第1話

文字数 1,585文字

「今日は鑑真でも拝みたい気分やわ。こんな像、どうでもいいと思ってたのになあ。ありがたや、ありがたや……」
「アホか。鑑真とちゃうって。行基やし。何とぼけてんねん。おい、早よ行くぞ」
 僕が奈良駅前の、噴水の上の、その坊さんの像に手を合わせると、圭が僕の頭を後ろから叩いた。
 それでも、僕は相変わらず最高の気分だった。それもそのはずだ。昨日、人生で初めて恋人ができた。大学四回生の夏だ。もう今更恋人なんて、と諦めかけていた。それが、どうだ。告白してみたら、一夜にして世界が変わった。
 それもこれも圭のおかげだ。圭に教えてもらった最高のロケーションで、思い切って気持ちを伝えてみたら、なんとオーケー。
 今日は昨日の報告会。圭と二人で、既に二時間は呑んでいる。僕としては、そのまま二軒目に雪崩れ込むつもりだった。
 ところが、圭は僕を散歩に誘い出した。
「お前の話さぁ、聞いて、俺もアタックしようって思ったんやわ。お前の恋、応援したんやから、次は俺の下見に付き合えよ」そう言われたら、断る理由はない。
「ってことは、圭は、圭のとっておきの場所、俺には教えんと、きちんと残してるってことやな」
「当たり前やろ。本命用、俺がお前に譲るわけないやん」
「そらそっか」
 そんなわけで、僕は夜の散歩に連れ出されたわけだ。基本は一本道。興福寺を右手に見ながら、ゆるやかな坂を登っていく。この道を行く以上、どこへ向かっているかは、明白だった。遠距離通学に耐えられず、実家の京都から奈良の下宿に引っ越してきて、はや二年。奈良育ちの圭と比べたら、知識はまだまだであったが、さすがに、この道がどこに続いているかわかるくらいの土地勘はある。
「圭の言う、その場所って、奈良公園やんな?」
「正解」
「今、夜やん。奈良公園なんかに、何があんの」僕はそうぼやいたが、圭は聞いてか聞かずか、構わずに進み続けた。暫くして、公園の入り口に辿り着いても、圭は歩みを止めなかった。この先にあるのは、誰もが知る寺、東大寺だ。当然、既に閉門している。
 こんな夜にわざわざ奈良公園を訪れる者は少ない。園内に人はまばらで、腰を下ろした鹿の方が、数は遥かに多かった。その鹿も、この時間にやって来る人間が、煎餅などくれることはないと承知しているのか、こちらに興味を示すことはなかった。
 静かだ。昼間の、あのいかにも観光地らしい喧騒が、まるで嘘のようだ。木々の騒めきや虫の声がよく聞こえる。ほろ酔い加減の身体に夏の夜風が心地よい。何にせよ気分が良かった。暗がりゆえ、鹿の糞など、定期的に踏んでいることはわかっていたが、それすら気にする気にはならなかった。
 正直なところ、頭の中はまだまだ昨日の余韻で満たされていた。酔いも相まって余計にそうなのだろう。何となく圭と会話を続けて歩いているが、実際、僕はほとんど圭の話を聞いていなかった。色々と話した気はするが、さっき何を話していたかさえ覚えていない。今日ばかりはどうしようもなかった。
 圭はどんどん奥へと進み、東大寺さえも通り過ぎようとした。けれども、東大寺の外壁に沿って歩くうちに、はたと足を止め、「こっちから登るか」と呟き、そして、右手の階段を登り始めた。もちろん、この時間に脇道に逸れる階段を登る人など、誰もいなかった。
「なあ、どこへ行く気なん」僕は尋ねた。余りの人の少なさに、僅かに不安になっていた。階段の上は真っ暗で、どうなっているのかもわからない。仏の真横でなければ、肝試しだと言われてもおかしくない、そんな雰囲気だった。今日の幸福感を持ってしても、密かに恐怖を感じた。
 そしてそれと同時に、こういう時、人は誰かと手を繋ぎたくなるものだなと思った。人肌に触れて安心したいのだ。横にいるのが圭ではなく、彼女であればどれほど良いだろう。本当なら、圭とじゃなく、彼女と来たかった。そうも思った。
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