文字数 101,746文字




 そのときフィーンディアはビクセンシティーを離れていて、王宮には僕しかいなかった。新しく作られた戦艦の試運転だとかで、フィーンディアは海の上にいたんだ。洋上で二泊する予定で、王宮には明後日まで帰ってこないことになっていた。サウカノの大使がいかめしい顔をして王宮に現れたのは、そういうタイミングだったんだ。
 さっそく『蜂追い係控室』へ、マーガが僕を呼びにきた。彼女にしては珍しく、少しうろたえている様子だった。
「クスクスさま、困ったことになりました」マーガは言った。
「どうしたの?」
 僕は机の上から顔を上げて、読んでいた書類をほうり出した。またまたとんでもなく退屈な書類だったので、邪魔をされたことがとてもうれしかった。今度は線路の話じゃなくて、養蜂業界の関係者から寄せられた請願書だった。最近は外国から安い蜂蜜が輸入されて生活が苦しいので、輸入品にかける関税を引き上げてくれという内容だった。僕はとっくに鉄道大臣は辞任して、今は養蜂庁長官だったから。この国には様々な『庁』が山ほどあって、僕に与えるポストにはことかかなかった。ただ、養蜂庁の専任スタッフは僕一人だけで、部下一人いなかったのだけどね。
 マーガが言った。
「いまサウカノの大使が広間に来ているのですが、なにやらひどく腹を立てているようなのです。語気も荒く、『わが国は開戦も辞さぬ』などと申しております。興奮がひどくて、何が起きたのか要領を得ないのですが」
 マーガに連れられて、部屋を出て、僕は広間へ行くことにした。フィーンディアがいないんじゃあ、僕が会うしかない。僕とマーガは、とんとんと階段を下りていった。
 ビクセン王宮の二階は他の階よりも天井が高くて、二倍くらいの高さがあった。この階には広間があったから、それに合わせてあったんだ。
 僕は広間の中へ入っていった。マーガがついてくる。広間は大きな部屋だけれど、王宮内のほかの部屋と同じで、飾りと呼べそうなものはほとんどなかった。そもそもビクセンは荒地の国で、農業には適さなくて、豊かな国とはとてもいえなかった。おまけに北の国境がロシュケンに接しているから、軍備に金がかかる。
 僕はいつも思ったのだけど、本当にここは王宮の広間というよりも、どこかの倉庫みたいな感じだった。がらんとした空っぽの倉庫。一番奥には玉座があって、そこだけ床が一段高くなっているから、かろうじて女王の部屋なのだとわかる。窓は部屋の東側にしかないから、午前中はともかく、午後遅くにはとても薄暗くなる。
 僕は玉座に近寄っていった。もちろんこれはフィーンディアの玉座なのだけれど、フィーンディアがここに座るところは、僕はあまり見たことがなかった。フィーンディアは、これに座って人と会ったりするのがあまり好きではないようだった。でも僕は好きだった。だからときどき勝手に座ってみたりしたけれど、フィーンディアは何も言わなくて、好きなようにさせてくれた。
 サウカノの大使は、この玉座の前に立って僕を待っていた。小柄で、顔の下半分に真っ黒な濃いひげを生やしている。おなかが大きくて、ビール樽のような体型をしている。中年というにはまだ若い。したたかそうで鋭い目つきをしている。役人というよりは、抜け目のない商人という感じがする。細かな刺繍のされたサウカノ風の衣装を身につけている。
 僕はすぐに微笑みかけたけれど、大使はにっこりもしてくれなかった。釘のようにとがった目つきで見つめ返してきた。それでも、軽く頭を下げて僕にお辞儀をした。
 大使の名前がブプコロンだということは、僕はもう知っていた。変な名前だから印象に残っていた。サウカノ人は、変わった名前を持っていることが多かった。
「あの…」僕は話しかけようとした。でも、続きを言うことはできなかった。ブプコロンが突然、機関銃のように話しはじめたから。
「この事実について、今すぐご説明いただきたい。イプキン陛下はお怒りです。場合によっては、出兵も辞さぬとのお考えです」
 ブプコロンの語気は強かった。でも同時に、氷のように冷たい。本当に怒っている人の話しぶりはこうだということを、僕は過去の経験から学んでいた。経験って、たいがいは学校の試験で僕が悪い点を取ったときの教師たちの反応からだったけれど。
「はい」僕は、なんと答えていいかわからなくなってしまった。
「これをごらんいただきたい」
 ブプコロンは、手に持っていた紙を僕の前に差し出してみせた。僕は視線を落とした。ブプコロンは、いらいらした様子でわずかに振ってみせた。
 しっかりとした腰のある白い紙で、筒状に丸めてある。真ん中を黒いリボンでとめてある。すぐに僕にも、それがビクセンの公文書の様式だということがわかった。
「お手にとってごらんください」ブプコロンは言った。
 僕はそれを受け取った。手触りからみても高級な紙で、ますますビクセンの公式文書っぽく思えてきた。僕はリボンをポンと引き抜いて、筒を広げて眺めた。
 書式もビクセンの公式文書と同じだった。表面のつるつるした紙に、文字はインクで手書きされている。黒い色なのだけど、ごくわずかに緑がかったインクの色にも見覚えがあった。用紙の一番上のところには、三つ尾ヘビの姿が印刷されている。ビクセン王国の紋章だ。
 僕は、書かれている内容に目を通した。読んでいくうちに、僕は胸がどきどきしはじめた。
 軍事行動の命令書だった。ビクセン陸軍第三師団に対して、戦闘準備を整え、サウカノとの国境へ移動せよと命令する内容だった。文書の一番下のところには、フィーンディアが直筆したサインもある。僕は何度も目をこらしたのだけど、間違いなくフィーンディアのサインだった。子供のころから一緒にいるのだから、見間違うはずがなかった。書類が作成された日付も確かめたのだけど、ほんの一週間ばかり前だ。
 ビクセン陸軍には、六つの師団があった。第三師団は国のいちばん南の守りを固めていて、砂漠での戦闘に備えて訓練されていた。サウカノを攻撃するのにはいちばん適任だ。
 ブプコロンが口を開いた。「ご説明いただきたい。それは、フィーンディア陛下がわが国を攻撃する意図をお持ちであることの動かぬ証拠です。ロシュケンの脅威に備えるために戦車をご用立てしたことをもうお忘れか?」
「でも…」僕の顔は、もう真っ青だったろうと思う。「なぜこんなものを持ってるんですか?」
 ブプコロンは、僕をまっすぐに見つめたまま答えた。「そんなことは問題ではありません。問題なのは、フィーンディア陛下がこういう命令書を書かれ、正式に師団へ送ったという事実です」
「だけど、第三師団だけでは戦争なんか始められません。本当に始めるのなら、第六師団に側面防衛をやらせるはずです」
 ブプコロンはにっこり笑った。「第六師団も動きはじめているという情報を、われわれは得ております」
「うそだと思う。何かの間違いですよ」
「それはイプキン陛下に直接申し上げられればよろしい。お望みであれば、クスクスさまを今すぐサウカノへお連れしてもよいとの指示も受けておりますが、どうされますか?」
 マーガに言って、僕はすぐに旅行の支度を始めた。マーガはいい顔をしなかったけれど、僕は押し切ってせかした。
「せめて、フィーンディアさまに相談されてからになさっては?」マーガは何回も僕に言った。でも僕は、そのたびに首を横に振った。
「もうサウカノは本気にしてるよ。すぐに行って説明しないと」
「しかし、こんなことはばかげていますよ」マーガは鼻を鳴らした。
 スタウかハニフが王宮にいれば、僕は違う行動をとったかもしれない。でも二人とも、フィーンディアと一緒に出かけていた。だからカバンの用意ができると、僕はすぐに引っつかんで自分の部屋を出た。「せめて、電報の返事がフィーンディアさまから届くのを待たれては?」というマーガの声が背後から聞こえていたけれど、僕は無視して廊下を歩きつづけた。
 ブプコロンは、飛行場に飛行機を待機させていた。今から考えたら用意がよすぎるけれど、あのときの僕は、そんなことに気が回る状態ではなかった。数人の護衛を連れただけで、その飛行機に乗り込み、三十分後にはブプコロンと一緒に空の上にいた。
 国境を越えて、夕方前には、飛行機はサウカニアン近くの飛行場に着陸していた。すぐに自動車に乗せられて、王宮へ向かった。
 僕はひどくあせっていたのだと思う。ビクセンとサウカノの間で戦争が起こりつつある。何とかして止めなくてはなくちゃ。僕はブプコロンに連れられて、王宮の中へ入っていった。
 玄関を通り抜けて、見覚えのある廊下を歩いていった。でも、ある曲がり角まできたとき、僕は不思議に思って立ち止まった。おかしいな、ここを右に曲がるんじゃないの?
 すぐに気づいて、ブプコロンは振り返った。「陛下は広間ではなく、居間でお待ちです」
 僕は納得して、曲がり角を左に曲がった。ブプコロンの後を歩いていった。
 イプキンの居間は、王宮のずっとずっと奥にあった。こんなに奥まで連れてこられるなんて相当異例なことに違いないと、突然僕は気がついた。
 とうとう居間の前に着いた。ブプコロンがドアを開けて、僕を中へ入れてくれた。もちろん、ブプコロンもついて入ってきた。
 居間の中は明るく照明されていた。僕は、ここへ連れてこられた理由も忘れて、まわりをキョロキョロした。
 内装は、玉座と同じ材質の黒いすべすべした木材で作ってあった。光を受けてきらきら輝く貝殻で装飾がしてあるところも同じだ。どこかでたかれているのか、かすかに香の匂いがする。壁や柱と同じ材質で作られた大きなガラス戸棚があって、たくさんの本が詰まっている。そういえば、イプキンは大変な読書家だという噂を聞いたことを思い出した。宗教から哲学、科学や軍事の本まで何でも読むらしい。
 居間の中央には、玉座ほどではないけれど、それでも大きな木のイスがあって、イプキンはそこに腰かけていた。本を読むときに使うのか、ひじかけのわきに書見台が作りつけてある。でもイプキンの顔を見た瞬間、僕はなんだかおかしな気がした。拍子抜けしたといってもいいと思う。僕を見て、イプキンがにやりと笑ったようだったから。それも、そういう表情をぜんぜん隠そうともせずに。
 だから僕は、イプキンのだいぶ手前で立ち止まった。イプキンはもう一度にやりと笑い、僕に向かって手招きをした。
「クスクス殿下、どうぞお進みください」ブプコロンがそういって、僕をイプキンのそばへ行かせた。
 僕はつばをごくんと飲み込んで、口を開くことにした。「あの命令書のことですが…」
 イプキンが突然口をきいた。「いい加減な偽造品だが、おまえのような子供をだますには十分だったということさ」
 僕はびっくりして、ブプコロンを振り返った。
「もうしわけございません」ブプコロンが深く頭を下げた。またイプキンが言った。
「自分の妻のサインであろう? 本物と作り物の区別もつかぬか? フィーンディアのサインは、もっとのびのびしておるわ」
「じゃあ、何のために?」僕はもう一度、居間の中をきょろきょろ見回した。イプキンとブプコロン以外は誰もいないことに気がついた。「僕の護衛はどこにいるんです?」
 イプキンがくすりと笑った。「別の部屋で待たせておる。心配することはない」
「何のために僕を連れてきたんです?」
「さあ、それよ」イプキンはまじめな顔になった。「おまえに、どうしても話しておかなくてはならぬことがあってな」
 イプキンはイスから立ち上がろうとした。ブプコロンはすぐに気づいて、そばの小卓の上に置かれていた杖をとって、イプキンに手渡した。イプキンは受け取り、ゆっくりと背筋を伸ばして立ち上った。僕は黙ってみていた。
「ついておいで」イプキンが歩きはじめた。僕を連れて、居間を出ていった。ブプコロンは居間の中に残ったので、廊下に出ると、僕はイプキンと二人きりになった。
 長い廊下だった。居間を出てすぐのあたりでは数人の近衛兵を見かけたけれど、しばらく行くと誰も見なくなった。分かれ道や交差点もなくなって、ただ一本まっすぐ続いていくようになった。
 ちらりと振り返って、僕がついてきていることを確かめながら、イプキンが口を開いた。
「古代王朝の遺物を見せろとゾディアが私に迫ったという話は聞いておるか?」
「はい」
「そのあたりのことを少し説明してやりたくてな。それで呼び寄せたのだ」
 ずいぶんと強引なんだなと思ったけれど、僕は黙っていることにした。
 こつんこつん。イプキンの杖の先が床のタイルに触れる音が響いている。少しせわしないリズムだ。はじめ僕は、こんな年寄りについて歩くなんて、まどろっこしくてうんざりするんじゃないかと思っていたのだけど、実際にはそんなことはなかった。初めて気がついたのだけど、僕はふだんからとてもゆっくり歩いている人間のようで、イプキンのペースにあわせるには、少しスピードを上げなくちゃならないぐらいだったんだ。
「どこへ行くんです?」僕は言った。
「庭さ」
「それはどこにあるんです?」
 イプキンはため息をつくように笑った。「いささか遠いのは事実だわな。少し歩くことになる」
 僕はぜんぜん知らなかったのだけど、この王宮には中庭が二つあった。ひとつは、前回やってきたときに散歩をしたところだったけれど、イプキンはもうひとつの中庭へ僕を案内しようとしていた。
 この王宮は、小さな町ならすっぽり入ってしまうぐらいの面積があった。そのほぼ中心あたり、イプキンに連れられて、うんざりするぐらい長い廊下を歩き、分厚い木のドアを抜けると、その向こうに僕の知らない庭が広がっていたんだ。
 中庭なんだから天井も屋根もなくて、砂漠の熱い太陽が嫌がらせみたいに強く照りつけているはずだった。でもそうじゃなかった。ここは森になっていた。背の高い木々や下草におおわれていて、緑の葉の匂いが満ちていて、でも光がささなくて薄暗かった。光という光を、すべて葉が吸収してしまっていたからね。
 すぐに僕は、ここは人工的に作った森だと思ったのだけど、あんまりすごい景色だったから、どうやって水を確保しているのか質問するのを忘れてしまった。遠くの水路から引いているか、何百メートルもの深さに井戸をほって、ポンプであげてきているか。
 その森の中央に、四角い石の建物が見えていた。半分以上木々に隠れているのだけど、コロンと置かれたサイコロのように四角くて、一辺は二十メートルぐらいある。ほかの建物と同じように砂岩でできているが、少し白っぽい色をしているぶん、作られた年代は違うのかもしれない。きっと何世紀も昔のものだろうという気がした。庭の入口のところから、森の小道のように細い道が、わずかにカーブしながらその建物のところまで伸びていた。
「これが宝物庫なんですか?」と僕は言った。
「宝物庫? そんなもの存在せぬわ」小道を歩きはじめながら、イプキンはちらりと僕を振り返った。葉の間から差し込む光が目に入ったのか、まぶしそうに一瞬目を細めた。
「どうして?」
 なんだか僕って、質問ばかりしてるね。でもイプキンは、その質問には答えてくれなかった。
 僕とイプキンは、建物の入口のところまでやってきた。小道は、そのまま扉につながっていた。建物の大きさに比べると小さなドアで、どこかの家の勝手口だといわれても信じることができそうな感じだ。
「その扉をお開け」イプキンが杖の先で軽く示した。
「鍵はかかってないんですか?」
 イプキンは苦笑いをした。「何でもききたがる子供じゃな。鍵など必要ない。王宮のこんな奥にまで忍び込める賊などおるまい?」
 僕はちょっと感心して、手を伸ばしてカンヌキに触れようとした。鉄製の棒をスライドさせるようになっていて、古びてはいたけれど、軽く動いた。扉は木製で、厚さは十センチぐらい。蝶番の上で軽く動いた。
「この中に、同じような扉がまだ二枚ある」イプキンが言った。
 たしかにイプキンの言うとおりだった。続いて僕がそれらの扉も開けると、短い廊下があって、そこを行くと、四角い狭い部屋に出て、行き止まりになった。。僕はそのまま部屋の中へ入っていった。イプキンもついてきた。
 僕は部屋の中を見回した。部屋の中を照らしているのは、扉と廊下を通して差し込んでくる四角い光だけだったから、ほとんど真っ暗だった。空気はひんやりしていて、気持ちがいい。
「奥に窓がある。よろい戸をお開け」また杖で示して、イプキンが指図をした。
 その方向を見ると、たしかに壁に窓のようなものがあって、今は雨戸のようなもので厳重に閉じてあった。僕はそこへ歩いていって、がたがた言わせながら開けた。とたんに外の光がさっと差し込んできて、部屋の中は明るくなった。僕は、もういちど部屋の中を見回した。
 部屋の中はきれいに掃除されていた。床にホコリがたまっているわけでも、クモの巣が張っているわけでも、すみに小さな虫の死がいが転がっているわけでもなかった。だけどそれ以外、この部屋の中には何があるというわけではなかった。空っぽだったんだ。部屋の中央に、砂岩でできた何かの台のようなものがひとつ置いてある以外は。
 高さは一メートルと少し。がっしりした大きなもので、人が三人ぐらいなら座ることができそうだ。かつてはこの上に何かが置いてあるか、飾るかしてあったらしい。この国独特の、レンガのように赤茶けた色をした砂岩だ。
「かつて、その上には何かが飾られていたらしい」イプキンが言った。
「なにが?」僕は振り返った。
「何かは知らぬ。二百五十年前に、当時のビクセン王から預かったものだったそうだ。大切なものだったらしいが、当時のビクセンは国内のごたごたで、安全に保管できる場所がなかったそうでな」
「何だったのか、本当にわからないんですか?」
 イプキンは、わずかに首を横に振った。「何か黒王妃に関するものだったとは聞いておる。それ以上のことは知らん。預かった数年後、国内の情勢が落ち着いたのでビクセンへ返された。私はさんざ口をすっぱくしてそう言ったのだが、ゾディアは信用しなかった。私がうそを言っておると思ったらしい」
 僕はかすかに微笑んだかもしれない。「その結果、娘にあんな名前をつけちゃったんですね」
「それはいうな。私も気にはしておる。だから戦車も貸してやったし、おまえにふさわしい花嫁を見つけてほしいと言われたときにも、二つ返事で引き受けた」
「えっ?」
「そんな顔をするな。そもそもフィーンディアが言ってきたことなのだぞ。だから私は気立てのよい娘を選び、ビクセンへ送ったのだ」
「その人はどうなったんですか?」
「結婚式がすむまで、フィーンディアの手でどこかの塔に閉じ込められておったそうだ。式の翌日にこちらへ送り返されてきたが、傷心をなだめるのにどれだけ骨折ったことか」
「でも式の日の夕方、発表されませんでしたか? 陛下がフィーンディアを養女に…」
 イプキンは突然かみつきそうな顔になって、少し大きな声を出した。「あれは、問題を大きくせぬために、苦しまぎれに発表したことだ。私は何も知らなかったのだ」
「だけど、花嫁の写真ぐらい事前に送ってくれてもよかったじゃありませんか」
 イプキンは不思議そうな顔をした。「何を言う? ちゃんと送ったぞ」それから意地悪そうに笑った。「ははあ、フィーンディアが握りつぶしたのだな」
 たぶんそうだろうと気がついて、僕もため息をついた。
 イプキンの表情がまた暗くなり、その後もしばらくの間、機嫌悪そうに僕を見つめかえしていた。でもふたたび言った。
「分別ある若い女王が、おまえの妻の座を手に入れるために陰謀をめぐらすなど、まったくどうなっておるのだろうな。もしかしたらフィーンディアは、さらにとんでもないことをたくらんでおるのかもしれんぞ」
「なにを?」
 イプキンはもっと機嫌が悪くなったようだった。「それは私にもわからぬ」
「でも…」
 イプキンは僕を見つめた。「私が話しておきたかったのはこれだけだ。疲れたであろう? このままお休み。明日ビクセンへ送り返してやる。命令書のことは誤解だとわかったと電報を打たせておいたから、何も心配することはない」
 翌日、僕は本当にビクセンへ帰ってきた。フィーンディアも心配して、予定を切り上げて王宮に戻ってきていたけれど、僕の姿を見て、ほっとした顔をした。


 何ヶ月かして、イプキンが死んだという知らせが突然サウカノから届いた。死因は老衰だということだった。すぐに葬儀の準備が始まった。
 あのばあさんにしてはえらくあっさり死んだもんだという気がしたけれど、納得できるような気もしないではなかった。あんなばあさんだからこそ、生に執着もせず、あっさり死神に手を引かれるままになったのかもしれない。「ほお、もうそんな時間かね?」と言いながら、杖を持ってあの玉座から立ち上がった気がする。そして死神のあとをついて、あのせかせかした歩き方で広間を出ていく。
 サウカノ王室には変わった習慣があって、王位を継ぐ者を、先代の王が自由に指名できることになっていた。葬儀がすむと遺書が開かれ、跡継ぎの名が公開される。もちろんみんな、その遺書にはイプキンの息子の名が書かれていると思っていたし、疑う理由も全然なかった。
 列車に乗って、僕はフィーンディアと一緒にサウカノへ向かった。遺書を開く場に、近隣の国々の王族や元首たちが列席するのが習慣になっていたから。
 列車がサウカニアン駅に入っていったのは、夕方のことだった。日が暮れかけていて、気持ちのいい風が吹いていた。僕は客車のデッキに出て、ドアを開けて身体を乗り出して、風をあびていた。
 ことんことんと車輪の音が聞こえる。ポイントを渡るたびに、がたごとという音が混じる。機関車からやってくる煙の匂いがときどきしたけれど、僕は気にしなかった。
 サウカニアン駅はとても大きくて、プラットホームが二十以上並んでいた。ビクセンシティー駅も大きいけれど、ここはその二倍ぐらいある感じがする。それには以前から僕も感心していたのだけど、この日はもう一つ感心することがあった。プラットホームが、あちこちの国からやってきた王や元首の専用列車でいっぱいだったんだ。
 僕はキョロキョロした。客車の右側のドアから左側のドアへ、デッキの上で何回も往復した。
 いろいろな国からやってきた、いろいろな色の機関車がいた。明るい緑、海のような青、新鮮なぶどうのような赤。どれも急行列車用のスマートな蒸気機関車だった。
「あっ」僕は小さな叫び声をあげた。すぐ隣の線路だったけれど、四角い箱のような形のディーゼル機関車がいたから。ビクセンではまだ試作品しか走っていない。車体に描かれたマークから見て、ロシュケンの機関車のようだ。
 感心するような、ちょっと腹立たしいような気分で、僕はその機関車を眺めた。ディーゼル機関車は、屋根の上にある排気管から薄い色の煙をはきながら停車していた。
 列車が止まって、僕とフィーンディアはプラットホームに降りた。もちろんサウカノ王宮から迎えが来ていたけれど、自動車が待っている正面玄関まで、プラットホームの上を歩くことになった。すぐに機関車の真横まで来た。ビクセンシティーからここまで、僕たちの列車を引っ張ってきた機関車だ。僕は立ち止まって見上げた。
 くたびれた蒸気機関車だった。角ばったドラム缶みたいな古くさい形をしていて、あちこちから蒸気が漏れている。
 僕はため息をついた。古いだけならまだしも、これは貨物列車用の機関車だった。予定では急行列車用の機関車を使うはずだったのが急に故障してしまって、それで引っ張りだされてきた代役の機関車だったんだ。貨物列車用だから足が遅くて、だから到着が夕方になってしまった。本当なら昼過ぎにはついていたはず。
 僕はもう一度ため息をついて、歩きはじめた。その様子に気づいて、フィーンディアがくすっと笑った。
 サウカノ王宮について、僕とフィーンディアは部屋へ案内された。以前と同じように、またワシプウが世話をしてくれることになった。
 部屋に入れられて、なんだか見覚えがあるなと思ったら、前のときに泊まったのと同じ部屋だった。フィーンディアはすぐにベッドに腰かけたけれど、僕は本棚のほうへ歩いていった。部屋のすみにガラス戸つきの小さな本棚があって、どんな本が並んでいるのか僕は興味を持っていたのだけど、以前来たときには眺めるのを忘れていたんだ。
 僕は、本を何冊か引っ張りだしてみた。何十年もたっていそうな古い本ばかりだったけれど、大切に扱われていたようで、いたんではいなかった。古めかしい詩集や小説が主だったけれど、その中の一冊が目を引いた。
 他の本は棚に戻して、僕はその一冊のページを広げてみた。でも一行も読めなかった。折れたクギを紙の上にまきちらしたような古語だったから。二百五十年ぐらい前に、サウカノやビクセンで公用語として使われていた言葉だ。そのころの庶民はもっと別の言葉、サウカノ・ビクセン口語を使っていたのだけど、その後だんだんと広まっていって、今では王宮でも口語のほうが使われるようになっていた。だからもちろん、僕には古語なんて読めやしなかった。読めるどころか、『こんにちは』がいえるかどうかだって怪しい。
 僕はその本を手にしたまま、フィーンディアのところへ戻った。
「これ、読める?」僕はフィーンディアの前に、その本を差し出した。フィーンディアは受け取った。僕を見つめ返してにっこりし、表紙を眺めた。それからページを開いた。
 自分の奥さんだから言うわけじゃないけれど、フィーンディアは勉強がとてもよくできた。フィーンディアを教えた家庭教師はみんな有名な学者たちだったけれど、その学者たちがいつも感心していたぐらいだから。だからフィーンディアは、僕の質問にもすぐに答えてくれた。
「これは印刷されたものではありませんね。手書きのものです」
「そうなの?」僕は気がつかなかった。あまりにもかっちりした文字だったから。
「昔はこういう書き方をするのが普通でした。それに、水に強いしっかりしたよい紙です」フィーンディアはページをなでた。
「何の本?」
「航海日誌のようです。『影ふみ丸』という船の船長の日記ですね」
「影ふみ丸? 読んでくれる?」
「ええ」
 フィーンディアはページを開き、ひざの上に置いて読みはじめた。僕は隣に座って、耳を傾けた。
 子供のころから人前で話をする機会が多かったせいか、フィーンディアは発声がとても上手だった。透き通ったきれいな声なのだけど、遠くまでよく届けることができた。その声が、高くではないけれど、寝室に響いた。


 本日は航海の七日目。天候はよく、波も静かである。穏やかな順風。このぶんでは、予定通りにビクセンシティーに着くことができよう。
 昼過ぎ、漁師の小舟が一隻、水平線のかなたに姿を現した。遠眼鏡でみると、一人の男が乗っていて、舟の上に立ち上がって、こちらに向けて両手を大きく振っている。すぐにシャツを脱いで、旗の代わりにして振りはじめた。
 あの小ささでは、海賊船ということはありえまい。同じように遠眼鏡を使った航海士が目ざとく、あの舟の帆が壊れていることに気がついた。三角帆の根元、マストが折れて傾いている。あの様子では帆走はできまい。直ちに進路を変えて、救助におもむくことにした。
 近寄ってみると、本当に漁師の小舟であった。航海士が見たとおり、マストが折れてしまっている。乗っているのは一人だけだったが、すぐに本船に助け上げ、小舟は綱をつけて曳航することにした。
 漁師は四十歳ぐらいの男。近在のカウフガンフカン島の者だったが、昨日一人で漁に出て、明け方近く、予告もなく発生した小型の竜巻がそばを通り抜けるのに出くわし、突風を受けて転覆するのはかろうじて避けられたが、マストを折られてしまった。それで一日漂流していたとのこと。
 漁師と小舟を送り届けるために、予定にはなかったが急遽、カウフガンフカン島に立ち寄ることになった。
 翌日の夕方、カウフガンフカン島が見えてきた。中央に背の高い山がひとつあるきりの、キノコのかさのような形をした島だ。人口は三百を超えぬ。
 漁師と小舟を送り届けると、島民たちは感謝し、一泊するよう我々にすすめてくれた。すすめられるまま、我々はそうすることにした。急ぐ航海ではない。
 そうやって日が暮れたのだが、真夜中近く、村長が心配顔で本船を訪れた。私に話があるとのこと。私はすぐに、村長をキャビンに迎えた。
 イスにかけさせると、すぐに村長は話しはじめた。「ついさっきですが、交易船がつきました(交易船というのは、この島と本土を定期的に結んでいる船のことだ)。ビクセンでは再び戦争が起こっているということです。交易船の船長も、様子を見るため、数週間は本土に向かわぬつもりだと申しておりました」
 これは困った事態だった。交易船ならそれでよい。しかし本船のような軍船はそうはいかぬ。戦となれば、すぐにビクセン王陛下のもとへ駆けつけねばならぬ。
 私はすぐに副長と航海士を呼んで、出帆の準備を始めるよう命じた。村長は心配顔で見守っていたが、「ご武運をお祈りします」と言ってくれた。
 だが私には、ひとつ気になっていることがあった。私も部下もみな軍人だ。いつ死ぬかわからぬ身だし、本船も、いつ沈んでも不思議はない軍船だ。しかしいま本船の船倉には、サウカノ王から預かり、ビクセン王陛下に届けねばならぬ宝が荷として積まれている。それをどうしたものか。このまま積んでおれば、いつ本船とともに海の藻屑と消えるやもしれぬ。大切な荷であるから、いい加減な者に預けるわけにもいかぬ。
 私は村長の顔を見た。この男は信用できるだろうか。私は心を決め、切り出した。
「実はおまえに、あるものを預けたいのだが…


 寝室のドアがそっと開いて、ワシプウが顔を出した。
「何をなさっているのです? もう遅いですよ。お休みにならないと、明日にさわりますよ」
 僕とフィーンディアは顔を見合わせた。フィーンディアが本を閉じ、僕は本棚へ返しにいった。
 イプキンの遺書を開く儀式は、翌朝開かれた。僕とフィーンディアが起きだして、ワシプウに連れられて広間へ行くと、もう準備は整っていた。広間は人でいっぱいだったけれど、部屋の真ん中には大きな金庫が一つ置かれていた。この儀式のために運んでこられたのだろう。でもあんなに大きなものだから、何十人も人手が必要だったろうなと僕は思った。
 そのとおり、とても大きな金庫だった。全体が鉄でできていて、真っ黒に塗られている。つやつや光っていて、縦横が二メートル以上ある。正面に扉があって、鍵穴がある。これにキーを差し込んで、ロックをはずして扉を開けるのだろう。この金庫の中にイプキンの遺書が入っていて、跡継ぎとして指名される者の名が書いてある。
 でも僕は不思議に思った。この金庫、なぜ鍵穴が四つもあるのかな。
 僕は興味を感じて、もっと近くから眺めてみたかったけれど、金庫のそばには武装した兵たちがいて、神経をぴりぴりさせているようだったから、やめておいた。だから僕は、もっと別のものを眺めることにした。フィーンディアは隣にいたけれど、邪魔はせずに、好きなだけキョロキョロさせてくれた。
 結婚式が三つぐらいいっぺんにできそうな広い広間だけれど、この日は本当に人でいっぱいだった。サウカノ王室の関係者や国民たちの代表、各国からやってきた客たちなのだろうけど、知った顔はほとんどなかった。
「ほら、あそこにいます」フィーンディアが指さした。「あれがカルラムです。イプキンの息子ですね」
「へえ」
 僕はその方向を眺めた。ひとりの男がいた。サウカノ風の衣装を着て、家来を数人連れて、人々の群れからは少し離れて立っている。いかにも強い嵐の中、丘の頂上に孤独に立ちつくす木という風情だけど、イプキンの息子ということから想像するよりは若い。イプキンには最後まで子供ができなかったので、どこかから養子にしたのだそうだった。
 とてもやせていて、目がぎょろりとして、ほおの骨が高く突き出している。そういうところは、ちょっと魚に似ていなくもない。きれいな金色の髪をして、同じ色のヒゲもきれいにかりそろえていた。いかにも優男という感じで、明るいというよりも、派手な色の衣装を着ていた。きっと、この日のためにわざわざ作らせたのだろうね。
「あいつが次の王になるんだよね」僕は言った。
「そうでしょうね」にっこりして、フィーンディアは答えた。
 暑い日だから、広間の窓はすべて開かれていた。それだけじゃなくて、廊下に通じる大きなドアが突然開かれて、大きな盆をささげ持った侍女たちが何人も入ってきて、客たちにグラスを配りはじめた。もちろん僕とフィーンディアも受け取ったのだけど、桃のエキスで味をつけた甘い飲み物で、冷たくてとてもおいしかった。僕が一口で飲み干してしまったら、まだ半分以上残っていた自分のグラスをフィーンディアがくれた。
 客たちがみんな飲み終えて、侍女たちがすべてのグラスを集めて出ていったあとで、とうとう儀式が始まった。
 正直に言うと、僕はもううんざりしていた。暑いし、イスも何もなしで立っていなくてはならない。マナー違反かもしれないから、手で顔をあおぐことだってできなかった。フィーンディアがそっとハンカチを出してきて、額の汗をふいてくれた。
 広間の中央には金庫が置いてある。それを兵たちが守っている。そのまわりを、何百人かの客たちが取り巻いている。そこへワシプウが出てきて、金庫のドアのすぐ前に立って話しはじめた。
「この王宮で最も古株の者として、また、イプキン陛下の信任をいただいていた者として、私が式をつかさどります」
 僕はびっくりした。ワシプウってそんな大物だったんだ。
 フィーンディアがこちらを向くのが、僕の目のすみに見えた。フィーンディアは僕の耳に口を近づけて、ささやいた。「ワシプウは女官長なのですよ」
 へえ。僕はもう一度感心した。
「ここに金庫があります」広間中に響く張りのある声で言って、ワシプウが指さした。「鍵番は前に出なさい」
 金庫のまわりを取り巻いている連中の中から、四人の男が前に進み出た。みんな似た顔つきのサウカノ人だけれど、服装はそれぞれ違う。年齢も、若い者は一人もいなくて、みんな中年かそれ以上だ。
「あれはだれ?」僕は小さな声で、フィーンディアに話しかけた。
 フィーンディアが、同じように小さな声で教えてくれた。耳に息がかかってくすぐったくて、声は上げなかったけれど、僕は笑ってしまった。
「あの四人は、サウカノ国民を代表しています。王族、貴族、軍人、一般市民の代表者たちです」
 ワシプウが、ふたたび広間全体に響く声を出した。「キーを出しなさい」
 四人の代表者たちは身体を動かした。みんなそれぞれ首から鎖のようなものをさげていて、ネックレスのようになっていた。四人ともそれをはずして、まわりの連中からよく見えるように、両手で高くかざした。鎖には、一つずつキーが取り付けられている。どういう金属なのか僕のいるところからではわからないけれど、黒く光った長いキーだ。
「鍵を開けなさい」ワシプウが言った。
 四人の鍵番たちは、順番に一人ずつ金庫の前に出て、鍵穴にキーを差し込んでいった。差し込んで回すのだけど、そのたびにカチンと小さな音がする。でもその後キーを抜きはしなかったから、最後には四つのキーが金庫の扉に並んで刺さったままになった。
 仕事を終えて、鍵番たちは金庫の前から離れた。まったく同じ形の四本のキーが刺さったままになっているというのは、なんだかおかしな眺めだったけれど。
 ワシプウが再び前に出て、金庫の前にかがんで、両手で扉のノブをつかんだ。レバーのようになった細長いノブなのだけど、ワシプウはしっかりつかんで九十度回した。ゆっくりと扉を動かした。金庫が開きはじめた。
 扉は、手前に開くようになっていた。完全に開くと、金庫の内部がよく見えるようになった。僕がいた位置からもそうだったのだけど、金庫の内部には棚も引き出しも何もなくて、がらんとした空っぽの部屋になっていた。そこに、白い封筒が一つポツンと置いてある。
 列席者たちの間から、小さなざわめきが上がった。といっても、何か異常があったからではないのだろうけど。
「あれが遺書?」僕は、小さな声でフィーンディアに話しかけた。
「はい」フィーンディアはうなずいた。
 ワシプウがかがんで、封筒を拾い上げた。それから人々を振り返り、封筒を高くかかげて見せた。何度か裏返し、封筒の表と裏を見せた。
「このとおり、きちんと封印されています」ワシプウの声が響いた。
 ワシプウは四人の鍵番たちに封筒を見せて、封印が完全であることを確かめさせた。封筒はちゃんと糊づけされ、イプキンの署名がされている。ロウで封もされている。鍵番たちはうなずいた。
 ワシプウは封筒を両手で持ち、ふたの部分に指先を入れて、封を切った。ピリッと音がして、封筒が破れた。ワシプウは中身を取り出した。列席者たちからよく見えるように、手は高くかがげたままにしている。
 中身は、白い紙が一枚だ。半分に折りたたまれているが、他には何も入っていない。その紙を指の間にはさんだまま、ワシプウは封筒を引き裂いた。またピリリと音がした。ワシプウは封筒を引き裂いて裏返し、中に何もないことを確かめさせた。
 ワシプウはそのまま、引き裂かれた封筒を床に落とした。でも、中にあった紙はまだ指の間にはさんでいる。ゆっくりとその紙を広げて、ワシプウは声を上げて読みはじめた。列席者たちは、じっと耳をすませた。広間の中に、ワシプウの声が響いた。
「女王として与えられた権限により、私は跡継ぎを指名する。ビクセン王朝はわが王朝の分家であり、この者は私の義理の娘の婿でもある。血筋としては十分であろう。私はクスクス・ビクセンを指名する」
 十秒ぐらいの間、広間の中はとても静かだった。僕には意味がわからなくて、ぽかんとしていた。でもやっと意味がわかって、身体が熱くなってきた。クスクス・ビクセンって、僕のことだから。だけど僕は、いいニュースだから熱くなったんじゃなくて、これはまずいぞ、と感じたからなんだけどね。だから思ったとおり、広間の中にすぐに叫び声が響いた。悲鳴というほうがよかったかもしれないけど。
「なぜだ!」
 男の声で、声がした方向を見ると、カルラムがいた。
 でもワシプウは何も言わなくて、イプキンの遺書を鍵番たちに見せた。鍵番たちも呆然とした顔をしていたが、それでもワシプウから紙を見せられると、納得せざるを得なかったようだった。黙って首を縦に振った。その様子を見て、列席者たちがざわめきはじめた。
「これは茶番だ」
 再び、カルラムの声が広間に響いた。
 ワシプウは顔を上げ、カルラムをまっすぐに見つめた。「異議を唱えるおつもりか?」
「誰かが遺書を入れ替えたに決まっている。そいつがやったに決まっている」カルラムは僕を指さした。
 カチン、カチン、カチン。
 広間の中に、いっせいに金属音が響いた。ざざざっと足音も聞こえた。フィーンディアの家来たちが銃を抜いて、フィーンディアと僕のまわりに集まる音だった。
「ふうう」
 誰かのため息が聞こえた。すぐ隣で聞こえたので、僕はそっちに顔を向けた。そこには、もちろんフィーンディアがいた。
「指で引き金を引くのは簡単でしょうが」フィーンディアは話しはじめた。一瞬で広間の中は静かになった。その中にフィーンディアの声が響いた。「そのひと引きが戦争につながるということもお考えになったほうがよろしいでしょう」
「何を言うか!」水の外に出た金魚のように口をパクパクさせながら、カルラムが言った。かすれてもいるし、背中のどこかから空気でも抜けているような声だ。
 フィーンディアは、まっすぐにカルラムを見つめ返した。フィーンディアとカルラムの間の距離は十メートルぐらいあって、たくさんの人々がそこにはいたのだけど、みんなあわててよけた。だから、フィーンディアとカルラムは邪魔されずに見つめあえるようになった。もっとも、見つめていたのはフィーンディアのほうだけで、カルラムは憎々しげににらみつけていたのだけど。
「冷静に考えていただきたいのですが」フィーンディアが言った。「その遺書を自分に都合のよいものと入れ替えるなど、クスクスに可能なことでしょうか? その金庫は大金庫の奥深く、三重の扉に守られていたはず。キーは四人の鍵番たちの手で守られていたはず。イプキン陛下の遺書を入れ替えるなど、クスクスであろうが誰であろうが、絶対に不可能です」
「しかし」カルラムが言い返した。でも、やっぱりどこか頼りない声だ。「クスクスはおまえの夫ではないか。わが国をビクセンに売り渡せというのが母の意思であったとは到底思えぬ」
 フィーンディアは、見つめ返したまま答えた。「それは私にはなんとも言えません。ですが、そこにそう記されている以上、そういう意志をお持ちだったのでしょう」
「我々は、ビクセンの軍門に下る気などない!」カルラムは叫んだ。
 フィーンディアはにっこり笑って、まわりを見回した。同じようにして、僕も列席者たちを眺めた。ついさっきまでは殺気立っていたが、今はもうそうでもないようだ。フィーンディアの話し声って、人の気を静める力があるのかな、と僕は思ったりした。
 僕は、もう一度カルラムを眺めた。どうにも魅力の感じられない男だった。小学生のとき、似た感じの子供が同じクラスにいたことを思い出した。ぶちぶち文句ばかり多くてうるさくて、頭はよかったけれど、仲良くなったり友だちになったりしたいと思ったことはなかった。一度組になって自由研究課題をやらされて、ひどい目にあったことを思い出した。だってあいつが主張した研究テーマは『ビクセンシティーの運河ぞいの下水には、尾の白いねずみと黒いねずみのどちらが多くいるか?』だったんだよ。言い争うのが面倒になって、それでいいと僕が承知したせいもあるんだけど。
 そんな考えごとをしていたから、何秒かの間、僕の耳はお留守になっていた。その間にカルラムが何かを言っていた。僕は気がついて、耳をすませた。カルラムは、木の枝のようにとがった細い指で僕を指さしていた。
「おまえのような泥棒猫には、国も王位も渡せぬ」
 続いてフィーンディアの声が聞こえた。しっぽを踏まれた猫のようなカルラムとは違って、フィーンディアの声はすんでいて快かった。フィーンディアは一瞬僕と視線を合わせてにっこりしたけれど、すぐにまたカルラムを見つめて、話しつづけた。
「しかし、クスクスを指名されたのはイプキン陛下なのですよ」
「それが信じられぬ。その遺書は何かの間違いであろう」
 そこへワシプウの声が割って入った。「いいえ」
 カルラムはワシプウをにらみつけた。「どういうことだ?」
 ワシプウは言った。「イプキンさまが遺書を書かれる場には私もおりました。イプキンさまは、内容を私にお見せになりました。亡くなる直前のことです。遺書の内容はこの通りでした」
「まさか」
「ですからカルラム」
 僕はとうとう口を開いた。なんたって僕が当事者なんだから、いつまでもフィーンディアに任せているわけにはいかないもんね。ただ僕も、このさき事態がどうなるのか、自分が何を口にするつもりでいるのか、さっぱり見当もつかなかったのだけど、なんとなくまじめに心配する気にはなれなかったんだ。僕はある意味、ものすごく気楽な気分でいたと思う。僕はカルラムに向かって続けた。
「イプキン陛下のご意志をむだにしない意味でも、しばらく僕と二人で話をしませんか? お互いに納得できる答えが見つかるかもしれませんよ」
 カルラムは、いかにも気に入らない顔でにらみかえしてきた。「どういうつもりだ?」
 僕は答えた。自分でも感心するぐらい穏やかな声が出た。「あなたにも僕にも納得できる解決策があるのではないか、と申し上げているのですよ」
「どうするつもりなのですか?」フィーンディアが僕の腕に軽く触れた。少し心配そうな顔をしているように見えた。僕もやっと気がついたのだけど、こういう公の場で僕が口をきいたのは、これが初めてだったからね。フィーンディアもびっくりしていたんだと思う。でも僕にはどういうわけか、これをうまく処理できる自信みたいなものがあったんだ。どうやるつもりでいるのか、自分にもわからなかったのだけど。
「カルラムと話をしてくるから、ちょっと待っててね」僕は、フィーンディアのほおにそっと触れた。フィーンディアのほおが、リンゴみたいに赤くなった。
「こちらへ」気がついたら、ワシプウがそばへきていた。その後ろにはカルラムがいる。めちゃくちゃに機嫌の悪そうな顔をしている。
 僕とカルラムは、ワシプウのあとをついて歩きはじめた。廊下に入って少しいくと、もう広間のざわざわした話し声は聞こえなくなったので、僕はほっとした。僕はどうも、人ごみや人いきれが嫌いならしいね。
 人のいない廊下がずっと続いている。ワシプウが前を行く。束ねた髪から背中にまっすぐたらした白い布がきれいだ。サウカノの女の衣装によく見る形だけど、ビクセン王宮に帰ったら、フィーンディアにも同じ格好をしてもらえるように頼んでみようかな、とふと思った。
 カルラムが話しかけてきたので、僕はそっちを向いた。歩きながらカルラムは、僕とちらりと視線を合わせた。さっきとは違って、なぜか今は、カルラムのことをそれほどいやなやつだとは感じないことに気がついた。なぜだろう。虚勢を張るのをやめて、当惑した表情を隠そうとしていないからかもしれない。
「まったく、もうろくばばあにも困ったものだ。あんなにぼけているとは思わなかったよ」
 どう答えていいかわからなかったので、僕は黙っていた。
 ワシプウが立ち止まって、廊下のわきにあるドアのひとつを開けた。どういう部屋なのかわかっているからだろうけど、カルラムはさっとワシプウのわきを抜けて、そのドアをくぐって中へ入っていった。僕も続いて入ろうとした。
 でもワシプウが僕の腕に軽く触れて、立ち止まらせた。僕は何か言いかけたのだけど、ワシプウの顔を見て、口は閉じておくことにした。ワシプウはひどく真剣な顔をしていて、制服のポケットからさっと小さな白い封筒を取り出して、僕の手に押しつけた。僕は受け取って、ちらりと視線を走らせたのだけど、もちろん手紙に決まっていた。サウカノ王国の公用に用いる封筒だったけれど、宛名も差し出し人も書いてなかった。僕はすぐに自分のポケットに入れて隠し、なんでもない顔をして、カルラムが待っている部屋の中へ入っていった。ワシプウはほっとした顔をして、僕の背後でゆっくりとドアを閉めた。部屋の中で、僕はカルラムと二人きりになった。
 広い部屋ではない。小人数の会議にでも使うのか、イスがいくつか置いてある。クッションのふかふかしたイスで、テーブルもある。簡単な食事ぐらいならできるだろうね。カルラムはそのイスのひとつにどかっと座って、僕を待っていた。僕はゆっくり歩いていって、向かいあって座った。すぐにカルラムが口を開いた。
「オレの立場を考えてくれよ。養子とはいえ、オレはあいつの息子なんだぜ。王位を継がせてもらえるもんだと思ってたんだ」
 カルラムの口ぶりは、いかにも愚痴をこぼしているという感じだった。こんな男じゃあ、イプキンが跡を継がせることをためらっても不思議はない気がした。この男には、イプキンみたいに狡猾なところや、まわりが何を言おうと断固として自分の考えを押し通す頑固さなんかないだろう。イプキンが即位したとき、サウカノは羊を飼うことしか産業のない国だった。それがたった四十年で、このような商業国家に成長した。でもきっと次の四十年で、またもとの貧乏な国に戻ってしまうだろうね。だけど僕には、サウカノ国民の運命なんか関係ない。僕は口を開くことにした。
「イプキン陛下の遺書には、正直なところ僕もびっくりしています。何をお考えだったのか。それに実際のところ、僕がサウカノの玉座に座るなんて、できそうもない話ですしね」
「オレに譲ってくれるかい?」
 表情を輝かせて、カルラムは顔を上げた。僕は、骨付き肉を目の前に見せられたときの犬の表情を連想した。
 僕はにっこりした。最高の微笑だったと自分でも思うよ。詐欺師の愛想よさというやつ。
「もちろん王位はあなたにお譲りします」僕は言った。「ただ…」
「ただ?」カルラムの表情が、一瞬でしぼんだ。骨付き肉をさっとどこかに隠されてしまったときの犬の顔。
 僕は言った。「いえね、ビクセン国民が納得しないと思うんです。『せっかくサウカノを手に入れるチャンスがあったのに、なぜふいにしたのだ?』と言われると思います。国民たちは、僕が何かみやげを持ってかえらないと納得しないでしょう」
「みやげだって?」カルラムは、これ以上はないぐらい不審そうな顔をした。
「僕だってメンツがありますからね。あなたに王位を譲って、黙ってすごすご帰ってきたんじゃあ、格好がつきませんや。それで相談なんですがね…」
 僕の口ぶりが突然変わったので、カルラムは目を丸くしていた。でも黙っていたので、僕は続けることにした。
「どこか小さな土地でいいんです。サウカノからビクセンに割譲してくれませんか? サウカノから切り離して、ビクセンの領土に加えるんです」
「サウカノの領土を減らせというのかね? 国民たちがなんと言うか」
「重要な場所でなくてもいいんです。僕がサウカノから何かを得たという形になればいいんです。辺境の小さな土地なんかどうです?」
「辺境?」
「たとえばカウフガンフカン島なんかどうです? 海の真ん中の離れ小島です。あそこを失っても、サウカノ国民は何も言わないでしょう」
 話しながら、僕は笑わないように苦労していた。骨付き肉をヒモの先にぶら下げて、腹を減らした犬の頭の上にぷらんとたらしているような気分だった。肉が振り子のように左右に動くたびに、犬はそれにあわせて体を左右に振る。ぎらぎらした目玉で追いかける。
 僕とカルラムが広間に戻ってきたのは、一時間後のことだった。サウカノ人たちはともかく、外国から来た客たちはもうほとんどがそれぞれの部屋に引き上げてしまっていたけれど、フィーンディアは待っていた。気をきかせた女官たちが用意してくれたのだろうけど、床の上に置いたイスに腰かけて、まわりを家来たちが取り囲んでいた。その中にはスタウもいたのだけど、いかにも敵地にいるという風情で、まわりを油断なく見回しつづけている。
 フィーンディアはすぐに僕に気づいて、立ち上がった。金庫のそばに立っていたワシプウも気づき、王宮中に人を走らせて、列席者たちをもう一度広間に集めるように手配した。そしてすぐに、カルラムが国王に即位することが発表された。
 そのニュースが国中を走り回りはじめていたころ、僕はフィーンディアと手をつないで、サウカノ王宮の廊下を歩いていた。カルラムとどういう話をしたのか、僕は今すぐ話してやりたくて仕方がなかったけれど、まわりに人がたくさんいるから我慢していた。
 三十分後には、僕とフィーンディアはサウカニアン駅にいた。列車はもう準備されていて、プラットホームで蒸気を吹きながら待っていた。僕たちが乗り込むと、すぐに発車した。やっと僕は、あの部屋の中でカルラムと話した内容をフィーンディアに話してきかせることができた。フィーンディアは僕を見つめたまま、じっと聞いていた。
 話し終えたとき、僕は上着のポケットから、白い紙を出してきた。公式文書に使うしっかりした紙で、きれいに折りたたまれている。それをフィーンディアの目の前で広げた。
 用紙の一番上の部分には、サウカノ王国の紋章が印刷されている。紙そのものにも何カ所か、同じ紋章がすきこまれている。何行か、僕と同じぐらいへたなカルラムの手書きの文字が並んでいる。その一番下にはカルラムのサインと、サウカノ王の公印が並んでいた。カウフガンフカン島をビクセンに割譲することを認めた書類だった。僕が手渡すと、フィーンディアはていねいに折りたたんで、大切そうにカバンの中にしまった。
 ことん、ことん。列車は走りつづけた。その夜は、寝台車のベッドの中で僕とフィーンディアは眠った。朝になって目を覚まして、居間に移動した。それでも、まだ列車は走りつづけていた。
「見えてきましたよ」
 フィーンディアが僕のほおにそっと触れて、窓の外に顔を向けさせた。僕はされるままになった。
 列車はビクセンシティーの中心部に近づきつつあった。ブレーキの音が聞こえてきて、列車が速度を落としはじめた。窓の外は三角州の平野で、石でできた小さな家々がずっと広がっている。
 線路がカーブしているので、遠くにある山脈が、ゆっくりと視野の中に顔を見せはじめた。その手前に、ぐいと王宮の建物が割り込んできた。そっけないデザインの建物で、あんまり四角いから、僕はひそかに犬小屋とあだ名をつけていた。列車はそのまま駅に滑り込み、僕とフィーンディアは自動車に乗って、王宮へ帰った。
 その日の午後まで、僕は一人になることができなかった。居間で昼過ぎまで休憩して、やっとフィーンディアがオフィスへ出かけてから、僕はワシプウから手渡された手紙の封を切ることができた。


 親愛なるクスクス。
 ワシプウに命じて、私が死んだあと、この手紙が人目につかずにおまえに手に渡るようにした。ワシプウのことだから、うまくやってくれたであろう。
 おまえがこの手紙を読んでいるということは、私はすでに死んでいるということになる。やれやれ、私はどういう死に方をするのであろうな。あまり苦しい死に方でなければよいが。
 今のおまえは、私が残した遺書のせいで、ひどく当惑しておろう。おまえがサウカノの玉座に座ることになるとは、正直なところ私も信じてはおらぬ。今となってはどうしようもないことではあるが、カルラムのような愚か者ではなく、おまえのような者を私は息子にしたかった。だがこの機会を生かして、おまえが何かしら自分にとって役立つように物事を運んでくれるのなら、ああいう遺書を書いた値打ちはあったというものだ。それが、死にゆく老人にとって、せめてものなぐさめとなろう。


 この手紙の一番下には、もちろんイプキンのサインがあった。
 翌日、僕はフィーンディアの目を盗んで、一人で王宮のはずれへ向かった。フィーンディアだけじゃなくて、王宮にいるほかの連中にも見つからないように注意した。他の連中って、特に女官や侍女たちだよ。
 大きいものではないけれど、この王宮には図書室があって、いろいろな本が保管されているということだった。僕はそこへ向かっていたんだ。足を踏み入れるのは初めてだったけれど、図書室は王宮のはずれ、小さな塔の中にあった。僕は、ハニフから借りたキーを手にしていた。塔の入口を入って、狭い石のらせん階段を登っていくようになっている。階段を登りきったところに分厚い木のドアがあって、鉄の帯金で頑丈に補強されて、古めかしい形の錠前が取り付けてあった。おかしな形の錠前とキーだったので、少しのあいだ考えなくちゃならなかったけれど、僕は鍵を開けることができた。ハニフは、エビ錠という古い形の鍵だと言っていた。
 王宮内では、こういうふだん使わない部屋の鍵は二組あって、マーガとハニフが一組ずつ保管していた。だからどちらに借りにいってもよかったのだけど、僕はハニフを選んだ。もちろん、マーガだと話しにくいとか、借りにくいというのじゃなかった。でもマーガは、フィーンディアの結婚式の陰謀に協力していた。今だって、僕がマーガに対して言ったことは、そのままフィーンディアに筒抜けになるだろう。そんなことを思いながら、僕は図書室の鍵を開けた。
 図書室の中はひどく暗かったけれど、窓のよろい戸が閉まっているせいだとすぐに気がついた。よろい戸を開けると明るくなった。床や本棚の上にホコリが分厚く積もっていたので、ついでに窓も開けた。
「ふう」
 ため息をついて、僕は図書室の中を見回した。それほど広い部屋ではないが、本棚がいくつも並んでいる。窓はこれ一つしかない。出入り口も一つだけだ。本棚は、どれも本がいっぱい詰まっている。牛の革で装丁された古そうな本ばかりだ。どこから探せばいいのかな。
 でも運がいいことに、僕は目的のものをすぐに見つけることができた。黒い革表紙の本で、そんなに分厚くも大きくもない。僕は本棚から引っ張り出して、息を吹きかけて、ホコリを飛ばしてからページを開いた。
 口語で書かれていたけれど、最初の一行か二行を読んだだけで、僕はもううんざりしていた。手書きの本で、言い回しも古めかしくて、見慣れないおかしな形の書体が使われているから、とても読みにくい。でも僕は、床の上に立ったまま読みつづけた。
 ビクセン海軍の様々な記録をひとまとめにしたノートだった。百年ぐらい前にある武官が個人的に所有していたものらしいが、その男の死後、誰の手にも触れられずにここに置かれていた。僕はページをめくって、ビクセン海軍の軍船のページを見つけ出した。その当時存在していた軍船、それ以前に存在した軍船が一通りリストになっていた。
『影ふみ丸』はすぐに見つかった。もちろん、ずっと昔に存在しなくなっている船だ。重さは三百六十トン。木製で、大砲を四門備えていた。当時としては大型の船だね。僕は、除籍された日付を確かめた。
 除籍されたのは二百五十年前だった。除籍理由はこう書かれていた。

 カウフガンフカン島沖にて、複数の敵船と遭遇。勇敢なる戦闘ののち、左右から砲撃を受け沈没。生存者なし。

 数日後、適当な理由をつけて、僕はフィーンディアから船を借りることができた。僕が何かを隠しているとフィーンディアは気がついていたに違いないけど、何も言わずに貸してくれた。
 ビクセン王国政府の船だから、当然軍艦だった。『キャベツ伯爵』という名の水雷艇で、大型艦ではないけれど、スピードだけは出た。
 夏の日の朝早く、僕はその船に乗ってビクセンシティーの港を出発した。造船所で修理を終えた直後の試運転ということに表向きはしてあったから、あまり遠くまで行くことはできなかったけれど、スピードの出る船だから、目的地には一日で到達できる予定だった。
 港の外に出てスピードに乗りはじめると、僕は甲板に出て、手すりにつかまって風を浴びながら、海を眺めた。
『キャベツ伯爵』は、煙突から黒い煙をもくもくと吐いている。僕の足のすぐ下に機関室があるのか、ごつごつしたエンジンの振動が直接伝わってくる。波は穏やかだけれど、他の船が起こした波を横切るたびに、船体がぴょんぴょんはねる。はねて海面に落ちるたびに、海は実は水じゃなくて、石でできてるんじゃないかと思えるぐらい固い反発がある。
 振り返ると、ビクセンシティーが小さくなっていくところだった。いつものようにスモッグのかかった姿で、背後の山脈が薄黒くぼやけて見える。中央駅の時計塔の白い棒のような姿と、王宮の四角い建物だけはわずかに見分けることができる。でもそれもそのうちに、ビクセンシティーと一緒に水平線の下に消えてしまった。
「艇長が呼んでおります」スタウがやってきて、僕に話しかけた。振り返ると、太陽の光が水面で反射しているせいか、まぶしそうに僕を見ていた。
 僕はスタウに連れられて、鉄でできた狭い急な階段を上がっていった。火器室を抜け、水兵たちの区画を抜け、最後はむき出しで風に吹かれているほとんど垂直なハシゴをあがって、やっとブリッジについた。
 とても狭いブリッジで、ビクセンシティーを走っている古い路面電車の車内と同じぐらいの広さしかなかった。艇長と副長がいて、二人とも手に双眼鏡を持っている。その隣では当番の水平が、緊張した顔で舵輪を握っている。艇長のすぐ横には机があって、海図が広げてある。舵輪のすぐ前には羅針盤、横の壁には温度計と気圧計。僕はちらりと目盛りを見たけど、水銀はかなり高いところをさしている。絵に描いたような高気圧だ。当分晴れが続くだろう。
 僕は海図をのぞきこんだ。ビクセンシティーとビクセン湾がすぐ目についた。そこから鉛筆でまっすぐな線が引かれ、大洋の真ん中を横切っている。その行き着く先は、もちろんカウフガンフカン島だ。
「クスクス殿下、この調子でしたら夕方には到着できましょう」と艇長が言った。
「そう、よかった」
 僕はそのまま、それ以上は何も言わずに何分間かブリッジにいたのだけど、みんな居心地が悪そうにしているから、下へ降りることにした。僕がハシゴに手をかけると、スタウもついてきた。
 することがないので、僕はまた甲板に出て、海を眺めることにした。船はもう外洋に出ていて、波は小さいけれど、全体にうねりが出ていた。でも、船が揺れるというほどじゃない。
「ねえスタウ」僕は話しかけた。
「はい」
「あんたは陸軍の人間だよね。海は苦手なんじゃないの?」
「実は」スタウは表情をくずした。いかめしい将校らしい顔つきだったのが、不安そうな普通の男の顔になった。「こうしていても、いつ船酔いを起こして、げえげえ言い出すか気が気ではありません」
 僕は、手すりに寄りかかったまま笑い出した。スタウみたいな大男が船酔いでへばっているところなんて、想像するだけでおかしかった。
「私はまじめにお話ししているのですよ」ちょっと怒ったような声で、スタウは言った。
 艇長が言っていたとおり、船は夕方カウフガンフカン島についた。日が沈みかけて赤くなった空に、島のシルエットが浮かび上がっていた。
 島の形は、本当にあの本に書いてあったとおりだった。僕は一瞬、この島は本当に巨大な一個のキノコで、頭だけを水の上に出しているけれど、その下は海底までずっと太いまっすぐな茎が続いているんじゃないかという気がした。
 この島には、二百五十年前には三百人ぐらい住んでいたそうだけど、汽船の時代になって風待ち港が不要になったことと、海流が変わって付近で魚が取れなくなったこととで、今では無人島になっていた。近寄ると、海の上からでも家々の廃墟を見ることができたけれど、毎年やってくる嵐のせいで、どの家も壊れかけていた。壁は石を積み上げて白いしっくいで固めてあるからまだ崩れてはいなかったけれど、木製の屋根はみんな落ちてしまっていた。つねに波がぶつかっているせいで、防波堤の先端はなくなってしまっている。水の中をのぞきこむと、崩れた岩のブロックが海底の砂の上に転がっているのがいくつも見えた。
 艇長たちは慎重に船を操り、港のほぼ真ん中に船を落ち着け、イカリをおろした。今夜はここに停泊することになった。
 翌朝早く、僕はスタウを連れて出発した。手漕ぎのボートで送ってもらって、砂浜に上陸した。陸に上がると、スタウはいかにもせいせいした顔をした。ボートはすぐに水雷艇に帰ってしまったから、僕はスタウと二人きりになった。
 歩きはじめながら、僕は言った。「ねえ、あんたとこうやって二人で歩くのって、初めてじゃない?」
 リュックサックを背中の上で動かして、肩ひもの具合を直しながらスタウは答えた。「そう思います。とても楽しみです」
 スタウはいつものように、いかにもまじめくさった顔をしていた。僕はため息をついて、ポケットから地図を取り出した。折りたたんである大きな紙だけれど、目の前で広げて、スタウがポケットから取り出した方位磁石と照らし合わせた。
「あっちだよね」僕は西の砂浜を指さして、歩きはじめた。スタウは黙ってついてきた。
 ここは島の南側だった。島内唯一の港と町もここにある。でも、僕とスタウの目的地は島の反対側だった。これから、島の周囲をぐるっとまわっていかなくてはならない。
「その地図は本当にあてになるのですか?」
 僕が地図をたたんで、ポケットに入れると、すぐにスタウが言った。
「たぶんね」僕はうなずいた。「ここで代々村長をしていた家があって、その子孫の家にあった地図を写してきたものだから。サウカノ陸軍が測量した地図も借りて照らし合わせてみたけど、よく一致してたよ」
「ならよいのですが」スタウは、僕と並んで歩きつづける。がっしりした体格のいい男だから、一歩あるくたびに足が砂にめり込む音がする。砂浜は広く、ゆるく右にカーブしながら伸びている。左側は海で、右側はすぐ森になっている。昔はその中を道が走っていたに違いないけど、今はもう木や草がぼうぼうで歩けないだろう。だから僕は、海岸沿いを行くことにしたんだ。
 振り返ると、町と港の廃墟が見えた。港の真ん中には『キャベツ伯爵』が停泊している。今日も天気がよくて、波も静かだ。森のどこかで鳥が大きな声で鳴くのが不意に聞こえてきた。
「ねえ、あの船はなんで『キャベツ伯爵』なんて名前がついてるの?」僕は話しかけた。
「ああ」スタウは笑った。「何世紀か前になんとかいう名前の伯爵がおりまして、でもあまりキャベツが好きで、毎日毎日キャベツばかり食っているものだから、いつの間にかそういう名前で知られるようになりました。この人物が、ビクセン海軍の基礎を築いたのです」
「へえ」
「そういえばご存知ですか?」スタウは目をくりくりさせて、いたずらっ子のような顔をした。
「何を?」
「来年、わが国は駆逐艦を一隻建造する予定になっておりますが、フィーンディアさまは、それをクスクスさまにちなんで命名されるようですよ」
「本当に?」
「一昨日、命令書に署名されました。クスクスさまへの誕生日プレゼントだそうです」
「へえ」
 うれしくないわけではなかった。駆逐艦クスクス・ビクセン。最新型だしね。宝石なんかをもらうよりすてきかもしれない。それに経済的だし。だってさ、船に僕の名をつけるのに必要なのは、船体に文字を書くときに使うペンキだけだから。
 でも僕は、不意に別のことを思いついた。「だけど、その船が沈んだらどうなるの? ロシュケンの魚雷を食らうとかして」
「その場合には」スタウはまじめな顔で答えた。「船はクスクスさまの栄光と共に、永遠に海底に横たわるのです」
 タコやナマコやウミウシのアパートとしてね、と思ったけれど、僕は黙っていた。スタウの高揚した気分に水をさすのは気の毒に思えたから。
 僕とスタウは歩きつづけた。振り返っても、もう町も船も見えないところまで来ていた。砂浜はずっと同じ調子で続いていた。僕とスタウはときどき磁石と地図を取り出して、場所を確かめた。
「もうそろそろ河口が見えてくるはずですね」とスタウが言ったときには、僕たちはもう七、八キロ進んでいて、島の北側に足を踏み入れていた。右に顔を向けると、島の中央にある高い山は、やっぱり同じようにずどんと高く見えている。でも、港のあたりから見るのとは形が違う。北側には、南側にはなかった小さなこぶみたいな小山が寄り添っているのが見える。
 数分後には、本当に河口が見えてきた。小川と呼びたくなるような小さな川だけれど、河口には違いない。森の中から顔を出して、砂浜を横切って、海に注ぎこんでいる。大雨のときにでも山から転がり落ちてきたのか、家ぐらいの大きさのある四角い岩が一個、すぐそばの砂浜に半分うずまって、まるで小型の突堤みたいに海の上に突き出していた。
「あの岩は、上で釣りをするのにうってつけですな」スタウが言った。
「上にあがれる? 大きな岩だよ」
 スタウが指さした。「ほら、岩の右側がぎざぎざに割れているのが見えましょう? 手足を引っ掛けて、ハシゴがわりに登れそうです」
「そうだね」
 でも僕とスタウには、それを試してみる時間はなかった。河口までやってくると進路を変えて、川ぞいに森の中へ進みはじめた。
「どのくらい先です?」とスタウ。
 僕は地図を引っ張りだした。「たいしたことはないよ。四百メートルぐらいかな。川のこっち側」
「小さな谷間に畑があって、そのそばの農具小屋でしたね」
「きれいな湧き水があって、石クルミを栽培してたんだって」
「ははあ。あれは水がきれいで、日当たりがよくないとできませんからな。風があってもだめだし」
「谷間だから、海からの風も吹かないんだって」
「そうですか」
 僕とスタウは、川岸を歩きつづけた。白い砂がたまって、幅は狭いけれど砂浜のようになっていて歩きやすい。ときどきその砂浜もなくなってしまうけれど、そんなときは隣の草地を突っ切るか、ざぶざぶ水の中に入っていくかした。そうやって歩いていくと、あるところまでは右側にずっと土手のような土の壁が続いていたのが不意に開けて、切り通しか通路のようなものが見えてきた。
「谷への入口ですな」スタウが言った。
 僕とスタウは右へ曲がった。足元は、さっきの川よりもずっと細くて浅いけれど、せせらぎが続いている。透明できらきらした水しぶきを上げながら、僕とスタウは歩いていった。
 少し行くと切り通しは突然広くなって、丸い開けた土地になった。直径は百メートルぐらい。洗面器の底のようにくぼんでいて、まわりは岩の壁が垂直に立っている。でも、そのくぼ地の一番奥には小さな滝のようなものがあって、透明な水が絶え間なくしたたりおちている。岩の表面には黄色のコケが生えている。
 僕は見回した。小屋はすぐに見つかった。ここには背の低い木が何本か生えていて、そのこんもりした群れの向こうに屋根が見えていた。
 スタウが叫び声をあげた。「この木は石クルミです。人の手が入らなくなっても、枯れずに自生しつづけていたわけですな」
 スタウは木のひとつに歩み寄った。「実がなっておりますぞ」
 スタウはポケットからナイフを取り出して、一つ切り取った。「いささか小さい実ではあるが、石クルミには違いない」
 スタウは実をむきはじめた。直径は三センチぐらいで、丸い形をしているけれど、表面は石のように黒くて、皮は分厚くてざらざらしている。でもナイフで切れ目を入れると、果肉と果汁は血のように真っ赤で、スタウの指先が真っ赤に染まった。同時に甘い匂いがぱあっと広がったので、スタウはうれしそうな顔をして口に運んだ。でもすぐに、うげえという顔をして吐き出した。
「なんと苦い実だ」
 スタウはほっておいて、僕は小屋のほうへ行ってみることにした。ぺっぺっとまだつばを吐きながら、スタウもついてきた。
 縦横が三メートルぐらいしかない小屋で、白い石を積み上げて作った壁はしっかりしているし、屋根もまだ落ちてはいなかった。
「農具小屋にしては立派なものですな」スタウが言った。
「石クルミが実る季節には、泥棒が入らないように、ここで夜通し見張ってたんだって」
「なるほど。それで例のものはどこです?」
「小屋の扉を開けようよ」
 僕は扉に近寄った。壁が一ケ所、四角くへこんでいるから、そこに扉があるとわかるのだけど、ツタで深くおおわれているから、どこにノブがあるのかもわからない。僕とスタウはあちこちツタをむしって、やっと見つけた。ノブというよりも、牛の鼻輪みたいな金属製のリングだったけど、スタウが大きな手でつかんで引っ張ったら、ポロリと取れてしまった。スタウの手からもこぼれ落ちて、カチンと地面にぶつかった。
「完全に腐ってますな」スタウが肩をそびやかした。
「五十年ぐらいたってるもんね」
「お下がりください」
「どうするの?」
 でもスタウは答えなくて、力を込めて、扉をドンとけった。扉は一発ではずれて、大きな音とホコリを立てて、小屋の中へ倒れこんでいった。
 ホコリが静まってから、僕とスタウは小屋の中へ入ってみた。中は空っぽだった。窓が二カ所あるが、雨戸でふさがれている。僕はスタウと協力して、扉を小屋の外に運びだした。石でできた床が顔を出した。
「たしかにありますな」スタウが指さした。畑で収穫された石クルミは、本土から船に乗ってやってくる商人に直接売り渡されていたのだけど、その商人が到着するのを待つあいだ実を隠しておく秘密の地下室があったんだ。そこへの入口が、床の中央に見えていた。分厚い木材で作られた揚げ戸で、ほぼ真四角な形で、四すみを鉄板で補強してある。
 床の上にかがみこんで、スタウが力を込めるだけで、揚げ戸は簡単に開くことができた。床の中央に、四角い大きな穴が開いた。僕はリュックサックから懐中電灯を出してきて、スイッチを入れた。スタウも同じようにした。
 逆立ちをするようにして、頭を突っ込んでのぞきこむと、意外に広い部屋だとわかった。たぶん、上の小屋と同じだけの広さがあるのだろう。
「階段があります」すぐにスタウが気づいて、懐中電灯の光で照らした。石造りの急で簡単なものだけれど、たしかにそこにある。壁際を昇り降りできるようになっている。僕はリュックサックを下ろした。地下からは、甘いようなホコリの匂いが立ち上ってくるけれど、気にはならなかった。
「お気をつけて」スタウが言った。僕の懐中電灯を受け取って、自分の懐中電灯とあわせて、僕の手元や足元を照らしてくれた。僕はゆっくりと降りていきはじめた。
 段は十ほどしかなかった。僕はすぐに、地下室の床に立つことができた。上を向いて手を差しだすと、スタウが慎重に狙いをつけて、僕の懐中電灯を投げ落としてくれた。僕はうまく受け取って、スイッチを入れた。地下室の中をぐるりと見回した。僕は、そばに人影があることに気がついた。僕は驚いて、思わず数歩下がった。
「どうしたのです?」その足音を聞きつけて、スタウが鋭く言った。
 僕は懐中電灯の光を向け、その人影を眺めなおした。手が震えるせいで、懐中電灯の光を一箇所にあてておけないのがもどかしかった。
「どうしたのです?」もう一度スタウの声が聞こえた。
 僕は心を決めて、そいつに近寄ってみることにした。
 僕ははじめ、死体だと思った。もちろん人間の死体。ミイラみたいにカチカチに固まって、イスの上に座るかどうかしているんだと思った。なぜか一瞬、玉座の上のイプキンの姿を連想した。
 やっぱりこれはミイラだと僕は思った。肌は真っ黒で、完全に乾いてデコボコざらざらしている。いかにも水気がないという感じで、今から水につけたって、百年たっても元には戻らないだろう。だってさ、まるで砂岩か、さびた鉄の表面みたいに…
 あれっと僕は思った。これって本当にさびなのかもしれないぞ。
「クスクスさま」また上からスタウの声が聞こえた。
「うん」僕は返事をした。本当は、もう少しで笑い出してしまいそうだったのだけど。
 これは死体じゃなかった。像だ。胸像というのかな? 人の胸から上の部分をかたどってある。大きさは人間とちょうど同じぐらい。岩でできた四角い台の上に置かれていたから、最初僕の目には、人がイスに座っている姿に見えたんだね。
「いま行きます」スタウが降りてくる気配がした。振り返ったら、スタウの足が石の段を踏んで、後ろ向きに一歩一歩下りてくるところだった。すぐにスタウは僕と並んで、二つの懐中電灯の光を向けて、像を眺めることになった。
「誰の像ですか?」スタウが言った。
「わからない」僕は答えた。
 スタウは、顔をうんと近づけて眺めた。「顔立ちも何も、さびだらけでわかりませんな」
「少なくとも五十年、もしかしたら二百五十年前からここにあるんだもんね」
 僕はもう一度像を眺めた。瞳に赤い石がはめ込んであること以外は、男なのか女なのかもわからない。でもきっと、首のあたりがほっそりしているから、若い女か娘、もしかしたら女の子なんだろうと思った。顔をきっと上げて、僕を見つめている。いかにも誇らしげな姿だと言えるかもしれない。
 いい意味でも悪い意味でも、スタウは実務的な男だった。二千年前の遺物を目にしても、感慨などわかないらしい。またすぐに口を開いた。
「クスクスさまはここでお待ちください。私は港へ戻って、船を連れてきます」
「一人で大丈夫?」やっとわれに帰って、僕はスタウを振り返った。スタウは真剣な表情で僕を見つめていたが、目が合うとにっこりした。
「大丈夫です。先ほどの砂浜の岩が目印になりましょう。二時間以上かかると思いますが、よろしいですね」
「わかった。船が来るころには砂浜で待ってるよ」僕は、懐中電灯を使って時計をのぞきこみながら言った。朝からずいぶん時間がたったような気がしていたけれど、まだ十一時にもなっていなかった。
「できるだけ早く戻ります」
 スタウは一人で、石の階段を上がっていった。小屋の床の上でリュックサックをかつぐ音が聞こえて、足音が遠ざかっていった。
 一人になって、僕は像を眺めなおした。前から眺めたり後ろから眺めたり、石の台と像の隙間から内部をのぞきこんでみたりしたのだけど、やっぱりさびと汚れのせいで何もわからなかった。部屋の中も見回してみた。四角く削った石を並べて作った部屋だ。頑丈そうだけれど、それ以外の特徴はない。秘密の扉でもないかと、全部の石を押したり引いたり、たたいたりしてみたのだけどね。
 僕は突然、ひどくおなかがすいていることに気がついた。だから石段をあがって、地上に出て、リュックサックを手に取った。時計を見たら、針は十二時をさしていた。ここで食事にしてもよかったのだけど、いいことを思いついた。だから僕はリュックサックをかついで、歩きはじめた。
 何分か後には、僕は海岸についていた。砂浜があって河口があって、あの四角い岩があるあそこだ。見回しても、もちろん海の上には何も見えなかった。まだスタウは船には達していないだろう。太陽はほぼ真上にあって、遠慮なく僕を照らしていた。僕は、割れたぎざぎざに手足をかけて、岩によじ登りはじめた。
 火山性の岩なのか、黒っぽくて表面はごつごつしていた。それでも、僕の体重で割れてはがれてしまうようなことはなくて、僕は岩の上に立つことができた。
 上から見ると、思っていたよりも高いところで、へりに近寄るとどきどきした。上はテーブルのように平らになっていて、座るのに都合がいい。僕はリュックサックを下ろして、食べ物を出して食事をはじめた。
 どういう早業なのか、南に見えている岬の向こうに船が見えてきたのは、僕が食事を終えたころだった。もちろんキャベツ伯爵で、煙をゆっくり吐きながら近寄ってくる。波があんまり穏やかだから、船は力をもてあまして、手持ちぶさたで退屈しているように見えた。
 船はすぐに汽笛を鳴らした。ブリッジにスタウがいて、手を振っているのが見えた。僕も立ち上がって、大きく振り返した。
 岩から二百メートルぐらいのところまでくると、船はブレーキをかけた。スクリューを逆回転させたので、船尾のあたりで水が激しく波立っている。すぐにイカリが下ろされ、海底の砂地の上をしばらく引きずってから船は停止した。その前から準備がされていたのか、ほとんど同時にボートが下ろされ、こちらへ向けてこぎだすのが見えた。二人の男が乗っていて、一人は水兵だが、もう一人はスタウだった。
 ボートの上には、荷物がいくつか積まれているのが見えた。ここからでもわかったのは、毛布と防水布と、丈夫なロープの束だった。スタウが自分で考えて、準備してくれたらしい。ボートが岸に着く前に、僕は岩から降りて砂の上で待っていた。
「早かったね」砂にへさきをもぐりこませてボートが停止すると、僕はすぐに話しかけた。
 ボートから降りながら、スタウが向こうの岬を指さした。「あの岬を越えたところで、このボートと出会いました。いい釣り場を探していたのだそうで。それに乗って、船まで一直線で帰ることができました」
「いい釣り場でしたよ」水兵が口を開いた。「夕食にはちょっとしたものをお出しできます」
「それはそれは」そういいながら僕は、スタウが荷物を下ろすのを手伝いはじめた。重いものではなかったから、ボートはすぐに空になった。荷物の内容は、僕が岩の上から見たとおりだった。
「オールを一本貸してくれ」スタウが水兵に言った。水兵は変な顔をしたけれど、すぐに言われたとおりにした。スタウは手際よく、オールの中央に防水布と毛布を巻きつけ、ロープでしばった。そのオールの前をスタウが、後ろを僕がかついで、歩きはじめた。もちろん、あの小屋へ向かって。
「ここで待っていてくれ」スタウは水兵に声をかけた。
 ときどき声を掛け合いながら協力して、僕とスタウは小屋まで戻ってきた。小屋の様子は、さっきとはまったく変わっていなかった。すぐにロープをほどいて、防水布と毛布を地下室に持っておりた。
 持ち上げてみると、像は思っていたよりも軽かった。内側を調べてみたら、びっくりするぐらい薄く作られているとわかった。それでも、弱々しくへなへななのではない。
 石の台からおろして、まず毛布で保護することにした。毛布は二枚持ってきていたので、一枚を像の内側へ入れ、もう一枚で外側をくるんだ。その上からさらに防水布で包み、梱包はすんだ。
 重くはないから、スタウ一人で地上へ運び上げることができた。小屋の外へ運び出して、ロープを使って、しっかりとオールの中央にくくりつけた。これで準備はすんだわけだった。
 何分間か座って休憩してから、二人でよいしょと担ぎ上げた。またスタウが前を行って、足元を確かめながら歩きはじめた。砂浜に帰りついたときには、二人とも汗だらけになっていた。ボートと船は、もちろんまだ待っていた。いつの間にかボートは二隻になっていて、数人の水兵たちが、退屈そうにタバコを吸っていた。でも僕とスタウが森の中から姿を見せると、びっくりしたような顔をした。すぐにタバコを捨てて駆け出してきて、オールを代わりに持ってくれた。荷物から開放されて、僕とスタウは息をついた。
「これは何です?」水兵のひとりが言った。おもしろそうな、好奇心にかられた顔をしている。スタウが答えた。
「古代の遺物だ。落としたりするなよ。呪いを受けても知らんぞ」
「本当なんですか?」少し年かさの水兵が言った。半分白くなったひげを生やしていて、しわの多い日に焼けた顔をしている。迷信深い船乗りの代表みたいな感じに見える。不安そうな表情を隠さない。
「クスクスさまがお見つけになった」スタウは言った。「だが心配するな。しかるべき場所におさめるために運び出すのだから」
「帰りに海が荒れたりしなければいいが」
 僕は口をはさんだ。「あなたが転んだりしなきゃ大丈夫でしょうよ。ほら、足元に石がありますよ」
 そうやって像は船まで運ばれたのだけど、船のどこに積むかで少しもめた。縁起が悪いといって、船倉に積むのを水兵たちが嫌がったんだ。艇長も、水兵たちの反対をむげに押し切るのは気が進まない様子だった。
「魚雷室はどうだ?」とスタウも言ったのだけど、「魚雷が暴発したらどうします?」と機関長がまじめな顔で言ったので、それも取りやめになった。この船では僕とスタウは定員外だから、火器室のわきの甲板にハンモックをつって、そこで眠っていたのだけど、結局像もそこに同居することになった。甲板から生えている鉄のくいに、スタウが厳重にしばりつけた。念のため、防水布をもう一枚かけておいた。そうやって船乗りたちに嫌われながら、胸像はビクセンシティーに運ばれてきた。
 ビクセンシティーの港についたのは、翌日の午後遅くだった。像が船から埠頭に運び降ろされたとき、船乗りたちは本当にほっとしたような表情を浮かべた。スタウはすぐにトラックの手配をし、像をどこかへ運び去った。行き先は僕も知らなかったけれど、スタウを信用して任せていた。
 埠頭に立って、トラックのテールライトが見えなくなるのを眺めていたら、迎えの自動車がやってきた。僕はそれに乗って、王宮へ帰った。
 この自動車は僕のものではなかったけれど、こうやってよく借りていたから、いちいち言わなくても、いつもこの車が僕のところへまわされてきた。それが古い消防車でね、王宮の消防隊で使われていたのが、ポンプが壊れたのでお役ごめんになったのだけど、僕が乗りたがるものだから、廃車されずに残されていた。もちろん色は塗り替えてあって、今では水色一色になっていたけれど。だからビクセン王国では、女王はハーフトラックに乗り、その夫は、半分スクラップみたいな古い消防車に乗っていたんだよ。
 王宮に帰りつくと、ちょうど夕食が始まる時間だった。僕は、直接フィーンディアの食堂へ行くことにした。
 女王の食堂って、どんな部屋だと思う? 天井の高い広い部屋の中央に大きなテーブルが置いてあって、壁には油絵がかけてあって、何十本ものロウソクで照明されていて、部屋のすみには古い甲冑が飾りとしておかれていて、テーブルのこっちのはしとあっちのはしに女王と夫がいて、まわりには何人も家来たちがいて、食事のお相伴に預かるというような?
 ううん、残念ながら違うよ。ほかの王国ではそうだったかもしれないけど、ビクセンでは違っていた。僕とフィーンディアの食堂は、町の普通の家の食堂と同じか、それよりも狭いぐらいだったかもしれない。明るい壁紙を張った四角い部屋で、真ん中に二人用の小さなテーブルがある。部屋のすみに小さなガラス戸棚があって、その中に僕が趣味で集めた様々な植物の種のコレクションが飾ってあるほかは、本当に何もない部屋だった。給仕をするための侍女が控える場所もなかったから、いつも僕はフィーンディアと二人だけで食事をした。きっとフィーンディアは、そうするためにここを食堂に決めたのだと思う。
 波がとても穏やかな航海だったので、僕は予定よりも何時間か早く帰ってきていた。だからフィーンディアは何も知らずに、一人で食事をはじめようとしていた。でも僕が入っていくと、ぱあっと目を輝かせて立ち上がった。
 フィーンディアはそばへ来て、ひざまずくようにして僕の手をとり、瞳をのぞきこんできた。まるで、好きで好きでたまらない父親の前に出た少女のようなしぐさだ。
「おなかがすいているのではありませんか?」
「うん、少し」と僕は答えた。
 フィーンディアは僕をテーブルのそばへこさせ、イスに座らせ、すぐに僕の食事を用意するように侍女たちに言いつけたけれど、届くのが待ちきれなかったようで、自分のための皿を僕の前に滑らせてきた。そして僕の隣に座り、僕がフォークに手を伸ばすのを期待を込めて見つめた。
 ああいう善意に満ちた瞳は、人間の目の中にはなかなか見ることができないものだと思う。あなたもきっと、そこらの家の軒先から見下ろして、にゃあと話しかけてくる子猫の瞳の中に見つけたことはあるだろうけど。僕はそれを、このときフィーンディアの瞳の中に見つけていたんだ。
 ところで、あの像のことだけれど、スタウは自分の家の物置に隠したそうだった。そして、そのあと数日のあいだそこに置かれたままだったのだけど、古い美術品の修復を専門に手がけている男に預けることができるように、僕は手配をした。その男の名はゴボウといって、店はビクセンシティーの旧市街にあった。旧市街というのはビクセンシティーの西半分のことで、ここが首都になってからだから、それこそ黒王妃の時代から人が住んでいることになる。太い通りがいくつか走っているが、それを一本でもはずれると、本当に迷路のようになる。自動車どころか、荷車だって通るのが難しい道で、物を運ぶのには、今でも馬やロバが使われていた。
 僕はスタウと一緒に、この旧市街へ足を踏み入れた。僕は手ぶらだったけれど、スタウは馬の手綱を引いていた。王宮の騎兵隊から借りてきた馬だったけれど、ふだんは兵隊を乗せるばかりで、荷物を運ぶことには慣れていないのか、布で何重にも梱包された像を背中に積まれて、戸惑ったような顔をしていた。
 僕が前を行き、スタウが後ろで、何度も何度も道に迷い、汗をいっぱいかきながら歩きつづけた。
「こんな町は一度ぶっ壊して…」いらいらした口ぶりで、突然スタウが言いはじめた。「もっとわかりやすい町に作り直すべきです」
 スタウは相当頭にきている様子だった。僕はちらりと振り返って、スタウの顔を見た。「フィーンディアにはそんな気はないみたいだよ。旧市街が好きだといってた」
「このごちゃごちゃの大混乱がですか?」
 たしかにスタウの言うとおりかもしれなかった。僕とスタウは小さな交差点に差しかかったところだったのだけど、突然わき道から子供らが数人、大きな声を上げて追いかけっこをしながら飛び出してきて、もう少しで馬の腹にぶつかってしまうところだったから。その少し先には物売りの男がいて、石畳の上に汚れた布を広げて、商品を並べていた。通り過ぎながらちらりと見下ろしたのだけど、誰が買うんだろうと思うようなものばかりだった。安っぽい陶器のおわんとか、木のフォークとか、小石に彫った不恰好なヤモリの形のお守りとか。歩きながら見上げると、頭の上では、帆船の帆か旗のように、何十枚もの洗濯物がはためいている。こっちの家からあっちの家へヒモが渡してあって、それに引っかけてあるわけだね。
「水でも飲んで休憩しない?」向こうから水売りの男がやってきたので、僕は言った。背中に真鍮製の大きな水がめを背負った男で、今日の商売を始めたばかりなのか、重そうな足取りでとぼとぼ歩いてくる。僕とスタウは立ち止まって、一杯ずつ買って飲んだ。馬がものほしそうな顔をしているような気がしたので、自分の水を半分手のひらの上に出して、馬の口元へ持っていって飲ませてやった。
 僕とスタウは、また歩きはじめた。いかにもいやいやという感じで、馬もついてくる。でも僕は、何かが気になるという感じで、スタウがちらちら後ろを振り返っていることに気がついた。
「どうしたの?」
 スタウは声をひそめて答えた。「いま通り過ぎた家の窓ですが、かすかに煙の匂いがしました」
「誰かが中でタバコでも吸ってたんじゃない?」
「いいえ」スタウは首を横に振った。「チェットの枝のようでした」
「あの幻覚剤?」
「旧市街ではおおっぴらに売られているというのは本当のようですな」
 そんなことを話しながら歩きつづけ、とうとうゴボウの店の前についた。
「やれやれ」店の前には馬をつなぐための木のくいがあったので、それに手綱を巻きつけながら、せいせいしたという顔でスタウは言った。
 ゴボウの店は、旧市街のほかの家々と同じようにとても小さかった。砂岩のブロックを積み上げて、しっくいで固めたもので、淡いクリーム色をしている。窓は定規を当てて作ったように四角いが、壁が分厚いので深く落ちくぼんでいて、日よけのごついひさしが上についている。こんなに狭い路地でも、正午あたりには、太陽の光が真上から直接差し込むから。
 僕の目の前にはドアがあって、そのわきには小さな看板が出ている。風化してほとんど真っ黒になっていて読みづらいけれど、『修復屋ゴボウ』と書いてある。旧市街では、一家の跡継ぎは父親と同じ名をそのまま名乗ることが多いから、この看板は何世紀も前からここにぶら下がっているのかもしれない。
 スタウと馬を待たせておいて、僕はドアを開けて、一人で中へ入っていった。
 気がつくと、僕は真四角な部屋の中にいた。床の形が正方形だというだけじゃなくて、天井までの高さも、床の縦横と同じ寸法だったんだ。十キュービットという長さの単位があって、約五メートルにあたるのだけど、ビクセンシティーの古い家屋はそれを基準に作られているという話を聞いたことがあるのを思い出した。
 かすかにだったけれど、この部屋の中はおかしな匂いがしていた。さっき外の道でかいだのと同じ匂いだとすぐに気がついた。床の半分は土間だったけれど、残りの半分には木の板が張ってあって、ゴボウはそこにあぐらをかいて座って、僕を見つめていた。手の中には香炉を持っていて、直径十五センチぐらいのボウルのようなものだけど、中には半分ぐらい灰が入れてある。その灰から小さなものが半分顔をのぞかせていて、線香のようにゆっくり燃えながら、薄い煙を立ち上らせている。
 ゴボウは小柄な男だが、中年なのか老人なのか、僕にはよくわからなかった。サルのようにしわの多い顔をして、眉毛が長く伸びている。鼻はとがって下を向いていて、でもそのぶん、あごも三日月のようにとがっているから、「オレのほうが顔の前に大きく飛び出るんだ」と言いながら、鼻とあごが競い合っているみたいに見える。
 ゴボウがこうつぶやくのが聞こえたような気がした。
「わしも焼きが回ったのかな。死期が近いかもしれぬ」
 本当にゴボウがそうつぶやいたのかは、僕にも自信がなかった。でもたしかに、このときのゴボウはおかしな表情を浮かべていたと思う。僕に向かって、「なぜおまえがこんなところにいるんだ」とでも言いたそうな。
 十秒ぐらいのあいだ、ゴボウはそんな表情で僕を見つめていた。
「あのう…」
 僕が口を開くと、ゴボウはわれに返った様子だった。自分の手の中にある香炉を見つめ、それから顔をあげて、もう一度僕を見た。それでやっと、僕が幽霊でも幻でもなんでもなくて、本当に自分の目の前に立っているのだと納得した様子だった。
 ゴボウがかすれた声を出した。「何か用かね?」
「ええっと、古い胸像の修復をお願いしようと思って」
「ああ、聞いとるよ」ゴボウはうなずいた。紙のように白かったほおに、少し血の色が戻ってきたようだった。僕が店の中に入ってくるのを見て、それぐらい驚いていたらしい。
「像は外にあります」僕は言った。
「じゃあ、もっておいで」
 僕はドアを開けて、外に顔を出した。すぐにスタウと目が合った。スタウは馬の隣に立ち、油断なくまわりを見回していた様子だった。でもすぐに縄をほどいて、馬の背から荷物を降ろしはじめた。馬がせいせいした顔をしたような気がした。
 像をかかえて、スタウが店の中に入ってきた。そのあいだ、僕はドアを押さえていた。スタウは像を、ゴボウの前に置いた。木の板をはった床の上だ。
「あんたがわしにことづてを寄越したのかね?」ゴボウが話しかけた。
「そうだ」像を置いて、立ち上がりながらスタウは答えた。
「軍人らしい文章だと思った」ゴボウは笑った。「到着予定日時などという言葉は、普通は使わぬからな」
「そうかい」
「そうさ」
 ゴボウは、像を包んでいる布をほどきはじめた。いつもやっていることだからか、とても慣れた手つきだ。筋張った細い小さな手が、あちこちにあるヒモや布の結び目を、今はここ、今度はあっちと飛び移りながらほどいていくところは、サルが木から木へ飛び移っていくところにそっくりだった。僕は少し感心して眺めていた。
 すぐに像が姿を現した。像の様子は、カウフガンフカン島で見たときとまったく同じだった。ガボウは小さなランプに火をつけ、像に近づけて、細かく眺めはじめた。小さな声で、つぶやくように言いはじめた。
「青銅だな。古いものだが、いい技術だ。さびも表面だけだから、きれいに除去できるだろう。本当にうまい鋳造だ。やすりがけもていねいにやってある。この瞳は…これは碧玉だな」ゴボウは僕を見上げた。「おまえさん、この目玉一個だけでも一財産だよ」
「へえ」僕は知らなかった。
 ゴボウはひざの上で、像をひょいと上下さかさまにした。像の内側の空洞が丸見えになる。つぼの内部のように、本当に何もなくて空っぽだ。
「おや?」ゴボウが声を上げた。
「なんです?」僕はのぞきこんだ。
「ここになにやら書いてあるぞ」
 ゴボウは、像の内部へランプを差し入れようとした。でも狭すぎて入らなくて、光もうまく届かないらしい。ゴボウは片手でランプを持ったまま、もう一方の手でそばの道具箱を開け、小さな鏡を取り出した。歯医者が使うような丸い小さな鏡で、細い棒の先に取り付けてある。ゴボウはその鏡を像の奥へ差し入れ、ランプの光を反射させようとした。
「たしかに文字じゃな」ゴボウはつぶやいた。「わしには読めん文字じゃが」
 ゴボウはランプと鏡を置き、今度は道具箱から紙と鉛筆を取り出した。紙は普通の白いものだが、鉛筆のほうはちびて、五センチぐらいに短くなってしまっている。ゴボウは紙を指でちぎり、短冊のように細長くした。
「ランプを持っていてくれんかな?」
 ゴボウがそういったので、僕は言われたとおりにした。スタウが目をむいたけれど、僕は気がつかなかったふりをした。
 僕はランプを片手で持ち、ゴボウの手元を照らすようにした。ゴボウは両手の指先を像の中へ入れている。紙と鉛筆を使って、中で何やらやっているようだ。ずいぶん奥のほう、首の後ろのあたりのようだ。少しして、ゴボウは手を引きぬいた。そして、僕に紙を手渡した。僕は受け取った。
「そんな文字が書かれておった」
 僕は紙を眺めた。ゴボウは、彫られていた文字の表面にこの紙を押しあてて、鉛筆の芯を上から何度もこすり付けたらしい。黒い芯の跡の上に、写真のネガのように文字が浮かび上がっている。
 好奇心にかられたらしくて、スタウも首を伸ばしてきた。僕はスタウにも見せた。
「本当に文字なのですか? 見たこともありませんが」スタウが言った。
「わしも見たことがないものだ」ゴボウも言った。「ものすごく古い時代のものかもしれん。少なくとも、無意味ないたずら書きではあるまいよ。こんな手のこんだ場所にいたずら書きをするバカはおらん」
 僕はもう一度文字を眺めた。古い時代の文字だと言われれば、そんな気もする。でも、古代文字という言葉から普通に想像するような単純な形ではなくて、流れる水の線のようにとても洗練された感じがする。右や左、上や下にくるくる回り、つねに方向を変えながら走っている。途中に、ぽつんぽつんと取り残された水たまりみたいに点や円がある。斜めの線がいくつも同心円状に並んでいたり、交差していたりもする。すべてが曲線と円と点だけで、直線が一つも使われていないことに気がついた。
「その文字のことはともかく」ゴボウの声が聞こえたので、僕は顔を上げた。
 ゴボウは僕と顔をあわせ、うれしそうに笑った。「わしはこの像を元通りきれいにすればいいんじゃろう?」
「そうです」僕はうなずいた。
 ゴボウはもう一度うれしそうな顔をして、スタウを見た。「仕事が終わったことを知らせるには、あんたの家へ使いをやればいいのじゃな? 王宮ではなく」
 スタウが目をむいた。僕もびっくりした顔をしていたと思う。
 ゴボウは笑った。「では、もうお帰りなされ。仕事は二週間ばかりかかるじゃろうよ」
 スタウがドアを開けて、僕と一緒に外へ出た。僕はさっきの紙を折りたたんで、ポケットに入れた。スタウは、馬の手綱をくいからほどきはじめた。不意にスタウの声が聞こえた。
「クスクスさま」
「えっ?」
 気がついたら、僕はスタウのごつい手で両脇をかかえられて、馬の背中に乗せられるところだった。荷物よりも人間を乗せるほうが性に合っているのか、馬がひひんと小さな声で鳴いて、頭をぶるぶると左右に振った。馬の耳が遠心力で広がるのがおもしろい。スタウが手綱を引いて、馬はゆっくりと歩きはじめた。
 そうやって馬の背で運ばれながら、どうしてスタウはこんなに親切にしてくれるんだろう、と思った。元はフィーンディアの副官だったのに、今ではほとんど僕専門の世話係という感じだった。
 スタウには奥さんがいて、僕は行ったことはないけれど、ビクセンシティーのどこかに家を構えていた。子供も二人いて、どちらも娘だったけれど、何年か前に姉が、妹のほうもこのあいだ結婚したと聞いていた。でももしかしたら、スタウは娘ではなくて息子がほしかったのかもしれないね。
 僕とスタウは、二十分ぐらいかけて王宮に帰ってきた。王宮の建物の中に入って、スタウとは別れて、僕は一人でハニフの部屋へ行った。三階のすみっこ、小さな窓がひとつあるだけで、そこから見えるのは戦車整備工場の裏手の空き地だけだから、見晴らしだってよくはない。僕は突然、この王宮でいちばん見晴らしがいいのは自分の部屋だろうと気がついた。七階の東のはし、だけど半島のように突き出した窓があって、北の山脈から、東に昇ってくる朝日から、南のビクセン湾まで見渡すことができる。フィーンディアが即位するときに城内の模様替えがあって、そのときにもらった部屋だった。
 それはともかく、僕はハニフの部屋の前にいて、ドアをノックしようとしていた。ここはハニフが仕事に使っている部屋で、小さな机やソファーがあって、すみっこにはベッドまであった。このベッドは、ふだんは使っていないけれど、何かの理由でハニフが王宮に泊り込まなくてはならないときには役に立った。
 僕はドアをノックした。
「はい」返事が聞こえた。ドアを開けて、僕は中へ入っていった。
 ハニフは机の前に座って、何かの書類を読んでいた。僕もよくは知らなかったけれど、王宮の執事というのはいろいろと雑事の多い仕事のようだった。どの部屋の掃除をいつやるか。庭木の手入れの手配。結婚するために退職する若い女官や侍女の補充。若い近衛兵の間のケンカの仲裁。手を滑らせて僕が壊したグラスの交換。
 僕の姿を見て、ハニフはすぐに立ち上がった。
「何の御用でしょう?」
「あのね、これを見てくれる?」僕は、ゴボウから渡された紙をポケットから出してきて、ハニフに見せた。ハニフは手にとって眺めたが、見えにくいのか、目をしょぼしょぼさせている。
「ああ、そうだ」僕はあわててつけたした。「これのことはフィンには内緒だよ」
 ハニフは顔を上げ、心得ておりますというように微笑んでみせた。
 僕は安心して続けた。「文字らしいんだけど、ハニフは見たことある?」
 ハニフは、ゆっくりと首を横に振った。「私も見たことのない文字です。似た形の文字を思いつくこともできません」
 ハニフは、僕が立ったままでいることに気がついたようだった。あわてて「おかけください」と言って、イスを勧めた。ベッドの隣にあるソファーだ。僕は言われた通りにした。
「ねえ、それを読んでくれそうな人の心当たりはない?」僕は言った。
 ハニフも、机の前のイスに座りなおした。といっても狭い部屋の中だから、二人の間の距離が遠すぎるということはなかった。
 ハニフは僕に紙を返し、考えはじめたようだった。でもすぐに言った。「なくはありません」
「だれ?」僕は身体を乗り出したと思う。ハニフがにっこりした。
「ですがクスクスさまは、その者はお嫌いかもしれません」
「どうして?」
「ビーカー学園の校長は、古代文字研究の第一人者だったはずです」
 これは、僕にはもっとも意外な答えだった。僕はすぐに、あの女校長の顔を思い出した。でっぷり太った大柄な女で、肩も腕も指先も何もかもが丸く大きい。でも頭だけは小さくて、幅の広い肩の上にちょこんと乗っている。流線型というか、鼻が丸くとがって前に突き出していて、動物にそっくりだった。ビーカー学園の生徒たちは、アナグマ女と呼んでいた。まったく、鼻の左右にちょんちょんとヒゲが突き出していないのがもったいないぐらいだ。
「あのアナグマ女が?」と僕は言った。
「そうです」ハニフはにっこりした。「その紙に書かれている文字について教えをこうのであれば、もっともふさわしい人物でしょう」
「他にいないの?」
 僕はかなりげんなりした声を出していたと思う。ハニフがもう一度微笑んだ。「残念ながら、私は思いつきません」
「うーん」
 僕はハニフの部屋から出てきた。廊下を歩きながら考えつづけた。
 去年卒業してから、僕はビーカー学園には一度も足を向けていなかった。足を向けなくてはならない理由はなかったし、そうしたいとも思わなかった。卒業資格をごまかしてもらったことも含めて、あそこにはいい記憶はひとつもなかった。試験で悪い点数を取ったり、理科の実験中に失敗をして器具を壊したりして、僕は何回、校長室に呼び出しを受けたことか。そういえば一度なんか、フィーンディアがかわりにおわびの手紙を書いて、僕に持たせてくれたこともあった。床の割れ目につまずいて、食堂の食器戸棚をひっくり返して、僕が皿を三十七枚いっぺんに割ってしまったときだったけれど、皿を弁償する費用はフィーンディアが個人的に出してくれたらしいとあとで聞いたことを思い出した。その女校長のところへ、僕は行かなくてはならないわけだった。
 三十分ぐらいのあいだ、僕は庭に出て、ぐずぐず考えごとをしていたのだけど、結局いくことに決めた。他にやりようがないじゃないか。僕はスタウを探しにいった。
 僕の話を聞いて、スタウはすぐに短い手紙を書いて、若い兵に持たせてビーカー学園へ向かわせた。自動車やオートバイが普通に走っているこんな時代になっても、王宮からの使者は馬を使うのがこの国では伝統になっていた。だから使者は、白い馬にまたがって、背筋を伸ばして王宮の門を出ていった。
 誰の目にも一目で王宮からの使者だとわかるように、カブトには、三角形をした水色の小さな旗が取り付けてある。あの旗のついた騎兵が通るときには、どんなに混雑した道や通りでも、一般の歩行者や車両ははしに寄って進路を譲るというのが、この国では礼儀というか美徳になっていた。この日は道は混んでいなかっただろうから、僕が使者を送り出したことが国民の生活の邪魔になったとは思えないのだけど、そういえば僕は、一度はあの使者をものすごく個人的な用事で使ってみたいと前から思っていた。ビーカー学園へ行かせたのが個人的なことじゃないと言い張るつもりはないけど、いま僕が言っているのは、もっともっと個人的な使い方だよ。大通りの店へチョコレートを買いに行かせるとかさ。
 考えてみてくれる? 人通りの多い店の前を、水色の旗を立てた騎兵が通りかかる。通行人たちは、さっと道をあける。馬をとめ、騎兵は地面に降り、店の中へ入って注文をする。
「主人、イチゴシロップ入りのチョコレートを三つもらいたい」
 きっと次の日の新聞には、こんな記事が出るだろうね。「クスクス殿下の公私混同ぶりは目に余るものがある。女王陛下もお怒りで、クスクス殿下には『今夜は夕食抜きの刑』をお与えになった…」
 じゃあ、ビーカー学園へ伝言を持っていかせるのは公私混同ではないのかという話になるけど、僕が王宮を出てどこかへ出かけるというのは、本当は結構大変なことだったんだよ。僕はいつも規則なんか無視して、スタウと二人でこそこそ出かけていたけれど、フィーンディアがもし知ったら、きっと承知しなかっただろうと思う。僕は少なくとも一個小隊の護衛をつけられ、あの消防車で出かけさせられただろうね。
 でも消防車なんかを車庫から引っ張り出したら、すぐにフィーンディアに知られてしまうからね。このとき僕がやっていたのは、フィーンディアには知られたくないことだったから。
 まあそれはともかく、使者は一時間もしないうちに戻ってきた。もちろん校長からの返事を持って帰ってきた。使者に持っていかせた手紙は「クスクス殿下が明日の午後、あなたを訪ねたいといっているが、かまわぬか? 不都合はないか?」というものだったのだけど(もちろん本当は、もっとていねいな言葉で書いてあるんだよ)、校長からの返事は「不都合などあろうはずはございません。伏してお待ち申し上げております」というものだった。
 だから僕は翌日、スタウと一緒にオートバイに二人乗りをして出かけた。ビーカー学園は遠くはないから、五分ぐらいでついた。
 授業時間中だったからか、校内はひっそりしていた。スタウがオートバイのエンジンを止めると、よけいにそんな感じがした。スタウはオートバイのそばで待っているつもりのようだったので、僕は一人で歩きはじめた。
 町の中にあるから、ビーカー学園はあまり大きな学校じゃない。校舎の前に立っても、懐かしいような気はしなかった。ため息をつきながら、僕は歩きつづけた。
 スタウは校門を入ってすぐのところにオートバイを止めたのだけど、そこから何歩も行かないところに校舎の玄関があって、ガマガエルのように大きく口を左右に広げている。内部は薄暗い。玄関を通り抜けてすぐは広間になっていて、石の柱が三本、天井を支えている。ドラム缶よりも太い柱だ。よく目立つ場所だからか、石灰岩で作られているこの校舎の中で、この柱だけが大理石だった。
 ここで廊下は行き止まりになって、右と左に分かれているのだけど、校長室はどっちだったっけと、僕は思い出さなくてはならなかった。学校内の地理がもう頭から消えかかっていることが少しうれしかった。それぐらい、この学校は僕にとってはいやな場所だったから。
 僕は校長室の場所を思い出した。このまま左に進んで少し行って、印刷室の隣だ。僕は歩きはじめた。すぐに校長室のドアの前に立つことができた。
 僕はまたため息をついた。校長室のドアは、記憶の通りだった。でかくてえらそうな顔をして、ニス塗りのいやなやつ。ピカピカした銀色の金具がついている。
 僕は舌打ちをしたいような気分になった。一人じゃなくて、もっと誰か一緒に連れてくればよかった。それもスタウだけじゃなくて、一個小隊の近衛兵でもなくて、第二師団の全員を。そうすればいくらあのアナグマ女でも、僕の前でえらそうな顔はできないだろう。きっとフィーンディアだって、僕が頼めば貸してくれただろう。第二師団は総員で五万人を超えるから、この学校の敷地には入りきらないだろうけど、知ったことか。
 僕は、第二師団は列車砲を装備していることを思い出した。長さ四十五メートル、砲の直径二十四センチという化け物だ。あれをアナグマの鼻先に突きつけながらだったら、僕も落ち着いて話ができるだろうに。
 そんなことを思いながら、僕は校長室のドアをノックした。
「はい」
 すぐに返事があった。僕はドアのノブに手をかけて、部屋の中へ入っていった。
 部屋の中の様子も、記憶の通りだった。細長い長方形の部屋で、奥に窓があって、中庭が見えている。その手前に校長の机があって、校長はそこにいた。部屋の左側には本棚。右側には、過去に校長が獲得した賞状や資格証明書のたぐいが、額に入れて飾られている。
「ドアを閉めて、もっとそばへいらっしゃい。クスクス殿下」校長が言った。
 それでやっと気がついたのだけど、部屋の中へ一歩入っただけで、僕は立ち止まってしまっていたんだ。認めたくないけど、足がすくんでいたのかもしれない。
 僕はすぐに、また別のことにも気がついた。校長は机の向こう側にいて、イスに座っている。なんだ、床に伏してなんかいないじゃないか。
 そのことで文句を言ってやろうかと思ったのだけど、やめておくことにした。僕はまっすぐ歩いていき、ポケットからあの紙を取り出して、校長の机の上に置いた。
「なんです?」校長は、いったんは紙に視線を落としたけれど、すぐに顔を上げて僕を見た。
「お忙しいとは思いますが、それを読んでいただけないかと思ってやってきました」
 校長は紙を手にとって、机のすみに置いてあったメガネをとり、鼻の上に乗せた。
 僕は黙って眺めていた。校長は文字をじっと観察している。ずいぶんたってから、やっと顔を上げた。「これはどこで見つけたのです?」
 僕は緊張して、自分を少しでも大きく見せようとしていたのだと思う。背筋を精一杯伸ばして答えた。でもそれって、校長から見れば、噴き出しそうな眺めだったかもしれない。僕は、下士官の前に出た入隊したての新兵みたいな話し方をしていたと思う。
「個人的なことなので、それはお話しできません。何世紀も前の遺物から写し取ってきたものだということ以外は」
 校長は、くすっと笑ったようだった。「ええ。字体から見て、千数百年はたっていそうですね。それで、いつまでにお返事をすればよろしいのですか? 殿下」
「特に期限はありませんが、早くしていただければ幸いです」
「お返事はどうすればよろしい? 王宮にお手紙を出しましょうか?」
「いいえ」僕は首を横に振って、別のポケットの中に用意しておいた紙をさっと差し出した。我ながらスマートでかっこいいと思って、鼻が高かった。小さなメモ用紙で、スタウの家の住所が書いてある。
「これは?」校長はそれを眺めた。
「僕の部下の家の住所です。少し秘密を要することなので、そこにお送りいただければ幸いです」
「承知しました」息を吐き出しながら、校長は答えた。それがため息なのか、単に笑いをこらえているだけなのか、僕にはわからなかった。
 でも本当のところ、僕にはそんなことはどうだってよかった。話がすんでほっとしていた。あとは、一秒でも早くこんな場所とはおさらばするだけだ。僕は後ろを向こうとした。
「お待ちなさい、殿下」校長の声が聞こえた。
 僕の背中は、びくっと震えたかもしれない。おそるおそる振り返ったのだけど、校長は笑っていた。
 校長は言った。「せっかくお見えになったのだから、少しお話をしましょう。それともお忙しいのですか?」
「いいえ」僕は、校長の前ではうそをつく気にはならなかった。イプキンと同じように、校長もなんだってお見通しのような気がした。
「おかけになってはいかがです?」校長は壁際のイスを指さした。額に入れて飾ってある大学の卒業証書のすぐ下だ。何か悪いことをして怒られるとき、何度もあのイスに座らされたことを思い出した。
 この学校を卒業していちばんうれしかったのは、『もう校長室のあのイスに座らされることはない』ということだったのだけど、僕はこの日、また座らされるはめになってしまったわけだった。腰かけて、ふたたび木の座面の冷たさをおしりに感じたとき、僕はぞっとした。それでも僕は、まじめな顔をして校長を見つめ返していただろうと思う。
 何を言われるんだろうと、僕はどきどきしていた。卒業資格を満たしていないことで文句を言われるんだろうか。まさか、もう一度ちゃんと試験を受けろなんて言わないよね。
 やわらかい表情をしたまま、しばらくのあいだ校長は僕を眺めていた。そして口を開いた。
「殿下は男だからおわかりにならないかもしれませんが、この世のすべての女が生涯に一度は必ず夢の中で出会う少年というのがあって、私もよく覚えています。まだ六、七歳のころでしたが、私も夢の中で出会いました。目が覚めて夢だったと知って、ひどく悲しく思いました。あの夢の少年にまた会いたいと母にねだりましたが、もちろんかなえられないことでした。ただ驚いたのは、母もその少年のことは知っていて、娘時代に夢の中で会ったことがあるそうでした。
 母だけではありません。この世の女がすべて一度は夢の中で出会うそうです。二度三度と出会う幸運な女もいますが、私は一度きりでした。
 もちろんこれは、ただの空想などではないのですよ。おおっぴらに口にする女はいないでしょうが、ごく親しくなった幾人かに私も質問してみましたが、みなあの少年の夢は記憶していました。
 ですが私も、その少年の顔立ちまでは記憶していません。母も覚えていないといいました。私が質問したどの女も同じ答えでした。あの少年の顔は、夢の中から現世へ持ちかえることが許されていないのかもしれません」
「それって、どんな夢だったんですか?」
 今から考えれば、僕はずいぶんと遠慮のないことを質問したものだけど、校長は機嫌を悪くはしなかった。
「そうですねえ」校長ははにかんで、少女のように微笑んだ。「そんなにたいした夢でも、長い夢でもないのですよ。ただ私とその少年が手をつないでおしゃべりをしながら、小道を歩いているのです。まわりは草原で、遠くに山脈が見えています。温かい風が吹き抜ける気持ちのよい場所です。何の話をしたのかは覚えていませんが、とても楽しい気持ちだったことだけははっきり記憶しています」
「でも、そいつの顔は覚えてない?」
「ええ」僕が不審そうな顔をしていたせいかもしれないけど、校長は困ったような顔をした。そしてしばらくのあいだ口を閉じて、迷っている様子だった。これを僕に告げるべきかやめておくべきか。でもとうとう、話すことに決めたようだった。校長は口を開いた。
「あの少年は、もちろん名前もわかりません。顔だって思い出せません。でもなぜか殿下のお顔を見ていると、私にはあの夢のことが思い出されるのです。そして、温かい幸せな気持ちになります。だから私は、殿下をこの部屋にお呼びして話をするのがとても好きでした。殿下はそうお思いではなかったでしょうが、殿下がまたトラブルを起こしたと聞かされるたびに、私はうれしかったのです」
「それって、ふざけてません?」僕は口をとがらせたと思う。校長が笑った。
「殿下にはそう思えるかもしれません。でも私が殿下の卒業を認めたのは、それが理由だったのですよ。ある生徒を卒業させるかどうかを個人的な感情で決めるなど、決して感心できることではありませんが、あの夢のことを思い出させてくれる殿下をあまり苦しめたくはないという思いがあったのです」
 そんなふうにいわれると、僕はどう答えていいのかわからなくなってしまった。
 校長は微笑んだ。「困っておいでのようですね。お話はこれくらいにしましょう」校長はあの紙に視線を落とした。「この紙はお預かりして、読むことができるかどうか努力してみましょう。お返事は殿下の部下の方のおうちへお手紙を書きましょう」
 最後にあいさつをして、僕は校長の部屋から出てきた。ひどくくたびれてはいたけれど、とても重要な仕事をすませたような気持ちでいるのが自分でも不思議だった。
 スタウは校舎の前で、辛抱強く待っていた。僕の姿を見ると、すぐにオートバイのエンジンをかけた。王宮に帰ると、お茶の時間にぎりぎりで間に合った。フィーンディアは居間で僕を待っていた。
 一週間ぐらいたったある日のこと、スタウが朝一番に僕に会いにきた。僕はいつものように控え室にいて、書類を読んでいた。こんどは『ビクセンシティーにおける地下鉄道建設の是非』というタイトルだったけれど、退屈だろうから、詳しいことは話さないでおくね。
 スタウは手に小さな封筒を持っていて、それを僕に差し出した。
「ビーカー学園の校長から、これが届きました」
「うん、ありがと」
 僕はすぐに受け取った。もちろん書類のほうはほうり出され、机の上でホコリをかぶることになった。おかげでビクセンシティーの地下鉄は、建設が数年は遅れたはず。
 スタウはすぐに部屋を出ていったので、僕は手紙の封を切った。
 女らしいていねいな文字で書いてあった。実際よりも若い女を思わせる伸びのある字だ。僕は不意に、この人がアナグマという文字をつづったらどんなふうに見えるんだろうと思った。封筒の中には手紙と一緒に、僕が預けた紙もそえられていた。


  親愛なるクスクス殿下。
 お預かりした文章を翻訳して、私自身もひどく驚いたということを最初に申し上げておきます。あのとき夢の中の少年のことをお話ししたのは、偶然ではなかったのかもしれません。
 翻訳の正しさについては自信を持っています。誤訳する可能性のほとんどない単純な文章でした。文中の年号も二千年前のものですから、つじつまが合います。言うまでもなく、フィーンディアという署名は黒王妃を意味しています。


 夢の中より持ちかえりし少年の姿をこの像に写す。あの草原と山脈の緑が、いかに鮮やかに心に残っていることか。

 日が西に沈みはじめてより五百十四回めの年
 フィーンディア・ビクセン


 なぜだかわからないけど、僕は胸がどきどきしてきた。さあっと身体全体に汗をかきはじめるのを感じた。急いで手紙をたたんで封筒の中に戻し、机の引き出しに入れて鍵をかけた。
 あっという間に二週間が過ぎて、またスタウが僕の部屋へやってきた。
「ゴボウから知らせがきました。仕事が終わったそうです。私は時間がありますから、今日の午後にでも出かけますか?」とスタウは言った。
 だからその日の午後、お茶がすんでから、僕とスタウは出かけた。スタウはまた僕を馬に乗せ、自分は手綱を引いて歩いた。
 今度は、道に迷わずにゴボウの店につくことができた。町の様子も店の様子も、前のときとまったく同じだった。風の少ない狭い路地の暑い午後だ。
 ゴボウは僕を待っていた。スタウと馬を店の前で待たせて、僕は一人で入っていった。
 ゴボウは、またあの鉢をひざの上に乗せていた。うす青い煙がかすかに立ち上っている。僕に気づいて、ゴボウはまた前のときと同じように、驚いた顔で見上げた。でもすぐに、僕が現実に目の前にいるのだとわかったらしくて、話しかけてきた。
「仕事はおわっとるよ」
 像は黄色い布をかけられて、部屋のすみに置かれていた。近寄ると、金属を磨くのに使ったのか、何かの薬のような匂いがかすかにした。
「梱包しておいてもよかったんじゃが、まずご覧になりたいじゃろうと思ってな」ゴボウは言った。「布をはずしてみなされ」
 僕は、言われたとおりにすることにした。僕が像に向かって手を伸ばすのを、ゴボウはじっと眺めていた。
 僕は指先でつまんで、布をさっと持ち上げた。一瞬、フィーンディアが結婚式のときにベールをはずしたシーンを思い出した。
 像があらわになった。僕は、自分がもう一人部屋の中にいるんじゃないかと思った。
 像は、本当にきれいに修復されていた。表面が黒っぽくざらざらしていたのが、今は少し青みがかって、つやつや光っている。瞳の石の赤さが目立つ。前に見たときより、目が大きくなっているような気がする。
 まるで双子のように僕とよく似ていて、自分で言うのも変だけど、すらりとした姿だった。目は大きく切れ長で、きらきら輝いている。頭巾のようなものをかぶっているから髪形はわからないし、頭蓋骨の形だってもちろんわからない。でもきっと、僕の頭蓋骨とよく似た形をしているのだろう。
 鼻はつんと前を向いているが、唇にはわずかなほほえみがあって、「やあ」とでも話しかけてきそうで、僕をまっすぐに見つめている。額には大きな飾りがあって、宝石をあらわしているらしいけれど、残念ながら材質は他の部分と同じ青銅で、くるりと丸く浮き出しているだけだ。もし本当にルビーだったら、ビクセン王国が半分買えるぐらいの値段がつくだろうね。肩は女の子のように細いから、きっと僕もあんな風なのだろう。薄いケープのようなものをまとった姿で作られている。耳は少し大きかった。イプキンの血筋かもしれない。のどがくいっと細いところは、フィーンディアに似ていなくもない。
 僕は像を何分間も眺めていたに違いない。やっとわれに返って振り返ると、あの鉢の火はもう消えてしまって、ゴボウが新しい香木に入れ替えようとしているところだった。香木にはもう火がつけられ、小さな赤い点になって光っている。
「あんたから仕事を依頼されて、わしは二回驚いた」鉢をわきに置いて、ゴボウが話しはじめた。にやりと笑って僕を見るので、前歯が一本抜けた口の中が見えた。
「なぜ?」
 ゴボウは笑った。すると、歯の抜けている場所が余計に大きく見えるようになった。「一度目は、ここであんたの顔を最初に見たときだ。クスクス殿下だとはすぐにわかったが、あんたが〃あれ〃にそんなに似ているとは思っておらんかった。新聞に載っている写真は不鮮明なのでな」
「〃あれ〃って?」僕は首をかしげたと思う。
「二度目は、その像のさびを削り落としたときじゃった。そこにあんたがもう一人おったわけじゃからな」
「じゃあ同じ顔をしたのが、〃あれ〃と僕と像の三人いるの?」
「違うな」ゴボウはまたにやりと笑った。「二人ではないかな? 像の裏側に書かれていた文字は解読できたかね?」
「『夢の中より持ちかえりし少年の姿をこの像に写す。あの草原と山脈の緑が、いかに鮮やかに心に残っていることか。日が沈みはじめてより五百十四回めの年。フィーンディア・ビクセン』」
「そうじゃろうて」ゴボウは満足そうだった。「思ったとおりだわ。わしはその像の顔には一度会ったことがある。これを使っておるときじゃったが、何年も前のことだ」
 口を閉じて、ゴボウは、煙の立ち上っている小鉢を指さした。
「どういうこと?」
 ゴボウは軽くため息をついたようだった。「この煙を吸うとな、夢を見ることができる。寝ているときに見る夢と似ているような気もするが、まったく違う種類の夢だという気がすることもある。とにかくじゃ、その夢の中で、わしは道を歩いておった。青い草原の中央をつらぬくまっすぐな道じゃ。ところどころ里程標のように木が植えてあったかもしれん。
 とにかく、わしはその道を歩いておった。そこへ向こうから、誰かがやってくるんじゃ。並んで歩いて、近寄ってくる二人連れじゃ。一人は少女で、もう一人は少年だった。何を言っておるのかは聞こえぬが、二人は楽しそうにおしゃべりをしておる。少女のほうはもう夢中という感じで少年を見つめておるが、少年のほうはもう少し冷静で、余裕のある様子にも見えた。その少女よりも少し年上だったからかもしれぬ。
 不意に気がついたのじゃが、その少女はわしの母じゃった。もうとっくに死んでおるが、母の少女時代の姿じゃな。二人はそのまま通り過ぎていった。わしの姿を見ても、母は何も気がつかぬ様子じゃった。まあ、それも無理はないわな。母がわしを生むのは、まだ何年も先のことだからな」
 ゴボウは黙ってしまった。
「そういう夢…、というか幻覚だったんですね」
「まあな」僕を見つめ返して、ゴボウはあきれたように笑った。
「そしてその少年が、この像と同じ顔をしていたわけですね?」
 はにかんだような表情で、ゴボウはうなずいた。
 僕は振り返って、像を眺めなおした。やっぱり像は、「やあ」とでも言うように、僕に向かって微笑んでいるような気がする。
「こら、なにをする!」
 ゴボウが大きな声を出した。手を伸ばして制止しようとしたけれど、もう遅かった。僕はもう鉢を手にとって、自分の鼻の下へ持っていっていた。煙の中に顔を突っ込んで、思いっきり深く息を吸い込んだ。
 最初に感じたのは、なんてひどい匂いだろうということだった。百年間いぶし続けて、真っ黒になった魚の切り身を鼻の中にねじ込まれたみたいな感じといえばいいのかな。でもすぐに、後頭部のあたりが身体から離れて、ふわりとどこかへ飛んでいくような感覚があって、そのあと僕は、何もわからなくなってしまった。
 気がついたとき、僕は地面に横たわっていた。背中に触れる感触から、なんとなく土の上にいるという感じがした。おかしいな、と思った。僕は、ゴボウの店の板張りの床の上にいるはずなのに。
「まったく無茶なことをやらかしたもんだな、え?」誰かの声が聞こえた。
 目を開けると、誰かが僕を見下ろし、顔をのぞきこんでいる様子だったけど、その人の顔は見えなかった。雲の浮かんだ青い空が明るくまぶしくて、真っ黒なシルエットになってしまっている。
 僕は身体を起こした。手が触れると、やはり地面は土だった。固くしまった土の上に、さらさらしたやわらかい砂が薄くかぶっている。
「大丈夫か?」さっきの人物がかがみこんで、背中を支えてくれた。不意にむせて、僕は何回かげほげほせきをした。それから顔を上げて、僕はそいつの顔を見た。
 あの像と同じ顔をしていた。でも、もちろん青銅でできているわけじゃない。ゴボウが夢の中で見た顔と同一でもあるのだろう。毎日僕が鏡の中に見ている顔とも同じだ。
「あんたは誰なんだい?」手を引かれ、立ち上がるのを助けてもらいながら僕は言った。
 あきれたような顔で僕を見ていたけれど、それでもそいつは、僕の身体についたホコリをパンパンとはたきおとしてくれた。
 少しのあいだ、僕はなぜかぼんやりしてしまって、まわりを見回していた。僕と同じ顔をしたそいつと一緒に、草原の真ん中に立っていた。
 これがあの草原なんだな、と僕は思った。もちろん道もちゃんとあって、定規で引いたように、草原をまっすぐに突っ切っていた。遠くには山脈だって見えている。本当に遠くだから形だってはっきりとはわからないけれど、とにかくこの草原を取り囲むようにずっと続いている。ここは盆地なのかもしれない。僕は一瞬、大昔の人間たちが言っていた、全世界の周囲をぐるりと取り巻いている巨大な蛇のことを思い出したりした。
「それにしても、無茶なことをやらかしたもんだな」
 また声が聞こえたので、僕はまわりを眺めるのをやめて、振り返った。そいつはやっぱりあきれたような、それでも少しは見直したような表情で僕を眺めていた。
「あんたの名前は?」と僕は言った。僕はそいつが、古代の遺跡から発見されるレリーフによく描かれているような、白い布でできたチューニックを身につけていることに気がついた。腰には太い革のベルトをしめ、同じように革で作られたサンダルのようなものをはいている。
「名前なんぞないとしたらどうする?」そいつは答えた。「クスクスとでも呼ぶか?」
「それは僕の名前だよ」
「そうだったな」そいつは笑った。でもその顔を見ていて、なぜか僕も引きずられて笑ってしまった。そいつはあまり親切にも見えなかったし、言葉使いもよくはなかったけれど、なぜか僕はそいつのことを好きになりはじめるのを感じていたんだ。小さいころから僕はいつも想像していたのだけど、もしこの世に悪魔が本当にいるとしても、神官や宗教家たちが言っているような恐ろしくて手ごわくて信用ならないやつじゃなくて、結構感じのいいやつなのかもしれないよ。
「変なやつ」僕は小さな声でつぶやいた。
 それはきっとそいつの耳にも聞こえたと思う。だけどそいつは、機嫌を悪くした様子もなくて、こんなことを話しはじめた。
「おまえも知ってのとおり、夢の中で女たちにいろいろ話を聞かせてやるのがオレの役目なんだ。おまえの妻に話を聞かせたときのことはよく覚えているぜ。それだけじゃなくて、おまえの母にもおまえの祖母にも、あのアナグマ女にもイプキンにも、オレは話を聞かせてやった」
「どんな話を?」
 そいつはにやりと笑った。「それはおまえには言えない。女たちも、夢から覚めたときにはすべて忘れてしまっているのだがな。話の内容も、オレの顔も名前も」
「名前?」
「おまえのフィーンディアはいい子だったぞ。瞳をきらきらさせながら、とてもよく話を聞いてくれた。黒王妃はオレの顔を現世に持ち帰ったが、おまえのフィーンディアはいつか、オレから聞かされた話の内容を思い出すかもしれん。なぜかそんな気がするんだ」
「どうして?」
「だてにフィーンディアという名がついているわけじゃなかろうからな」
「でもあれは…」
「おろかなゾディアがやったことだと言いたいのだろう? でもな、娘が生まれたら黒王妃と同じ名をつけるようにと、ここで会ったときにオレがゾディアに命じておいたのではないとなぜいえる? 実はオレの指示に従っただけなのだとは、本人は死ぬまで思い出さなかったろうがな」
「え?」
「少女時代の母親がオレと話をしているところを見たとゴボウから聞かされただろう? 時の流れなんて、この草原ではたいした意味を持たないのさ。二千年前のフィーンディアはオレの姿を現世に持ち帰って、像を作った。なら、現代のフィーンディアが別のものを持ち帰らぬとどうして言える? それをあらかじめ知らされていたから、ゾディアは自分の娘をフィーンディアと名づけたのかもしれないじゃないか」
「え?」
「びっくりするのが好きなやつだなあ」そいつは本当にうれしそうに笑った。いかにも親しそうに、僕の背中をぽんとたたいた。
 うーん、あのね。自分でもわかっているけど、僕は今、とてもおかしなことを話しているよね。だけどこれは、僕が経験したことそのままなんだよ。僕がチェットの枝の煙を吸いこんで、床の上にぶっ倒れていたあいだに見聞きしたこと。
 だからこのとき僕の目の前には、僕と同じ顔をしたあいつがいて、にっこり笑っていたんだ。
「まあ、そういうことさ」そいつは歯を見せて、楽しそうに笑った。「じゃあ、オレはもう行くぜ」
「どこへ?」
「どこへって、生まれてくる女の赤ん坊は次々いるからな。オレは遊んでいる暇なんかないのさ」
 そいつが立ち去る気配を見せたので、僕はあわてて、待ってよと言おうとした。でも言うことはできなかった。僕の言葉は、のどの奥のほうで固まってしまった。あいつが一瞬で、少年の姿から一羽のヨタカに変わり、パタパタ羽ばたいて空に舞い上がったから。そして僕の頭の上を二、三回くるりと飛びまわり、また近寄ってきて、僕の右肩にちょこんととまった。得意そうに首をかしげ、くるんとした大きな目で僕を見つめた。
「ついでだから教えといてやるよ」ヨタカのくちばしが動いた。「オレの名はサウカビクセンというのさ」
「サウカビ…?」
「サウカビクセン。もう誰一人覚えちゃいないだろうが、黒王妃の時代の言葉でヨタカという意味さ。知ってるよな? サウカノとビクセンは、元はひとつの国だったのが二つに分かれたんだ。その国の基礎を築いたのは黒王妃だったろ? オレの姿だけじゃなくて、黒王妃はオレの名も持ち帰って、国名にしたんだよ。そんなことも忘れちまってるなんて、人間ってのは本当にあきれちまうよなあ」
 ヨタカは飛び立った。僕は見送っているしかなかった。ヨタカはどんどん高く舞い上がり、空のどこかへ見えなくなってしまった。
 僕は草原に一人取り残されてしまった。と思ったら、次の瞬間にはほおをぺちんとたたかれて、木の床の上に仰向けに横たわっていた。僕はゴボウの店の汚れた天井を見上げていて、スタウとゴボウが僕の両側にかがみこんで、心配そうにのぞきこんでいた。ゴボウのほうは本当に不安そうだったけれど、僕が目を開いたのを見て、ほっとした顔をした。それでもスタウは、まだ険しい表情を僕に向けている。
「気がつかれましたか?」スタウが言った。
「痛い」僕は小さな声で答えた。
「どこがです?」スタウが顔を近づけてきた。
「頭の奥のほうと、あんたにたたかれたほっぺた」
「あははは」ゴボウが大きな声で笑いはじめた。それぐらい不安だったのだろうけど、スタウにじろりとにらみつけられて、あわてて口を閉じた。そのスタウは、いかにも気に食わない顔をしていたけれど、それでも少しは表情をゆるめたようだった。
 ほおの痛みはすぐに消えたけれど、頭痛のほうはなかなかなくならなかった。それでも床の上に座って休んで、ゴボウがいれてくれた茶を飲んでいたら、だんだん薄れてきた。
「王宮へ帰られますか?」自分に出された茶には手も伸ばさずに、スタウが言った。ゴボウのことなんか完全に無視している感じだ。
「殿下を馬に乗せなされ。像を運ぶには、ロバを貸してやろう」ゴボウが言った。
 スタウはすぐに用意を始めた。店の裏手から小さな茶色いロバが引っ張りだされ、ゴボウに手伝わせて、像を乗せてくくりつけた。最初はちょっとふらふらしたけれど、僕は自分で立ち上がり、馬の背中にも自分の力ではいあがった。スタウは心配そうに見ていたけれど、僕は少し無理をしてがんばった。
 スタウがほっと息をつくのが聞こえた。馬とロバの手綱を引いて、ゆっくりと歩きはじめた。ゴボウが見送ってくれたけど、スタウは無視していた。とてもゆっくり進んだので、旧市街を抜けるのに二十分ぐらいかかってしまった。ふだんなら十分ぐらいですんだはず。スタウはかなり神経をぴりぴりさせている様子で、誰かが目の前を横切ったり、後ろからやってきて追い越そうとしたりするたびに、それが不審者に見えるのか、今にも腰の銃を抜くんじゃないかと僕はひやひやした。
 王宮につくまで、スタウは一言も口をきかなかった。僕がやったバカな行為にも文句を言われなかったので、それはありがたかった。無茶をやったもんだと自分でも思ったけれど、無駄なことをしたとは思わなかった。
 僕とスタウは旧市街を抜けて、新市街に出た。人通りの多い広い道だ。僕を見かけて、たまたまパトロールに出ていたらしい数人の警察官たちが駆け寄ってきて、王宮の前まで一緒に行ってくれることになった。
 僕の頭痛は、もうほとんどおさまっていた。僕はビクセンシティーの様子を眺めた。
 もう日が暮れかけていて、そこらの空をヨタカが飛び回りはじめていた。ツバメよりも少し大きいぐらいの鳥だけど、色は茶色一色。大きな目とくちばしを持っていて、ツバメのようについっとカーブを描いて空を飛ぶ。そうしながら大きな口をがばっと開けて、そこらを飛んでいるカなんかの小さな虫をひゅっと吸い込んで食べてしまう。よほど目がいいのだと思う。ビクセンシティーは半分砂漠みたいな空気の乾いた土地で、ヨタカが多いことで知られていた。
 馬の背中の上でゆっくりゆすぶられながら、僕はヨタカたちを眺めていた。もちろんサウカビクセンのことを思い出していた。
 僕はヨタカたちを眺めつづけた。ヨタカたちが飛ぶ空の下にはビクセンシティーの家々や建物、通りや路地が広がっていて、人をたくさん乗せて路面電車やバスが通り過ぎる。数は少ないけれど、自家用車やトラックもいる。歩道は人でいっぱいで、勤め帰りの連中や学校帰りの生徒、買い物帰りらしいメイドたちの姿も見える。車と人ごみの整理に汗だくの巡査の姿もある。
 ヨタカたちは人間のそういういとなみを空からじっと眺めているのだろうな、と僕は思った。これまで何世紀もそうしてきたし、これからもそうするのだろう。
 王宮の正門が見えてきた。鉄でできた背の高い門だ。ビクセンの守護神の三つ尾ヘビの紋章が鋳込まれている。僕とスタウの姿を見て、すぐに門番が門を開けてくれた。スタウと僕は警察官たちに礼を言い、警察官たちは敬礼をして、パトロールに戻っていった。
 そうやって、僕は王宮に帰ってきた。像は、人目につかない場所にきちんと保管してくれるとスタウが約束してくれていた。スタウと別れて七階に着いたときには、僕の身体はもう元通りになっていた。夕食の時間だったので、僕は食堂へ行った。フィーンディアが僕を待っていた。
「クスクス」フィーンディアはすぐに立ち上がって、僕を迎えた。僕の手を引いて、イスに座らせた。テーブルの上に食器を並べようとしていた女官たちが、気をきかせて部屋を出ていった。
「今日は何の日か知っていますか?」フィーンディアが言った。
「何だっけ?」僕にはわからなかった。頭痛記念日じゃないよね。
「あなたの誕生日ですよ」
「あっ」僕はやっと気がついた。「忘れてた」
「プレゼントがあります」
 フィーンディアはにっこりして、テーブルのすみに置かれていたものを手にとった。大きな白い紙で、筒のようにくるくる丸めてある。フィーンディアは、それを大きく広げはじめた。紙の質から見て、感光紙のようだ。書類をコピーしたりするのに使うあれだね。
 フィーンディアはそれを僕の目の前に置いてくれた。紙に丸まるくせがついていたので、皿やカップをはしに置いて重りにした。
 船の設計図だった。砲や機関砲、魚雷の発射装置が描かれているから軍艦だ。船体の前よりには高いマスト、そのすぐ後ろに細長い煙突が二本、わずかに後ろ向きに傾いた形で取り付けてあるのがスマートだ。カジキマグロかイッカクのようにとがったへさきには船名が書いてある。駆逐艦クスクス・ビクセン。
「あなたのために命名しました」フィーンディアの声が聞こえた。僕にはねつけられるかもしれないなんて想像もしていない声だ。僕に受け入れられないことなんかありえないと思っている。もちろん僕にだって、そんな気はぜんぜんなかった。
「かっこいい船だね」僕は図面から顔を上げた。「いつ完成するの?」
「来月から着工するそうです。起工式にはあなたにも出席してほしいとのことでした」
「へえ」
 ドアが開いて、料理を持って女官たちが入ってきた。三人いて、先頭はマーガだったのだけど、テーブルの上に広げられた図面を見て、満足そうににっこりした。すぐに僕とフィーンディアは図面を片づけて、食器を並べなおした。
 食事はとてもおいしかった。僕はおなかいっぱい食べた。
 食事を終えてしばらくしてから、僕は思いついて話しかけた。
「そうだ、フィン」
「なんでしょう?」フィーンディアはにっこりして、僕を見つめ返した。僕の誕生日だからか、今日は軍の制服は着ていなくて、派手なものではないけれど、ドレス姿だった。すその長い水色のドレスで、貴婦人というよりは、まだ社交界にデビューしたての若い娘という感じだった。
「ちょっと歩こうよ」僕はフィーンディアの手を引いて、立ち上がった。
「はい」もちろんフィーンディアはついてきた。居間を出て、手をつないだまま廊下を歩きはじめた。中央階段に出て、下へ降りていきはじめた(この王宮にはエレベーターなんかなかった)。
 僕はとっくに気がついていたのだけど、この夜のフィーンディアは髪を後ろでひとつにまとめ、そこに白い長い布を結びつけ、尻尾のようにたらりと背中にたらしていた。サウカノの女官の制服と同じやり方だ。あのとき僕が言ったことを、フィーンディアは覚えていてくれたらしい。フィーンディアが一歩あるくたびに、白い布がつんつん踊る。手を伸ばして、僕が指先でそっとその布に触れると、フィーンディアは恥ずかしそうににっこりした。
 フィーンディアは若く、本当に愛らしい女性だった。でも、人形のようにかわいらしいだけじゃなかった。かわいらしいだけでは、国を経営していくことなんてできない。一度、こんなことがあった。
 王族ではないが、王宮にゆかりのある人が死んで、その葬儀が開かれた。僕とフィーンディアも出席した。葬儀はビクセンシティーの東のはし、もう干潟に近いあたりにある広い墓地で行われたのだけど、身元のはっきりした者だけが参列を許される物々しい葬儀になった。墓石のそばに近衛兵たちが直径十メートルぐらいの半円を作って立ち、その中心にいるフィーンディアを守っていた。僕はそれから少し離れた場所で、その他大勢の中に混じって立っていた。
 いいかげん雲行きの怪しい日だったのだけど、葬儀がもう少しで終わるというころ、とうとう雨が降りはじめた。夕立みたいな、ざっとした激しい雨だった。だから女官の一人がすぐに傘を開いて、フィーンディアに差し出した。フィーンディアはその傘を受け取り、どうしたと思う? 近衛兵たちの半円を出て、すたすたとそばへやってきて、僕に傘を差しかけたんだ。もちろん僕はすぐに気づいて、フィーンディアの手から傘を受け取ろうとした。なんたってフィーンディアは女王なんだから。法的な意味でもあらゆる意味でも、僕もフィーンディアの臣下の一人なわけだから。
 でもフィーンディアは首を横に振り、傘を渡してくれなかった。そのまま自分の手に持ち、僕に差しかけ続けた。
 これが後日、大きな問題になった。国内の〃良識ある〃連中が声明を出して、ぎゃあぎゃあわめいたんだ。「たとえクスクス殿下といえども、女王陛下に傘を持たせるなど言語道断」ということだった。
 賛否両論入り乱れて、騒ぎは一週間ぐらい続いた。それでとうとうフィーンディアが公式に声明を出すことになったのだけど、フィーンディアは一言で〃良識派〃を黙らせてしまった。
「妻が夫に傘を差しかけて何が悪いのか、私には理解できません。王位とはそれほど不自由なものであるというのなら、いっそのこと犬にでも食わせてしまいましょう」
 これを、十七歳の若い娘が口にしたんだよ。
 まあそれはともかく、この夜僕とフィーンディアは手をつないで、階段を降りていった。ここは王宮の中でいちばん広い階段で、日中は人でごった返している。今はこんな時間だから人は少ないけれど、ときどきは女官や衛兵たちとすれ違った。特に衛兵たちは、すべての踊り場に一人ずつ立っていて、フィーンディアの姿を見るとささげ筒の姿勢をとり、石像のように動かなくなった。
 僕とフィーンディアは階段を降りつづけた。
「どこまで行くのですか?」フィーンディアが言った。でももちろん、不安そうな表情じゃない。僕が何か悪いことをするなんて、フィーンディアは想像してもいないだろう。
 僕はフィーンディアを連れて、地下二階までやってきた。王宮の地下一階は自動車の車庫や整備工場になっていたが(昔は馬小屋だったそうだ)、地下二階は倉庫になっていた。だから今の時間は人影はまったくなくて、がらんとしていた。ここには衛兵だっていなかった。
 この階は五つの大きな部屋に分かれていたが、そのうちの四つには武器や弾薬、非常用の食料が貯蔵されていた。残りのひとつの部屋は、半分ゴミ捨て場みたいな、不用品の置き場になっていた。この王宮は、古いもの汚いもの、わけのわからない道具類はたくさんあるけれど、金目のものはほとんどないという困った場所だったのだけど、だからって、古いものをみさかいなく捨ててしまうわけにもいかなくて、そういうものを入れておく場所だったんだ。僕はあらかじめハニフからキーを借りて、いまもポケットの中に入っていたから、すぐに入口の扉を開けることができた。
 木でできていて分厚いけれど、古びてがたがたになりかけたドアだった。油も切れていて、ちょうつがいが大きな音を立てた。
 この部屋に人がくることは普段からほとんどなかったのだけど、電灯は取りつけられていた。少し前に地下二階のほかの部屋に電灯を取りつける工事が行われていて、そのときにこの部屋にもついでに工事をしていたから、電球がいくつか天井からぷらんとぶら下がっていて、僕がスイッチを入れると、黄色い光で輝きはじめた。まぶしそうに、フィーンディアは少しのあいだ手をかざしていた。
 目的の物は、すぐに見つけることができた。置いた場所をスタウから聞かされていたからだけど、胸像は防水布に包まれたまま、部屋の一番奥に置かれていた。僕はフィーンディアを連れて、通路を歩いていった。この王宮の主なのに、ここへ来るのは初めてだったのかもしれない。フィーンディアは物珍しそうにきょろきょろしていた。みんなホコリよけの布をかけてあるけれど、浮き出ている形から、イスらしいとか机らしいとか、古いヨロイらしいとかわかる。大きな家具はただ四角いだけで、本棚なのか戸棚なのかまではわからないけれど。
 そういう雑多なものが何十もここにはあって、そういったものをぬって、僕とフィーンディアは歩いていった。そして、胸像の前までやってきた。これも布に包まれていたから、フィーンディアには何のことかわからなかっただろうと思う。僕がその前に立ち止まると、もちろん一緒に立ち止まって、にっこりして首を少しかしげて、僕を見つめた。
 僕は手を伸ばして、像を包んでいる布をほどこうとした。
 思わず微笑んでしまったのだけど、いかにもスタウらしく、かっちりした仕事がしてあった。像は布の上から縄で厳重にしばってあって、その結び目のところには白い紙がはさみ込んであって、こう書かれていた。『クスクス殿下の許可なくこれを開くことを禁じる』
 その紙を引き抜いて、僕が縄をほどきはじめるのをフィーンディアは見つめていた。僕が結び目にてこずっていると、手を伸ばして手伝ってくれた。
 僕とフィーンディアは縄をほどき、一枚ずつ布をはずしていった。すぐに像があらわになった。電球の光をはね返して、きらりと光っていた。
 フィーンディアは像を見ている。僕はその様子を眺めていた。フィーンディアは何も言わなかった。
 フィーンディアがかがんだので、何をするつもりなんだろうと思った。フィーンディアは像と向かい合って、まるで小さな子供に話しかけるときのように、目の高さを合わせた。像は小さな木箱を台がわりにして置いてあったが、背の低い木箱だったから、こうしないと視線を合わせることができなかったんだね。
 フィーンディアの指が伸びて、像のほおに触れるのを僕は見た。僕は、自分のほおに触れられたかのような気がした。フィーンディアは像に、ためらうようにそっと触れている。フィーンディアの指先が滑っていき、像の目、まぶた、額に飾られた石に触れた。それから少し戻ってきて、像のあごの先に触れ、とうとう唇に触れた。
 僕は、フィーンディアが身体を前に傾けるのに気がついた。フィーンディアは顔を近づけ、そっと像の唇にキスをした。
「フィン」僕は驚いて、少し大きな声を出した。でもフィーンディアは反応しなくて、像と唇を合わせたままでいる。
 とても長いキスだった。僕は不安になって、もう一度話しかけようとした「ねえ…」
 やっと唇を離し、フィーンディアがゆっくりと振り向こうとした。僕は、心臓が止まってしまいそうな気がしていた。なぜだか知らないけど、それぐらい不安だった。
 フィーンディアは振り返って僕を見上げ、にっこりした。同時に、僕の不安もどこかへ行ってしまった。フィーンディアは立ち上がり、僕と腕を組もうとした。もちろん僕は、されるままになった。
「もう遅い時間です。休みましょう」フィーンディアが言った。僕を見つめ、微笑んでいる。
「うん」
 僕とフィーンディアは歩きはじめようとした。でもすぐに気づいて、僕は後戻りをして、像にまた布をかけておこうとした。僕はフィーンディアから離れ、布を手にし、かがんで仕事を始めようとした。
「それは明日にしましょう」フィーンディアの声が聞こえた。
 僕は振り返ってフィーンディアを見上げたのだけど、すぐにフィーンディアは手を取って、僕を立ち上がらせた。
 僕は少しおかしな気がした。指先でそっと愛撫し、あんなに情熱的なキスをするぐらいいとしく思ったはずの像を、こんなホコリだらけの場所にむき出しで置いておこうとするなんて。
「でも…」僕はいいかけた。
「その仕事は、明日誰かにやらせましょう。さあ」
 いかにも待ちきれないというように、フィーンディアは僕と指をからませた。像のことなんか突然どうでもよくなってしまったんだろうかと思って、僕はふたたびとても変な気がした。でもされるままになって、手を引かれて歩きはじめた。
 フィーンディアは、僕を連れて部屋を出ていった。部屋の出口だって、カギをかけるどころか、扉だって開けたままで廊下へ出ていった。僕はどうも信じられないような気分で、きょろきょろ何回も扉を振り返ったのだけど、フィーンディアはまったく気にしない様子だった。
 フィーンディアは、僕を連れて歩きつづけた。廊下が終わって、階段になって、二人で登りはじめた。もちろん手をつないだままだ。
 突然、フィーンディアの手がさっきよりも冷たくなったような気がした。僕は指先に注意を集めた。そして確信がもてた。同じようにすべすべしてやわらかい肌なのだけど、確かに別人のように冷たい。
 フィーンディアの身に何か奇妙なことが起こっていると僕が感じていると、フィーンディアも感じ取ったようだった。僕を見つめてにっこりしたけれど、でも何も言わなかった。だから僕も、手をつないだまま、黙って階段を上り続けるしかなかった。
 白っぽい石灰石でできた幅の広い階段だ。踏み段だけじゃなくて、手すりも石灰岩でできている。一階を過ぎて、また女官や衛兵たちの姿を見かけるようになった。フィーンディアの姿を見ると、女官たちはわきによって顔を伏せ、道をあけた。衛兵はささげ筒をし、敬意を表した。
 それはいつもと同じだった。でもこのとき、見慣れているはずのそういう光景が、なぜかとても新鮮に感じられることに僕は気がついた。なぜだろうと思った。そして気がついた。女官や衛兵たちの行動が、フィーンディアのように若い女王に対してではなくて、イプキンのように長いあいだ玉座に座ってきた老練な女王に対してであるかのようだったからだ。
 僕は、別のことにも気がついた。フィーンディアが髪の後ろにたらしているあの白い布だ。サウカノ女官の制服を真似たやつ。この階段を下りてくるときには、フィーンディアが一歩を踏み出すたびに、あの布は楽しそうに揺れて踊っていた。僕はよく覚えていた。でもそれが今は、ほとんど動いていないんだ。フィーンディアは同じようなペースで歩いているのに。布はまるで、歩いているのではなくて、フィーンディアがスケートでもはいて氷の上をしずしずと滑ってでもいるかのように、まっすぐ下を向いて、だらりと垂れ下がったままになっているんだ。
 バカみたいなことだけど、それでも念のためという気分で、僕はフィーンディアの足元を見た。もちろんフィーンディアは歩いている。一歩ずつ足を前に踏み出し、階段を上っている。
 僕は気がついた。フィーンディアの歩き方がさっきとは変化しているんだ。僕は以前から興味を持って眺めていたのだけど、人間というのは、本当にひとりひとり歩き方が違うね。イプキンは胸を前に倒し、首をわずかに後ろにそらせて、ハトのようにせかせか歩いたし、スタウは伝説に出てくる青銅製の巨人のように、一歩一歩踏みしめながらどすんどすんと歩く。ハニフは背中を丸めて、駆け足のようにちょこちょこ歩くし、マーガはまるで大砲でも撃ちだすように、長いスカートをすねでけり上げながら歩く。僕の知っているフィーンディアは、しっぽをすっと伸ばしている猫のようにおだやかに、でも楽しそうに歩く。
 だけど、このときのフィーンディアは違っていた。別人のような歩き方をした。僕が見たことのないタイプの歩き方だ。この歩き方は、誰にも似ていないと思う。
 フィーンディアは僕の隣を歩きつづけた。長い階段なのに、息切れする様子もない。僕と手をつないでというよりも、今はもう僕の手を引いてというほうが正しいと思う。僕は一瞬、フィーンディアは背も高くなっているんじゃないかという気がした。
 僕はもう一度フィーンディアを眺めた。フィーンディアの歩き方は、本当に別人のようだった。僕が知っているフィーンディアよりも筋力や体力のある人間の歩き方だ。子供時代から何年も剣や弓の練習を続け、馬に乗りつづけてきた人間だという気がした。フィーンディアだってもちろん、そういうことは一通り習ってはいたけれど、それは女王として必要な技術というのではなくて、ただのたしなみに過ぎなかった。だけど現代はともかく、二千年前はそうではなかったはず。馬にまたがり、剣と弓を使いこなし、兵を引き連れて国中をかけまわっていたはず。現在のビクセンとサウカノを全部おおってしまうほどの広さの国土を。
 僕とフィーンディアは階段を上がりきり、二人ともまだ手をつないだままだったけれど、七階に出た。廊下になって、床が平らになった。
 僕はふと思いついたことがあって、一、二歩早足で歩いて、フィーンディアの横に並ぶことにした。
 僕はそっとフィーンディアを眺めた。フィーンディアはきっと、その意味には気がつかなかったと思う。にっこりして僕を見つめ返した。
 お互い歩き続けているわけだから少し難しかったけれど、なんとか僕は目的を達することができた。
 僕とフィーンディアは、以前から背の高さは同じぐらいだった。おもちゃの人形みたいな夫婦だと、よくみんなから言われていたからね。
 でもこの夜、こうやって二人で並んで歩きながら、百パーセント確信がもてたわけではないけれど、僕はまあまあ自分の正しさに納得することができた。ほんの何センチかだったけれど、フィーンディアは僕よりも背が高くなっているようだった。
「どうしたのです?」僕の表情に気づいて、フィーンディアが言った。
「ううん、なんでもない」僕は首を横に振って、歩きつづけた。
 翌朝までは何も起きなかった。朝食をすませても何も起こらなかった。フィーンディアはいつものように穏やかで、すぐにオフィスへ行ってしまった。僕はひとりで『蜂追い係控室』に引っ込んだ。ドアに鍵をかけて、考えごとをすることにした。
 フィーンディアの身に何が起こっているのか、僕には見当もつかなかった。一日中ぐずぐず考え続けたが、何一つ得られなかった。
 用事でどこかへ出かけるということだったので、昼食と午後のお茶は、フィーンディアは一緒ではなかった。僕が次にフィーンディアの顔を見たのは、夕食のときだった。
 僕は早めに食堂へ行って、イスに座って待っていた。フィーンディアは時間通りにやってきた。いつものように軍の制服姿だった。帽子を脱ぎ、これもいつものように入口のわきの小さなテーブルの上に置いた。
 フィーンディアの髪はいつもまとめられて、こうやって帽子の下に隠されているのだけど、以前から気がついていたことだけど、フィーンディアは僕に髪を見られるのが好きなようだった。とてもきれいな髪だったしね、だからフィーンディアは、僕の前ではできるだけ帽子を脱ぐようにしているようだった。女官や侍女の入ってこれないこんな小さな部屋を食堂に決めたのだって、それが理由のひとつだったのかもしれない。女官や侍女のいる席では、帽子は頭に載せておくのが正式の作法だから。
 フィーンディアが僕と向かい合って座り、夕食が始まった。
「最近背が高くなったのか、服をいくつか作り直さなくてはならなくなりそうです」フィーンディアが言った。
「へえ」僕はなんでもない顔で答えたけれど、本当は胸がどきどきしていた。何を食べているのか、もう味もわからなかった。間違ってナプキンを口に入れても気がつかなかっただろうと思う。
「どうしたのです?」
「ううん」僕はがんばって、なんでもないふりを続けなくてはならなかった。
 こうやって一日が過ぎて、次の日の朝がきた。フィーンディアはオフィスへでかけた。僕は控室に閉じこもって、書類を読んでいるふりを続けていた。夕食の時間がきた。食堂へ行くと、フィーンディアはもう僕を待っていた。
 でも、ドアを開けて部屋の中へ一歩踏み込んで、僕が立ち止まってしまったので、フィーンディアは不思議そうに顔を上げて、僕を見つめた。
「どうしたのですか?」フィーンディアの口が動いた。
 フィーンディアの声は、いつもとまったく同じだった。はっきりと通りのよい、それでもやわらかい声だ。たしかに僕が知っているフィーンディアの声だ。それは間違いない。でも僕は、目の前にいるのがフィーンディアだとは一瞬信じることができなかった。
 フィーンディアはきれいな金色の髪をしていて、青い石を飾るととてもよく似合った。青に映える金色の髪だね。大げさだとは僕も思ったのだけど、ある詩人がぞっこんほれ込んで、その髪をたたえる詩を作ってささげたことだってあるくらいだ。でもそのフィーンディアの髪が今は真っ黒に変わってしまっていて、それに驚いて、僕は食堂の入口で立ち止まってしまったんだ。
 なんでこんなときにこんなことを、という気は自分でもしたけれど、その髪を見た瞬間、僕は、小学校でハイキングに行ったときのことを思い出した。
 あのとき僕はビーカー学園の二年生で、教師たちに連れられて、ビクセンシティーの北にある山脈のふもとまで路面電車に乗って出かけたんだ。電車は通りの真ん中を北へ向かって走り、山に突き当たってこれ以上は登れないというところまで行って終点になった。僕たちは、電車を降りて歩きはじめた。すぐに山道になった。川にそった狭い道で、岩や石ころがごろごろしている。くねくね曲がりながら登っていく。川といっても谷川みたいなもので、幅は一メートルぐらいしかない。でも途中で一カ所、この川が突然広がって池のようになっている場所があった。小さな滝があって、その滝つぼだったのだけど、直径は七メートルぐらい。ここでは流れはほとんどなくて、水面はガラスのように平らだった。とても透き通った水なので、底に何が見えるかなと思って、僕は岸から身体を乗り出して、のぞきこもうとした。
 そのとき、同級生の一人が僕の背中を押した。わざとどんと押したんだ。だから僕は、そのまま水の中へ落ちていった。
 水面まで一メートルもなかったから、ケガをするようなことはなかった。でも水は深くて、一瞬で僕の全身をすっぽりと包みこんだ。暑い日で、水の冷たい肌触りは気持ちがよかったけれど、僕にはそんなことを楽しんでいる余裕はもちろんなかった。僕の身長よりも深い水だったんだから。
 もちろん教師たちがすぐに助けあげてくれたが、水の外に出ても、僕はわあわあ泣き続けていた。それは、びっくりしたことと水が怖かったせいなんだけれど、でも本当の理由は別のところにあったんだ。
 僕は水の中で、群生している藻を見たんだ。長い長い藻だった。三メートルぐらいはあったと思う。葉も茎もなくて、ヒモのように長くて、一方のはしは水中の岩にくっついているが、反対側は水の中を自由に漂っている。色は、濃い緑というよりは、もう完全に真っ黒という感じだった。
 そういうものが何万本も水の中をゆらゆらと漂いながら、僕を迎えてくれたんだ。僕は、そいつらからあいさつをされたような気がしたのかもしえない。これが『黒王妃の髪』と呼ばれる藻だと知ったのは、ずっと後のことだった。そしてこの夜、僕を見つめ返してくるフィーンディアの髪は、この藻のように真っ黒でつやつや光っていたんだ。
「どうしたのです?」フィーンディアが不思議そうに言った。「何か困ったことでもあるのですか?」
「ううん」僕はまたなんでもない顔を装って、首を横に振らなくてはならなかった。
 僕はフィーンディアに気づかれないように息を整えて、向かい合って座った。すぐに女官たちが、料理を持って入ってきた。それがきっかけというわけでもなかったのだけど、僕は口を開いた。
「服を作り直す話はどうなったの?」
 フィーンディアはにっこりした。
「あれは気のせいだったようです。今日、衣裳部屋へ行って調べてみたのですが、服はみな身体によく合っていることがわかりました」
「ふうん」
 僕はフィーンディアを眺めなおした。いま着ている軍の制服だって、身体にぴったりと合っていた。フィーンディアは明らかに背が高くなっているのに。
 たった一日で制服を直したり、新調したりできるわけないよね。じゃあ、やっぱり気のせいなのかなという気がしないでもなかった。僕はときどき、おかしなことを思い込んでしまうことがあるから。
 たとえば、まだ五、六歳のころだったと思うけど、王宮内のある部屋に幽霊が住みついていると思い込んでしまったことがあったんだ。王宮の敷地の北のはしにある細長くて背の低い塔で、正体はもう使われていない給水塔だった。頂上の階にポンプがあって、その管理をするための部屋もあって、窓がひとつある。その窓に幽霊の人影を見たと僕は思い込んでしまったんだ。
 僕があんまり怖がるし、毎日毎日その話ばかりするし、給水塔の近く百メートル以内には足を踏み入れることだって嫌がるので、とうとうフィーンディアはゾディアに相談した。そしてゾディアがスタウに相談し、あの塔には幽霊なんかいないんだと僕を納得させるために行動を起こすことになった。
 あれはおかしな眺めだったと思うよ。おっかなびっくりの僕の手を引いて、スタウは給水塔の階段を上がっていった。僕があんまり不安がるものだから、銃を持った衛兵が五人、一緒にきてくれた。その列の一番後ろを、怖いもの知らずのフィーンディアがついてくる。
 探索の結果、もちろん幽霊なんかいないことがわかった。でも、僕は完全に間違っていたわけではなかった。僕が見た人影は本物だったんだ。給水塔の頂上の部屋には見たこともない若い男がいて、僕やスタウたちが突然どかどか入ってきたので、びっくりした顔で振り返った。衛兵たちは、もちろんすぐにこの男を捕まえた。部屋の中を調べてみると、数日前からここに潜んでいた様子で、いろんなものの食べかすが散らばっていた。厨房から失敬してきたらしいものもあったのにはあきれてしまった。
 この男は泥棒だったんだ。王宮に忍び込んで生活しながら、金目のものはないかと夜な夜な歩きまわっていたらしい。そうやって集めたらしい銀の食器がこの部屋の中で見つかった。
 話を聞かされて、ゾディアはひどく腹を立てた。王宮内に一晩中衛兵が立つようになったのは、このときからだった。
 まあそれはともかく、時々こうやってわけのわからないことを思い込んでしまうというのは僕の得意技だったのだけど、この夕食の席で、食堂の入口の小さなテーブルの上に置かれたフィーンディアの帽子になんとなく視線を落としたときには、僕は心臓が止まってしまいそうな気がした。
 フィーンディアの帽子の正面には、三つ尾ヘビをかたどったビクセン国軍の紋章が取り付けてあって、これはどの軍人の帽子でも同じなのだけど、フィーンディアの場合には、王族であることを示すために、その紋章の下部に小さな水色の線がそえてあったんだ。長さ三センチぐらいのものだよ。
 その水色は、偶然だけどフィーンディアの金色の髪とよく調和していた。即位したとき、王宮に画家を呼んでフィーンディアの肖像が描かれたのだけど、フィーンディアは制服姿で描かれた。その油絵の中でも、この水色の線とフィーンディアの髪はとてもよく映えていたんだ。
 でもこの日、食堂の中で僕は気がついた。フィーンディアの帽子の線は、もう水色ではなくなっていたんだ。水色でもなく細くもなく、太い白線に変わっていた。もちろん、日に焼けて色が抜けたというようなのじゃない。ちゃんとした白い色だ。まじりっけのない砂糖のような。
 僕にはわけがわからなかった。でも不意に気がついた。水色がフィーンディアの金色の髪によく映えていたのと同じように、あの白線は今のフィーンディアの黒い髪によく映えるであろうということに。
 そんなふうにしてその夜は過ぎたのだけど、翌日の昼すぎ、僕はスタウに話しかけた。一人で歩いていたとき、廊下でばったり出会ったんだ。スタウはいつものように忙しそうにしていたけれど、僕が呼ぶと立ちどまってくれた。
「フィンの髪のことなんだけど」
「それがどうかしましたか?」スタウは不思議そうな顔をした。
「色が変わったような気がしない?」
 スタウは僕を見つめ返した。なんておかしなことを言うんだろうという顔をしているような気がした。それでも、まじめな表情で口を開いた。
「白髪でもありましたか?」
「ううん」僕は首を横に振った。「髪の色が濃くなったような気がする」
「なんですと?」今度こそスタウは不審そうな顔をした。「フィーンディアさまの髪は、子供のころからあのような黒でしたよ。お生まれになった数日後、ゾディアさまに抱かれてはじめて国民たちの前にお出になったとき、つやつやした美しさがひとしきり話題になったから、よく覚えております」
 僕にはわけがわからなかった。頭がふらふらしてきそうな気がした。スタウと別れて、一人になって庭に出て、池のへりに腰かけて、考えをまとめようとした。
 どうなっているのだろう? フィーンディアの髪は金色だったはず。それが真っ黒に変わってしまった。でもそのことを、フィーンディア本人もまわりの連中もまったく気がついていない。それどころか、もとからあの黒さだったと思っている。フィーンディアの髪は絶対に金色だった。子供のころから一緒にいる僕が間違うはずがない。
 だけど僕は不意に、なんだか自信がなくなってきた。僕が間違っているのかもしれない。みんなが黒だというのなら、そうなのかもしれない。僕一人が思い違いをしているのかも。だってほら、おかしなことを勝手に思い込むのが、僕は子供のころから得意じゃないか。
 そうやって僕はしばらく座っていたのだけど、ちょっと思いついたことがあって、立ち上がった。マーガを探しにいった。
 マーガが広間にいるのを見つけた。広間の窓ガラスを掃除する指揮をとっていた。侍女や女官たちが十人ぐらいいて、ハシゴをかけてあがり、ブラシでガラスをこすっている。床の上には、セッケン水の入ったバケツがいくつも置いてある。
「マーガ」
 僕が話しかけると、すぐにマーガは振り向いた。「なんです?」
「忙しいところを悪いけれど、肖像の間のキーを貸してくれる?」
 肖像の間というのは、広間から少し奥へ行ったところにある部屋のことで、幅は狭く細長いから、部屋というよりも廊下と呼ぶほうが近い感じだった。左右の壁には代々の王や女王の肖像が飾られていて、たしか十七人いたと思うけれど、その中でいちばん新しいのは、もちろんフィーンディアの肖像だった。
「なんになさるのです?」マーガは少し眉をしかめた。
「絵を見るんだよ」僕は答えた。
 マーガは困ったような顔をして、広間の中を見回した。掃除の真っ最中なのだから、ごちゃごちゃの大混乱だ。こんなときにこんなことを言うなんて、という顔をマーガはしたけれど、すぐににっこりして、僕を見つめ返した。「私が一緒にまいりましょう」
「うん」僕はうなずいた。
 マーガはすぐに歩きはじめようとしたけれど、何か気づいたことがあったようで、そばにいた若い女官の腕に軽く触れ、振り返らせて話しかけた。マーガはこういった。
「私は少しここをはずすからね、あんたが監督をおし。かえってきたときに仕事が進んでなかったら、承知しないからね」
 みんなの間でマーガが恐れられている理由が、僕はわかったような気がした。
 僕は、マーガと一緒に広間を出ていった。背後では、女官や侍女たちが掃除を続ける物音が、ばたばたガチャガチャ聞こえている。僕とマーガは広い廊下を離れ、幅の狭い別の廊下へ入っていった。
 左右にドアが並んでいる廊下だったけれど、すぐに終わって、あるドアにぶつかって行き止まりになった。マーガは制服のポケットからかぎ束を取り出して、その中からキーをひとつ選んで、鍵穴に差し込んだ。ドアを開けて、僕とマーガは肖像の間へ入っていった。
 たぶんここは、元は廊下の続きだったのをドアで仕切って部屋のようにしたのだと思う。マーガが電灯のスイッチを入れたので、部屋の中が明るくなった。
 記憶していた通りに、肖像画が並んでいた。縦横が一メートル半ぐらいある大きなもので、木に細かい模様を彫って作った額の中に入っている。一枚ずつ壁につるされている。二百五十年前から現在までの歴代の王や女王たちなのだけど、四十年以上在位していた人もいたし、数年で死んだ人もいる。最短記録は三日だったそうだ。即位して、肖像画を描き終わらないうちに家来に刺し殺された。よっぽど人望のない王だったのだと思う。
 これらの絵は、その時代なりに最新の服装で描かれていたから、一枚一枚見ていくとおもしろいのだけど、この日の僕は、もちろんそんな気分じゃなかった。すぐにフィーンディアの肖像画を見つけ、その前に立った。マーガも僕の隣に立った。
 フィーンディアは、黒い服を着た姿で描かれていた。ビクセン国軍の制服だ。でも儀典用の派手なやつじゃなくて、生地だけじゃなくて、ボタンまで黒く染められたやつで、絵の背景も薄暗い部屋の中だったから(七階の書斎だとすぐにわかった)、フィーンディアの肌の白さがとてもよく目立った。いつものあの帽子をかぶり、こっちをまっすぐに見つめている。
「いつも思うことですが、とても腕のいい画家ですね」マーガが口を開いた。
「うん」
 僕はそう答えたけれど、ずいぶん気のない返事に聞こえただろうと思う。マーガは黙ってしまった。
 だけどマーガのいうとおり、本当にうまい絵だった。毎日フィーンディアを見ている僕でも、そっくりだと思うから。輪郭のはっきりしたあごの線や、カマキリのようについっと長い首(ほめ言葉だよ)、硫酸銅の水溶液のような色の瞳、鼻はつんとしているけれど、ハニフみたいなワシのようなのじゃない。
 だけどこの肖像画を見た瞬間、僕は気がついていた。もちろん覚悟はしていたけれど、やっぱり心臓が止まってしまいそうな気がした。肖像画の中のフィーンディアは、真っ黒な髪をして描かれていたんだ。帽子の正面のあの飾りだって、水色ではなく、白い線をそえて描かれていた。
「どうかなさったのですか?」僕の様子に気がついて、マーガが言った。
 僕は何も言うまいと思った。でもどうにもできなくて、口を開いてしまった。
「フィンの髪って、こんな色だったっけ? もっと金色じゃなかった?」
 マーガはくすくす笑いはじめた。意外な反応だったので、僕は振り返った。でもマーガは笑いつづけた。
「何の冗談をおっしゃっているのです? フィーンディアさまの御髪は、子供のころからこの絵のままではありませんか?」
 僕はマーガなんかほったらかしにして、肖像の間から急いで出ていった。マーガは不審そうな顔で見送っていたに違いないけれど、気にしている余裕なんかなかった。すぐに一階まで降りて、資料室へ行った。
 資料室には大きな戸棚がいくつもあって、王国に関するいろいろな資料が集められていた。本当は許可を得た者しか立ち入れない場所なのだけど、僕は事実上、王宮の中ならどこでもフリーパスだった。ここには首都で発行されている新聞がぜんぶ保存されていて、僕はすぐに目的の日付のものを見つけ出すことができた。フィーンディアが女王に即位した日のものだ。長いケープを着て、王冠を頭に載せ、王のつえを手にしたフィーンディアの写真が大きく印刷されている。
 僕はその写真に目を走らせた。写真の中のフィーンディアは、真っ黒な髪をして、僕をまっすぐに見つめかえしていた。
 僕はため息をついた。しばらくのあいだ写真を眺めていた。この写真までこうだということは、乾板を探し出してきてもたぶん無駄だろう。他の場所に保管されている新聞の写真も、きっと同じようだろう。
 記事にざっと目を通して、僕は気がついた。こんな一節が目についた。『フィーンディア陛下の御髪には、髪飾りの宝石がよく映え…』
 僕は新聞をほうり出して、資料室を走ってでた。「なんだ?」という顔で職員たちが見送っていたけれど、ここでも気にしている余裕はなかった。僕は階段を六階まで駆け上がり、貴重品室の前まで行って、ドアをどんどんとたたいた。
 ここには専任の係がいて、中年の女だった。いかにも学校の教師風な顔をした女で、僕は前から好きじゃなかった。正式の女官の一人だったけど、どういうわけかこの彼女だけは〃ミス〃をつけて、ミス・リンクスと呼ばれていた。ミス・リンクスも僕のことがあまりお好きではないようで、子供のころでも、廊下を走り回ったりすると、いつもじろりとにらまれた。貴重品室のドアが開いて、そのミス・リンクスが顔を見せたんだ。
「なんでしょう?」
 どう言っていいかわからなくて、僕が何秒間も黙っていたら、しびれを切らしてミス・リンクスが言った。
 僕は、深呼吸をするように息を大きく吸った。この女に対しては、マーガやスタウに対するのとは違うやり方をするほうがいいような気がした。いまさら気がついたのだけど、僕は女王の夫なんだよ。
「フィンの髪飾りを見せて」と僕は言った。
 リンクスはぽかんとした顔をした。「なんのためです?」
 僕は腹が立ってきた。なんでこんな女にそんなことをいちいち説明しなきゃならないのさ。
「見せられない理由でもあるの?」僕は言い返した。「入っているはずの引き出しが、いつの間にか空っぽになっているとか?」
「なにをおっしゃるのです」リンクスは顔を赤くし、ドアを大きく開いた。「お入りください」
 ここへくるのは僕は初めてだったのだけど、一歩踏み込んで驚いた。床にはしっかりした赤いじゅうたんが敷き詰めてある。物が収めてあるらしい戸棚や物入れがいくつか並んでいるが、それだけじゃなくて、部屋の奥には長イスやテーブルまであるじゃないか。その向こうには窓があって、中庭を見下ろすことができて、城壁をへだててビクセンシティーを見渡すこともできる。長イスに座って見やると、いかにも眺めがよさそうだ。テーブルの上には、菓子の乗った小皿や、湯気を立てている茶碗まで置かれている。僕は、リンクスがいつもこの部屋に入りびたっている理由がわかったような気がした。
「おいしそうだね」テーブルのほうをちらりと見ながら、僕は言った。
「召し上がりますか?」
 リンクスは青くなっていた。それを見て少しは気がすんだので、僕はここへきた本来の用事を始めることにした。
「フィーンディアの髪飾りを見せて」
「こちらにございます」
 けとばされたみたいにしてリンクスは歩きはじめて、僕を部屋のすみへ連れていった。大きな物入れのかげになって、ちょうど僕からは見えなかったあたりだ。そこへ行ってはじめて気がついたのだけど、小さいものだが金庫があった。高さは一メートルぐらいで、この中に宝石類が入れてあるのだろう。
 リンクスは金庫の前へ行き、ポケットからキーを取り出して、かがんで鍵穴に差し込んだ。僕はまっすぐ立ったまま、黙って見下ろしていた。かちんと音がして、ロックがはずれたようだった。鍵穴に差したままキーから手を離し、リンクスはダイヤルに手を触れようとした。鍵穴のすぐわきにあって、細かく数字が刻んである小さな丸いダイヤルだ。同じものが二つ並んでいる。
「あちらをお向きください」リンクスが顔を上げて、僕に指図をした。僕は言われた通り、金庫に背中を向けた。
 かちかちと何かの器械が動くような音が背後から聞こえ、それからパチンとドアが開く音が聞こえた。
「ここにございます」
 その声で振り向くと、金庫のドアは完全に開かれていて、小さな引き出しが二十ぐらい並んでいるのが見えた。リンクスはその中のひとつを引っ張りだして、僕に中身を見せようとしているところだった。
 幅は広いが薄っぺらい引き出しで、ベルベットでできたクッションが敷いてある。真っ黒なベルベットなのだけど、白金でできた髪飾りがその中央に置かれていた。王冠をかぶるときに身につけるものだから、そんなに大きなものじゃない。頭のてっぺんにちょんと載る王冠と前髪のあいだを飾るもので、ベルトのように細い。全体は逆三角形をしていて、銀のピンで髪に留めるようになっている。人差し指の先ぐらいの直径の宝石が一つ飾られていて、身につけると、ちょうど額の中央にぷらんと垂れ下がる形になる。戴冠式の日、フィーンディアが歩くと、この石もかわいらしくプルプル震えていた。フィーンディアの金髪によく似合うブルーの石だった。フィーンディアの瞳ともつりあっている。
 でもこのとき、金庫の引き出しの中でこの石は、白く透明に輝いていたんだ。もう金色の髪にはあまり映えないかもしれない。だけど真っ黒な髪になら…
 僕が何も言わずに貴重品室から出ていこうとしたので、リンクスがふんと鼻を鳴らすのが背後から聞こえてきたけれど、僕にはもう、そんなことに腹を立てる気力も残っていなかった。
 僕は廊下に出た。ひどくのどが渇いたような気がしたので、水が飲みたいと思った。七階へ行くために階段を探した。表の広い階段より、裏の狭い階段のほうが近いことに気がついた。半分非常口みたいな階段で、狭くて急で薄暗くて、使う人はあまりいなかった。電灯だってなくて、ところどころ壁に口を開けている銃眼が明かり窓がわりだった。磨かれていない石灰石を積み上げて作ってあって、一段一段の間隔も離れていて歩きにくい。何世紀か前には、これがこの城の唯一の階段だったらしいけれど。
 誰の顔も見たくない気分だったから、僕はこの階段を通ることにしたんだ。僕は階段に差しかかり、一段一段登りはじめた。
 途中に踊り場があって、階段はここで九十度向きを変え、正方形のようにかくかく回りながら、王宮を上下に貫いていた。その最初の踊り場のところで、僕はフィーンディアに出会った。
 フィーンディアは僕よりも数段上にいて、一人だった。僕を待っていたのかもしれない。もう僕よりも十歳ぐらい年上に見えたが、とても美しかった。でもそれは、顔かたちの美しさだけではなくて、むしろ平凡な顔立ちなのかもしれないが、とても誇り高い感じがしたからだと思う。その誇りがこの人を美しく見せているんだと思った。僕の妻はほっそりした子鹿のような人だったけれど、いま目の前にいるのは、巨大なツノを持ったトナカイだという感じがする。
 僕は一度、動物園で見たことがあるのだけれど、トナカイは頑丈で巨大で、深い茶色の毛に厚くおおわれていた。瞳は子供が遊びに使う特大のビー玉ぐらいの大きさがあって、僕の顔が反射して映っていた。ツノは薄い毛におおわれて、複雑に枝分かれしているが、それこそ巨大な王冠のように頭の上に振りかざされている。トナカイが頭を強く振るときなど、戦士が手にする戦闘用のオノのように見える瞬間もある。ライオンのことを百獣の王と呼ぶ人がいるけれど、あれは間違いだと思う。巨大で気高いトナカイに比べたら、ライオンなんて、ただ毛の長いどら猫に過ぎない気がする。
 だからフィーンディアも、あの背の高い身体で、僕を見下ろしていた。ボタンも何もかも黒い制服を着て、帽子の下にわずかに見えている髪ももちろん真っ黒だ。制服のウエストのところはベルトできゅっとしめてあって、シルエットはジガバチみたいにスマートだ。
「フィン」
 立ち止まって見上げて、僕は思わずそういった。フィーンディアがかすかに笑ったような気がした。
「フィン? 懐かしい名だな。そう呼ばれるのは二千年ぶりか」
 人間って、思いがけない場面で思いがけない言葉を口にするものだね。次に僕はこう言ったんだ。
「誰がそう呼んだの?」
「私の息子だ」フィーンディアは答えた。「まだ幼すぎて、フィーンディアと正しく発音することができなかった。できるようになる前に死んでしまったが」
 そうやって僕は見上げていたのだけど、彼女が何を思い、何を考えているのかはわからなかった。想像もつかなかった。でも僕は、いま思い出して自分でも不思議なのだけど、それほど不安ではなかったし、怖がってもいなかったと思う。たぶん。
 なぜかって? さあ、なぜだろうね。
 きっと、僕の出自と関係があると思う。王宮で生まれて育って、まわりは自分よりも年長の大人ばかりで、歴史と伝統とゴミみたいな大昔の遺物におしつぶされながら、幽霊が数十人単位で住みついていそうな石灰岩の塊の中で暮らし(石灰岩って、古代のサンゴ虫の死がいでできてるんだよ)、外に出たら出たで、首都の半分は何世紀も前から続いているあのすてきな旧市街であるとすれば、生者と死者の区別なんか無意味だと思えるようになるのかもしれないよ。無意味というか、少なくともそれほど大きな意味を持つものではないというか。
 そうだ。僕は階段の踊り場で、フィーンディアと向かい合っているんだったね。フィーンディアは表情を変え、ふたたび僕を見つめた。
「それでおまえは、私の邪魔をするつもりなのかえ?」
 僕は、どう答えていいかわからなかった。
 フィーンディアは僕を見下ろしている。僕は見上げている。
 不意にフィーンディアが手を伸ばして、僕の手首をつかんだ。僕は振り払おうとしたけど、強い力だったのでできなかった。もう一方の手を添えて、もう一度振り払おうとしたが、すぐにそっちの手首もつかまれてしまった。フィーンディアは僕を引き寄せた。鉄でできた万力みたいに、本当に強い力だった。長い剣をあやつったり、暴れ馬の手綱を取ったりするには、それぐらい必要になるに違いない。とてもじゃないけど、僕には逃げ出すことなんかできなかった。そのままフィーンディアが歩きはじめたので、僕は引きずられていくしかなかった。フィーンディアは階段を上がっていった。
「はなして。痛いよ」
 僕はわめいたけれど、何の助けにもならなかった。階段が終わって、七階の廊下に出た。
 足音が聞こえてきた。どたどた走ってくる足音だ。僕の声を聞きつけたのに違いない。
「スタウ、助けて!」僕は叫んだ。それはスタウだったから。
 スタウは何メートルか離れたところまできて立ち止まり、呆然とした顔でこっちを見ていたが、やがて口を開いた。
「どうなさったのです? フィーンディアさま」
 僕は、頭をガツンとなぐられたような気分だった。スタウの顔には、疑いを持っているような表情はまったく見えなくて、ただまっすぐにフィーンディアを見つめていた。つづいてフィーンディアが口を開いた。
「聞き分けのない子供で困っている。北の塔へ閉じ込めておけ。少し頭を冷やさせる」
 スタウはほうという顔をし、それからにやりと笑った。「私もかねてから、一度そういうことが必要であろうと感じておりました」
「スタウ!」
 もう僕が何を言っても、スタウの耳には入らないようだった。フィーンディアの手から僕を受け取り、廊下を引きずっていこうとした。
 もちろん僕は暴れた。スタウの腕にかみついてやろうとした。そこへ衛兵が向こうから二人やってきて、スタウを手助けした。三人の男たちにつかまれてしまうと、もう僕にはどうしようもなかった。
「フィン」
 廊下を引きずられていきながら、僕は振り返った。でもフィーンディアはにやりと笑うだけで、何も言わなかった。
 北の塔は王宮の北のはし、岩でできた平らな壁の頂上に、カマキリが生みつけた卵みたいにぽつんと張り付いていた。ここへは屋上を通ってしか行くことができなかった。僕はそのまま屋上に引っ張りだされ、塔の入口へ連れていかれた。
 塔は筒のような形で、直径は十メートルもなかった。高さも普通の家ぐらいしかなくて、屋根は魔法使いの帽子のようにとがっている。てっぺんには避雷針がある。
 入口には鉄の扉があった。鍵はかかっていないが、カンヌキをかけると中からは開くことができなくなる。僕を放り込んで、スタウが外からガチャンとドアを閉めた。すぐにカンヌキが動く音がした。
「スタウ!」
 僕はドアをどんどんとたたいた。でもすぐに三人の男たちの足音は小さくなっていき、そのまま何も聞こえなくなった。僕は閉じ込められてしまったわけだった。
 僕はため息をついて、ドアに背中を向けて寄りかかった。僕は泣く気にはならなかった。そんなことをしても仕方がないし、それよりも何よりも、こんな目に合わされた腹立たしさのほうが何倍も大きかったから。
 僕は、自分が放り込まれた部屋の中を眺めた。塔と同じ形をした丸い部屋だった。東西南北に一つずつ窓があって、長いあいだ磨かれていないからガラスはひどく曇っているけれど、手近なのを一つ指先でこすってきれいにしてみたら、えっと思うぐらい見晴らしがよかった。この窓には南京錠が取り付けてあって、今は開くことはできないが、もし開くことができれば、夏のさかりでも風が通って気持ちがいいに違いない。部屋の中央には金属製のパイプが取り付けてあって、床から垂直ににょっきり生えているが、高さ一メートルぐらいのところでゼンマイのように曲がって、口がラッパのように開いている。
 何に使うものだろうとしばらく眺めていたのだけど、そのうち気がついた。これは伝声管だ。ここからこの管に向かって大声でしゃべれば、下の階のどこかで聞くことができるに違いない。もう一度僕は、部屋の中を見回した。そして気がついた。ここは見張りの塔だ。
 戦争のためのものだったのか、火の見やぐらだったのかはわからない。ここからビクセンシティー全体をつねに見張っていたのだろう。電信や電話が発明されてからは使われなくなって、何年も放置されていたのだろう。こうやって、あわれな王族のガキを閉じ込めるのに使われる日を待ちながら。
 日が暮れかけていた。太陽が地平線に接しかけている。もうすぐ真っ暗になるだろう。
 僕は天井を見上げた。バラックみたいな天井で、空を向いてとがった屋根の裏側がそのまま見えている。ランプをつるしていたらしい金具はいくつかあったが、ランプなんて影も形もなかった。
 だけど僕は、夜が来ることはあまり心配していなかったと思う。たしかにここは真っ暗になるだろうけど、すぐ外はビクセンシティーだ。街路の明かりが一晩中ともっている。中庭や城壁の上にも、ところどころ常夜灯がある。
 僕がそれよりも心配していたのは、自分の胃袋のことだった。昼に食べたものなんか、もうとっくに消化されてしまっていた。僕は午後ずっと、王宮内を走り回っていたんだよ。
 だけど僕は、そのことについても楽観していた。そのうちに誰かがパンと水くらいは持ってきてくれるだろうと思っていた。まさか僕を、一晩中ここで飢えさせてはおかないよね。
 それは正しかった。もうとっくに日は暮れてしまっていたが、一時間もしないうちに、外からまたカンヌキの動く音が聞こえ、ドアが開きはじめた。
 僕は、きっとハニフかマーガだろうと思った。スタウのバカ野郎がどんなに心変わりをしても、あの二人だけはもとのままでいてくれるだろうという気がした。でも、ドアを開けて入ってきたのはフィーンディアだった。
 フィーンディアの様子は、さっきとまったく同じだった。黒い髪をした背の高いフィーンディア。同じ黒い軍服姿だ。
 僕は失望した。でももっと失望したのは、フィーンディアが手ぶらなことだった。もしかしたら今夜は本当に夕食抜きにされるのかもしれないと思った。それは僕には、殺されるよりも恐ろしいことのような気がした。僕にとっては、空腹はなじみと実感のある苦痛だったけれど、死というのは想像を超えていたのだと思う。想像を超えることが自分の身に起こるとは、それこそ想像を超えている。
 想像もできないものは恐れようがない。怪物なんて空想の存在にすぎないのだけど、もし怪物の話も名も聞いたことのない子供がいたとしたら、その子はきっと暗闇など恐れないと思うよ。そこに怪物が潜んでいるような気なんかしないと思う。
 このドアは、塔の南側を向いていた。東の空に月が昇りはじめていて、差し込んでくる光が部屋の中の壁に反射して、フィーンディアの身体の半分を黄色く照らしていた。
「もう降参おし」フィーンディアが口を開いた。
「なぜ」
 僕は大きな声で言い返した。何がどうなぜなのか、自分でもわかっていなかったに違いないが、他に言い返す言葉を思いつかなかったんだ。もちろん、フィーンディアは表情も変えなかった。
「なぜも何もない。考えてごらん、おまえに選択の余地はなかろう?」
 フィーンディアの言うとおりだと、僕は突然気がついた。魔法だか妖術だか知らないが、家来たちだけじゃなくて、宝石も肖像画も新聞の写真も変化してしまっているんだ。僕には勝ち目どころか、対抗する手段だってない。
「僕をどうしようっていうの?」
 僕の目に、突然涙があふれてきた。その突然さが自分でも不可解だったのだけど、押さえることも止めることもできなかった。両目が熱くなり、まぶたの裏側に、かゆいようなちくちくした刺激を感じる。
「どうもせぬ」フィーンディアが部屋の中に一歩入ってきた。背後にまだ逃げる余裕はあったけれど、僕の身体は動かなかった。フィーンディアの手があごに触れるままになった。
 そのまま僕は、塔から連れ出された。フィーンディアに手を引かれて、屋上を歩きはじめた。自分が、まだ小学校にも入学していない小さな子供に戻ってしまったような気がしていた。僕とフィーンディアは歩きつづけた。
 歩きながら、僕はぼんやりとビクセンシティーを眺めていた。日が暮れてもう真っ暗で、家々の明かりが無数に見えているが、スモッグのせいでなんとなくかすんでいる。黒々とした建物の輪郭のずっと上に空が見えているが、月も星もぼんやりとけぶっている。
 でも次の瞬間には、自分の置かれている立場とか、フィーンディアの変化のことなんか、僕はすっかり忘れてしまっていた。あることに気がついて、それに目を奪われてしまったんだ。
 前にも話したように、僕は学校の勉強はあまりできなかった。勉強自体、好きではなかった。でもときどきは僕にもおもしろいと思える教科があって、その一つが天文学だった。天文学の授業だけは、僕は退屈しなかった。だけどもちろん僕のことだから、月や太陽の運行を計算するとか、満ち潮や引き潮の時刻とかいう話じゃない。僕は単純に、星座を眺めることが好きだったんだ。ガボウニイの離宮が好きだったのは、あそこは空気が澄んでいて、星がよく見えるからということもあった。だから僕は空を見上げて、たいがいの星座ならすぐに見つけることができた。サラマンダー、ブラッドハウンド、シマウマ座、木靴座などが僕のお気に入りだった。だから僕はこのときも空を見上げて、無意識に星座を見つけようとしていた。
 でも、一つも見つけることができなかった。もちろん、スモッグが邪魔になったからじゃない。いくらスモッグだって、一等星や二等星まで隠してしまえるわけじゃない。星はいくつも見えていた。だけど、知っている星座を一つも見つけることができなかったんだ。空は、見たこともない知らない星座であふれていた。
 本当に自分は王宮の屋上にいるのだろうかという気がして、僕はまわりを見回した。でも、間違いなくそうだった。
 城と同じ面積があるのだから、とても広い屋上だ。四角くてほぼまったいらだが、各部屋の暖炉からつながっている煙突が、あちこちにぽつんぽつんと立っている。今の季節には煙は出ていない。振り返ると、そうやって切り株のように煙突がいくつも生えている向こうに、北の塔の小さな姿が見えている。
 屋上のへりには石でできた低い塀があって、銃眼が作りつけてある。その外はすぐ中庭だから、地上までの高さは何十メートルもある。中庭の向こうに城壁が見えている。城壁の外には外宮があり、その向こうはビクセンシティーの町だ。さっきと同じように無数の明かりがきらめいている。その上には空がある。
 僕は首を上に向け、もう一度まっすぐに空を見た。やはりそこには、見たこともない星々が光っていた。いつの間にか僕は立ち止まってしまっていた。引きずられて、フィーンディアも立ち止まった。
「あれはなんという星?」
 僕は、南東の空に目立つ明るいオレンジ色の大きな星を指さした。燃えるミカンのように明るい星だ。
 フィーンディアは一瞬、不思議そうな顔で僕を見つめ返したが、すぐに納得した表情に変わった。
「そうか、おまえは知らぬのだな。あれはフサルク。馬上の者の守り星だ」
 もちろんそんな名前、僕はきいたこともなかった。地平線のかなたにあってビクセンからは見えない星とか、あまりにも小さくて暗い星なら、僕が知らないということだってあるだろう。でも、あんなに目立つ星に見覚えがないはずがない。
 フィーンディアは、ふたたび僕の手を引いて歩きはじめた。僕は空を眺めるのをやめ、おとなしくついていった。フィーンディアは鉄のドアを開け、七階へ降りていった。階段を降りきったところに家来たちが数人いて、フィーンディアが僕をつれて戻るのを待っていたらしい。その中にはスタウもいたが、スタウが何を思っているのか、その表情からはわからなかった。
 フィーンディアは僕の手を引いて、廊下を歩きつづけた。僕は食堂へ連れていかれた。テーブルの上には夕食が用意されていた。フィーンディアは僕をイスに座らせた。
「おなかがすいただろう?」フィーンディアは、僕と向かいあって座った。
 まっすぐに見つめると、妻とは明らかに違う顔だ。もちろんこれも、二千年前のではあるけれどフィーンディアなのだけど。
 僕はまじまじと見つめていた。もう涙は乾いていた。彼女も遠慮なく見つめ返してくる。妻よりもあごがとがっているが、白いきれいな顔だ。その髪があだ名の元になったのだろう。瞳は信じられないぐらい濃い茶色で、僕を突き刺すように見つめているが、なぜか僕は不快ではなかった。
 テーブルの上に用意されていたのは、焼いたひな鳥だった。体を開かれて、クシに刺されて焼かれたそれが皿に乗せられているのを目にしたとき、二千年生きた人間の目から見たら、僕なんてこのひな鳥と同じぐらいちゃちな存在でしかないんだろうなあという気がした。
 この夜から僕は、女王の寝室を出て、もとの自分の部屋で一人で眠るようになった。それで、その翌日のこと。
 朝になっても、もちろんフィーンディアは起こしになんかきてくれなかった。僕が寝坊をして食堂へ行くと、もうフィーンディアは食事をすませて、執務室へ行ってしまったと女官からきかされた。僕はあわててコーヒーとパンを詰め込んで、フィーンディアを追いかけた。
 フィーンディアは、執務室を少し模様替えしていた。昨日までは秘書の机も同じ部屋の中にあったのを追い出して、隣の部屋へ移動させていた。だから執務室の中でフィーンディアと二人きりになるわけだったけど、僕はノックもせずに、勝手にドアを開けて入っていったんだ。
 もちろんフィーンディアの様子は、昨夜とまったく同じだった。僕はひそかに、あれはただの夢だったんじゃないかと期待していたのだけど。
 フィーンディアは机の上からじろりと目を上げたが、何も言わなかった。僕はスツールを壁のそばから引っ張ってきて、机の隣に座った。
 フィーンディアがふたたび僕を見た。「おまえの妻は、いつもこうやっておまえに仕事を手伝わせていたのか?」
「まあね」僕はうそをついた。うそだとすぐに見抜かれてしまうんじゃないかとどきどきしていたのだけど、そんなことはないみたいだった。だから僕は、心の中にほんの少し希望を感じないわけにはいかなかった。このフィーンディアも完璧ではないようだったから。
 でもなぜこのとき、僕はこんなつまらないうそをついたのだろうね。あとになって考えてみたのだけど、やっぱりきっと僕も、少しは責任というか、罪悪感のようなものを感じていたのだと思う。この事態のことを、何がどうなっているんだかまだはっきりとはわかっていなかったけれど、その中で自分が何がしかの役割を演じたに違いないという気だけはしていたから。気というか、確信といったほうがいいけど。
 何を思ったのか、ふんと小さく鼻を鳴らして、フィーンディアは机の上に目を戻してしまった。フィーンディアは本を読んでいるところだった。図書室から持ってきたのだろうけど、他にも二十冊ぐらいが机の上に積み上げてあった。
 この日は一日中、フィーンディアは本を読みつづけた。昼食だって執務室に運ばせて、読みながらすませた。フィーンディアは、二千年分の知識のギャップを埋めようとしていたのだと思う。ものすごい勢いでどんどん読んでいった。
 ときどき顔を上げて、フィーンディアは僕に質問をした。
「飛行機はなぜ空を飛ぶことができる? 馬もなしに、なぜ戦車や自動車は走ることができる? なぜ銃は弾丸を飛ばすことができる?」
 そのたびに僕は、頭を悩ませなくちゃならなかった。うまく説明なんかできなかった。結局最後は、自分がいかに物を知らないかを思い知らされただけだったりした。
 夕方になって、また昨日と同じように夕食を食べて、夜になって、翌日になった。また同じような一日が始まり、時間がすぎていった。
 次の日曜には、少し休養する気になったのか、フィーンディアはオフィスへは出かけなかった。ずっと七階の居間にいた。なぜだかそばを離れる気にならなくて、僕もずっと居間にいた。僕とフィーンディアは、同じ長イスのこっちのはしとあっちのはしに腰かけていた。僕は新聞を読むふりをしながら、こっそりフィーンディアを観察していた。フィーンディアはぼんやり考えごとをしている様子だった。
「何を考えているの? フィーンディア」とうとう我慢できなくなって、僕は言った。
 フィーンディアは、僕の顔にちらりと視線を走らせた。「そうではなく、私のことはフィンとお呼び」
「なぜ?」
 フィーンディアは少しためらったようだったが、結局続けた。「私はそう呼ばれるのが好きなのだよ」
 がんばって表情を隠していたけれど、僕は大発見をしたような気分だった。二千年生きていようがなんだろうが、やっぱりこのフィーンディアは完全じゃない。弱みや、付け入るすきがあるかもしれない。だけど僕は感情を隠して、こう答えただけだった。
「へえ」
 フィーンディアが言った。「私は自分の馬のことを考えていたのだよ」
「馬?」
「栗毛に黒のまだらのあるかわいいやつだった。よくなついていたが、私を恋しがって、馬小屋の中で鳴くことがあった。そうなると、夜中でも起きだして、慰めにいってやらなくてはならなかった。わらの上で一緒に眠ったのも、一度や二度ではなかったよ」
「へえ」またまた感情を隠していたけれど、僕は腹の中でほくそえんでいた。この女はぜんぜん完全なんかじゃない。感情をともなった普通の存在だ。
「なんて名前の馬?」僕は言った。
「私は『野いちご丸』と呼んでいた」
「変な名前」僕は笑い出した。ちょっとした発見があったせいで、少しは気持ちが軽くなっていたのかもしれない。
 意外だったのだけど、フィーンディアも笑った。「少女のころ名づけたのだが、大まじめだったのだよ。本当に野いちごが好きな馬で、私を乗せているときでも、道ばたに見つけると、すぐに立ち止まって食べはじめてしまう。それ以外はいい馬だったのだが」
「それに乗って戦争をしたの?」
「もちろん」フィーンディアは誇らしそうに胸を張って、僕を見つめ返した。
「あんたには息子がいたんだってね」歴史の授業で聞かされたことを不意に思い出して、僕は口にした。僕は何も考えずにそういったのだけど、フィーンディアの表情がかすかに変化したような気がした。でも、その意味まではわからなかった。まずいことをきいちゃったかな、と僕は一瞬思った。
 だけどフィーンディアは、機嫌を悪くしたふうには見えなかった。僕は少しほっとした。フィーンディアは僕を見つめ返したまま、ゆっくりと口を開いた。
「いたよ。今のおまえよりももっと幼かったが、死なせてしまった。病死だったのだが、私の不注意というほかなかろう」
 その息子が何の病気でどうやって死んだのか、僕は少し興味を感じていたけれど、質問してみる勇気はなかった。
 数日後、フィーンディアは初めて王宮の外に出た。「ビクセンシティーの様子が見たいから、道案内をおし」と言われたからだけど、僕はフィーンディアと一緒に車庫へ向かった。
 ハーフトラックは、もうエンジンをかけて待っていた。キャタピラがついているせいで、ガチャガチャと音がうるさいのだが、戦場へおもむく場合のことを考えて、ビクセンではこれが女王の乗り物とされていたんだ。
 僕とフィーンディアが乗り込み、スタウが合図をして、ハーフトラックは動きはじめた。衛兵たちの乗ったトラックが何台かついてきた。屋根の上のハッチを開け、フィーンディアが機関銃座に腰かけたので、僕もその隣に、少しあいだをあけて腰かけた。
 通りに出ると、あちこち指さしながら、僕はフィーンディアにいろいろ説明した。中央駅、ストカスの大聖堂、造幣局、ビクセンシティー一の煙突の高さを誇る焼却場。
 ハーフトラックが海軍のドックの前を通りかかったとき、フィーンディアが言った。「あの船が『フィーンディア・ビクセン』か?」
 僕もそっちを見た。たしかにそうだった。戦艦がドックで整備を受けようとしているところだった。船を入れて水を抜いてから作業をする乾ドックだったけれど、まだ排水は始まっていなくて、ちょうど幅いっぱいの運河に船がはまり込んでいるという感じの眺めだった。このドックはビクセンで最大のもので、それがいっぱいなわけだから、新しいドックを建設しない限り、これ以上大きな船を建造することはできなかった。それにまだ世界のどこの国も、これに匹敵する大きさの戦艦は持っていなかった。排水量は二万一千トンを超えている。主砲は直径三十センチのものが十門ついている。エンジンは最新のタービン式で、最高速力は二十一ノット。
 気をきかせて、ハーフトラックを止めるようにスタウが合図をしたので、僕とフィーンディアは船をよく眺めることができた。
 もちろんこの船は、僕の妻にちなんで名づけられたものだった。いま隣にいるフィーンディアじゃない。でも僕は不意に、このでかい船はこっちのフィーンディアにこそふさわしいような気がしていることに気がついた。そしてもう自分が、彼女を恐れても憎んでもおらず、それどころか、ある種の親しみと誇りを感じはじめていることにも気がついた。
 僕は少し混乱した。どうしてなんだろうと思った。僕はそっと横を向いて、フィーンディアの横顔を眺めた。なぜだかわからないが、自分はもうずっと以前からこのフィーンディアを知っていたような気がした。
 この戦艦はこの人のために作られたものだという気が、僕の内部でもう一度強くした。僕の妻なんてはじめから存在しなかったか、ごく短いうたたねのあいだに見た夢に過ぎなかったような気までした。
 見つめられていることに気づいて、フィーンディアがこっちを向いた。僕を見つめ、微笑んだ。
 この瞬間僕は、勝負はあったと思った。もうおしまいだという気がした。妻などはじめから存在しなかった。僕はそう決めることにした。存在しているのは、二千年前からいるこのフィーンディアだけだ。だからあの戦艦も、このフィーンディアのために作られたものだ。
 フィーンディアは僕に向かってもう一度微笑みかけ、指を上げてスタウに合図をした。スタウが運転手に合図を送り、ハーフトラックはふたたび走りはじめた。ドックの前をすぎて、町の中心部にさしかかった。もう噂が駆けめぐっているのか、通りの両側に見物人が集まりはじめていた。四分祭の日にお菓子が配られるのを待っている子供らのように、歩道に列を作って並んでいる。もちろんこっちを見ている。ゆっくりと走るハーフトラックの上で、僕とフィーンディアが話しているのを眺めている。
 この瞬間の僕には、いつものようにスモッグくさいビクセンシティーの空気が、とてつもなくすがすがしく感じられていた。思いっきり深呼吸をしたいような。
 僕は本当に誇らしい気持ちだった。ハーフトラックをすぐに停車させて、屋根の上に立ち上がって、「知ってる? この人が二千年前の黒王妃なんだよ」と大声で発表したいような気がした。もちろん実行はしなかったけれど。ハーフトラックはそのままビクセンシティーをぐるりと一周して、王宮へ帰った。
 フィーンディアが知識を吸収していく速さは、見ていて恐ろしくなるほどのものだった。二週間たつころには、この時代のビクセン人として当たり前の知識はすべて身につけてしまっていたと思う。そうやって準備をすませておいて、フィーンディアの女王としての活動が始まった。
 フィーンディアの政治手腕は、それなりに見事なものだったと思う。こんなことがあった。
 ビクセン湾のすぐ外、西大海の入口あたりにはときどき海賊が出没して、商船に被害が出ていた。人をさらったり殺したりはしなかったけれど、船ごと積荷をのっとって、船員たちは救命ボートに乗せて海に降ろしてしまう。のっとった積荷と船は、どこか外国に売り飛ばしてしまう。
 ビクセンの商船もときどき被害にあったのだけど、それがとうとう、こともあろうにビクセン海軍の補給艦が襲われてしまったんだ。海軍所属の船ではあるけれど、実際はただの貨物船に過ぎないから、砲も何もついていない。それを狙われたわけだった。
 このニュースを聞かされて、フィーンディアはかなり腹を立てたようだった。すぐに海軍の連中を王宮に呼びつけたのだけど、あの海のあのあたりは海岸線がひどく入り組んでいて、小さな島も無数にあるので、どこに海賊どもが潜んでいるのかさっぱりつかめず、手の施しようがないのだという言い訳を聞かされただけだった。
 だからフィーンディアは、自分で乗り出すことにしたようだった。海賊たちは、手に入れた積荷や船を売り、得た金で物を買うのだけど、それは武器や燃料、食料が主なのだけど、同時に密造酒も大量に買い込むらしいということをフィーンディアは耳にした。
 このころからビクセン財務局の連中は、始終しかめっ面をしているようになった。高額の請求書がひっきりなしに届くようになったからだが、それはすべて海運会社からのもので、フィーンディアのサインが添えてあるから、支払わないわけにはいかなかった。
 もちろんフィーンディアは役人たちには何の説明もしなかったが、請求書の内容から推測して、海運会社に対して、大量の荷の輸送を継続的に依頼しているのはたしかなようだった。それもみな、海賊がうようよしているあたりを行き来する船ばかりだった。積荷は中身のいっぱい詰まった酒樽で、船によっては、フィーンディアが依頼した酒樽だけで船倉の四分の一がしめられていることだってあった。
 さらに役人たちが首をかしげたのは、この荷物がどこにもつかないらしいことだった。フィーンディアは、荷をある港から別の港に運ばせ、いったんは陸揚げして倉庫にしまうのだけど、翌日にはまたその同じ荷を別の船に船積みして、元の港に戻させてしまう。そして倉庫にしまわせるが、その翌日にはまた別の船に積まれて…ということを際限なく繰り返していた。
 そうやって何回目かの航海のとき、とうとう船が海賊に襲われた。酒樽は、もちろんすべて持ち去られた。その夜、海賊たちは素敵な酒盛りを開いただろうよ。
 フィーンディアは、こういうことを何回か繰り返させた。そしていつの間にか、海賊たちはぱったりと姿を見せなくなった。だってさ、あの酒にはメチルアルコールがたっぷり混ぜてあったのだから。
 でもフィーンディアのことで、僕には不満に思うことがなかったわけじゃない。フィーンディアがどういう人なのか、僕にはもう一つつかめないところがあったんだ。親切なのか不親切なのか、僕のことが好きなのか嫌いなのか。
 だけど、僕が彼女のことがとても好きだったというのは間違いないと思う。僕はもう一日中フィーンディアのそばにくっついていたくて、一人でいることはなくなってしまった。いつもフィーンディアの執務室へ一緒に行き、そばで仕事を手伝っていた。少なくとも僕は、手伝っているつもりでいた。フィーンディアは迷惑に思っていたかもしれないけれど。
 フィーンディアは、僕に対してはひどくそっけなかった。何分間も話しかけてくれないことだってあった。それでも僕は隣に座って、書類を読んでいるふりをしていた。そして、たまたまフィーンディアが何か話しかけてくれると、うれしくなってニコニコしはじめるのだった。
 あるとき、フィーンディアはこんなことを言った。
「おまえは私など忘れて、外に恋人でもお作り」
「だって…」僕はその先、どう言っていいのかわからなくなってしまった。涙が出てきそうな気がしたけれど、くやしいからがんばって引っ込めた。
「そうか」フィーンディアは思い出したようだった。「私たちは夫婦なのだったな」
 僕がにらみつけていると、フィーンディアは続けた。
「面倒なことだ。おまえなど、私の千分の一の時間も生きてはおらぬのに」
「そんなことを言うのなら」腹が立ってきて、僕は大きな声を出した。隣の部屋にいる秘書たちにも聞こえるに違いなかったけれど、気にならなかった。わざと聞かせてやりたい気までしていた。
 僕は言った。「あんたが本物のフィーンディアじゃなくて、二千年前の黒王妃だということをみんなに話してやるからね」
「好きなように」フィーンディアは表情を変えなかった。「誰ひとり信じぬだろう」
 僕はくやしくて、もっともっと腹が立った。涙だって本当に出てきた。フィーンディアは無視して仕事を続けていた。
 でも僕にだって、フィーンディアが言っていることは真実だろうということは理解できた。だから僕にできたのは、ブーツをはいたフィーンディアの足を机の下でけっとばしてやることだけだった。手加減なんかしなかったから、かなり痛かったに違いないけど、フィーンディアはにやりと笑っただけで、そのまま仕事に戻ってしまった。
 でも少しは悪いことをしたと思ったのか、この日の夕食のときには、フィーンディアはひどくやさしくなっていた。
「さあ、おまえの好きな食べ物を用意させたのだよ」手を引いて、僕をテーブルへ連れていきながら、フィーンディアは言った。
「いまさら機嫌をとっても遅いよ」と僕は言ったけれど、顔はほころんでいたと思う。
 こういうふうに僕とフィーンディアは、ときどきケンカをした。あるときなんか、二人でテラスにいて、夕暮れのビクセンシティーを眺めていた。紫色の空に建物が黒いシルエットになっていて、あちこちで黄色い明かりが無数にともりはじめていて、とてもきれいだった。僕は幸せな気分になって、甘えてフィーンディアと腕を組もうとした。そうしたら、フィーンディアはいかにも腹立たしそうに僕を退けたんだ。僕の手を乱暴に払いのけた。
「よいか」フィーンディアは少し大きな声を出した。「私には、おまえと仲良し夫婦ごっこをしているひまなどないのだよ」
「じゃあ、何をするひまならあるのさ?」僕は大きな声で言い返した。そばに控えていた女官たちにも全部聞こえていたと思う。
 フィーンディアは声を小さくした。「それはまだ話せぬ」
「バカ女!」
 フィーンディアは本当に腹を立てたようで、僕をにらみつけた。でも僕は怖くなんかなくて、にらみ返してやった。
「やっておれぬわ」フィーンディアは僕にくるりと背中を向けて、どこかへ行ってしまった。
 すぐに僕も、どたどた足音を立てながらテラスを出ていった。でも廊下に出ても、もうフィーンディアの姿はなかった。
 そのまま僕は、一人で廊下を歩きはじめた。すれ違うとき、女官たちがさっと道をあけてくれた。僕はそれぐらい怒った顔をしていたのだと思う。自分の控室へ行って、バタンと大きな音を立ててドアを閉めた。
 夕食の時間になっても、僕は食堂へは行かなかった。そのまま十五分ぐらいすぎたところで、フィーンディアからわびの手紙が届いた。ドアをノックする音が聞こえたので、猫のうなり声みたいにして返事をしたら、おそるおそる開いて、マーガが顔を見せた。
「クスクスさま」
「クスクスさまはご機嫌を悪くしていらっしゃる」僕は言った。「また出直されよ」
 マーガは大げさにため息をついて、机の上に手紙を置いて、黙って部屋を出ていった。ドアが閉まった。
 ちょっとのあいだは我慢していたけれど、とうとう好奇心を抑えられなくなって、僕は手紙に手を伸ばした。封筒に入ってはいないけれど、きちんと三つに折りたたまれた手紙で、ビクセン王国の公用紙を使っている。古めかしいフィーンディアの文字で手書きされている。もちろん内容は、さっきの非礼をわびたものだった。気がすんだので、僕は許してやることにした。
 食堂へ行くと、フィーンディアは僕を待っていた。すぐに熱いスープをついでくれたけれど、僕がにらみつけるとため息をついて、口を開いた。
「おまえはとてつもなくひねくれた子供だが、それでも私にはおまえが必要なのだよ」
「あんたは何をするつもりなの?」
 でもそれっきり、フィーンディアは口を閉じてしまった。だから僕も、あまりほじくりかえさないことにした。
 この夜、ベッドに入っても、どういうわけか僕は眠れなかった。いくらがんばってもだめだった。だからとうとうあきらめて、目を開いたまま、真っ暗な中でじっとしていることにした。
 いつのまにか僕は、自分のことを考えはじめていた。僕の人生は、不可解で理解できない事柄であふれているような気がした。そういったことが、一つ一つ頭に浮かんできた。
 最初に思い浮かんだのは、ビーカー学園の女校長のことだった。資格を満たしてもいないのに、僕を卒業させてくれた。
 次に思い浮かんだのは、妻のことだった。妻は僕だけじゃなくて、国民たちやイプキンの目をあざむいてまで僕と結婚しようとした。そのイプキンはイプキンで、僕を自分の跡継ぎにしようとした。たしかに多少の血縁はあるけれど、それにしたって理解できることじゃない。イプキンの書いた手紙には、『カルラムではなく、僕を息子にしたかった』というようなことが書いてあったが、それだけではもちろん僕は納得できなかった。きっとイプキン自身も理解していない別の理由があったのだという気がした。
 そして、最後が黒王妃のことだ。あれこそ、わけがわからんというやつだ。自分の目で見たことじゃなかったら、僕だって信じなかっただろうと思う。でも、事実彼女がそこにいるのだから仕方がない。
 僕は不意に、これらの出来事には共通した事柄がひとつあることに気がついた。それは、みんな女だということだ。〃男にとって、女とは永遠に謎の生物だ〃なんてことを言う気はないけどね。
 女校長、僕の妻、イプキン、それと黒王妃。でもこの中で、黒王妃だけは別格だという気がした。他の三人と同じに考えちゃいけないのかもしれない。だって、黒王妃はこの世の人ではないのだから。
 残りの三人について考えつづけて、僕はまた気がついた。この三人にはもう一つ共通していることがある。女であることとも重なるのだけど、あの〃草原の夢〃を見たに違いないということだ。
 校長については、本人がそういっていた。幻覚の中でサウカビクセンから聞かされたことがどれだけ信用できるのかという気は僕もするけれど、サウカビクセンは、妻とイプキンにも話を聞かせたといっていた。だったら、夢の中でサウカビクセンが女たちにこう言ったということは考えられないかい? 自分の顔を指さしながら、「いつか、オレと同じ顔をしたやつに出会ったら、できるだけ親切にしてやってくれ」と。もしかしたら、「可能な限りの利益を与えてやってくれ」とも。
 じゃあ、いったい誰が僕に利益を与えようとしているのだろう。そんなことをして得をするやつがいるのかな。サウカビクセン? 違うと思う。あいつは小者だという気がする。あのヨタカは、きっと誰かの家来だ。じゃあ?
 突然気がついて、僕はベッドの上にがばっと起き上がってしまった。校長、僕の妻、イプキン、サウカビクセンとくれば、残る登場人物は一人しかいないじゃないか。
 じゃあ彼女は、なぜそんなにまでして僕に利益を与えようとしたのだろう。もしかしたら今だって、僕に何かを与えるために行動しているのかもしれない。
 僕は考えつづけた。夜が明けるころ、やっと少しだけ眠ることができた。答えを手に入れたような気がしていた。
 目を覚ましたのは、日が昇りかけたころだった。カーテンのすき間から、明るい光が差し込んでいる。すぐにベッドを抜けだして、急いで着替えて、食堂へ行った。フィーンディアはもう僕を待っていた。
 侍女が朝食を持ってきて、テーブルの上に置いて部屋を出ていってしまっても、僕はなんとなくイスに座る気がしなかった。部屋のすみで、壁に背中をくっつけて立っていた。でもなんとか勇気を奮い起こしてイスに腰かけ、フィーンディアを見つめた。フィーンディアは茶碗に手を伸ばし、茶を一口飲んだところだった。僕は口を開いた。
「あんたは僕のお母さんなの?」
 フィーンディアは茶碗を置き、僕を見つめ返した。
「そうだよ」
 このときのフィーンディアの表情を、僕はどこか別の場所でも見たことがあるような気がした。僕は思い出そうとした。そうだ。ずっと以前、王宮の中庭のすみで野良猫を見つけたときだ。どうやって入ってきたのか、母猫と子猫が一匹ずついて、植え込みの下にうずくまって、二匹並んで僕を眺めていた。僕もすぐに気づいて、猫たちが逃げ出さない距離まで近づいて、しゃがんでのぞき込んだ。
 フィーンディアは、あのときの母猫と同じ表情をしているような気がした。母猫は、僕の視線を追いかけて子猫を見やり、ピンク色の舌を伸ばして、子猫のほおをぺろりととなめてやった。本当に誇らしげだった。子猫のほうも、くすぐったそうだったけれど、楽しげに笑っているような気がした。
 フィーンディアがそっとイスから立ち上がったことに気がついた。見上げていると、フィーンディアはテーブルをまわりこんで僕のほうへやってきて、かがんで、僕の額にそっとキスをした。
 フィーンディアは唇を離し、僕をまっすぐに見つめた。僕も見つめ返した。
「僕の妻はどうなったの?」僕は母の瞳を見つめつづけた。もう二度と視線を離すことができなくなっているような気がした。
 母は指先で僕のほおに触れ、かすかに微笑んだ。「あの娘のことは、もう忘れておしまい。はじめから存在しなかったのだとお考え」
「うん」僕はこくんとうなずいたと思う。母は僕の耳に触れ、自分のイスに戻って、食事を続けた。
 こんなふうにして、僕と母は王宮で暮らし続けた。僕はいつも母のそばにいて、秘書か助手のようにして働いた。母もそれを喜んでいたと思う。以前のようにそっけないところはなくなっていた。
 ある意味、僕とは母はひどくべたべたしていたかもしれない。それは家来や国民たちも気がついていただろうけど、何も言わなかった。それどころか、それを歓迎していたような気までする。
 王国の強さというのは、その王や女王の強さのことだから。女王が機嫌よくバリバリ仕事をしている限り、そうそうまずい出来事が王国を襲ったりはしないものだから。
 でも僕には、母には内緒にしていることが一つだけあった。やっぱり罪悪感みたいなものかもしれないけど、僕は一人でこっそり、王国内のあちこちで妻の絵や写真を探してみたんだ。絵はともかく、写真はいくつも見つけることができた。でもどの写真の中の妻も、黒い髪をした母の姿に変わってしまっていた。僕は、公布された法律の原本もあたってみたのだけど、古めかしい文字を使って条文が手書きされた白い紙をとじて、
金庫の奥に厳重に保管してあるものだが、一つの法律につき一冊の原本がある。その表紙には女王のサインがあって、このサインが書かれた瞬間からこの法律は正式に有効となるのだけど、どの原本の表紙も、そこに書かれているサインはみな、白鳥が飛び立つときのようにのびのびした妻のものではなくて、嵐の夜に岩にぶつかる大波みたいに荒々しい母のサインに変わってしまっていた。もう妻の姿は、王国のどこにも見つけることができないようだった。


 母は馬に乗るのが好きだった。といっても、王宮のまわりには乗馬を楽しめる森も公園もなかったので、母は真夜中のビクセンシティーを散歩するようになった。
 だけど、まず母が乗る馬を決めるときに少し問題がおきた。僕は母を馬屋へ連れていったのだけど(馬屋は王宮の敷地の西のすみにあった。ビクセンシティーでは、風は東から吹くことが多いから)、そこにいるような馬たちでは、母は気に入らない様子だったんだ。
 馬屋は、平屋だが背の高い建物で、見かけは車庫に似ていなくもない。幅の広い扉が正面にあって、入るとすぐに廊下のような細長いスペースがあり、その左右に馬たちの個室のようなものがずらりと並んでいて、廊下とは横木で仕切られている。横木を取りはずすと、馬を引き出すことができる。
 馬の世話係たちは、女王がやってくるときかされて、朝から張り切っていたに違いない。馬屋の中は、普段よりもきれいに掃除されていた。母がいざやってくると、世話係たちは馬屋の入口に列を作って並び、背筋を伸ばして迎えた。その前を母は、僕を連れてすたすた歩いていった。
 馬屋の責任者が前に出て、一頭の馬の前へ、母をうやうやしく案内した。その馬は馬屋の一番奥にいたので、母と僕は馬たちを眺めながらついていった。馬屋の床は土間になっているのだけど、今日は本当にきれいに掃除されていた。小石もまぐさの切れはしも一つもなかった。
 母と僕は、その馬の前についた。ここのご自慢の一頭に違いない。すらりとした背の高い馬だった。白い色をして、いかにおとぎ話の本の挿絵に出てくるようなやつで、僕や母を見て、機嫌よさそうにしっぽを左右に揺らしている。たてがみが首の後ろに長く垂れ下がっているところは、女の長い髪のようだ。
 僕はひとめ見ただけで感心してしまったのだが、母は気に入らない様子だった。僕にだけ聞こえる小さな声で、「こんなに足の細いきゃしゃな馬では、どうしようもない」とつぶやいた。
 母はくるりと身体の向きを変え、何も言わずにそのまま馬屋を出ていってしまった。馬屋の連中は、ぽかんとした顔で見送っていた。僕も、あわてて駆け出してついていった。
 広間へ行き、母はすぐにハニフを呼びつけた。ハニフはすぐにやってきた。馬について何か指示を与えるつもりなんだろうとは僕も思ったのだけど、もうすぐ家庭教師がやってくる時間だったから、これ以上ここにいるわけにはいかなかった。僕はいやいや広間を出て、階段を上がっていった。
 母が乗る馬が王宮に届いたのは、翌日の午後のことだった。僕は母に連れられて、馬屋へ見にいった。小さなものだが、馬屋の前には馬場があって、母の馬はそこにいた。王立農場から届けられたばかりで、馬屋の連中が呆然と見上げているところだった。
 この馬を見て、母は笑ったようだった。馬屋の責任者を振り返って、口を開いた。
「この馬に合うクラはあるか?」
 責任者は、もうしわけなさそうな顔をした。「この大きさの馬に合うものは、特注しなければなりません」
「では手配しておいてくれ」
 母はそれだけ言って、手綱をつかみ、馬の首に片手をかけて、クラのついていない背中にひょいと飛び乗ってしまった。その様子を、馬屋の連中だけじゃなくて、僕も口を開けて見上げていたと思う。ただでさえ高い馬の背に乗った母は、本当に大きく見えた。
 これは、普通に使われる乗馬用の馬ではなかった。畑ですきを引くのに使われている農耕馬だった。肩と頭が大きくて、もしヨロイのように分厚い皮膚をしていたら、サイの親戚のように見えただろう。脚はもちろんサイよりも長いが、馬とは思えないぐらい太く、特にひざと足首はタマネギのように丸くぷくっとしている。かかとには、長い毛が飾りのようにふさふさしている。首の後ろでブラシのように直立した長いたてがみが、絵本で見たトロイの木馬の挿絵をなんとなく思い出させた。
 ちょんと腹をけって、母は馬を歩かせはじめた。馬はおとなしくいうことをきいた。母は馬を二、三周くるくると歩かせ、軽くかけさせた。一、二回全力疾走もさせた。どすんどすんと、聞いたこともないような太いひづめの音が響いた。馬は、なんでも母のいうことをきいた。馬の背中の上にいる母は、まるでこの世のものではないふうだった(本当にこの世の人ではないのだけど)。
 僕は、オマクという怪物の話を聞いたことがある。辺境の牧畜民たちの伝説なのだけど、羊飼いや牛飼いが動物たちを連れて、何もない荒地や草原を歩いていると、そいつがどこからともなくやってくるのだそうだ。まるでロケット花火のように、はるかかなたから一直線にこちらをめがけて、地面すれすれの高さをやってくる。そして、目撃者から何メートルも離れていないところを無言で通り過ぎていく。足音も聞こえない。そのまま、またまっすぐ地平線へと消えていく。それを見たからといって、病気になるとか、悪運が降りかかるというような害は受けないそうだが。
 目撃者によると、オマクは黒い煙の塊のようなはっきりしない姿だが、その中に目鼻がわずかに見えることもあるそうだ。女の顔をしているらしい。
 馬上の母を見ながら、僕はそんなことを思い出していた。星のない夜に、ああやって馬を走らせている母と荒地の真ん中ですれ違ったら、誰だってオマクと間違えると思う。
 馬の背から降りてきたとき、母はご機嫌だった。「素直でいい馬だ」と言いながら、手綱を世話係に預けた。世話係たちはおっかなびっくり、馬屋へ引いていきはじめた。僕はその後ろ姿を見送ったのだけど、馬も機嫌よさそうに、長いしっぽを左右に振っていた。
 母があの馬に乗って王宮の外に出たのは、一週間ぐらいして、馬具がそろってからだった。
「今夜遅くに出かけるから、今のうちに寝ておおき」と言われて、僕は夕食後すぐにベッドに入った。真夜中少し前、母が起こしにやってきた。
 ベッドを出て着替え終わっても、僕はまだ半分眠っていたけれど、手を引かれて中庭に出るころには、目が覚めてきた。中庭には、五頭の馬がいた。その中の一頭は、もちろんあの馬だった。母はすでに『ニンジン』と名をつけていた。ニンジンが大好物だと、母はもう発見していたから。
『ニンジン』以外は、もちろん普通の乗馬だった。自分たちよりも一まわり大きなニンジンと並んで、居心地悪そうにしている。そのそばには、四人の男たちがいる。みんな乗馬用の服装をしている。その中の一人はスタウだった。
 母がニンジンにひょいとまたがった。僕が乗る馬はどこだろうと思っていたら、母が手招きをしているのが目に入った。母に手を引かれて、僕もニンジンにまたがった。母が前で、僕が後ろ。ニンジンは普通の馬よりもおしりが大きいから、とても安定した感じがする。
 二人の人間が乗ってもニンジンはなんともない様子で、軽くぶひひんと鳴いて、首をパタパタと左右に振った。真夜中の遠乗りが始まった。中庭を出て、内宮から堀を渡って外宮に抜け、正門を通ってビクセンシティーの町に出た。
 王宮を少し離れると、ところどころ街灯がついているほかは、通りは真っ暗になった。暖かい夜だった。星は多かったが、スモッグのせいで、夜空全体が、まるで天の川のようにぼうっと光っている。馬たちの首のわきには小さなカンテラが一つずつぶら下げてあって、街灯のない場所では、その光をたよりに進んだ。
 母は、ニンジンをゆっくりとかけさせた。振り返ると、四頭の馬と男たちが、一列になってついてくる。舗装の上にひづめが打ち付けられる音が響いて、まわりの建物に反射して、一拍遅れて戻ってくる。僕は耳をすませ、しばらくのあいだそれを聞いていた。
 馬たちは、ゆっくり駆けつづけた。僕は母の背中に身体をくっつけ、もたれかかっていた。十分間ぐらいは何も起きなかった。
 突然、ひづめの音が乱れたことに気がついた。顔を上げると、スタウの馬が駆け出して、前へやってくるところだった。スタウは自分の馬を、ニンジンの隣に並ばせた。スタウが言った。「今のをご覧になりましたか?」
「見た」母は答えた。「動物のようだったが」
「人間かもしれません。狭い路地をはさんで、屋根から屋根へ飛び移りました」
「白い色をしていたな」
「そうですか? 私には色まではわかりませんでした」
「どちらにしても、我々はつけられているようだ」
「なんのためです?」スタウは眉をひそめた。
「腹でもすかせているのではないかな」
 スタウの表情が変わった。「応援を呼びましょう」
「そのひまはなさそうだ」母は声の調子も変えなかった。「取り逃がしたくない」
「しかし、フィーンディアさまやクスクスさまの身にもしものことがあれば…」
「いま捕まえそこねて、市民に害がおよんだらどうする?」
「そんなに危険なものだとお思いですか?」
 それには答えなくて、母はまっすぐに前を見つめていた。でも目のすみで、左の方向を見ているのに違いなかった。
「また見えたぞ」母のささやき声が聞こえた。母はスタウをちらりと見た。「おまえは他の三人に事情を話してやれ。おもしろい夜になりそうだ」
 小さな声だったが、スタウは強い調子で答えた。「せめてクスクスさまだけでも送り返しましょう」
「その時間もなさそうだ。やつは距離をつめてきたぞ」
 バネにはじかれたように、スタウは馬の向きを変え、後ろにいる三人のところへ戻っていった。馬に乗ったまま、男たちをできるだけそばへ寄せ、小声で何かを説明しはじめるのが見えた。でもこのときになっても、僕の目には敵の姿なんかまったく見えなかった。
 僕たちは王宮を出て西へ進み、旧市街にさしかかっていた。街灯はほとんどなくなり、山の中と同じように真っ暗だ。えらく四角い形をしていることをのぞけば、家々だって、ごろごろしている岩の塊に見えなくもない。ここは路地が迷路のように入り組んでいて、昼間でも道に迷うようなところだ。
 そいつは突然やってきた。少し前に母が腰の短剣を確かめたことには、僕はもちろん気がついていた。道が細いので、馬たちは縦一列になって進むしかなかった。ニンジンは、その一番前にいた。一分か二分たって、偶然僕が後ろを振り返ったとき、長さが二メートル以上ある大きくて白いやわらかいものが、空から降ってくるのが見えた。
 そいつは、馬たちの列の一番後ろに降ってきたんだ。一番後ろにいた男は少し小柄だったから、それで狙われたのかもしれない。僕からは遠いから、姿ははっきりとは見えなかった。たよりないカンテラの光しかないんだから。
 まず馬が悲鳴を上げた。もちろん、一番後ろにいる馬だ。鋭いツメで後ろ足を切り裂かれたらしい。どすんと大きな音を立てて、馬は地面に倒れこんだ。乗っていた男も、石畳の上にほうり出された。
 銃声が聞こえた。誰かが発砲したらしい。発砲の瞬間、閃光であたりが、マグネシウムを燃やしたときのように明るく照らされ、僕は今度こそはっきり見ることができた。
 路地は幅がせますぎるので、馬たちの方向を変えるのに手間取ってしまった。特にニンジンはそうだった。
「撃つな」スタウが怒鳴るのが聞こえた。「石に跳ね返って、誰に当たるかわからんぞ」
 やっと母は、ニンジンの向きを変えることができた。ムチをくれて、駆け出させはじめた。
「どけ!」母はわめいて、他の馬たちの横を通り抜けていった。あわててすみに身を寄せていなかったら、馬から落ちたあの男は、ニンジンに踏み殺されていたに違いない。
 ニンジンはさらにスピードを増した。大きな背中がうねりながら、嵐の日のボートみたいに前後に揺れている。がつんがつんとひづめの音が、左右の石の壁の間に響く。ものすごい音だ。カンテラの明かりしかないから、母の身体のわきから見ても、前方はほとんど真っ暗だ。黒いだけで何も見えない。でも母はまっすぐ何かを見つめているから、母の目にはちゃんと見えているのかもしれない。腕をまわして母の腰につかまったまま、僕はじっとしていた。母を信頼しているのか、ニンジンには不安そうな様子はなかった。それは僕も同じだったと思う。
 ずかんずかん。ひづめの音にリズムを合わせて、ニンジンの背中は踊りつづけた。
 碁盤の目のようだった路地が、いつの間にか右や左にカーブしはじめていることに僕は気がついた。旧市街の中でも特に古い区画、青煉瓦街に入ったようだった。まるで身体の中の血管のように、このあたりの路地は無秩序に枝分かれし、急カーブで方向を変えている。区画整理とか再開発なんて単語は存在したこともない場所だ。ここの道の走り方は、もしかしたら母が生きていた時代と大きく変わってはいないのかもしれないという気がした。
 風が耳元を、びゅうびゅういいながら通り過ぎていく。王宮からだけじゃなくて、自分が住んでいる時代からも切り離されて、二千年前の世界に引きずり込まれてしまうような気がして、不安になって僕は後ろを振り返った。
 僕は、自分の目が見ているものが信じられなかった。背後は真っ暗だったんだ。明かりなんか一つも見えない。カンテラの光もなかった。スタウたちはどこへ行ってしまったんだろう。
 スタウたちは迷路の中ではぐれてしまったんだ、と僕は思った。
 青煉瓦街にだって、もちろん人は住んでいた。ただ、外部の人間はあまり歓迎されない場所なので、王国政府も実態はつかんでいなかった。人口はどのくらいいるのか、どんな商売や活動が行われているのか。僕と母はニンジンの背に乗って、その青煉瓦街をかけていた。
「ここは青煉瓦街だよ」僕は我慢できなくなって、母にささやいた。
 母はちらりと僕を振り返りかけたが、すぐにまた前を向いた。「わかっている。なつかしい雰囲気だ」
「住民たちに気づかれたらどうするの? ここは警察だって手出しできない場所だよ」
「ふん」母は鼻を鳴らした。「ここの住民たちが、二千年前の女王の帰還を歓迎せぬと思うか?」
 それ以上は何も言わずに、僕と母はかけつづけた。ニンジンは力に満ちていて、スピードをゆるめもしなかった。
「しめた。この路地は行き止まりのはずだぞ」母がつぶやくのが聞こえた。いくら青煉瓦街だって、二千年の間には道路工事が三十回や四十回は行われていても不思議はないのにと僕は思ったが、口は閉じておくことにした。
 でも、母の言ったことは正しかった。母が指示したわけでもないのに、ニンジンはひとりでにスピードをゆるめはじめ、そのまま立ち止まってしまった。僕は、そっとまわりを眺めた。
 幅が三メートルもない路地で、両側は石を積み上げた高い壁になっている。突き当りには木の扉があるが、路地の幅いっぱいある大きなもので、倉庫か何かの入口らしくて、高さは五メートルを超えている。もちろん今は閉じられている。両側の壁も、同じぐらいの高さがある。しなやかで力のある動物なら、うまくやれば飛び越えることができるかもしれない。でも路地の中では、助走する距離がとれない。奥の扉は、その上に屋根がねずみ返しのようにかぶさっていて、駆け上がったり飛び越えたりすることなんか問題外だ。
 あいつも同じ結論に達していたのだろうけど、扉の前に身をかがめて、僕と母をものすごく機嫌悪く迎えてくれた。うなり声は出していないが、キバを思いっきりむき出して、鼻にしわを寄せて威嚇している。
「これはどういう猫だ?」母が言った。しっぽの先まで入れれば、長さは三メートル近いだろう。足の先だけはわずかに黒っぽいが、毛皮は雪のように真っ白だ。歯はヤニのついたような黄色。目は青い。本で読んだことはあったが、僕も実物を見るのは初めてだった。
「北極オオヤマネコだと思う。ものすごく珍しい動物だよ。あんまり強暴だから、たいがいの国が輸入を禁止してる。どこかの物好きがこっそり飼っていたのが逃げ出したんじゃないかな」
 僕があんまり強くしがみついてくるからだろうけど、母はかすかに笑ったようだった。
「ニンジンは平気なようだな」母の声が聞こえた。
 おそるおそる顔を上げてみると、母の言うとおりだった。ニンジンは、落ち着かないふうでもなく、体を低くしているわけでも、耳を後ろに倒しているのでもなくて、まっすぐに立っていた。その数メートル前にはあの山猫がいる。目が合うと、青い瞳でにらみ返してきた。
「どうするの?」僕は母にささやいた。大きな声を出すと、それに刺激されて山猫が飛びかかってきそうな気がした。
「手をお放し」母は振り返って、僕の腕をほどこうとした。でも僕があんまり強くしがみついているものだから、にっこりして、僕の腕をちょんちょんと軽く二回たたいた。僕は、やっと腕の力をゆるめることができた。
 自由になって、母はひょいとニンジンから飛び降りてしまった。母のブーツが石畳に着地する音が響いた。腰からナイフを抜くのが見えた。
「どうするの?」
「おまえはスタウたちのところへお戻り」母はニンジンの首を軽く押して、後ろを向かせようとした。驚いたことに、ニンジンはそのまま従った。あの山猫に無防備なおしりを向けることになるのに。
「さあ行け」母が、ニンジンのおしりを軽くたたいた。ニンジンは一度軽くいなないて、駆け出した。僕一人を乗せたまま。
 すぐに母は、暗闇の中に山猫と二人きりで取り残されてしまったに違いない。でも僕にはどうしようもなかった。僕が座っていた場所からは、手綱に手が届かなかったんだ。手を伸ばそうとはしたのだけど、ニンジンがスピードを上げたものだから、すぐにそれどころではなくなってしまった。振り落とされないように、両手でクラにしがみつかなくてはならなかったんだ。
 そうやって、僕は数分間走りつづけた。手綱に手も届かない。ニンジンを立ち止まらせる方法もない。まわりはほとんど真っ暗で、見えているのは、カンテラでぼんやりと照らされている数メートルの範囲だけだ。
 ニンジンが止まったのは、かなり走って、偶然スタウたちに出会ったときだった。スタウは自分の馬をニンジンと平行に走らせ、手綱を取ってくれた。やっとニンジンが立ち止まった。
「フィーンディアさまはどこです?」スタウはすぐに言った。
「あっち!」僕は自分の背後を指さした。もちろんその方向は、何も書いていない黒板のように真っ黒だ。
 スタウはいまいましそうに舌打ちをし、ニンジンの手綱を僕の手に押しつけた。「おまえはクスクスさまをお守りしろ」と部下の一人に言って、ムチをくれて、僕が指さした方向へ全力で駆け出した。残りの一人も、すぐにスタウについて駆け出した。だけど、僕もこんなところでぼけっとしている気はなかった。すぐにニンジンの向きを変え、スタウたちのあとをついて走りはじめた。僕についているように言われた部下が、その後ろをついてくる。
 青煉瓦街には曲がり角や交差点が無数にあるのだが、ありがたいことにこのあたりでは、それほど道は複雑ではなかった。だから道なりに進んで、僕はすぐにさっきの場所へ行きつくことができた。スタウたちは、一足先についていた。真っ暗な中に、カンテラの光が二つ浮かび上がっている。
「フィーンディアさま」スタウが叫ぶ声が聞こえた。スタウたちは馬の頭をあちこちに向けて、カンテラの光で母の姿を探していた。もちろん僕もすぐにそこに加わって、声を出した。
「フィン」
 ニンジンも不安になっているのか、首をさかんにあちこちに向けて、闇の中を見透かそうとしているようだった。急に気温が下がってきたのか、じっとりと汗をかいているニンジンの背中から、湯気が立ち上るのが見えたような気がした。
 ニンジンだけじゃなくて、僕も不安だった。母が死んだらどうしようと思った。ナイフ一本で山猫に立ち向かうなんて、なんてバカだろうと思った。あのとき、ニンジンの背中から飛び降りてでもここに一緒に残るんだった。
「フィン、フィン」僕は叫びつづけた。
「フィーンディアさま」スタウたちも呼びつづけた。
 母も山猫も、ここにはいないようだった。行き止まりの狭い路地など、調べるのに何秒もかからない。
 でも、カンテラの光が届く範囲など知れている。路地を少し戻れば、道の枝分かれは無数にある。青煉瓦街は狭い町だが、道に迷うのは簡単だ。
「王宮に戻って、応援を呼びましょう」スタウの部下の一人が言った。
「そうしろ」スタウが命令した。命令を受けた兵は、馬にムチをくれて駆け出した。石の壁の間にひづめの音が響き、その兵と馬はすぐに見えなくなった。
「クスクスさまはここを動かないでください」と言って、スタウは部下を連れて、馬にムチをくれた。手近な分かれ道を片っ端から調べるつもりのようだった。すぐに二つのカンテラの光は、曲がり角の向こうに隠れてしまった。最初のうちは、石の壁に反射してわずかな光が見えていたが、すぐにそれも消えてしまった。僕は、真っ暗な中にニンジンと二人きりで取り残されてしまった。光といえそうなのは、ぼんやりしたスモッグごしの星明りと、頼りないカンテラ一個だけだ。
 ニンジンだけじゃなくて、僕も汗をかきはじめていた。手が滑って、手綱を持っているのも難しくなってきた。それに、スタウたちには気づかれなかったと思うけど、さっきからひざがひどく震えていて、ニンジンの背中をきちんとはさんでいることもできなくなっていた。ニンジンの背中から降りたら、歩くどころか、立っていることだってできなかったかもしれない。
 不意に誰かの足音が聞こえたような気がして、僕は耳をすませた。離れたところからかすかに聞こえてくるスタウたちの声にかき消されそうだが、たしかに足音だ。背後から聞こえてくるようだったので、僕は振り返った。ニンジンも同時に感じとったのか、大きな体の向きを変えて、そちらに頭を向けた。でもそっちは完全な暗闇で、何も見えやしない。僕はかがんで、カンテラを金具からはずそうとした。手が震えるのでひどく手間取ったが、何とかはずすことができた。僕はカンテラを高くかかげて、その方向を照らした。
「だれ?」
 返事はなかったが、足音は聞こえつづけた。靴をはいた人間の足音だ。山猫ではない。足音の感じから、ブーツのように思える。
 カンテラの光は石畳をぼんやり照らし、わきの壁に反射して、その少し向こうまで届いていた。その光の中に、母が姿を現した。
「フィン、大丈夫?」
 ちょうどそのとき、応援がくるまで捜索をいったん打ち切ることにしたのか、僕のことが急に気になってきたのか、スタウたちが僕のところへ戻ってこようとするのが見えた。カンテラの光が二つ、ゆっくりと近づいてくる。でも僕の声が聞こえたらしくて、途中から駆け出して近寄ってきた。馬具や武具が音を立てて、石畳をたたくひづめがかんかんいった。スタウたちも、すぐに母の姿を目にした。
「フィーンディアさま、おケガは?」スタウの声が聞こえた。
 三つのカンテラの光の真ん中に立ち止まって、母は答えた。でも声が聞こえる前から、僕には答えはわかっていた。母は手ぶらで、ナイフは持っていなかったが、どこにもケガをした様子はなかった。
「ふかでを負わせておいたから、明日まで生きてはいまい」
 母はまるで、明日の天気のことでも話しているみたいに、なんでもない様子で言った。
 僕は腹が立ってきた。あんなに心配してやったのに、という気がした。汗をかいていたことやひざが震えていたことが、ものすごくバカみたいな気がした。でも僕は、口をぎゅっと閉じて黙っていた。口を開いたら、母に対してとんでもないことを言ってしまいそうな気がした。
 それには母も気づいているようで、ニンジンの背に乗って王宮に向かって帰りはじめてからも何度か振り返って、おもしろそうな顔で僕を見ていた。そして、とうとう母は言った。
「どうした? 私のことを心配してくれていたのか?」
 僕の内部で、怒りが爆発しそうになった。巨大な火山みたいだと自分でも感じた。でもおかしなことに、なぜかその火山は、次の瞬間にはさっと冷えて、固まってしまっていた。高くそびえ立っていた燃える山が、瞬く間に真っ白な雪原に変わってしまったような気がした。理由は自分でもわからなかったけれど、母の顔を見ていたからかもしれない。僕の口からは、こんな言葉が出てきた。
「あんたみたいな野蛮人、見たことがないよ」
 こんなことを言ったら母は怒るに違いないと思ったのだけど、そんなことはなかった。ニンジンの手綱を持ったまま上を向いて、母はからからと笑いはじめたんだ。本当に楽しそうな声だ。母の笑い声が、青煉瓦街の路地に響いた。おそるおそる振り返ったら、何が起こっているのだろうという顔で、スタウたちがこっちを見ていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み