第3話

文字数 2,078文字

 清水は東京を拠点に、仲間を連れ、全国の山々に分け入った。大木の伐採は、一歩間違えれば命を落とす。龍一は、鎌や鉈を研ぎながら、仲間たちの仕事を盗み見た。
 世の中に左利き用のチェーンソーはない。だが龍一は、人一倍努力して使いこなせるようになった。やがて、チェーンソーを扱うことを許された。三年の月日が経つころは、現地で雇う荒くれ男たちをまとめていくまでになった。
 一度、上層部から、独立して組を持たないかという話があった。請負師として、またとないチャンスだった。だが龍一は、清水の下で働くことを選択した。
 だがいつからか、光り輝いていた清水の顔に陰りが指すようになった。拠点としていた八王子の一件屋を引き払い、龍一は三畳一間の格安アパートに引っ越すことになった。仕事が無くなったのだ。
 ボルネオやオーストラリアから安い材木が入ってくるようになり、日本の林業は衰退の一途をたどっていた。
 清水は、これまでの功績を買われ、同じグループの製材工場に引き取られることになった。
 清水について東京立川のアパートを訪ねた。綺麗な女が笑顔で出迎えてくれた。清水は近々、美容師の女とここで所帯を持つのだと言った。工場勤めとなった清水に、昔の精悍さは見られない。けれども女は、そんな清水のほうがいいと言うように、穏やかな笑みを浮かべていた。
「リュウ、俺を支え良く頑張ってくれた。お前の面倒まで見られなくて申し訳ない。お前の若さだと何とでもなる。ただ、真っ当な仕事にだけは就くんだぞ」
 清水は餞別だといって、きれいな封筒を手渡した。
「最後に一つ、チャンスがきたら、迷わずその道を進むんだ」
 清水の目は潤んでいた。清水の親切と度量に心打たれた。龍一に後悔はなかったが、今の牙を抜かれた清水より、あの野生の神とも思える、昔の清水と一緒に汗を流していたかった。

 龍一は、横浜の小さなラーメン屋に住み込みの仕事を見つけた。
 毎日、繁盛に比例して汚れるトイレを磨き上げ、客を神様のように扱いながら五年が立った。仕事も覚えアパートも借りられるようになった。しかし、この先に自分が光り輝ける世界があるのかという疑問も頭をもたげてきた。
 そんなとき、交差点の信号のように繰り返す日常が一変するようなことがやってきた。
「リュウ、今度の休み、時間とれないか。一緒にドライブに行ってみようぜ」
 いつも暖簾を下ろすころやってくる、気さくに話す友達がいた。秋元恭二というその男は、東京では名の通ったテキヤ組織S一家の構成員で露天商をシノギとするヤクザだった。
 約束の日恭二は、龍一のアパートに、車内がスモークで隠された大きな外車で迎えにきた。威嚇するような黒光りは、一目で裏世界のものだとわかる。
「おお! すげー車だな、俺、こんな恰好じゃ恥ずかしいな」
 着古した皮ジャンを羽織った龍一は、車を見て驚いたが、助手席のドアを開け、さらに心臓が止まる思いをした。
 後部座席から、別世界から降りてきたような女が二人、笑みを浮かべて龍一を見ていた。
 高級そうなシートに身をゆだねると、「こんにちは!」という香水が絡まる心地よい声が背中をくすぐる。
 龍一も挨拶を返えしながら振り返った。一瞬、笑顔が控えめなほうの女と目が合った。手の届かない岩肌で、ひっそりと咲いている花のようだった。
 始めて乗った排気量七千CCの外車は振動がまったくない。空間が音もなく移動していくような感覚を覚える。
「俺の後ろは女房の順子だ。隣は、順子と同じ田舎から出てきた明美ってんだ。俺だけ女連れではかっこつかねーと思って、付き合ってもらった」
 恭二は笑顔の控えめな女をちらりと振り返ると、「すまんな」といって笑みを浮かべた。
 車はあっというまに箱根についた。食事のため、大きなホテルの駐車場に滑り込む。すれ違う車は、皆わきに寄る。
 ロビーの客たちは、龍一には目もくれず、イタリア製ブランドスーツに身を包み肩で風を切る恭二と、すらりとした二人の女たちの姿を目で追っている。
 誰にも振り返られたことのない龍一にとって、その無言の視線が、羨望の目差しに映ったことは無理もないことだった。
 この時、龍一の脳内で、陽光の中で汗水たらしながら追いかけていた夢が、音もなく崩れ去っていった。
 その後は、恭二のドライブの誘いを心待ちするようになり、順子と明美が働くクラブにも行くようになった。いつしか龍一の心の中で、清水が描いた道とは違う世界にある、厚いガラスのような障壁は消えていった。
 二人はよく、なじみの小料理屋の暖簾をくぐった。お互いの身の上を話しながら、酒を酌み交わした。
「親分同士が五分の杯を交わしているN組で人を探している。リュウさえよければ俺のコネで紹介してやってもいい」
 恭二は、龍一の心の揺れを見透かすように水を向けてきた。
 龍一にはすでに、堅気の世界への未練はなかった。暴力でしか解決できない世界への渇きはすでに、小学生のころに植え付けられていたのかもしれない。一線を越える世界への恐怖は、明美と通い始めた微かな絆が打ち消していった。

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