第1話

文字数 1,712文字

プロローグ

あいつが死んだらしい。
私の兄だ。
自殺らしい。

こんなタイミングで連絡して来るなよ、と思った。珈琲の香りを含んだため息を不機嫌に吐いてから上司へ報告がてら休みの相談をしにデスクへ向かった。タイミングを見測って声を掛けた。
「部長」
株式会社弘舘(ひろだて)出版編集部の部長である福井義之は私と目を合わせた。
「どうした」
「この資料を元に企画書、たたきですけど、作成したので見ていただけますか?正直もう少しインパクトが欲しいところなんですが、自分では力不足で。なにか意見いただけませんか?」
「おお。じゃ見とく。サンキュー。」
この上司の軽いトーンが気楽でいい。
「あと」
「ん?」
「ちょっとすみません…。身内で不幸があったと今母から連絡がありまして。明日葬儀のためお休みを頂きたいのですが」
私は簡潔に伝えた。
「まじか。全然いいけど。引き継ぐことはあるか?」
「締め切りが近いのが一つありますが…。少し実家で作業します。メールで原稿送るのでその確認だけ先にしていただけますか?」
「それなら構わんよ。」
福井は大柄で堂々とした男だ。大勢を引っ張るようなリーダー性とカリスマ性を持ち合わせたタイプといえば聞こえはいいが、自分中心的で自分の指示で物事が動かせると思い込んでいる節もあるような横柄さもある。令和の新社会人は怯えてしまうような貫禄さえある。ただ、昭和のバブル崩壊後の会社を支えた実績もある上、よく知ると意外と謙虚な部分も知ることになる。そして周囲に気が配れる。男性社員が九割を占めるこの会社に唯一いる二十代の女性である私に、厳しくも細かく仕事を教えてくれた上司だ。私は結構好きな上司だ。
「不幸って、親御さんか?」
福井は私の目を覗き込んだ。
「いえ、祖母です。」
私は嘘を吐いた。福井に嘘を吐くのは初めてではないが、やはり心苦しい。この心苦しさが伝わってほしいとすら思った。父方の祖母はこの会社に入社する前にすでに亡くなっている。とりあえず今日の業務は終わらせてから十六時過ぎには早退した。実家には私の普段使いの品物は何一つ置いていないので、一度帰宅して荷造りをする必要がある。一泊二日分の荷物と葬式などで使用する礼服などの類を五分でキャリーケースへ詰め込み、面倒な足取りで家を後にした。荷造りは慣れている。JR大阪駅へ向かい、サンダーバードの特急券を購入する。外国人観光客が大勢並んで居る。このままずっと並んで居られたら。ふとよぎる願望はJR職員の整列係の声で途切れた。出発時間と到着予定時間を確認する。約四時間だ。それでも富山駅までだ。実家までは富山駅からさらに東へ地方鉄道で三十分、最寄り駅からさらにタクシーで三十分かかる。タクシーが捕まるかどうかも分からない。それでもテレビで紹介されるほどのびっくりするような田舎でもない。話題になるほどの魅力も少ないが、静かで暮らしやすい、映画に出てくるような、まさに絵に描いたような地方都市だ。近年の北陸沖や東北沖での地震などで災害から逃れ移り住んできた他府県の人々が増えたため、急いで都市開発に励んでいる様子も見える。母と父と私の三人で構成するグループメッセージを開く。
『今から乗車する。富山駅には20時過ぎ到着予定。富山駅でタクシーを拾ってから向かいます。』と打った。すぐに既読が付いた。確認は早いが、返事は遅い。
『わかりました』と母から返事。
『仕事は大丈夫か?』と父。
『早退しました』と返信をしてメッセージアプリを閉じる。一瞬でYouTubeに切り替える。アップテンポのクールなダンスナンバーをBluetoothでペアリングしたノイズキャンセリング機能付きのワイヤレスイヤホンで聴く。特急列車が到着した。すぐに窓側の席に着いて発車するまで窓の外へ目線を向ける。

死んだ、か。
どういう顔をして死んだのだろう?
死因は何だったのだろう?
自殺のやり方は?
遺書は書き残したのだろうか?
兄の死について想いを馳せるわけではなく、単純な興味関心だった。仮にそれらの質問の回答を聞いたからと言っておそらくふうんと興味のなさそうな返事をするだけだと思った。その時特急サンダーバード36号がゆっくりと発車した。

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