眼中のひと

文字数 10,805文字

 愛想がない。可愛げがない。かんじ悪い。
 榛名(はるな)は子どもの頃からそういわれることに慣れていた。
 実際、榛名はいつも不機嫌そうな顔をしていたし、おまけに目つきも悪く、学校のトイレで鏡を見るたび自分でも「なんだこいつかんじ悪いな」と思うほどだった。
 当然、友人と呼べるような相手はいない。
 学校でも常にひとりぼっち、
 のはずだったのだが。

榛名(はるな)さん、見つけた」
「っ、」
 うまく隠れたつもりだったのに、頭上から声が降ってきて思わずびくっと身を(すく)める。おそるおそる振り返ると、背後から榛名を見下ろしながら神蔵(かみくら)はにっこりと笑った。
「探したよ。こんな(すみ)っこに隠れているなんて」
 そういいながら上履きのまま窓枠を(また)いで外へと出てくる。優等生然とした見た目にそぐわぬ振る舞いに眉をひそめて榛名は立ち上がる。
「逃げないで」
 途端に手を掴まれる。その手から思いがけない熱を感じてとっさに振りほどく。思いきり手を振り払われたにもかかわらず、神蔵は気を悪くしたようすもなく笑みを浮かべている。

 神蔵は、()りない男だ。
 なぜかしら榛名(はるな)につきまとう。同じ小学校出身で現在はクラスメイト。それ以外に接点などないはずなのに。
「ほら、もう少しで昼休みが終わってしまう。お腹空いたでしょ。ここで一緒にお昼にしよう」
 そういって、手に提げていた保冷バッグを掲げてみせる。
「私はいらないって」
「まあそういわず。一緒にいるのにおれひとりだけ食べるなんて味気ないじゃん」
「いや、だから、なんで一緒にいること前提なのよ。教室で食べなさいよ」
「嫌だよ。昼休みくらいしか榛名さんと話す時間ないのに。放課後はすぐにいなくなるし」
「……(ひま)じゃないのよ」
「うん。だから、今のうちに腹ごしらえしておかないと。ほら、座って」
 そうしてどこから取り出したのか、コンクリートの上にハンドタオルを広げるとそこに座るよう榛名をうながす。自分は無造作(むぞうさ)(じか)に座っているくせに。
「そういうの、いいから」
「うん?」
「タオル、汚れるし、いらないって」
「だって、榛名さんが汚れるでしょ。どうぞ」
「今さらでしょ。さっきまで座っていたんだから」
「まあまあ、そういわず」
「そういうことはほかの女の子にやってあげなよ」
 ハンドタオルを拾い上げて軽くはたくと、畳んで神蔵へ返す。少し距離を置いて座る榛名に、保冷バッグを開封しながら神蔵はなんでもないことのようにいった。
「榛名さん以外にこんなことしないよ。はい、どうぞ」
 小ぶりのタッパーを手渡される。言葉に詰まりながらも榛名はつい受け取ってしまう。

 この市立中学校には給食はない。各自、弁当持参である。
 榛名はたまにおにぎりを持ってくるくらいで、弁当などは用意してこない。あまりお腹が空かないのと、忙しい朝の台所へ足を踏み入れるのが億劫(おっくう)というのが大きかった。
 昼休みになると、机をくっつけ合って弁当を広げるクラスメイトたちを尻目(しりめ)に榛名は教室を出る。そうして人気(ひとけ)のない場所を探して気まぐれに校内をふらつく。
 いつからだろう。
 神蔵が追いかけてくるようになったのは。

 小ぶりなタッパーには、小さなおにぎりと玉子焼き、鶏の唐揚げとブロッコリー、プチトマトがそれぞれひとつずつ詰められている。これまでの経験から、このくらいの量なら榛名が食べきることを学習したらしい神蔵によるお手製のミニ弁当だった。

 ***

 はじめて弁当を差し出されたとき、榛名(はるな)は呆気に取られながらも、冷めた気持ちでつっけんどんに彼をはねつけた。
「なにそれ。同情のつもり?」
「同情? なんで?」
 不思議そうに聞き返されて榛名のほうが思わず口ごもる羽目(はめ)になった。
「……同情じゃないなら、なんのつもり?」
「榛名さんと一緒にごはん食べたいなって思って作ってきただけだよ」
 突っ込みどころ満載の答えだったが、前半は無視することにして後半部分について尋ねる。
「え、自分で作ったの、これ」
「そうだよ。うちは男ばっかり五人兄弟だから、中学に入ったら自分のことは自分でしろっていう教育方針でさ」
「……そうなの」
 なんとなく毒気を抜かれた気分でそうつぶやく。
「高校までは親が金を出してくれるけど、卒業したら全員家を追い出されることになっているから、高校卒業後は就職一択」
「へぇ……」
 当時、中学一年になって間もない頃だったため、高校卒業後の進路の話など実感がなく、榛名はあいまいにうなずくしかなかった。

 ***

「ここは木陰(こかげ)でちょっと涼しいね。榛名(はるな)さん、毎回いい場所見つけるよね。猫みたい」
 自分の弁当をつつきながら神蔵(かみくら)が笑う。
「猫って、あったかい場所と涼しい場所、うまいこと見つけるんだよ」
「猫、飼ってるの」
「子どもの頃にね。今はもういない」
「……そう」
 悪いことを聞いてしまった、と思うが、榛名は子どもの頃からどうしても素直に謝ることができない。謝罪の言葉が喉の奥に張りついて出てこないのだ。
 可愛げがない。素直じゃない。
 そういわれるのは慣れている。

「榛名さんは、進路は決めた?」
 榛名がおにぎりをもぐもぐしている最中でしゃべれないことに気づいて、神蔵は先に自分の進路先を告げる。
「おれは工業高校に行って資格バンバン取って就職してバリバリ働く予定。工業高校なら就職率ほぼ百パーセントらしいし、食いっぱぐれることないだろうし」
 同い年とは思えないほどしっかりしている、と榛名は思う。
 お米を飲み下して、榛名は口を開く。
「高校行かずにすぐ働きたいけど、専門学校でも高校でもいいから、進学はしろっていわれている」
「あー、そのほうがいいよ。うちの親父が中卒で苦労したみたいで、アホでもいいからとりあえず高校だけは行っとけって酔っ払うたびにしつこくいってくる」
「……そう」
「榛名さんも、高校卒業したら自立するんだよね?」
 さらっと聞かれて、榛名はうなずく。
「うん。今のところにいられるのは高校卒業するまでだから」
 しばらく沈黙が続く。
「あのさ、」
「なに」
「高校卒業したら、一緒に部屋借りない?」
「…………は?」
「そうしたら家賃折半できるし」
「バリバリ働いて稼ぐんじゃなかったの?」
「それはもちろん」
「私、ひょっとして薬漬けにされて売り飛ばされたりするわけ?」
「なんでだよ! どういう想像してるんだよ」
「そんなのこっちが聞きたいくらいよ」
「あーもう、」
 うつむいて頭を抱えながら神蔵はうなっている。
「今のなし。高校卒業するときにもう一回誘う」

 ***

 榛名(はるな)は近くの公立高校へ進学した。
 神蔵(かみくら)は宣言していたとおり、隣街にある工業高校へ進学したと本人から聞いた。
 もう会うことはないだろうと思っていたのに、神蔵は週一回の頻度で榛名に会いにくる。

「また来たの」
 ガラスの引き戸を開けて入ってきた制服姿の神蔵を見て、榛名は開口一番その言葉をぶつける。
「ひどいなぁ。せっかく会いにきたのに」
「シオリのカレシ、また来たねー」
 厨房から顔を覗かせた店主の妻が真顔でいう。怒っているわけではなく、もともとあまり笑わない人物なのだ。
「彼氏じゃありません」
「はっきりいわれると傷つくなぁ」
「ユウキ、ガンバレ」
「がんばります」

 榛名は週三回ほど、この中華料理店でアルバイトをしている。
 店の外装はすっかり日焼けして、いかにも(さび)れた雰囲気を(かも)し出しているのに意外と繁盛していて、アルバイトを募集していたところにたまたま榛名が通りかかり、飛び込みで応募したところそのまま採用されたのだ。
 店主夫妻はあまり笑わない寡黙(かもく)な中国人で、二人とも日本語を話す。淡々とした愛想のない接客だが、それでも客足は絶えない。
 愛想笑いなどできない榛名でも、客からクレームが来ることはない。ここはそういう店なのだ。
 夫婦でやっているわりにベタベタしたアットホームさはなく、榛名にとって居心地の好い場所だった。

「はい、ラーメン大盛と炒飯セットね。シオリのぶんはコッチね」
 閉店間際で神蔵以外に客はいない。
 ゲームセンターでアルバイトをしている神蔵は、その帰り道にこの店に顔を出して高カロリーな晩ごはんを食べていく。
 いつからか、彼が現れると、ついでに一緒に(まかな)いを食べるようにと店主夫妻からうながされて断りきれず、渋々(しぶしぶ)ながら榛名も神蔵に相席することになっていた。
「いただきます」
 律儀に手を合わせてから神蔵は箸を取り、すごい勢いでラーメンを吸い込んでいく。見た目はほっそりしているのに、どこにそんなに入っていくのだろうと榛名はいつも不思議に思う。
 榛名に用意されたのは半ラーメンと半炒飯で、普段から食の細い彼女にはそれでも多いくらいだ。

 食事を終えて代金を支払うと、神蔵は店の外で榛名が出てくるのを待っている。いつものことだ。
「先に帰っていいのに」
「嫌だよ。一緒に帰ろうと思って寄っているのに」
 自転車通学の神蔵は、自転車を押しながら榛名と並んで歩き出す。
 わざわざ自分に合わせて歩いて帰ることないのに、と榛名は思う。
「学校はどう? 困ったこととかない?」
 会うたびに神蔵はそう聞いてくる。
「べつに、普通だけど」
「それならよかった」
「……そっちは?」
「おれ? そうだなぁ、たまにヤンキーに絡まれるくらいで、授業は面白いよ」
 それは普通に危険な状況なのでは、と榛名は思う。
「大丈夫なの、それ」
「え? ああ、ヤンキー? あいつら基本的に似たようなヤツらとつるんでわちゃわちゃしているし、おれみたいなのにちょっかい出してくるのは退屈しているときくらいだから、大丈夫だよ」
 それは大丈夫なのか? と榛名は首を傾げる。

 ***

 高校三年の冬。
 神蔵(かみくら)は早々に就職先が決まったと聞いている。
 榛名(はるな)はなにも考えていなかった。
 やりたいことや、将来の夢などはない。働けるならなんでもいい。ひとりで生活していけるお金を稼げる仕事ならなんでもいい、と思う。
 教師からは、
「まじめに考えなさい」
 と呆れられているが、まじめに考えるってどういうこと? と、教師のいうことが榛名には理解できない。
 みんな、どうして進路を決められるのだろう。同い年のはずなのに、神蔵をはじめ、進学や就職を選択する同級生たちが自分より遥かにおとなに思える。

「シオリは、卒業したら、ドウスルの?」
 閉店の用意をしながら店主の妻がそう尋ねた。
「……まだ、決めていません」
「住むトコロ、あるノカ?」
「今のところを出るときに、部屋を借りるのに必要なお金はもらえるみたいなので、たぶんなんとか」
「ココで、働くか?」
「え」
「今はシオリは夜だけど、昼も店やってるカラ」
「えっと……」
「お給料、あんまり出せないケド、食費は心配イラナイね」
 それは正直すごく助かるのでは、と榛名はぼんやり思う。
「ゆっくり考えるとイイ。シオリがいてくれたら、ウチはアリガタイね」

 その話を、次に会った帰り道、神蔵に話した。
(チン)さんたちいいひとだし、榛名さんがそうしたいなら、いい話だと思うよ」
 彼はあっさりとそういった。
「神蔵くんは、まじめに考えろとかいわないね」
「え?」
「先生たちは、みんなそういう。この先もアルバイトでやっていくつもりじゃないだろう、ちゃんと就職しなさいって」
「ああ、それはまあ、そのほうが収入は安定するからね」
「私は親もいないし、いちばんしっかり自分の進路を考えないといけない立場なのに、みんなのほうが遥かにちゃんとしっかりしている気がする」
「そう見えるだけかもよ。他人と比べても仕方ない。榛名さんは榛名さんなんだし」
「……うん」
「これからやりたいことが見つかるかもしれないし。そのときになったら自然と考えるようになると思うよ」
「ん」
 凍てつく夜空に星がまたたく。白い息を吐きながら、榛名はぼそっとつぶやくようにいった。
「ありがとう」
 ふいに神蔵が立ち止まる。怪訝(けげん)に思いながら足を止めて振り返ると、神蔵は片手で自転車のハンドルを持ち、もう片方の手で顔を覆っている。
「……どうしたの」
「はじめて、榛名さんがデレた」
「は?」
「ヤバい……」
「わけのわからないこといっていると置いていくよ」
「待って待って」
 隣に神蔵が追いつく。
「榛名さん、まじめな話だけど」
「なに」
「卒業したら、一緒に部屋借りない?」
「……まだ諦めていなかったの」
「諦めるわけないよ。忘れたの? 高校卒業するときにもう一回誘うって、おれいったよね」
 さすがに榛名も覚えている。
「それ、神蔵くんにメリットある?」
「あるよ。毎日榛名さんと会える」
「……それ、本気でいってる?」
「あたりまえじゃん」
「神蔵くんは、私をどうしたいの?」
「え」
「一緒に住んで、エッチなことしたいっていうこと?」
「ええっ、うわっ」
 体勢を崩したらしく、神蔵は自転車ごと倒れる。

「ちょっと、大丈夫?」
「いてて、大丈夫」
 神蔵はよろめきながら起き上がると自転車を起こす。
「あんまりびっくりすることいわないでよ。いきなり、その、エッチなこととか」
「違うの?」
「そんな下心で誘わないよ! そんなやり方で榛名さんに手なんか出すわけないでしょ。おれ、そんな男に見える?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「ああ、もう、びっくりした……」
「そうだよね、私相手にそんなことするわけないよね。自意識過剰だった」
「えっ、いや、それはまたべつの話というか」
「は?」
「榛名さんのことは好きだし、あわよくばそういう関係になりたいけど、それは抜きにして、現実的に経済的な話として」
「…………」
「そんな目で見ないでよ。ごめんって」
「本気?」
「え?」
「神蔵くん、私のこと好きなの?」
「そこ? 今まで気づいていなかったわけ?」
「なんで会いにくるんだろうって思っていた」
「そんなの好きだからに決まってるじゃん!」
「いや、なんで? 自分でいうのもなんだけど、こんな無愛想な女のどこがいいの? 相当な物好きだと思うけど」
「そこがいいの。愛想笑いとかしないし、他人とつるんでつまらない噂話とか悪口とかいわないし」
「それは私に友だちがいないからよ」
「もし友だちがいても、榛名さんはそういうことはしないと思う」
 やけにきっぱりと言い切ったあと、神蔵はあわてたように続ける。
「あっ、待って、返事は保留にして。今断らないで」
「…………断られる前提なの?」
「えっ、だって」
「本当に私を好きだというのなら、生殺し状態じゃない?」
「それはそうだけど……、え、榛名さん、それって」
「神蔵くん、普通にしていたら好青年なのに、変わった趣味の持ち主なのね」
「榛名さん?」
「約六年間も毎日手作りのお弁当なんか作ってこられたら、それなりに(ほだ)されるでしょ。正直、そういう意味で神蔵くんのことを好きかどうか、自分でもわからないけど」
「おれ、榛名さんの彼氏にしてもらえるの?」
 神蔵の言葉に、榛名はちょっときょとんとしたあと、思わず笑ってしまう。
「そういうときって、普通なら『おれの彼女になってくれるの』っていうんじゃないの」
 見ると、神蔵が固まっている。
「……どうしたの」
「や、はじめて、榛名さんが笑っているところ見た」
 はぁ、と長いため息をつきながら神蔵はその場にしゃがみこむ。
「ヤバい。おれ、すげぇ都合のいい夢見てるんじゃないの。夢なら覚めたくない……」
「神蔵くん、器用ね。起きたまま夢を見るの」
 神蔵はしゃがんだまま「ああ」とか「うう」とかうなっている。
 と思ったら突然ガバッと立ち上がると、
「ありがとう榛名さん、おれ、がんばるから」
 と宣言した。
 なにをがんばるのだろう、と榛名は目をぱちくりさせた。

 ***

 一緒に部屋を借りるにあたり、榛名は神蔵の家を訪ねることにした。彼の両親に挨拶するためだ。
 神蔵は小学校からの同級生だ。その親なら、榛名の身の上もある程度は知っているだろう、と思う。
 門前払いされるかもしれないと、覚悟はしていた。

 とある日曜日。
 榛名は神蔵と待ち合わせて手土産を購入すると、彼の家に向かう。
「緊張しなくていいよ。うちの親、ちょっとガラが悪いし見た目怖いけど、たぶんそんな悪い人間じゃないと思うし」
 神蔵の説明を聞いて余計に緊張する榛名である。
 神蔵家は住宅街のなかに建つ一軒家だった。
「ただいまー、榛名さん連れてきたよ」
 ドアを開けて玄関口で神蔵が声をかけると、すぐに奥から茶髪の女性が姿を現す。
「おう、よく来たな、まあ上がれよ」
 これは元ヤンだ、と榛名はすぐさま理解した。
「は、榛名栞(はるなしおり)と申します。よろしくお願いいたします」
「そんな堅苦しい挨拶いらねーから、気にせず入れよ。おい悠貴(ゆうき)、ボサッと突っ立ってねぇで彼女案内してやれよ」
「うん、榛名さん、どうぞ」
「お邪魔します」
 リビングへと案内される。室内は程よく片付いており、ほんのりと生活感が(うかが)えて、榛名は少しホッとする。モデルルームのような部屋だったらとても落ち着かない。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい? あとコーラとかジュースもひととおりあるぜ」
 見た目も口調もバリバリの元ヤン母に声をかけられ、ソファに案内されていた榛名は、
「ありがとうございます、コーヒーをいただきます」
 と答える。
「了解。悠貴、おまえは?」
「おれもコーヒーにしよ」
「ちょっと顔貸せ」
「榛名さん、ちょっと待ってて」
「う、うん」
 しばらくすると神蔵親子がコーヒーを手に戻ってくる。
「ごめんな、旦那は急に仕事が入って出かけちまったんだよ。あんたに会うの、すげぇ楽しみにしてたのにな」
「そうなんですか」
「まあ、そう緊張しなくていいから。コーヒーでも飲んで落ち着けよ」
「はい、いただきます。あ、すみません、これ、お好きかどうかわかりませんが、よかったらどうぞ」
「そんな気ぃ遣うことないのに。ありがとな。せっかくだからみんなでいただこうぜ」
 中身は無難に洋菓子の詰め合わせである。
 母親はコーヒーを飲み、フィナンシェにかじりつく。
「うん、うまいよ。サンキューな」
「いえ、お口に合ってよかったです」
「なんか、想像してたよりずいぶんちゃんとしたお嬢さんだな。もっとほら、なんつーか、人間に懐かない野良猫みたいな女の子を想像してたぜ」
「えっ」
「ちょっと、榛名さんに失礼だろ」
「誉めてるんだから失礼じゃねえだろ」
「言い方」
「悠貴を骨抜きにして手玉に取るなんざ、どんな女かと思ってたけどよ」
「だから言い方!」
「おまえはいちいちうるせーな」
「榛名さんドン引きしてるから」
「あ?」
「いえ、大丈夫です……」

「で、なんだ、卒業したら一緒に住むって?」
「は、はい」
「あんたの進路は?」
「あの、今アルバイトをしているお店で、そのまま時間を増やして働かせてもらおうかと考えています」
「ふーん」
 ふいに、機械的なメロディが流れ出して、榛名はビクッと身を縮める。神蔵母が舌打ちしながらシャツのポケットに入っていた携帯端末を取り出す。
「ちょっとごめんな」
 と断って通話をはじめ、第一声が、
「てめぇ、今日は大事な用があるっていっただろうが。電話なんかかけてくるんじゃねえよ」
「ごめんね榛名さん、ちょっとガラ悪くて」
 と神蔵が謝る。
「ああ? 忘れものだぁ? そんなもん自分で取りに帰れ。……あ? くそ、仕方ねえな。悠貴に行かせるわ」
 ブツッと通話を終えると、神蔵母は、
「おい悠貴、マサが忘れものしたらしいから届けてやってくれ。チャリですぐだろ」
「えー、榛名さんいるのに?」
「あたしが相手してるから心配すんな。あ、そういやなに忘れたんだアイツ。悠貴、おまえ電話して聞いてくれ」
「めちゃくちゃだな」
「おまえの弟だろ。面倒見てやれ」
「あなたの息子でしょ」
「だれに似たんだか、兄弟のなかでおまえがいちばん口が達者だよ」
「いや、兄貴には負けるわ」
「ははっ、そりゃいえるな。頼んだぞ」
「榛名さんごめん、すぐ戻るから」
「あ、うん」
 バタバタとあわただしく神蔵は部屋を出ていく。

「落ち着きのない家族ばっかで悪いな」
「いえ、あの、お邪魔でしたらまた日をあらためて伺います」
「いや、今日はあんたがメインなんだから、邪魔してるのはウチの家族のほうだろ」
 二個めのお土産、今度はクッキーに手を伸ばしながら神蔵母がなにげなく切り出す。
「悠貴さ、あんたの弁当作ってただろ」
「……はい」
「あの材料費、あいつ自分の小遣いから出してたんだぜ」
「えっ」
「ウチのやり方で、中学からは自分のことは自分でやれっていう方針なんだけどさ。だからか、あいつ、あたしに一度も相談してこなかった。それだれにやるんだって聞いたら榛名さんっていうから、ああ、あの子かって納得した」
「……」
「あんた、覚えてるかな。ガキの頃、家出した悠貴とひと晩じゅう一緒にいてくれた話」
「えっ」
 神蔵が家出? と榛名は目を見開く。
「あいつがガキの頃、ウチで猫を飼ってたんだよ。仔猫のときに拾ってきて、ガキがガキの面倒見てるのがおかしかったな。その猫が、何年か経って急死したんだ。前日までピンピンしてた。原因はわからない。急に具合が悪くなって医者に連れていったけど手遅れだといわれた。医者いわく、猫の急死はたまに起きるんだと」
 子どもの頃、猫を飼っていたと、確かそんな話を神蔵から聞いたような気がする。
「悠貴の(なげ)きようは見てられないくらいだった。あいつ、あんま泣かないガキだったから、あんなに号泣したのははじめてだったな。それでとうとう、旦那がキレてあいつを殴った」
「えっ」
「昔はやんちゃしてたけどな、子どもに手を()げたのはあのときが最初で最後だ。旦那がいちばん猫を可愛がってた。本人も泣きたかったんだろ。子ども殴るとか最低だよな。それで、悠貴もびっくりしたんだろうな、冷たくなった猫を抱いたまま家を飛び出して行方不明になった」
 覚えてないか? と榛名に尋ねる。
「あとからあいつに聞いたんだけど、そのあと偶然あんたに出会って、なんでか知らないけどずっと側にいてくれたって。明け方、警察があんたたちを見つけるまで」
 榛名は覚えていない。
 子どもの頃の記憶はあいまいだった。
「すみません、私、子どものときの記憶があまりなくて」
「そうか。べつに謝るこたないさ。で、中学になってから、急にあんたに弁当作るっていうから、ああ、あのときの子か、と納得したってわけ」
「……そう、なんですか」
「悠貴はなにも?」
「はじめて聞きました」
「そっか」
 ひとくちコーヒーを飲んでから、神蔵母はいう。
「すっかり冷たくなった猫を抱いて帰ってきた悠貴は、もう泣かなかった。あんたといたひと晩で気持ちがいくらか落ち着いたんだろ。たぶんそれ以来、あいつにとってあんたは特別な女の子になった。親のあたしでさえドン引きだぜ。執念深いにも程があるだろ。逃げるんなら今のうちだぜ」
「逃げる?」
「親のあたしがいうのもなんだけど、あいつ、よくいえば一途で、悪くいえば執念深い。普段穏やかなぶん底知れないかんじがして、ちょっとヤバいヤツかもなって正直思う」
「……よくわからないです。私が知っている神蔵くんは、とにかく面倒見がよくて優しいひとなので」
「うーん、それってたぶん、あんた限定だろ」
「え」
「家ではあいつドライだぜ。頼まれたら弟たちの相手はするけど自分からは絶対に手を出さない」
「そう……なんですか」
「そうなんだよ」
「あの、失礼を承知でお聞きするのですが」
「なんだ?」
「その、神蔵くんと私が一緒に暮らすことを本当は反対なさっていて、それで、そういうふうにおっしゃっている、とかでは……」
 神蔵母は一瞬、鋭い目つきで榛名を見据(みす)えてから、ははっと笑った。
「ないない、それはない。榛名さん、あんた冷静だな。案外肝がすわっているんだな。感心した。あたしはどっちかというと、悠貴よりあんたのほうが気がかりなんだよ」
「私、ですか」
「あいつと一緒に暮らして、もし万が一なにかあったとき、あんたには逃げ場がないだろ?」
「ああ……」
「だからさ、そのときはウチに逃げてきたらいいから」
「え」
「あー、社交辞令とかじゃねえから。マジな話。へんなとこほっつき歩いたりしねえで、まっすぐウチに来いよ」
「……はい、ありがとうございます」

 ***

 新生活が始まって、早半年。
 神蔵との共同生活は思いのほかスムーズに進んでいた。
 朝は神蔵のほうが先に起きて、朝食の準備をして仕事に出かける。榛名は昼からの出勤なので、朝はゆっくり起きる。早く目が覚めたときは神蔵を見送ることもあるが、
「無理しないで寝てていいよ」
 と毎回いわれてしまう。
 夜は神蔵が先に帰宅し、食事の支度などを済ませる。
 榛名が帰るのは深夜近くなので、毎晩律儀に店まで迎えにくる。
 今度は榛名が
「疲れてるでしょ。先に寝てていいよ」
 というと、
「榛名さんの顔を見てから寝たい」
 などというので反応に困る。
 そのわりに、神蔵はいっさい榛名に手を出してこない。
 高校卒業前、一緒に住まないかと誘われたときに、榛名に対して下心から同居を申し出たわけではない、と宣言した手前、自制しているのだろうか、と榛名は思う。
 あのときはまだ付き合っていなかった。
 でも、今は違う。

 その夜、寝るためにそれぞれの部屋に戻るとき、榛名は聞いてみることにした。
「神蔵くんは、私とはエッチなことしないの?」
 ゴン、と鈍い音がした。
 神蔵がドアに衝突していた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ。びっくりさせないでよ」
「だって、前は付き合っていなかったけど、今は付き合っているよね。問題はないと思うんだけど」
 神蔵はまじまじと榛名の顔を凝視する。
「それは、お誘いってこと?」
「えっ、いや、なんでなんだろうって気になっただけ」
「そう……」
 はぁ、とため息をついて彼はつぶやく。
「正直いうと、したいけど」
「うん」
「なんていうか、怖い、気もする」
「怖い? それは、私がっていうこと?」
「いや、うん、なんていったらいいのか。こんなこというとヘタレだって思われるだろうけど」
「うん?」
「榛名さんが大事すぎて、手が出せない」
「…………」
「ほら、ドン引きしてるでしょ」
「いや、ドン引きはしない、けど」
「けど?」
「びっくりした」
「なんで」
「大事にしてくれているとはずっと思っていたけど、そこまでとは」
「ヘタレなんですよ」
「そんなことはない、と思う。その、ありがとう……?」
 神蔵がその場にへたりこむ。
「頼むから、いきなりデレないで……」
 榛名もその場に膝をつく。
「なんか、前にもこんなことがあったよね」
「忘れて。今すぐ」
「忘れないよ。……今度こそ」
「え?」
 榛名はそっと手を伸ばして神蔵の頬に触れる。
「ありがとう。私も神蔵くんのこと、大事にする」
 榛名がそういうと、神蔵は目を見開いて唇をわななかせた。
 神蔵の瞳に自分の姿が映っているのが見える。
 吸い込まれるようにして、気がつくと二人は唇を重ねていた。











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