第2話

文字数 6,219文字

 今の私の暮らしは結構気に入っている。私が努力して手に入れた悠々自適な生活だ。仕事は忙しくそれなりにやりがいがある。やってみたいと思っていた仕事をやらせてもらっている。給料も同世代の中では貰っている方だ。それでも所詮会社員なので、経済的な意味でなんでもかんでも手に入るような生活はできないが、趣味も、食事にも、洋服にも、化粧品にも、健康にも、娯楽にもある程度余裕をもって投資できるほどの生活が出来ている。懸念は職場の人間関係だ。昨今の二十代会社員の退職理由ランキングなどで上位に必ず入るのが人間関係だそうだ。だろうな、とも思う。また、私も今の職場を退職することがあるならそれが大きな理由の一つになるのは当然だろうなと思う。ただ、Fラン大学卒では大手企業には面接にすらこぎつけられなかった。それでも転職を一度経験して、今の出版社へ入社できたのだ。上司には恵まれた。共に仕事をする関係者にもおかしな人はいない。恵まれている方だ。友人関係も良好な方だ。小学生から大学までそれぞれに仲良くしていた友人は今でも仲良くしている。各々環境が変わっても、関係性は変わらず仲良くしてくれている。そういう友人が少なくない。三十代にもなると、昔からの友人とは縁が切れるなんて聞くが、二十九歳にしては多く続いている方ではないかとも思う。現在恋人はいないが、男性には困っていない。性欲の発散、異性との食事やデート、それらは彼らに連絡を取ればなにかしら解決するのだ。なににも困っていない。衣食住だけでなく、仕事も、友人関係も、趣味も、異性関係も、過不足なく、充実すらしていると感じる。目指した生活だ。やっと手に入れた。こんなこと、友人の誰にも言っていない。今時は言葉を間違えてこんなことを言うとすぐマウンティングだなんて揶揄される。しかし私が逆の立場なら羨ましいと思うのだ。だから言わない。
 スマホの通知が鳴った。内田からだった。『今日の夜ひま?』暇かどうかだけを聞いてくる質問は大嫌いだが、彼からの連絡は少し違う。自分は空いていて、飲みに行きたい、そしてそのまま泊まってセックスがしたい、という意味だ。『空いているよ。どこで飲む?』と返した。メッセージをやりとりして梅田で飲むことになった。いつものやきとり屋だ。この店は美味しい上、混雑もしないところがいいのだが、支払いが現金しか対応していないという不便がある。仕方ない。今日の支払いは私ではない。
内田というとはもう十年近い関係だ。つかず離れず、元々は大学時代のアルバイト仲間だ。内田の方が先にアルバイトとして入店しているので本当は先輩の立場にあたるが、同い年で同じ大学一年生だったためすぐに距離が縮まった。はじめて関係を持ったのは十九歳の時だった。私は異性と肉体関係を持ったのが内田が初めてだった。処女を捨てた、といった感覚だった。誰でもよかったわけではないが、内田じゃないといけないわけでもなかった。内田は私が処女だと知ったうえで行為に及んだ。その後の関係性に多少の心配はあったが、特に気まずくなることもなかった。それでよかった。何も期待はしなかった。ただ、肩の荷が下りた気がしたことをよく覚えている。
内田という男を一言で表すならば、主体性もだらしもない男だ。なんなら学生時代の時の方がよっぽど魅力のある男だった気がする。アルバイトの同い年の同僚たちが次々と就職先が決まり、卒業を迎え、アルバイト先にも辞める手続きをする中、ひとり彼は大学生のままだった。寝坊を繰り返し、単位を落としたため卒業できなかったのだ。なんなら就職活動すらしていなかった。さらには同じことを三年繰り返した。私が転職する前の新卒で入社した会社で激務に励んでいた時にこの男はだらだらと大学に通っていた。基本的に生活態度も、女にもだらしない男だ。年々ひどくなっている気すらする。最近やっと第二新卒扱いで印刷会社へ入社できたらしい。こんな奴でも働けるのか、と感心したものだ。内田とは数か月に一度程度呑み行く仲だが、ここ二年程は会話もマンネリだ。つまらない男だと思っている。ベッドでの彼も面白みがない。ロマンも、色気も、行為もすべてがどんよりしている。それでも関係が続いたのは、彼に主体性がないせいだと考えている。私が誘えばいつでも来る。内田からの誘いは私の気分次第。それでも今のところ、私も縁を切ることはなかった。
近所の喫茶店で待機する。ここは数少ない喫煙可能店だ。内田からメッセージが届く。
『あと五分くらいで着く!』この男とはいつもお酒を含む外食を二軒ほど回ってから私の家か徒歩圏内のホテルへ向かう流れだ。お決まりのパターンだ。学生時代はデート気分にもなれたが、今ではまわりくどくて面倒と思っている。そんな気分は顔には出さないが。
 内田と合流する。
「おつかれさま」
「佳子ちゃんもおつかれ」
「やきとり屋さんでいんやんな?」
「うん。なんでもいいよ」
この台詞を何度聞いたか。でも私も演じているのだ。少し歩いた先にある常連の店に到着する。この店にはひとりで来ることも多いが、様々な男とも来店している。店主は私をどう見ているのだろうか?
「佳子ちゃん最近どう?」
注文を済ませ、ビールで乾杯した後に内田が聞く。興味があるようには見えない。
「それなりに忙しいよ。でもやっと慣れてきたというか、仕事が分かるようになったというか。楽しいと思える瞬間もあるんよ。」前向き発言。乾杯早々愚痴を口にするより、ポジティブな言葉の方がいいだろうとは思うが、私も私だ。仕事の話しかできない。
「内田は?」私も聞いてみた。
「いやとくに。あ、でも俺も似たような感じ?仕事、最近楽しいんだよね。」
「印刷会社だよね。前聞いたときは土曜も出勤があって大変そうだったけど」
「うん。大変は大変。でも慣れたというか…」
「ふぅん。」私は話を変えてみた。
「じゃあ余裕もできた感じかな?彼女とかおるん?」
「余裕はまだないって。彼女も全然やなぁ。久しくおらんわ。」
セーフ。都度恋人の存在には気を配る。私には男遊びにおける四つのルールがある。一つ、不倫・浮気はしない。二つ、不倫・浮気相手にならない、三つ、コンドームは必ず装着させる。四つ、相手に何も期待をしない。慰謝料などの金銭請求や傷つく誰かがいるような相手と関係を持たないようにしている。そんなことを行為中に思い出しただけで萎える。ロマンも雰囲気もあったもんじゃない。また、妊娠なんかしたら一気に現実になる。私は夢を見たいだけなのだ。相手に期待をしないのも、恋人関係になれば他を切らなくてはならない。私は今の生活が気に入っているのだ。私は夢を壊したくない。
 やりとり屋を後にして私の家へ向かう。着いてしばらくは何もしない。この時間が怠い。無駄だと感じてしまう。セックスにロマンを求めるくせに効率も考えているなんて我ながら矛盾した感覚だと思った。
 朝になると早々に内田は帰る。学生の時は寂しくも思ったが、今ではそういうシステムだととらえている。何も考えない。そろそろ潮時か?なんなら内田もそう思っていそうだ。
 
月曜日になればまた仕事が始まる。内田にあんなポジティブ発言をしておいきながら、月曜の朝一会議には重い足取りで出席した。会議自体が嫌で足取りが重いのではない。この会議で必ず発言する“あの男”の扱いに面倒を感じるのだ。
「…よいっしょと」
この男の一言一句が私の癇に障る。ここ数か月が特にそうだ。この稲本という男はこれまで私が出会った人間全ての中で飛び抜けて嫌いな男だ。体重百キログラムを超える程の図体、それに比例しているかのような横柄で図々しい態度、不潔な無精髭、乱雑で散らかったデスクとそれを鏡に映したようなPCのデスクトップ、仕事で知り合った女子大学生コンパニオンに手を出すような汚らわしさ、給料が少ないと文句ばかり。生活、仕事、女、金、人間のだらしなさのすべてを集約したような男だ。それに加えて自分の不機嫌を周囲に巻き散らかす。こんな男でも妻子がいるのだから私は世の中には様々な人間がいてそれぞれに趣向があるのだと真剣に重く捉えている。会議はこの男がよく発言する。
「今日は手短に。今週の各々の案件と現在持っているものの進捗確認だけでいいかな」
福井が話し始める。
「それ終わってからでいいので、少し私からみんなで話し合いたいのですが」
稲本が横入りする。まただ。そうやって無駄に会議を長引かせる。大した議題でもないし、中身もない内容を大げさに話しているだけだ。積極性を見せて上に取り入ろうとしている、という噂だ。うちの会社はそんなことで評価を上げはしない。結局は売り上げが評価だ。私を含めた他の平社員も稲本のこの行動や発言にはうんざりしている。それでも部長はないがしろにはできないようだ。福井の人情深さは尊敬するが、過去に厳しくしすぎて辞めてしまった社員も少なからずいるようだ。自分のせいで辞めてほしくないのだろう。こんな男でも無下にできない。結局稲本のせいで会議は予定より三十分も長引いてしまった。これでも短く終わった方だ。最長で一時間半を超えたこともある。私はタバコ休憩をしようと喫煙所に入った。そこには先に入っていた関谷がいた。
「おつかれ。」
「おつかれさまです。」
この関谷という男もなかなか曲者だが仕事はできる。仲がいいというほどの関係性はないし、これからも仲が深まることはないだろう。敬意も無いが、嫌ってもいない。
「稲本さん、今回もやばかったな。」
稲本と関谷は同い年だが、稲本の方が入社が早かったため関谷にとっても先輩にあたる。関谷は私より一年早く入社しているが関谷は私より四歳も年上だ。
「正直だるかったですよ。あれのせいで月曜はいつも残業なんですけど」
この会議の後はいつも喫煙所で稲本に対する文句で盛り上がる。
 盛り上がったところで仕事は減らない。文句もそこそこに自分のデスクへ戻る。稲本が私に声を掛けてきた。
「岩瀬」
私は振り向いて稲本の顔を見ながら、無表情で返事をする。
「はい」
「お前、来週の土日って予定ある?」
私は眉を顰める。
「なんでしょうか?私の予定の確認の前に、稲本さんの要件を教えてください。」
かなり冷たい聴き返しとはわかっているが、先輩だろうと遠慮していては結局自分が辛いだけだと社会人になってずいぶん学習した。
「あ…ごめん。その日、取材に同行してほしいんだけど、俺、家族の予定入れててさ…あかん?」
それはお前のスケジュール管理不足によるミスだろう。緊急でもないのにどうして私に頼むのか。またこの男に対する嫌悪が増す。
「はぁ…。すみませんけど、そんなこと言われても私も予定入れてますし、変更が利かないんです。仕事のブッキングなら兎も角、プライベートな事なんですよね?奥様には相談された上で私に聴いてます?」
さすがに苛ついたので聞き返してしまった。
「あ、いや…ごめんそうだよな。ごめんごめん。」
こんな男が先輩で私が後輩だということがこの会社に在籍すべきか転職すべきか迷わせる疑問になる。
 本日の業務が終了した。定時より二時間の残業だ。平日は残り四日。休日までのカウントダウンを始める。今週末はお楽しみだ。稲本の仕事の肩代わりなんてやっていられない。早く会いたくて期待を膨らませる。


「中江」
私は“彼”に声を掛けた。
「おお。久しぶりだな。」
中江聡は大学時代の同級生だ。学部学科は全く違う上、同じ授業を選択したこともない。ただ、キャンパスがたまたま同じで、今では疎遠になってしまった当時よく一緒にいた女友達の元恋人だ。元恋人といっても一年も交際していない。女友達から彼氏だと紹介してもらってからの友人だが、今では私のそういうお友達だ。
「三か月ぶり。今回も出張だったっけ?」
「そう。岩瀬は相変わらず綺麗だな。」
中江は現在、高知県警の刑事二課に所属している刑事だ。大学時代からは想像できないほどの出世頭だ。彼とは年に一度から二度ほどしか会わないが、会う希少価値の高さからかベッドではいつも盛り上がるの。この日も軽く食事をして、私から部屋へ誘った。行為の後に彼は職場が用意したビジネスホテルへ戻らなければならない。この時間があるから多少の仕事の不満やストレスは解消される。セックスはコミュニケーションだ。私が『女』であることを許してくれるような時間だ。また、『女』だという喜びを細胞から湧き出させてくれる。中江はキスが好きだという。だから中江はセックスの間、たくさんのキスを唇にする。中江のたくさんの情熱的なキスが私も好きだった。
 中江とは仕事の話もよくする。中江は警察、私は出版、それぞれ守秘義務があるのでどちらも詳細は話せないが、大まかに、何に対してどう思っているか、互いの仕事の姿勢や今後の人生について語る。壮大なテーマに聞こえるが、たわいもないユーモラスなキャッチボールだ。この時間も好きだ。中江とは二十五歳までは普通の友人関係だった。大学時代の女友達と別れているのは知っていたが、『友達の元カレ』と行為に及ぶのはなんだか後ろめたかったのだ。だが、彼女が結婚したことをSNSで知ったそのあとすぐに中江から連絡があった。のちに行為に及ぶのだが、そのSNSを見た時にはもういいかと思ってしまった。それでも中江とは恋人同士ではない。そうなる発展の可能性はあるかもしれないが、そうなると私が彼の地元である高知県へ移り住むことになる。それがどうしてもネックだ。
 経済的な自立、思い描いていた暮らし、仕事、ストレス解消、趣味に友達、私は十分に幸せなはず。誰もが羨むとまではいかないものの、何一つ不自由せず、貧困に喘ぐことなく、過不足なく、そこそこの都会で孤立せず、楽しく暮らしている。今の目標はこの生活を維持しつつ、貯金と投資をがんばることだ。それでも時々窮屈になる時がある。胸が締め付けられるような、息がし辛いような苦しさを味わうことがある。この時もそうだった。
 母から電話が来ていた。中江を見送った後に着信に気付いた。今日は日曜日。もう二十三時だった。着信は三十分前。こんな遅い時間に電話があることが珍しい。なんだか違和感を覚えた。だからこそ、私はこの着信を気付かないことにして、折り返し電話をしなかった。
 翌日、また月曜日が来た。毎度のごとく稲本が定例会議で余計な発言をする。いつもの月曜日だ。ふと、昨夜の着信を思い出す。そういえば今朝も折り返しをしていない。会議が終わったら電話しておくかと考えていたその時に、スマートフォンが震えた。稲本の発言中だったので、すみません、と会釈して会議室を出た。母からだった。
「今大丈夫?」
母の声は低く、暗かった。頻繁に連絡を取らない私でも勘づく。
「仕事中だから大丈夫ではないけど。何?」
「…明日こっち戻ってこれんけ?」
「なんで」
私は冷たく、小さく抗議する。私の生活を崩すな。侵略するな。
「大幹がね、…死んだの。」
「え」
「明日お葬式だから。喪服、持っとんが?」
「死んだって…」
「昨日の夜、帰ってこんかったが。警察に連絡して探してもらったがやけど、さっき連絡あって…見つかったって…もう死んでて、自殺だっていうがやちゃ。私らも見たが。大幹の顔。…あんたお葬式でも帰ってこんが?」


兄・大幹が死んだらしい。
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