第3話

文字数 3,430文字

 予想通り、母は、ずっと寝室から出てこなかった。午後からはヘルパーが来るとのことで、美知は、午前中、祖母の相手をすることになった。
「昨日の夜、怖い女の人が、わたしのことを怒鳴ったんだよ」
 祖母は、布団の上に正座し、美知に喋りかける。春の陽射しが祖母を暖かに包んで、そうしていると、祖母は全く普通に見える。
「アケミちゃん、怖かったんだよ」
「そうなの。怖かったねえ」
 美知は、祖母といるときは、「アケミ」になりきることにしている。
 祖母がアケミと言い出してから、父は、祖母の弟や従妹に、どんな人か心当たりはないか、尋ねてまわった。誰も知らなかった。祖母の持っていた小学校や女学校の名簿にも、「アケミ」という名を持つ女性はいなかった。
「でも、どうして女の人は、富美ちゃんのことを怒鳴ったの?」
 おばあちゃん、では、祖母には通じない。祖母の名である「富美ちゃん」と呼ばないと、わからないのだった。祖母は、美知にそう尋ねられ、しばらく遠くを見るような目になった後、
「お家に帰りたいねえ」
 とため息をついた。
 ここが家だよ、と言っても無意味だった。祖母は、子供時代に戻っている。祖母の言う家は、子供時代を過ごした、今はもうどこにもない家なのだ。
「帰りたいね」
 美知は相槌を打つ。
「アケミちゃんと、一緒だね」
 祖母は、安心しきったような笑顔を見せる。
「どこに行くのも、アケミちゃんと一緒だ」
 美知は、遠く時の彼方にいたはずのアケミに思いを巡らす。今、アケミはどうしているのだろう。祖母の話からすれば、アケミも、祖母と同じくらいの年齢になっているはずだ。
「富美ちゃんと、どんなところに一緒に行ったっけ?」
 美知は、そう聞いてみた。
 祖母は、不思議そうな表情をした。
「どんなところって、――どこでも一緒だったじゃないか。お手洗いだって、お風呂だって、夜、お布団で眠る時も、一緒だったよ」
 それじゃあ、まるで姉妹だと美知は思う。祖母に姉妹はいない。一緒に暮らしていた少女がいたなどとは、祖母の弟も言っていなかった。やはり、アケミは、祖母の認知症による混乱から生まれた幻なのだろうか。
 だが美知は、アケミになりきるうち、祖母の中にいるアケミを、自分に近しい者と感じ始めていた。
「アケミちゃん」
 祖母は言う。
「アケミちゃん、覚えてるでしょ? 山田さんのお屋敷で、遊ばせてもらってさ。綺麗な薔薇の花が咲いてるお庭でさ」
 祖母の語るアケミとの思い出話は、同じ内容のこともあったし、祖母が認知症となってから数ヶ月が経つ今でも、全く新しい話が出てくることもあった。
 いずれにしても八十年近く前の記憶であるはずだった。だが、語られる思い出は、昨日のことのように鮮明だった。
「わたしたち、楽しかったよね。――怖い人もいっぱいいたし、いっぱい働いたけれど、でも、楽しかったよね」
 祖母は、確認するように、美知の手を強く握る。
 祖母は、幼い頃に奉公に出された。戦前にはよくある話だったのかもしれない。そして、戦後、祖母が中年過ぎになるまで、ずっと苦労の人だったのだ。そういうことを知ったのは、祖母が認知症になった後だった。
 なぜだろう、と美知は思う。祖母が「アケミ」に語る思い出話は、みな楽しく、美しいことばかりだ。
 それが、歳月というものなのだろうか。
 それとも、認知症になってもなお生きている、祖母の前向きな心の為せる業なのだろうか。


 それから二日後の夜、美知は、資料請求した会社の一つから、説明会においでください、というメールを貰った。説明会に呼ばれるのは、初めてのことだった。
 美知が呼ばれた説明会は、ある衣料品流通会社のものだった。英文科にいる美知は、本当は商社に行きたかったのだが、選り好みするような贅沢を言っていられる状況ではなかった。
 その会社が変わっていたのは、資料請求フォームに、「いま、悩んでいること」との題で、八百字ほどの作文を書くことだった。ここで何か目を惹くことを書けば、呼んでもらえる、と美知は思ったのだ。美知は、祖母にはちょっと申し訳ないなと思いつつも、祖母の認知症について、かなり具体的に作文に書いた。反応があったということは、この「作戦」が成功した、ということになる。


 説明会は午後二時からで、美知は余裕を見て少し早目に家を出た。
 駅までの通り道には、ケーキ店の「プチ エスポワール」がある。店の前で、店主の妻、初江が掃き掃除していた。初江は、まめに店の掃除をする。その姿勢が美知は好きで、初江を見ると励まされるような気持ちになる。初江は、美知のリクルートスーツ姿を目にとめ、
「あら、どうしたの」
 と、声を掛けてきた。
「会社の説明会なんです」
 美知は足を止め、初江にそう答えた。
「美知ちゃん、二十一よね?」
「ええ。来年、大学卒業です」
「そうか。もう、そんなになるのね」
 初江は、美知を少し眩しそうに見た。
「プチ エスポワール」は、美知が物心つく以前から、ずっとそこにあるケーキ店だ。かつて美知が小学生の頃は、それと同時に「同級生の修くん」、石崎修の家でもあり、店の名は「プチ エスポワール」ではなく、フランス語で「海」という意味の「ラ メール」だった。
 石崎修は、自分の家のことが自慢だった。クラスの子供たちは、美知も含めて、みんな修のことが羨ましかった。毎日ケーキが食べられると思っていたからだ。修は、図画工作の時間には、たいていケーキの絵を描き、ケーキを粘土で作った。修は、図画工作の時間が大好きで、得意でもあった。本人も美知も他のクラスメイトも、誰もが、修は将来はケーキ職人になって、あの店を継ぐのだと信じて疑わなかった。
 家が近いこともあって、美知は、よく彼と一緒に登・下校した。修は小柄だったが、母親の初江によく似た固太りの体で跳ねるように駆け回り、大声で流行りの漫才の真似をし、美知を笑わせた。暑くても寒くても、修は半ズボンで元気よく、初江は息子を送り出すと、そのまま店のガラスの拭き掃除に入るのだ。ずっと、彼らの毎日は同じように続いていく――、はずだった。
 美知が小学五年の時、続いていくはずの未来は消えた。石崎修が交通事故で亡くなったのだ。
 修の死の直後、美知は何をしていても、いつでも、悲しくて悲しくて悲しくて、泣いていた。だが、本当に喪失感が湧き上がってきたのは、修がいなくなって何週間かしてからのことだった。図画工作の時間なのに、修のケーキの絵がない。朝、登校の時、修のバカ騒ぎが聞こえない。そうした一つ一つの欠落が、美知に修を思い出させた。
 修が亡くなった日から、「ラ メール」のシャッターは下りたままになった。店は何ヵ月かの休業の後、「プチ エスポワール」と名前を変えて、ようやくシャッターを上げた。
「プチ エスポワール」とは「小さな希望」という意味だと、美知は、その頃、誰か大人から聞いた。
 それから、もう十年が経つ。その間、「プチ エスポワール」は、ずっと変わらない。店の構えも、売っているケーキの種類も、だ。駅前が再開発され大きなショッピングセンターが出来たのは、四年前のことだった。そこに何軒もの大手洋菓子チェーンが入った。石崎初江の髪の白髪が増え、夫の髪が減り、変わらない「プチ エスポワール」の店構えは、縮んだように見えた。
「どんな会社を受けるの?」
 初江は、美知に尋ねた。
「S物流っていう会社です」
「聞いたことあるわ、それ。――Sグループの会社でしょう?」
「ええ、そうみたいです」
「大きいところね、すごいわ、美知ちゃん」
「入れませんよ、きっと」
「大丈夫よ、美知ちゃんなら。うちのバカより、ずっと勉強できたじゃない」
「そんなこと、ないです」
 たしかに、石崎修は勉強が嫌いだった。
「それに」
 美知は、言った。
「やっぱり景気が悪くて、全然、求人が少なくて。どうにもならないって感じです」
 初江は、少し遠慮がちに笑った。
「美知ちゃんがそう言っても、深刻な雰囲気にならないのがいいわ」
「よく、呑気って言われるんです」
「そうじゃないわよね。――本当につらいことがあると、何だか、呑気みたいになっちゃうのよね」
 そんなふうに言ってくれるのは、初江だけだ。おそらくそれは、息子を亡くした時の彼女自身の経験から来るのだろうと、美知は思う。
 何年経っても、店の名前を変えてみても、初江の中には擦り減ることのない哀しみがあるのだと、美知は思った。
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