第6話
文字数 3,244文字
騒がしい教室を制するように、キーンコーンカーンコーン…と、特有のイントネーションのチャイムが鳴った。
チャイムが鳴った瞬間、一昔前のタイムセールみたいに、クラスメイトたちは一斉に移動していった。
さっきまで満杯に満たされていた教室が、一瞬で空間ができるこの瞬間はちょっとだけ好きだ。
私もカバンから、購買で昼ご飯を買うための財布を用意しようとして、中を探る。
しかし、手には何の感触もしなくて、つるりとしたカバンの生地の感じしかわからない。
覗いてみても、中には何もなかった。
さあ、っと、体の深い部分が冷めていく。
どうしよう。どこかで落とすなんてことはありえない。財布の中には、美咲さんから1ヶ月分の昼食代が入っている。
それがなくなったなんて、とてもじゃないが言えない。
なくなった訳があるとしたら…
そう思ったとき、後ろからコツっとした少し地面を叩くような足音が聞こえた。
「もしかして、これ探してる?」
振り向くと、にんまりと横に引き伸ばしたような気分の悪い笑顔を浮かべながらハルカが近づいてきた。
その左手には、先っちょをつまむように掴んだ私の財布があった。
チャックの部分には鍵がモチーフになっている、ちいさな子供向けのキーホルダーが可哀想に揺れている。
反射的に「返して」といつもより大きな声が出た。
でも、そんなことをしても無駄で、
「そんなに大切なの?これ。大切なものならもっと大事にしとかなきゃ。」
ブラブラと財布を振って、ハルカは軽々しく言う。
どうしてそんなことが平気で言えるのだろう。
ハルカの笑顔が、不気味に思えて、思わずゾッとする。
ハルカは私のそんな表情を満足気に眺めると、踵を返して去っていってしまった。
誰もいなくなった廊下で、一人残されて、ぺたりと膝をついた。
床は冷たくて、鳥肌が立った。
いつまでもここにいても何も変わらず、財布が返ってくるわけでもない。
そう思い立ち上がった。
幸いにも、4月はもう数日で終わるから、財布の中に入っている金額も少ない。仮に帰ってこなくても、数日間昼食がなくても平気だ。
なんだか胸が誰かに握られてるようで、息が苦しい。
私はとりあえず、図書館に行くことにした。
図書館は、私がよく昼休みに行くところだ。
特別本が好きなわけじゃないが、図書館はいつも人が少なくて、あの、本のインクのような、ちょっとかび臭いけれどバニラのような、甘い匂いが好きでよく行く。
階段を登って右に曲がり、ちょっと進んだところに図書館はある。
ガラリと、少し建付けの悪いスライド式のドアを開く。
するとすぐに、複数の視線を感じた。
ぱっと顔を上げると、そこには数人の生徒たちがこちらを見ていた。
たしか、ハルカと仲のいい人達だ。
いつも何人かのグループで移動していて、派手な子たちだといつも思っていた。
彼らの視線は鋭いわけではないが、私を上から下へ、じっとりと眺められる視線はものすごく不快で、私は誰かを探しているようなふりをしてそのままドアを閉めた。
胸がぎゅっと握られているような感じがする。
息苦しい。教室も、図書館も、学校も。
制服の首元のボタンを外しても息苦しさは変わらなくて、人のいない方へと逃げるように歩いていく。
そのうち、行き止まりにあたった。
右を見ると、屋上へつながる階段が続いている。
必然と、昨日のことが思い出される。
見じ知らずの私を助けた、あの不思議な人の白い、銀色みたいな光を帯びた髪が、瞼の裏に浮かぶ。
不思議と、吸い寄せられるように階段へと足が進む。
とん、とん、と小さな足音が四壁に冷たく反射し、いつの間にか、自分の足音以外の音が聞こえなくなっていた。
生徒たちが無駄に大きな声で笑う話し声も、誰かが廊下を駆け出す音も、今は聞こえない。
まるで、この世界に私一人だけが残されてしまったみたいだ。
階段を登りきり、屋上前の立入禁止の柵を乗り越え、屋上のドアに手をかける。
ドアにはわずかに隙間があり、そこからかすかに光が漏れている。
屋上のドアには鍵がかかっていて、普通は入れないのだが、鍵は劣化していて、少し前に引きながらドアをずらすと開けることができるのだ。
この静かで繊細な世界を壊さぬように、ゆっくりと、できるだけ音を立てずにドアをずらす。
ドアを開けた瞬間、差し込んだ光に目がやられる。
風が吹き抜けて、大きく息を吸い込んだ。
学校の中の、淀んだ湿っぽい空気とは違って、ここの空気は綺麗で、美味しい。やっと息ができた。
苦しかったのも、誰かに掴まれているような感覚も、もうしない。
まぶたを閉じていてもわかる眩しさに、慣れたと思い目を開ける。
目を開くと、そこには、あの人がいた。
ほろほろと降る太陽の光に照らされ、透き通って透明のように見える髪が、ふわりと風で揺れている。
まるで大きな絵画の中みたいな景色に、思わず息を呑む。
ゆっくりと、その人はこちらを振り返った。
澄んだ色素の薄い瞳が、私を貫いた。
薄紅色の唇が小さく動いて、「あ」と音を漏らす。その音は、小さく、けれど凛と辺りに響き、すっと空気に染み込んでいった。
「また会えたね」
子供みたいな、邪気のない人懐っこい笑みを浮かべる目の前の人に、思わず声が出なかった。
現実味のない目の前の景色に見惚れていると、くーっと、かすかな情けない音が響いた。
その音がなんなのか、理解するのに数秒を要したが、それが私のお腹の音だと気づいたときには、体がかあっと燃えるように紅潮し、とても彼と目を合わすことができず、前髪で表情が見えないようにと俯く。
ハハっと、炭酸水みたいな爽やかな笑い声が空に響いた。
「お腹すいてるの?」
そう言われて、更に頬が熱くなるのを感じた。
「えっと、今日まだ昼食食べてなくてそれで…」
ハルカに財布を取られたことはもちろん言えないので、尻すぼみしてしまったがなんとか言い訳をする。
すると、目の前に油っぽい照った茶色っぽい物体がずいと近づけられた。
よくわからず顔を上げると、そこには、ちょっとだけ悲しそうな、困ったような顔をしている相手がいた。
その右手にはコッペパンが握られている。
私が困惑して戸惑っていると、
「これ、良ければもらってくれない?購買で新しいのが売ってるって言ってたから買ってみたんだけど、あまり好きな味じゃなくて。」
そう言ってコッペパンの口をつけた部分をくり抜くように綺麗にちぎると、そのまま口に放り込んだ。
「でも…」と私が渋っていると、「どうせ捨てるのはもったいないし」と、半ば強引に私の手にコッペパンを握らせた。
仕方がないので、お腹も空いているし、ありがたくもらうことにする。
すると向こうは柵の方へ移動していって、地べたに座り込んだ。
そして、「おいで」と、自分の座ったところの隣をぽんぽんと叩いた。
しかし、地面はお世辞にも綺麗とは言えないし、制服が汚れるのが嫌だったので、仕方なくポケットからハンカチを取り出して、地面に広げた。
その上に座って、私は小声で「いただきます」といって一口コッペパンを食べてみた。
コッペパンは少しピンクがかった色味をしていて、桜の風味がする不思議な味だった。
たしかにこれは好みが分かれるかもしれない、と思った。
ちらりと横を見ると、私が食べやすいようにか、はたまた自分がそうしたいからなのか、文庫本サイズの本を広げている。
題名には、「羽のない僕たちは」と書かれていて、きれいな白い肌をした人が目を閉じて横たわっているイラストが書かれていた。
どんな本なんだろうか。少し気になったが、私はそのままコッペパンを食べた。
一応、「美味しいです。」と伝えると、相手は「よかった」とだけ言ってまた本へ視線を戻した。
強引に来たと思ったら、急に消極的になったり、不思議な人だ。
でも、深く干渉してこないこの距離感は、とても居心地が良いと思った。
チャイムが鳴った瞬間、一昔前のタイムセールみたいに、クラスメイトたちは一斉に移動していった。
さっきまで満杯に満たされていた教室が、一瞬で空間ができるこの瞬間はちょっとだけ好きだ。
私もカバンから、購買で昼ご飯を買うための財布を用意しようとして、中を探る。
しかし、手には何の感触もしなくて、つるりとしたカバンの生地の感じしかわからない。
覗いてみても、中には何もなかった。
さあ、っと、体の深い部分が冷めていく。
どうしよう。どこかで落とすなんてことはありえない。財布の中には、美咲さんから1ヶ月分の昼食代が入っている。
それがなくなったなんて、とてもじゃないが言えない。
なくなった訳があるとしたら…
そう思ったとき、後ろからコツっとした少し地面を叩くような足音が聞こえた。
「もしかして、これ探してる?」
振り向くと、にんまりと横に引き伸ばしたような気分の悪い笑顔を浮かべながらハルカが近づいてきた。
その左手には、先っちょをつまむように掴んだ私の財布があった。
チャックの部分には鍵がモチーフになっている、ちいさな子供向けのキーホルダーが可哀想に揺れている。
反射的に「返して」といつもより大きな声が出た。
でも、そんなことをしても無駄で、
「そんなに大切なの?これ。大切なものならもっと大事にしとかなきゃ。」
ブラブラと財布を振って、ハルカは軽々しく言う。
どうしてそんなことが平気で言えるのだろう。
ハルカの笑顔が、不気味に思えて、思わずゾッとする。
ハルカは私のそんな表情を満足気に眺めると、踵を返して去っていってしまった。
誰もいなくなった廊下で、一人残されて、ぺたりと膝をついた。
床は冷たくて、鳥肌が立った。
いつまでもここにいても何も変わらず、財布が返ってくるわけでもない。
そう思い立ち上がった。
幸いにも、4月はもう数日で終わるから、財布の中に入っている金額も少ない。仮に帰ってこなくても、数日間昼食がなくても平気だ。
なんだか胸が誰かに握られてるようで、息が苦しい。
私はとりあえず、図書館に行くことにした。
図書館は、私がよく昼休みに行くところだ。
特別本が好きなわけじゃないが、図書館はいつも人が少なくて、あの、本のインクのような、ちょっとかび臭いけれどバニラのような、甘い匂いが好きでよく行く。
階段を登って右に曲がり、ちょっと進んだところに図書館はある。
ガラリと、少し建付けの悪いスライド式のドアを開く。
するとすぐに、複数の視線を感じた。
ぱっと顔を上げると、そこには数人の生徒たちがこちらを見ていた。
たしか、ハルカと仲のいい人達だ。
いつも何人かのグループで移動していて、派手な子たちだといつも思っていた。
彼らの視線は鋭いわけではないが、私を上から下へ、じっとりと眺められる視線はものすごく不快で、私は誰かを探しているようなふりをしてそのままドアを閉めた。
胸がぎゅっと握られているような感じがする。
息苦しい。教室も、図書館も、学校も。
制服の首元のボタンを外しても息苦しさは変わらなくて、人のいない方へと逃げるように歩いていく。
そのうち、行き止まりにあたった。
右を見ると、屋上へつながる階段が続いている。
必然と、昨日のことが思い出される。
見じ知らずの私を助けた、あの不思議な人の白い、銀色みたいな光を帯びた髪が、瞼の裏に浮かぶ。
不思議と、吸い寄せられるように階段へと足が進む。
とん、とん、と小さな足音が四壁に冷たく反射し、いつの間にか、自分の足音以外の音が聞こえなくなっていた。
生徒たちが無駄に大きな声で笑う話し声も、誰かが廊下を駆け出す音も、今は聞こえない。
まるで、この世界に私一人だけが残されてしまったみたいだ。
階段を登りきり、屋上前の立入禁止の柵を乗り越え、屋上のドアに手をかける。
ドアにはわずかに隙間があり、そこからかすかに光が漏れている。
屋上のドアには鍵がかかっていて、普通は入れないのだが、鍵は劣化していて、少し前に引きながらドアをずらすと開けることができるのだ。
この静かで繊細な世界を壊さぬように、ゆっくりと、できるだけ音を立てずにドアをずらす。
ドアを開けた瞬間、差し込んだ光に目がやられる。
風が吹き抜けて、大きく息を吸い込んだ。
学校の中の、淀んだ湿っぽい空気とは違って、ここの空気は綺麗で、美味しい。やっと息ができた。
苦しかったのも、誰かに掴まれているような感覚も、もうしない。
まぶたを閉じていてもわかる眩しさに、慣れたと思い目を開ける。
目を開くと、そこには、あの人がいた。
ほろほろと降る太陽の光に照らされ、透き通って透明のように見える髪が、ふわりと風で揺れている。
まるで大きな絵画の中みたいな景色に、思わず息を呑む。
ゆっくりと、その人はこちらを振り返った。
澄んだ色素の薄い瞳が、私を貫いた。
薄紅色の唇が小さく動いて、「あ」と音を漏らす。その音は、小さく、けれど凛と辺りに響き、すっと空気に染み込んでいった。
「また会えたね」
子供みたいな、邪気のない人懐っこい笑みを浮かべる目の前の人に、思わず声が出なかった。
現実味のない目の前の景色に見惚れていると、くーっと、かすかな情けない音が響いた。
その音がなんなのか、理解するのに数秒を要したが、それが私のお腹の音だと気づいたときには、体がかあっと燃えるように紅潮し、とても彼と目を合わすことができず、前髪で表情が見えないようにと俯く。
ハハっと、炭酸水みたいな爽やかな笑い声が空に響いた。
「お腹すいてるの?」
そう言われて、更に頬が熱くなるのを感じた。
「えっと、今日まだ昼食食べてなくてそれで…」
ハルカに財布を取られたことはもちろん言えないので、尻すぼみしてしまったがなんとか言い訳をする。
すると、目の前に油っぽい照った茶色っぽい物体がずいと近づけられた。
よくわからず顔を上げると、そこには、ちょっとだけ悲しそうな、困ったような顔をしている相手がいた。
その右手にはコッペパンが握られている。
私が困惑して戸惑っていると、
「これ、良ければもらってくれない?購買で新しいのが売ってるって言ってたから買ってみたんだけど、あまり好きな味じゃなくて。」
そう言ってコッペパンの口をつけた部分をくり抜くように綺麗にちぎると、そのまま口に放り込んだ。
「でも…」と私が渋っていると、「どうせ捨てるのはもったいないし」と、半ば強引に私の手にコッペパンを握らせた。
仕方がないので、お腹も空いているし、ありがたくもらうことにする。
すると向こうは柵の方へ移動していって、地べたに座り込んだ。
そして、「おいで」と、自分の座ったところの隣をぽんぽんと叩いた。
しかし、地面はお世辞にも綺麗とは言えないし、制服が汚れるのが嫌だったので、仕方なくポケットからハンカチを取り出して、地面に広げた。
その上に座って、私は小声で「いただきます」といって一口コッペパンを食べてみた。
コッペパンは少しピンクがかった色味をしていて、桜の風味がする不思議な味だった。
たしかにこれは好みが分かれるかもしれない、と思った。
ちらりと横を見ると、私が食べやすいようにか、はたまた自分がそうしたいからなのか、文庫本サイズの本を広げている。
題名には、「羽のない僕たちは」と書かれていて、きれいな白い肌をした人が目を閉じて横たわっているイラストが書かれていた。
どんな本なんだろうか。少し気になったが、私はそのままコッペパンを食べた。
一応、「美味しいです。」と伝えると、相手は「よかった」とだけ言ってまた本へ視線を戻した。
強引に来たと思ったら、急に消極的になったり、不思議な人だ。
でも、深く干渉してこないこの距離感は、とても居心地が良いと思った。