三、カズの日記

文字数 5,606文字

 俺はカズを置いて、実家に戻ってきていた。本当は、カズをひとりにしたくはなかったのだが、父と母から大事な話があると言われたら、さすがに断れない。カズの死体が消えたことの言い訳はうまくついたが、呼び出しに応じないと返って怪しまれる。
 父さんと母さんは、深刻な顔でダイニングテーブルを囲んでいた。俺もイスに座ると、家族会議の始まりだ。議題はもちろん、消えたカズの死体について。
「一日経ったが、本当に貴文は何もわからないんだな?」
「うん。ごめん、俺も少し冷静さを欠いていた」
「謝るな。そりゃあ和音が生き返ったのが本当だったとしたら、驚いて当然だ」
「……和音が生きているってことはないの? ねぇ、貴文。あなた、生き返った和音を匿ってるんじゃない?」
「母さんは黙ってなさい。和音は死んだ。生きていたら自分から戻ってくるはずだろう」
「そんな、そんなこと……っ!」
 母さんは目をさらに真っ赤にさせて涙を流す。一番のダメージを受けているのは、母さんだ。大事な一人娘だったもんな。
 俺だって、本当なら母さんにカズを会わせてあげたい。でも……あいつは死体だ。三日間経ったら、どちらにせよ別れが来る。
「……はは」
「父さん?」
「いまだにお前の潔癖症は治らないんだな」
 ビニール手袋のまま、麦茶の入ったグラスを手にしたところで、父さんがぼそっとこぼす。
「もう五年も前の話なのか。あれは」
 父さんは語り始めた。俺が十二歳、和音が十歳のときの話を。
 ある冬の日。ちょうどインフルエンザが流行っていた時期のこと。父は仕事で不在。母は寝込んでいた和音のために、りんごやおかゆの材料を買いにスーパーへ出かけていた。
ふたりの代わりに看病していたのが俺。そこで俺は、体調の悪かった和音に、頭から吐瀉物をかけられた。もちろん病気だったから仕方のなかったことだ。あいつに非はまったくない。だけどそのあとが問題だった。
「インフルエンザをうつされたお前は、一週間どころか半月は寝込んでたな。あれはひどかった。潔癖症になったのもわかる」
「でもね、貴文。和音はいつも言ってたのよ。『お兄ちゃんをあんなにしたのは私のせいだ』って」
「あいつは悪くないよ。単に俺が克服できてないだけだ。俺は弱いな……」
 弱いよ、本当に。死体になったカズに、結局何もしてやれてない。あいつは俺と一緒に過ごしたいと言った。それなのに俺は、あいつに触れてやれたか? 頭をなでたり、手に触ることすらできない。あいつの触れたものは、あとで煮沸消毒しなくちゃとまで思うくらいだ。
「……警察に届けることにした」
「え?」
「死体が消えたんだ。何が起こったのかはわからないが、和音を探すことが俺たちにできる精一杯のことだろう」
「父さん……」
「母さんもそれで納得してくれた。このあと、事情聴取を受ける。貴文もそれでいいな?」
「う、うん」
 大丈夫だろうかと焦るが、顔に出してはいけない。セレモニーホールの防犯カメラには、きっと逃げ出す俺とカズが映っているはずだ。時間の問題。このままゾンビ姿のカズが見つかったら、まずいどころじゃない。どんな目にあわされるか……。
 それなら早く、あいつの心残りをすべて解決してやらないと。
「父さん、カズの部屋……入っていいかな」
「ああ。刑事さんたちが来たら呼ぶよ」
 父さんは泣き崩れる母さんを、ソファへ運ぶ。俺は久しぶりに二階にある妹の部屋の前に立つ。
 ドアを開けた瞬間、俺は声を失った。
 ――一年前とは大違いだ。俺が実家にいた頃、カズの部屋にはサッカー選手のポスターが張られていたし、ベッドカバーなんかもブルーだった。それが……パステルピンクで統一してある。いかにも『女の子の部屋』って感じだ。
 部屋の色彩だけじゃない。本棚に並んでいるのも、少年漫画ではなくお菓子の作り方や料理本、お弁当のレシピに変わっていた。他にも編み物や手芸の本もある。そのそばには、手編みと思われるグリーンのマフラー。編みかけのセーターも。
「どうなってるんだ? カズはずっと、男の子っぽかったじゃないか。もしかして、好きな男子ができた、とか?」
 それなら俺なんかと残った時間を過ごすより、その好きだった男子と一緒に最期のときを過ごさせてあげたほうがあいつにとっては……。
 ふいに胸がちくりと痛む。何をいまさら。この感情はとうに捨てたものだ。潔癖症だった俺に友達ができず、ずっとそばにいてくれたのがカズだから。たったそれだけで勘違いしていた感情。これは心のバグでしかない。
 頭を振ると、俺はデスクの一番上の引き出しを開けた。そこにはスマホが入っていた。そういえば、棺桶には入れられないからって、置きっぱなしだったんだっけ。
コードに接続すると、電源を入れる。写真フォルダにはたくさんのカズの思い出。それも意外なものが多かった。
女の子たちと制服姿でクッキーを焼いている写真。それに、プールで撮ったらしき水着姿……だったんだけど、俺は思わず二度見した。カズの胸がでかい。これ、画像を加工したとか? 何のために? さらに画像をスクロールさせる。
これは今年の体育祭のときの写真か? 体操着の上からでもわかる。やっぱりカズの胸は、他の女子より大きい。
「なんで……ずっとまな板だと思ってたのに」
 画像フォルダから、今度はアプリを見てみる。日記アプリ。これを読めば、本当のあいつがわかるかもしれない。
『四月二日 今日からスマホデビュー! ということで、日記を始めてみることにしました!』
 あいつらしい。どこも変なところはない。
『四月十日 今日は入学式! 高校生になったけど、お兄ちゃんと同じ高校に行けなかったのは残念。あそこ、偏差値高すぎ』
 カズは勉強苦手だったもんな。小さく笑いがこぼれる。下にスクロールすると、文章はまだ続いていた。
『でも、これでよかったんだよね。お兄ちゃんから離れないと。私は妹なんだから』
「え……どういう意味だ?」
 理解できない文章。それにいつも『ボク』と自分を呼んでいたカズが、『私』? どんどん日記を読み進める。
『四月十二日 初めてサラシを取って学校へ。みんないきなり胸が大きくなった! って驚いてた。お兄ちゃんは巨乳のロングヘアーの女の人が好きだから、今まで胸を小さく見せてたけど、その必要ももうないし』
 俺が巨乳好きだから、わざとサラシを巻いて胸を小さく見せていた? 意味がわからない。
『四月二十日 学校にも慣れてきた! 新しく好きな人を作らないと。私はお兄ちゃんのいい妹でいたい。それ以上は望んじゃダメだよね。だって、私のせいでお兄ちゃんは……』
 カズの望みって? あいつは何を望んでいたんだ?
 カズの心残りは、俺と一緒に過ごしたかったことだ。もしかして、それ以外にあいつには本当の心残りがあったんじゃないのか?
 緊張しているせいか、手袋が蒸れる。手汗をかいている証拠だ。画面にすっと指を滑らせる。
『五月四日 GWなのに、お兄ちゃんは実家には帰ってこないって。電車混むもんね。でも、久々に昔の写真見つけた!』
「昔の写真……あ」
 アプリに添付してあった画像に、俺は目を見開いた。ロングヘアーでスカートを履いたカズの姿。十歳のときのものだ。この写真を撮ったあと、あいつはインフルエンザにかかり、俺も潔癖症に……。
『お兄ちゃんが潔癖症になったのは、私の責任。だから、私はお兄ちゃんに恋心なんてもっちゃいけないんだ。だからあのとき、髪を切った』
「あいつ……そんなことを思ってたのか? だから髪も切って、胸もないフリを……」
 本当にバカだよ。自分の気持ちを押しやって、俺への想いをすべて断ち切るために、演技して。いや、本当のバカは俺か。あいつの想いにも気づかず、ただ日々を過ごしていただけなんだから。
 俺は必死に日記を読み進めていった。あいつの本当の想い、本当の願いをかなえてやりたい。それだけが、俺がしてやれるあいつへの償いだ。
『七月十八日』
 最後の日記。俺は唾を飲み込むと、画面を軽く押す。覚悟は決めている。この日、カズは命を――。
『お兄ちゃんが死んだ』
「えっ?」
 目を疑う。待て、おかしいぞ。この日死んだのはカズだ。俺が死んだ? じゃあ、今ここでカズのスマホを見ている俺はなんだ?
「――倉持貴文」
「月蜜……さん?」
 家でカズと一緒に待っているはずの彼女が、横に立っていた。今まで見たことのない、冷たい表情で。
「私は、あなたの死体を最初に発見した倉持和音と契約をした。あなたの死を無効化する代わりに、倉持和音の魂を奪うと」
「ま、待ってくださいよ! だ、大体なんで俺は自殺なんか……」
 黙ったまま、スマホを指さす月蜜さん。まだ続きがあるのか?
『昨日電話したとき、お兄ちゃんはおかしかった。潔癖症のことをクラスメイトからからかわれたって。お兄ちゃんは繊細だから心配してたけど、まさか命を絶つなんて……。全部全部私のせいだ。私がお兄ちゃんを潔癖症にさせた。ごめんね、お兄ちゃん。できることならお兄ちゃんの代わりに、私が……』
 嘘だ、嘘だ! 俺が自殺したなんて。しかもそのせいで、カズが死んだってことだろう? ずっと俺に気をつかって、自分の気持ちもすべて隠して、最後は俺のために自分が身代わりになったって……。
「あなたの魂を狩りに来たとき、和音と出会ったの。死神だと名乗ると、和音は自分の命と兄の命を交換してほしいって言ってきたわ。だから私はそのお願いを聞いて、あなたの記憶も一部消去した」
「だ、だったら今すぐ、俺とあいつの命を交換してくれ! 自殺したのは俺だ! あいつが死ぬことなんてない! あいつは……あいつは俺と違って生きる価値がある!」
「バカね。まだわからないの? あなたは妹に生かされたのよ。自分に生きる価値がないというなら撤回しなさい。和音はあなたこそ『生きてほしい人間だ』と、私に言ったのだから」
「っ! じゃあ……じゃあ、どうすればいいんだよっ!」
 もっと和音に優しくしてやればよかった。口を開けば、あいつをからかってばかりで……あいつの気持ちにも気づいてやれなかった! 何もしてやれず、自分のことばかり考えて……最後は自殺して、あいつを苦しめた! その上命まで俺は取り上げたんだ。こんなの、兄として、男として最低だ……! 誰よりも俺のことを思っていた和音を、俺は……。
 俺は急いで玄関に出て靴を履いた。両親が俺を止める声が聞こえたような気もしたが、関係ない。急いで電車に乗り込むと、和音が待っているはずのアパートに向かう。
 階段を駆け上ると、乱暴に扉を開けた。そこに待っていたのは――。
「和音? ……――和音っ! 和音っ!」
 テーブルに置かれたはずのハート型のクッキーが、床に散らばっている。和音は目を開けない。息は元からしていなかったが、さっきまで動いていたのに、今は。
「悪いけど、タイムオーバーね」
「タイムオーバーって! 猶予は三日間だろ! まだ日にちは……」
「命を入れ替えたことがバレてしまったら、そこで終わり。和音の魂は、もうここにない。私が回収することもできない」
「うそ……だろ。俺は、最期まで和音に何もできなかったのか?」
「ええ、本当に情けないお兄さんね。もう私もここに用はないし、立ち去ることにするわ」
「和音……和音ぇぇっ!」
 俺はそっとゴム手袋を脱いだ。冷たい肌。乾いた唇。今まで死体に触れるなんて、怖くてできなかった。また吐いてしまうんじゃないかって。それなのに、不思議と吐き気はない。あるのは、和音への想いだけ。
「俺も、和音が――」
 固くカサついた唇に、自分の唇を重ねる。
 ごめんな、和音。俺はなんにもわかってなかった。どんな気持ちで和音が俺に接していたのか。どんな気持ちで髪を切ったのか。一緒に作ったクッキーがハート型だった意味。部屋で見たすべてのもの。和音は弟なんかじゃない。誰よりも女の子らしくて、素敵な女性だったんだ――。
『お兄ちゃん、今更気づくなんて遅すぎ。ボク――私はちゃんとしたレディなんだからね!』
 目を閉じると、ロングヘアーで清楚なブルーのワンピースを着た和音の姿が浮かぶ。自然と涙がこぼれてきた。俺が……和音のすべてを奪ったんだ。
 もう一度、きつく和音を抱きしめる。冷たい身体。もう二度と、生き返ることはない――。
「……はぁ、ファーストキス、奪われちゃうとはなぁ」
「え? か、和音?」
 和音は静かに目を開けると、俺の涙を指で拭い、笑顔を見せる。
「あはは、どうしたんだろう? つっきーとの約束、破っちゃったはずなのにね」
 俺は思わず和音の胸に手を当てた。
「ま、待ってよ! お兄ちゃんの変態っ!」
「う、動いてる……」
「え?」
「動いてるんだよ! お前の心臓っ! 脈も……」
「それってどういうこと?」
「生き返ったってことだ! 今度こそ、本当にな!」
「うそっ! ど、どーしよう? ホントのホント?」
「ああ、マジだよ! 大マジ!」
「つっきーに感謝しなくっちゃね。ボクとお兄ちゃんの命を救ってくれたんだから」
「……そうだな」
 俺は和音のおでこに、自分のおでこをぶつける。だんだんと和音に温もりが戻ってくる。人の肌がこんなに温かいものだなんて、久々に思い出したよ。
「和音」
「なーに? お兄ちゃん」
「その……もう『ボク』って言うな。無理しなくていいから」
「……じゃあ……お兄ちゃんのことも、名前で呼んでいいかな」
「ああ」
「ありがと、タカくん! ――大好き!」

「あーあ。命の入れ替えに、禁忌だった反魂の法……私は消滅確定ね。でも……これでよかったのよね? もう、人が亡くなったことで悲しむ人たちを見ていたくなかったから。――さよなら、タカくん、和音」
 ――一瞬、声が聞こえた気がした。月蜜さん。あの人と今度会うときは、俺も和音も寿命を全うしたとき。それまでは――。

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