文字数 36,576文字




「クスクスさま、このことはまだ誰にも話してはおらぬということを最初に申し上げておきます」
 そうハニフは言ったのだけど、あんまり真剣な顔をしているから、僕はまずそれに驚いた。もともとハニフはバカまじめで、冗談を言うような人ではなかったしね。
 この日、母は、王宮内で何かの会議に出席していた。もう夕方だったけれど、昼過ぎからずっと続いている長い会議だった。新しい戦車の最終的な設計をつめる会議だったと思うけど、退屈そうだから僕はついていかなかった。母の執務室に一人でいて、書類の整理をしていた。そこへノックの音が聞こえて、ハニフが入ってきたんだ。
「何のこと?」僕は机から顔を上げた。きっとハニフの目には、何も知らないし考えてもいない無知な子供に見えただろうと思う。でもハニフは何も表情には出さなくて、静かに続けた。
「内密にお話したいことがございます」
「座ったら?」僕はイスを指さした。
「いいえ」ハニフは首を横に振った。「ここでは都合が悪うございます。本当に秘密を要することですので」
「じゃあ屋上へ行く?」僕は立ち上がって、自分でも思うけど、まだにっこりしていたと思う。ハニフの様子はどうも変だなあとは感じていたけれど。
「はい。屋上でしたら、誰かに盗み聞きされることもありますまい」
 だから、僕とハニフは廊下へ出ていった。母の執務室は六階にあったから、屋上へはすぐだった。七階を通り過ぎて、階段を登りきって鉄のドアを開けて、日の光の中に出ていった。夕方の太陽が地平線に触れようとしていて、それが直接目に入って、ひどくまぶしかった。僕は光に手をかざした。
「あちらへ参りましょう」ハニフが指さすのでそっちを見たら、北の塔があった。分厚い木の板を張って、その上をキャンバスでおおって、防水用にタールを塗った黒い屋上を、僕とハニフは歩いていった。
 北の塔にはすぐについた。カンヌキをはずしてドアを開け、ハニフは僕を先に中へ入れてくれた。すぐに自分も入ってきて、ドアを閉めた。閉めるときに、外に誰もいないことを確かめたことに僕は気づいた。
 塔の中の様子は、あのときとまったく同じだった。ホコリが積もってがらんとした部屋だ。窓ガラスはやっぱりくもっている。僕は振り返ってハニフを見つめた。ハニフが話しはじめた。
「クスクスさま、フィーンディアさまのことでございます」
「うん」
「クスクスさまもお気づきでしょうが、フィーンディアさまについては、ちかごろ奇妙なことがいろいろと起こっております」
 僕はきっと、ぽかんとした顔をしていたと思う。おもしろい眺めだったに違いないけど、ハニフはにこりともせずに続けた。
「肖像の間の絵が見たいと突然クスクスさまが言い出されたという話をマーガから聞きました。リンクスの部屋へ行って宝石をごらんになったことも、資料室で古い新聞をお調べになったことも私は知っております」
「みんなから聞いたの?」
 ハニフはうなずいた。「実は私も、ほとんど同じことをいたしましたから。それだけではなく、クスクスさまが国中のあちこちでフィーンディアさまの写真を探されたことも知っております」
「でも…」
「いま会議室で軍人たちと会っているのは、本物のフィーンディアさまではございますまい? 黒王妃なのでしょう?」
 僕はどう答えていいかわからなくなってしまった。ハニフが続けた。
「本物のフィーンディアさまはどこへ行ってしまったのです?」
「わからない」気がついたら、僕はこう答えていた。「でも、フィンはどこかへ行ったのじゃなくて…(直前に気がついて、僕はなんとか〃母〃という言葉を飲み込むことができた)……黒王妃に変化してしまったんだと思う」
「星座の変化にもお気づきですか?」
「うん」僕は首を縦に振るしかなかった。「みんな変わってしまってるね」
「書物を調べてみましたが、世の天文学者たちは誰ひとり変化に気がついておりません。それどころか、肖像の間の肖像画と同じように、天文学の書物もすべて内容が書き換わってしまっています。黒王妃の力というのは恐るべきものです」
 僕はなんだか身体から力が抜けてしまって、背中を押し当てて壁に寄りかかった。
「これから、どういたしましょう」ハニフが言った。僕は顔を上げた。
「ハニフは、どうしてこの変化に気づいたの?」
「ご記憶でしょうか? 私は先日、親戚の結婚式に出席するために、一週間ばかり王宮を離れておりました」
「ああ」僕はうなずいた。「サウカノへ行ってたんだっけ?」
「そうです」ハニフはうなずいた。「それがすんで帰ってくると、こうなっておりました」
「びっくりした?」ほんのかすかにだったけど、僕は微笑むことができた。
「それはもう。だからすぐに調べはじめました。そして、クスクスさまも同じようにお調べになったのだとわかったのです」
「これはきっと、全部僕のせいだと思うよ。カウフガンフカン島からあの像を持ち帰ったから」
「私も、クスクスさまはいささか軽率な行動をとられたと思います。ですが、あの像についてはもう心配はなかろうと思います。私がすでに破壊しましたから」
「えっ?」
 ハニフは、僕をまっすぐに見つめ返した。「出過ぎたまねだとは思いましたが、邪悪なよりしろは破壊しておかなくてはなりません」
「よりしろってなに?」
「なんと申しましょう」ハニフは顔をくもらせた。「この場合には、邪悪な力の中心のようなものです。黒王妃は自分の力をあの像に集め、二千年間その中に宿って待っていたわけです。今ではもう像の外に出てしまっておりますが、念のため昨夜ひそかに持ち出し、あの像はたたきこわしておきました」
「それで、どうするつもりなの?」と僕は言った。だけど、表情をハニフに気づかれないように注意していた。なぜ気づかれちゃいけないのか、そもそも自分が何を感じているのかだって、僕はわかってはいなかったのだけど。
 ハニフは首を横に振った。「よい知恵は浮かびません。なんとかして世界を黒王妃の手から取り戻さなくてはならないのですが」
 不謹慎かもしれないけれど、僕はもう少しで噴き出しそうになった。〃世界を取り戻す〃だって? ハニフは、おとぎ話に出てくる騎士にでもなったつもりなのかな?
 でもすぐに僕も、ハニフの言い草はそれほど外れてはいないのかもしれないと気がついた。ビクセンの国だけじゃなくて、空の星の並び方まで変化してしまっているのだから。
「クスクスさま」ハニフが言った。「私は、黒王妃を殺すしかないと考えております」
 僕は下を向いて、足元を見つめていたのだけど、びっくりして顔を上げた。すぐにハニフと目が合った。ハニフが続けた。
「刺し違えることになりましょうが、他に方法はございますまい」
「でも…」
「他に手はありません」
「だけど、山猫とやりあっても平気な人なんだよ」
「その件は聞いております。しかし黒王妃も、元は人間です。いつかすきを見せることがございましょう。その機会がいつ訪れるかはわかりませんが、クスクスさまにだけは、あらかじめお断りしておきたかったのです」
「どうして?」
「黒王妃を殺してしまうということは、本物のフィーンディアさまをも殺してしまうことを意味するのかもしれません。私はクスクスさまから、フィーンディアさまを永久に奪ってしまうことになるのかもしれません」
 僕はため息をついた。ハニフの言っている意味がわかったから。
 ハニフは続けた。「他に方法はないのです。黒王妃が自分の意思でこの世界を手放すことは考えられません。二千年かけて着々と準備を進めてきた女です。あきらめるはずはありますまい。フィーンディアさまは事実上、永久に失われたも同じなのです」
「それを僕に承知しろを言うの?」
「いいえ」ハニフは首を横に振った。「クスクスさまの同意がなくとも、私は実行します。王宮で働く者として、国民たちに対して責任を負っておりますので」
 僕はもう、何を言っていいか本当に見当もつかなかった。ハニフはすでに心を決めているようだったしね。
 僕とハニフが北の塔を出て、ふたたび屋上を歩きはじめたときには、もう太陽はすっかり沈んでしまっていた。それでもまだ空は明るく輝いていて、歩くのに不自由するということはなかった。いくつもいくつも並んでいる煙突の間を抜けて、僕とハニフは七階へ降りる階段のところまでやってきた。鉄製のドアがあって、それを開けると階段が顔を出す。でもハニフは、そのドアのノブに触れようと伸ばしかけた手を途中で引っ込めることになった。ドアの前には母が立っていて、僕とハニフを待っていたから。
「フィーンディアさま」ハニフは顔を上げ、母を呆然と見つめた。雨水が入り込まないように、ドアは屋上の床よりも一段高くなったところに作ってあって、母はそこに立っていた。
「ハニフ」母が答えた。かすかに笑っているような声だ。「密談はすんだか?」
「おまえがなぜここにいる?」表情を変え、ハニフは母をにらみつけた。
「おまえも知っておろう」母は言った。「北の塔には伝声管があるではないか」
「なぜ?」と僕。
 母は僕を見つめて、にっこりした。「古い図面を調べていたとき、あの伝声管が今では雨どいの一部として使われていることに気がついた。その雨どいは北の塔から下へくだり、壁面を走って、テラスのすぐわきを通る。テラスに立って耳をつけるだけで、おまえたちの話し声はすべて聞こえてきたよ。
 さきほど会議が終わって、私はおまえを探しに執務室へ戻った。だがおまえはいなかった。秘書から、つい今しがたハニフと一緒に出ていったと聞かされた。こそこそと階段を上がっていっただそうだ。すると、行き先は七階かここしかないではないか」
 ハニフが手を伸ばして、僕の腰から短剣を抜き取ったことに気がついたのは、そのときだった。ビクセンの王族だから、僕もいつでも武器を身につけていた。使い方も知らないし、ろくにといだこともない短剣なのだけどね。
 ハニフは短剣の柄をしっかりと握り、母に近寄ろうとした。「クスクスさま、お許しください」と言いながら。夕暮れどきの光を受けて、刃がきらりと光った。
 どうしていいかわからなくて、僕は空っぽのさやをぶら下げたまま立っているしかなかった。でも母の声が聞こえた。
「やめい」とても静かな声だった。
「いまさら命乞いか?」ハニフはもう一歩母に近寄った。
「私が山猫を相手にした話は知っておろうが?」
「知っておるわ。だが、最初から相打ち覚悟であれば話は変わってこよう」
「しかし」母はにっこりした。「おまえにクスクスの母は殺せまい?」
 ハニフには意味がわからない様子だった。でも、何かしら普通でないことが起こっていると感じ取ったのだろう。ハニフの身体は動きが止まってしまっていた。
「クスクス、おいで」母が手招きをするのが見えた。僕は母のほうを向いて、にっこりしたと思う。気がついたときには、もう僕の身体は母に向かって歩きはじめていた。
 さっきも話したように、母は屋上の床よりも一段高くなったところに立っていた。だからそばへ行くと、僕は母を見上げる形になった。僕はくるりと振り返って、母に背中を向けて立ち、ハニフを見た。母は両腕をまわして、僕の肩を後ろからそっと抱いた。
「ハニフ、おまえにこの子の母は殺せまい?」
 母の声は、僕の耳のすぐ後ろで聞こえた。ここ数ヵ月の間だけじゃなくて、生まれてからずっと耳にしてきた声のような気がした。この声が、生まれてからずっと、僕の背後でささやき続けていたような気がした。
 妻の声とは種類が違うけれど、なんてきれいな声だろうと僕は思った。妻の声はさらさらした絹糸のようだが、母の声は細いプラチナの針金で、同じようにしなやかに輝くが、この城を作っている石灰石のブロックをつり下げることができるぐらい強い。
 母の腕の中に抱かれたまま、僕はハニフを見つめ返しつづけた。ハニフの目の前だったけれど、僕は母の指にそっとキスをした。もちろん母も、機嫌よさそうにされるままになっている。ハニフは信じられないといった顔で、目を大きく見開いている。自分が長いあいだ仕えてきた相手がどういう人間だったのか、真実に気づいて呆然としている。
 僕が生まれて物心ついたときから、ハニフはいつもそばにいた。逆に言えば、ハニフは赤ん坊のころから僕を知っていた。もうハニフは、六十歳をいくつかすぎていたと思う。だけど僕は突然、自分がハニフよりもはるかに年上であるかのような気がしはじめていることに気がついた。不思議な感覚だったよ。僕はただ無知で経験不足な子供にすぎないのに、それなのに何もかも見通して、この世のすべてを知っているような気がしてきたんだから。だから僕は少し戸惑いも感じていたのだけど、いやな感じではなかった。怪物を見るような目つきでハニフから見つめられていても、僕はなんともなかった。僕は、機嫌よく母の腕の中にいることができた。
「さて、どうしたものかな」ふたたび母の声が聞こえた。僕の耳のそばで話している声なのか、僕の内部から聞こえている声なのか、もう僕には区別がつけられなかったし、どちらでもないのだという気もしていた。そしてたぶん、そのどちらもが正しかったのだろう。
 だけど、
「クスクス」
 突然母から話しかけられて、僕は少し驚いて振り返りかけた。
「なに?」
「私はもう少しこの男と話があるから、おまえは先に食堂へお行き。おなかがすいただろう?」
「うん」
 いま思い出して自分でも不思議なのだけど、僕はうなずいて歩きはじめようとした。まだ短剣を手にしたままでいるハニフを見つめ返して、僕はにっこりした。ドアに近寄って、ノブに手をかけた。ドアを開いて、一人で階段を下りていった。背後に残していく二人のことなんか、まったく気にならなかった。今夜のおかずは何かなあと思いながら、僕は歩いていった。
 食堂へ行って、座って待っていると、母は十五分もしないうちに現れた。
「待たせたね」母は言った。
「うん」
 女官たちが入ってきて、テーブルの上に料理を並べはじめた。女官たちが出ていって、いつものように母と向かい合って食べはじめたが、僕はもうハニフのことなんか思い出しもしなかった。あの短剣は、女官たちが部屋を出ていくとすぐに母がテーブルの上に置いたので、僕はさやの中に納めた。でもそれ以後、屋上で起きたことなんか、ちらりとも心をよぎらなかった。
 僕はこのとき、母の術の影響下にあったのだと思う。うきうきするというのではないけれど、穏やかで幸福な夜だった。だけどその術も、翌朝までは続かなかった。
 朝になって、僕は自分の部屋で目を覚ましたのだけど、毛布をはねのけてベッドの外へ出る気になる前に、僕はハニフのことを思い出していた。昨日屋上で起こったことが、ぱあっといっぺんに記憶によみがえってきた。ハニフはあれからどうなったんだろうと思った。
 僕は急いで着替えて、寝室から出た。短剣は、もちろんいつものように腰のさやの中に納まっていた。
 廊下に出ると、すぐにマーガに出会った。朝食に使う皿や食器を盆に乗せて、食堂へ運んでいこうとしているところだった。胸の前に両手でささげ持つようにして、ゆっくりと歩いている。制服はいつものようにぱりっとしていて、すきひとつない。
 廊下の真ん中に立ち止まって僕が自分のほうを眺めているので、マーガも立ち止まって、顔を上げてにっこりした。「おはようございます」
 でもマーガは、すぐに僕の表情に気づいたようだった。続けていった。「どうかなさいましたか?」
 僕は何秒間かためらったけれど、結局言った。
「ハニフはどこ?」
 マーガは不思議そうな顔をした。僕はよく観察していたから自信があるのだけど、このときのマーガの表情は、芝居でもなんでもなかった。
「ハニフとは誰のことです?」
 僕はマーガを見つめ返した。やっぱりマーガの表情はうそではないようだ。
「ううん、なんでもない」僕は首を横に振って、歩きはじめた。僕はマーガに背中を向けたのだけど、振り返ってみたわけじゃないけれど、マーガはかなり長いあいだ、不審な顔をして僕を見送っていただろうという気がする。でも少しして、マーガが歩きはじめる足音と、盆の上で食器が触れ合うかちゃかちゃいう音が背後から聞こえてきた。
 僕は、母の顔を見るのが怖いような気がしていた。だから食堂へは行きたくなかった。朝食が始まるまであと十五分ある。時間になれば食堂へ行くしかないけど、それまでどうしようと思った。
 僕は思いついて、階段を下りていった。僕は普段から、表の大きな階段ではなくて、裏側の狭い階段を使うことのほうが多かった。狭くて薄暗い場所が好きだったのかもしれない。少なくとも二百五十年前から存在している階段なのだけど。
 僕は石灰石でできた階段を下りて、三階に出た。ハニフの部屋がある階だ。でも僕は、ハニフの部屋へ行くことはできなかった。ハニフの部屋はなくなってしまっていた。
 といっても、何か別の部屋に変わっていたとか、誰か他の人が使っていたというんじゃない。文字通り消滅してしまっていたんだ。ハニフの部屋は、王宮の北側に増築された小さな張り出し部分にあったのだけど、その張り出し部分そのものがもはや存在しなかったんだ。僕はすぐに一階まで駆け下りて、中庭に走り出て呆然と見上げたのだけど、そこには、屋根が片流れになったちょっと犬小屋みたいな四角い増築部分があったはずなのが、もう今はただ垂直でまったいらな壁になっていたんだ。もちろんそれは、増築部分を取り壊したとかなんとかでなくて、そもそもはじめからそんなものは存在しなかったという感じで、壁面には何の跡もなかった。もし取り壊したのなら、石やしっくいを引きはがした跡が線状に残るだろうけど。
 おまけに、増築部分が立っていたはずの土地は、狭いけれど菜園になっていて、キュウリやナスビが植えてあった。緑色の葉が太陽の光をはね返して、つるを支えるための細い木の棒が地面に突き刺さって並んでいる。
 始業時間になったのか、庭師たちが数人、シャベルやバケツ、ホウキを手にして、そばの農具小屋の中からあらわれた。僕が菜園を眺めてため息をついていることに気づいて、立ち止まって不思議そうな顔をしていた。見られていることに僕も気がついたので、何も言わずに歩きはじめた。中庭を横切って建物の中に入って、人に見られずにすむ場所まで来るとほっとした。僕は階段を上がりはじめた。
 母は、もう食堂のテーブルで僕を待っていた。料理はすでにテーブルの上に用意され、女官たちが出ていった直後のようだった。僕は母に向かい合って座り、軽くにらみつけてやった。
「ハニフのことか?」にっこりして母は言った。
「ちゃんと全部の痕跡を消したのだろうね」突然僕は、自分でもびっくりするようなことを口にしていた。
 すると不意に母の表情が変わったのだけど、母はこういった。
「誰にも私の邪魔はさせぬ」
「だけど、あの像はもう壊されちゃったよ。大丈夫なの?」
 母は、うれしそうににんまり笑った。「ハニフは勘違いをしていた。あの像は私のよりしろでもなんでもない。ただの像に過ぎなかった」
「じゃあ、何があんたのよりしろなの?」僕はきっと、子猫みたいに無邪気な顔で見つめ返していたと思う。
「それはおまえにも言えぬ。私の力の源だからな」母は不思議な表情で、それでも本当にうれしそうににっこりした。それを眺めて僕はまた、中庭で子猫を見やっていた母猫の表情を思い出していた。


 このころになって、僕は気づいたことがあった。母が、つねに僕を、自分の目の届く場所においておきたがるということだった。王宮の中にいるときは別だけれど、スタウと二人で町に出かけることなんて、絶対に許してくれなかった。僕が町のレストランで食事をしたり、書店へ本を買いに行きたがったりすると、母はいつもいい顔をしなかったが、それでも、予定されていた仕事をキャンセルして、僕をあのハーフトラックに乗せて一緒に出かけた。護衛として第九分隊の兵たちも同乗させたが、町に出ても、母は何も恐れてはいないように見えた。でもとにかく母は、王宮の外では常に僕をそばに置きたがった。
 そういうのは、僕には迷惑だったけれど、うれしくなかったわけでもない。母が僕の安全に気をつかっているということなのだし、女王を引き連れて買い物に出かけるなんて、痛快といえば痛快じゃないか。
 想像してみてくれる? チョコレートを買うために、僕がサーモント通りの『竜の虫歯』という店に立ち寄ったとき、開いたドアを見て店の主人は、一分間以上カカシみたいに突っ立っていたんだから。僕はにっこりして「イービヨルニスの卵を一ダースください」と言ったのだけど、主人はやっぱり反応しなかった。母が僕の後ろに立って、店の中を物珍しそうに眺めている様子を呆然と見つめていた。
 だけど僕だって、こういう状態にいつまでも無邪気につかっていたわけじゃない。そのうちに疑問が頭をもたげてきたんだ。母はなぜ、そんなにまでして僕をそばにおいておきたがるのか。僕があの本に出会ったのは、そんなときのことだった。
 タイトルは『麦の騎士』といった。新聞に書評が載っていて、おもしろそうだったから、僕は書店で取り寄せてもらった。
 手に入って、僕はすぐに読みはじめた、グレインという名前の女騎士が、悪い魔女の魔法を破壊して、魔の山にとらわれている妹を救い出すという物語だった。魔女が強い力を持っているので、グレインはとても苦労するのだけど、ひょんなことで魔女の力の中心を発見し、それを破壊することで魔女の魔力は失われ、めでたしめでたしという話だった。
 この物語の中では、魔女の魔力の中心は、直径が二十センチぐらいあるガラス玉だった。もちろん魔女はこれをとても大切にしていて、山の奥深くにある滝つぼの底に沈め、ヒゲが二十八本ある怪物ナマズに番をさせていた。でもグレインはナマズを倒し(そのあと切り刻んで、パン粉をつけてフライにしたかどうかまでは書いてなかった)、ガラス玉を見つけ、剣でどついてたたき割った。ガラス玉の中に納められていた魔女の魔力は、暑い日のエチルアルコールのように一瞬でさっと消えてしまう。
 読みおえて、僕はははあと思った。ハニフは、これのことをよりしろと呼んでいたんだね。そしてハニフは、あの胸像が母のよりしろだと思っていた。でもそれは勘違いだった。像を破壊されても、母はぴんぴんしている。
 だから僕はまた、最初と同じ疑問へ戻ってこなくてはならなかった。何が母のよりしろで、いったいどこに保管してあるんだろう? 僕は考え続けたのだけど、答えは得られなかった。
 その数日後のことだけれど、僕はちょっとした風邪をひいた。熱っぽくて食欲がなくて、せきが少し出るというぐらいだったけれど、いつものように若い女官たちが大騒ぎをして、医者を呼んだ。呼ばれた医者は、小さいころからかかりつけのスプロケット医師で、だいぶ年寄りのおじいさんだったけれど、僕は嫌いじゃなかった。病気になって唯一うれしいことは、この人に会えることだった。
 女官たちは、すぐに母にも知らせた。母は、ある会議に出席するために王宮から出発するところだったのだけど、同行する部下たちを中庭に待たせたまま、すぐに僕の部屋へやってきた。
「どうした、クスクス」
 僕はベッドの中にいて、キッチンから運ばれてきたばかりの温かいスープを飲みながら新聞を読んでいたのだけど、母の声を聞いて顔を上げた。母が心配そうな顔をしていたので、もちろん表情には出さなかったけれど、少しうれしかった。僕は二、三回せきをし、「風邪をひいちゃった」と言った。
 そうしたら、母の反応はどうだったと思う?
 母はすぐに暖炉の様子を確かめ、火の上に置かれていたヤカンの中の水量を確認し、マーガを呼びつけて、僕の症状について質問した。
 マーガはああいう人だから、僕が風邪をひいたと若い女官たちから聞かされても、へえといって眉を上げるぐらいだったのが、強い調子で母からいろいろ質問されて、フューズが飛んでしまったようだった。急にしどろもどろになり、若い女官たちを押しのけて、僕の世話をする役を自分から買って出た。
 ところが、それに対する母の反応はもっと意外だった。母はマーガの申し出をはねつけ、出席する予定だった会議どころか、その日の仕事はすべてキャンセルして、一日中、僕の寝室で過ごすと宣言したんだ。
 あのね、それまでだって母は、僕を連れて町へ出かけるときに仕事をキャンセルすることはあったけれど、それは数時間か、せいぜい半日分でしかなかった。だけどこのときは一日全部で、それだけじゃなくて、僕がベッドを離れることができるようになるまで、一週間ずっと続いたんだ。母は小さなベッドをもう一つ僕の寝室に運び込ませ、そこで寝起きをするようになった。
 僕はそれでよかったよ。一日中そばにいてもらえるんだから。おいしいものもたくさん食べられたしね。僕があれを読みたいといったら、ビクセンシティー中の書店に使いを出して、必要な本を探させたりした。でも、王国のほうはそうじゃなかったらしい。後で聞いた話だけど、あちこちで仕事がかなりとどこおってしまったそうだ。一番影響が大きかったのは、ビクセンシティー南部にある下水ポンプ場だったろうと思う。修理工事にともなう予算の決済が一週間もほったらかされたもんだから、いいかげん古くなっていたポンプがとうとう大規模な故障を起こしてしまい、下水が川に逆流して、悪臭が町の南部一帯にたちこめた。
 でも、あんまり感心したことじゃないと自分でもわかっていたのだけど、僕は母の前で大げさに振舞っていただけなんだ。実際よりも重い病気であるように見せかけていたんだ。そんなことをしてもすぐに見破られてしまうだろうと最初は思っていたのだけど、意外にも母は簡単に引っかかってしまった。あんまりあっけなくて、僕も驚くぐらいだたのだけどね。
「何か食べたいものはないか? ほしいものはないか?」
 そういって母は、本当に一日中、僕のそばを離れなかった。そういうところへスプロケット医師が呼ばれてきたわけだった。
 スプロケット医師は、もう七十歳をすぎていた。頭はほとんどはげていたけれど、最近そうなったのではなくて、僕が子供のころからそうだった。わけのわからない怪しげな療法を用いるような人ではなく、薬だってあまり処方しなかった。小さいころの僕を診察するのだって、聴診器や注射器を使いながらおもしろい話をしてくれるものだから、あまり怖い思いはしなかったように思う。
 それでまあ、このときもそのスプロケット医師が呼ばれて、僕の診察を終えて寝室を出ていったのだけど、ベッドの上にいる僕の身体に毛布をかけなおして、母がすぐについて部屋を出ていったのには、僕も少し驚いてしまった。外の廊下で診察結果を聞くためだろうけど、もちろんスプロケット医師は、僕の風邪が半分以上は仮病だと見抜いていたに違いない。それを母に告げ口されるんじゃないかと心配になって、僕はベッドをそっと抜けだして、身体に毛布を巻きつけたままドアに近寄った。
 幸運なことに、母はドアを完全には閉めていなかった。僕のことが心配で、そんなことまで気が回らなかったのかもしれない。ドアには一センチぐらいすきまが開いていて、耳をくっつければ、廊下の様子をうかがうことができた。僕は息を殺して、耳をすませた。母の声が聞こえた。
「ドクター、クスクスのぐあいはどうか?」
 スプロケット医師がため息をつくのが聞こえた。数秒あって、スプロケット医師は口を開いた。
「心配はありますまい。一週間もすれば元気になられましょう」
「本当か?」母の声はひどく緊張しているように聞こえた。「疑うわけではないが、誤診ということはあるまいな」
「大丈夫です」スプロケット医師はくすりと笑ったようだった。「おいしいものを食べさせて、部屋の中でのんびり遊ばせておけばよろしいでしょう。女王陛下も少しお相手をしてあげてはいかがです?」
「薬を与える必要はないのか?」
「ありませんな」僕には、スプロケット医師が首を左右に振る様子が目に見えるような気がした。
 こういうふうにして、僕の病気の日々はすぎていった。毎日おいしいものを食べて、母と話をしたり、一緒にゲームをしたりしてすごした。それはそれでおもしろかったし、かまってもらうこともうれしかったのだけど、でも僕の心の内側には、ずっと疑問が一つ張りついていた。母はなぜ、僕の健康をこんなにも気にするのだろう。
 元気になってからも、僕は一日に一度はこの疑問のことを思い出した。そして考えつづけた。
 僕が最初に思いいたったのは、母にとっては、息子をなくすというのは、一度経験すればたくさんなのだろうということだった。僕は二千年前のことを言っているのだけど、誰だって二度も繰り返したくはない経験なのかもしれない。
 それはありそうなことだという気は、たしかに僕もしていた。だけど、僕はどうも納得できずにいた。母のあの様子は、どう見てもおかしい。
 ところで、誰にでもこういう経験があると思うけれど、ある日僕は、突然本が読みたくなった。そのタイトルもわかっていた。一度読み終えた本だけれど、どうしてももう一度読み返さなくてはならないような気がしてきたんだ。
 だから僕は、夕食を終えて一人で自分の部屋へ戻ってきたとき、すぐに本棚のところへ行って、その本を手に取った。背に書かれている文字は『麦の騎士』
 僕はイスに座って、机の上のランプをつけて、ページをめくった。長い本ではないので、二時間ぐらいかけて、僕は一気に最後のページまで読み終えてしまった。あくびをしながら表紙を閉じて、本棚へ戻しにいったときには、僕は満足を感じていた。答えを見つけ出したような気がしていたから。
 ランプを消して、着替えてベッドに入りながら、その答えが正しいことを確かめるにはどうすればいいかなあと、僕は考えはじめていた。
 次の朝、僕はなんだかとてもすっきりした気分で起きだしたことを覚えている。朝食をすませて、すぐにスタウを探しにいった。
「ねえスタウ、銃の撃ち方を教えてくれる?」
 スタウは自分のオフィスに一人でいたが、僕がそういったら、ぱっと顔を輝かせた。
「とうとうその気になられましたか」
 スタウはなにやら書類仕事をしていたのだけど、そんなものはすぐにほっぽり出して立ち上がった。部屋を出て僕を連れて廊下を歩きはじめたが、その様子はとても楽しそうだった。スタウには、娘はいても息子はいなかったから、こういうのが夢だったのかもしれない。
 でも僕はまず、銃を手に入れなくてはならなかった。ビクセンの王族のくせに、まだ持っていなかったんだ。結婚式のときに腰につっていたのは借り物だったからね。倉庫の奥から引っ張り出してきた儀式用のやつ。形だけで、弾丸を撃つ能力はない。
 スタウは僕を連れて階段を下りていって、建物の外に出た。中庭を横切って、内城壁と堀を通り、外宮に出た。風が吹いて寒い日だったので、僕は背中を丸めていた。コートを着てくればよかった。でもスタウは平気なのか、大またでどんどん歩いていく。
 僕とスタウは、補給部の四角い建物の中へ入った。この中で働いているのは制服姿の軍人たちばかりだが、建物の外観も部屋の中の様子も、まったく普通の役所という感じだった。ここは、兵たちに支給する武器や制服、その他の装備品を管理していた。
 建物の玄関を入ってすぐに、スタウは補給部長に面会を求めた。陸軍大佐がこんなところをたずねてくるなんてめったいにないことだから、応対した若い兵はひどく驚いた顔をしていた。
 僕とスタウは、すぐに補給部長の部屋へ通された。それなりに広い部屋で、中央に大きな机があって、まわりの壁には、部長の個人的な記念品なのだろうけど、古い制服や階級証、刃のちびたナイフなんかが飾られていたが、部長みずからがドアを開けて、僕とスタウをそこへ迎えてくれたのだった。
 補給部長は中佐だった。だから、もちろんスタウは上官ということになる。それで、やっとこのとき思い出したのだけど、本当に形式的にだけど、この少し前から、僕にも軍人としての階級が与えられていたのだった。僕は、なんとまあ中佐だったんだ。銃の撃ち方も知らなかったのだけどね。
 軍人になって、階級を上がっていくというのは、本当に大変なことなんだそうだ。士官学校を卒業して、最初は少尉として任官するのだけど、スタウみたいに大佐にまで出世できるのは、その中の一割にも満たない。たいがいの人はそれ以下の階級で終わるか、定年になるまでに退職してしまう。僕がいつも本を買う店の主人も、若いころは海軍中尉だったといっていた。途中で退職して家業を継いだのだそうだ。
 軍というのはそういう世界なのに、なぜ僕みたいなガキが中佐なのかといえば、これにはちょっとした事情があった。僕がフィーンディアに連れられて、海軍の軍艦に乗るとするよね。閲兵式かなんかで、年に一度ぐらいはそういうことがあったんだ。それで、小さな船ではそういうことはないのだけど、大きな軍艦では、船内に食堂が二つ以上あったりする。一般兵が使う食堂と、上級士官が使う食堂と。
 海軍の規則で、上級仕官食堂は、少佐以上の階級のものしか利用できないことになっていた。フィーンディアは大将よりも上の位だから問題はないけれど、僕はどうなる?
「女王陛下が上級仕官食堂で食事をされる間、クスクス殿下は廊下でお待ちください」とは、いくら海軍の連中でも言えなかったらしい。だから僕にも階級が与えられることになった。なら少佐でよさそうなものだけど、まさか女王の夫がその場における最下級ではまずかろうということで、一つ押し上げて中佐ということになったんだ。僕の部屋の机の引き出しの中には、海軍中佐の階級証が入っているはずだよ。こんど見せてあげるね。
 まあそれはともかく、スタウは補給部長に向かって、僕に銃を一丁支給するように要請した。部長はうなずいて、すぐに倉庫へ行き、五分もしないうちに戻ってきた。
 部長は、腰につるためのホルスターとベルトも持ってきてくれていたけれど、僕は要らないといって、銃とボール箱いっぱいの弾丸を持って、スタウと一緒に内宮に帰ってきた。
 内宮の中庭のすみっこには、土のうを積み上げて作った小さな射撃練習場があって、僕はそこで、スタウに教えてもらいながら、弾丸がなくなるまで練習した。的に当てることは一度もできなかったけれど、なんとか使えそうな気がしてきた。銃を分解して掃除する方法も教えてもらった後で、僕はスタウとは別れて、七階に戻ってきた。ポケットの中には銃があって、ずっしりと重たかった。一人で階段を上がりながら、僕はにんまりしていたかもしれない。これで準備はすんだのだから。
 あとは、いつ実行するかというだけの話だった。だけどそのチャンスは、意外と早くやってきた。というよりも、我慢できなくなって、僕が次の日にはおっぱじめてしまったというのが真相なのだけど。
 朝になって僕は、一足早く母の執務室へ行って、一人で待っていた。ドアはしっかり閉めておいたから、秘書たちから見られる心配はなかった。僕はいつもの通りスツールに座って、母を待っていた。
 五分もしないうちに足音が聞こえて、母がドアのすぐ外までやってきたようだった。僕はポケットから銃を取り出して、用意をした。ちゃんと安全装置もはずしておいた。
 ドアのノブが動いた。かちゃりと音がしてドアが開き、母が姿を見せた。軍の制服を着て、すらりとした姿だ。妻とは身長も肩幅も違う。
 もちろん母は、僕がしていることにすぐに気がついた。少しは驚いた様子だったが、大きく表情を変えることはなかった。後ろ手にドアをそっと閉め、母は部屋の中に入ってきた。僕は銃口を自分ののどの下にあてがったまま、母を横目で見て、にやりと笑ってやった。
「何をしている?」
 母は、僕が想像していた通りのことを言った。銃は手の中でずっしりと重く、のどに触れている部分はひんやりとしている。僕は身体の向きを変えて母のほうを向いたが、銃はそのまま押し当てていた。
「あんたが大切にしているよりしろをぶっ壊そうとしてるんだよ」僕は笑っていたと思う。
「おやめ」母の顔色が変わった。
 実を言うと、それを見ただけで僕の気持ちは半分以上すんでいた。だから、ここでやめてもよかったのだけど、せっかくだからもう少し続けることにした。
 母の表情は、本当に変化していた。見ていて腹が立つぐらいのいつものふてぶてしさはどこかへいってしまって、そこにいたのは、ただの心配顔の女だった。とんでもなくバカげたことを息子が始めてしまったのだと悟ったときの母親の顔。この瞬間の母の表情は、ビクセンシティーにいる何万人もの普通の母親たちとまったく変わらなかったと思う。
 母の肩が上がり、上半身を大きく使って呼吸を始めるのを僕は眺めていた。母は気を失ってしまうんじゃないかと僕は一瞬思ったが、そんなことはなかった。母はそこに立ち続けた。
「バカなことはおやめ」母の口が動いた。その様子は、水の外に出たときの魚に少し似ているような気がした。黒王妃をここまで困らせることに成功した人間は、有史以来、きっと僕が初めてだと思う。
「僕の身体があんたのよりしろなんだね」僕は言った。
「銃をおおろし」母はあえいでいた。この部屋の空気には酸素が足りぬとでもいう様子で。
「僕がよりしろなんだね」僕は繰り返した。
「そうだ」母はとうとううなずいた。「おまえが死ねば、私の力はすべて失われてしまうだろう」
「だからあんたは僕を大切にした。僕が病気になったときも、必死で看病をした」
「それは違うぞ」母の表情がふたたび変わった。あえぐ魚のようだったのが、急に力を取り戻して、僕をまっすぐに見つめた。ううん、にらみつけた。獲物を追うときのミミズクのような目だと思った。
「それは違う」ふたたび母は言った。「おまえがよりしろだからではない」
「うそつき!」
「うそではない。そんなうそをついて何になる? 私が何のためにこの世に戻ってきたと思っている?」
「自分の王国をふたたび建設するためだろ?」
 母はぷっと吹き出した。本当におかしそうにそうしたんだ。それがとても意外だったので、僕は思わず見つめた。だから一瞬、自分の手への注意がお留守になってしまった。もちろん母が、それを見逃すはずはなかった。
 母の身体がバネのように動いた。草むらの葉の下にネズミの尾のかすかな動きを見つけたときのミミズクのように、僕めがけて飛んできた。
 あっと思ったが、もう遅かった。気がついたときには、銃は僕の手から奪われてしまっていた。押し当てていたのどが銃口でこすられて、ひりひりした。握っていたものをむりやりむしりとられて。指もねじられて痛かった。銃を手にして、母はすぐに安全装置をかけようとしたが、その前に気づいて弾倉を開け、鼻から大きく息を吐き出した。くすくす笑いはじめた。僕に向けて、開いた弾倉の中身を見せた。
「弾丸が入っていないではないか」
「暴発でもしたら困るからね」僕はがんばって、できるだけ平気な顔で答えてやった。
「私に見せるために、スタウから射撃を習ってみせたのだな」
「そうだよ」
 母は僕の銃を、机のそばのゴミ箱に放り込んだ。ゴトンと大きな音がした。それから僕を振り返り、にらみつけた。
「こんなことをして、今回は北の塔ではすまぬぞ。地下牢がふさわしい」
 僕はふてくされた顔をして、座ったままスツールを傾けて、背中を壁に寄りかからせた。「あんたにそれができる?」
 母は何秒もの間、僕をまっすぐに見つめていた。母の顔には表情がなくて、何を考えているのかはまったく読み取れなかった。
 僕はぷいと横を向き、十秒かそこら窓の外を見ていたが、また横目で母を見つめ返した。
「できぬ」母が言った。
「ねえ」僕はできるだけ明るい声を出して、床の上でスツールを引きずって、母に近寄った。突然体中の力が抜けてしまったみたいにして、母は自分のイスにどすんと腰かけた。
「もう全部話してよ」僕は続けた。「内緒ごっこはやめにしようよ。ああだろうか、こうだろうかと思いをめぐらせるのには疲れちゃった」
 母は長いあいだ自分の足元を見つめていたが、とうとう顔を上げた。
「そうかもしれぬな」
「そうだよ」
「ふん」母は笑った。「おまえはとんでもないウニだわ」
「ウニって?」もちろん僕には意味がわからなかった。
 僕が知っているウニというのは、海の中にいるあれのことだった。真っ黒で丸くて、トゲトゲがいっぱい生えている生物。ビクセン湾で底引き網漁をすると、網に山ほど引っかかる。陸にあげても、肥料にするしか使い道がない。
「ウニというのはな」母はあきれたような顔で僕を見て、手を伸ばして、僕の前髪をなではじめた。触れてもらって、僕はとてもうれしかった。母は続けた。
「私の時代には、おまえのような悪ガキのことをそう呼んだのだよ。調べてごらん。古くさい本などでは、現在でも使われている用法だ」
「僕の名前、クスクスじゃなくてそれにすればよかったのに」
 母は、少し疲れた様子で微笑んだ。「次におまえを生むときには、そうしようよ」
「ねえ、話してよ」
 母は僕を見つめ返したが、こんなことを言った。
「おまえに話す気はない。こんな気分の日はなおさらだ。夕方まで顔を見せるな」
 母は立ち上がり、ドアを開けて秘書を呼んだ。タイプライターをたたいていたが、秘書はすぐに立ち上がってやってきた。
「なんでしょう、フィーンディアさま」
 母は僕をあごで示した。「誰か適当な者に言って、こやつを王宮の外へ連れ出せ。夕方まで帰らせるな。顔も見たくない」
「はい」秘書はひどく戸惑った顔をしていたが、それでもうなずいて、僕を連れ出そうとした。僕はニヤニヤ笑いながら立ち上がった。部屋を出るとき、母がちらりと顔を上げてまたにらんだので、僕はまたにっこりしてやった。
 秘書はスタウを呼び、僕はあの消防車に乗せられて、王宮を出た。護衛の兵たちを連れて、一日中あてもなくビクセンシティーの中をうろうろ走り回ったが、僕はいい気分だった。母に勝ったような気がしていた。それも、想像していた以上の大勝利だという気がした。
 夕方になって王宮に帰ると、母はもう機嫌を直していた。一緒に夕食を食べて、いつもと同じ生活が始まった。



 ある朝、僕は起きだして、食堂へ行って一人で朝食を食べた。母は何かの用事で出かけていて、夜明け前から王宮を留守にしていた。
 料理を運んできてくれたのはマーガだった。僕の顔を見て「おはようございます」と言って、テーブルの上に皿を置いてくれたが、なんだかおかしな気がした。マーガの表情が、いつもより明るいような気がしたんだ。もちろんマーガは、いつもぶすっとしているような人ではなかったけれど、この日は特ににこやかに見えた。
 僕には理由がわからなかった。何かいいことでもあったんだろう、ぐらいにしか思わなかった。
 この朝のメニューは、パンとコーヒーとサラダだったけれど、デザートに石クルミがついていたのにはびっくりした。それも三個も。
 石クルミは、特殊な条件の整った畑でしか育たないし、栽培には非常に手間がかかる。おまけに収穫量も少ない。それだけじゃなくて、甘く育てるコツは一部の農家の間だけで秘密にされていて、一般には知られていなかった。だから石クルミは、この小さい一個でリンゴの十倍ぐらいの値段がした。それがこの朝は、三個も出されていたんだ。
「この石クルミ、どうしたの?」僕はマーガに言った。
 マーガは、もう一度にっこりして答えた。「今日は特別においしいものをお出しするようにと、フィーンディアさまからご指示をいただいたのです」
「どうして?」僕は首をかしげた。
「さあ、どうしてでしょうね?」
 マーガは、そのまま食堂を出ていってしまった。僕は、わけがわからないまま食事をすませた。もちろん石クルミは三個とも平らげた。
 食堂を出て、蜂追い係控室へ行くために廊下を歩きはじめた。階段を降りて六階に出たところで、スタウと出くわした。スタウはいつものようにどすんどすんと、それでも何か急ぐ用事があったのか、どこかせかせかした歩き方をしていたが、僕の姿を見ると表情を変え、さっと近寄ってきた。まるで、目の前においしい魚をぶら下げたときの猫みたいに、一瞬で目の色が変わった感じだった。
「おめでとうございます、クスクスさま」スタウは言った。
 僕はわけがわからなくて、きょとんとした顔つきをしていたに違いない。スタウは僕の目の前へやってきて立ち止まり、身体を低くしていた。といっても、顔と上半身をわずかに伏せてという程度だったけれど、できることなら床にひざをついてしまいたいとスタウは思っているに違いないという気がなぜかした。自分でも理由はわからなかったけれど。僕は一瞬、古い油絵で何度も見たことのあるナイト叙位式の場面を思い出したりした。これからナイトの位を与えられる者が、ローブを着た国王の前にひざまずき、長い剣で肩を軽くたたかれる。そういう儀式。
 だけど僕はなんと言っていいかわからなくて、長いあいだ黙っていた。だから変に思ったのか、スタウが顔を上げた。そして僕の表情に気がついて、同じように少し不審そうな顔をした。
「ご存じないのですか?」スタウは言った。
「何が?」僕には、これ以外のせりふは思いつかなかった。
 スタウは、今度こそ不審そうに眉をひそめた。
「新聞をご覧になって…、いえ、本当にご存じないのですか?」
「うん」僕は首を縦に振った。
 少しうつむいて、スタウが小さな声で独り言を言うのが聞こえた。「そうか。まだお話しになってはいないのか」
「誰が何を話してないの?」
 スタウは顔を上げ、僕をまっすぐに見つめた。
「偶然とはいえ、これをクスクスさまに最初にお伝えする役目を与えられたことを、私はとても光栄に思います」
「なにが?」
「昨夜遅く、フィーンディアさまがクスクスさまに王位を譲られることが正式に発表されました」
 僕はたぶん、三分間ぐらい口をぽかんと開けていたと思う。でもすぐに気がついて駆け出して、控室へ行った。スタウのことなんか振り返りもしなかった。控室のドアを大急ぎで開けて、中へ飛び込んだ。控室の中には、僕が使う机がある。その上にはいつも、配達されたばかりのその日の新聞が置いてある。ビクセンシティーで発行されている新聞が五種類ともだ。僕は大急ぎで、その新聞を広げた。
 スタウの言うとおりだった。僕が母のあとを継ぐという記事が大きく掲載されていた。
 紙面の一番上には、手のひらぐらいの大きさのある活字が並んで、『フィーンディア陛下の後継はクスクス殿下』といった見出しがつけられていた。僕の名前がこんなに大きな活字になるのは、結婚式以来だった。
 僕は長いあいだ、ぽかんと活字を眺めていたけれど、気がついて記事を読みはじめた。でも一行か二行読みすすんだところで、僕の頭の中に、またまた変な考えが浮かんできた。記事そのものとは直接は関係のない事柄だ。
 以前から興味を感じていた疑問なのだけど、この記事がそれを解く手がかりになりそうな気がしたんだ。それは、これらの記事が『妻が夫に王位を譲る』と書かれているのか、それとも『母親が息子に王位を譲る』と書かれているのかということだった。もちろん僕は、あれが妻でないことを知っていたけれど、国民たちがどう思っているのかまではわからなかったから。確かめる方法も機会もなかったからね。マーガか誰かを捕まえて、「ねえ、フィーンディアって僕の妻? それとも母だと思う?」なんて質問できないからね。
 こんなとんでもない状況なのにとは自分でも思ったのだけど、落ち着いて、僕はゆっくりと記事を読みすすんでいった。答えはすぐに見つけることができた。記事は『妻が夫に王位を譲る』という視点で書かれていた。ふうん、と僕は思った。母がこの世界に対してどういうふうに変化を加えたのか、少しわかったような気がした。
 それはそれで一つの発見ではあるし、少しは満足を感じたのだけど、すぐに僕の心はそれを離れて、記事の内容へ戻っていった。読み終えると、僕は新聞紙をほっぽりだして、イスに腰かけた。机の上にほおづえをついて、考えはじめた。
 僕はかなり気に入らなかった。即位なんかしたくなかった。絶対にいやだった。王位というものがいかに面倒くさくて、苦痛に満ちたものかということを、僕はよく知っていたから。ロシュケンと戦争をしていた時期に、ゾディアの顔つきがどれだけ気苦労でいっぱいだったことか。
 でも母はそんなふうには思わないらしい。母はきっと二千年前も今も、女王であることを心から楽しんでいるのだろう。それは、玉座の上にいる母を見ていて、いつも感じることだった。母はとてもリラックスしていて、窮屈さなんかまったく感じていないようだった。馬を操るのと同じように、国を自由自在に操っている感じがする。そして母は、その醍醐味を息子にも味わわせてやりたいのだろう。僕に言わせれば、ありがた迷惑もいいところだけど。
 だから僕は、母が帰ってきたらすぐにつかまえて、文句を言ってやろうと思った。そう思って待ち構えていた。でも、その間も気に入らなかったのは、部屋の中や廊下で出会う人がみんな僕に向かって、「おめでとうございます」と言うことだった。仕方がないから僕も適当にお礼を述べておいたけれど、はらわたは煮えくり返っていた。
 日が暮れるころ、とうとう母が帰ってきた。僕はもう食堂へ行って、イスに座って待っていた。母が姿を見せると、僕は思いっきりにらみつけてやった。
「今夜のおまえは、なかなか愛らしい表情をしているな」母は平気な顔で言った。
 僕は腕を伸ばして、母の前にぐいと新聞紙を突き出した。母はわずかに首をかしげ、例の記事をちらりと眺めた。
 ちょうどそのページには、母の公式写真が大きく印刷されていた。女王に即位したときのもので、神殿の中でストカスの像の前に立って、母がカメラのレンズを見つめているところ。王位を示すローブをまとい、頭の上には冠があり、例の髪飾りが髪を飾っている。右手に職杖を持っている。
 もちろんこれは、撮影されたことのない写真だった。本来、この写真には僕の妻が写っていたはず。
「僕、即位なんていやだからね」僕は大きな声を出した。
 母は表情を変えなかった。イスを引いて、僕に向かい合って腰かけた。「では王位は、外宮の門衛が連れている犬に食わせてしまおう」
 僕はきっと、ひどくいやな顔をしたのだろう。母は笑った。
「僕が即位するなんて、国民たちが承知しないと思うよ」僕はまた言った。
 皿を手にして、母はスープを注ぎはじめた。注ぎおえた皿を、僕の前に置いた。「調べてみたのだが、妻から夫に王位を譲るのは、この国では何度か前例がある。スタウも言っていたが、おまえの妻が即位するとき、彼女ではなくおまえを即位させようという動きもあったそうだ。ビクセンではここ数代女王が続いたから、そろそろ王を待ち望む声もある。それに、その記事をよくお読み。今すぐおまえを即位させるというのではない。いずれはおまえに譲るというだけだ。あらかじめ知らせておいたほうが、国民たちも受け入れやすいだろうから」
「じゃあ、僕はいつ即位するの?」
「いつしたい?」
「したくない」
「それはだめだ」母は僕をまっすぐ見つめた。「私は、おまえを王にするためにこの世に戻ってきたのだよ。はじめはサウカノの王にしてやるつもりだったが、おまえはカウフガンフカン島とひきかえてしまった」
「へえ」
 母はにっこりした。「だが、それはそれでよかったのだよ。こうやっておまえと暮らすことができるようになったのだから」
 どう答えていいかわからなかったから、僕は黙っていた。母は続けた。
「急ぐことはない。ゆっくり準備を進めよう。おまえに教えておきたいことは山ほどある。即位はそれからだ」
「じゃあ、五年後?」
「なぜ五だと?」母は興味を持ったようだった。
「意味はないよ。ただ口から出ただけ」
「それでは長すぎる。一年後でどうか?」
「短すぎるよ」
「人間というものは、いつ死んでも不思議はない生き物だよ。大切な仕事は、できるだけ早くすませてしまいたい」
「じゃあ四年」
「二年」
「それじゃあ三年」
 母はため息をついた。「おまえは見かけ以上に子供っぽいのだな。まあ、それでよかろう」
 こんなふうにして僕が即位する日程が決まり、翌日の新聞に発表された。あんまりのんびりした話なので、記事を読んだ国民たちはあきれていたらしいが、僕は気にしなかった。とにかくあと三年はこういう宙ぶらりんの気楽な立場でいられるんだとわかって、まあまあ納得していた。三年後にはとんでもないことが始まるのだけど、それはまあそのときのことさ。
 でも僕は、母に悟られないように注意していたし、もちろん誰にも言わなかったけれど、別の意味でもほっとしていたんだ。母は、自分も人間だからいつ死んでも不思議はないと言った。その言葉が、僕をひどく不安にしていた。僕が即位したとたん、母が煙のように消えてどこかへ行ってしまうんじゃないかという気がしていたんだ。やってきたときと同じように、予告も何もなくね。
 だけど即位まで三年ある。そのあいだ母は、なんだかよく知らないけれど、国王として必要な知識を僕に伝えたり、いろいろ経験を積ませようというのだろう? だったら、少なくともその間はそばにいてくれるはず。この母じゃなくて、僕を生んだもう一人の母のことだけど、この人は僕が二歳のときに死んでいたから、僕は顔だって覚えていなかった。十七年前に僕を生んだ人と、二千年前に生んだ人のどっちが本当の母なのかという疑問は、僕も感じないではなかったのだけど。
 この日から、控室に引きこもることは母が許してくれなくなった。広間の玉座の隣に僕専用の小さなイスが置かれて、僕はいつもそれに座っているようになった。母は、〃女王業〃のすべてを僕に見せるつもりのようだった。
 僕がいつも母の後ろをついて歩いて、「フィン、フィン、フィン」と名前を呼んでいるものだから、いつの間にか僕には『フィン殿下』というあだ名がつけられてしまっていたけれど、僕は気にしなかった。それどころか、ちょっと誇らしい気までしていた。これがただの女王じゃなくて、二千年前の黒王妃なのだと知ったら、国民たちはどんな顔をするだろうと思った。
 そうやって一ヵ月ぐらいすぎたのだけど、ある朝早く、ロシュケンの大使が王宮へやってきた。ロシュケンとビクセンはとても仲が悪いから、ビクセンシティーにはロシュケン大使館なんてないので、サウカニアンにあるロシュケン大使館からわざわざやってきたんだ。
 大使はブンバグという名前で、黒い髪をした小柄な女なのだけど、左右の目の間隔がなんとなく離れている。以前から僕はひそかに、シュモクザメとあだ名をつけていた。シュモクザメって凶暴な魚だそうだから、目つきが鋭くて、とんがったみたいな感じがどことなくするこの女には余計に似つかわしいような気がしていた。いつもいつもまわりの国々にちょっかいを出し、戦争をしかけてばかりいるロシュケンのような国で大使にまで出世できるんだから、そういう社会に適応できるタイプの人物であるには違いなかろうしね。
 そのブンバグが、広間にいる母のところへやってきて、ロシュケン国首相からの手紙を手渡したんだ。母は玉座に座ったまま、それを受け取った。前にも話したと思うけど、母は妻とは違って、玉座に座ることが好きだというか、あまりにも当たり前のこととして慣れきっている感じがした。
 手紙を渡したあと、何も言わずにお辞儀をしてブンバグが広間から出ていくのを、僕は玉座の隣に立ったまま眺めていた。あんまりすぐに帰ってしまうのが意外な気がしたのだけど、母が手紙の封を切るのをのんびり待っている気分ではなかったのかもしれないね。今から思うと。
 母は手紙の封を切った。国家間の公式の外交文書ではないが、それでも封筒に国章が印刷してある正式の手紙だ。母は中身を取り出して、封筒はぽんと床に捨てた。中身は一枚の紙で、折りたたまれていたのを広げて、母は目を通しはじめた。
 母がふんと鼻を鳴らすのが聞こえた。顔を上げてこっちを向き、僕に手紙を手渡した。それから軽く手を振って、母は広間から人払いをした。女官や家来たちが出ていき、バタンとドアが閉まると、広間の中は僕と母だけになった。
 僕は立ったまま、手紙を読みはじめた。たった二行しかない短い手紙だったが、意味していることは重大だった。


 貴国に対し、ワーレンのすみやかな割譲を要求する。従わぬ場合、貴国民は、わが国軍がいかに優秀であるかをその目で見ることとなろう。


 ワーレンというのは国境地帯にある山岳で、数世紀前から両国の間で取り合いをしていたが、ここ数十年はビクセンが実質的に支配していた。何の資源もないただの岩山だと思われていたのだけど、半年ばかり前にちょっとした金属の鉱脈が発見されていた。その開発計画がひそかに進行中で、外部には秘密にされていたのだけど、ロシュケンは、どうやってかかぎつけたらしい。
 ため息をついて僕が手紙を返すと、母はあきれたような声を出した。
「あの国の人間は、二千年たってもちっとも変わっておらぬな」
 念のため僕は母に、現在のビクセンとロシュケンの力関係を説明しはじめた。戦車の性能が大きく違うこと。前回はサウカノから戦車を借り入れてなんとかしのいだこと。新型戦車の開発には、ビクセンはまだ成功していないこと。
 全部知っていることだったに違いないけど、母は黙って聞いていた。僕が説明を終えると、母は顔を上げて口を開いた。
「中庭へ行って、死んだカメムシをひとつ拾っておいで」
「どうするの?」
 母はにっこりした。「いいから行っておいで」
 広間の出入口は、幅の広い大きなドアになっていた。僕は歩いていって、両手で押してそのドアを開けた。広間の外へ出ていった。
 階段を下りて中庭に出た。庭師たちが数人いて、草木の手入れや掃除をしていた。その一人がチリトリを手にしていたので、中を見せてもらったら、カメムシの死がいをすぐに見つけることができた。僕は指先でつまみあげた。庭師たちは不思議そうな顔をしていたけれど、僕は微笑んだだけで、何も言わなかった。
 歩きはじめながら、僕は手の中のカメムシを眺めた。小さくて半分乾いていて、手のひらの上をころころ転がっている。足はすべてに内向きに折れ曲がってしまっている。おなかは茶色がかっているが、背中や頭は毒々しい黄色をしている。
 黄色砂漠カメムシという名だと僕は知っていた。繁殖力が強くて、野菜でも果物でも穀物でも何でも食い荒らしてしまうとんでもないやつだ。二百年前に大繁殖して、国中が飢饉になりかけたことがある。一匹あたり銅貨三枚という当時としてはとんでもない金額の賞金をかけて、なんとか押さえ込んだ。最近は大繁殖はないけれど、見かけるたびにひねり殺すようにと、ビクセンの子供は小さいころから教え込まれる。
 階段を上がって、僕は広間に戻ってきた。人払いがされて広間はまだがらんとしていたが、女官にでも持ってこさせたのか、母は封筒を一枚手にしていた。新品の白い封筒だ。僕から受け取ったカメムシをその中に放り込み、母は封をした。それからペンを手にして、さらさらっと宛名を書き、サインをした。それを母は、僕に向けてひょいと差し出した。
「これを届けておいで」
 僕は封筒を受けとって、宛名を見た。『ロシュケン国一級大使・ブンバグ・ルーフィング殿』
 封筒を手に持ったまま、僕は歩きはじめた。すぐに町に出て、ブンバグが泊まっているはずのホテルへ行ってみたのだけど、ブンバグはもう引き払ってしまったあとで、今ごろはもう列車に乗ってサウカニアンへ向かっているころだろうと言われた。だから僕はいったん王宮に戻って、翌朝サウカニアンへ向けて出発することになった。
 僕の乗った列車は、朝早く発車した。専用列車ではなくて、護衛を数人連れただけで、一般の急行列車に乗り込んだ。僕のカバンの中には、母から預かった手紙が入れてあった。
 列車は、短い草が生えているだけの荒地を何時間もかけて抜け、砂漠を越え、国境を越えた。少しずつ緑が目立つようになってきて、列車はサウカニアン駅に着いた。駅の正面では、ビクセン大使館がまわしてくれた自動車が二台、僕を待っていた。それに乗って、ロシュケン大使館へ向かった。ロシュケン大使館は駅の近くの一等地にあったから、数分走るだけで窓の外に見えてきた。
 新しい建物ではない。百年ぐらいはたっていそうな石造りの古いものだが、材質はただの石灰岩ではないようだ。正面に背の高い母屋のような部分、その左右にまったく同じ形のウイングが突き出していて、ワシがうつぶせに寝そべっている姿のように見える。手前にはでかくてえらそうな正門があって、このときは閉じられていた。
 自動車がこの門の前に止まったときに気がついたのだけど、この建物は、少なくとも外側は大理石でできているようだった。サウカノではあまりたくさんの大理石は産出しないから、ロシュケン本国から運んできたのかもしれない。ご苦労なことだけど、いかにもロシュケンのやりそうなことだという気もした。
 正門は不必要に背が高くて、六メートルぐらいあった。まわりの塀はそれよりも少し低い。門が塀よりも背が高いことに何の意味があるのさ? 僕が泥棒だったら、門なんか無視して、さっと塀を乗り越えると思うよ。
 この門は鉄でできていたのだけど、よく見ると、鋳鉄でできた縦横一メートルぐらいの格子をいくつもいくつもボルトで連結して作ってあった。だから、重さは何トンもあるに違いない。きっと門衛は毎日大変だろう。
 スタウが自動車の外に出て門に近寄り、立っていた門衛に話しかけた。門衛は銃を構えはしなかったけれど、不審そうにスタウを見ていた。
 スタウが何を言っているのか、自動車の中にいる僕には聞こえなかった。ひとしきりスタウの口が動くのが見え、それに門衛が短く答える。そんなやり取りがしばらく続いて、やっと門が開きはじめた。スタウはこっちを振り返って、自動車を前に進めるようにと合図をしてきた。運転手がアクセルを踏んで、自動車は動きはじめた。
 大使館の前庭はとても広くて、大きなロータリーになっていた。玄関の前のひさしの下で止まって、自動車はドアを開けた。
 驚いたのは、すぐ目の前にブンバグがいて、僕を待っていたことだった。口を半分開いたサメみたいな、例のおかしな表情で僕を見つめていた。
「殿下にわざわざお越しいただけるとは、恐縮でございます」ブンバグは口を開いた。
 僕は見つめ返した。やっぱりブンバグの顔は、あのサメによく似ているような気がした。笑い出さないために、自動車から降りて地面に立ちながら、シュモクザメ、シュモクザメ、ショモクザメと頭の中で三回唱えて、僕は口を開いた。
「お返事は早いほうがよかろうと思いまして」
 五分後には、僕はブンバグの執務室の中に通されていた。スタウたちは自動車の中で待っていることになった。
 ブンバグに案内されて建物の中を歩いていきながら気がついたのだけど、この建物は本当に大理石で作られているようだった。基礎の部分はともかく、少なくとも目に見えている範囲は。
 国土は小さいけれど、たしかにロシュケンは貧乏な国じゃない。でもね、とびっきり金持ちのサウカノの前で格好をつけても仕方がないと思うのだけどね。知ってる? 同じサウカニアン市内にあっても、ビクセン大使館はもっと小さくて、金のかかっていない建物だよ。倹約家のゾディアが建てたからということもあるのだけど。
 まあそれはともかく、ブンバグの執務室も金のかかった贅沢なものだった。パンくずをこぼしたら拾い集めるのが大仕事になりそうなぐらい毛足の長いじゅうたんが敷きつめてあって、黒くピカピカ光る紫檀の巨大な机がある。これはきっと、サウカノ王宮の玉座をまねたのだと思う。
 この机の背後の壁には、ロシュケンの国旗が飾ってある。赤い地に白で、ウロコがたくさんあるクジラみたいに巨大な魚が、水の中から勢いよく空中に飛び上がっている様子が染め抜いてある。これを見るたびに僕は、勢い余ってそのまま陸地にまで飛んでいって、日干しになっちまえと思った。
 ブンバグは僕にイスを勧めた。茶をいれて、目の前に置いてくれた。僕はカバンを開けて、預かってきた手紙を取り出して、ブンバグの前に置いた。
「これがお返事ですか?」ブンバグは目を丸くしている様子だった。国家間の手紙にしては、あまりにも簡単だったからね。ただの白い封筒だもん。
 どう答えていいかわからなくて、僕は黙っていた。
「宛名は私になっておりますので」ブンバグがまた言った。「中を見せていただいてもよろしいですね?」
「はい」僕はうなずいた。
 封筒を手にして、中身がただの紙ではなくて、何か小さくて軽いものがころころしていることに気づいて、ブンバグは不審そうな顔をした。でも何も言わずに、ペーパーナイフを手にして封を切りはじめた。封筒を開けた。中から出てきたのは、もちろんカメムシの死がいが一個だけ。
「これはどういうことなのです?」ブンバグは顔を赤くして、怒った顔をして僕を見た。
「僕はただ預かってきただけですので」僕は平気な顔で答えてやった。ブンバグは、もっと顔を赤くした。
「私にも、説明を求める権利くらいはあろうと思いますが?」
 僕は、わざとにっこりして見つめ返した。ブンバグはもっと怒った顔をした。今にも飛びかかってきて、猫みたいに引っかかれるんじゃないかという気がしたけれど、そんなことは起こらなかった。僕は、机の上にコロンと転がっているカメムシを無邪気に指さした。
「これは黄色砂漠カメムシといいます。ビクセンではどこにでもいる虫でしてね、大繁殖して、二百年前に大変なことになりました。そいつは、後先も考えずになんでもかんでも食い荒らしてしまうんです」
「それが、この件と何の関係があります?」
「このカメムシはロシュケンにはいませんよね? 繁殖力は強いが、実は飛べないカメムシなんです」僕は手を伸ばして、指でつまんでみせた。「ほら、羽根がとても短いでしょ? 退化して、もう飛べなくなってるんです。だから、このカメムシが自力で砂漠地帯を越えてロシュケンへ達することはありえません。万が一そんなことになれば、駆除する技術や知識のない貴国内は、大混乱となるでしょう」
 ブンバグは目を大きく見開いて、僕をにらみつけた。一分ぐらいそうやって黙っていたが、とうとう言った。歯と歯の間から息を強く吐き出しながらだったから、冬の朝に白い蒸気を噴き出している蒸気機関車のような眺めだった。それも、とんでもなく機嫌の悪い機関車。
「そういうことですか」
 僕はもう一度にっこりしてから立ち上がって、一人で勝手に執務室を出ていった。ブンバグは何も言わなかったし、追いかけてもこなかった。玄関の前では、スタウたちが僕を待っていた。僕の姿を見ると、すぐに自動車のエンジンをかけた。
 僕はこのまま、すぐに列車に乗ってビクセンへ帰るつもりでいた。でも、大使館のすぐ外で兵たちが待ち構えていた。制服を着たサウカノの兵たちだ。大使館の門を出ると、運転手はすぐにブレーキを踏んで、自動車をゆっくりと止めた。
 兵たちは五、六人いたが、その中にワシプウがいることにすぐに気がついた。見覚えのある女官の制服を着ている。
「なんです?」僕は窓を開けて、自動車の外に顔を出した。スタウがそっと腰のピストルに手を伸ばすのが目のすみっこに見えたけれど、気がつかなかったふりをすることにした。
 ワシプウは少しかがんで、にっこりして答えた。
「お久しぶりです、クスクス殿下」
「うん、あなたも」
「恐れ入ります。殿下のこれからのご予定は、どうなっておりましょうか?」
「駅へ行って、すぐに列車に乗って帰りますよ」
 ワシプウは、とんでもないという顔をした。「カルラムさまが、クスクス殿下のお顔を拝見したいと言っておられます。一日か二日、サウカノ王宮で過ごされてはいかがです?」
 どう答えていいかわからなくて、僕はスタウを振り返った。スタウは、ごくかすかにうなずいた。
 ワシプウがもう一度にっこりした。「では、ご案内いたします」
 このときになって気がついたのだけど、すぐそばにサウカノ王宮の公用車が一台待機していた。ワシプウはそれに乗り込み、僕やスタウの乗った自動車の前を走りはじめた。
 サウカノ王宮は、前にきたときとまったく変わっていなかった。ついてすぐ、スタウはビクセンに電報を打った。一時間もしないうちに返事があって、僕は数日サウカノにとどまることを許された。
 カルラムの顔を見たのは、その日の夕食のときだった。僕は王の食堂へ呼ばれた。
 待っていると時間になって、カルラムはすたすた歩いて食堂に入ってきた。とても機嫌がよい様子だった。政治がそれなりにうまくいっているのかな、という気がした。
 僕の顔を見て、カルラムはすぐにこう言った。もちろん僕は、立ちあがって迎えた。
「やあ蜂追い係君、よくきてくれたねえ。それとも郡長どのとお呼びすべきかな」
「どっちでもいいです」と僕は答えた。
 話すのを忘れていたけれど、僕の役職のことだけど、いつまでも蜂追い係では困るから、少し前のことだけど、母に頼んで、もう少しちゃんとした役職に任命してもらっていたんだ。僕は、新しくできた郡の郡長になっていた。
 カウフガンフカン郡。エリアはカウフガンフカン島ひとつきり。住民はもちろんゼロ。住民登録は受け付けてないから、移住しようと思っても無理だよ。僕の仕事を増やさないでね。
 カルラムは僕に腰かけるように合図をし、自分もイスに座った。
 カルラムの食堂というのは、王宮という言葉から誰でもすぐに連想するようなものだった。広くて天井が高くて、シャンデリアがぶら下がっている(数えてみたら七つあった)。テーブルは、その上でダンスができるぐらい大きくて、僕とカルラムが座っているほかは、空っぽのイスがずらっと並んでいる。部屋のすみには給仕が二人立っていて、そのうちの一人は茶の入ったポットを持ち、僕のカップが空になったらすかさずついでやろうと待ち構えている。
 料理は羊の肉だった。牧羊は、かつてはこの国最大の産業だったけれど、今でも盛んに行われていた。
 僕とカルラムは、食べながらいろんな話をした。ロシュケンやまわりの国々のこと。
今年の農作物の出来ぐあい。近ごろロシュケンの戦艦が近海をうろついて目ざわりだということ。サウカノが新しく作った戦闘機のこと。ロシュケンが爆弾つきのロケットを試作中らしいが、誘導装置がうまくいかずにてこずっているらしいこと。ドックで改装中の戦艦『フィーンディア・ビクセン』のこと。
「そういえば、母の遺品の中からおもしろいものをみつけたのだよ」戦艦の名前が引き金になったのか、カルラムが言い出した。
「なんですか?」
「口で説明するよりも、見せたほうが早いな」
 カルラムは指を上げて、給仕の一人を呼んだ。給仕はさっとやってきた。カルラムは小声で、その耳に何かをささやいた。給仕はうなずいて食堂を出ていったけれど、すぐに戻ってきた。銀色の盆を手にしていて、その上に何かの紙を一枚、大事そうに乗せている。白い紙だが、古びて黄色くなりかかっている。子供が絵を描いたりするのに使う画用紙らしいと気がついた。それが裏返しに伏せて置かれているようだ。
「これさ」給仕が盆を差し出すと、カルラムは画用紙を取り上げ、僕に向けて差し出した。でもまだ裏返しのままだから、何が書いてあるのかはわからない。
「なんです?」
「手に取ってみたまえ」
 僕は言われたとおりにした。手にして表をみるとやっぱり子供の描いた絵で、水彩絵具が使われている。線がガタガタで、色もあちこちはみ出していて、才能のある人物が描いたものとはとても思えない。描かれているのは人物の姿で、女の子のようだ。ピンク色の愛らしいドレス(と思われるもの)を着て、髪は肩にかかるぐらい長く伸ばしている。モデルになった人物と筆をとった人物の名が、下のほうにこれまたへたくそな字で書いてある。でもいちいち読まなくたって、この字を見れば、誰が描いたのかは間違いようがなかった。いつも毎日見ている字だから。こう書いてある。

  クスクス・ビクセン画伯によるフィーンディア王女の肖像。

 僕は少しあきれてしまった。この絵では画伯も何もありはしないが、記憶にはないけど僕の描いたものらしい。そういえば、親戚の誰かに送るからといって何か描かされたことがあったような気もする。七歳か八歳のころだ。それが今まで保存されていたわけだね。でも…
「どうしたね?」
 カルラムが言った。僕の様子が変わったことに気がついたらしい。僕はもうこの絵から視線を離すことができなくて、息だって止まってしまいそうだったけれど、なんとか顔を上げて返事をすることができた。
「いえ、なんでもないんです」
 僕とカルラムは、この後も食堂のテーブルで話しつづけたけれど、何を話したかなんて、僕はぜんぜん覚えていない。デザートがすんで、僕はカルラムと別れて、自分にあてがわれた部屋に引き上げた。水彩画は僕にくれるということだったので、僕は部屋にもってかえった。
 僕の前を歩いて廊下を案内しながら、ワシプウが不思議そうな顔で振り返った。
「どうかなさったのですか?」
 僕は黙って首を横に振ったけれど、ワシプウの不審そうな表情は消えなかった。
 それはそうだと思う。僕はものすごく大変な出来事に行き当たったような気がして、胸がどきどきしていたのだから。水彩画を最初に見せられてから一時間以上たっていたけれど、まだ動悸はおさまらなかった。
 部屋の中で一人になって、ベッドに腰かけて、僕は水彩画を眺めなおした。もしかして、この絵ももう変化してしまっているんじゃないかと半分期待し、半分恐れていたと思うけれど、絵にはさっきとは何の違いもなかった。絵の中の少女は、金色の髪をした姿で描かれていた。瞳だって、はっきりした水色だ。
 部屋の中にあった便箋とペンを使って、急に帰国してしまうことへのおわびの手紙をカルラムにあてて書いてワシプウに預け、僕は翌朝早く出発した。突然指示をしたのだけど、スタウはなんとか列車を手配してくれた。日が高くなるころには、僕はサウカニアンを離れていた。
 客車の個室に閉じこもって、僕は何度も絵を出してきて眺めた。国境を越えるときに特に気になったのだけど、ビクセン国内に入っても、絵の中の少女の髪は金色のままだった。瞳もそのままだ。
 それを確かめて、僕はため息をついた。安心してついたため息だったのか、そうではなかったのかは、今になってもわからない。列車は、昼前にビクセンシティーに到着した。
「フィンはどこ?」
 王宮について、僕はすぐにたずねた。マーガが教えてくれた。
「図書室で調べ物をしておいでです」
 くるくると丸めた絵を持ったまま、僕は廊下を走っていった。すぐに塔につき、らせん階段を駆け上がっていった。
 図書室の扉は開いたままになっていた。中に飛び込むと、足音に気づいて母が振り向いた。
 母は一人だった。書棚のそばに立ったまま、本を読んでいた様子だ。手の中に、古びて黒っぽくなった革表紙の本がある。パタンと音を立てて、母はその本を閉じた。僕のほうへ向かって歩きはじめながら、母はその本を書棚に戻した。
 このあと起こったことを思い出すのは、正直に言って、僕はあまり気が進まない。
「こんなものを見つけたよ」
 駆け寄りながら、僕は水彩画を広げてみせようとした。その様子がとても無邪気だったのだと思う。母はかすかに微笑んだようだった。
 僕は母の前に絵を差し出し、母は目を落とした。
 母の瞳は一瞬、意味がわからぬというように絵の表面を滑っていた。それから、不意に意味に気がついたようだった。
 母の表情が変わったので、なんだろうと思って、僕は絵のおもてを見た。でも何も変わってはいなかった。ピンクのドレスを着て、金色の髪をした女の子の姿だ。
 母がふっと笑ったような気がした。顔を上げると視線が合った。母の口が動いた。
「こういう結末だとはな」
 何のことを言っているのか、僕にはわからなかった。
「どういうことなの?」
 音にならないぐらいごくかすかなため息を母はついた。それを聞いて、なぜか身体から力が抜けてしまって、絵は僕の手からぽとりと床に落ちてしまった。僕は母を見つめていた。あと何秒もしないうちに母は口を開き、何かを言うのだろうけど、僕はその瞬間がとても恐ろしいような気がした。母のその言葉を聞きたくない気がした。その言葉から永久に逃げつづけたいような気がした。
 母が指で、僕のほおにそっと触れた。不意に涙が出てきたので、僕は指でぬぐった。母の前では、そういうことだって恥ずかしくは感じられなかった。
 母は、床に落ちている絵に目を落とした。絵はおもてを上にして、金色の髪をした少女の姿を見せている。母の口が動いた。
「私の力も、この世のすみずみまではおよばなかったと見える。その絵を中心にして、私が作り上げたものは急速にほころびていくのだろう。ほら、もう始まったようだ」
 母は片手をあげ、指を見せた。そこには結婚指輪がある。かまくびを持ち上げたヘビの形をしていて、目の部分には、直径五ミリぐらいの石がはめ込んである。僕は母の手を取り、顔を近づけて眺めた。
「石が青みがかりはじめている」母の声が聞こえた。
 たしかにその通りだった。この石は、もともとは青い色をしていた。だけど母が現れた日から、ミルクのように白く変わってしまっていた。でもそれが今は、ところどころふたたび青くなりはじめていたんだ。まるで、空をおおっていた雲が風に吹き散らされるみたいにして。
 ひゅううっと、風が雲を吹き散らす音が聞こえてくるような気がした。石は、どんどんブルーに変わっていった。まきちらされた砂粒のように、最初はその表面にぽつんぽつんとあるだけだった淡い水色の点々が、しっかりした水色になり、春の海の色になり、最後は強い青に変わった。そうしながら面積をどんどん広げていき、ついに全体をおおって、ひとつの青い石になってしまった。青い球体だ。僕は顔を上げた。
 だけど、僕は母と目を合わせることはできなかった。もう母はいなかった。石と同じ色の瞳をして、金色の髪をした妻が、僕に手を取られて、恥ずかしそうに見つめかえしていた。僕と目が合ったことに気づいて、妻はそっと微笑んだ。
「フィン」僕は小さな声で言った。
「はい」もう一度にっこりして、妻は答えた。やわらかいが通りのよい、あのなつかしい声だ。母の声だって、僕はとても好きだったが。すぐに気がついたのだけど、帽子の階級章も元の色に戻っていた。
 気づかれないように注意しながら、僕はそっとため息をついた。母に会うことはもう二度とないのだとわかったから。僕は妻に微笑みかけ、手をつないだまま図書室から連れだそうとした。妻は、もちろんおとなしくついてきた。もうすぐ昼食の時間だったので、食堂へ行くことにした。
 歩きながら、僕は何度か妻を振り返った。そのたびに気づいて、妻も見つめ返した。以前と同じように、妻は本当に愛らしかった。本当の話、ドレス姿だったら、これがビクセン軍総司令官だとは誰も思わないだろう。
 このとき、僕は何を感じていたのだと思う? 
 僕は、中庭で見かけたあの猫のことをまた思い出していたんだ。猫の親子だ。母猫は、とても誇らしげに子猫を見やっていた。でも、母猫だって永久に生きるわけじゃない。順番から言えば、子猫よりも先に死ぬだろう。それに、それよりももっと早く、子猫は親のもとを離れていくだろう。
 そう、僕があなたに話す物語は、これでおしまいだよ。あんまりあっけない終わり方かもしれないけれど、本当にこうだったのだから仕方がない。
 翌朝になって、廊下で思いがけずハニフに出会ったとき、僕は本当に驚いた。でもすぐに気がついて、確かめに行ったらやっぱりそうだったのだけど、ハニフの部屋があったあの増築部分も元通りに姿を現していた。中庭に立って、ぽかんと口を開けている僕の目の前に、平気な顔で太陽の光をはね返しながらたっていた。
 廊下で出会ったハニフは、僕を見てすぐににっこりした。
「おはようございます、クスクスさま」
「うん、おはよう」
 僕は立ち止まって、ハニフを見つめ返した。ハニフは少し不思議そうな顔をした。
「どうかなさいましたか?」
 少しためらったけれど、僕は口を開くことにした。「黒王妃のことなんだけど…」
「それがどうかしましたか?」
「あんたはまだ怒ってるの?」
 今度こそハニフは、わけがわからないという顔をした。「なんですって?」
「だから…」僕はもごもご言った。「母がこの世に戻ってきて、それから…」
「クスクスさまの母上は十五年も前にお亡くなりになっています。戻ってこられるはずがありませんが?」
「そうだよね」これ以上言っても仕方がないと思ったから、僕はにっこり笑うことにした。「変な夢を見ていたような気がする」
「夢をご覧になったのですか」ハニフは笑いはじめた。
「うん」まったくのうそだったのだけど、僕はうなずくことにした。
「そういえば私も、昨夜は奇妙な夢を見ました。フィーンディアさまの御髪が黒く変わり、黒王妃になっているのです。その黒王妃が世界を征服しようとするので、私は屋上で対決することになりました」
「それで、どうなったの?」
「覚えておりません」ハニフは笑った。でもその表情は、どこかごまかしているところがあるような気がした。何をどうごまかしているのか、きっとハニフ本人も気がついていなかったのだろうけど。
 ハニフと別れてから、僕は一人で肖像の間へ行き、そのあと資料室へも行って新聞を調べた。法律の原本も調べた。そのすべてが、妻の姿やサインに戻ってしまっていた。
 こうやって、短い間だったけれど、母と一緒にいた日々は終わってしまった。母はもう永久に戻ってこないだろうと思った。
 母といて幸せだったのか、自分でもよくわからなかった。母は幸せそうに見えたけれど。僕のそばで、母はそれこそ生き生きとしていたから。死者にとって、ふたたび生を生きるというのは、二千年待つだけの値打ちがあることなのかもしれない。
 だけど、母といた間は僕は不幸だったのかもしれないという気がした。母に引きずられて、あちこち引っ張りまわされただけだったと思うから。だから正直に言って、僕は少しほっとしていた。やっと母の手から逃れることができたのだという気がした。もちろん母には悪意はなかったのかもしれない。自分が経験したのと同じ楽しみを息子に与えてやりたかっただけなのかもしれない。
 数日後、時間を見つけて、僕はビーカー学園の女校長に会いに出かけた。予告も何もなく出かけたのだけど、校長はすぐに会ってくれた。またスタウがオートバイに乗せていってくれて、僕が校長と会っている間、校舎の外で待っていた。僕は一人で校長室へ入っていった。
「クスクス殿下、お久しぶりですね」僕の顔を見て、すぐに校長は言った。
「はい、校長先生」
 僕が顔をまっすぐに上げて、はっきりとした口調でそういったので、校長は少し驚いた顔をした。このときの僕はきっと、以前とは別人のように見えていたのだろう。校長は両目を大きく見開き、僕を見つめ返した。そうすると、もっとアナグマみたいな顔になる。でも校長の表情から、それは不快な驚きではないように見えた。それは僕にもわかっていた。
「今日はどういうご用件なのですか?」校長は微笑んだ。
 僕は黙ったまま、壁際の小さなイスを指さした。あれほど大嫌いだったイスだ。校長はふたたび驚いたような顔をし、「ええ、もちろんおかけください」と言った。
 僕は腰をおろし、すぐに口を開いた。
「黒王妃の息子のことを、何か知っていたら教えてくれますか?」
 校長はにっこりした。「殿下は私よりも立場が上の方ですから、そんな言葉づかいをされる必要はないのではありませんか?」
「そうでもありませんよ」僕は笑った。座ったばかりだったのにもう立ち上がって、窓に近寄って、外の景色をのぞき込んだ。向こうのほうにオートバイが止めてあって、そばにスタウが退屈そうに立っているのが見えた。そこは中庭のすみで、木がいくつか植えられて、気持ちのよい木陰が作られている。でもスタウには、木も植物も木陰の美しさもどうだっていいのだろう。火薬と弾丸と鉄の車体にしか興味のない男だ。僕は指を上げて、そのスタウを軽く指さした。校長も立ち上がって、その方向を見た。
「殿下の部下の方ですね。あの方がどうかしたのですか?」校長は言った。
「この間、僕はあいつの手で塔の中に閉じ込められました。一時間近く出してもらえませんでした。僕の立場なんて、そんなものですよ」僕はふたたびイスに座った。
 校長は面白そうに笑った。「そんなことがあったのですか」校長もイスに座った。「それで、黒王妃の息子のことがお知りになりたいのですね」
「はい」
「でも二千年前のことですから、伝説として伝わっていることしか私も知らないのですよ」
「ええ」
「二歳になる前に死んでしまうのですが、黒王妃は息子をとてもかわいがっていたそうです。冷たく恐ろしい女王が、息子の前では、ごろごろとのどを鳴らす猫のようだったそうです。玉座に座りながら、いつも息子をひざに乗せていました。息子がひざの上で眠り込んでしまうと、広間から人払いをし、抱いたまま何時間も二人きりでいたとか。
 それがある日、息子はちょっとした風邪が原因であっけなく死んでしまいました。黒王妃の悲しみはとても深いものでした。息子の死が信じられず、むくろをかかえたまま町中を歩き回って、病を癒すことができる者を三日三晩探し回ったそうです。もちろん見つけることはできませんでした」
「息子の名はなんといったんですか?」
 でも校長は何も答えず、黙ってしまった。僕は待っていたが、何秒もたってからため息をつき、とうとう校長は言った。
「クスクスといいました」
 校長は顔を上げて僕を見つめ、続けた。「とても不思議な気持ちがします。いま私の目の前には、同じ名をお持ちの殿下がいらっしゃるわけですから。そして殿下の奥様の名は、黒王妃と同じフィーンディアですね」
 話を聞かせてもらったことへのお礼を述べて、僕は校長の部屋から出てきた。校長は、黙って僕を見送った。
 僕の姿を見ると、スタウはすぐにオートバイのエンジンをかけた。もう夕方で、ビクセンシティーの道路は混雑が始まりかけていた。道路に出て、どかどかいうエンジンの音を聞きながら、オートバイの上から僕は町の様子を眺めた。
 僕は妻のことを考えていた。ここは妻が統べている国であり、これは妻の町だ。同時に、二千年前に母が築いた町でもある。僕は、自分はまだ母の手のひらの上にいるのかもしれないという気がしてきた。二千年前、まだ二歳にもならなかった僕がそのひざの上にいたのと同じように。
 僕は、母の手から永久に逃れることができないのかもしれない。母が、自分の身代わりとして、同じ名の娘を妻として僕の隣に配置したのでないと、どうして言える? 空にフサルクというオレンジ色の大きな星を配置したのと同じように。空のすべての星の配置を作り変えてしまったのと同じように。
 うん、きっとそうなのだろう。この世が終わるときまで、僕は母の幼子なのだろう。母は今も、妻の瞳を通して僕を眺めているのだろう。これまでずっとそうやってきたのと同じように。
 だけど僕は、それが嫌だと言ってるんじゃない。
 ドコドコドコ。
 ずっと同じ調子で、オートバイのエンジンは回り続けている。スタウがハンドルを切ってあるカーブを曲がると、王宮の建物が高くそびえているのが目の前に見えてきた。いつもと同じように四角い、そっけない姿だ。でももう僕は、それを犬小屋のようだとは感じなかった。たしかに僕は、自分でそうあだ名をつけたのだったが。
 石灰岩の城壁が夕日を赤くはねかえしているのを見上げながら、くすぐったいような幸せな気分を感じはじめていることに僕は気がついていた。

(終)

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