幕間 想いは秘密のまま

文字数 3,906文字

 十一月十五日 午後八時五十三分

 海沿いに続く遊歩道に等間隔に設置された照明灯が、夜の海の海面を青白く照らしている。
 ベンチに座る二人がその海面を眺めていると、潮風が女の髪を揺らし、隣にいる男の頬を撫ぜた。見上げる空には雲一つなく、月が眩く輝いている。その輝きに誘われるようにして、その女は口を開いた。

「ねえ……」

 女は身を寄せて男の左脚に右手を添えた。身体の温もりが少しずつ伝わるのか、男は横目に女を見ている。男はその女の小さな肩を抱くと、女は顔を上げて真正面を向いている男の首すじに唇を近づけて吐息を漏らした。女の生暖かい吐息は耳朶にも広がり、また男が横目に女を見る。

 男は女の肩を抱く左腕に力を込めて、女の身体を強く引き寄せて――

「やめて。ほんとやめて。くすぐったいよ奈緒ちゃん。マジやめて」

 相澤裕典は首を竦めて隣の女に文句を言ったが、女に手の甲で頬を叩かれている。


 ◇◇◇


 海に面した公園のベンチで俺たちはカップルに扮して対象者の監視をしている。隣の加藤奈緒はギャルから割と適当な格好に戻り、寒い海っぺりでズボンが履けることを喜んでいた。

「息すんなってこと? 無理じゃない?」
「そうだけど! そうだけど!」
「あっ」
「おっと……」

 監視対象者がベンチから立ち上がり歩き出した。

「こっち来るね」
「……奈緒ちゃん見といてね」

 加藤の肩を抱いた手を腰に移動させて加藤の背中を支えた。右手は太ももに置く。加藤の視界を妨げないように身体を屈めて加藤の左耳に顔を寄せると、視界の端に対象者が入った。

「あっ見えた」
「……んっ」
「もしかしてくすぐったいの? ふふっ」

 加藤は左腕を俺の背中に回し、指先で首すじをなぞりながら、耳朶にそっと触れた。

「痛たたたたたっ! やめて奈緒ちゃん! 爪! 食い込んでる! 痛いよっ!」

 加藤は『痛いのは嫌なのね……なら……』と声音を変えて俺の左耳を食んだ。舌が触れた感覚がして首すじがぞわりとした。吐息が耳に流れ込む。
 加藤が纏う香水を強く感じた時、加藤の背中を支えていた左腕の熱は奪われて、その代わりに加藤と合わせる身体が熱を持った。加藤は左手で後頭部の髪を撫でて、そして耳朶にそっと舌先を這わせた。

「ほら行くよ」

 加藤はまた手の甲で俺の顔を叩き、身体を捩らせて立ち上がった。呆気にとられたが、俺もすぐに立ち上がり加藤の手を繋ごうとした。だが加藤は左腕に腕を絡ませてきた。

 手を繋がずに絡ませているのはなぜだろう。
 腕に奈緒ちゃんの胸の感触がある。
 意外と大きい……かな。多分そんな気がする。
 でも今の何……なんだったの……びっくりした。
 奈緒ちゃんは今までこんなことしなかったのに。

 しなだれかかる加藤は左手も腕に添わせてきた。その手に力が込められて、顔を上げた加藤が口を開いた。

「ねえ、相澤」
「……うん?」
「あんた動揺してるでしょ?」
「うっ」
「バカなの?」

 大きくため息を吐いた加藤は語り始めた。松永さんとペアを組んでいる野川が俺のことが気になっているらしいと。俺と同期である加藤に、俺のことを聞き出そうとしている姿は若い女の子として考えたら可愛いが、どうにも加藤は気に入らないという。

「野川って、あんたタイプでしょ?」
「あー、うん……」
「……あのさ、ベンチでやったのとコレ。私じゃなくて野川だったら、あんたコロッといくでしょ?」
「うん」
「バカなの?」
「何度も言わないで! わかってるよ! もう!」

 実は松永さんからも野川の件は言われている。松永さんはペアを組んで毎日観察しているが、どうにも信用ならないと。それは仕事ではなく、彼女個人が信用ならないと言っていた。

「十歳も歳が離れてるゴリラを好きになるなんて天変地異でも起きるのかなと思ったけど、ちょっと私は……あの子はおすすめ出来ない」
「天、変、地異」
「ゴリラには触れないの?」
「ゴリ……いいよ続けてよ、ゴリラは事実だから」
「……野川がさ、刑事課の間宮さんが女とラブホに行く所を見たって言うんだよ」

 心臓を鷲掴みにされたみたいになった。
 頭に浮かぶのは笹倉さんの顔、そして笹倉さんの車の脇で楽しげに話す二人、間宮さんに駆け寄る笹倉さんの後ろ姿。

「……いつの話?」
「えっ……あー、十三日の午前中に連絡来たから十二日じゃないかな」

 ――署で笹倉さんを見た日は十二日だ。

「それで?」
「ああ、その時、一緒にそれを見てた松永さんにマジギレされたんだって」

 ――松永さんも見たんだ。

「……なんで?」
「私にバラそうとしたから。だから秘密は守れ、秘密は魂と同じだってマジギレされたんだって」
「ああ、だろうね。でも結局それ含めて奈緒ちゃんに喋っちゃってる、と」
「そうそう」
「奈緒ちゃんも俺に喋ってんじゃん」
「私、一度流出した情報は全力で拡散するよ?」
「奈緒ちゃん!」
「私が見たんなら誰にも喋んないよ」

 その後も加藤は野川の懸念材料を話していた。
 松永さんから言われたことや素行、服装、ヘアスタイル、使っているスタイリング剤までも話していると。

「そういうの米田に全部筒抜けだよ」
「えっ?」
「そういう魂胆でペア組ませたんじゃないの? 野川と松永さん」
「……なんで?」
「私は情報漏らさないから」
「ああ……」
「まあ、多分、女関係とか、弱点を知りたいんじゃないのかな」

 聞いたことはある。
 米田さんが本気で惚れた女は、実は松永さんが結婚しちゃったから諦めて米田さんと付き合ってたらしい。その女は、松永さんの離婚を知って米田さんをさっさと捨てた。それをいまだに恨んでいると聞いたことがある。

「そういえば相澤って同業に手を出したことはないよね、確か」
「うん、ない」
「それがいいよ」

 監視対象者を視界に入れて端にいる加藤を見るが、そんなことを言われてしまうと、なんとなく、加藤がずっと身体を寄せたままでいることに居心地の悪さを感じてしまう。そっと離れたが、それを横目で見た加藤が舌打ちした。

「え、何!? なんで舌打ちしたの!?」
「寒いんだよ」

 そういうことかと納得し、俺はまた加藤に身体を寄せた。だが加藤は身を躱した。確かにここは寒い。街中でなら問題のない服装だが、海っぺりのここでは少し寒いと思う。だから加藤は寒くて俺の腕にしがみつくようにしていたのか。加藤に悪いことをしてしまったと思って、俺はまた同じようにするよう加藤に言ったが、加藤は『嫌ならいい』と言って体を寄せてこなかった。

「嫌じゃないよ」
「いい」
「奈緒ちゃん」
「いい」

 加藤は腕を解いて後ろに下がり、カバンを右に持ち替えた。横目で見る加藤は少し不機嫌そうにしている。このまま押し問答を続けると手の甲で頬を叩かれるか腕を叩かれるか新技を披露されるかだから本当は言いたくないけど、持ち替えたカバンの取手をギュッと握りしめて、潮風で髪が揺れると首を竦ませる加藤をそのままに出来ない。

「奈緒ちゃん、寒いんでしょ?」
「いいの」

 腕を組まないのならと手を差出すと加藤は少し躊躇してから手を繋いできた。加藤は背が高くて痩せていて、手も細い。俺は握る手と指先に力を込めた。でもいつまで経っても加藤は俺の指を握り返してこなかった。重ねた加藤の手は冷えたまま。

「……奈緒ちゃん、こっちおいで」

 絡めた指先と手はそのままで、後ろ手で加藤の手首を掴んで繋いだ手を解く。強く腕を引き、加藤を俺の右側に移動させた。怪訝な顔をする加藤の背中に腕を回し、二の腕を抱き寄せて俺の身体に密着させた。

「寒いんでしょ? 奈緒ちゃん」

 意図がわかった加藤は声を出さずに笑った。

「野川が相澤を好きになる理由もわかるよ」
「え?」
「裕くんは優しいから」
「そうかな?」
「早く結婚しなよ、ふふっ」

 二年ぶりに会った加藤はギャルメイクで、最初は加藤だとわからなかった。でも今は殆どメイクしていない見慣れた顔の加藤で、いつもの目鼻立ちの整った美人だ。美人なのに今だに独身で不思議に思うけど、中身が狂犬だとバレてるから難しいのだろう。
 松永さんからは、裕くんは結婚したいなら加藤とすればいいと言われている。家に帰って加藤がいるのは嫌ですといつも答えているが、松永さんは裕くんみたいな男は加藤がいいんだよと言っていた。
 加藤は美人なんだけど、俺は小柄で可愛いタイプが好きだから、加藤はちょっと苦手だ。中身は狂犬だし。

「ねえ、今から話すことは秘密にして欲しい」
「うん、秘密は守るよ」

 加藤をちらりと見るが、目を伏せたままで返ってこない。何だろうと思って顔を覗き込もうとした時、加藤は俺を見た。

「なに? 話して」
「私は裕くんがずっと好きだった」
「はっ!?」
「秘密だよ。守ってよ」

 加藤の身体が少し震えている。
 多分、寒いからじゃない。

 ああ、そうか。松永さんが言う加藤と結婚ってこのことだったんだ。それに加藤はギャルの格好から普通の格好になっただけだと思ったけど、よく見たらリボンの付いたアンサンブルを着て、真珠のピアスをして、リボンの髪留めでハーフアップにしている。毛先がカールしてる。メイクだっていつもと……こう……うん、なんか違う。よくわからないけど可愛い格好をしてるんだ。

 ――俺のためにそうしたんだ。

 そう思ったら加藤も女性なんだと初めて認識して、好きと言われてびっくりしたけど嬉しくて、加藤の二の腕を抱いた手に力を込めた。
 視界の横にいる加藤を見ると、加藤は少し驚いていたが、俺を見て――

「痛っっったいんですけど!!」

 そう言い切らないうちに加藤の肘は俺のみぞおちにめり込んでいた。

 ――やっぱり家に帰って加藤がいるのは嫌だ。




 
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