ヨハンナ・シュピリ『ハイジ』②

文字数 5,044文字

 作者ヨハンナ・シュピリは、スイスのチューリッヒ湖畔にあるヒルツェル村で生まれた。ヨハンナの父ヨハン・ヤーコプ・ホイサーは医師、母マルガレータは詩人、母方の祖父ディートヘルム・シュヴァイツァーは牧師だった。

 ヒルツェル村の教会の牧師の娘マルガレータ、通称メタは、結婚して六人の子供を産み、子育てのかたわら、深い信仰心から湧き出る美しい詩を書いていた。
 メタの最初の詩集は匿名で出版されたが、二番目の詩集は彼女自身の名前で出版された。彼女が書いた詩の一部は、のちにプロテスタントの讃美歌集の歌詞として採用されたという。
 こうした家庭環境で成長したヨハンナの心のなかに、母メタから受け継いだ信仰という芽がだんだんと育っていったのは、ごく自然なことだっただろう。

 ヨハンナは村の国民学校で初等教育を受けながら、祖父の後任として村に赴任した牧師ザロモン・トープラ―の個人授業も受けていた。ザロモン・トープラ―牧師は進歩主義者であり、ヘーゲル派の神学者ダーフィト・シュトラウスを擁護する立場をとっていた。(※1)
 十四歳のときにヨハンナは学校へ通うためにチューリッヒに住む叔母の家に引っ越し、イヴェルドンの寄宿学校に二年間通って、フランス語を学んだ。
 学業を修めて故郷に戻ったあと、ヨハンナは二十五歳のときに弁護士のベルンハルト・シュピリと結婚し、再びチューリッヒに居を移す。
 当時のチューリッヒでは作曲家リヒャルト・ワーグナーが亡命生活の真っ最中で、ベルンハルトはワーグナーの親しい友人の一人であった。

 結婚から三年目に長男ベルンハルトを産むが、ヨハンナは妊娠中に重いうつ病を発症し、産後も長年にわたって苦しみ続けることになる。
 ヨハンナが書いた児童書が公に発表されたのは1878年のことで、詩人であった母親と同じく、最初は匿名での出版だった。
 物語の中でハイジがこころの苦しみを誰にも打ち明けられず、しだいに思いつめていく様子が非常にリアルに描かれているが、これは作者ヨハンナの実体験を投影したものなのかもしれない。


 神に祈り、その祈りが聞き届けられないからと祈るのをやめ、やめたあとで神を疑ったことを悔い改め、また一心に祈り、やがて心から神を信頼し、感謝するに至る。このようなハイジの信仰獲得の過程は、まさに「放蕩息子のたとえ」を体現したものである。

「放蕩息子のたとえ」において、「父」とは神のことであり、「父」である神のもとから逃げ出した「放蕩息子」とは、神を疑ったり、神を忘れたりしたわたしたち自身のことを示している。
 祈るのをやめたと言うハイジに、ゼーゼマン老婦人は「神さまは、わたしたちみんなの良きお父さまなんですよ」と教え諭した。
 自分勝手に出ていった「息子」が帰ってきたら、思わず駆け寄って抱きしめて頬にキスをし、息子の帰還を祝って盛大な祝宴を開くような「父」。
 作者ヨハンナは、ハイジにこのたとえ話を読ませることを通して、おさない読者に「神さま」というのは、そんな無償の愛にあふれた父親のような御方なのだと伝えているのだ。


 この「放蕩息子のたとえ」というテーマは、実は物語の冒頭から提示されていた。ハイジの叔母デーテが最初に語った「アルムのおじさん」の半生は、兄と弟の立場が逆であるという違いがあるものの、父の家を飛び出した「放蕩息子」とぴったり重なる。
 
 家へ帰ったハイジは「毎日お祈りして神さまに感謝する」ことを決め、「毎日いっしょにお祈りしよう」と祖父に提案した。
 それに対して祖父は「もしもお祈りを忘れたら、どうなる?」とハイジに尋ねる。ここで言う、祈ることを忘れた人とは祖父自身を指している。
 自分から神のもとを去ってしまったら「後もどりは誰にもできない」と祖父は言って、「神さまに一度見捨てられたら、ずっと見捨てられたまま」なのだと語り、ハイジの提案を拒絶しようとした。

 投げやりな祖父の言葉にハイジは「おじいちゃん、そんなことないって。もどることもできるんだよ」と答える。そして、フランクフルトから持ち帰った聖書物語の本を取り出し、自分が何度も繰り返し読んだ「放蕩息子のたとえ」を祖父に読み聞かせた

 フランクフルトのお屋敷でハイジがこのたとえ話を自分の物語として読んだように、祖父も「放蕩息子」に自分の人生を重ねて、朗読に聞き入る。
 祖父はもともと、近隣で一番立派な農場を持っていた家の生まれで、教育も受けていたため、もちろん、この「放蕩息子のたとえ」も一般常識として知っていたはずだ。
 しかし、ハイジが生き生きと語り聞かせたとき初めて、祖父にとってこのたとえ話は単なる知識ではなく、自分の物語になったのだろう。

 ハイジから「放蕩息子のたとえ」を聞かされた夜、ハイジの寝顔を見ながら、祖父は大粒の涙を流して、神に立ち返るのである。
 翌朝は日曜日で、教会の鐘の音が谷に響きわたっていた。すんだ目をした祖父は「よそゆきを着なさい。いっしょに教会へ行こう!」と叫び、ハイジを連れて山を下り、村の教会の礼拝へ行くことを決心する。
 ハイジの手をとって山を下りるにつれ、すんだ鐘の音が大きく豊かに響いてくる。ふもとの村の教会ではすでに人々が集まっていて、讃美歌を歌いはじめていた。

 礼拝に出席した後、祖父は牧師館を訪れ、かつて山小屋で自分が牧師に対して言った言葉を謝罪し、山を下りてハイジを学校へ行かせることを約束した。
 祖父がハイジと一緒に礼拝に出席することで、牧師や村人たちから再び受け入れられる場面は、物語全体の中で一番感動的に描写されている。

 祖父は「神さまやみんな」が自分を軽蔑し見捨てたのだと思いこんで、教会からも村からも離れて孤独に暮らしていたが、本当は祖父自身が「神さまやみんな」を軽蔑し見捨てていたのだった。
「放蕩息子」が帰ってきたとき、父親は「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(ルカによる福音書 15章23節)と言って喜ぶ。
 イエスは当時の社会で「罪人」とみなされた人々を含む大勢の聴衆の前で、この「放蕩息子のたとえ」を語っている。

 村人たちみな、久しぶりに顔を見た「アルムのおじさん」と話したがり、二人を見送るために山のだいぶ上の方までついてきた。祖父はすぐに山小屋へ帰らず、村人たちが山を下りてそれぞれの家路につくのを、じっと見送った。
 その祖父の顔には、「まるで内側からお日さまが照らしてくれている」かのように、暖かい光が宿っていた。(※2)

 最初に出版された『ハイジの修行と遍歴の時代』では、この第14章「日曜日、教会の鐘が鳴って」が物語のクライマックスであり、ここまでで完結した作品だった。
 作者ヨハンナは、「放蕩息子のたとえ」を物語のたて糸として配置し、ハイジや祖父やゼーゼマン老婦人などのよこ糸を入れて、最初から最後まで緻密に織り上げている。
 この作品は、ハイジが信仰を獲得するまでの成長物語であるとともに、ハイジの素朴な信仰心に導かれた祖父の「生き返り」、すなわち信仰への復帰、共同体への復帰を描いた物語だと言える。


 読者からの手紙や出版社の要望に応えて書かれた続編『ハイジは習ったことを役立てることができる』では、「修行時代と遍歴時代」を経て内面的成長を遂げたハイジが、さらに多くの人々を幸福に導く天使のような役割を担っている。
 ハイジは讃美歌を歌ってペーターの祖母の心をなぐさめ、娘を亡くしたばかりで悲しむ医者の心をなぐさめ、クララの足のリハビリにつきそう。

 本編の結末で社会復帰を果たした祖父はと言えば、続編では経験豊かで思慮深い人物に生まれ変わっていて、ハイジとともに人々を幸福に導く役割が与えられている。
 祖父は戦地での看護経験を活かしてクララのリハビリを助け、ゼーゼマン老婦人から信頼され、クララの主治医と素晴らしい友情を築く。
 ハイジのなぐさめで娘を喪った悲しみから立ち直った医者は、ハイジを養女に迎えることを希望し、祖父が心から医者に感謝し、ハイジの将来を託して堅い握手を交わし物語は終わる。(※3)

 歩けなかったクララが歩けるようになった日の夜、ハイジとクララは神に祈ることの意味について語り合った。
 ハイジはフランクフルトのお屋敷にいた頃、「今すぐアルムへ帰してください」と一生懸命お願いしたが、神さまはそれをかなえてくださらない。だが、あのときすぐにアルムへ帰っていたら、クララと十分な友情を育んだとは言えず、クララがわざわざアルムを訪れることはなく、ハイジの介助で歩けようになることもなかった。
 このように考えて、ハイジはクララに言う。

いいことクララ、欲しいものが手に入らなかったとしても、神さまが願いを聞いてくださらなかったと考えてはいけないし、お祈りをやめてはいけない。そのときは、こうお祈りするのよ。神さま、神さまは何かもっといいことをお考えなのですね。どうか何もかもいいようにおはからいくださいってね。(※4)

 この言葉は、かつてハイジがお祈りをやめたと言ったときにゼーゼマン老婦人から教え諭された言葉を、ハイジなりに言い換えたものだ。
 ペーターの祖母に讃美歌を読み聞かせたエピソードでも、「あたしが嘆いていたとき、すぐに願いを聞いてくださらなくてよかった」とハイジが思い返す場面がある。
 もしハイジの願いがその場ですぐかなえられていたら、ハイジは字が読めるようにならず、ペーターの祖母に讃美歌を読んであげることはできなかった。祖父に「放蕩息子のたとえ」を読み聞かせることもできないため、祖父の社会復帰を導くこともなかっただろう。

 善いことも悪いこともすべてが神さまのみわざであり、苦しいときはすべてを神さまにお(ゆだ)ねし、じっと我慢して待っていれば、きっと神さまがよくしてくださる。
 このような作者ヨハンナの考え方は、神を信頼するゆえの楽観主義とでも言えるものである。
 ここで忘れてはならないのは、作家が順風満帆な人生だったから楽天的であった、というわけではないということだ。
 二十八歳でうつ病を発症したヨハンナは、その後も長期にわたって苦しんだ経験を持つ。

 先の見えない長い暗闇のなかを歩んできたヨハンナにとって、信仰はまさに内側から自分を照らしてくれる「お日さま」のようなものだったはずだ。
 彼女が四十四歳のときに、デビュー作『フローニの墓に捧げる一葉』が匿名で出版された。
 ヨハンナが五十七歳のときに長男が病死し、夫は息子の死のショックから立ち直れず、後を追うように同じ年に死去した。ヨハンナは悲しい現実を生き抜き、七十四歳で亡くなるまで粘り強く執筆を続け、長編、短編あわせて約五十編の作品を発表した。
 ひたすら神を信頼していれば、いつか道が開けるという暖かい希望の光を読者である少年少女たちに与えるのが、ヨハンナの書く物語の特徴である。

 わたしたちは神を信頼し、祈り、感謝することによって、あらゆる苦境や困難に耐え、乗り越えることができる。たとえ神を忘れ、離れてしまったとしても、わたしたちは神に立ち返ることが出来るし、神はいつでも(ゆる)し、受け入れてくださるということを『ハイジ』を通してヨハンナは読者に伝えている。




※1 ダーフィト・シュトラウスは、12歳でブラウボイレンにある神学校に送られ、テュービンゲン大学に進学。ラテン語、ヘブライ語、歴史学の教師の資格を得た。ベルリン大学で自由主義神学の祖と評されるフリードリヒ・シュライアマハー教授の講義を聴講し、影響を受ける。1832年にテュービンゲン大学の講師に就任し、哲学の講義を行う。27歳のときに、福音書に記された奇跡を否定する内容の『イエスの生涯』を出版し、センセーションを起こした。

※2 アニメでは、ゼーゼマン老婦人から信仰を教えられるエピソードが省かれているため、ハイジが祖父に「放蕩息子のたとえ」を読み聞かせるエピソードも省かれ、祖父が悔い改めて涙する場面も省かれ、二人で教会に行く場面も省かれている。

※3 アニメでは、フランクフルトの医者が娘を失ったばかりという設定が省かれているため、ハイジになぐさめられるエピソードも省かれ、医者がスイスに移住してハイジを養女に迎える結末もなくなっている。

※4 ヨハンナ・シュピリ『アルプスの少女ハイジ』遠山明子訳、光文社古典新訳文庫、第22章。
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