第4話

文字数 5,521文字

 想定していたことだったが、全体での説明会の後で、個別面接になった。面接まで進むのも勿論、初めてで、待合室になっている会議室では、周りの人たちがみんな、自分よりも優秀に見えた。
 何だか、ここでもう、ダメだろうなという気がしてきてしまった。就活サイトには、落ちると思ったら落ちる、みたいなことが書いてあったが、そんなことを言われても、思ってしまうことを止めることなんて、出来ないのだ。
「川田さん、川田美知さん」
 名前を呼ばれる。
 ああ、嫌だ。処刑場に連れていかれるみたいだ。
 美知がノックをして面接会場のドアを開けると、二人の中年男が美知を待ち構えていた。右側に白髪頭、左側には眼鏡をかけた男。
 白髪頭は、にこりともせず、対照的に左側の眼鏡は、気味が悪いほどにこやかでいた。
「川田美知さん、ですね」
 眼鏡の男は、にやにやしながら尋ねた。
 別の就活サイトには、こんなことが書いてあった。「舐めたような態度がいけないのは勿論ですが、切羽詰まった思いつめたような顔をしていても、いけません」。
 自分は、どんな顔をしているのだろう。まだ、就職戦線は切って落とされたばかりなのに、もう瀬戸際にいるように思えてしまうのは、先輩たちが就職に失敗してフリーターになったのを、目の当たりにしているからかもしれない。
「英文科で、英語を活かして、海外とのやり取りのある仕事がしたい、ということですね、うんうん」
 眼鏡の男ばかりが喋る。少し禿げ上がった額が、脂でてかてか光っている。
「うちはでも、入社試験で英語とかの筆記試験はあまり重視してないんだよね。それよりやっぱり、人だからね、人」
「はい」
 美知は、媚びにもならず、無関心にも見えないようにと、注意しながら相槌を打つ。
「さてと、――作文、読ませてもらったよ」
 眼鏡の男は、手元の美知の作文に視線を落とした。はじめて、作文がそこにあるのだと、美知は気づいた。当然、予想できたことだった。なのに美知は、作文が面接で持ち出されるなど、考えていなかった。
「すごいね、これは強烈だ」
 書いてある内容にもかかわらず、男は変わらずに笑っていた。
「主婦向けドラマみたいだ」
「――はい」
 相槌が小さくなる。「返答ははっきりと」との就職部の注意が遠のく。そこには、大便を漏らし、自分のことを十歳くらいと思い込み、夜中に街を徘徊し、美知のことをアケミと呼ぶ祖母の姿が、赤裸々に綴られているのだ。そして、綴ったのは美知だ。
「本人はさ、もう、何にもわかんないんだよね?」
「――はい、ほとんど」
「じゃ、少しは、わかるの?」
「何日かに一遍くらいの割合で、正気っていうか、それに近い感じにはなるんです。それで、私や母に向かって、すまないねって謝るんです」
 それが、美知にとって一番つらい時間だった。
「あ、そうなの」
 男は、驚いたようだった。
「わかるんだ。――じゃあ、自分がオムツして、垂れ流し状態でっていうのも、その時にはわかるんだ」
「はい、その瞬間には、わかっているんだと思います」
 男は、そこでふいに笑顔を消して真顔になり、考えこんでしまった。それで、しばらくしてから誰にともなく、
「死んじゃうな」
 と、呟いた。
「は?」
「僕だったら、死んじゃうかな」
 男は、言い継いだ。
「僕が、きみのおばあさんだったらさ。ちょっと前までは、きみのこと叱ったり、嫁をいじめたりしていたわけだろ」
「――祖母は、母のことをいじめたりなど、していません」
 男は、かまわずに続けた。
「それがだよ、今やボケちゃって、自分は垂れ流しで、何がなんだかわからなくなっちゃっていて、滅茶苦茶やって、家族をとことん困らせて――。僕だったらたぶん死ぬよ。自殺する。それって、人間としての誇りの問題だろ? 誇りを失ってまでも生きていようとは思わないよ。きみのお婆さんはそうじゃないみたいだけど。誇りも何も失っても、ただただ生きて……」
「祖母は、誇りを失ってはいません」
 美知は、やっとのことで反論した。
「そうかな。だって、自分のこと十歳と思っていて、トイレにも行けないんだろ?」
「そういう問題ではないと思います。認知症の症状が出て子供に戻っているときだって、祖母には、――何ていうか、祖母独特の凛とした芯のようなものと、それから、――前向きな明るさみたいなのがあるんです」
「うーん、それってさ、そうあって欲しいなっていう、こじつけじゃないのかな? もしさ、自分が何だかわからなくなってて、大便小便漏らしっぱなしで、これからももう、治らないわけだろ? そうわかったら、きみ、きみだったらどうする? 息子や、お嫁さんやさ、孫たちに迷惑かけるだけの存在だよな」
「迷惑かけるだけなんかじゃ、ありません」
「でも、実際に、すごい迷惑をかけるわけだよ。それでね、そんな存在でもさ、それでも、きみ、きみだったら、生きている? 生きていようと思う? あるいは、孫として、生きていて欲しいと、本心で、思ってる?」
「勿論、思っています」
「そうかな。僕だったら、死んで欲しいと思うな」
「私は、思いません」
「じゃあ、まあ、きみはそうだとしてもさ、――この作文だと、面倒を主に見ているのは、きみのお母さんだろ? お母さんは、どうなのかな」
 美知は、母のことまで持ち出され、どうしたらいいのかわからなくなった。美知が黙ってしまったら、男は、さらに声の調子を上げた。
「お母さんの身にもなってごらんよ。毎日毎日、惚けたお婆さんの面倒見させられて、オムツかえたり、勝手に出ていっちゃうの追っかけたりさ。たまんないよ。目茶苦茶になるよ。そんな時、つい死んで欲しいと思っちゃうよ。――きみのお母さん、お婆さんのことを殺したいと思ってるかもしれないよ」
 美知は、ここに来る道で会った「プチ エスポワール」の初江のことを思い起こしていた。美知ちゃんなら、大丈夫よ、と、初江は言った。何が、大丈夫なのだろう。
 しかもこれは、自分がまいた種だ。最悪だ、と美知は思う。
「正直なところでは、きみだって、そうだろ?」
 やや強い男の口調で、美知は、男の方に意識を引き戻された。
「認知症のお婆さんが死んでくれたらと思ってしまうことがあるだろう?」
 美知は、それまで懸命に絶やさずにいた口元の微笑みを維持するのを諦め、男を凝視した。
 一方、男はまた微笑みを浮かべていた。よく見てみると、男のそのにやつきが仮面に見えた。就職サイトに書いてあったこと、「面接においては、学生をわざと怒らせて反応を見ることがあります」。仮面を脱いだら、男は、どんな顔をしているのか。想像がつかなかった。本当に、これは仮面なのだろうか。もしかしたら、仮面のはずが張り付き溶けて、この男の本当の顔になってしまったのではないか。もう、はずせなくなってしまっているのではないか。
「どうしたの? 黙って僕のこと見てないで、聞かれたことに答えてください、川田さん」
 男は、そうしてまた笑う。
「いい加減にしてください!」
 思ってもみなかった強い声が出た。
「面接で意地の悪い質問をして学生を怒らせて反応をみる、というのがあるのは、私も聞いています。それでも、それにしても、こんなの、あんまりです」
「僕に、説教しようっていうの?」
「説教かどうかなんて、わかりません。でも、そういう言い方は、ないと思います」
「そうかね」
「そうです。祖母を侮辱するようなことを言ったり、死んでほしいと思っているだろうと誘導したり、そんなことをして、あなたは、人として恥ずかしくないんですか」
「ほう、きみが、そう言う?」
 男は、むっとした様子で体を机の上に乗り出してきた。
「じゃあ、話題にされるのがそんなに嫌だったのなら、どうして、きみは作文におばあさんのことを書いてきたんだ」
「それは」
 それは、美知の弱みだった。
 作文の題である「悩み」であれば、他にいくらでもあったのだ。祖母のことを書いたのは、美知に、祖母の認知症を利用しようという下心があったからだった。
「それは、――このことが、私の一番大きな悩みだったからです」
「違うだろう。きみは、おばあさんの認知症が、一番、インパクトがあると思ったから、題材にしたんだろう」
 男は、お見通しだった。
「きみは、身内のそういう出来事を、いわば『売り』にした、晒し者にした、そうだろう。――僕は過激なことを言い過ぎた、それはそうかもしれない。だけどね、それを導き出したのは、きみのこの作文だ」
 男は、原稿用紙を持ち上げ、掌でぱんぱんと叩いた。
「認知症の老人介護は、こんなふうに作文にして就職面接で見せるものじゃない。その意味じゃあ、きみが、きみの言うような、人間として恥ずかしいような世界に先に入ってきたんだ。それなのにきみは、うわべだけのきれいごとを並べて見せる。――世の中っていうのは、そんなにきれいごとばかりじゃない。もし、同じような境遇に置かれた誰かが、認知症の老人介護に追い詰められた誰かが、その老人を殺したいと思ってしまったとして、きみはそれを責められるのか? 本当に殺してしまえばそれは殺人だ。でも、内心、そう思ってしまうのは罪じゃない。それすら否定するのは、きれいごとだよ」
「でも、そうかもしれないけれど、だからといって、あなたは祖母のことをあんなふうに言うなんて、垂れ流しだとか、嫁をイジメているだとか、誇りの問題だとか、そういうことを言うのは」
「ねえ、川田さん、この不景気に、きれいごとばかりじゃ、会社だって、従業員だって、やってはいけない。みんな必死でやっているんだ。死にもの狂いだよ。この面談一つ取ったってそうだ。きみも、もっとそういう自覚を持つべきじゃないのか」
 美知は、自分から席を立った。
「あなたの言うことは、わかります。私も、祖母のことを売り物にしようとしたかもしれない、そのことは否定しません。でも、それでも、祖母への侮辱は、笑って流してしまえるものじゃありません。それに、人間の誇りとか尊厳とかって、たぶん、あなたの言うようなものではないんです。私は、祖母を近くでみてきて、これは確信しています。それに、――こういう厳しい時代だからこそ、きれいごとを言ってやっていかないといけないんだと思います。――私は、あなたのおっしゃったことには、反対です。――失礼しました」
 美知は、深く一礼すると、男二人に背を向けて、部屋を出て行こうとした。
「きみね」
 ドアの手前で美知は、ずっと黙ったままだった白髪頭の方の男に声をかけられた。その羊のような声に、思わず美知は立ち止まり振り返ってしまった。
「きみの声って、なんだか呑気そうな声に聞こえるね」
 何を言うのかと思えばと、美知は腹が立った。
 だが、白髪頭はかまわずに続けた。
「私らから見ると、今の若い子たちは、みんな呑気そうな声に聞こえるんだよ」
 そういうあなたの方が、よっぽど呑気そうな声ですね、そう言い返してやろうかと思ううち、男は続けた。
「それでね、――もし、きみを採用する、と言ったら、きみは、うちの会社に来るかな?」
「――は?」
 美知は、耳を疑った。だが、白髪頭は大真面目だった。美知は、まだ認知症になる前の、凛とした祖母の顔を心に浮かべた。
 嫌だ、と美知は思う。この目の前の眼鏡男は、美知の祖母に対し何と言ったか。自分は、それを聞かなかったことにするというのか。できるというのか。いくら就職状況が厳しくても、あんなこと言われて――。
 でも、「いいえ」との言葉が出てこなかった。就職内定が、もしかしたら、すぐそこにぶら下がっているのかもしれないのだ。美知は、就職したかった。どうなるのかわからない、先がわからないままにあと一年、会社から会社へと歩き回り続け、そして全て落ちるなんて、そんなのは嫌だった。
 はい、とも言えない。いいえ、とも言えない。
 どっちも、嫌だった。
 美知は、白髪頭の方を見た。
「――わかりません」
 結局、そう言っていた。
 そして口の中で呟くように、「失礼します」と言い、部屋を出た。
 会社を出ると、目が眩みそうなほどの春の陽光に包まれた。自分の中のずるいもの、汚いものが、全て露わにされていくように感じた。
 ああ、やってしまった。
 何でこんなところで、戦ってんだ。
 そのくせ、最後に、「わかりません」などと言ってしまった。
 その一言で、敗北感一杯だった。
 ああ、「わかりません」としか、言えなかった。
 どこに向けたらいいのかわからない悔しさが、美知の中、いっぱいに広がる。
 ――思い浮かべたのは、淳一の顔だった。「おまえ、そんなの、たいしたことじゃねえよ」。淳一は、美知が何かを気にしていると、必ずそう言った。「いつもと同じ、呑気な美知でいりゃいいんだよ」。本当に呑気なのは淳一の方だと、美知は思っている。実際、淳一の、どんなことでも「たいしたこと」ではなくしてしまう、そのいい加減さに、美知は幾度となく呆れもした。だがそれと同時に、ほっとすることができた。そして二人抱き合えば、美知から、後悔や自己嫌悪が消えていく。淳一が美知の心と体の中に作り出す快楽に、全ては溶けていく。
 美知は携帯を取り出し、淳一に電話をかけようとして――、止めた。
 ダメだ。まだ、かけられないよ。別れを告げられたばかりだ。もう少し時間が経ったら、かけてみよう。
 美知は、そう思う。
 もう、よりは戻らないかもしれない。でも、きっと、話くらい聞いてくれる。二人がうまくいっていた頃のように、慰めてくれる。いや、もしかしたら、寂しく思い始めているかもしれない。
 我慢しよう。今は、かけない。
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