第18話:重光の来訪と日向薬師の歴史

文字数 1,766文字

 やがて、夏が終わると、急に牧場のにぎやかさが、消えて、いつも通りの静けさとなった。そして、四宮の住宅は予定よりも早く10月中旬に完成すると言われた。そして10月17日に完成して中を見て、一部の問題が見つかった。

 そして、追加工事をして10月22日に新居が、完成。その後、橋本のマンションを出て10月30日、四宮夫妻が、引っ越してきた。その後、牧場のスタッフを呼んで、内覧会を開いた。

 すると、若いスタッフから、暇な時期、遊びに来て良いですかと言われ、四宮夫妻が、歓迎すると答えた。こうして、四宮は、バーベキューの投資の5百万円と住宅建設費用3千5百万円の合計4千万円を払い、投資残金が、約1億円となった。

 こうして、冬になり2008年を迎えた。牧場から車で25分で、飯山観音へ初詣に出かけ、家内と牧場の安全と繁栄、さらに投資の成功を祈願してきた。ここには、大勢の参拝客が来ていて驚いた。

 桜の名所、天然温泉もあると聞かされた。少しずつ暖かくなり4月の週末、友人の重光太蔵が、訪ねて来た。四宮俊二は、昼休みになり、自宅へ案内した。家の中を見ると新築は、良い臭いが、すると笑顔になった。

 珈琲を入れて、ここは、休祭日は、忙しくて、あまり相手できなくて悪いがと、言うと気にするなと言い、これは、新築祝いだと封筒を渡してくれた。そして俺も、今の仕事に疲れたら、遊びに来て良いかと聞くので、もちろん構わないと告げた。

 平日が、俺の休日で、不定期だから、前もって電話くれれば、2、3ケ月先の休みの日が、わかるから、その時は、もっと案内できると告げた。そして、これも見ておいてとパンフレットを渡した。

 SPDR・ゴールドシェアと言う投資商品の案内書だった。詳しいことは、また、朝にでも電話して説明するが、読めば、ほとんどわかると言い、これから、こういうリスクの少ない投資商品の方が、お前にあっていると告げて、帰っていった。

 そして5月の連休になり、忙しくなり、6月の梅雨になると、お客さんが、減り、暇になるが、梅雨が明けると、忙しくなり7月中旬から学校の夏休みになると、8月いっぱいは、繁忙期となる。

 9月になり牧場の休みの日、四宮夫妻は、七沢から伊勢原へ続く、山道をパジェロで、走って20分で、日向薬師に到着した。21世紀の現在も「日向薬師」として病気平癒、特に眼病に霊験ありとして信仰を集めているようだ。

 また、山内の自然環境が良好に保持されていることから、ハイキングコース、健康保持増進や心の安らぎの場として人気を集めている。しかし、日向薬師では、信じられない位、すごい事が、過去にあった。

 日向薬師は、元の名を日向山霊山寺「ひなたさんりょうぜんじ」と称した薬師如来信仰の霊場で、関東地方では有数の古寺。本尊は、平安時代前期に作られた鉈「なた」彫り像の表面にノミ目を残して仕上げる彫刻様式の薬師三尊像。

 また宝物殿には阿弥陀如来や四天王、十二神将など23体の仏像が納められている。これらを含め 国の重要文化財9件、神奈川県および伊勢原市指定の文化財を多数所蔵する。柴折薬師「高知県大豊町」米山薬師「新潟県上越市」とともに「日本三薬師」に数えられる。

 その他、峰の薬師「相模原市」、高尾山薬王院、新井薬師とともに「武相四大薬師」として信仰を集めており、一時期は勅願寺になり、江戸時代末期には、12坊を数えたと言われる。

 建久3年「1192年」8月9日頃には、源頼朝の妻・北条政子の安産祈願のために読経をさせた寺院の1つとして霊山寺の名が見える。「この時、生まれた子が、後の源実朝」

 また、建久5年「1194年」8月8日条には、源頼朝が娘の大姫の病平癒祈願のため自ら「日向山」へ参詣したとの記載がある。『新編相模風土記稿』によれば、近世の日向薬師には別当坊の宝城坊を含め13坊があった。

 それ以外に、すでに廃絶した坊もいくつかあったと記載されていることから、往時の規模がしのばれる。また、山内には、七所権現社や東照宮などがあり、神仏習合の信仰が行われていた。

 明治時代初期の廃仏毀釈「はいぶつきしゃく」により多くの坊舎が失われ、本堂「薬師堂」、鐘堂、仁王門などをわずかに残すのみとなった。現在は霊山寺の別当坊であった宝城坊が寺籍を継いでいる。
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