ただひとたびの

文字数 2,797文字

 なにが起きたのかわからなかった。
 物理的な衝撃と、わずかな時間差でやってくる痛み。
 殴られたのだ、と気づいてしばし呆然とする。
 神蔵(かみくら)悠貴(ゆうき)は散々泣き()らした目で、目の前の父親を見上げる。
 父親は見たことのないような恐ろしい形相(ぎょうそう)で彼を(にら)みつけていた。
「自分だけが悲しいと思うなよ」
 父親の、低く押し殺した声を聞いた瞬間、神蔵は身を(ひるがえ)して家を飛び出した。

 夕闇の時刻はとうに過ぎ、辺りは夜の(とばり)に包まれている。夏の終わり。昼間の熱が夜の底に沈んで足許からまとわりついてくる。

 涙は次から次へとあふれてきて尽きることはない。
 どこをどう歩いてきたのか。ぽつりぽつりと街灯が灯る人気(ひとけ)のない裏道を彼は泣きながら歩いていた。
 ぎゅっと両腕に力を込める。
 これが夢ならどんなによかっただろう、と彼は思う。

 裏道を抜けると少し先に公園らしきものが見えた。
 知らない場所だ。ブランコが二つ。そのひとつに小さな人影があった。おとなではない。外灯に照らされてぼんやりとその姿が浮かび上がる。
 近づいていくと相手も彼に気づいたようだった。
 知っている顔だ。同じクラスの榛名(はるな)(しおり)

 こんな時間にこんなところでなにを、とぼんやりと思うものの、それは自分自身にもいえることだと気づく。
 親しい相手ではない。まともに話したことさえないかもしれない。
 公園の入り口で神蔵は立ち尽くす。
 キィ、となにかが(きし)むような音がした。顔を上げると、榛名がブランコから降りて神蔵のほうへと歩いてくるところだった。
 神蔵の前に来ると、榛名はじっと彼の腕を見つめる。そして彼の顔を見た。
「こっち」
 くるりと背を向けて榛名は公園の敷地内へと戻っていく。ブランコではなく、大きなドーム型の遊具の前に立ち、神蔵を振り返る。
「このなか」
 ドームのなかは空洞(くうどう)になっていて、子どもが数人入れるようになっている。先に入っていく榛名につられるようにして、神蔵も身を(かが)めてなかへと入る。(せま)くて薄暗い。それが今は逆に落ち着けるような気がして、彼はおとなしく榛名の隣に座る。

 榛名はなにもいわない。ただ黙って膝を抱えて座っている。
 散々泣いて熱っぽくぼんやりとした頭で、神蔵はこの非現実的な状況を、なにかの映像を見るように眺めていた。
 受け入れることも、理解することも放棄(ほうき)して。

「いたい?」
 ふいに榛名がぼそっとつぶやく。
 ぼうっとしていた神蔵は、それが自分に向けられた言葉だと認識するまでに数秒の時間を要した。
「え?」
「ほっぺた」
 榛名がじっと見つめている。
「ああ、いや、べつに」
 そういえば父親に殴られて家を飛び出したのだった、と思い出す。傍目(はため)にもそうとわかるほど腫れているのだろうかと少し不安になる。
 それと同時に、ものごころがついてからおそらくはじめて他人に泣き顔を見られたことに気づき、なんだかばつが悪くなる。

 ごしごしと目を(こす)り、膝の上にのせた冷たい身体をそっと()でる。
 昨日まではあんなに元気だったのに。
 今はもう冷たく固くなって動かない。
 身体は確かにここにあるのに、ここにはもういない。
 矛盾(むじゅん)しているけれど、否応(いやおう)なしにそう感じさせる冷たさだった。
 ふたたび涙があふれてくる。
 神蔵は声を押し殺すようにして泣いた。

 それからどれくらいの時間が過ぎたのか。
 感情の波が治まり、神蔵(かみくら)はほうっとため息をついて呼吸を整える。
 榛名(はるな)は相変わらず隣に座ったままだ。
 さすがにそろそろ帰らなくては彼女の家族が心配しているのではないかと不安になってくる。自分が泣いていたせいで帰るタイミングを失ったのでは、と思い至る。
「家のひと、心配してるんじゃないの」
 鼻声でそう尋ねると、榛名は無表情のまま小さく首を振る。
「だれも心配なんかしないからだいじょうぶ」
 そんなことがあるだろうか、と神蔵は怪訝(けげん)に思う。
「かみくらくんは」
「え」
「かえらないの」
 聞き返されて、思わず言葉に詰まる。
「……もうすこし、ここにいる」
「ふうん」
 榛名はどうでもよさそうな口調でそういうと、ドームの狭い入り口に顔を向けてつぶやく。
「ここには、おとなは入れないから」
 神蔵に視線を移す。
「だいじょうぶ」

 ふいに、泣きたいような衝動に駆られる。さっきまでの悲しみのせいではなく。
 もしかしたら榛名もここへ逃げてきたのではないか。
 なぜかそう思った。
 たまたまこの公園にいたのではなく、もしかしたら、今までにもこうしてひとり暗がりで膝を抱えて夜を過ごしてきたのではないか。
 その場所に、神蔵を(かくま)ってくれたのではないかと。
 どうしてそんなふうに考えたのかは自分でもわからない。
 神蔵は、()せっぽっちの小さな榛名の横顔を盗み見る。
 榛名はおとなしい女子生徒だった。とくに仲の良い友人もいないようで、いつもひとりでいる。クラスメイトだということ以外に神蔵との直接の接点はない。
 それなのに、なにも聞かずに手を差しのべてくれたのだ。

 ***

 いつの間にかうとうとしていたらしい。
 榛名と二人、ドームの隅っこで身を寄せ合うようにして寝ていたところを警察官に保護された。
 すぐに神蔵の両親が迎えにきた。
 また父親に殴られるかと思ったが、父親が彼に手を挙げたのはあの一度きりだった。

 榛名(はるな)の迎えは、神蔵の知る限りでは来なかったと思う。
 その後、母親から、榛名が児童養護施設に引き取られることになったと聞いた。榛名の母親は気まぐれにネグレクトと虐待を繰り返していたらしい。
 子どもの神蔵にできることはなにもなかった。

 榛名が彼を助けてくれたのは、あの夜、殴られて腫れた神蔵の顔を見たからではないか。
 

、そう思ってなにも聞かずに手を差しのべてくれたのではないか。
 飼い猫を亡くした悲しみでいっぱいだった神蔵は、榛名が抱える痛みには気づかず、それなのに彼女の無言の優しさにただただ救われたのだ。
 あのあと、すんなりと猫にお別れができたのは、きっと榛名が悲しみに寄り添ってくれたからだと、神蔵は思った。

 ***

 進学先の中学校でふたたび榛名と同じクラスになった。
 神蔵はまだ子どものままだが、小学生のときよりは成長したし、できることも増えた。
 榛名は相変わらずひとりでいる。
 おかげで彼女に接近するのは容易だった。

 だれにも()びない(りん)とした佇まい。
 神蔵にとって、忘れられない初恋の女の子。

 なぜか逃げられてしまうけれど、足の速い神蔵にとって彼女を追いかけるのは造作(ぞうさ)もないことだ。
 目を離した(すき)に榛名の身に悪いことが起きないよう、(そば)で見守っていたい。
 降りしきる雨を(さえぎ)る傘になり、降りかかる火の粉を払うための(たて)になる。

 今度こそ。
 無力感に(さいな)まれるだけの自分ではいたくない。

 昼休みになったとたん姿をくらました榛名を探して校内を巡る神蔵の視界の端を、見覚えのある黒髪が(かす)めた。
 そちらへ近づく。

「榛名さん、見つけた」




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