第4話 見わたす限り

文字数 25,717文字

 「がんばる人にやたらきびしい街と視線」という昔好きだった歌の詞が、当時の正義の頭の中には常に巡っていた。正義が高校生の頃、母子家庭で、家にも居場所のなかった彼は、常に危機感を抱いていた。いつどうなってもいいように、とりあえず目の前にある物事に一生懸命撃ち込まなければと考えていた。ある種、辛い現実からの逃避、もしくは、頑張っていれば何とか報われるのではないかという楽観的で甘い考えとも捉えることはできるが、理由は何にせよ、正義は勉強に必死で打ち込み、アルバイトに精を出していた。眠る間も惜しんで勉強し、学校の休み時間も、常に教科書や問題集を読んでいた。少しの時間も無駄にしたくはない、というのは建前で、彼は、限られたバイト代から昼食代を捻出するのをケチっていたのだ。どうしてもお腹が空いて食べるにしても、菓子パン一個。一時間の昼休憩には大分時間を持て余すのだ。進学校の何となくギスギスしたような、蹴落としあいのような空気感にも馴染めなかった為、彼は、とくに誰かと関わることもせず、最低限、周囲に協調するに止め、ただひたすらに自分のやるべきことに邁進するように努めた。だが、彼のそのスタイルが周囲に受け入れられることはなかった。入学から一か月もしないうちに、彼は誰とも口を利いてもらえなくなった。正義自身、特別誰かと会話がしたいと思っていたわけではなかったが、学校生活を送るうえで、どうしても人に話しかけなければならないことがある。そう言った際に、彼から声をかけても、返事、返答の類が返ってくることはなかった。ところで、その頃の正義は、母親から、水道代を節約するよう厳しく言われ、二日から三日に一回しか入浴は許されなかった。ただでさえ、高校生ともなれば、成長期で汗や脂がたくさん出るものである。一日でも風呂に入らなかったりすれば、個人差もあるが、たちまち汗臭くなったり、髪の毛は脂でテカテカになったりしてしまうのが普通である。正義は汗や脂が、どちらかというと、他の同級生に比べて多いという自覚があった。そんな彼が、毎日風呂に入ることがなければ、どうなるか。たちまち、不潔がられ、とくに女子生徒からは露骨に避けられるようになった。「アブラムシ」や「ホームレスのおっさん」、「おやじ」などと陰で呼ばれていることにも気づいていた。こうして、みるみるうちに、学校での居場所を失っていき、周囲からは煙たがられる存在となった。教室では落ち着かなくなり、休み時間は人気のない、裏庭や校庭の脇、犬走の隅などに座り、教科書を読んだ。机に座って食事をする、たった数分の間さえ教室にいることが、周囲の侮蔑の目や嘲笑を背中で感じることが、嫌になり、学校が終わりアルバイトに向かう途中で、駅のトイレでパンなどを食べて、腹を満たした。もはや、学校の便所ですら居心地が悪くて食事ができない、新手の便所めしのようであった。当時の彼は、食欲があまりなく、腹を満たしたい気持ちよりも、お金を使いたくないという気持ちが勝っていた為、このような生活でもよかったのかもしれない。
お金がなかったことに加えて、母親が頑なに認めなかった為、正義は、当時、携帯電話を持っていなかった。ほとんどの生徒はガラケーと今では呼ばれるタイプの電話を所持していたが、携帯電話を持っていないという生徒は、もはや、クラスに正義だけであった。もちろん、この頃の正義には、友人などはおらず、持っていてもさほど使うことはなかったかもしれない。現に、今でこそ携帯電話を持っている正義だが、それも、あくまで、皆が持っているものを持っていないという状況を気にしてのことでしかなく、大して使用する場面は実生活においては、あまりない。それでも、当時の彼にとって、連絡手段を持たないことが原因となり、生活面で困ることが多々あったのだ。
当時は、電話番号が悪用されることを危惧して、かつて存在した、クラスメイトの家の電話番号を載せた、いわゆる連絡網というものがなくなっていた。そのため、授業や学校行事に関する連絡は、生徒が個々に携帯電話などを使ってやり取りしていた。しかし、正義には、連絡を受け取る手段がなかった。彼は、出席が義務付けられた課外授業や学校行事の存在を知らず、欠席を繰り返した。当然成績は下げられた。掲示物や何かを作って、知らせてくれればいいのにと、彼は思った。社会とは往々にして理不尽な出来事が多いものだが、そういった出来事は、世間をまだよく理解していない、十代半ばの少年に、頑張っても所詮報われないのかもしれないという疑惑を抱かせるには十分な経験であった。
それでも、正義は、何とか、落とした分の成績を実力テストの点数で挽回しようと頑張った。高校一年生の二学期までは、常にテストの順位は学年で十番以内だった。正義は、自分がテストでいい点を取る度に、次第に周囲の冷たい視線ややっかみの声が増していくのを肌で感じた。自分のために頑張るのは難しい。それでも、自分の置かれた状況を少しでも良くするために必死に頑張っている。それのいったい何が悪いのだろう。別に理解して欲しいわけではないのだ。ただ放っておいて欲しいだけなのに、どうしてそれすら許されないのだろう。正義は深く悩み、落ち込んだ。
高校一年生の夏休みが終わり、二学期に入る頃には、既に正義は自分の体の異変に気が付いていた。二学期に入り、徐々に体調は悪化していった。遅刻や欠席が徐々に増えるようになり、教師から素行不良ということで注意を受けるようになった。そこで正義は、自分の体調について精一杯説明しようと試みたが、この時点ではまだ、自分が何の病気であるか、何故具合が悪いのか、どこが悪いのかなどが具体的に正義自身にもわかっていなかった為、教師を納得させられるだけの説明をすることは不可能だった。たちまち、教師たちは、正義に対し、素行の悪い生徒、怠惰な生徒という印象を持つようになったと思われ、明らかに彼に接する態度が変わったのだった。遅刻や欠席の度に、仮病を使うなと叱責され、学年の八クラス全ての担任教師陣から指導室に呼び出され、やる気がないのなら学校など辞めてしまえと、全員から吊るし上げられることもあった。何故理解してもらえないのだろう。正義は思った。教師に叱られる度、毎回繰り返してきた弁明もそのうちしなくなっていった。遅刻、欠席時の教師、同級生からのサポートなど、当然なかったため、休んだ日に出された重要な課題なども、やはり、存在を知らないので提出できず、各教科の評価はどんどん下がっていった。どんなにテストでいい点を取り、努力をしても、成績は上がるどころか下がっていくのである。そうなれば、もはや、テストのために頑張ることなど、意味のないことのように感じられ、体調の悪さも重なり、彼は努力することを放棄した。テストの度に毎回張り出される学年のトップ五十位以内の順位表。高校一年生最後の期末テストで、正義はとうとう欄外になった。掲示物を遠い目で見つめる正義の後ろで、誰かが「ざまあみろ」と囁いたのを、彼は今でもはっきりと覚えている。また、今までのテストの成績はすべてカンニングだったというデマが流れたりもした。だがもう、この頃の正義は傷つくことすらなかった。学校生活に対して、何の興味や関心もなくなったのだ。
 それからの正義は、周囲からしたらはっきり言って、いるのかいないのかわからない存在、もしくは、いてもいなくても変わらない存在であったことだろう。正義自身、自分を空気のようだと感じて、学校での生活を送っていた。とりあえず、卒業できるだけの成績と、出席日数だけ最低限確保するということだけを意識し、その他のことはもう、考えるのは辞めたのだ。何もいい思い出のなかった高校生活。彼は卒業式にすら行かなかった。後日送られてきた卒業証書も、ロック歌手のエピソードを思い出し、即座に破り捨てた。
 大学生となってからも、もちろん、周囲の冷たさを感じることはあった。学食では一人で座るスペースはなく、わざとカバンなどを置き、席を埋める者などもあり、座る席を空けてもらえずに、お盆を片手にもって、立ったまま一番安いかけうどんをすする日々だった。学費の件での事務員の対応もひどく冷たかった。だが、クラスというものがなく、一人で活動していても、単位さえとれば何とかなる分だけ、大学での生活は高校よりも気は楽だった。
 正義にとって、学生時代を思い出すのは、酷く苦痛を伴うことだった。とりわけ高校生時代は思い出したくないことばかりだった。それは、冷遇されていた学校生活のみならず、他の場所においても、人間の冷たさや残酷さを味わったからだった。その中でも、彼のバイト先で受けた仕打ちは、彼の精神に大きなダメージを与えた。
 中学生の頃、父親が家を出て行ったタイミングで、正義は牛乳配達のアルバイトを始めた。彼は、一生懸命に仕事に取り組んではいたが、初めてのアルバイトということもあり、極度に緊張していて動作は鈍く、頭の回転も作業効率も悪かった。加えて、配達先や配達先までの道順を覚えるなどの物覚えも悪く、程なくして、雇用主の態度は、はじめの優しいものとは変わっていき、きつく当たられることが増えていった。そんな中、正義が何とか仕事を覚えて、順調に配達が行えるようになった頃、配達中に、地元の不良グループが屯しているところに出くわした。別の中学で面識もなかったため、そのまま、自転車で通り過ぎようとしたところ、後輪のスポーク部分に、鉄製の棒を突っ込まれ、後輪がロックされた状態になり、正義は、バランスを失い、自転車ごと転倒した。その様子を見て、不良グループはゲラゲラと笑っていた。彼の心には、もちろん怒りが込み上げていたが、それ以上に、恐怖も感じていた。また、自転車の荷台に積まれた牛乳瓶のほとんどが割れてしまい、道路に牛乳がぶちまけられている状態に、激しく動揺し、正義は、自転車を起こすと、一目散にその場を離れ、配達所へと戻って行った。配達所に着くと、彼は、その出来事を雇用主に対して必死に説明したが、日頃の正義に対する評価が悪いことも手伝ったのか、彼の話は雇用主には信用してもらえなかった。雇用主は、どうせ自分のミスを言い訳しているだけだろうと、素直に謝らなかったとして彼を叱責した。そして、雇用主は破損した分の商品代をバイト代から引くことと、彼を解雇することを、彼に宣告した。こうして初めてのクビを経験した正義は、次に新聞配達を始めた。そこでも相変わらず、仕事がうまくできず、周りから冷たく扱われていたが、自分の生活がかかっているため、必死に仕事にしがみついた。
 中学卒業直後、高校生活が始まる前の春休み。正義は、新聞の配達所で配達用の新聞にチラシを挟み込む作業をしていると、折り込みチラシに混じった一件の求人チラシが彼の目に留まった。自宅からほど近い場所に、コンビニができ、そこのオープニングスタッフを募集していたのだ。高校生活を前に、色々とお金がかかる時期であり、彼は、新聞配達の他にも、アルバイトを探していたのだ。早速、電話で連絡を取り、面接を受けることになった。緊張しやすく、あまり愛想もよくない方だと自覚していた正義は、面接がとても不安だったが、いざ面接を受けてみると、進学校の一年生で真面目そうだと、好印象で、その場で採用となった。正義は自分が認められたような気がして、内心とても喜んでいたが、これが彼にとっての悪夢の始まりだったのだ。
 面接官の話によると、正義は、応募の締め切りギリギリでの合格者だったようで、他に採用された人たちは、既に研修を行っているとのことだった。また、大きなチェーン店のため、面接官は本部から派遣された人間で、実際に一緒に働くのは、その研修の場にいるスタッフたちであるとのことだった。これが、まずかった。翌日より研修に参加した正義であったが、そのコンビニの店長や他のスタッフには、正義の増員の件は知らされていなかったようで、来るやいなや、迷惑扱いをされることとなった。研修に関しても、開店日が近いこともあり、あらかた終了してしまっていて、今更、正義一人の為だけに初めから研修をしてくれる空気でもなかった。とりあえず、レジくらいはできないと何にもならないということで、店長から指導を受けるが、正義にとって、レジ打ちは初めての経験であったし、それに加えて、露骨にやる気のない店長の教え方も相まって、正義は十分にレジ打ちの技術を習得できないまま、不安を残す形で店舗のオープンを迎えることとなってしまった。
 オープン初日の夕方から出勤の予定となっていた正義であったが、当日の昼過ぎには、既に過度の不安や緊張からか、下痢が止まらない状態になっていた。そのような状態で迎えた初出勤。拙いながらも必死で覚えたレジ操作、家で何度も確認し、予習した接客マナーを繰り出し、何とか無難に仕事を遂行しようとする正義であったが、やはり不慣れな作業や緊張からか何度かミスをしてしまった。その度に、店長や他のスタッフから怒鳴りつけられる正義。初日で忙しいこともあり、皆、気が立っているのかもしれないが、それにしても、他の従業員に比べて、ろくに研修も受けられなかったにもかかわらず、そのような仕打ちを受けるのは理不尽ではないかと思ったが、彼は、自分の経済状況を思い出し、とりあえず耐え忍ぶ道を選んだのであった。
 正義は、何度か出勤するうちに、だんだんとレジには慣れてきたが、研修時に教わっていない為、他の作業については全く分からない状態であった。だが、店は既に開店していて、従業員がそれぞれに自身の仕事を担当していた。加えて、毎日の店員の人数も素人の正義から見ても、とても十分とは思えない状態であった。ましてや、店舗の全員からあまり歓迎されていない正義に、レジ以外の作業を教えるものなど誰もいなかった。正義自身、店長はじめ、他の従業員に作業を教えてくれるよう頼んだが、そんな時間はないから見て覚えろと、皆に同じような言葉を投げかけられ、ことごとく断られた。
 そのようなことが続き、レジしか担当していない正義をよそに、他のスタッフは、レジと並行して、色々な作業を行っていた。一般的にコンビニバイトはやることが多い。次第に周りのスタッフは、不平不満を募らせるようになった。その矛先はもちろん正義であり、彼に対する風当たりは日に日に強くなっていった。正義もそのことを自覚していた為、レジ周辺でできることに関しては、実際に他のスタッフが行っている姿を見て覚えたが、それでも、他のスタッフと比べると、仕事量ないし、できる作業の数が明らかに違う為、スタッフたちの正義に対する怒りが静まることはなかった。
 はじめは、口調や態度という形で、その怒りは正義に対して示された。正義の質問に対して、怒鳴り声で返したり、質問を無視したり、わざと正義にぶつかってくる従業員もいた。正義への嫌がらせは次第に酷くなっていき、従業員たちはレジしかできない正義に、レジ打ちをすべて押し付けるようになった。レジが混雑する時間帯で、どんなにお客さんが並ぼうとも、レジの応援に入る者は誰もいなかった。売り場に居れば、お客さんからレジに入るように注意を受けるので、お客さんの多い時間帯には皆作業はせず、バックヤードに引っ込んでしまう始末だった。正義はどれだけ捌いても、並ぶお客さんの人数が減らない地獄を毎日のように味わった。店の奥からは、店長や他のスタッフたちが談笑するのが聞こえた。それでも、そういう時はお客さんも冷たかった。お客さんにもバックヤードの笑い声は聞こえているはずなのに、目の前にいる正義が苦情の的となった。遅い、速くしろ、何をやっている、ちゃんと働けよ、などのセリフが毎日のように正義に投げかけられた。正義に優しい声をかける人間は一人もいなかった。これでも一生懸命やっているのに。だれもわかってはくれない。正義はこの場所でもまた、人間の冷たさを痛感したのだった。
 正義はバイトが嫌で仕方なくなった。出勤の前には、毎回それまで以上の激しい腹痛に悩まされるようになった。勤務中に腹痛が襲ってくるようにもなった。トイレに行きたい旨を他の従業員に伝えると、露骨に嫌な顔をされたり、舌打ちをされたりした。それでも便意には勝てないので、何とか頼み込み、やっとのことでトイレに入り用を足していると、トイレのドアが激しく叩かれ、外からは「速く出ろ」という催促の怒声が聞こえた。正義は恐怖した。トイレに行くことさえも許されなくなった。正義は、病院でポリカルボフィル・カルシウムという強制的に便を出なくさせる薬を処方してもらい、毎回、やっとの思いで五時間の勤務を乗り切っていた。便を止めるといっても、腹痛や便意がなくなるわけではなく、あくまで、最悪の事態、つまりは粗相をすることがないようにする為の、最低限の手段であった。
高校生活の忙しさなどもあり、正義の体調はどんどん悪くなっていった。それが原因で学校やアルバイトで遅刻や欠席をすることもあった。そんな中、遅刻が原因で新聞配達の仕事をクビになった。そして、コンビニでも、遅刻や欠席をしてしまうことがあった。当然ながら、その度に、嫌がらせもどんどん激しさを増していった。そこまでして何故その仕事を続けていたのかと、今となっては、正義自身も考えるが、当時は、アルバイトというものがどういうものか、働くこと、仕事とはどういうことなのか、彼自身まだ良くわかっておらず、どこの職場へ行っても、こうなのだ。働いてお金を稼ぐということは、簡単なことではないと人は言うが、このぐらいのことは、世間的には普通で、当たり前で、むしろ仕事ができない自分が悪いのだと信じ込んでいた。これが働くということなのだと信じて疑わなかった。ここを辞めて他の場所で働いたとしても、能力の低い自分は再び同じ目に遭う。実際、牛乳配達や新聞配達でもここより酷くはなかったが、同じ様な状況だった。新たな場所へ動くためのエネルギーを使い、結局また辛い思いをするのであれば、我慢をしてでもここに留まっていた方がマシだと、彼は考えた。アルバイト自体を辞めるわけにはいかない。家に入れるお金や自分の食費、学校生活でかかる教科書代などの雑費が払えなくなってしまう。それはできない。それに、新聞配達の仕事は既に辞めてしまっている。ここしかない。ならば、この職場にしがみつくしか、もはや道はないのだ。正義は覚悟を決めた。嫌がらせや理不尽に耐えさえすれば、ひたすらにレジを打つだけの仕事であった。もちろん、レジ周辺でやるべき仕事も多く、楽なわけではないが、正義にとっては、一度嫌な思いをしてまで必死で得た知識だったので、それを手放すのはもったいないような気持ちもあったし、彼自身も意地になっていた部分があった。
結局、正義は高校三年生の途中までその仕事を続けた。時には、レジの金を横領しているのではないかと疑われることもあった。幸い、疑いは晴れても、レジしかやっていないのだから、真っ先に疑われて当然だと切り捨てられた。謝罪など一言もなかったのは、言うまでもない。そんな日々を過ごしていた彼であったが、ところで、彼の勤務するコンビニは、本部からの直営店舗ではなく、個人のオーナーがいる、いわゆるフランチャイズ店であった。雇われ店長や他の従業員の勤務態度は、全員が皆同様かどうかはわからないが、ここまで書いてきた通りだ。このような店に、お客さんもできれば通いたくはないとなるのは真っ当だ。オープンから三年目にして、とうとう経営不振を理由にオーナーが店を畳む決断をした。店が潰れてしまっては、仕事を続けようにも続けられなかった。こうして、ようやく、正義は呪縛のようであった日々から解放されることとなった。だが、彼には、崩壊した精神と、結果的に何も得るものがなかったという虚しさだけが残った。他の高校生、同級生たちは、同じ年月をかけて、部活動に邁進したり、熱心に勉強したり、思い思いに青春を謳歌しているであろうに、自分が二年以上の長い月日をかけて得たものは一体何だったのだろうか。正義は学校からの帰宅途中に、店舗のあった場所を見つめて、ふと、そんなことを感じた。途端に焦燥感と虚無感で胸がいっぱいになり、叫び出しそうになるのを抑えて、隅田川沿いの河原へと走った。そんなときに限って、夕焼けはとても鮮やかだった。彼の目までも焼き尽くしてしまうような、真っ赤な夕焼けを、本当はこんな気持ちでなく、もっとさわやかな気分で見つめたかったと彼は思った。夕日の向こうに、もしかしたら自分が得ることができたかもしれない、充実した二年半が浮かび、悔しさでいっぱいになった。空一面の美しいオレンジ色は、この時の彼にとっては少し残酷だった。
余談ではあるが、正義は電車が苦手である。高校時代もはじめのうちは電車通学をしていた。多少の時間ではあるが、通学の時間に教科書や参考書を読むことができると思い、電車で通っていたのだが、後々耐えられなくなり、自転車での通学に切り替えたのだった。
理由は、電車賃がもったいないということもあったが、それが一番の原因ではなかった。正確には、電車に乗ることができなくなってしまったのだ。
 高校入学後、正義には心身の不調が現れ、悪化していったが、そういった異変は、電車に乗っているときなど、公共の場でも起きるようになった。いつ頃からか電車に乗り、学校へ向かっていると、途端に、呼吸が荒くなったり、動悸が激しくなったり、脂汗が吹き出たり、吐き気を催したりという状態になった。それ以前より、お腹の痛みは常にあったのだが、腹痛以外の症状を毎日のように電車の中で感じることは、それまではなかった。はじめのうちは、学校での自分、同級生や教師のことを考えていると、このような状態になる為、なるべく目の前の本、その内容に集中するようにしていたが、次第にめまいやふらつきを感じるようにもなり、それもできなくなった。もはや、体の具合が悪すぎて、学校のことすら考えられないようになった。この時期、正義が遅刻をする原因は大体このことの為だった。学校の最寄り駅につくまでの間、同じ電車に乗り続けることができない為、途中下車をせざるを得なかったのだ。決して、テレビ番組のロケのためではない。結局、辛さに耐え兼ね、電車での通学は諦めたが、辛かったのは何も自分の体に起こる様々な異変だけではなかった。
 朝の満員電車の中で、呼吸が荒くなり、大粒の脂汗が額から流れ落ちる度、周囲のOLや女子高生たちは皆、「気持ち悪い」とか「変態なのでは」とでも言いたげな視線を向けた。めまいや立ち眩みが起こる度、サラリーマン風の男たちは皆、「邪魔だ、どけ」という意味が込められているだろう舌打ちを返した。そして、この上なく体調が悪いというときには、ポケットの財布や定期券を掏り盗られた。正義は思った。何も、優しくしたり、心配したり知って欲しいなどとは思っていない。ただ、そうっとしておいて欲しいだけなのだと。それなのに、彼に与えられるものは、結局、氷でできた刃のように鋭く冷たい視線や態度の数々だけであった。高校生活は終わった。それでもまだなお、正義が電車に乗ることが苦痛なのは、この人間の冷たさを感じてしまうからであった。この時の経験から、今では、電車に限らず公共の場では常に、周囲が自分を気味悪がったり、自分に侮蔑の目を向けたり、嘲笑ったりしているのだと思ってしまうようになった。皆、自分が思っている程、自分のことに関心などない、気にしてはいない、自意識過剰だと頭では理解しているつもりでも、いざ、人が多い場所に行くと、無意識のうちに、そう感じてしまうのだ。周囲は見わたす限り全員が敵なのだと、感じてしまうのだ。すれ違う人間や目があった人に言われる「気持ち悪い」に自分ではすっかり慣れた気でいた今日この頃だったが、よくよく考えてみれば、自分がその冷たさに慣れることなど、おそらく一生無いのだと正義は過去の回想と共に思った。何のためにしているのかわからない努力は一番虚しいということを、十代の自分が教えてくれたのだと、正義は信じていた。そう考えることでのみ、無意味に思えたあの日々に意味や価値を与えることができたからだ。
ところで、悲しみという奴はいつだって無作為に降りかかって来るということを、正義が十分に理解したのも十代の頃であった。悲しみはその時幸せな人に、順番に訪れるとは限らない。幸せと悲しみが必ずしも交互に訪れるわけではないのだ。悲しみに暮れるものに対して、また新たな悲しみがやってくるということは、「泣きっ面に蜂」という諺があるように、昔から世に知られている真理である。悲しみは、無作為に、そして理不尽な形で突然やって来るのである。正義はある日突然、自転車を盗まれた。数か月後、その自転車のことで、正義は連絡を受けるが、連絡をよこした相手は、意外にも、警察ではなく区役所であった。盗難された自転車は、盗んだ人間により放置され、その自転車を区役所が撤去したのだった。その自転車の返還のため、持ち主である正義に対し、撤去した放置自転車を管理している施設まで取りに来るようにという連絡であった。彼は早速自転車を取りに行った。すると、施設の係員は横柄な態度で彼に接し、施設の奥へと自転車を取りに行った。係員は、正義の自転車の捜索に際し、邪魔になる他の撤去車両を平気で足で蹴ってどかしたり、正義の自転車を見つけた後も、自分が通るスペースを空けるために、他の自転車を放り投げたりしていた。正義は、自分の自転車も間違いなく、あのようにぞんざいに扱われていたのだろうということを、盗まれる前とは明らかに姿が変わり果て、至る所に身に覚えのないへこみができ、前かごが破れ、タイヤがパンクした状態の自分の自転車を見て確信した。もちろん、区の人間の仕業か、はたまた、盗んだ人間の仕業かはわからなかったが。それでも、下手したらまだ盗人の方が、丁寧に自転車を使っていたかもしれないと思うと、全く皮肉な話であった。その上で、無断駐輪をしたということで罰金を徴収された。正義は盗まれた旨を説明したが、決まりだから、払わなければ返さないと、相手にしてもらえなかった。傷はひどかったがパンクさえ直せばまだ使えるし、新しい自転車を買うお金もなく、自転車を諦め再び電車で通学することも困難であった正義は、泣く泣く罰金を支払うしかなかった。世界は理不尽の上に理不尽が積み重なって出来ているのだと、正義は思った。そうして支払った罰金は行政の収入だ。自分が嫌な思いをして搾取された金が、他人の幸せの為に使われると思うと、彼は悔しさと激しい怒りを覚えた。だが、悔しいけれど、この世の中は、誰かの苦しむ顔の上に、他の誰かの笑顔が広がるように出来ているのだと、渋々ながら納得せざるを得なかった。よく「悪いことの後には良いことがある」なんて言葉を耳にするが、それが本当のことであれば、あの頃の自分はあれ程までに悲しくはならなかっただろうし、今の自分はもっとましな人生を送っていることだろうと、正義は良く考えることがあった。そして、その「良いこと」がやって来るのを、もうどれくらい待っているのだろうと、正義はしばしば思うことがあった。
当時の正義には、それまで生きてきて一度も誰かに心からの評価を得たことなどなかったように思えた。自分を評価しているように思えた人間もどこか信じがたいところがあり、どうせそういうふりをしているだけで、心の奥底では、自分を馬鹿にしているに違いないと彼は思っていた。そして、大半の人間は、自分のことなど表面的にしか知らないくせに、そのわずかな判断材料だけで、自分の人間性を自分たちの好きなように勝手に決めつけて、自分のことを無能扱いしたのだと、彼は感じていた。いつだって正当に評価されず、誤解されている状態が常態化しているから、むしろそれが正しい解釈のような共通認識が自分の周囲で出来上がっていくのだと、正義はその頃の経験から、今でもそう思っていた。そして、その思いが、周囲から冷たい評価を受ける米子を目の当たりにして、思い起こされたのであった。お前もそのうち、「あの頃の俺のようになってしまうぞ」と正義は心の中で叫んでいたのだった。
だが、自分が正しく評価されないことは仕方のないことなのだと、当時の正義は思っていた。適正に評価をしてもらえないということは、結局、評価に値する能力を自分が持ち合わせていないということの証明でしかないのだから。彼らを納得させられるだけの実力や、実力を証明する方法を持ちあわせていない自分がいけないのだと、彼は自分をも責めていた。彼が自分自身を落ち着かせ納得させるには、もう自分に落ち度があり、自分だけが悪かったのだと思い込むよりほかはなかった。いつだって、どんなことだって、自分が間違っているのだろう。もうそれでいいと正義は思っていた。自分がどんなに正しいと思ったことでも、周囲が間違っているというのであれば、それはまちがっているのだろうと、彼は本気で思っていた。それはあきらめにも似ていた。どんなに正しさを主張したところで誰も認めてはくれないし、だれも理解してくれないのだから、そう思うしかないだろうと、彼は諦めていたのだ。誰一人として自分のことを信用してはくれる者はいないし、それでいいと彼自身が思ってしまっていた。なぜなら、この頃の彼は、既に自分自身でさえも自分を信じることができなくなっていたのだ。もっと言えば、彼にとっては自分が一番信用できない存在だったかもしれなかった。自分だけがこの世でたった一人、彼のことを知り、理解し、守ってくれる者であったのに。人間というのは不思議なもので、あまりに周囲から馬鹿にされ、蔑まれたり、不当な評価をされることが続くと、次第に麻痺して、怒りも起こらず、自分の置かれている状況がどうでも良くなり、最終的には、本当に自分は周囲が言うような人間なのだと思えてきたりするのだ。当時の正義がまさにそれだった。
十代後半の正義は、いつの頃からか、「どうせ俺なんて」という言葉が口癖で、その考え方がすべての物事に対する思考を支配していた。「自分がいるせいで(物事が悪い方向に進む)」や「自分は邪魔者なのだ」ということをまず一番に考えてしまっていた。それまでの彼の人生が彼にそう思わせ、彼のその悲観的な思考を習慣に変えてしまったのだ。どうせ自分なんてただのクズで、他人に迷惑をかけてばかりで、生きていてもただ闇雲にいろんなものを消費していくだけだから、いっそのこと、ひと思いに死んでしまった方が、エコだのなんだのと喜ばれるし、喜んでもらえるのならば死んだって本望だ。正義はそんなことを一時期、半ば本気で思っていたことを思い出した。

そんな昔のことを思い出していると、始業時刻十五分遅れでようやくやってきた小島が視界に入り、意識は現実へと引き戻された。小島は正義と目が合うや否や、自分が遅れてきたことを棚に上げ、
「ナニボーットシテルンダ。サッサト、シゴトシロヨ!」
と言い放った。
完全に虚を突かれた格好で、相手が遅れてきたことに対して反論することもできず、正義は反射的に小島から逃れる為、外に出てしまった。そこで彼は、ちょうど、その日のお客様用トイレの清掃当番が自分の番であることを思い出した。お客様用トイレは、従業員用の通用口の隣にあり、一度店舗の外に出なければならない構造になっていた。始業時刻を過ぎているが未だ従業員は全員揃っておらず、荷物の納品までもまだ時間があり、レジには米子もいるので、タイミングとしてはちょうどいいと思い、正義はいつもならば休憩時間中にやらざるを得ないトイレ掃除をやることにした。清掃といっても、便器や便座を軽く磨いたり、床を水で流したり、備品交換やごみ箱のごみを捨てるといったような簡単な作業で、十分から十五分もあればできることであった。おそらく、従業員が全員集合するまではそのくらいはかかるだろうし、偶然にも自分は外に出てきたのだからと、正義はお客様用トイレへと向かい、清掃を始めた。
 清掃を終えて、ごみ袋を手にごみ庫へと向かっていた正義はふと空を見上げた。空には月が輝いていたが、正義にはその美しさが妙に嘘臭く感じてならなかった。月から地球までの距離は約三十八万キロメートルある。月の光が地球に届くまではおよそ一・三秒かかることになる。今こうして自分が見ている月は一・三秒前のものであり、その一・三秒の間に月が爆発して無くなっているかもしれない。つまり、今見ている月は、実像ではないのだ。月の他にかすかに見える星たちについても同じことが言える。みんな所詮は実像ではない。本物ではないのだ。夜空でさえそうなのだ。目に映るすべてのもの、もう何もかもが信じるには値しないものではないか。正義は夜空を見ながらそんな思いを巡らせていた。彼は都会にしては綺麗なその日の夜空に対しても、理屈っぽく粗捜しをして、素直にその美しさを愛でることができないくらいに捻くれてしまっていた。
 店舗の裏口付近で空を見上げながら佇んでいると、従業員通用口の扉が開いた。
「あ、齋藤さん、お疲れさまです。レジ交代しましたので上がります。」
声をかけてきたのは、米子だった。驚いたことに、このくそ寒い中、彼は仕事中のみならず、出勤時も半袖のTシャツ一枚で来ているようだった。よく見るとそれは、「コールドプレイ」のバンドTシャツであった。たしかに、このくそ寒いのにその格好は、最高にコールドなプレイなのだろうと、正義は思った。加えて、周囲がお前に冷たくしているのは、一種の「プレイ」などではなく、お前が心から周囲に冷たい目を向けられているからなのに、それがわからないのかと、心の中で叫んだ。正義は心なしか怒りを含んだ眼差しで米子を睨みつけていると、米子は、「それでは失礼します」と言って、そそくさと歩いていった。正義は彼の後姿をその眼差しのままで見送っていた。自分は結局、あいつに嫉妬しているだけなのだろうか。頑張ることができなくなった自分は、頑張ることができる奴が羨ましいだけなのだろうか。正義は遠ざかっていく米子の背中を見ながら考えた。確かにそれもあるかもしれないが、それだけではない。あの異常なまでの彼の頑張り方に腹が立っているのだと正義は確信した。今の自分では彼ほどまでには頑張れないかもかもしれないが、自分も全力で働けば今よりはいくらかマシな働きぶりにはなるはずなのだ。だからと言って、そのようなことをして一体何の得になるのか。他人の努力を平気で搾取するような輩の為に、なぜ自分が一生懸命に仕事をしなければならないのか。人を使う側の人間なんて皆同じようなものだ。個々の人間も今まで出会ってきた奴と大差はない。どんなに自分の仕事を全うしようと頑張っても、少しでも使用者側に都合の悪いことがあれば、かつての奴らのように、また嫌がらせをされ、痛い目に遭うのだ。頑張れば頑張るほど、四面楚歌の状況に陥るのだ。自分が孤軍奮闘するのをよそに、バックヤードで楽しくおしゃべりをしたり、皆で食事をしていたり。その代わりに自分が必死で働いている間、ただ遊んでいるだけの奴らにも等しく時給は発生する。現に、今のナイト部だって、昔の職場ほどではないにしても、仕事量の負担が、明らかに他の従業員に比べて自分の方が多い。頑張ればその分だけ損をして、馬鹿馬鹿しい思いをするのだ。ならば、適当に力を抜いて仕事をすればいいではないか。米子だって、俺がいない日に、俺と同様の目に遭っているはずなのだ。なのに、なぜ彼は従順に使用者たちの言いなりになって、必要以上に努力するのだ。なぜ、そのことが理解できないのだ。米子が遠ざかっていくほんの数秒の間に、正義の中で様々な思いが駆け巡った。正義の米子に対する苛立ちは、彼が少しずつ離れていこうとも、全く収まることはなかった。彼を初めて見た時から感じていたもやもやのようなもの、違和感のようなものの正体はこれだったのかと、正義は気が付いた。米子を肯定することは、自分がかつて受けた酷い仕打ちを肯定することになる。自分はそのことを恐れていたのだろうか。何にせよ、それだけは絶対にできない。冗談ではない。ナイト部の面々が米子を毛嫌いするのと一緒にして欲しくは無いが、自分も彼を肯定してはいけないのだ。絶対に彼のやり方を認めてはならないのだ。たくさんの名前を付けられた男への、この反抗心になんと名前を付ければいいのかはわからなかったが、正義はそんなことを考えながら、米子を、彼のやり方を決して認めることはないと、自分の心に誓った。だんだんと見えなくなっていく米子を背にして、正義は、歪んだ決意を胸に店内に向かって歩き出した。

 正義が店内に戻ると、青果売場の辺りから、女性と男性、複数の人間の悲鳴のような叫び声が聞こえた。こういった場合、聞こえていたところで、他のナイト部メンバーは無視を決め込むのが常であった。面倒くさいとは思いつつ、仕方がないので正義は渋々、声のする方へと向かった。そこには水商売風の格好をした女と、いかにも軽薄そうな風貌の男が立っていた。おそらくカップルだろうと思われる男女は、前方から歩いてくる正義を見つけるや否や、怒声を上げながら彼の方へと近づいてきた。正義は案の定、面倒な案件だったことに、心底嫌気がさしつつも、とりあえず事情を聴くために、二人に近づいた。
「お客様、どうかなさいましたか。」
若干人見知りの気がある正義は、少し震えた声で二人に話しかけた。すると、いきなり男の方が正義の胸倉をつかみ、
「どうかなさいました、じゃねえよ!あんなもん売ってていいのかよ!保健所呼ぶぞ!」
と怒鳴り声をあげた。咄嗟の出来事で何が何だかわからず、正義はパニックになりかけていると、今度は女の方が話しかけてきた。
「今、グレープフルーツを買おうと思ったらね。まあ、見てみなよ、それ。」
そう言うと女は、袋詰めされたグレープフルーツの陳列された棚を指さした。
「グレープフルーツに何か異常があったのでしょうか。」
緊張と未だに継続して胸倉をつかまれていることで、正義の声は再び震えた。
「だからよ。てめえの目で見て確かめてみろって言ってんだろうが!」
男はそう言うと、正義を掴んでいた手を放し、彼をグレープフルーツの棚へと突き飛ばした。正義は、何の説明もなしで、いきなり被った暴言と暴力に激しい恐怖と怒りを覚えたが、どうやらその原因が、その棚にあるらしいので、恐る恐る、棚を覗き込んだ。
「一番上に乗ってる袋、見ろよ。」
男の声に誘導され、見てみると、棚の一番上に陳列されたグレープフルーツの袋の中には、ゴキブリが入っていた。正義は驚きのあまり声を上げそうになるのを必死にこらえた。
「どうだ!そんなもん、商品として売っていいのか!なあ!」
正義は、正直、自分のせいではない。関係ない。全く理不尽だと頭の中で強く思ったが、自分が反対の立場でも、ゴキブリ入りの商品があったら、店員に文句の一つも言いたくなるだろうと、自分にがなり立てる男女の気持ちが少し理解できるような気もした。それに、この商品の袋詰めはこの店の作業場でしているのだから、袋詰めの際に気が付かなかった青果担当者のミスであることは明らかだった。こちらに非があるのだから、もはや、謝罪しなければ仕方がなかった。正義は担当外で無関係の事由に対して自分が謝らなければならないことに少々納得はいかなかったが、そんなことも言っていられないくらいの相手の怒りようであった為、ひたすら謝ることにした。一体どれくらいの時間が経ったか、正義にはわからなかった。実際はほんの数分のことだったであろうが、彼にとっては気の遠くなるような時間だった。それこそ、永遠に続くのではないかとも思える嫌な時間であった。幸い、購入前の商品であったので、謝罪とその商品の処分を約束し、他の商品に対しても改めてチェックをする旨を伝えると、ストレスを発散し終えたカップルは売場から去って行った。それにしても、このゴキブリはどうやって袋に入ったのだろう・・・。
 とんでもない思いをしたと思いつつも、正義は一階の売場奥にあるバックヤードへとゴキブリ入りの袋を持ったまま、他のお客さんに見つからぬように、そそくさと走って入った。彼が青果の作業場に行き、事の詳細をメモに残しておこうと、ペンを走らせていると、
「勝手に作業場に入るなよ!」
と、怒鳴り声と共に、誰かが入って来た。声の主は青果担当の志茂だった。まだ帰っていなかったのだ。この時間まで米子の悪口大会が続いていたのかと思うと呆れるが、それどころではなかった。そもそも、まだ店内にいたのなら青果担当の自分が対応しろよと思ったが、正義は数分前に起こった出来事の詳細を説明した。
「ああ、それで怒鳴り声がしてたのか。」
と志茂は言い放った。何かトラブルが起こっていたことは把握していたのだ。それであれば、なおさら社員のお前が対応しろよと正義は思ったが、間髪入れずに志茂が続けた。
「それじゃ、袋空けてゴキブリ取り除いておいて。で、グレープフルーツは全部きれいに拭いて作業台の上に置いておいて。あ、そうそう、ゴキブリ殺すときにグレープフルーツ汚さないでね、売り物にならなくなるから」
いやいや、自分が嫌でやりたくないことを俺に押し付けるなよと正義が思っていると、
「じゃ、帰るから、あとはよろしく。」
と言って、志茂は作業場から出て行こうとしていた。一連の出来事に対する、感謝の言葉も、謝罪の言葉も一切なかった。思い返してみれば、作業場にいることを誤解で怒鳴られたことに対しても、何の謝罪もないままであった。正義はあまりの理不尽の応酬に耐えきれず、思わず志茂を引き留めた。
「あ、あの!」
すると、志茂は、正義の言葉を遮るように、
「あ、そういえば、さっきのカップルさ、カブトガニみたいな顔した女を引き連れた、いかにも頭の悪そうな男って感じで、ある意味お似合いだったよな。」
と、言い出した。元はと言えばこっちが悪いから、お客さんは怒っていたのではないか。しかも、この男はあの二人の顔まで見ていたのだ。であれば、一体何が起こっていたのかも大体わかっただろう。事の詳細まではわからずとも、青果売場で起こっていることなのだから、自分に関係すること、自分が行くべき案件であることは容易に認識できたはずである。いや、認識していて、その上で見て見ぬふりをしたのだろう。面倒事に関わりたくないから、自分に対応を丸投げしたのだ。一瞬激しい怒りがこみ上げてきたが、別に志茂だけでなく、他の社員もほとんどの人間が大体こういう思考で、これがこの店のやり方なのだということを思い出し、怒りを通り越して、呆れてもう何も言う気にはならなかった。結局、ナイト部を批判している人間たちも、同じような姿勢でしか仕事をしていない連中なのだと思うと、つくづくこの職場に嫌気がさした。気が付けば、すでに志茂の姿は周辺にはなかった。正義は、全く気が進まなかったが、床に置いたグレープフルーツの袋をカッターで切り開いた。途端に勢いよく袋の切れ目からゴキブリがはい出てきた。正義は、再びこみ上げてきた怒りをすべてそいつにぶつけるようにして、素早く、且つ力強く、隙間に逃げ込もうとする奴を叩き潰した。床を掃除し終え、アルコールを吹き付けた紙タオルでグレープフルーツを拭きながら、正義はふと思った。やはり、命の価値ってやつは決して平等ではないのだなと、正義は改めて思ったのだ。自分がついさっき、仕事とはいえ、半ば八つ当たりのようにして、殺した虫けらだって、一つの命には変わりはない。でも、この世の中では、その一が一ではないことがよくある。一のはずのものが一の価値を持っていないことが頻繁にあるのだ。理不尽な扱いばかりを受ける、使い捨ての存在。それが今の自分。そんな自分に果たして一の価値があると言えるだろうか。自分もきっと、あの虫けらと同じなのではないか。正義はグレープフルーツと格闘しながら自問自答を続けた。
 グレープフルーツとの格闘がようやく終わりを迎えると、顔と体、全身を使って怒りを表現しているかのような小島が、勢いよく扉を開け、激しい音を響かせながら、バックヤードへと入って来た。そして、青果の作業場に正義を見つけると、
「アンタ、ナニサボッテンノヨ。アンタニ、ソンナ、シカクハ、ナイワヨ。」
と言って、正義を叱りつけた。正義は少し前に起きた出来事を、一応説明しようと試みたが、当然ともいうべきか、小島は一切聞く耳を持たず叱責を続けたので、いつものように平謝りをしながら店内へと戻った。
 わかってはいたことだが、やはりこの世は理不尽で溢れていると正義は実感した。たった一時間もしない間にも、次から次へと理不尽が連続して降りかかってきたのだ。そう納得せざるを得なかった。正義は理不尽と自分の運の悪さを嘆きつつ、店舗の入り口付近をなんとなく眺めた。入口の床には、お客さんが捨てていったレシートが無造作に散らばっていた。そのレシートを拾いながら、正義は、きっと自分の命の重さなどこのレシートのように軽く薄っぺらなものなのだろうと思った。わずかな風にも吹き飛ぶような一にもならない命なのだと思った。人は生きているだけで素晴らしいという文句を巷でよく耳にするが、正義には、何故生きているだけで素晴らしいなどと言えるのか理解できなかった。
今でこそ、自殺などは考えなくなったが、死にたいと思うことなど、毎日のようにあった。生きているのは素晴らしいというのは、命の尊さを意味しているのだろうというのは、正義にもなんとなくわかってはいた。だが、自分のように価値が低い命、生きていることに価値を見出せない命は、本当に生きていて素晴らしいと言えるのか、実感が持てないでいたのだ。そうしてまた、死にたいという思いが強く発現し出したあの頃のことをぼんやりと思い出していた。
 周囲の冷たい視線を強く感じていた十代の頃からずっと、死にたいという気持ちは常に正義の心のどこかにあった。視線の矢によって開けられた無数の穴は、自分にも誰にも埋めることなどできるものではなく、埋めようとしてくれる者も当然現れはしなかった。穴だらけになった彼の心はいつ崩壊してもおかしくはなかった。誰かのため息でさえも痛く、それだけでも彼の精神を破滅させるには十分だった。正義にも、「死にたい」という気持ちは存在するし、そう思うこともしょっちゅうあった。当然のことではあるが、生きていることが楽しいと思えるならば、誰しも死ぬことなど望まないだろうし、生きていたいと思うことだろう。正義に関しても、それは言えるだろう。だが、正義はあの十代の時期からずっと、自分が死んだところで誰かが泣いたり悲しんだりはしないし、喜ぶことすらないだろうと考えていた。下手をすれば、自分が死んだことにさえ誰も気が付かないかもしれないとも思った。自分は所詮、その程度のことしか残してこなかった、その程度の価値しかない人間なのだというのが、彼の自分に対する評価だった。
 人は孤独を感じるとき、悲しさや淋しさから死にたくなることもあるだろう。だが、正義は常々、一人になりたいと思っていた。社会の中で生活をしていれば、誰しもが、他の誰かと関わらざるを得ない。どんなに一人になろうとしても、他の人間、他の生き物から完全に独立して生きることなど不可能だろう。正義も何となくそのことを理解していた。この世の中で本当に孤独になるのは難しい。孤独にさえなかなか簡単にはなれないし、一人にさえしてもらえないのがこの世界だと、正義には感じられた。もちろん、他者がいるからこそ感じる孤独というものがある。そこには、疎外感や深い悲しみが付随するもので、正義も少なからずそう言った環境に身を置いていた時期があった。それでも正義は孤独であることを望んだ。能動的孤独とでもいうのだろうか。正義は思っていた。何も望まず、誰にも期待せず、何者にも救いを求めない。はじめからそう思って生きていれば、がっかりしなくてもいいのだ。もう失望せずに済むのだ。正義は精神的孤独もしくは精神的な独立とも呼ぶべき思考に至っていた。それでも、どこかで他人に何かを期待してしまう自分を必死に否定し、期待を打ち消しながら生きてきたと、正義は自負していた。信じることをやめれば楽になれるのだ。たとえそれで人間らしさ、人としての心を失ったとしても構わない。もう人間と呼べるような精神では無くなってもいい。彼は本気でそう思って生きてきたのだ。誰も自分の話を聞いてくれないし、誰一人として自分のことを理解してはくれない。考えてみれば、至極当然のことではないか。自分のような頭のおかしな人間の言うことなどまともに聞く人間などいるはずがない。そんなことは容易に想像できることではないか。彼は、そのような葛藤の末、無関心という形で、この世界を手放すことにしたのだった。そうして、彼は誰のことも望まない代わりに、誰からも望まれなくなった。
 他方で、そのような思考に至るきっかけとなった人々のことを、正義は恨んではいなかった。もはや恨んですらいない、といった方が正しいのかもしれなかった。それに、彼は、誰かを怨みだしたらきりがなく、誰から怨めばいいのかわからないくらいだとも思っていた。そうして、彼は憎しみや恨みよりも無関心を選ぶことにしたのだった。

 そうまでして、正義が自ら死を選ぶに至らなかったのには理由があった。簡潔に言えば、彼はとんでもなく悲観的だったのだ。自殺という選択をする人の中には、「死ねばその状況から逃れられる」とか、「死ねば楽になれる」、「死んだら今よりは幸せな世界が待っている」といったような思いを抱いて死を選ぶ者もいるだろう。それはある意味、楽観主義的な考え方ともとれるかもしれない。それに対して正義は、死んだところで自分を取り巻く状況が良くなるとはみじんも思わなかった。結局死の先にすら、自分が望む世界は存在しないと彼は考えていたのだ。もちろん、生きたところで幸せなどは存在しないが、死後の世界で生前の世界よりもいい状況を望むことは困難だと彼は感じていた。そもそも、死後の世界が存在するのかどうかも、彼には疑問であった。巷ではよく心霊現象や霊魂について語られることがあるが、正義は、ああいった霊の存在は、この世で本懐を遂げることができず、あの世にそれを求めた結果、魂が消滅することができず、目的を遂げることもあの世のような別の世界へ行くこともできなくなった人間の姿なのではないかと考えていた。いわゆる煉獄というものに近いのではないかと彼は思っていた。カトリックの教義では、煉獄とは、天国には行けないが地獄に堕ちる程の大罪を犯したわけでもない者が、その罪を炎によって清めながら天国に入ることができるようになるのを待つ為の場所であるという。
天国や地獄の有無はわからないが、きっと、この世に魂だけを残した者は、別の世界へ行くこと、もしくは魂の消滅を、魂を浄化させながら待っているのだろうというのが、彼の考えであった。彼の考えに従えば、この世は煉獄に似た存在であるということができた。ただ、彼は、死んで魂のみになった者だけでなく、生きている自分にとっても、この世は煉獄のようなものかもしれないと思えていた。生きていても何ら良いことなどないから死にたいが、死んだところでいいことがあるとも思えない。生きることも死ぬことも許されない、積極的に生きることも能動的に死ぬこともできない煉獄を彷徨っている生ける屍、それが自分だと、彼には思えたのだった。精神が浄化されるどころか、日に日に異常が増していく精神を抱えながら、同じことを繰り返すマンネリな日々を送り、苦しみの中を堂々巡りするしかない。そしてそれはこれからも続くのだ。終わりさえ見えない暗闇が延々と続いていくのだ。彼は、自分の人生をそのように捉えて、理解していた。
 正義には、自殺することが悪いことか良いことかもよくわからなかった。自分は死んでもいいことがないと思っているから死なないだけで、自殺した人間の中には、死後の世界を信じ、その世界での幸せを確信して自決した者もいるはずだと彼は思っていた。そういった意味では、自分は死に対して、自殺に対してさえ消極的で、死ぬ勇気さえも持ち合わせていないのだと彼は考えた。死ねぬ愚かさ、死なない勇気。はたまた、死んだ愚かさ、死ぬ勇気。どちらが良くてどちらが正しいのかも、彼には判断できなかった。いいかえれば、どちらも選べないから生きているとも考えられた。そもそも死なない勇気を持つ人間には生きることへの積極性があり、死ぬ勇気を持つ者には死への積極性が存在すると思われるが、そのどちらも持ち合わせていない彼には、どちらを選ぶ権利や資格もないのだと彼は思っていた。積極的に死のうとは思わないが、死んでも構わない。「積極的に殺そうとはしていないが、死んでも構わない」という未必の故意のような文句が、常に彼の頭には浮かんでいた。もはや、彼が生きているのは、ただ死にたくないからであり、死なない、もしくは、死ねない理由など他には存在しなかった。彼はこの世にも、あの世にさえ希望は持てなかった。

 それでも、ただそれだけの理由で生きているということを、正義は認めることができなかった。いや、認めたくなかったのだ。それに、少なからず、彼には死にたくないと思える理由がないわけではないと思えたのだ。彼はかつて、映画を観ることが好きだった時期があり、もし自分の人生が映画だったらと考えたことがあった。もし自分の人生が映画なら、同じことが延々と繰り返されるだけで内容が薄く、酷く退屈なものだろうと彼は思った。加えて、他者との関りも希薄な生活からして、エンドロールは一瞬で終わるだろうと彼には思えた。そして、それがなんとなく悔しく思えた。別にいつ死んだっていいような、くだらない人生だと理解しているのにもかかわらず、このまま終わってしまうのは悔しいという思いや葛藤、矛盾が、彼の中にもわずかではあるが、しっかりと存在していたのであった。それでも、どうすればその悔しさを晴らすことができるのか。そのために一体何をすべきなのか。肝心な部分は結局、正義には今に至るまでわからないままであった。
 近頃見聞きした、昨年の年間自殺者数が依然として三万人を超えているというニュースが自分にこんなことを考えさせたのではないかと自己分析しながら、正義は、入口に捨てられた大量のレシートを拾い終えると、店内に入り、サッカー台の横のゴミ箱へとそれらを投げ入れた。続けて、彼は再び店外に出て、入り口にひかれたマットの位置を直そうと手を伸ばした。すると、瞬間、正義の動きが止まった。あんなことを考えていたせいだろうか。ふと、自分はこんなことをする為に生まれてきたのだろうかと、正義は自問してしまった。だが、それは、正義の中で割と頻繁に繰り返される思考の一つであった。最近は何をしていても、そう思うのだ。仕事中でも、私生活の中でも、時と場合に関係なく、その思いがこみ上げ、襲ってくるのだ。理不尽なグレープフルーツの件の時は当然ながら、仕事帰りに、自転車に乗っていてもそれを感じることもあった。自分に、他にすべきことがあるのか、その時にしていることよりもやるべき他の何かがあるのか。それを知るということは、自分が何の為に生きているのかを理解していなければならないだろう。当然、正義はそれを知っているはずがなかった。それがわかったとして、自分が生きることに積極的になれるとも思えないし、そもそも自分に生きている意味などあるのかが疑問に思えてならなかった。そして、それを考えるときは毎回、意味などないように思えてしまうのだった。考えた挙句、結局、自分に生きている意味や価値がなかったとわかること。それが、彼には何より怖かった。自分に生きている意味があるという自信や確信は、彼のそれまでの人生において完全に打ち消されていた。だからこそ、彼はその疑問を解き明かすことを、決してしようとはしなかった。なんとなくわかっている答えが、はっきりと眼前に現れるのを恐れていたのだ。何度も湧いてくるその疑問に対し、彼が深く考えることはなかった。それについてはもう考えないようにしたのだ。
 ハッと我に帰った正義は、マットに手をかけ、その位置を直した。そして、無意識のうちに店内の時計に目をやった。もうそろそろ、納品のトラックが到着する時間だ。準備をしなくてはと、これまた無意識に正義は考えていた。社会に殺されるのは真っ平だとか、時間の奴隷になるのは嫌だなんて思っているくせして、結局は未だに時計の針と競い合う世界に身を置いている自分を想い、彼は自嘲した。それでまた、自分の人生を想った。きっと、どんなに頑張っても、たとえどんな選択をしたとしても、幸せにはならないように生まれる前から仕組まれていたのだ。人生の先に待っているゴールは誰にとっても同じもの。それは変わらない。だからこそ、そこへたどり着くまでの過程が何よりも大切なのに、
それを誰かに決められている。その決められた宿命を変えることができるのかもわからない。おそらく不可能だろう。そう、自分の手で喜びを掴むことは未来永劫無いのだろう。目の前の大通りを、自ら決めた道を進んでいく車たちをぼんやりと眺めながら、正義は半ばあきらめたかのように、また、悟ったかのように、自分の人生に思いを馳せた。
 いい大学を卒業するとか、いい会社で働くとか、世の中で評価されているありとあらゆることが、今の正義にはどうでもよくなっていた。こんな社会に認めてもらいたくないし、
自分もこんな世を認めてはいないと自分に言い訳をしてみても、正義は自分が負け続けて来たことに気が付いていた。負けることに慣れ、負け癖が付いて、負けることへの抵抗もなくなった自分に嫌気がさしていたが、そこから抜け出す術もないので、世間の評価を考えること自体を辞めたのだ。そのくせ、見た目だけは未だに気にするのだが。自分は一体何に向いているのか。何に長けているのか。何が得意なのか。何の才能があるのか。いくら考えても、答えなど出なかった。おそらく、永遠の謎だろうと彼は思った。同時に、世間の人間たちは一体どうやってそれを見つけ、獲得することができたのだろうかと、不思議に思えて仕方がなかった。そして、それは自分にも可能なことなのだろうかと考えた。二十数年の時間を費やして未だ何の手掛かりも掴めないものを、この先運良く手にすることができるとは到底思えなかった。それを見つけること、それを得ることが生きることだというのなら、自分は一体何の為に生きているのだろうか。何一つ手にしていない自分がどうして今も生かされているのだろうか。一生何も手にすることができないなら、何故生まれてきたのだろうか。誰に何を望まれて生まれてきたのだろうか。考えれば考える程、次から次へと発生する疑問に対し、何一つ明確な回答を見出せない現状に絶望し、彼は疲れ果てていた。どのように生きればいいのだろう。どのように生きたって、クズはクズでしかないのに。彼は歩むべき道を見失っていた。どうしてこうなった。どこから道を間違えたのだ。何を間違えた。何の手違いで、自分はここを進んでいるのだ。わかったところで、修正することなど不可能だと思っていても、どうしても、そう考えずにはいられなかった。そんな進むべき方向を誤った道の上でもきっと、何かの手違いで今も生きていて、そう、生きているが、ただそれだけの存在。それが自分なのだと、彼は理解していた。なのに、なぜだろう。彼には不思議に思えてならないことがあった。無作為に、無差別にテロや犯罪に巻き込まれてなくなってしまう人がたくさんいるというのに、どうして自分は死ぬことだけはないのだろうということだった。何故誰も俺を殺さないだろう。どうして誰も俺を殺すことさえしてくれないのだろう。何で自分は未だに生きているのだろう。そう思っていたが結局、彼は、自分が殺すにも値しない人間であるから、殺されはしないものと納得した。

 そんな自分の現状を、彼なりに理解していたからこそ、正義は、一生懸命で生き生きとした人間を見るのが嫌だった。そうした人を見ていると、自分の無能さや必死に生きることを放棄した現状を攻め立てられているような気になってくるのだ。自分が米子を見て抱く感情も、これに近い感覚なのかもしれないと正義は思った。だからこそ、米子のことを苦々しく思うのかもしれないと。わずかな時間であったが、彼が来るまでのこの場所は結局、自分にとって居心地の良い場所だったのかもしれないと、彼は回想した。生き生きとした人間などほとんどおらず、同じ時間に働く面々は一生懸命とはかけ離れた怠惰な者の集まりだったのだから。そこに突如として現れた米子はその場所を奪ったと言っても過言では無いだろう。故に、彼に嫌悪感を持ってしまうのだろう。正義は自分の米子に抱いた感情をそのように理解した。生き生きとした人間は皆、正義にとっては皆眩しく映った。自分の状況を思えば思う程、彼らが眩しすぎるように思えた。それはまるで太陽を見て目が眩む、あの感覚のようであった。それはちょうど、いつか見た夕焼けのようだった。正義は、そうした人を見る度、あの夕焼けを思い出した。あの、死にたくなる程に鮮やかだった夕焼けを。
 そうやって自分が傷つくことがないように、米子のような人間の落ち度を探し、とても尊敬できないような周囲の人間のことを心のどこかで馬鹿にし、見下しているのを、正義は自覚していた。それが人間として生きることに疲れ果てた末にたどり着いた手段だと考えると、結局、彼は自分を責め、最終的には自分を傷つけるという悪循環に陥っていた。
 正義はふと思った。自分よりいくつか年上の米子は、自分がかつて抱いた感情や、今現在も思っていることを感じたことはないのだろうか。もし、自分と似たような経験をしていたとしたら、何故あのような行動をとっているのだろう。もしかしたら、心の中では自分と同じようなこと、いや、それ以上にもっと劣悪な感情を抱いているのかもしれない。そうであるに違いない。そうであって欲しい。納品物を載せたカゴ台車を引っ張りながら、正義はそんなことを考えていた。奴のせいで調子が狂う。正義は苛立っていた。いっそ、お勤め品の惣菜に群がる客の群れに、台車ごと突っ込んでやろうかと思う程であった。やはり、米子は自分とは相容れない人間なのだと、正義は確信した。他の同僚たちとは毛色は違うが、自分にとって害のある人間には違いないと感じたのだ。本当にこの世の中は、見わたす限り敵ばかりなのだと、彼は改めて納得した。
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