかりの軍服を着ていた。ビクセンではいつも軍用車が公用車だったし、軍服を着ることが正装だったから。
 僕は少しキョロキョロした。その様子を、派手にマグネシウムを燃やしながらカメラマンたちが写真に撮ったけれど、気にならなかった。フィーンディアはこの式には出席しないんだということを、不意に思い出した。フィーンディアは理由を告げなかったけれど、僕もなんとなく納得していて、それ以上たずねる気にはならなかった。
 見物人たちがざわざわ言っていた。近衛兵たちは神殿の正面に二本の列を作って並び、僕がその間を歩いていく気になるのをじっと待っていた。
 白状するけど、「今この瞬間に逃げ出して、フィーンディアのところへ飛んでかえることはできないかな」と僕は思った。フィーンディアはどんな顔をするだろう。怒られるかもしれないけど、かまうもんか。でもすぐに、「そうもいかないか」と思い直した。僕だけならともかく、もう花嫁がそこで待っているのだから。
 僕は歩きはじめて、神殿の入口に通じる階段を上っていった。腰につってある短剣とピストルが邪魔だった。
 階段を登りきると、大きなドアが開いていた。怪獣だって背筋を伸ばしたままで出入りできそうな背の高いドアで、左右に開くようになっているのだけど、間口だって、運河のハシケが軽く通ることができそうなぐらいの幅がある。これを支えている蝶番は、人の腕ぐらいの直径がある。これが神殿の正面入口で、日曜の朝には礼拝に来た人々が何百人も通っていくドアなのだけど、この日も神殿の中は人でいっぱいだった。ただ普段の日曜と違うのは、みんな王宮の関係者や外国からの客たちだから、いかにも金持ちそうに見える連中が多かったことかな。着飾って、みんな振り返ってこっちを見ている。
 僕は少しあきれてしまった。もちろん表情には出さなかったけれど、こいつらみんなひまだな、と思った。王族の結婚式といったって、あんたたちと何の関係があるのさ。
 神殿の中はとても広く、奥行きもあった。線路を敷いたらプラットホームがいくつできるかな、と思った。客たちは左右に分かれていて、真ん中を一番奥の祭壇に向かって、幅の広い通路がまっすぐに走っていた。その先に花嫁の姿が小さく見えていた。距離はあるし、こちらに背中を向けていたし、真っ黒な長いドレスを着て真っ黒なベールをかぶっているから、すらりとしてはいるけれど、顔立ちはわからなかった。
 僕は神殿の中へ入っていった。他に何ができるっていうのさ。
 僕が通路を歩きはじめると、背後でドアが閉められた。とたんに外の光が差し込まなくなったけれど、神殿の中は何千本ものロウソクで照明されていた。僕が歩いていくのを、何百人もが見つめていた。みんな黙りこくっているが、ときどきどこかで咳払いが聞こえ、左右の足を踏みかえるごくかすかな音もときどき響く。いま何百個の目玉が僕を見てるんだろう。僕は少し恐くなってきた。でも同時にちらりと頭をかすめたのだけど、ここで何かバカなことをわざとやらかして、雰囲気をぶち壊してやるのもおもしろいかもしれない。だけど何をやっていいのか思いつく前に、僕は花嫁のところまで達してしまった。僕は花嫁と並んで立った。結婚式が始まった。
 まず神官が、僕と花嫁の前にしずしずと進み出た。ごわごわした緑色の生地でできたおかしな制服を着ているのだけど、身体の前に長い四角い白い布をたらしているところは、赤ん坊のよだれかけみたいだった。頭の上には、高さ一メートルぐらいはありそうな筒状の帽子をかぶっている。先端が鋭くとがっているから、まるで避雷針のようだ。神官の背後には、酒好きな女神の像がある。こちらの高さは十メートルぐらい。この像の足元で式が行われるわけだった。
 神官の祝福の言葉なんか、僕は聞いてもいなかった。ときどき花嫁のほうをちらちら見たけれど、花嫁はまっすぐに立ったまま、ほとんど動かなかった。僕は急に気になってきた。この人、僕を好きになってくれるのかな? 僕には自信がなかった。
 ベールの下に隠れているから、やっぱり顔つきはわからなかった。「ストカスさま、お願いします」と僕は思った。あのベールの下にツノなんか生えていませんように。
 死ぬほど退屈な時間がすぎて、やっとこさ式が終わりに近づいた。あとは、僕と花嫁が指輪をはめておしまいだった。さあさ、早く片づけて離宮へ帰ろうよ。僕はもううんざりして、何がどうなってもいい気がしていた。花嫁にツノが生えていようが翼があろうがしっぽがあろうが、知ったことじゃない。足が疲れた。おなかすいた。
 神官が合図をしたので、僕はいそいそと花嫁に近づいて、向かいあって立った。まわりの連中には、僕が喜びに包まれているように見えたかもしれないけど、そんなんじゃなかった。早く終わらせたかっただけ。
 ベールのせいで、このときになっても花嫁の顔は見えなかった。そのベールを見ていて、自分でも理由がわからなかったのだけど、僕は急にふてくされた気分になってきた。花嫁は、ベールのむこうから僕を見つめているようだった。不意に、卒業式の夜のダンスのことを思い出した。
 このとき、神殿の中も近衛兵たちが守っていた。それはいつものことだったのだけど。
 もちろん僕は、自分がたいした人間じゃないということはよく知っていた。僕がこうして守ってもらえるのは、立派な人間だからじゃなくて、たまたま王族に生まれついたからなんだ。大事なのは王族という看板であって、それを背負う背中じゃない。その家系に生まれさえすれば、誰だって王族になれるんだよ。ただ、その看板をかつぐ背中がナイフで刺されたり、ピストルで蜂の巣にされたり、腐った卵を投げつけられたりしたら外聞が悪いから、だから大事にしているんだ。王族なんて、それだけのものだよ。生まれてからずっとこの地位にいて、僕はそう思うようになっていた。僕は皮肉屋だと思う?
 それはそうと、花嫁のまわりにも護衛の兵たちがいた。それは不思議じゃなかった。でも、その兵たちの制服が変だったんだ。サウカノへ行ったときに見た近衛兵の制服とは違っていたんだ。
 ビクセン王宮の近衛隊には第九分隊というのがあって、女の兵士だけで編成されていた。フィーンディアの警護をするにはそのほうが都合がよいからだったけれど、このとき花嫁のまわりにいた女兵士たちは、この第九分隊の制服を着ていたんだ。
 なぜもっと早く気づかなかったんだろう、と僕は思った。イプキンの娘なんだから、結婚式がすむまでは、花嫁の警護はサウカノ近衛兵の仕事のはずじゃないか。
 思わず僕の身体がびくんと動いて、ばねのように大きく一歩下がった。背後にあったロウソク立てに背中が触れて、ロウソク立ては倒れて、大きな音を立てながら床にぶつかった。ロウソクの火は一瞬で消えた。ベールを乗せた頭が揺れて、花嫁が笑ったようだった。
 僕と花嫁がはめるはずの指輪は、神官の手にあった。小さなクッションのようなものの上に置かれて、神官が大切そうにささげ持っている。とても古いもので、僕の両親が結婚したときにも、その両親が結婚したときにも、そのまた両親が結婚したときにもこうやって使われたものだった。あまり気味のよいものではなくて、蛇がかま首を持ち上げて、いかにも機嫌悪そうに相手をにらみつけている形に彫られている。目の部分には、大きな青い石がはめ込んである。花嫁と花婿用に同じ形のものが二つあって、その二つを組み合わせると、まるで判じ絵かパズルみたいにぴったり合って、より大きな一匹の蛇の姿になる。
 花嫁がさっと身体の向きを変えて、神官のほうを向くのが見えた。とても花嫁とは思えない動作で、神官に向けて大きく足を踏み出した。神官は驚いて、一歩下がった。二つの指輪を、胸に抱きしめるようにして守ろうとした。花嫁が、神官に向けて大きく手を伸ばした。
「それをおかしなさい」花嫁の大きな声が、神殿の中に響いた。
「はい?」神官が目を大きく見開く。花嫁は手を伸ばして、神官の手から指輪をひったくろうとした。神官は抵抗しかけたが、指輪はすぐに奪われてしまった。指輪を乗せていたクッションが床に落ち、指輪は今は二つとも花嫁の手の中にあった。
「いささか気のきかぬ人ですね」
 僕のほうを向いて、大きな声で花嫁はそういい、指輪の一つを自分の指にはめた。ひじまである長い絹の手袋の上からだったけれど、左手の薬指だ。もう一つの指輪を持ったまま、僕に近寄ろうとした。
 僕は、逃げ出そうとして背中を向けかけた。でも、すぐに捕まってしまった。花嫁はネコのようにすばやく、僕の腕をつかんで引き寄せた。
 僕は暴れた。恐くなって、花嫁の腕にかみつこうとした。
「手を押さえていなさい」
 花嫁に命令されて、第九分隊の兵たちが動いた。若い女の兵が二人、僕に飛びついた。一人が僕を背後から捕まえ、もう一人が右腕を押さえた。花嫁は僕の左手をつかんだ。僕は左手の指を閉じて、こぶしにした。でも花嫁はその指をこじ開け、僕の薬指にむりやり指輪をはめてしまった。
 全部が一瞬の出来事だった。花嫁が合図をしたので、女兵士たちは僕を放した。僕は肩で息をしていた。花嫁をにらみつけて、指輪を指から引き抜こうとした。
 でもその前に、花嫁の声がまた大きく響いた。それを聞いたとたん、僕の身体からは力が抜けてしまった。指輪はまだ僕の薬指にあった。
 神官のほうを向いて、花嫁はこう話しかけたんだ。「この結婚は、すでに成立しているのでしょう?」
「えっ?」神官は、口をぽかんと開けて花嫁を見つめ返した。
「この結婚は有効でしょうと私は言っているのです」花嫁が繰り返した。「いま花婿が指輪をはずしてしまったとしても」
「さあ、それは…」神官は困った顔をした。何が起こっているのかもよくわかっていない様子だ。
「有効です」花嫁は満足そうに言った。「そしてこの国では、王族の離婚には女王の同意が必要です。そうではありませんか?」
 花嫁は楽しそうにくすくす笑った。しばらくのあいだ一人で笑っていた。その声が神殿の中に響いた。花嫁はベールを脱いで、顔を見せた。神官と僕を見つめかえして、熟したイチゴのように真っ赤な口紅を引いたフィーンディアがにっこりしていた。
 僕に与えられた次の試練は、どうやって騒ぎを大きくせずに離宮まで帰りつくかということだった。僕は、ふたたびベールをかぶったフィーンディアを連れて神殿を出た。式は終わりだったから、これ以上ここですることは何もなかったからね。意外な成り行きに、参列者たちは、喜んでいいのか、詐欺だとわめきたてるべきなのか決めかねているように見えた。でも、いちばん当惑していたのは僕だと思うよ。
 とにかく僕は、花嫁の手を引いて神殿の外に出た。花嫁の正体はまだ神殿の外には知られていなかったから、見物人たちは大きな歓声を上げて迎えてくれた。近衛兵たちが、空に向けて空砲を何発も撃った。花嫁は、いかにも優雅にゆっくり歩いていたけれど、僕はその手を引いて、急いでせかせか前を行った。僕は、歩道に横付けしてドアを開けて待っていた自動車の中に飛び込み、花嫁の手を引いて引っ張りこんだ。なんだか知らないけど、自分がピエロになったようで、ものすごく恥ずかしい気がした。
 近衛兵がドアを閉めると、外ではもう一度大きな歓声が上がったようだった。車列が動きはじめて、神殿の前を離れるまで、僕は生きているような気持ちがしなかった。
 自動車が離宮に着いたのは、一時間ぐらいあとのことだった。護衛の自動車たちは、ガボウニイ村の入口で大部分が停車し、数台だけが離宮の前までついてきた。でもその数台も、中庭までは入ってこなかった。離宮の玄関の前に止まったのは、僕と花嫁が乗っている一台だけだった。
 玄関の前では、女官や侍女たちが列を作って、僕と花嫁を迎えようとしていた。みんな制服姿で、ぱりっとした真新しいものを身につけて、靴も完璧に磨いて、髪も整えてあった。エリなんか雪のように真っ白で、カミソリみたいにピンととがっていた。その中にはマーガもいて、自動車が完全に止まると、ドアを開けるために手を伸ばしてきた。僕は深呼吸をした。でもそれは、半分以上ため息だったかもしれない。花嫁がくすっと笑った。
 僕は突然、自分と花嫁が間違った順序で自動車に乗り込んでしまっていることに気がついた。本当なら花嫁が奥に乗らなくてはならないのに、逆になっていたんだ。一秒でも早く神殿の前から逃げ出したくて、気がつかなかったらしい。だから花嫁が先に自動車から降りることになって、僕は余計にきまりが悪かった。花嫁のあとに続いて僕も降りると、女官と侍女たちがいっせいにお辞儀をした。マーガが口を開いた。
「クスクスさま、お帰りなさいませ。花嫁さま、離宮の一同を代表いたしまして、歓迎の言葉を述べさせていただきます」
 僕は、自分が気を失ってしまうんじゃないかという気がした。運転席から運転手を引きずり出して、自動車を乗っ取ってどこかへ逃げてしまうか、離宮の屋根裏部屋へ逃げ込んで、長持ちの中に隠れて鍵をかけて、ほとぼりが冷めるまで三十年ぐらい姿を隠していたいような気もした。でも実際には何もできずに、そのままそこに立っているしかなかったのだけど。
 だけど、マーガの声がもう一度聞こえてきたとき、僕は気を失ってしまうどころじゃなくて、心臓が止まってしまうんじゃないかという気がした。マーガはこういった。ベールで隠したまま、まだ顔も見せていない花嫁に向かって話しかけた。落ち着いたなんでもない声で言ったんだ。
「お疲れでしょう。お食事の用意ができております、フィーンディアさま」
『真相』が公表されたのは、この日の夕方のことだった。イプキンはフィーンディアを養女に迎え、自分の娘ということにして嫁入りさせたのだった。だから気がついたら、フィーンディアは僕の妻になっていた。
 もちろん僕は、フィーンディアに文句を言った。その日も翌日も一日中言い続けてやった。フィーンディアはうれしそうに、にっこり微笑みながら聞いていた。でもフィーンディアが同意してくれない以上、離婚はできないから、僕はそのままフィーンディアの夫でいるしかなかった。フィーンディアは以前と同じように穏やかでやさしかったけれど、「離婚には絶対に同意しません」と言うときには岩のような決意がこめられていたから、数日たつうちには僕も、「これはあきらめるしかないか」と思うようになっていた。もちろん、それも全部フィーンディアの計画のうちだったのだろうけど。今から思えば、僕を政略結婚から救い出すには、自分自身が妻になるしか方法がなかったのだろうしね。
 でも僕はそんなことは知りもしなかったから、マーガや女官や侍女たちにもぶうぶう文句を言った。すぐに彼女たちも認めたのだけど、みんな花嫁の正体が実はフィーンディアだということを事前に知っていたらしい。知っていて黙っていたんだ。
 離宮には、女官や侍女以外にも使用人がいた。下男や運転手、庭師たちだけれど、でもこの男たちには、花嫁の秘密は知らされていなかったようだった。真実を知らされて、僕と同じぐらい驚いている様子だった。フィーンディアは、身の回りの数えるほどの人数の女たちにだけ計画を打ち明け、協力させていたらしい。
 ところで、この出来事に対する国民たちの評価は、僕にはかなり意外なものだった。それが新聞の見出しによく現れていたと思うけど、フィーンディアは僕だけじゃなくて、国民たちもあざむいていたわけだけど、『くそ、だまされた!』というようなのじゃなくて、みんながみんな『フィーンディア陛下の大てがら』みたいな書き方をしていて、僕にはわけがわからなかった。何がどうなってるんだか。
 こうやって、僕の結婚生活がはじまった。数日後、僕はフィーンディアと一緒に王宮へ戻ってきた。ここの七階でまた暮らすようになったんだ。実を言うと、これだと以前とほとんど何も変わらなかったのだけどね。僕とフィーンディアの指にそれぞれ指輪が光っているということ意外は。
 フィーンディアは、以前と同じようにやさしかった。女官や侍女たちの態度も変わらなかった。でも王宮の男たちが僕を見る目は、ほんの少し以前とは変わったような気がした。
 ただ、何がどう変わったのかは、僕にもよくわからずにいた。きっと彼らも、僕に何か言いたいことがあったのだと思う。でもそれを告げたものかやめておいたものか、なかなか決心がつかなかったのだろうね。なんせ、相手は何もわかっていない子供なんだから。だけどとうとう、彼らも決心したようだった。ハニフが僕の部屋へやってきた。
 昼間、僕が仕事に使っていたのは、王宮の六階のすみ、ほかのオフィスからは少し離れた邪魔にならないところにある小さな部屋で、机と長イスがあるだけで、ほかには何もなかった。ひとつしかない窓の外には、ビクセンシティーの北側を押さえる山脈が見えている。この部屋のドアには、僕の手書きのへたくそな字で『蜂追い係控室』と書いた紙きれが張りつけてあった。
 僕はこの部屋に一人でいて、書類を読んでいた。僕は、試験的に鉄道大臣に任命されていた。もちろんフィーンディアに頼んでそうしてもらったのだけど、就任二日目にして、僕はもう後悔していた。この書類は王立鉄道作業局が作成した正式のもので、タイプで打ってとじた分厚いものだった。年々混雑が激しくなっている王立鉄道の線路をどう作り変えて、混雑を少しは減らすかという計画書だった。役人たちが書いたもので、こんなに退屈なものを書くにはかなりの努力と才能が必要なんじゃないかと思えるぐらいすばらしいものだった。
 だから、不意にドアをノックする音が聞こえてきたときには、僕はいそいそと返事をした。これを読む邪魔をしてくれるのなら、死神の訪問だって歓迎したい気分だったから。僕は計画書の表紙を乱暴に閉じて、机の上にほうり出した。ドアが開いて、ハニフが入ってきた。
「クスクスさま」ハニフが言った。
 僕は何か言おうとした。でも言葉は出てこなかった。ハニフの様子は、僕の舌を乾かしてしまうほどのものだったんだ。
 ハニフはまるで、心が破れてしまったかのような表情をしていた。もちろん、心の全部が破れてしまったというわけではないけれど。それでも、一部分ではあるがとても重要な部分が。僕は一瞬、革が破れて使い物にならなくなった太鼓を連想した。
「クスクスさま」ハニフがまた言った。「とても重要なことをお話ししなくてはなりません」
 僕の心は、きゅっと緊張したと思う。僕は黙って、イスに座るように身振りをした。ハニフはその通りにした。ハニフが僕の前でイスに座るなんて、これまで一度も見たことのないことだとすぐに気がついたけれど、表情には出さずに黙っていた。
 ハニフはもともと年寄りなのだけど、この日はそれがもっともっと年寄りになったように見えた。全体に身体が小さくなり、肩も枯れ枝のように細くとがっている。首も、小鳥のように細く弱々しい。
 僕は黙って待っていた。ハニフは話しはじめた。
「クスクスさま、フィーンディアさまをフィーンディアと名づけたのはゾディアさまだということはご存知でしょう?」
「うん」僕はうなずいた。ゾディアというのは、フィーンディアの母親のことだよ。もう何年も前に死んでいたけれど、ビクセンの先代の女王だった。
「それには、こんな裏話があるのです」
 ハニフは一瞬黙った。僕はやっぱり待っていた。ハニフが続けた。
「娘時代から、ゾディアさまは黒王妃に夢中だったのです。興味を持っているというのを通り越し、好きというのも通り越し、もう熱狂といってよいほどでした。女同士ですが、黒王妃に恋をしておられたのかもしれません」
「それって、二千年前の黒王妃のこと?」
 数学だけじゃなくて、僕は歴史も苦手だったけれど、黒王妃のことは聞いたことがあった。古代史の登場人物で、この王国の基礎をきずいた名君ではあったらしい。
 ハニフはうなずいた。「ゾディアさまは、ビクセンの歴史に関する本が出版されるたびに、必ず購入して目を通されました。黒王妃についての記述が一行でも見つかると、満足そうに微笑まれました。歴史学の教授を王宮に招き、個人的に講義を受けられたこともございます」
「でも黒王妃の治世って、あんまりうるわしい時代じゃなかったよね? 戦争ばっかりしてたんじゃなかった? 死んだ幼い息子をかかえて、三日三晩町の中をさまよい歩いたんじゃなかった? それが突然、死体をほっぽりだして、いくら時間がかかっても、いつの世にか必ず息子を生まれ変わらせてみせるとわめいて、そのまま行方不明になったんじゃなかった?」
「その通りです。死と残酷さと狂気でいろどられた時代です。でもそれが、なぜかゾディアさまの心を奪ってしまったのです。ただ私には、それもなんとなく理解できるような気がするのですが」
「なぜ?」
「ゾディアさまは完全主義者で、いかなる不正も怠惰もお許しになりませんでした。完璧でないことは認めませんでした。浪費だとおっしゃって、火災で失われた玉座の再建もお認めにならなかったぐらいです。黒王妃の物語がゾディアさまの魂に響いたのは、そういうご自身の性格への反動だったのかもしれません。
 そういうゾディアさまがまだお若かったころのことですが、ある日、黒王妃の時代から伝わる遺物がサウカノ王宮の宝物庫にひそかに収められているらしいという噂を耳にされたのです。ですがサウカノ王宮の宝物庫といえば、おいそれとは立ち入ることが許されない場所です」
 そのことは、僕も聞いたことがあった。あれは、なんていうか伝説的な場所だったんだ。サウカノ王朝が何世紀も昔から受け継いできた宝物や、経済力に物を言わせて買い集めた美術品が大量に収められているとされていて、王族以外は足を踏み入れることが許されていないということだった。
 ハニフが続けた。
「ゾディアさまが、そんな話を聞いてじっとしていられるわけがありません。その日のうちにイプキンに手紙を書いて、宝物庫の中を見せてほしいと頼みました。すぐにていねいな返事が返ってきましたが、イプキンは依頼を断ってきました。でもゾディアさまはあきらめませんでした。口実を作って、みずからサウカノを訪問することにしたのです。これにはイプキンも困ったようでしたが、隣国の女王の訪問をむげに断ることはできません。ゾディアさまを王宮に迎えました。すぐにゾディアさまは、イプキンを説得にかかりました」
「それで、どうだったの?」
 ハニフは首を横に振った。
「イプキンは承知しませんでした。遺物の存在だけは認めましたが、どうしてもゾディアさまを宝物庫に立ち入らせようとはしませんでした。
 それでもゾディアさまはあきらめませんでした。イプキンに対して、とんでもない政治的譲歩を示したそうです。でもイプキンは首を縦には振りません。そして、ゾディアさまをひどくうるさく感じたのでしょう。追い払うために、イプキンはこう言い放ったそうです。
『そんなに宝物庫の中が見たいのであれば、娘を生み、黒王妃と同じ名をおつけ。そうすれば考えてやろう』
 このとき、ゾディアさまは妊娠していたのです。まだ月満ちてはいませんでしたが、そろそろおなかが大きくなりはじめていました」
「そうやって生まれたのがフィーンディアだったの?」僕は目を丸くしていたに違いない。なぜあんな名前がつけられたんだろうと、以前から不思議に思っていたから。
 ハニフはうなずいた。「もちろんイプキンは冗談で言ったに違いありません。そんなまがまがしい名を娘につける愚か者はおりませんから。でもゾディアさまは、それが冗談であることにも気がつけないほど血迷っておいででした」
「ビクセンには、それを止める人はいなかったの?」
 ハニフは少し横を向き、しばらくのあいだ考えていた。それから言った。
「表立ってはいなかったように思います。ゾディアさまは人望がありました。ゾディアさまが黒王妃に夢中であることは、玉にキズといいますか、国民たちも多めに見ていたようなところがありました。もちろん、王女がフィーンディアと命名されたことを伝える新聞記事には、『やれやれ、困ったことだ』とニュアンスはありました。でも、それがすべてでした」
「王宮内ではどうだったの? みんな笑った?」
「はい。みんな影でこそこそ言っておりました」
「ハニフはどうだったの?」
 ハニフはため息をついた。「私には何もできませんでした。王女をそう名づければ宝物庫に入れるとゾディアさまは思い込んでいたのです。何を言ってもきかなかったでしょう」
「もちろんイプキンは、宝物庫の中を見せてはくれなかったんだよね」
「もちろんです。ゾディアさまが王女を本当にそう名づけたというニュースを聞いて、イプキンはあきれて、鼻を鳴らして笑ったそうです」
 僕はハニフを見つめ返した。「それで、なぜ僕にこんな話をしたの?」
「わかりません」ハニフは首を横に振った。「私たちは漠然とした不安を感じているのです」
「私たちって?」
「この王宮にいる者たちです。私やスタウや、そのほかの者たちです」
「どんな不安?」
「はい」ハニフはつばを飲み込んだようだった。「フィーンディアさまは何かをたくらんでおられるのかもしれません」
「どんなこと? 悪いこと?」
「そうかもしれません。ですが、それが何なのか見当もつかないのです」
「どこかの国と戦争を始めるとか? でも、もしそうだとしても、絶対にどこかから情報が漏れて、ハニフや僕たちの耳に聞こえてくるよ。計画が大きくなって、人をたくさん巻き込めば巻き込むほど、漏れやすくなるもん」
 ハニフの言うことは、僕にはまるで信じられなかった。家来たちはともかく、フィーンディアが僕に対して隠しごとをしたり陰謀をたくらんだりするとは、とても思えなかったんだ。それが僕の表情に出ていたのだと思う。ハニフは僕を見つめ返した。きっとハニフの目には、僕は世間知らずでお気楽な子供に見えたことだろうね。口を開いて、ゆっくりした口調で言った。
「クスクスさまのご結婚のときはどうでした? 花嫁の正体を、クスクスさまは事前にご存知でしたか?」
 この日の話はこれだけで、ハニフはすぐに僕の部屋を出ていってしまったのだけど、それでも僕を不安にするには十分だった。「僕って、とんでもない魔女と結婚してしまったのかもしれないぞ」という気がしてくるぐらい。
 だから僕は、この日からフィーンディアのことを少し観察するようになった。フィーンディアが口にする言葉の一つ一つを覚えておいて、一人になったときに思い出して、どういう意味が隠されているんだろうと考えてみるようになったんだ。でも何もわからなかった。フィーンディアはいつものように穏やかで、何か隠しごとをしているようには、やっぱり見えなかった。

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