第6話

文字数 3,573文字

 夕方五時過ぎに淳一に電話をした時、電話は留守電になっていた。自分をせき止めていた堤防を自ら解き放った今、もう美知は我慢できなかった。
 夕食を終え、八時過ぎに、美知はもう一度電話をした。初めて淳一に電話をした時の気持ちが帰ってくる。八回と、やや長めのコールの後、淳一が出る。一瞬の間の後、
「美知です」
 と美知は名乗った。
 沈黙が落ちた。
 淳一の部屋からはテレビの音が聞こえた。別れを切り出される前と変わらない、淳一のワンルームの雑音。だが、変わらないのはそれだけだった。
 淳一は、
「何だよ」
 警戒に満ちた声を出した。そんな声を、美知は予想していなかった。咄嗟に、何も反応できなかった。
「何か、用か?」
 淳一は繰り返す。そして美知を待つ。いや、違う。待っているフリをしているだけだ、と美知は思う。もう、淳一の気持ちの中に、美知の居場所はない。
「何だよ、用がないなら切るぞ」
 美知が黙っていると、淳一は苛立つ。
 不意に、美知の中に怒りが込み上げてきた。
 何だよはこっちだよ、と、美知は思った。何でそんな嫌そうな声を出すんだよ、ひどいじゃないか。仮にも、つい十日ほど前までは、恋人同士だったのだ。それが今や、ただ声を聞くのも鬱陶しいというのか。
 美知は目を閉じ、深呼吸すると言った。
「これから行くから」
 淳一に向けては出したことのないような声が出た。
「な、なんだよ」
 押されるように、淳一の声が揺れた。
「行くのよ」
 と美知は畳み掛けた。
「来るなよ」
 淳一は、返した。
「私が行ったら、何か、まずいわけ?」
 ちょっとの間があってから、
「まずくはないよ」
 開き直ったような口調になった。
「来いよ。いいよ、来れば」
 美知は、電話を切った。切ってから、自分の物を取りに行く、という口実を言うことすら忘れていたのに気づいた。


 そんなに私と別れたかったのかよ、と美知は思った。美知の中では、淳一との関係は、まだきれいなままだ。今日行ったら、それを崩すことになるのかもしれない。あの日、帰り際に別れを切り出されてから、美知の中で淳一とのことは、とりあえずは触れないようにして保存してある。
 就職活動に急き立てられていたこともある。父のリストラを知った、ということもある。
 その間ずっと、しばらくは間を置いてみようと思い、淳一との関係を氷付けにしてきた。氷を溶かしたからといって、それが再び生き返り動き出す保証など、もともとなかったのだ。
 今日で終わりだ、と美知は思う。
 電車に飛び乗ると、すぐ後ろでドアが閉まる。動き出す車窓を、美知はぼんやりと見る。自分の物で、何が淳一の部屋にあっただろうと、美知は考えた。CDのタイトルや、本やマンガのタイトルを、一つ一つ数える。電車を降り、駅を出ても、数える。美知の頭の中で、淳一の部屋についてからのことが広がる。
 淳一の部屋は、一人暮らしの男の部屋にしては片付いている。二人がその関係を駆け上っていた頃、美知は、その部屋に自分の足跡を一つ、また一つと増やしていくのが好きだった。
 CDや本に始まり、やがて、口紅やハンカチ、そして歯ブラシを置いてきた。淳一は、いつものようにジャージの上下の部屋着姿で、ふてくされた顔で美知を迎えるだろうか。歯ブラシは、もう捨てただろう。CDは、どうだろう。そして、口紅。祖母と同じ色の口紅だった。まだ祖母が元気だった頃、祖母は美知の唇の色を見て、同じの欲しいわ、と言ったのだ。二人のお気に入りの口紅だった。祖母は、使い終わって空になったリップスティックには、いつも日本酒をかけて捨てた。迷信、と笑う美知に、祖母は少し照れながら、でも、「口紅にだって、魂があるんだよ」と言った――。
 部屋に置いてきたものを取り返したら、と美知は思う。売ってしまおう。あの部屋にあったものは、全て売る。自分は祖母ではないから日本酒はかけないが、代わりに、売って、失業中の我家の家計の足しにしよう。
 自分の中に残すのは、二人が一番良かった頃の、ほんの少しだけの思い出、それで十分だ。
 足が自然に美知を、淳一の部屋に導く。ワンルームマンションのエレベーターを上がる。見慣れた玄関のドア。そしてインターフォン。
 美知は、ためらうことなくインターフォンを押した。
「――はい」
 淳一だ。
「私です」
 美知は、短くそう言った。
 インターフォンが切れ、ドアの向こうで足音が近づく。
 ドアが開き、そこに淳一がいた。
 淳一は、ジャージを着ていなかった。淳一は、美知が見たことのないTシャツと、サーフパンツを履いていた。どれもが淳一の趣味ではなかった。そして、シャワーを浴びたばかりのようで、髪が濡れている。
 それだけで、想像はついた。
 ためらいを見透かすように、
「何だよ、入れよ」
 淳一は言った。
 一メートル四方もない狭い土間には、流行りの女物のサンダルが、揃えて置かれている。
「いるんでしょう?」
「来たいって言ったのは、おまえだろう?」
 淳一の目に、言い方に、蔑みを感じた。蔑まれる筋合いはないと思った。自分はただ、自分のものを持って帰る。それだけだ。
「入れよ」
 女物のサンダルに視線を落としている美知に、かぶせるように淳一は繰り返した。
 美知は、自分を見下ろしている淳一を、見つめ返した。
「入るよ」
 美知は、自分のスニーカーを脱いだ。脱いだ後で、スニーカーを履いてきたことが少し悔やまれた。
 淳一は、中に女がいることを察知すれば、美知は玄関で帰る、と思っていたらしい。
「お、おい」
 と、美知を塞ぐように立った。
「入れ、って言ったのは、淳一でしょう?」
「いいじゃない」
 中から、若い女の声がした。
「入ってきたいなら、入れてあげればいいじゃない、淳一」
 淳一の迷いの瞬間を逃さず、美知は脇を抜けて部屋に入った。
 半裸の女がいた。
 淳一のものなのだろう、男物のTシャツと、下は、パンティしか着けていない。
 女は、値踏みするように美知を見た。美知の視線もまた、そうだったかもしれない。
「聞いてるよ、あなたのことは」
 女は、うす笑いを浮かべながら言った。
「淳一から聞いてたより、イケテルよ、あなた」
 女の顔立ちは、確かに、美知より整っていた。胸もTシャツをはっきりと押し上げていた。それに、女の声は、美知のように「呑気な声」ではなかった。
 美知は、淳一の方に向き直った。
 淳一もまた、女と同じようなうすら笑いをしていた。
「つきあってたんだよ、真理と」
 女は、真理と言うらしかった。
「三ヵ月くらい前かな。――おまえ、鈍いんだよな、全然気づかないしさ。真理と寝た後にさ、おまえ抱いてても、おまえ、全然、気が付かないしさ。気づけよとか、思ったけど、ダメだしさ」
「淳一、私、自分のものを取りに来たの」
 美知は言った。
「CDとか、本とか、あったでしょ。化粧品も、置きっぱなしだし」
「いいよ、勝手に持って行けよ」
 淳一は、女の隣、ベッドに腰掛けた。美知は、カラーボックスに向かった。そこに、三、四十枚のCDが並んでいる。美知は、背中に二人の視線を感じながら、自分の持ってきたCDを捜した。見つけ次第、持ってきた大きめのトートバッグに放り込む。CDケースがバッグの中でたてる音は、美知の中で何かが軋む音のように思えた。
 美知は、S物流の面接をした眼鏡男を思い出した。きっと、死んで欲しいと思っているよ、と男は嘲笑した。呆けて垂れ流しだなんて、俺だったら、死んじゃうねと、言った。今でも毎朝、定時に出勤していく父のことを思った。父は、確かに、友人に自慢したくなるような颯爽としたビジネスマンではなかったかもしれない。だが、苦労した祖母を見て育ち、娘の目からみても、粘り強い人間だったはずだ。その父が、自ら職を辞するほどの、リストラ勧告とは何だろう。
 CDを終えると、次は本棚に向かった。マンガが、シリーズで十冊もあった。美知が淳一に教え、淳一も面白がって読むようになったシリーズだ。一緒に、読んで笑ったマンガだ。他に、文庫本、単行本もあった。
 化粧品が、見当たらない。
 美知は、相変わらず笑いが口元に漂う淳一を見据えた。
「私の化粧品、どこかな」
「捨てたよ」
 女が言った。
「元カノの化粧品なんか、私が捨てた」
「勝手に捨てないでよ、高いんだから」
 美知は女を見返した。
 女は、鼻で笑った。
「ビンボー人が。何よ、安っすい化粧品じゃない」
 女は、そう吐き捨てた。
 美知は、机の上にあった雑誌を女に投げつけた。女は悲鳴をあげ、淳一は立ち上がった。
「ふざけんなよ。俺の部屋にあるものを、勝手に捨てて、何が悪い」
 今までに聞いたこともない、淳一の声だった。
「さよなら」
 美知は、美知のもので一杯に詰まったトートバッグを抱え、スニーカーの踵を踏んだまま、部屋から飛び出した。
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