第1話 底辺からの脱出

文字数 2,315文字

 あたしの名前は夏。

3年前のあたしは、雪国の農村で暮らす田舎娘だった。

農家というものは、1年中、仕事があるわけではなく、

収穫の後から春が来るまでの長い冬ごもりの間は、雪蔵に保存していた

わずかな食糧で食いつなぎながら、

大人たちは、囲炉裏の周りに座って

収入のない冬の間のわずかな収入源となるわらじや笠作りに精を出す。

ある程度の量が仕上がると、家長が町へ売りに出て、

それらを売ったお金で、必要なものを買い足す。

冬の夜はやることがないから、

農家の夫婦は、こどもたちが寝静まったころ、

どちらからともなく、布団にもぐり込み声を押し殺して乳くり合う。

その結果、貧乏子だくさんとなる農家が多い。

我が家も例外ではなく、夫婦2人と2男3女の大家族。

2部屋しかない狭い我が家は、働き手となる兄たち以外は、

手のかかる上にお荷物的な存在だ。

父は少しでも、暮らしを楽にしようと、

姉妹の年長であるあたしを

中山道沿いに店をかまえる旅籠屋へ奉公に出した。

表向きは、女中。その実態が何であるのか、

村を出る前のあたしには、まるで、想像がつかなかった。

春になると、各地の旅籠屋へ奉公人を斡旋する口入屋が我が家に訪れた。

父がいくら受け取ったのか見ていないから

その額は知らないけれど、

たぶん、そんなに高くはなかったのでは

ないかと思う。それというのも、

相場を知らない田舎者には、

受け取った額がはたして、妥当な額なのか比べるものがないからだ。

あたしは、家族のためだと己に言い聞かせて、

口入屋について、村を離れて中山道へ向かった。

途中の村で、同じ年ごろの娘が加わった。

その名を玉と言う。初対面から、機嫌が悪そうで、

親しく話しかけても、返事しかしない。

気まずい中、奉公先の旅籠屋へ到着した。

奉公先の旅籠屋は、「本陣格」と呼ばれる

公家や大名が利用する旅籠屋だ。

そのせいか、門構えがきらびやかで、

玄関が広くて、明るい雰囲気がする。

主人の弥市郎は京の市中で油屋を営んでいたが、

お得意様の公家の庇護を受けて、

10年前、中山道沿いに旅籠屋を開業したらしい。

もともと、京の商人なため、客あしらいが上手な人。

そのため、本業の傍らはじめた旅籠屋も大盛況。

口入屋が帰って、下部屋に2人きりになった途端、

道中、ずっと、不機嫌で無口だった玉が、

急に、親し気に身の上話をしてきた。

奉公へ出されたのが気に食わないのと、

初めての長旅の疲れで、神経をとがらせていたらしい。

「あたしは、飯盛り女で終わる気はないからさ」

 玉は、野心家で向上心が強い娘だった。

おまけに、上に姉が2人いることもあり、

同じ年のあたしと比べて成熟していた。

主が、あたしたちを雇った名称である

「飯盛り女」が、旅籠屋の仕事をするだけでなく、

時として、泊まり客の求めに応じて春を売る

奉公人のことだということを一番に教えてくれたのは、

誰でもない、玉本人だった。

あたしが、春を売るということが、

見知らぬ男に体を売ることだと知り、

ショックと恐怖で眠れぬ夜を送る一方、

玉はどうにかして、春を売らない方法を考えあぐねていた。

「やっぱり、初めては好きな人と‥‥ 」

 あたしがそう言うと、玉が鼻で笑った。

「飯盛り女が何を言っているのさ? いい加減、腹をくくりなよ」

「あんただって、逃れる方法を考えているんじゃないか? 」

 あたしは思わずカッときて言い返した。

「あたしは、女郎に成り下がる気はない。

もし、寝るなら、それなりの男を選ぶさ」

 玉が豪語した。

 主はどういうわけか、いつまでたっても、

あたしたち2人を泊まり客の寝床へ送ることはしなかった。

その理由は、3年目の春に明らかになった。

主は早くから、あたしたちの素質を見込んで、

このまま、飯盛り女にしておくより、

公家や大名へ奉公人として売った方が、金になると考えていたらしい。

運命の日は、京から江戸へ向かう

ひときわ、高貴な御一行がふた組泊まっていた。

ひと組目は、大奥にいる御台所と会うため

江戸城を訪れる予定の公家御一行。

もうひと組目は、将軍へ謁見するため

江戸城を訪れる予定の尼さん御一行。

あたしは、公家御一行の部屋付に、

玉は、尼さん御一行の部屋付になった。

ふた組が旅籠屋を発つ日の前夜。

主は、あたしたちを部屋に呼んだ。

「おまえたち、2人はそれぞれ、担当した部屋の泊まり客について、

江戸城へ向かいなさい」

 主が意外な命令をした。

「承知しました」

 とまどうあたしをよそに、玉が即答した。

「おまえはどうだい? 」

 主が、あたしに訊ねた。

「もちろん、行くわよね? 」

 隣で、玉が、あたしに言った。

「どういうわけなのか説明してくだされ」

 あたしは、主に頼んだ。

「なんだい、うれしくないのかい? 理由なんぞ、どうでも良かろう」

 主が不機嫌そうに言った。

「この娘は突然のことで、気が動転しているんですよ。

あたしが説き伏せますから、話を進めておくんなさいまし」

 玉があわてて、主に言った。

主の部屋を出た後、玉が鬼のような形相で、

あたしに詰め寄って来た。

「あんた、何してくれたのさ?

せっかくの良い話がダメになるじゃないか! 」

「だって、理由もわからないのに、

会ったばかりのお公家様に同行するなんて危なすぎないかい? 」

 あたしが必死に訴えた。

「あんた、ずっと、ここにいたいのかい? 」

 玉が訊ねた。

あたしは首を横に振った。

「己に正直になりなさいよ。あたしは行くから。

あんたは好きにするといいさ」

 玉はそう言うと、布団の中にもぐり込んだ。

 翌朝。あたしは、公家御一行の列に

玉は、尼さん御一行の列に加わった。

あたしたちの新たな門出となったこの日。

江戸の大奥では、大奥取締役の春日局が自ら、

将軍家光公の側室候補たちの教育をはじめていた。


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