第18話

文字数 2,109文字

キーンコーンカーンコーン…とチャイムがなった。
 それはクラスの行動を制限するもので、私にとっては安全地帯みたいなものだった。この間だけは誰からも何もされない。
 クラスメイトたちのまだ話していた数人たちが「やばっ」と、慌てて席につく。
 私はなんとかチャイムが鳴る前に席に座ることができたが、机の表面にはほんの少しだけ水が残っていて、雑巾が机の上を滑った繊維の跡のように小さな粒が無数に並んでいる。
 それもすぐ乾くだろう。そう思い私は前をただぼうっと見て担任の先生が入ってくるのを待った。
 チャイムがなった後だとしても、先生が入ってくるまでは移動範囲が机に縛られるだけで、クラスメイトたちは楽しそうに会話を続けていた。
 昨日こんなことがあったんだとか、流行りの動画がなんだとか…大抵、いや9割方の会話はこれで成立すると言ってもいい。
 もちろん会話にケチを付けるわけじゃないが、面白みのない会話で無駄に大声を出さないでほしい。
 ふと自分の手のひらを眺めて、爪が伸びてきたなとぼんやり思う。
 いじめで変わったのは周りだけじゃないのかもしれない。
 中学生の時は、ここまで目立ったイジメはなかった。せいぜい陰口を言うくらいだ。それも少しすればターゲットは違う人に変わっていった。
 今みたいに馬鹿にでかい声で騒いでいても、中学の時の私は別になんとも思わなかった。
 でも、今は違う。なんだかな。
 きっと、いじめから全部、この空間、雰囲気全てが嫌いになってしまったんだと思う。
 もう何も聞きたくないし何も見たくない。
 無性に苛立ちとは違いピリピリしたものが湿疹みたいに腕に登ってくる。
 息が苦しい。
 小さな痛みで気がつくと、右手の人差し指を親指の爪でぐっと押し付けていた。
 人差し指は爪で押されているせいで黄色くなっている。私は親指の力を緩めることなくその一点を見つめた。
 親指の力を強めると、ビリビリするのとは違う痛みが熱を帯びる。
 少しだけ周りの音が静かになったような気がした。思考の何割かがこの痛みに割かれた感じ。
 押し続けるとだんだん指が冷たくなってきて、黄色が薄くなっていく。それでも私はそれを眺め続けた。
 すると、その時ドアからガラッと大きめの音がなって先生が入ってきた。
 その音でつい親指を人差し指から離してしまった。
 ページをめくるようにぱっと人差し指が黄色から赤色に変わって、真ん中には一層赤い爪の跡がくっきり残っている。
 人差し指が小刻みに震えている。
 机はとっくに乾ききっていて、腕を置いていたところだけがじっとりしている。
 「ホームルーム始めるぞー」
 先生はバサバサとたくさんのプリントを手で持っていて、いつものようにかごの中に入れてはいなかった。
 一瞬だけこの前の早退のことがフラッシュバックしたが特に何もなく先生はいつもみたいに教卓にバサリとプリントを乗せた。
 日直の挨拶もそこそこに、先生は何やら数枚のプリントを回してきた。
 私は一番前の席なため、先生からも割ったプリントを自分の分だけもらって後の人に回す。
 後ろの生徒は私を1ミリも見ること無くぶっきらぼうにプリントを受け取った。チクリと刺さるものがあったがいつものことなので気にせずにそっとそのトゲを抜く。画鋲を抜いたような穴がいくつかできていて、それを強くこすった。
 机に視線を流すともう人差し指の感覚は戻っていて、爪の跡も消えていた。
 さっきの痛みもなかったみたいで筆舌に尽くし難い気分に染まる。無意識に呼吸が遅くなって目が乾いたように冷たくなる。
 鼻から息を吐いて小さく首を振って、歪む視界を瞬きでピントを合わした。
 プリントが前から配られていくと、受け取った人から次々にわあっと待ってましたと言わんばかりに津波みたいにどよめきが教室を覆う。
 「今配ったやつは運動会についてのプリントだ。特に予定と競技については説明だけじゃなく自分でもちゃんと読んどけよ。」
 そういった先生の声は低く強いものだったが、クラスメイトたちの反応をみてどこか嬉しそうでもあった。
 皆の喜びの声が空中をこだましながら揺れ動いて耳に近づいてくるそれを私は振り払って、先生の説明も程々に手元のプリントを眺めた。
 運動会の予定、競技、当日の日程…。
 競技の欄には当日に実際に行う競技順で細かく競技名が記載されている。
 少しインクの匂いが薫るその文字をつっと指でなぞる。私やこのクラスがやるのは全部で4つ。徒競走、クラス対抗リレー、大縄跳び、玉入れ。
 「明日から特別日課が始まるから、委員長たちを中心に頑張れよ。」
 明日から。嫌にその言葉が耳に抵抗なく入ってくる。
 自然と中の黒いものを吐くようにため息が出たが、それは自分でも嫌なほどに周りを気にしてしまって誰にも見つからずに空に霧散した。
 特別日課は約2週間。先生の目があるとしても、徒競走の時みたいになにかされる可能性だって十分ある。
 肺の中の僅かな空気を吐き出しながら両手を輪郭から耳の方へと体重をかけてずらしていく。硬い質感の髪が指の隙間に滑り込んでくる。
 耳を覆った指の隙間から入ってくる汚い音が鼓膜に忍び込んできた。
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