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文字数 4,029文字

早朝の冷えた空気が辺りを包む時間帯、声を出せば喉から凍りつくような世界では人々は口を開けるのも憚る。黙って校庭を走り言葉をあまり交わさずに目の前のことに集中でき、体力を使うことで思考を一つの事に集中できるのは他の授業よりいい所だ。
「よぉ」
息を吸ったり吐いたりする音とは違う、左後ろの誰かが近くで声を発した、走っているのにも関わらずに声ははっきりと聞こえてきた。私の隣で会話を始める気なんだろうか、早朝は落ちついた気持ちで走っていたかったのに。
少なくとも相手を確かめる余裕が今の私にはなく、気にしないことを意識する事で集中を保とうと考えた。だが気にしないことを意識している事で気にしていることになるから、気にしないことを意識している事を意識しないという事を意識する事にする。これで認識が第三者ではなく第三者を考える私に対しての私の認識という事になり認識の中の第三者は不確定の存在で意識する事の出来ないものとしての説明にすることができる。
「朝遅かったじゃん、教官お前の事じぃっと睨んでたぞ」
放たれた言葉には心当たりがあり、おそらく私に向かって言っているのだろうと察しがついた。相手の方へ変に意識が向かったせいで呼吸が乱れ、ぜぇぜぇと自分の吐く息が上がっている。思考が走ることとは別のことを考え始め、それによりペースが乱れそれを補うために他のペースを崩す悪循環に飲まれ始めた。
そもそも私は時間前に(明確には3秒前)集合には間に合った、部屋内でなんとか自分を奮い立たせ校庭に出た、それをこいつは私に攻め立てようとしている。
何か言い返そうにも何かを言うために必要な空気が私の中から抜け続け、ずっと肺が入れることを望んでいる。ここの空気だけが薄くなっていてペースを維持するのがやっとだ。相手にそれを気取られたくない。
少しして離れた場所でさっきまで話しかけてきた奴の声が聞こえた、別の人にちょっかいをかけにいったようだ。ああやって他人の足を引っ張って転ぶのを楽しむ、嫌な奴だと思ったけどその体力は正直羨ましくもあった。
ピーッと音が鳴り、周りの人が走りから歩きへ変わってゆき、私も歩きに変え吐き出し続ける肺に落ち着けと空気を送った。だんだんと人が塊になって揃っていき横を追い抜いて歩いていく影が大きくなる。
整列!と声が聞こえ、他の人たちと共に教官の前へ順番通りに並んだ。教官は私達を見下ろしてやや満足そうな顔をしている、自分が偉いと思っていそうな顔だ。
教官は宣誓!と声をあげた。耳に刺さるでかい声なのは下等科の頃の教官達と変わらない、私は手を胸に当てて敬礼の形をとる。
――――――――――
[私は、この命を惜しむことなく国家と建国の母モリーアン様に捧げることを誓います。
法律、命令を忠実に守り、いかなる時も国家への忠誠の責務を果たすことをここに誓います。
国家の敵を憎み、国家を危険に晒す者を許さず、国家に属しようとしない者を排除し、私自身が模範的市民として国家に尽くすことを誓います。]
――――――――――
この宣誓というのは国に対しての忠誠を高める儀式でこれを暗記させて毎日声に出させることで声と記憶から人間の意識の中に埋め込む、ハドロンドはこの意識改革を重要視しているようで、宣誓を少しでも手を抜こうものなら教官が大義を得たと言わんばかりに嬉々として殴りにくる。
下等科の頃、宣誓を行わずに不真面目な態度をとっていた生徒がいて、教官はその生徒を列から強引に引きはがすとみんなの前で動かなくなるまで殴り続けた。その後、教官は午後からけろっと戻ってきたのに殴られた生徒が戻ってくることはなかった。誰もこの事を話すことはなかったが、どうなったのかはみんな分かっていた。
これは並んで立っている私達がソーセージであり、中身を詰める間に余計なものが混じったら食べられなくなるということを指している。彼らは自分たち好みのソーセージ以外はごみに入れてしまうのだ。
宣誓をしている間、今日の雲の流れを見て昨日のことを考えていた。昨夜の暴風は老朽化した建物に被害を出し、それをSAIKOU(サイコゥ)が修理する。風には環境を整備する役割がありSAIKOUもそれは同じだった。そうなると建物も自然の一部ということになり、それを作った人達も自然の一部だったのかもしれない。
でも私達は違う。SAIKOUは死んでいる人間を放置する。建物の中に人の骨が残ってたらSAIKOUはそれを避けて通る。私達が自然の一部ではないから。土の中にいれば自然になれるのだろうか、SAIKOUが土を避けているのは見たことがないし。でも私が土の中で死ねるとは思えない、土を掘って私を埋めてくれるような人なんておじいちゃんと"アリーカ"くらい、でもまた会う前に死ぬかもしれない。
宣誓が終わって静かに立ち尽くす私達を前に教官はラジオのスイッチを入れた。ラジオを聞かされるのは大体週の初めで、この時間、雄大な音楽を背景に大統領の説教が流れている。内容は毎回違うことを言っているように聞こえるが、前々週と比べてみるとほとんど同じことを言っていて、言葉の中に意味が同じになる言い回しがあるのをあれやこれやを変えて話している。
――――――――――
[ハドロンドの栄光の1日を今日も迎えることができました。世界が破壊され荒廃してもなお我が国は栄華を保ち繫栄しそれを維持し続けています。しかし、私達の周りには敵が多く、この秩序を破壊しようとしている輩がいまも世界を覆っています。悲しみや絶望を糧にしている奴らです。私達はお互いを見守り、友が道を踏み外さないようにしなければなりません。敵は常に私達を誘惑しようとしており、自分1人では太刀打ちできないこともあるでしょう。信頼のできる仲間に相談をし、意識を合わせることが重要です。大切なのは信頼と秩序です。国家の平和を守ることは1人ひとりの意識から作られるのです。国家を守ること、それがこの国家の一員としての責務であり、全ての国民の幸福になるのです。]
――――――――――
大統領の言葉が終わり、曲が流れ始めて教官はラジオを止めた。解散、の一言を残し教官はラジオを持って歩き去っていった。
陽の光はまだ明るさを取り戻しておらず昨日に取り残された風が心地よく髪を揺らした。生徒達は各々自由にしており、部屋に戻っていく人達もいた。
私も部屋に戻ろうとすると、向こうから誰かがこっちへと歩いてきていることに気がついた。
「お疲れー」
彼は私の方へ歩きながら手でジェスチャーした。こいつは朝、部屋で物を投げてきた同室の奴と酷似している。というか本人だ。
胸の奥から燻るものを感じた、視界に入れていると止まらなくなりそうだから視界に入れないように体を逸らす、だが"同室の奴"は私の目線に合わせ目の前に顔を動かし、楽しそうな顔で私を見つめてきた。とても不快に感じる、風が耳に引っかかってうざったい。
「一緒に部屋に戻ろうぜ」
まるで私には選択権がないみたいな言い方だ、私は"同室の奴"に目をつけられたようで恐らく私を取り巻きの1人にでもしたいのだと思う。それは集団でいることが自分の力だと思いあがる愚かな人間の意識でヒエラルキーの中にさらにヒエラルキーを生み出し続けるマトリョーシカ。マトリョーシカの中では私個人の意思など上から覆い被されるだけで、その中では私のただ生きたいという願いさえも踏み躙られる。どうしてそんなことをするのだろう。
私は獅子の前にいる兎ではないと首を横に振ろうと動かしかけ、自分がさっきまで部屋に戻るつもりでいたことを思い出した。同室の奴と私の目的は一致していて、お互いに同じ場所に向かうのに一緒に行くのを断ってから一緒に部屋へ向かうのは私の信用を失うことになる。それはマトリョーシカは関係なく、私個人の問題だ。
「戻んないのか?」
頷けば同室の奴の取り巻きに飲み込まれ、断れば私の信用を失うことになる。私の意思などとうに意味を成していない、私の意思は黙っていることでしか表現できない。
ふと、思いついたのは部屋に戻らないということだった。朝のこの時間、食堂が開いているはずで先に食堂に行き朝食を食べてから着替えに戻ればいい。
私は自分の持つ意思を示すために同室の奴を両目でしっかりと見据えた、相手の目が一瞬横に動くのさえ見逃さず、言い放つ。
「戻らない」
「おぉ...そっか、んじゃまた後で」
同室の奴は軽いジェスチャーと共に人の群れの中に戻っていった。
一息入れて、もしかしたら同室の奴は彼なりに私に気を遣っただけなのかもしれないと思った。初めて会う人にどうしたらいいのかわからなくて、今みたいに何とか接点を作っていたのかもしれない。
私は呼吸を意識して大きく息を吸い込んだ。しばらく息を止め、そしてゆっくりと息を鼻から抜けさせる。
「よぉ、戻んないの?」
また同じ文言が聞こえた、同室の奴とは別の声で。視界の横からひょこりと姿を現したのは私と同じ目線の人だった。"私と同じ目線の人"は難しい顔でこちらを睨むように見ており、話しかけてきたのにも関わらず私のことがあまり好きではないことがなんとなく感じられた。それならどうして私に話しかけてきたのだろう。
今から部屋に戻るつもりはなかったから頷くと、後ろからもう一人現れ私と同じ目線の人は"後ろの人"と顔を見合わせた。
「戻んないってさ」
「あ...うん」
後ろの人は少し残念そうにした。その顔に見覚えがあると思ったら、昨日もしくは今日の朝日が昇る前の時間に会った"同室の彼"だということに気がついた。
「それじゃ、またね」
同室の彼は控えめに手を振り、もう先に歩き始めていた同じ目線の人の後についていった。私は何も言うことができず、去っていく2人の後ろ姿を見送った。
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