第1話

文字数 1,599文字

 三国峠へと続く山の麓に小さな集落があった。
 冬の上州は凍える風雪に閉ざされる。春の高原は一面にフキノトウが芽を出し、夏には渓流で岩魚が跳ねる。 
 龍一の父・中条源太はこの集落で生まれ、町の中学を卒業するとすぐに林業の世界に入った。
 腕が立ち十年もすると組頭となり、若い衆を連れて三国峠を越えた。越後の国の小料理屋で働いていた千尋(ちず)と知り合い、妻として迎えた。
 千尋は利根川源流の美しい自然に最初は喜んだが、ひび割れていく両の手を見詰め涙を堪えた。
 大酒飲みの源太は、一人息子の龍一が小学生になる年の冬、脳梗塞で倒れた。源太が寝込んでから家の暮らし向きは一変した。食べて生きるだけが生活のすべてになった。
 龍一も、祖父の源三郎について山や川に食糧を採りに出かけた。片足が不自由な源三郎は、龍一を川原に残すと奥深い山に入っていった。渓谷にはマムシやトカゲもいた。龍一は、愛嬌のあるトカゲと戯れながら岩魚を追った。
 川面が柔らかく陰るころ、源三郎が山菜の葉がはみ出した背負いかごを揺らして山から下りてくる。家路に向かう二人の背後で、赤く焼かれた雲が何層にも広がっていた。

「おーい、あいつトカゲ食ってるんだってよー」
 龍一は今日も学校で上級生に苛められてきた。龍一はそれがどういうことなのか最初はわからなかった。
 ある日、山から下りてきた源三郎が台所に立ち、足元の竹かごの底から何やら引っ張り出しては、まな板に包丁の音を響かせていた。
「爺ちゃん、何とってきたんだ?」
 龍一は、肩を丸めて手を動かす源三郎の背中に声をかけた。
「ああ、今はだめだ、来るんじゃない」
 いつもは優しい源三郎の目の奥に、怖い光が宿っていた。 
 龍一はふと、源三郎の足元で何かが動いているのが目に止まった。
 それは小さな蛇の尻尾のように見えた。急にいじめっ子の言葉が蘇り、まな板の上にあるものの姿が目に浮かんできた。吐き気を堪えながら外に駆けだした。
 源三郎は、炭焼きの傍ら食料にする山菜採りと息子の源太に精をつけるためトカゲを獲ってきた。しかし、町で肉や魚を買えない龍一の家では、それがタンパク質を摂る食料となっていった。
 不思議なことが起こった。龍一は、それまで半分小馬鹿にしながらじゃれていたトカゲに、畏敬の念を抱くようになった。自分の命に溶け込んでいるからかもしれない。
 半面、それを嘲笑ういじめっ子には敢然と立ち向かうようになった。まるでそれが乗り移ったように。
 千尋は、祖父の炭焼きを手伝いながら夫の面倒と家事一切を担った。動かない岩となった夫の体と格闘しながら、下の世話を粛々と繰り返している。床ずれでただれた背中を、優しくいたわっていた。父はいつも、声にならない声で、死に切れぬ我が身を呪っていた。

 近くの山林に、全国を渡り歩く伐採作業者のグループが、毎年夏の終わりやってくる。千尋もその助手のような仕事をもらい毎日午後から出ていった。龍一は一度、母につれられて伐採現場を見に行ったことがある。
 一人、若く精悍な顔つきをした男が目に留まった。引き締まった腰に、鉈をぶら下げている。主任と呼ばれている男は、重そうなチェーンソーを軽々と扱い、太い杉の木を次々と倒していった。
 男は、倒れた木にひらりと飛び乗ると、鉈をまるで刀を扱うような手さばきで次々と枝を切り離していく。母は、落とされた枝を拾い集める仕事をしていた。けもののような動きを見せる男たちの中で、玉の汗を流しながら働く母の姿は痛々しくもあり、また美しくもあった。母は、男たちに親切にされているようで、もらってきた飯場のおにぎりや、卵焼きを龍一に食べさせてくれた。龍一は、そんな環境に立ち向かうように、逞しく育っていった。
 しかし、週に一度支払われるお金は、家族四人が生きていくにはあまりにも少なすぎた。畑はあるが、祖母が亡くなってからは、耕す人がいない。

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