証言Ⅱ

文字数 19,426文字

 ホプキンスの呼びかけに応じ、1人の人物が姿を現した。
 シスターの装いをした30歳前後とおぼしき女性だ。
顔にはまるで聖母のような柔和な笑みをたたえている。
 女性は証言台へ音も立てずに歩み寄り、静かに立ち止まる。
そして、その視線をホプキンスへ注いだ。
「次は、ワタシの番ということでよろしいのでしょうか?ホプキンス様。」
 ホプキンスは彼女を一瞥し、頷いた。
「……そうだ。お…た、頼むぞ。」
「…承知しました。ホプキンス様。」
〔………?〕
 マリアはこのやり取りにどこか違和感を覚えたが、その正体を突き止めようとする思考を木槌の音が遮った。
 裁判長は女性へと命じた。
「では、証人。名前と職業を述べよ。」
 彼女は口を開いた。
「名前はメアリー・フィリップスと申します。職業は…魔女ハンターです。」
「と言ってもまだ見習いで、ホプキンス様の下について勉強を始めたばかりなのですが。」
 裁判長は驚いた顔をした。
「…ということは、あなたも最初の男と同じように…?」
「はい。ホプキンス様の部下ということになります。」
〔…この人もなの?〕
 マリアにとって、それは以外だった。魔女ハンターを生業とする人間は、ホプキンスやスターンのように奇天烈な人間のばかりだと思っていたからだ。
とはいえ、一見まともそうなこの女性も、あのホプキンスの部下であることに変わりはない。恐らく一筋縄ではいかないだろう。
マリアは、一段と気を引き締めた。
 それと時を同じくして、再び木槌の音が法廷に響き渡る。
「では、証人。証言して貰おうか。」
「はい、裁判長様。承知しました。」

<メアリーの証言:水責めについて>
「ワタシが証言するのは、いわゆる《水責め》と呼ばれる魔女の判別方法についてです。」
「容疑者マジョーカ・シーズ。彼女は、この方法によって魔女であると断定することができます。」
「これは、口だけで説明するよりも、実際に見ながら理解して頂いた方がいいと思います。」
「ですから、少し準備に時間を頂戴しますね。」
 そう言うと、メアリーは検事側のホプキンスへと歩み寄った。
 ホプキンスは机の前まで来た彼女と、小声で二言三言話し合った後、いくつかの物を手渡した。
人間の頭ほどの大きさをした木箱を2つ。籠(かご)に入れられたネズミを2匹。さらに、たっぷりと水の入った水瓶。
木の箱は年代物のようで、内側まで白い埃をかぶっているように見えた。
綺麗好きのマリアには、それが妙に気になった。
〔あまり使うことのない道具なのかしら…?〕
メアリーは何度か往復し、それらを証言台に運んでいく。
裁判長はその様子を見て目を丸くした。
「し、証人。何をやっている…?」
「ご安心ください。なにも危険なことをするわけではありませんので。」
 メアリーは笑顔のまま静かに答えた。
 彼女は、証言台の前。裁判長からちょうど見える位置に2つの木箱を置いた。
 そこは、弁護側のマリアの場所からもしっかりと見える位置だ。
〔この人…一体、何をするつもりなの?〕
 頭の中が疑問符で支配される。
 恐らく、この法廷にいる誰もがそんな状態だったに違いない。
 そんな雰囲気などどこ吹く風で、メアリーはマイペースに作業を進めていく。
 木箱はひとつの面が開いており、そこから水を注ぎこめるようになっていた。彼女は水を注ぎ、箱の中を満たし終えると手を叩いた。
「では、そろそろ説明を入れていきますね。」
そう言うと、メアリーは2匹のネズミの入った籠に手を伸ばした。
 ネズミたちを籠の中から引きずり出し、尻尾を掴むと胸の高さあたりまで持ち上げる。
 両の手で一匹ずつネズミを吊り上げる格好となった。
 ネズミたちは空中でジタバタと虚しい抵抗を続けている。
 誰もが困惑する中、メアリーは説明を再開した。
「今、私が左手に持っているネズミの尻尾には、容疑者の髪の毛が結びつけられています。」
〔……え?〕
 マリアがそのネズミに注目すると、金色の長い紐のようなものが結びつけられていた。10本程が束ねられており太く見えるものの、確かに髪の毛のようだ。
マジョーカの髪型は金髪のロング。確かに特徴は一致している。しかし、あれは本当に彼女のものだろうか。
仮にそうだったとしたら、一体いつの間に手に入れたのだろう。最後に面会したとき、特に髪の毛には異常は見受けられなかった。
〔地下牢で《針刺し》をやったときにでも調達したのかしら…?〕
〔抜け落ちた毛でも拾った?いや、どさくさに紛れて引き抜いたのかも…。〕
なんにせよ、まだメアリーの意図がよく分からない。
そんなものをネズミの尻尾に結んで、一体どうするつもりなのだろうか。
その疑問は、次の瞬間に解決されることになる。
「それでは、ご覧下さい。」
 メアリーはそう言うやいなや、手に持っていたネズミを空中に放り投げた。
 軽い水音と共に、ネズミは箱の中の水面に着水する。
 少しだけこぼれた水が床を濡らす。
 10秒程時間が経ち、次第に観衆の前でその異常が姿を現し始める。
 ――もっと正確に言えば、“正常な出来事が起こらなかった”という方が正しい。
〔……!?〕
 マリアから見て手前――メアリーの左手側にある木箱に投げ込まれたネズミ。
 それが、いつまで経っても沈まない。水面に浮かんだまま、虚しくもがき続けている。
奥の木箱に入ったネズミはとっくの昔に沈んでいるのに。
〔そんな……ウソでしょ……?〕
 驚愕の表情を浮かべる観衆を前に、メアリーは相変わらず微笑みを浮かべたまま言葉
を続けた。
 「水は、古来より魔女狩りに使用されてきた、聖なる液体です。」
 「聖なる液体である水には、邪悪なモノを拒絶する力があります。」
 「この水の性質を利用し、邪悪な存在である魔女を選別する方法が《水責め》です。」
ゆっくりと言葉を紡いでいく。
 「魔女は自らの力を分け与えることで、動物を使い魔として使役します。」
「ネズミは、魔女の使い魔としてよく使われる動物です。」
 静まりかえった法廷の中で、メアリーの声だけが耳を刺す。
 「魔女の力は、その髪の毛に多く宿ります。」
 「よって、このネズミは……」
 メアリーは、自分の左側にある木箱を指さす。
 「結びつけたマジョーカ・シーズの髪の毛から力を与えられたからこそ、こうして溺れずにすんでいる。と言うコトです。」
 「自らの髪の毛だけで、このような奇怪な現象を引き起こす…そんな者が、もはや人間と言えるでしょうか?」
 メアリーは大仰に首をかしげた。
 「言えませんよね?」
 「つまり、マジョーカ・シーズは魔女である。そう断言できます。」
 「ワタシの証言は以上です。裁判長様。」
話を終えたメアリーは、2匹のネズミを《水責め》から救い出すと、籠の中へと戻した。
沈んでいた方も辛うじて息があるようだ。
 裁判長は当惑した表情を浮かべている。
 「な、なんと……。」
 メアリーの証言に度肝を抜かれたようだった。
 しかし、次の瞬間には木槌を叩き付け、マリアへ目線を移していた。
 「証言はこれまで。…弁護人は《尋問》を望むか?」
 2人目の証言が始まって早々、既に裁判長の心証は検察側に傾いてるようだった。
メアリーの《ショー》は、その効果を存分に発揮していた。
〔…これは、マズイわ。〕
一瞬で背筋が凍り付く。しかし、その感覚を無理矢理振り払い返答する。
 「当たり前です。弁護側は《尋問》の権利を放棄しません!」
 「ならばよし。…汝の仕事を全うするがよい。」
 木槌の音が法廷に響き渡る。
 この《尋問》におけるポイントがどこか、彼女はハッキリと理解していた。
〔《水責め》で起きた不可解な現象…。あの謎を解くことが、この《尋問》の要になるのは間違いない。〕
〔…シーズの濡れ衣をはらすためにも、絶対に《カラクリ》を暴いてみせる!〕
彼女は拳を握りしめた。


 〔目の前であんな《ショー》を見せつけられて、裁判長の心証は完全にあちら側に傾いている。〕
 〔まずはそれをどうにかしないと…。〕
 〔とにかく、メアリーを揺さぶってボロを出させて、裁判長があの《水責め》に疑念を抱くように仕向ける。〕
 マリアは暫定的に《尋問》の方針を定めた。
 それに従い、彼女はメアリーに質問を投げかける。
 「証人…フィリップスさん。お聞きしたいことがあります。」
 「なんでしょうか?」
 「ネズミの尻尾に巻いた髪の毛…シーズさんのものということでしたが、それを証明できるのですか?」
 「できませんよ。」
 笑みを絶やさないまま、メアリーは答えた。
 「……え?」
 その返答にマリアは困惑を隠せない。
 ここで唐突に、証言中は沈黙を保っていたホプキンスが口を開いた。
 「メアリー。この場はお前に任せるとは言ったが…冗談はほどほどにしておけ。」
 メアリーは口元に手を当てた。
 「あら、すいません。今のは言葉のアヤです。」
 「正確に言えば、私たちにはそんなコトを“する必要がない”のです。」
 〔…ど、どういうこと?〕
 「まさか、知らないのですか?魔女裁判の《原則》を。」
メアリーは人差し指を立てた。
 「『魔女裁判においては、検察側からの証拠提出に際し、これに疑いを持つ場合、被告人自身あるいはその弁護人がその疑いを立証する義務を負う。』」
 「つまり。もしも、アナタが『この髪の毛は被告人のものでない』という疑いをもっているなら…」
「それを立証する義務が課せられているのは、アナタなのです。」
「ワレワレには、『この証拠は本物だ』ということをいちいち証明する義務はありません。」
それはつまり、弁護側が精査しない場合、検察側の証拠はすべてそのまま採用されてしまうということだ。
〔まさか…そんなことがまかり通っているなんて…。〕
マリアは絶句した。
〔お父様…貴方の仰っていた通りです。〕
 彼女は《魔女裁判》について父親が語っていた言葉を噛み締めていた。
マリアの父親――その名はドータスキー・アバーク。名門貴族アバーク家を束ねる頭首にして、元弁護士。
そしてなにより、彼女をこの法廷に送り込んだ人物だ。

* * * * * * * *

時は裁判当日の3日前にさかのぼる。
アバーク家の領地――その広大な領地は、見る者に領主としての力を感じさせるには十分だ。この中では、常に大勢の使用人たちが自らの仕事をこなしている。
手入れの行き届いた庭園。刈り込まれた芝。ガラスで覆われた温室の中では、植物が育てられている。そのどれもが大規模なものばかりだ。
そして、中でも一際大きな建物――アバーク家の屋敷。
その一室で、親子は久しぶりの対面を果たしていた。
「…それにしても、このような形とはいえ、お前がここに戻って来てくれて嬉しい。」
「こうやって面と向かって会うのは数年ぶりだな。」
火の入っていない暖炉の前。そこにある安楽椅子に、壮年の男性が腰掛けていた。
その男性――ドータスキー・アバークは座ったまま娘に語りかける。
マリアの方は用意されていた椅子には座ろうとせず、立ち尽くしていた。その表情には緊張の色が滲んでいる。
「それで、マリア。お前の“頼み事”についてだが……。」
マジョーカが捕まったことを知ったマリアは、ある“頼み事”をするため、アバーク家に舞い戻ってきた。
修道女として出家したのにも関わらずに。
マリアが出家したのには理由があった。それは、年の離れた弟――ペドロ・アバークと家督を争うのを防ぐためだ。
長女である彼女には、次のアバーク家頭首の座が約束されていた。10年前に腹違いの弟としてペドロが生まれるまでは。
頭首の座は男性が優先される。しかし、マリアはすでに次期頭首としての教育を叩き込まれていた。それまで男児がいなかったため、頭首になるのは彼女だと思われていたからだ。
ペドロが誕生してすぐ、アバーク家は2つに割れた。アバーク家の中で、彼が次期党首となることに納得のいかない勢力と彼こそが次期頭首として正当であるという勢力が派閥争いを始めたのだ。マリアはこの争いの渦中に巻き込まれることになった。前者の勢力は、彼女の存在を祭り上げ、後者の勢力に対抗しようと画策を始めたからだ。
そこでマリアはそれを防ぐため、出家して修道女となり、自ら頭首候補としての座を捨てた。そのおかげで、ようやくこの騒動は収束をみせた。
このことについて、ドータスキーはマリアに大きく感謝していた。それこそ、厄介な頼み事のひとつやふたつくらいなら喜んで請け負う程には。
しかし――
ドータスキーは息を吐いた。
「…それについての答えを返す前に、もう一度言っておかねばならない。」
「くどいと思うだろうが……いいかな、マリア。よく聞いてくれ。」
彼は吐き捨てるようにつぶやいた。
「《魔女裁判》というものは……とても酷い。想像を絶するほどに。」
「確かに、お前には弁護士としての才能がある。技術を仕込んだ私も驚くほどのな。」
彼は首を振った。
「しかし…《魔女裁判》となれば話は別になる。」
「私は過去に何度かあそこで戦ったことがあるが…あそこは、裁判とは名ばかりの“無法地帯”だ。」
「証拠の捏造。証人に対する脅迫。誘導尋問。…あの法廷では、《魔女》への鉄槌の名の下にあらゆる手段をとることが黙認されている。直接的な暴力以外は。」
ギシリと安楽椅子がきしむ。
「こんなことがどうしてまかり通るのか。その理由がわかるか?」
マリアは頷いた。
「先ほど伺いました。《魔女ハンター》たちに特権が与えられすぎているからだと。」
「そう、その通り。」
ドータスキーは肯定した。
「あえて補足するなら、特権を得たことにより増長した《魔女ハンター》たちに、表だって逆らう者が誰もいないからだ。」
「逆らえば、自分を《魔女》と糾弾され、処刑されてしまうかもしれないからな。」
彼はため息を吐き、娘を見据える。
「ダメだマリア。やはり、お前の頼みは聞けない。彼女の…マジョーカ・シーズの弁護な
んてやらせるワケにはいかん。いくらお前の幼なじみであってもだ。」
 マリアの“頼み事”――それは、アバーク家の有する権力を用い、自分にマジョーカ・シーズを弁護をする資格を与えて欲しいというものだった。
「確かに私の力があれば、お前を法廷に立たせることは可能だろう。“特例”の弁護人としてだが。」
「だが、そんな危険な場所に自分の娘を立たせる父親がどこにいる?」
 「絶対にダメだ。そんな頼み事を引き受けることはできない。」
ドータスキーは毅然とした態度で言い切った。
 しかし、マリアは一歩も引かなかった。
 「では、伺います。」
 「シーズさんを救うために、他に何か手があるのでしょうか?」
 「……!」
 ドータスキーが驚きの表情を浮かべる。
 「私だって、何の情報も得ずにここまで来たわけではありません。」
「知っているんです。八方手を尽くしても、シーズさんの弁護を引き受けてくれる弁護士は、どこにも見つからなかったと。」
ドータスキーの顔が歪む。
「確かにそうだ。だが…この際、仕方ない。私が出ればいいだけの話だ。」
マリアは首を振る。
「お父様はすでに現役を退いておられます。」
「それはそうだが、だからといって―」
「なにより、《魔女裁判》では、身内を弁護することは堅く禁じられているはずです。」
「…シーズの、この家における立場。…それについても、知っているというわけだ。」
安楽椅子がギシリと鈍い音を立てる。
マリアが頷く。
「はい。シーズさんは世間に公表されていませんが、アバーク家の養子です。」
「つまり、血は繋がっていなくとも、身内に当たる存在になるはず。」
「いくらアバーク家に権力があるといっても、《魔女裁判》という公の場でこの事実を隠し通すことは不可能です。」
「どんなに隠蔽工作をした所で、必ずどこかから漏洩します。この家も一枚岩ではありませんから…。」
「そうなれば、この家が取り潰される可能性もありえます。」
「しかし、すでに出家してアバーク家と袂を分かった私ならば、そのような心配は無用です。すでに身内ではありませんから。」
マリアは父親の目を見据える。
「どうかお願いします。お父様。他に打つ手はありません。」
「このままでは、シーズさんはただ死を待つだけです。」
「私の“頼み事”……どうか、聞き入れてください。」
その視線から目をそらすようにして俯くと、ドータスキーは押し黙った。
しばらくの沈黙の後、彼は口を開いた。
「…わかった、マリア。お前のその頼み……引き受けよう。」
「お父様…!」
「…こうなってしまった以上。シーズさえ助かれば、この家がどうなろうと一向に構わないと思っていたが…」
ドータスキーは消え入るように呟いた。
「アイツとの“約束”…。それを守り続けるためには、この家を失うわけにはいかないのもまた事実…。」
〔……アイツ?“約束”?…何のことかしら?〕
ドータスキーは娘に向き直る。
「本当にすまない。マリア。」
「私は、またお前に犠牲を強いることになる…。」
浮かんだ疑問を振り払うとマリアは微笑む。
「何を仰っているのですか、お父様。」
「私は、出家したことを後悔していませんよ。むしろ、今となってはそれを感謝しているくらいです。」
「この手で、大切な友人を守ることができるのですから。」
「…マリア…。」
「…………」
凜とした、しかし心地の良い沈黙がこの部屋を支配した。
しばらくして、ドータスキーがその沈黙を破った。
「…お前が自ら法廷に赴く前に、伝えておかなくてはならないことがある。」
「…何ですか?お父様。」
「法廷で、《魔女ハンター》たちと戦うときの鉄則だ。…必ず覚えておきなさい。」
「……!」
後に続く言葉に、マリアは神経を集中させる。
「簡潔に言おう。」
「第一に、彼らをよく観察すること。」
「第二に、彼らの言動に惑わされないこと。」
「第三に、思考を転換すること。」
ドータスキーは右手の指を3本立てた。
「常に忘れてはならないのはこの3つだ。」
 「そして、この中で特に大切なのは3つ目……思考を転換することだ。」
 「思考を…転換する?」
 マリアは首をひねった。
 「ひとつの見方に捕らわれず、色々な切り口から物事を見ろということだ。」
 「決して忘れるな。お前が行き詰まったとき、この言葉は必ず役に立つだろう。」
 「ときには、地球が天の主役であるという考え方さえも、捨て去らなければならないかもしれない…しかし…」
 「例えどれだけ信じられないことであっても、最後に残ったモノこそが真実だ。」
 安楽椅子が揺れ、ギシリと鈍い音を響かせた。

* * * * * * * *

時は現在――法廷へと戻る。
マリアは父親と会話を回想するとともに、彼の助言を思い出していた。
今まさに、彼女は行き詰まっていた。
 〔私には、あの髪の毛がシーズさんのものではないことを立証する手立てはない…〕
 〔これ以上、この疑問を追求し続けるべきなのかしら…?〕
 マリアは首を振る。
 〔いや。それは…やめておいた方がよさそうね。水掛け論にしかならない。〕
 〔水掛け論には価値も勝ちもない。…頭を冷やさないと。〕
 顎に左手を添えながら彼女は考える。
 「…わかりました。弁護側は、先ほどのメアリーさんへの質問を取り下げます。」
 メアリーは相変わらずの笑顔で応じる。
 「そうですか。弁護士さんの理解に感謝します。」
 マリアは考える。
 〔仕切り直しよ。…ここから、どうやって切り込んでいこうかしら?〕
 〔ここまでの駆け引きで得た教訓はひとつ。このメアリーという証人に、迂闊(うかつ)な質問は命取りになりかねないということ。〕
 〔そうなると、闇雲に突き進むだけではダメ。決定的な勝機を掴まないと。〕
 〔でも、このまま目に見えた部分だけに焦点を当てていったところで、《カラクリ》の究明に繋がるとはとても思えない。〕
 〔…ここは、お父様の仰っていた通り、『思考の転換』が必要ね…。〕
 彼女は思考をさらに進める。
 〔どうして、シーズさんの髪の毛を結びつけたネズミだけが沈まなかったのか。〕
 〔何か仮説を立てるにしても、今はまだ情報が足りていない。〕
〔となると、やらなければいけないことはひとつ…情報を集めること。〕
〔まずは、あのパフォーマンスで使われた道具を調べるところから始めましょう。〕
マリアはホプキンスへと視線を向け、言葉を放つ。
「弁護側は、証言の際に使用された道具の精査を要求します。」
果たしてホプキンスは、大人しくこの要求を飲むだろうか?
とてもそうは思えないが、とにかくマリアは情報収集に徹することにした。
拒否されたならばされたで、そこから切り込んで行くこともできるはず。
〔さあ、向こうはどう出てくるかしら…?〕
意外なことに、ホプキンスは要求にすんなりと応じた。
「こちらとしては一向に構わない。メアリー、弁護人サマに道具を調べさせてやれ。」
「了解しました。ホプキンス様。」
メアリーは検察側の机まで静かに移動し、ホプキンスの側に控えた。
「どうぞ。自由にお調べになって下さい。気のすむまで。」
彼女はこともなげに言った。
〔いったい何を考えているのかしら…?〕
訝しみながらもマリアは道具に近づき、調べ始める。
まず手始めに、ネズミの入った籠を手に取る。
〔私としては、恐らくこの2匹に仕掛けがあると思うのだけど…。〕
中では、濡れそぼったネズミたちが大人しく横たわっている。
〔…し、死んでないわよね…?〕
ただ単に、濡れた体を乾かしているだけのようだ。
ほっとした彼女は、ネズミたちを子細に観察し始める。
〔見たところ、一匹のネズミの尻尾に髪の毛が結んである以外、特に変わったところはなさそう…。〕
〔あっ。そうだ…!〕
ふと、アイデアが浮かんだ。
〔この2匹のネズミを入れ替えて、それぞれの木箱に入れたらどうなる…?〕
〔何か、手がかりが掴めるかもしれない。早速試してみましょう。〕
マリアは籠のフタを開けようとした。
「おっと、それ以上はやめて貰おうか。」
唐突に作業を遮ったのは、ホプキンスの声だった。
「使い魔に触ることが許可されているのは、俺たち魔女ハンターだけだ。」
ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、彼は平然と言い放った。
「いくら弁護人サマといえど、許すわけにはいかねえなぁ。」
「素人が不用意に扱えば、命の危険すらあるんだぜ?」
「異議あり!弁護側には、証拠品を調べる権利が――」
振り下ろされる木槌の音が、その言葉を遮る。
「異議を却下する。」
「ど、どうしてですか!?」
裁判長は事もなげに述べた。
「当教会は専門家の意見を尊重する。」
「わざわざ、人命を危険にさらす行為をする必要はない。」
さらに彼は付け加える。
「それとも、そのネズミを調べれば、証拠が見つかる確証でもあるのか?」
「そ、それは……」
確証などあるわけがない。
「しょ…承知しました。裁判長様の決定に従います…。」
仕方なく、マリアは折れた。
〔ぐっ…。手で触れることすら禁じられてしまうなんて…。〕
〔目視で確認した限り、変なところは見つからなかったけど…。〕
不安は残る。もし、この見立てが間違っていたらどうするのか。
〔…気持ちを切り替えていきましょう。まだ、調べないといけない物は残ってる。〕
続いて、無造作に置いてある水瓶に注意を向ける。
水瓶をこれ以上ないほどなで回し、中をのぞき込み、徹底的に調べる。
しかし、これにも目立った点はない。どこにでもある、普通の水瓶だ。
〔仕掛けらしき仕掛けは、どこにもないようね…。〕
謎の解決に役立ちそうなモノも、何も見つからない。
〔今のところ、碌(ろく)な手がかりが集まってない…。どうしよう…。〕
焦りが募る。
「手が止まっているようですが、調査は済みましたか?」
「ま…まだです。もう少し、待って下さい。」
敵を確実に揺さぶれるような手がかりは、いまだに見つかっていない。
〔現状では、仮説を立てることすらおぼつかない。…参ったわ。〕
マリアは天を仰ぎたくなった。
焦りを募らせたまま、水の張っている2つの木箱に手を付ける。
〔今度こそ、どこかに異常は見当たらないかしら?〕
水面に映った自分の顔がこちらを見つめ返す。
彼女は2つの箱のあちこちに手を触れてみたものの、木の板の感触以外は感じ取れなかった。
〔板に仕掛けがあるわけではなさそうね…。〕
〔一応、底の板の裏も確認しておこうかしら。〕
マリアは弁護側の方にある箱を持ち上げ、底板の裏を覗こうとした。
しかし、焦りで気が急いていたせいかバランスを崩し、頭の上で木箱を大きく傾けてしまった。
少なくない量の水が木箱からあふれ出る。
「きゃあ!」
マリアもただではすまず、頭から水を浴びる羽目になってしまった。
傍聴人の間から含み笑いが漏れる。
彼女は必死で顔が赤くなりそうなのを堪えた。
〔うぅ…。水瓶に水を移してからやるべきだったわ…。〕
だがそのとき、髪から水をしたたらせつつも、マリアは気がついた。
あのメアリーの余裕の微笑みが、ほんの一瞬だけ引きつったことに。
〔…今までずっと微笑みを絶やさなかった彼女が、急にどうして…?〕
さらにマリアは、ある事に気がついた。
〔ん…?あれ、この水…。〕
口の中に入った水から、妙な味がする。
〔うえ…。なんなのこれ、ものすごくしょっぱい。どうしてこんな…?〕
〔…両方ともこうなのかしら…?〕
もう片方の木箱の水に指を突っ込み、味見をする。
〔いや、もうひとつの木箱に入っている水は普通みたい。〕
〔どういうことなのかしら…?〕
その瞬間、あるアイデアが脳裏を駆け巡る。
〔ま、まさか。これって……!?〕
思いついた、ひとつの仮説。
〔この仮説なら、戦えるかもしれない…!〕
躊躇う必要はない。
マリアは大きく息を吸い込むと、凜とした声で言い放つ。
「弁護側は異議を申し立てます!」
メアリーを指差し、さらに言葉を重ねる。
「彼女の証言には、決定的な“偽り”が存在します!」
教会中の観衆が、その発言にどよめく。
「…どういうことだ?弁護人、説明して貰おうか。」
裁判長は、冷静にマリアへと続きを促した。
「はい。承知しました。裁判長様。」
マリアはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「証人…メアリーさんはこう言っていました。」
「『聖なる液体である水には、邪悪なモノを拒絶する力がある』…と。」
次に口を開いたのは、メアリーだった。。
「…それが、何か?弁護人サマ。」
マリアはメアリーの目を見据える。
「しかし、この水はある“秘密”が隠されています。」
「この“秘密”によって、彼女たちは聖なる力を偽装しているのです!」
「なんだと…?」
裁判長は、その発言に目を剥く。
「“秘密”…ですって?一体、何を言っているのですか?」
語気を強めるメアリーに対し、マリアは攻勢を緩めない。さらに言葉を続ける。
「とぼけたところで、もう遅いですよ。メアリーさん。」
「すでに目星は付いています。“秘密”の正体……それは《塩》です。」
「……!」
彼女は初めて動揺を見せた。
「先ほどの証言のとき、あなたが使用したのは、これを混ぜた《塩水》だった。」
「………。」
沈黙するメアリー。
「《塩水》…?それが一体、どうしたというのだ?」
裁判長が代わりに疑問を呈する形となる。
マリアは彼に向き直り、返答した。
「裁判長様は、湖で泳いだことはございますか?」
「突然なにを聞くかと思えば…当然だろう。水練は男の嗜(たしな)みのひとつだ。」
「では、海ではいかがですか?」
「それは勿論ある。が、それがどうし……」
ここで、彼はある事に思い当たった。
「…まさか…。」
「そうです。裁判長様。」
マリアが言葉を引き取る。
「海水の中では、体が浮きやすくなります。」
「なぜなら、海水に含まれている塩が浮力を高めるからです。」
「これと同じ原理が、あのパフォーマンスのときに使われたのです。」
彼女は力を込め、平手で机を張った。
“パァン”という鋭い音が法廷を切り裂く。
「《塩水》の中では、物体は浮きやすくなります。ネズミだろうと例外ではありません。」
「聖なる力など、単なる方便。見る者を欺くための嘘でしかなかった…。」
「つまり。あの証言は、被告人を陥れために行われた《ショー》だったのです!」
堰を切ったように一気にしゃべり終えると、マリアはメアリーを見据える。
〔揺さぶりをかけるどころか、直球で異議を申し立ててしまったわ…。〕
〔当初の予定とはちょっと違うけど…こうなったら、腹をくくるしかない。〕
〔賽は投げられた…。ここからが、本当の勝負よ。〕
教会を静寂が包こむ。
しかし、それもほんの一瞬のことだった。
“ドン”という爆発にも似た衝撃音が、教会を揺らす。
目の前の机に、ホプキンスがその太い腕を振り下ろしていた。
「…何を舐めたこと抜かしてやがる。」
「《塩水》?偽装?…言いがかりも甚だしい。」
彼はメアリーに視線を向ける。
「あの小娘に、自分の発言がどれ程的外れなのか、わからせてやれ。」
その要請に、メアリーは淡々とした口調で応じた。
「わかりました。ホプキンス様。」
いつの間にか、彼女の顔はあの微笑みを取り戻していた。
「うふふふ…。実にしょっぱい異議でした。弁護人サマ。」
その余裕に、マリアは動揺を隠せない。
「ど、どういうことですか?」
メアリーは肩をすくめた。
「実は、《水責め》には1つ、厳格な掟が存在します。」
「それは、『儀式の際に使う水は、同じ容器から注がなければならない』というものです。」
水瓶を指さす。
「今回、水はこの水瓶だけから注がれています。」
「都合良く、片方の木箱の水だけが《塩水》になるなど、そんなことはあり得ません。」
〔…あ…っ!?〕
彼女は、さりげなく裁判長を一瞥する。
「すべては、弁護側の戯れ言に過ぎないのですよ。裁判長様。」
そして、マリアへと人差し指を突きつける。
「…弁護人サマ。嘘をついているのは、むしろアナタの方です。」
「アナタこそが、我々を陥れるために、欺瞞を用いているのです!」
その指摘は、少しばかり高揚していたマリアの気分を一撃で吹き飛ばした。
「う。う、ぐ、ぐぐぐぐぐ……。」
今にも叫び出したい気持ちをどうにか抑えこむ。
停止しそうな頭を必死で働かせる。
〔しまった…。そこまで考えてなかった…。〕
〔で、でも。あの木箱に《塩水》が入っているのは確か。証拠は目の前にある。〕
〔私と同じように、あれを少しでも裁判長に味わって貰えれば、それで…〕
そう思っていた矢先。
「まさか、裁判長サマに味見して貰おうなどと、考えてはおりませんよね?」
メアリーは、マリアの心を見透かしたように言った。
「魔女ハンターとして、それをさせるわけにはいきません。」
「なっ…!一体どうしてですか!?」
その質問に答えたのはホプキンスだった。
「さっきも言ったが、魔女の使い魔ってのは本当に危険だ。」
「連中は、触れた者を死に至らしめる病気を持っている事もある。飼い主の趣向でな。」
「それが泳いだ水を飲むだと…?そんなことを許すとでも思ったか?」
マリアは反論する。
「し…しかし、私は平気でした!」
ホプキンスはそれを一蹴した。
「本当に平気なのかは、まだ分からねえぞ?」
酷薄な笑みを浮かべる。
「もしかしたら、お前は既にペストに罹ってる可能性すらもあるんだぞ?」
その言葉で、傍聴人がざわめき始める。
マリアの背筋に怖気が走る。
〔…ど、動揺したらダメ。今のは単なるハッタリよ。〕
ホプキンスは裁判長のほうを向いた。
「裁判長殿が飲むと言うなら、力尽くでも止める。俺たちにはその権限もある。」
「分かってくれ。わざわざ被害者を出したくはないんでな。」
裁判長は静かに頷き、木槌を振り下ろした。
「…水の確認作業における検察側の言い分を認める。」
〔そ…そんな、馬鹿な…〕
明白な証拠がそこにあるのにも関わらず、反証に至らない。
〔ど、どうすればいいの…?〕
〔いや。まだよ…まだ終わったわけじゃない。〕
沈んだ気持ちをなんとか立て直し、別の切り口を検討する。
〔メアリーの主張。あれをどう考える…?〕
〔確かに、最初に入っていた容器が同じなら、注がれる液体は同じものになる…。〕
現実と理屈が噛み合わない。
〔間違いない。なにか重要な事を見落としている…。〕
しかし、相手はそれを熟考する暇など与えてくれるはずもない。
「どうしたのですか、弁護人サマ?」
「言葉が出てこないように見受けられますが。」
メアリーの追及に、マリアは思わずたじろいだ。
「ち、違います。これは…その…。」
「その?」
「そ、そう!“塩が浸む”思いをしているので、す…。」
「「「……………。」」」
彼女のあまりに身も蓋もない発言によって、ざわめきは収まり、教会中が水を打ったように静まりかえった。
〔……ああっ!しまった!やっちゃった…!?〕
メアリーは呆れたように首を振る。
「お聞きになりましたか、裁判長様。弁護側のこの体たらく。」
「これ以上の審理は必要ありません。」
「早急に、被告人へ有罪判決を下すのがよろしいかと。」
彼女は裁判長へと呼びかける。
マリアにとって、それは親友への死の宣告と同義だった。
〔そ、そんな…!?まずいまずいまずいまずい…!〕
裁判長は深く頷いた。
「…ふむ。妥当な提案だ。」
次の瞬間には、木槌が勢いよく叩き付けられていた。
「…だが、しかし。」
そう言うと、彼はゆっくりとマリアの方へ首を向けた。
「弁護人。お前に最後のチャンスを与えよう。」
〔………え?〕
「…最後のチャンス?」
メアリーは少し戸惑いを見せた。
「弁護側に、これ以上議論の継続が不可能なことは、火を見るより明らかです!」
裁判長は、掌を向けて彼女を制した。
「証人。何か勘違いしているようだ。」
「私は、なにも弁護側に肩入れしているわけではない。」
彼ははマリアを指差す。
〔…え?〕
「この者は、最初の証人の不正を見事に暴いてみせた。」
マリアを一瞥だけすると、顔の前で指を組んだ。
「ならば、最後にチャンスを与える程度の価値はあるだろう。」
「また、“上司に黙って”不正を働く部下が、いないとも限らないからな。」
それだけ言うと、ホプキンスへ鋭い視線を向ける。
「なっ…!そ、それは…。」
「…チッ。」
メアリーは言いよどみ、ホプキンスは露骨に舌を打った。
それをまるで意に介さず、彼は言葉を続ける。
「…しかし、検察側の指摘が妥当であるのもまた事実。」
「弁護人がこれ以上審理を続けられるかは、大いに疑問だ。」
〔うっ…。〕
「よって、弁護側に与えるチャンスは限定的なものとなる。」
「…ど、どういう意味ですか?」
思わず聞き返したマリアに、裁判長は淡々と言葉を返す。
「許すのは「証人に対して、質問を1つすること」…それだけとする。」
「……なっ!?」
その驚愕を無視し、言葉は締めくくられる。
「それにより、この審理に変化が望めぬなら…即刻、被告人に有罪判決を下す。」
〔そ、そんな……。〕
メアリーはしぶしぶながらも納得した表情で頷き、上司をちらりと見る。
ホプキンスはそれに応えるように口元を歪めると、口を開いた。
「そいつはいい。」
その口元がさらに歪む。
「検察側は、その判断に異論はない。」
「さっさと終わらせるとしようぜ。この裁判を。」
木槌の音が鳴り響く。
「では、弁護人。“最後の質問”に移るがいい。」
思わぬ形で裁判長に助けられたものの、なんとか首の皮一枚で繋がっている状態。
親友の命は風前の灯火。
マリアは天を仰いだ。
〔できる質問はひとつだけ…。それでこの状況を覆せなかったら、シーズの命は…。〕
〔ああ、神よ…。私は、どうしたら…。〕
思わず神に祈る。
そのとき、頭の中に声が響いた。
ただし、その声の主は神ではなく、敬愛する父親だった。
『大切なのは3つ目……思考を転換することだ。』
『忘れるな。お前が行き詰まったとき、この言葉は必ず役に立つだろう。』
ハッと我に返る。
〔そうだった…。絶望しているヒマなんてない。〕
〔まだ、希望はある。…今こそ、あの言葉を思い出すべきときよ。〕
霞んでいた思考が、一気にクリアになる。
〔中身は何かの仕掛けで入れ替えられた?〕
〔いや、それはない。どこにもそれらしき仕掛けは見つからなかった…。〕
〔その上、メアリーさんがどこかですり替えた可能性もない。〕
マリアは目をつぶる。
〔…だったら、そう。今こそ、『発想を転換する』のよ。〕
〔もし、“どこかで入れ替えられた”のじゃなく…〕
メアリーの証言の準備は、淀みなく行われていた。動きに迷いは窺(うかが)えなかった。
かなり大がかりな《ショー》にだったのにも関わらず。
そこから、一つの可能性がマリアの脳内に浮かび上がる。
〔そもそも“入れ替える必要などなかった”のだとすれば…?〕
思考は、徐々に加速していく。
〔片方の木箱の水だけに塩を混ぜることが出来たとすれば、そのタイミングはどこ?〕
該当するタイミングはただひとつ。
〔恐らく、それは…水が注がれたとき!〕
〔水瓶の水が真水だったのなら、唯一別のものと接触するこのとき以外に、塩を混入させることはできない。〕
ここでマリアは思い出した。
ホプキンスが証言で使用する道具を用意した際、木箱の内側が真っ白な埃で覆われていたことを。
〔そうか…あれは、単なる汚れなんかじゃなかったんだ。〕
〔あれは、埃に見せかけた塩だったんだ。〕
注がれた水と仕込まれていた塩。これが、《塩水》の出来上がるカラクリだ
マリアは確信する。
〔間違いない。こうやって《塩水》は作られた…。〕
導き出された答えは合点のいくものだった。
しかしながら、以前目の前に有る大きな問題は解決していない。
〔…気がついたところで、どうすればいいの?〕
証拠となり得る木箱の塩は、もう水に溶けて消えてしまっている。
〔だからこそ、彼らは私に道具を調べさせた。証拠は残っていないと分かっていたから。〕
〔…この状況を、たったひとつの質問でひっくり返せと言うの?〕
〔物証も何もないのに…〕
〔いや、違う。〕
〔ここで、もう一度『発想を転換する』のよ。マリア・アバーク。〕
〔物証が存在しないのなら…〕
〔それに頼らず、相手の主張を打ち砕く方法を考えればいいだけ。〕
頭脳をフル回転させる。
そして、ある作戦を思いついた。
〔これだ…!この作戦しかない。〕
〔…もう、迷っていられる時間はないわ。やるしかない。〕
裁判長はマリアに鋭い視線を向けていた。
今にも判決を下しかねない雰囲気が漂っている、
腹をくくるしかない。
「メアリーさん。」
「ひとつ質問があります。この質問に、“はい”か“いいえ”で答えて下さい。」
マリアは深く息を吸い込んだ。
「あなたは、今この場で再びあの《ショー》を行い、同じ結果を出すことができますか?」
少しの沈黙の後、メアリーは答えた。
「…はい。もちろんです。」
「ただ、《ショー》いう言い方は語弊があります。《儀式》と呼んで下さい。」
マリアは頷いた。
次の瞬間、木槌の音が響いた。
「どうやら、弁護人は最後のチャンスを活かすことが出来なかったようだな。」
裁判長は感情のこもっていない口調でつぶやいた。
「これにて審理を終了とし、判決に――」
「異議あり!」
マリアの凜とした声が、その先を遮った。
「お言葉ですが、裁判長。審理はまだ終わっておりません。」
「……なに?」
裁判長は眉をひそめた。
「弁護側には、 確認する義務があるはずです。」
「先ほどした質問について、相手が嘘をついていないか。それを確認する義務が。」
「なに…?」
「これを怠ってしまっては、弁護人としての責務を果たしたとは言えません。」
「ぬ……。」
少しだけ迷ったものの、裁判長はマリアの言い分を認めた。
「…一理あるな。仕方あるまい。確認を許可する。」
「弁護側への譲歩はこれで本当に最後だ。」
 それを聞いたマリアは、足早に証言台に近寄った。
 「先ほどの裁判長様のお言葉通りです。構いませんよね。メアリーさん。」
 「あなたは、先ほど“今この場で出来る”と言ったんですから。」
 若干険しい表情を浮かべながらも、メアリーは頷いた。
「ただし…」
そう言った途端、マリアはきびすを返し、《塩水》が入っている木箱へ歩み寄った。
そして、なんの躊躇もなくそれを蹴飛ばした。
木箱に入っていた《塩水》が、すべて床にぶちまけられる。
驚愕する周囲をよそに、マリアはもう片方の木箱を抱え、それに入っていた水の半分ほどを空の木箱に移し替えた。
作業を終えると、何食わぬ顔で自分の席へと戻る。
「この状態で、という条件付きですが。」
ホプキンスの怒号が飛ぶ。
「ふざけるな!こんな状態でできるわけがあるか!」
「この有様じゃ《儀式》の続行は無理だ。」
彼はマリアをせせら笑った。
「そっちから要求しておきながら、自ら《儀式》の場を荒らすとは…馬鹿な奴だ。」
その笑い声は、次の瞬間に引っ込んだ。
「弁護側は続行不能とは考えておりません。どこに問題があるのでしょう?」
メアリーとホプキンスは目を丸くする。
「…は?アナタ、自分が何をしたのか分かって――」
マリアはそこから先を手で制した。
「少しばかり思わぬ“事故”が起きただけではありませんか。」
「私はそこから《掟》を破らないよう、慎重に配慮して修正しました。」
「続けられない理由は、特にないと思いますが?」
その言葉に、メアリーは思わず声を荒げた。
「は、配慮したですって?あれだけの事をしておいて、どの口が…!」
「《掟》はひとつ。《儀式》の際は、最初に用意した水以外を使ってはならない…でしたよね?」
「ご覧の通り。水を新しく足したりなどはしておりません。」
2つの木箱をそれぞれ指差す。
「それでもどこかに問題があるのなら、どうぞ仰って下さい。」
「なっ…!?」
絶句するメアリー。
「弁護側は要求します。今すぐに、この状態で《儀式》を行って下さい。」
ホプキンスが声を張り上げる。
「異議あり!今更、何の意味もない。時間の無駄だ!」
少しの沈黙の後、裁判長は静かに首を振った。
「…検察側の異議を却下する。」
ホプキンスは動揺を見せた。
「ば、馬鹿な…!何故だ!?」
裁判長は冷静に答えを返す。
「弁護人言う通り、証人はあの質問に対して“はい”と答えた。」
「今一度やって見せたところで、何の問題もないはずだが?」
「………!」
その返答に、ホプキンスは言葉を詰まらせた。
「教会としては、弁護側の提案を取り下げさせる理由はない。」
裁判長はメアリーへと向き直る。
「では、証人。再び証言もとい…《儀式》を始めて貰おうか。」
〔あなたたちが頼ってきた《カラクリ》は、今ここでは通用しない。〕
〔この《ショー》で、私の考えが正しいことを立証してみせる。〕
マリアは拳を握りしめた。
〔さあ、決着を付けましょう!〕
「うぐぐ…。」
メアリーは呻きながらネズミの入った籠を持ち上げた。
そして、中から2匹のネズミを掴み上げた――次の瞬間。
“ゴキリ”という不気味な音がマリアの耳に届いた。
「…え?」
マリアは本能的に音のした方向へと目をやった。
彼女の目は、メアリーの手に握られている2匹のネズミを捉えた。
ピクリとも動かない。明らかに息絶えている。
〔こ、この人…何の躊躇いもなく、ネズミを締め殺した…?〕
さしものホプキンスも、目の前の光景に度肝を抜かれていた。
「お、おい。メアリー…!?」
メアリーはため息をついた。
「申し訳ありません。裁判長様。」
「どうやら、儀式での負担に耐えられず、この2匹は死んでしまったようです。」
「残念ですが、これで儀式を続けることが不可能になってしまいました。」
「ど…どうしてですか!?」
その言葉にメアリーは肩をすくめた。
「…ああ。そういえば言い忘れておりました。」
「《掟》は、実はもうひとつありまして…」
「それによれば、儀式に使われるネズミは、“生きていなければならない”のですよ。」
マリアは絶句する他なかった。
「そ、そんな…。そのような事は聞いていません!」
聴衆たちにもメアリーの行動に気づいた者が現れ、にわかに教会中がざわめき始めた。
裁判長が大きく木槌を鳴らした。
「静粛に!」
喧噪が静まり、再び沈黙が空気を支配する。
彼は顎をなでた。
「つまり。検察側はこう言いたいのか?」
「儀式の続行は不可能。よって、弁護側の要求は却下されるべきであると。」
「その通りでございます。」
メアリーは頷く。
「…ふむ、そうだな。一理ある。」
「これ以上の検証が不可能である以上、弁護側の要求は却下せねばなるまい。」
マリアは悲痛な叫びを上げた。
「そんな…!ま、まさか!裁判長様、どうか考え直してください!」
それを聞いたメアリーの唇が邪悪に歪む。
「これ以上の審理は不要にございますわ。裁判長サマ。」
「そのようだな。」
「しかし、証人。どうやら、何か勘違いしているようだな。」
「は…?」
その言葉にメアリーは眉を寄せた。
裁判長は言葉を続ける。
「弁護側の推論が当たっていたかどうか、その検証は不能になったが――」
「同じく、これでは検察側の主張が正しかったのかどうかも証明不能だろう。」
渋い表情を浮かべ、彼は木槌を鳴らした。
「裁判の議長としての判断を述べる。汝、メアリー・フィリップスの証言に基づいたここまでの審理を無効とし、判決は最後の証人まで保留とする。」
メアリーは呆然とした表情を浮かべた。
マリアもそれは同様だったが。その胸中はまるで正反対のものだっただろう。
〔無効…ということは、つまり…〕
〔私はついに退けたんだ。この腹黒シスターを…!〕
切り抜けた安堵感と共に熱い気持ちがこみ上げる。
「…この借りは必ず返すわ。マリア・アバーク。」
メアリーは吐き捨てるように呟くと、証言台から立ち去った。
とてもシスターが口にするような台詞ではない。
「くそ…!まさか、こんな展開になるとは…。」
ホプキンスは呻くように毒づいた。
「…だが、まあいい。こっちにはまだ“切り札”が残っているんだからな。」
しかし、すぐにいつもの余裕を取り戻した。
まだ検察側には証人が残っている。
彼の言う通り、その存在はシーズを追い詰めるための“切り札”と呼べるだろう。
最後まで残しておいたことからみても、最も自信のある証人を用意しているに違いない。
〔誰が来ても関係ない。私は勝つ…!そして、シーズを救うんだ!〕
そこまで理解していても、マリアの意志は微塵も揺らぐことはない。
メアリーと戦いは、彼女に確かな自信をもたらしていた。
「裁判長。検察側は最後の証人の出廷を要求する!」
ホプキンスが声を張り上げた。
「…いいだろう。早く証人を呼び出すがよい。」
チッチッチッと彼は指を振った。
「呼び出す必要はない。何を隠そう――」
「最後の証人はこの俺様だからな!」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み