第1話

文字数 1,478文字

 九州山地に端を発し、日向北部の谷を削って日向灘に注ぐ五ヶ瀬川。
 その上流の高千穂で異様な光景を見ることができる。

 地面に木の枝で円を描いた土俵の上で、これから相撲が始まろうとしていた。
 ただし、ただの相撲ではない。
 対戦する力士の一方は紛れもない人間だ。だがもう片方(一匹)は、全身がぬめぬめした緑色の肌をもつ異形の者である。
 黄色く濁った目が吊り上がり、嘴のような口から吐く息は腐った魚の臭いがする。頭の上に皿を載せて、背中には甲羅を背負っている。河童である。
 なんと、人間と河童の相撲がこれから始まるのだ。

 人間の名前は三毛入野命。のちに「神武東征」と呼ばれる建国物語の主人公、磐余彦(神武天皇)の三番目の兄である。
 日本最古の歴史書『日本書紀』によれば、磐余彦は五瀬命、稲飯命、三毛入野命の三人の兄とともに日向を出発したが、河内で長髄彦に撃退された。
 そのとき受けた傷が元で長兄の五瀬命が命を落とし、さらに熊野灘では嵐に遭い稲飯命と三毛入野命が海の藻屑と消えた。
 磐余彦は三人の兄を失いながら、ついにヤマト平定を果たし、初代天皇に就いた――というのが建国のストーリーである。
 ところが宮崎県高千穂地方に伝わる伝承では、三毛入野命は嵐に遭っても生きていて、日向に帰って高千穂地方を治めたという。

 その伝承の真偽はひとまずおいて――
 土俵の上で三毛入野命と向き合っている河童の名前は川太郎。五ヶ瀬川の支流の一本を支配する河童の頭目の一匹である。
 日向には河童伝説が多く残り、なかでも五ヶ瀬川には支流の一つひとつに頭目がいて、それぞれの川を支配していたとされる。
 川太郎は河童五兄弟の長男で、土俵の横では四匹の弟河童たちが今から始まる取り組みをわくわくして待っている。
 なにせ河童は相撲が大好きなのだ。

 そして、見物客の中には猫もいる。三毛入野命の愛猫ミケである。非常に貴重なオスの三毛猫で、神猫をして崇められている。
 三毛入野命がちらっとミケを見た。ミケは前足でしきりに頭をなでながら毛づくろいをしていた。
 それを見た三毛入野命がはっとした。何かに気づいたようだ。

 一人と一匹は四股を踏み、蹲踞(そんきょ)の姿勢に入った。
 両手を静かにおろし、立ち上がろうとする。その時、
「待った!」
 三毛入野命が大きな声で叫んだ。
「なんだ!?
 怪訝な顔をする川太郎。河童の弟たちもざわめく。
「神聖な相撲を取るのだ。取り組みの前に、まず互いに礼をして神に感謝しなければならない」
「やれやれ人間の相撲は面倒だな」
 川太郎は不承不承うなずいた。
 土俵の中央で仕切り直し、三毛入野命が深く頭を下げた。
 それに倣って川太郎もぺこりと頭を下げる。
 すると、河童の頭の皿から水がたらたらとこぼれた。
 仕切り直して、はっけよーい!
 三毛入野命と川太郎は互いのまわしを掴み、がっぷり四つに組んだ。
 川太郎は思い切り投げ飛ばそうとするが、三毛入野命はまったく動じない。
「あれ?」
 焦った川太郎が何度も投げを打つが、三毛入野命は平気だった。
「おかしい。力が出ねえ…」
 川太郎はますます焦るが、動けば動くほど力が抜けていく。
 これには訳があった。
 河童は頭の皿に水があるときはとても強いが、乾くと途端に弱くなるのである。
「くそっ、力が入らねえ!」
 川太郎の呟きを聞いた三毛入野命は、両腕に力を込めて思い切り川太郎を投げた。
 どすん!
 川太郎は三間も投げ飛ばされて尻もちをついた。
「うわっ、兄貴が負けた!」
 弟河童たちががっくりとうなだれた。                   (つづく)
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