第7話

文字数 4,013文字

 今こうして歩いている道を、自分は、ほんの十日ほど前に、同じように歩いていたんだなあと、美知は思う。
 違うのは、前回はまだ夕方過ぎくらいで、今は夜の九時を廻っている、というところだ。そして、もう一つ。
 あの時は、まだ自分の中では希望が残っていた淳一との関係が、今はもう、すっかり片づいてしまった、ということだ。
 何が、「浮気のできない不器用な人間」、だろう。淳一は、もう三ヵ月も前から、あの女の方と本気でつきあっていたのだ。義理で片手間にあしらわれていたのは、自分の方だったのだ。
 自分は、何もわかってはいなかった。
 バカみたいだ。
 何をやってるんだろう、と美知は思う。就職だってそうだ。そもそも、祖母のことなど、作文に書かなければよかったのだ。父が退職してしまったことを知っても、自分には何もできない。何もしようとしない。祖母の介護で、自分はどれくらい母の助けとなっただろうか。そこから逃げて、淳一の部屋に入り浸っていたではないか。淳一の無責任な「たいしたことじゃねえよ」の言葉と、お決まりの快楽を愛と自分に信じ込ませて。淳一を繋ぎ止めておくことこそが、一番重要だったではないか。そして淳一は、自分のことなど邪魔なだけだったのだ。なぜ自分は、あれほどまでに淳一のことを、淳一が浮気などできないと、信じていたのだろう。
 自分は何もしていない。せいぜいが、空回りだ。何かしたところで、空回りばかりだ。
 そう考えていると、美知は、自分の今までの存在そのものが空回りだったような気すらした。
 自分は、高校で何をやっていたんだろう。部活? それはまあ、それなりにやった。勉強も普通程度にはした。そして、つきあった男の子たち。それはたいした人数ではなかったが、いることはいた。恋愛、と思った。でも、みんな、美知の前からいなくなってしまった。
 今の大学に入った理由にしても、とりたてて何か理由があるわけではない。偏差値が自分と合っていて、いくつか受けた中の一つだったに過ぎない。英文科だが、特別、英語が好きだったわけでもない。
 就職?
 自分は、本当に就職したいのか。都心の大きな会社に就職して働くことが、自分にとって本当に求めることなのか。
 それもまた、大学に入ったときと同じような、流れだけのことではないのか。流れに乗るために、空回りしているだけではないのか。そして、後になって、しっぺ返しを食うのではないか。
 アケミちゃん、と美知は思った。
「アケミちゃん」は、祖母の友達だ。美知にも幼い頃には多分いた幻の親友。その子が何という名だったのか、美知には思い出せない。いずれ年を取り、認知症になった時に、思い出せるのかもしれない。今は取り敢えず、「アケミ」でいいと美知は思う。
 ねえ、アケミちゃん。
 私のやってきたことは、これでよかったんだろうか。私が、これからやろうとしていることは、これでいいんだろうか。
 思いに耽りながらも、美知の足は家へと向かい歩いていて、だからいつものように、見慣れた看板が美知の視界に入ってきた。
「洋菓子 プチ エスポワール」
 シャッターが三分の一程も引き下げられ、店の前を初江が水洗いしていた。初江は掃除に気を取られ、美知が近づいていっても気づかないでいた。街灯と、店の中からの遠い蛍光燈とだけのほの暗さの中で、初江は、ひどく疲れて見えた。初江は、美知の母より、だいぶ年上のはずだ。
 初江を支えているのは何なのだろうと、美知は思った。
 初江には介護する舅も姑もいない。就職を案じる娘もいない。息子の修は、小学生の時に亡くしてしまった。背負うものが大きすぎるのはつらい。だが、逆に背負うものが何も無いというのは、何と悲しいことではないか。
 初江の夫は、もう、年金を貰える年になっている。もしこの店を売りにでも出せば、そのお金と後は年金とで、食べて行けるだろう。初江とその夫の、生きていくための「プチ エスポワール」、小さな希望は、もう終わってしまったのではないか。あとは、終焉をしずかに待つだけの日々になっていくのではないか。
 初江は、この店を畳もうとしている。
 それは予感ではなかった。既に決められた事実として、美知は感じた。
 美知は、「プチ エスポワール」のケーキが大好きだった。美知の家では、誰かお客さんが来るとなれば、必ず「プチ エスポワール」のケーキを買った。それだけではない。美知が小学校にあがり、家で誕生会をやる時も、いつもここで買った。初江が、ケーキにMICHIと、ローマ字で名前を入れてくれた。それを息子の修が持って、美知の誕生会にやってくる。祖母がまだ別に住んでいた頃、祖母が遊びに来ると、たいていはこの店のケーキをみやげに持ってきた。祖母は、勿論、呆けてなどおらず、三十以上も年下の美知の母よりも溌剌としてみえることすらあった。以前、父のボーナスが多かった頃、父はよくここでケーキを買ってきた。美知が高校生になってからは、アルバイト代で、両親の結婚記念日に、この店のケーキを贈った。
「プチ エスポワール」は、この街に必要なのだ、と美知は思った。その思いは、初江の腰をかがめた姿を前に、ますます強まる。切羽詰まった思いになる。
 美知は、黙って初江の後ろに立っていた。
 随分して、初江はようやく、美知に気づいた。そして美知の、追いつめられたような表情にも。
「お店、辞めないですよね」
 言葉にしたら、突然に涙が零れた。
「どうしたの、急に」
「辞めないでください。――ここに、このお店を、開いていてください」
 美知は、必死で言った。
「私で出来ることがあれば、何でもします、だから、辞めないで下さい」
 美知は、子供のようにしゃくりあげながら、言い募った。
「どこかで、閉店するとかって、聞いたの?」
「いえ、違います、――違いますけど」
「不思議ね」
 初江は、店を振り仰いだ。
「ゆうべ、主人と話していたの。そろそろ潮時かなって」
「――そんな」
「何か、つらいことがあったんでしょう? そうでしょう?」
 その通りだった。
 淳一が、好きだった。
 だらしない男だった。いい加減な男だった。少し、顔かたち、容姿がいい、それだけの男だった。淳一の性格を考えてみれば、他に女がいても、不思議ではなかった。ただ、そういうことを考えようとしなかっただけだ。考えずに、信じることにしていた。なぜか。想像したくなかったからだ。淳一と別れる日を、想像したくなかったのだ。
 もう、細かい理由など、わからない。好きになり始めれば、理由なんかどうでもいい。
 とにかく、好きだったのだ。
 そしてそれが、はっきりと拒絶され、終わったのだ。
 何も残っていない。
 今、美知の手に、どんな幸せのカケラが、あるというのか。
 祖母は認知症になる。父はリストラで失業した。美知の就職もうまくいかない。淳一もあの女に奪われ、思い出も全部、叩き潰されてしまった。そして、この店も閉めてしまうという。つらいこと以外に、いったい、この世には何があるというのだ。
 初江は、ゆっくりと言った。
「そりゃ、この店は、私たちにも、たくさんの思い出がある。そして多分、美知ちゃんみたいに、お客様にもね。――でも、思い出だけじゃ、やっていけないわ」
 だが、やはりこの店は必要なのだと美知は思う。街が単なる人の寄せ集めではなく、一つの生き物として生きていくためには、何か拠り所がいるはずだ。その拠り所が無くなってしまったら、ここで暮らしてきた自分たちが、死んでいった修が、さびしすぎる。
 もし初江が、どうしてもこの店をやっていけないというのなら、それなら――、それならば、初江に代わって私がやろう。初江が楽をできるように、この店を畳まなくてもいいように、手伝おう。それだけじゃない。修が生きていたらやったであろう、様々な工夫を凝らして、店をもっと繁盛させよう。
 美知は、そんなことを考えた自分に驚いた。驚きながらも、塞がっていた心が、それでいっぺんに晴れていくような気がした。やってみたい、と美知は強く思った。他の誰かがやるからでもない。流行りだからでもない。自分がやりたいから、だからやってみたい。
「思い出だけではなく」
 美知は、しゃくりあげながらも続けた。
「私、もしかしたら、はじめて、――生まれて初めて、こんな気持ちになっているんだと、思うんです」
「どういうこと?」
「求められてもいないところに、お願いして入れてもらっても、しょうがないし、私を必要としない人といても、しょうがない。誰も私のことを求めてくれないなら、だったら、自分がやりたいと思ったことを、自分で切り拓いて行こうって、そう思ったんです。お願いします、私にお店、手伝わせてください」
「この商売は、傍で見ているほどに、簡単な仕事じゃないのよ。思い付きでやろうと思っても、大変よ」
 思い付きと言われれば、確かにそうかもしれない。だがきっと、祖母が戦後かつぎ屋をはじめたのも、それが発展して洋品店になったのも、そもそもを辿れば、思い付きだとか、偶々何かきっかけがあったとか、その程度のことだと思うのだ。
 美知は、シャッターの奥、修が死んでからほとんど模様替えをしていない店を見た。
 修くん、覚えてる? 美知だよ。
 この店に、私が入り込んでもいいかな。
 潰したくないんだよ、「プチ エスポワール」。
 おばさんに、一から習って頑張るからさ。本当は修くんがやっていくはずだったこの店、私に手伝わせて欲しいんだ。
 修くんは死んでしまったけれど、私は生きているから、だから、私は生きていかないといけないんだよ。
 美知は、心の中で、今は亡き同級生に、そう語りかける。そして美知は、修が十年前と同じように人懐っこく笑いながら、
「やりなよ、美知ちゃん。俺、見てるから。ここで応援しているから」
 そう言ってくれているような気がした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み