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文字数 4,427文字

重厚な鎖が薄暗い雲を裂き天を穿つ。
雲は鎖が刺さった部分から垂直に向かって円状に抉られたように開き、その先から大地が溢れ空とは別の鮮やかな青色が浮かびあがった。
その輝かしく美しい世界を背景に、逆光に晒された物体が点々と地上へと降ってくる。
「天使だ...」誰かが呟いた。
従軍している者も祈りを捧げていた者も町人も皆一様に空へと顔を向けた。
落ちてきた天使は羽をはばたかせるかそのまま重力のまま落ち、地上に初めに降りた天使は地面に激突した。
人々が心配するのも束の間、空から次々と天使が街に降り立ち、辺り一帯が歓声に包まれた。
天使たちは皆一様に困惑していたが、人々はそれを暖かく迎えるだけだった。

黒いシミがほうほうと天井に浮かび上がる。外は今大風が吹き荒れていて、古くなった建物の隙間に風が入り込んで所々から不気味な物音が聞こえてきていた。誰の目にも映らない個室の中に閉じこもって一人になろうにも、扉の下に空いた隙間から冷気が流れ込み私の足から徐々に肉体を氷像へと変えようとしていた。
『ズネツカ、もう戻ろう』
放たれた言葉は私の耳を掠め、受け取られることなくうろうろと宙へと舞っていく。
私はじっと天井のシミを見ていた、隣の個室の先客がずっと静かに泣いているらしいのを思考の中に入れないように。だが時折聞こえてくるスンスンと息を吸うような音が私がここに1人でいるわけではないことを認識させる。新しい寮に馴染みづらいのは私だけではないようだ。
トイレに入るときに個室がひとつ閉まっているのには気がついたものの、この寒い中長居はしないだろうと気にしなかった。それが今、予想していたよりも長い時間を2人で過ごしてしまっている。
『ここで寝ると風邪をひくよ?ベッドに戻ろうよ』
私は彼女が先に出るのを待っていた。後から入った私が先に出るのはまるで、私の抱えて入ったものが大したことがないと意味しているような気がするから。でも、冷気は席を退くよう私を催促していて、正直この隣人と先の見えない根競べを続けることが無意味だというのも薄々感じていた、他にこの場所に執着する理由もいまの私にはない。
私は静かに目を閉じ、立ち上がらないといけない理由を自分の中でこじつける。半ばトイレの便座と一体と化していた腰を上げ1つ1つの動作がミスもなく確実に行われる事を意識する。
中腰で扉に手を当ててゆっくりと扉を押す。キィーと高い音が鳴り驚いて動きを止めてしまった。
この扉は私の努力を一瞬で水の泡にした。私が感じたのは配慮をぶち壊しにした扉に対する怒り、それと隣の押し殺したような声がさらに押し殺されたということだ。もう仕方ないから勢いのまま出ていこう。さっさと消えてくれた方が彼女も良いと思うだろう。
私はドアに怒りを込めたが慎重に軽く押しさっさと外へ出た、鏡の方に目を向けそうになり下を向きながら廊下へと出る。
廊下には明かりが点いておらず、夜の光でほのかに輪郭が浮かび上がっている。どこかからヒューと音が不気味に聞こえてきた。道は私が来た時より闇に溶け込んでおりどう続いているのかわからない、一歩踏み出した足はすぐに影のぬかるみへと沈んだ。
そばの窓から突然ガタッと音がし、驚いた拍子に私の中から集めた"理由"がばらばらと落ちてしまった。足元に落ちたそれらは淡い光を放ち私の周囲を彩ったが道を作るにはあまりにも数が少ない。拾い集めようとしゃがんで手を伸ばしたものの触れた"理由"は光を失い影のぬかるみへ沈んでいってしまった。
私は闇の中を光なく歩かなければならない。だんだんと悴んできた手を床から離して一歩踏み出す。ふと改めて前をみると人影が揺らめいてるのに気がついた。影は私を待ち伏せていて、このまま奴の思い通りに進むのは癪だ。かといって、奴のために道を変えるのも嫌だ。
「あれ、もしかして...」
前の方の人影は声を発し、その輪郭がぼやけて見える距離まで近づいてきた。相手は私と同じ服を着ていて背も私と同じくらいだ。前の方の人影の顔がうっすらと判別できるまで近づいてくると、目を細め安心したような顔をしていることが分かった。
「君は...同室の子、だよね?」
よく見ると相手には見覚えがあった。今日の午前...昨日かもしれない、新学年に上がった私は下等科の寮から上等科の寮へと移った。入学式の後部屋で同室になった人達と一緒にいる時間があってその時にいた1人だ。落ち着いた物腰から彼を桶に溜まった水みたいな人だと思っていた。
同室の子は少し歪んだ笑顔に変わった。
「あっもしかして、君もトイレに入りたくて来たの?」
知った顔ではあるものの私は挨拶をしておらず、関わる気もないから話すのも無駄だと思い首を横に振る。
「そう...なんだ...あのっ」
同室の子は私をじっと見つめてきた。弱々しい風貌にしてはその目はしっかりと私を見据えており、思わず相手の目を見返す。
「よかったらなんだけど、一緒に部屋に戻らない?外歩くのが怖くて...」
私は同室の子を訝しんだ。怖いと言っておきながら一人でここまでやってきている。それに自分でもわかっているが初対面で良い印象を同室の子に与えたとは思えなく、それが嫌いな相手と一緒にいようとする理由になるのがわからない。
同室の子は不安そうな表情をし私の反応を待っている。ここで首を振るのは簡単なことだった。
だけど、同室の子の頼りない様子は私の知っている人たちとは違ってみえ、それが少しだけ同室の子と一緒にいてもいいという気になった。それにこいつの本心を見てやろうとも思った。
首を小さく縦に振ると同室の子は安心したような表情を浮かべて嬉しそうにした。
「よかった、すぐに済ませるから少しだけ待っててね」
そういうと同室の子は男の子のトイレの方へ入っていった。
『まさかとは思うけど、ほっといて戻る気はないよね?』
「...私がそういうことする奴だと思ってるんだね」
でも正直それでもよかった、風の吹く音が聞こえてくる暗い廊下は存外思考を落ち着かせるにはちょうどよく、壁に背をつけてしばし両目を閉じることにした。
ザァザァ、ガタガタ。私から影が上へと伸びてゆく。心は電柱のようになっていて体から剝きだしになっている。高くそびえるそれは通る者の考えを奪うために存在し、赤く膨らんだ実の部分から淡く赤い光が放たれ道一面を赤く染め上げる。通った者は自分の血が流れていると勘違いする。
トイレの方から水を流す音が聞こえ、少しして同室の彼が急ぎ気味に出てきた。
「ごめんね、待った?それじゃあ戻ろう」
私は同室の彼の後ろについていくことにした。
2人で暗い廊下を歩いていく、足取りは重く気がつくと同室の彼が私の横を歩いていた。私は俯いて同室の彼の歩幅と重心を観察する、少し前側にあるように思う。
「暗いね、なんで廊下に明かりをつけないんだろう」
「...さぁ」
そっけなく返した後に、ここにきてから初めて人と言葉を交わした事に気付いた。数年前の自分はこんなにも喋らない人になるとは思わないだろう。知らない人におはようと言い、誰かの話に相槌を打ったり、たまに喋ったり。そんな考えは下等科の頃になくなり、他人と関わることも無駄だと思うようになって。
「....」
考え込んでいた間に2人の間にある沈黙はより暗闇を深く濃くする霧を作り出し、道の先が見えなくなる。ずっとこの廊下を彷徨い歩いているのではないかという不安が込みあがってきた、気がつくと同室の彼の服の袖を掴んでいた。
「ん......」
掴んでいる手を離せない、離してしまうとこの霧の中に閉じ込められてしまう気がするから。もう掴んでいる袖以外ここには何も見えない、足が影のぬかるみに絡まってうまく動かせない。
「だいじょうぶ?」
足が止まって、視界が止まる、手が止まる、耳が止まる、息が止まる、心臓が止まる、思考が止まる、空気が止まる、左肩が止まる、
「...少し座る?」
視界にすっと同室の彼が現れ促されるまま私は壁に背をつけ床に腰をつけた、ひやりと冷たい感覚が私の思考を少し明瞭にさせる。私が掴んでいた袖から手を離すと同室の彼は私の隣に腰を落ちつけた。
何をやっているんだろう...、無力な自分が嫌になる。霧は遠くから暗い道の先を隠しており、まるでここの空間だけが切り取られたみたいになっている。ここに取り残された気がして少し身震いをする、隣から同室の彼が私の方へ肩が当たるくらいに身を寄せてきた。よくわからない果物のような香りがふわりと鼻をくすぐった。
しばらく窓からさす薄明りを私達はぼんやりと眺めていた、サァサァと風の吹く音以外が雑音であるかのように口も聞かず窓の外を眺めた。
ぼんやりしている中で、私だけが彼の名前を知っているのはよくない気がした。
でもちゃんと覚えてはいない。初めて同室の人達と一緒になった時のこと、1人がこれから一緒の部屋になるからと自己紹介をしようと言い始めた。言い出しっぺが名を名乗り、続いて今隣にいる同室の彼が自己紹介をし、3人目が挨拶を終えた後私の方へと視線が集まった。
私はその時一斉に自分に注目が向いたのが嫌で仕方なく、やるとも言ってないから荷物を整理し終えさっさと部屋から出ていった。横耳に聞こえた名前は曖昧にしか覚えていない。
私が"同室の子"と覚えていたように同室の彼からは"トイレに行った後座った人"と覚えられるのもなんだかと思う。でも、言葉が出ない、今更なんて言えばいいのか浮かばない。
言葉を見つけるために視線を動かしていると同室の彼は私の方を向いて微笑んだ。
「そろそろ戻ろっか」
同室の彼が先に立ち上がる。私も続いて立ち上がろうとしたがよろけて床に手をついてしまった。同室の彼が私に手を差し出しこれに掴まれということは分かったが、自分がそこまで酷くなっているとは思いたくないから無理にでも自分一人で立ち上がる。壁に手を付け姿勢を持ち上げていくと、廊下に立ち込めていた霧はもう見えなくなっていて、ただただ暗闇だけが道の先に続いていた。同室の彼とは目を合わせずともどちらからともなく暗い廊下を進みはじめた。
私は道が分からずほとんど同室の彼の主導で進んでおり、このままどこか知らない冷たい部屋の中に連れていかれ惨殺されるのかもしれないと考えた。だが気づくともう部屋の前に立っていて同室の彼は部屋の扉に手をかけていた。
「それじゃ、また明日、おやすみ」
同室の彼は小声で私に言うと扉をゆっくりと開いて一歩下がった。目配せをしてきたから先に中に入って自分のベットに潜り込んだ。出てからすっかり時間が経っていて私の体温の一欠片もここには残されていない。それでも1日動かした体はすぐに脳を休息へと向かわせた。
言わなければならないことがあった気がする、まどろむ頭のどこかでカチャリと音が聞こえた。
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