第5話 黒いブーツ

文字数 25,708文字

 正義は近頃、益々、体調が悪くなってきていると自覚していた。寝つきは悪いが、一旦眠ると起きられなくなってしまい、睡眠のコントロールが以前よりも効かなくなってきていて、体のだるさや片頭痛、下痢と腹痛も前よりもだんだんひどくなってきていると感じていた。さらに、常に不安感や焦燥感を抱くようになってきていて、耳鳴りや立ち眩みにも悩まされていた。一体、誰がこの俺の苦しみをわかってくれようか。彼はそんなことを繰り返し頭の中で念じていた。それは、この日もまた、遅刻ギリギリに起きてしまった自分を正当化するための言い訳に他ならなかった。自分の遅刻という行動は病気が原因なのであって、自分の人間性とは無関係だと、自分の心を慰めているのだ。そして、また例の、正義お得意の、あんな職場に定刻通りに行く必要はないという思考を巡らせるのであった。第一、他のメンバーだって、米子以外は皆、出勤時間を守ってなどいないのだからと、自分に言い聞かせ、自分の心が傷つかないようにするのだった。「間に合わなかった仕事は、ろくでもない仕事」と考える正義のその思考は、あたかも、イソップ寓話の『すっぱい葡萄』の「届かない位置にあるのは酸っぱい葡萄」という考え方と同じであり、ジークムント・フロイトが言う防衛機制における「合理化」と呼ばれる心のメカニズムであるらしいが、正義自身はそのことには全く気がついていなかった。最も、彼がこの思考に陥るときは、大体、遅刻ギリギリで切羽詰まった状況である為、そのような自覚に至るのは、不可能のようにも思えた。自分など、この世界に居ようが居まいが、とくにこの世には影響はない。それと同様に、あの職場単位で言っても、自分が居ようが居まいが、特にこれと言って問題はないのではないか。正義はこうも考えていたが、いずれも自分の心を慰める為の言い訳に過ぎなかった。
 だが、起きてしまった以上は、とりあえずは仕事には行かねばならない、なぜなら、働きにいかなければ、金銭に困り、生活に困ることになるからであると、正義は思い直し、腹の痛みに耐えながら、急いで着替えを済まし、部屋から飛び出した。外は三月だというのにまだまだ夜は冷える日が続いていた。正義は、部屋を出る際に手に持った、みんなが着ているから、今の流行りだからと言いう理由だけで、とくにこだわりもなく選んで購入したジャケットに袖を通した。フロントでおばちゃんが何か言っていたが、そんなことは今の彼の耳には届かなかった。聞く耳すら持っていなかったとも言えるが。そうして、自転車にまたがると、彼は勢いよく信号を駆け抜けようとするが、直前で信号は赤に変わった。交通量の多い夜の日光街道で信号を無視する無謀さを正義は持ち合わせてはいなかった。なす術なくただ流れていく時間に、正義は苛立ちを覚えた。信号が変わると、そのうっぷんを全てぶつけるようにして、正義はペダルを思いっきり踏み込んだ。暗くて狭い、公園脇の夜道を全速力で進む正義であったが、前方では、犬を散歩させている人が道をふさいでいた。犬と飼い主は、彼らだけの世界に入り込み、さぞかし幸せそうに見えたが、正義は全く幸せではなかった。苛立ちを通り越し怒りすら覚えたが、彼らの世界に入り込む余地もなく、仕方なく、急な坂道をゆっくりと彼らの後をついて登っていくほかなかった。正義はだいぶ脚に疲労感を覚えたが、ようやく、マンション群が立ち並ぶ広い道へと出た。隅田川沿いの土手へと向かう、犬と飼い主をよそに、正義は、車道を進んで行った。脚の疲労感からか、ふと正義は空腹感に襲われた。何も口にせずに家を出たのだから当たり前とも思えるが。そこで彼は、あることを思い出した。彼は、いつも出勤日の前日に、次の日の休憩中に食べるものを買っておくのだが、この日の前日、仕事の帰りには、考え事をしていて、前もって食料を買っておくのを忘れていた。考え事というのは、米子や過去の自分のことであった為、彼は、米子に対し逆恨みのような感情を一瞬抱いた。まあ、休憩時間は減るが、休憩中にどこかで買ってくればいいだろうと正義は考え方をシフトした。今は、とりあえず、遅刻しないように店につくことが先決だと考えたのだ。だが、彼はさらに重要なことを思い出した。財布の中身、つまりはお金がもうほとんど残っていなかったのではなかったかということをであった。慌てて、路肩に自転車を停めて、ポケットの中から財布を取り出すと、急いで中身を確認した。思った通りであった。なんとなく、財布の中身が尽きた記憶が残っていたのだ。金がなければ食料を買うこともできない。かといって、休憩中に、コンビニのATMでお金を下ろそうものならば、手数料で数百円がとられてしまう。正義にとってみれば、数百円は一食分の食費に等しかった。それを、お金を下ろす為だけに使ってしまうわけにはいかなかった。銀行のATMであれば、手数料が抑えられると、彼は考えた。そして、ATMはまだ利用できる時間帯であった。この道をまっすぐ進み、正義のいつもの道中で通る二つの駅のうちの、一つ目の駅まで行けば、商店街があり、そこにATMがあったのを正義は思い出した。しかし、そこに立ち寄れば、彼が遅刻することはほぼ確定的であった。もし万が一、いつもは遅刻をしてくる他のメンバーのうちの一人でも、時間通りに出勤し、正義が遅刻したことが解かれば、たちまち、その事実は小島の耳に入り、彼はまたボロカスに怒鳴り散らされるであろうということが、彼自身にも容易に想像ができた。小島自身も遅刻ばかりするくせに、彼女がそれを棚上げした上で正義を叱責することが、正義にとってはとても苦痛であった。途方に暮れながら、暗闇の中に浮かび上がる浄水場の白い壁をただぼんやりと見つめることしかできないくらい、正義の思考は停止していた。後ろから走ってきた車のクラクションで何とか我に帰ったが、その、おそらく廃棄物処理用のパッカー車と思われる車が猛スピードで正義の横を通り過ぎて行った為、慌てた正義は咄嗟に車を避けようと、左側に身をそらした結果、彼はよろけながら、路肩の植え込みに突っ込んでしまった。幸い、手や腕の擦過傷、打撲程度の怪我で済んだが、彼は改めて、自分の生き方を虚しいと感じた。片や、数分前の自分は、犬と飼い主を急いでいても待った。だが、車は自分を待ってはくれなかった。車というよりも、それを運転する人、ということではあるが。こうしている間にも、時は過ぎていると思うと、時間も自分を待ってはくれないのだ。そんなことを考えていると、ぽつぽつと、雨が降り出してきた。この日の予報では、雨は深夜に降りだし、朝には止むといっていたのにと、正義は噓つきの気象予報士と悪天候を恨んだ。天気さえも自分を待ってはくれないのかと、正義はより一層、情けない気持ちになった。雨や泥水で汚れたズボンの裾が、正義は気になって仕方がなかった。理不尽に汚されたズボンが、まるで自分の人生を象徴しているかのように、彼には思えてしまったのだった。
それでも、再び自転車にまたがり、前へと進む正義だったが、普段から暗い道で前が見えつらいにも関わらず、雨が目に入り、余計に前が見にくく感じた。思えば、最近、めっきりと視力が落ちてきていて、遠くのものが見えにくくなって、目が疲れやすくなってきている気がしていた。以前から、視力はあまりよくなかったが、メガネを作る気になれず、ずっと裸眼で通してきたのが、ここへきて限界を迎えているかのようだった。目もそうだが、体の不調もどんどん進んでいると感じていた。正義は、自分の体でさえ、自分のことを待ってはくれないのだと理解した。駅は目の前なのに、ことごとく赤に変わる信号機も、自分を待ってはくれないと正義は嘆いた。
 様々な嘆きと腕の痛みを抱えながら、ようやく、正義は駅前の商店街へとたどり着いたが、道には、駅へ向かう人々や駅から自宅へと急ぐ人、閉店間際の商店へと駆け込む人々、仕事を終えてほろ酔い気分で道を塞ぐ酔っ払いの集団などが溢れかえっていた。夜の九時を回っても、街は活気で溢れていた。だが、そんな活気は正義にとってしてみれば、ただ迷惑なだけであった。一歩も前に進めない状況に、正義は、いっそ、自転車で思いっきり人の暮れに突っ込んでやろうかと考えたほどだった。そして、彼は思った。人は自分を待ってはくれないが、自分はこうして待たされるのだ。人は平気な顔をしていつも自分を待たせるのだと。彼はまたしても世間の不公平や理不尽さに嘆いた。
 もうとっくに始業時間は過ぎていた。遅刻は確定だった。そして、小島からの叱責も高い確率で現実のものとなるだろうと、正義は思った。それらと引き換えに向かったATMへの道がやっと終わりを告げようとしていた。目的を達成し、ATMから現金を取り出し、しまおうとする正義であったが、カードと明細、現金がすべて同時に出てくるシステムを彼はとても苦手としていた。忘れ物がないかと過度に心配になってしまうし、一度にいくつかの返却物が出てくると頭が混乱し、どれから受け取ればいいか一瞬わからなくなり、対応がまごついてしまうのだった。また、後ろに次の利用客が待っていたりすると、より焦ってしまい、逆に対応がもたついてしまうのだった。正義は自分のことを愚鈍な人間だと理解し、自覚していた。ATMに限った話ではなく、彼が世の中のそうしたスピードになかなかついていけないと感じる機会は今までもとても多かった。そう考えている隙にも、ATMからピロンピロンという警告音が鳴り始めていた。ATMのアラームが鳴り始めるタイミングも正義にとっては速すぎるのだ。正義には鳴り響くアラームがまるで、速くこの場を立ち去れと言われているように聞こえるのだ。後ろに立つおばさんの咳払いも相まって、余計に急かされているような気分になり、彼は忘れ物の不安がありつつも、慌てて銀行の出張所を後にした。人も機械さえも、やはり自分を待ってはくれないようだ。その証拠に、再び走り出した自分の歩みを、赤信号が足止めするではないか。これも今日で何度目のことだろう。信号に近づく度に、青のランプは毎回必ず点滅を開始し、結局間に合わず、眼前で赤に変わる。もう見飽きた光景だ。そんなことを考えながら、正義は半ばあきらめのような気持と共に、職場へ向けてペダルを踏み続けた。職場はたどり着けば、また新たな理不尽が待っているのだと考えると、正義は憂鬱で仕方がなかった。この世のすべてが、自分のことなど待ってはくれないのだと改めて正義は自覚した。もはや、正義には、自分の人生そのものが神の嫌がらせのように思えてならなかった。自分の前世は何か重い罪を犯し、その業を自分が被っているのだろうと思うより他に、正義には自分を納得させる手段はなかった。
 
 正義は職場に到着すると、急いでロッカールームに向かい、エプロンを着け、そのポケットに軍手とカッターを押し込んだ。時刻は九時二十分になろうとしていた。さすがにもう、ナイトのメンバーも全員出勤しているだろうと予想ができた。正義は自分の脇の下から大量の汗が噴き出てくるのを感じた。また、首筋を伝う汗が背中に溜まり、背筋が冷えていくのを感じていた。後ろめたさからか、正義は猫背気味で小走りで売場へと入って行った。焦りで我を失いそうな正義の耳に、聞いたことのある大声の挨拶が飛び込んできた。やはりというか、何というか、声の主は米子だった。咄嗟に顔を上げると、真っ赤な長袖のジャージを身に着けた米子が立っていた。左胸にACミランのチームロゴが描かれ、その下と、背面に「bwin」とスポンサー名の入った、ガットゥーゾを彷彿とさせる一着であった。あれは確か、ガットゥーゾもスタメンで主力選手として戦い、チャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた二〇〇六/〇七年シーズンのミランのジャージではなかろうかと正義は気が付いた。そして、正義は思った。米子は、自分が裏でガットゥーゾと呼ばれていることに気付いているのではないだろうか。その上であのジャージを着てくるということは、それは、彼をあだ名で呼び、ひいては、陰で彼を馬鹿にしている人間に対し、「全部わかっているぞ」と伝える為のメッセージのような思いが込められているのではないか。彼を馬鹿にしている人間に対してのけん制の意味があるのではないか。正義は彼の真っ赤なジャージを見て、瞬時にそのような考えを巡らせた。もちろん、深読みかもしれないし、若干そうであって欲しいような気もしたが、正義にはそのような考えに至る確信めいたものもあった。米子はこの日に至るまで、初出勤の日から一貫して半袖Tシャツのみを着用して仕事に臨んでいた。季節は三月とはいえ、まだまだ夜は冷え込むにもかかわらず、ずっと半袖のTシャツ一枚で出勤し、そのまま仕事をしていたのだった。その姿は、女性陣から「寒々しい」、「見ているだけで寒くなる」、「目障り」などの反感を呼び、近頃では、お客さんからも「ただでさえ店内が寒いのに、見ているこちらまで余計に寒くなってくる」というクレームが寄せられ、ついには、特に服装の規定に違反しているわけでもないのに、店長から異例の厳重注意を受けると同時に、以後、しばらく気候が暖かくなるまでは半袖での就業を禁止させられたのだった。そうして今日から、このように、長袖のジャージを着るに至っているわけであった。これらの経緯もあり、正義は米子がミランのジャージを着用しているのではないかと考察したのだった。正義が思うに、あのジャージは、米子の声なき反抗であり、職場への当てつけであった。そう考えると、正義には、米子という人物がより分からなくなった。いったい彼は何を考えているのか、正義には理解できなかった。

 米子の謎は深まるばかりであったが、とりあえず、正義は彼への挨拶を適当に済まし、本題に取り掛かるために覚悟を決めた。本題とはもちろん、小島に謝罪をすることであった。今日はどんな怒鳴られ方、なじられ方をするのだろうと考えると気が遠くなりそうであったが、大きくため息をつくと、正義は彼女の待つ事務所へと足を向けた。すると、その刹那、正義は右の肩を軽く叩かれた。振り返ると、米子の顔が至近距離にあった。急な出来事に思わずビクッとした正義は、米子の顔は近くで見ると心臓に悪いということを認識した。
「何ですか・・・。」
正義が恐る恐る問いかけると、
「安心して大丈夫ですよ。今日の小島さんは割と機嫌が良いようでしたから。」
と、ぎこちない笑顔を作りながら、米子が答えた。
「あ、そうなのですか・・・。あ、ありがとうございます・・・。」
小島程ではないが、あんたも充分、自分にとっては安心できない存在だよと、心の中でツッコミを入れつつ、正義は米子に礼を言った。米子の言葉を全て素直に信じられる程、正義は米子を信頼してはいなかったが、その言葉を少しでも信じたい自分が居ることに正義は気が付いていた。どうか、米子の言う通り、小島が上機嫌でありますようにと正義は願った。そして、正義は祈るように事務所の扉をノックした。
「ドウゾ~」
すると中から、確かに一聴すると機嫌がよさそうな彼女の返事が返ってきた。何故だろう。正義は疑念を抱くとともに、何か別の恐怖が待ち受けているのではないかと、逆により一層不吉な予感を抱いた。
「失礼します・・・。あの・・・本日は、遅刻をしてしまいまして、大変申し訳ありませんでした。」
正義は、入室するや否や、頭を下げ謝罪した。
「アア、マアイイワヨ。コンドカラキヲツケナサイヨ。」
あまりにあっけない返事に、正義はすっかり拍子抜けしてしまった。
「あ、はい・・・。気を付けます・・・。」
正義は、気の抜けた返事をすると、事務所を後にしようとした。
「サイトウ、チョットマテ。」
扉に手をかけた瞬間、小島が正義を呼び止めた。正義の脳裏には、部屋に入る前の不吉な予感が蘇っていた。やはり、何かあるのではないか。嫌な予感が的中するのではないか。そう思うと、正義は再び、自分の脇の下が急激に濡れていくのが分かった。それでも、呼びかけられた以上、無視してその場を去るわけにもいかなかった。正義はゆっくりと踵を返すと、
「・・・、何か御用でしょうか・・・。」
と、恐る恐る聞いた。
「マア、スワッテヨ。チョット、オネガイガ、アルノ。」
正義が椅子に座ると、矢継ぎ早に小島が話し始めた。話の内容はこうであった。ナイトのメンバーには先述の通り、大学生や専門学校生が多い。そして、そのほとんどが今月いっぱいで辞めるというのだった。卒業に際し、実家に帰る人間や、就職の為に辞める人、卒業試験に落ちて、学校をそのまま中退し帰省する者など、それぞれ事情はまちまちであったが、少なくとも四人の人間が辞めるということだった。その中には帰省の時期をいきなり早めて、月末を待たず帰るという者もいるようだった。彼らは皆が皆、前もってそれを伝えることなく、三月に入りそれを小島に申し伝えた為、さすがの彼女も頭を抱えたようだった。正義は自業自得だと思った。あわてて求人募集をかけ、応募があったが、それでも人手が足りないらしいのだ。そこで、週に二日や三日の勤務である正義と米子に、十分な人手が揃うまで、週に五日から六日程度働いてもらいたいというのが、小島のお願いの内容であった。この話を聞いて、正義は、元はといえば嫌がらせで減らされていた出勤日数を、自分勝手な都合で増やしてほしいという虫のいい要請に、正直怒りを覚えた。また、自分の体調にも近頃どんどん自信が持てなくなっていたこともあり、返答に悩んだが、金銭的な事情には抗えず、背に腹は代えられないとでもいうような心情で、正義はこの要請を渋々受け入れた。聞くところによると、米子は二つ返事で快諾したとのことだった。自分と同じか、もしくはそれ以上に冷遇されているにもかかわらず、何故、そのような対応になるのか、正義には、ジャージの件も相まって、とても不可解に思えてならなかった。さらに、求人に応募してきた二人の面接を、早速この日に行うとのことだった。正義は、ただでさえ時給が安いことに加え、お客さんへの接客も悪く、売場全体が見るからに暗いイメージのあるこの店に、よくもまあ、こんなにも早く求人の応募があったものだと驚くと同時に、この店で働こうなんていう人間は、どうせろくな人間ではないだろうと思った。二十二時から一人、二十三時からもう一人の面接をするから、作業の方はこちらに任せるとのことだったが、正義は、いつも事務所で寝ているだけで、売場で働いていることなどないではないかと思った。小島もとうとう、信用できる人間が青山くらいになったからか、心なしか風当たりが弱くなったように、正義には感じられた。
 一連の話が終わり、正義が売場に戻ると、通りでいつもいるはずのメンバーがおらず、米子と青山が忙しそうに在庫を陳列しているだけだった。これは、自分も忙しくなりそうだと、正義は初めて事の重大さに気が付き、身を強張らせた。早速、仕事にとりかかろうと正義が気合を入れると、納品のトラックが到着した。商品が山積みにされた重たいカゴ台車を次々と店内に引き入れる作業は、一日のハイライトになりうる程骨の折れる作業だ。また、店舗の入り口は搬入のために鉄板が敷いてあり、上り坂になっていることもあり、荷受け作業は一苦労なのであった。入れたばかりの気合が、瞬時にどこかへ飛んでいきそうな正義であったが、荷物もまた、彼を待ってはくれない為、仕方なく荷受け作業を行う米子と青山に加わった。そして、正義がとりわけ重たそうな、豆腐や牛乳などの日配商材を積んだ台車を引っ張っていると、横から突然声をかけられた。
「事務所ってどこですか。案内してもらえますか。」
正義は無性に腹が立った。第一に、重たい台車を今まさに坂から引っ張り上げようとしている人間に突然声をかけてきたことに、正義は腹を立てたのであった。店内には、台車を運び終えたであろう米子と青山がいるにもかかわらず、何故自分に声をかけるのか、彼には理解できなかった。第二に、いきなり声をかけてきて、その内容もまた、突拍子もないものだったからであった。目的も述べず、挨拶もなしに、いきなり作業中の人間を捕まえて案内しろとは何事だろうかと思えた。正義は時刻が二十二時になろうとしていたことを知っていた。そのことから、おそらく、この非常識極まりない若い娘が面接に訪れた人間であろうことは、正義にも想像に難くなかった。とりあえず、正義は台車を店内に引き入れ、適当なスペースに一時的に台車を非難させた。そして、若干怒気を込めた口調で、ある程度返答の予想ができている質問を、あえて彼女に投げかけた。
「何の御用でしょうか。」
すると彼女は、案の定こう答えた。
「ああ。面接を受けに来ました。事務所に案内してもらっていいですか。」
正義は何となくではあるが、感覚的に、自分が彼女に見下されているような気がしてならなかった。現に彼女は侮蔑を含んだような半笑いの顔で、ニヤリとしながら正義を見ていた。また、彼女の言葉と態度はこの数分のわずかな間ではあるが、終始偉そうであった。そんなことを考えていると、遠くの方から声がした。
「この台車は私が運んでおきますよ。」
米子の声だった。正義は不愉快ではあったが、仕方なくその女を事務所へと案内した。彼女はノックの後、扉を開くとともに、
「こんにちは~~~。はじめまして、神田です。よろしくおねがいいたします~~~。」
と、先程までの不快感を覚える態度とは打って変わって、ニコニコととびきりの笑顔を作りながら、元気よく挨拶した。正義は彼女のその様子を見て、ただただ絶句した。
「サイトウ、モウイイヨ。」
一瞬、放心したかのように、我を忘れ固まっていたが、小島に声をかけられ、正義は慌てて仕事に戻った。そして正義は思った。絶対に一緒に働きたくないタイプの人間であるが、おそらく彼女は面接に合格するであろう。なぜなら、小島は、あのように下手に出て、自分に媚びへつらう人間が好きである。何となくではあるが、彼女は腹黒そうでもあるし、そういう部分でも小島とは馬が合いそうだ。正義は、近い将来、彼女が同僚、そして自分の敵になることを確信した。正義や他のメンバーが搬入作業に精を出している頃、早々に事務所の扉が開き、例の女が出てきた。そして、事務所の前で、立ち話を始めた。もはや正義にもその光景を見ただけで、彼女が採用されたことが分かった。そして、作業の途中だが、青山が呼ばれた。確定だと正義は思った。作業人数が一人減り、正義と米子が必死に台車を運んでいる中、三人の談笑が店内に響いていた。彼らの立ち話はその後も続き、すっかり搬入作業も片付き、正義が搬入した商品の陳列に取り掛かっている頃、またも突然、右肩を叩かれた。不機嫌そうに振り返ると、そこにはさっきまでの愛想のよさが嘘のような、冷めた表情のあの女が立っていた。
「神田みさきです~。よろしくお願いします~。」
その言葉だけを残して彼女は颯爽と歩き去って行った。また一つ先行きへの不安材料が増えたと正義は思った。その直後、小島と青山が、正義と米子を、総菜売場付近の、比較的広いスペースに呼び、集合させた。話の内容は、神田を採用したということだった。まあ、たとえ知らされなかったとしても、見ただけで採用したことはわかったがと、正義は思った。いい子だったと繰り返す小島と青山を見て、正義は、確かにあなた達となら価値観が合いそうだと納得したのだった。

 さて、神田というストレッサーが去り、少しほっとしながら、正義は搬入した商品を、品種ごとにそれぞれの売場へと運び、陳列を続けていた。菓子売り場の下段の棚にポテトチップスを陳列していると、ふと、黒いブーツと白くて細い脚が目に入った。お客さんだろうか、と思った彼は、邪魔にならないように少し反対側へと移動し、細々していて陳列に時間がかかる為、後回しにしていた子ども用の知育菓子を先に陳列することにしたのだ。商品を袋から出し、フックに引っ掛ける間、正義はお客さんには一瞥する暇もなかった。とにかく人が少ないので速く仕事を終らせなければという思いでいっぱいであった。知育菓子の陳列を終え、床に散らばったゴミを拾っていると、例のブーツと脚が再び視界に入って来た。正義は夢中で作業をしていたので、その気配を感じることもなかったが、どうやらまだこの場を去ってはいなかったようだった。時間にして数分なので、何か商品について迷っているのだろうと解釈し、正義は、再度、できるだけお客さんに邪魔にならないように、お客さんと反対方向の棚のおせんべいの類の陳列をすることにして、しゃがんだ体勢のまま、そちら側に体を向けた。すると、その時、お客さんの方から声がしたのに、正義は気が付いた。おそらくお客さんの声だろう。周りには他に誰も見当たらない。何の用だろうか。お菓子についての質問だったらどうしよう。特に専門的な知識があるわけでもないし・・・、などと考えつつ、正義はゆっくりと顔を上げた。黒いブーツに細い脚、白いレース地のスカートと赤いニット、黒い皮のダブルタイプのライダースジャケットが順番に正義の視界に入って来た。脚だけの時点で大体判断出来ていたが、どうやら女性のお客さんらしかった。さらに、正義が視線を上げていくと、球のようにまん丸い印象の顔の輪郭と少し団子のような鼻、そしてぱっちりとして、はっきりと線の入った二重瞼の大きな瞳が目に入った。目線の高さは正義と変わらなかった。最後に彼の目に入ったのは、ふんわりとうねりのかかった金色の長い髪であった。正義は直感的に思った。見た目で言えば、間違いなく自分の苦手なタイプの女性だ。適当に対応して、あしらうのがいいだろう。あまり時間をかけて関わると、おそらくろくなことにならない。そうは思ったものの、お客さんであれば対応しない訳にはいかず、正義は嫌々ながらもその女性の声に応じた。
「お待たせいたしました、お客様。どうかなさいましたでしょうか。」
すると、正義の返事に対し、女は答えた。
「あ、私、お客様ではありません。本日十一時から面接させていただくことになっております、瀬戸と言います・・・。」
彼女はその大きな瞳でまっすぐに正義を見つめ、はっきりとした口調で話した。
彼女の視線に耐えきれなくなったのか、正義が壁際の時計に目をやると時刻は十時四十五分になる頃だった。
「もうそろそろ、面接のお時間でしたので、お声をおかけしましたが、よろしいでしょうか・・・。」
正義は思った。忙しいとか、タイミング的なことではなく、キャラ的に苦手な感じだから、あまり自分に声をかけてもらいたくはなかったと。とりあえず、事務所に彼女を誘導すれば、彼女から離れることができると考えた正義は、開きかけたせんべいの段ボールを気にも留めず、彼女を事務所へと案内した。その間も、正義は何となく息の詰まるような感覚に陥った。それほど、彼女の見た目の雰囲気が苦手であった。事務所のドアをノックし、小島が出てくると、正義はようやく解放されたかのような気分になった。
「ありがとうございました。」
といって、正義に一礼して、彼女は事務所へと入って行った。すれ違って行く彼女を見ていると、金髪の長い髪の間から見えた耳にはピアスが光っていた。やはり、自分とは合わない人間だろうなと、正義は何となく思った。先程の神田と言い、瀬戸と言い、今後の不安材料ばかりが増え、正義は憂鬱な気分で、せんべいの袋と対峙していた。だが、ふと考えてみると、自分と合う人間なんて、そもそも、この二十数年の人生の中で、一人だっていただろうか。家族とも馬は合わなかったし、親しい友人の類も、ついに作ることはできなかった。そういえば、あの瀬戸という女は、見た目は苦手なタイプであったが、態度に関しては神田よりは断然印象が良く、むしろ礼儀正しい印象ではなかったか。見た目だけで誰かを判断することの是非について、正義が少し考えていると、突然事務所から怒鳴り声が聞こえてきた。聞きなれた怒声。十中八九、小島の声だと、正義は思った。何となく事務所に向かうと、騒ぎを聞きつけて、米子と青山も事務所の扉の前に集まっていた。
「どうかしましたか。」
という言葉と共に、米子が事務所の扉を開くと、中には、瀬戸の金色の髪を手に掴んで引っ張る小島の姿があった。
「ダイタイアナタ、ナンナノコノカミノケハ」
正義は、あの髪色について小島が文句をつけ始めたのだと理解した。ただ、辞めることになった学生や専門学校生たちも皆、茶髪や金髪だったし、髪色について彼女だけをとやかく言うのはどうかと、正義は思った。実際、ナイト部のメンバーで黒髪なのは、正義と米子だけだった。正義は思った。きっと、この瀬戸という女は、面接の受け答えの中で、何か小島の逆鱗に触れるような発言をしたのだろうと。その意見が、世の中の一般常識に照らして、正しいことか否かなどここでは全く関係ないのだ。こと、このナイト部においては、小島が気に入るか気に入らないかが全てなのだ。好きか嫌いかだ。何とも理不尽で、まるで独裁政権のような状態だが、それがこの職場の真の姿であるのだから仕方がない。それが嫌ならば、こんなところはとっとと見限りをつけて、他の職場を探すべきなのだ。
「あの、すみませんが、痛いので手を放していただけませんか。」
言葉の主は瀬戸だった。彼女はその大きな瞳で小島の目をじっと見据えて、よどみない口調でそう言った。その圧に屈するかのように、小島は彼女の髪から手を離した。
「ダイタイ、フツウニカンガエタラ、コンナカミノケノイロデ、メンセツニハコナイダロ」
正義は、小島の言葉に一理あると思った。
「それは申し訳ありません。先日お電話した際に、事前に店長に確認したところ、色んな髪色の方がいるので、そのままで大丈夫だと了解を得ておりましたので・・・。」
「トニカク、カミノケヲクロクシテコナケレバ、メンセツシナイシ、ハタラカセナイヨ。ヤルキガアルナラ、マタアシタ、クロイカミノケデココニキナ。キョウハカエレ」
あ~あ、また始まった。気に入らない奴にだけ容赦なく放たれる、奴の理不尽砲撃の開始だ。状況的に、自分や米子に向けるのが難しくなったからと言って、事もあろうに、面接に来た人にそれを向けないでもいいだろう。それこそ、人手が足りないという今の状況を彼女は真面目に考えているのだろうか。正義は小島の愚かさを嘆いた。
「わかりました。今日はこれで失礼して、また明日、出直してきます。ありがとうございました。」
そう言ってお辞儀すると、瀬戸は店から出て行った。おそらく、もう二度と彼女の姿を目にすることはないだろうと、正義は思った。

 正義にとって勤務日数が増えたことは収入的には喜ばしいことであったが、肉体的な疲労は増えることとなった。おまけに、疲れているからと言って、よく眠れるというものでもなかった。彼の睡眠事情は特に改善されることはないだろうと思われた。彼はまだ眠り足りないと言わんばかりに、布団に留まろうとする体を無理やり起こすと、ふと、前日の出来事を思い出していた。神田とかいう、態度の悪い女。今日から奴と一緒に働かないといけないと思うと、ただでさえ嫌な職場に向かう脚がより一層重たくなると正義は思った。そして、例の金髪女、名前は確か瀬戸といっただろうか。彼女はおそらく来ないだろう。あんな言われ方をしてまで、あの職場で働く意味など、少なくとも自分には見いだせない。正義は瀬戸が来ないことを確信していた。そんなことを考えながら、いつものように腹痛と戦っていると、これまたいつものように、遅刻ギリギリの時刻になっていたことに気が付き、正義は、またしてもいつものように、慌てて部屋を出て自転車に飛び乗った。
 何とか遅刻せずに間に合った正義が売場へと入って行くと、前日に見たのと同じ真っ赤なジャージを身に着けた米子と、お客さんと思われる女性が話しているのが目に入って来た。長い黒髪をなびかせ、ワインレッドの大きめの羽織ものに身を包んだ女を横目に、軽く米子に挨拶をした正義は、ハッとした。米子の隣にいる女性の、ダメージのあるミニスカートからすらりと伸びた、レギンスを履いた細い脚と黒いブーツに見覚えがあったからだ。正義はまさかと思い女の顔をまじまじと見つめた。その大きな瞳と高さのある少しダンゴっぽい鼻には確かに見覚えがあった。正義はそのまさかであることを確信した。間違いなく、彼女は瀬戸であった。いったい何を考えているのだろうか。あの金色に染め上げた髪は黒く染め直され、おまけに、パーマまで矯正されていた。
「あ、昨日はありがとうございました。」
そう言って、正義に挨拶し、にこりと笑いかけた瀬戸の前歯から、ちらりと見えた歯並びの矯正器具を正義はただただ呆然と見つめていた。彼には彼女の行動が理解不能であった。どうして、そんな労力を要してまで、前日に嫌なことがあったこの場所に再び現れたのだろうか。何かよっぽどの事情か目的があるのだろうか。そうでないと説明がつかない。正義は瀬戸の口元を見つめたまま、そんなことを考えていた。
「あの・・・、どうかしましたか・・・。」
たまらず話しかけた瀬戸の言葉に我に帰った正義は、一旦彼女について考えることを止めることにした。
「あ、すみません。ちょっと考え事をしてしまいまして。気にしないでください。」
「はあ・・・。ところで、小島さんはまだいらっしゃってないのですか・・・。」
瀬戸の問いかけに、正義は辺りを見渡し、どうやら出勤しているナイトメンバーは自分と米子のみであるということを確認した。
「・・・。小島さん含め、うちのナイトの人間はみんな時間にルーズなもんで・・・。むしろ時間通りにメンバーがそろっていることの方が珍しいくらいですよ・・・。まあ、自分も他人の事をとやかく言えないですけど・・・。あの、考え直すなら今ですよ・・・。
人手は足りてないので、人が増えるのはありがたいですけど、ご覧の通り、あまりお勧めできる労働環境ではないですから・・・。」
正義は、つい本音を言ってしまった自分にハッとし、話すのを止めた。彼は自分でも、何故、わざわざ彼女のために、そんなことを話したのかわからなかった。
「そうですか・・・。でも、もう少し小島さんを待ってみますね。」
そう答えた瀬戸に対して、正義は自分の話を聞いていたのかと言いたくなったが、何とか言葉を飲み込んだ。そうこうしていると、バックヤードの扉が開き、神田が入って来た。
「おはようございます~。」
何とも緊張感のない挨拶と共に、神田がゆっくりと近寄ってきた。
正義が壁の時計に目を向けると、時刻は九時を回っていた。全く、初日から遅刻をしてくるとは、昨日の態度と言い、何て図太い女なのだろうと自分の遅刻癖を棚に上げ、正義は呆れた。
「あれ、そういえば、小島さんと青山さんは・・・。」
神田も二人の不在に気が付いたようだった。
「えっ、いないの。昨日、仕事教えてくれるって言ってたのに。」
いやいや、お前はお前で遅刻してきただろうがと、正義は心の中でツッコミを入れた。
「あ、仕事の内容でしたら、もし私で良ければ、お二人が来るまでご説明しますよ。」
と米子が提案した。
「え、ああ、そうですか・・・。」
米子の申し出に対し、明らかに嫌そうに、神田が反応した。おそらく、米子の見た目などが彼女には受け付けられないのだろう。それにしても、そこは「ありがとうございます。お願いします。」というのが筋だろうと、正義は思った。
「齋藤さん。そう言うことなので、もしよろしければ、その間レジをお願いしたいのですが良いでしょうか・・・。」
そう米子に言われ、神田の為に自分の仕事内容が限定されることや、後輩である米子に自分の業務を支持されることが釈然としなかったが、自分が神田の教育をするよりは幾分かマシだと考え、正義は渋々それを了解した。
「申し訳ないですけど、もう少しお待ち頂いてもよろしいでしょうか。」
そう米子に言われると、瀬戸はまた、にこりと笑って返事をした。どうやら、悪い人間ではないのかもしれないが、米子と同じ種類の不可解さを瀬戸に対して、正義は直感的に感じた。米子同様、自分には理解できないタイプの人間だろうと、正義は理解した。
 
しばらくすると、小島と青山が悪びれたそぶりもなく、売場に姿を現した。小島は事務所の入り口のそばに立っている瀬戸を見つけると、開口一番、
「ナニ、アンタ、キノウノコ。ホントニクロクシテキタノ。アタシ、モウコナイトオモッタワヨ。」
と品の無い笑いとともに言い放った。
「言われた通り出直してきました。もう一度、面接して頂けるでしょうか。」
瀬戸の嘆願に対し、
「今ちょっと忙しいから、もう少し待っててもらってもいいかな。」
と、横から青山が口を出した。忙しいのは自分たちが遅れてきたからで、彼女はもう十分待っていただろう、と正義は思った。同時に、さすがに、二人の遅刻を目の当たりにした挙句、このような言われ方をしたのでは、今度こそ、彼女はここで働くことを諦めるだろうと、正義は考えた。だが、そんな正義の予想を覆し、彼女はまだ事務所の入り口付近に立ったまま動こうとしなかった。いよいよもって正義には、彼女の考えていることが解からなくなった。考えると疲れてくるので、もはや考えることを止めようと彼は考えた。正義は、考えたところで彼女や米子のような人間のことは自分には理解ができないのだと、半ばあきらめのような、悟ったような気持ちになった。そうして、しばらく無心でレジ打ちのみに没頭していると、ようやく観念した小島が、瀬戸を事務所へと招き入れた。そこまでして地獄に足を突っ込むとは愚かな女だな、こんな無駄な努力や我慢をしてまでと、正義は神田に対して抱いたのとはまた別種の呆れを、瀬戸に対して抱いた。
 晴れて地獄の仲間入りをした瀬戸が、面接を終えて事務所から出てきた。そして、正義のいるレジへと歩み寄ってきた。
「明日から一緒に働かせて頂くことになった、瀬戸綾花といいます。改めまして、よろしくお願い致します。」
そう言って正義に対し頭を下げた瀬戸の、なびいた黒髪の内側から覗いた耳を正義は何ともなく見ていた。すると、ピアスの数が増えていることに気が付いた。去って行く彼女の後姿を見ながら、正義は彼女のちょっとした反骨精神のようなものを感じていた。

 正義は連勤を理由とした疲労の蓄積を実感していた。主に職場に対するストレスが原因で布団からなかなか抜け出せなかったこれまでに対し、体がまだ寝ていたいと正義に訴えかけているように感じる程、肉体的な疲労がたまっているのを、正義は自覚していた。これで睡眠が思い通りにできればまた少し違うのだろうがと、正義は近頃、通勤前は決まってこんなことを考えていた。
 神田や瀬戸がナイトに加わってからもう数日が過ぎた。小島や青山が主に仕事を教えている神田は、相変わらず調子だけは良いようで、二人に取り入ろうとするばかりでろくに仕事を覚えようという姿勢も見られなかった。第一、小島と青山にしても、ちゃんと作業を教えようという気がないのではないかとも、正義には思えた。まあ、あの二人が真面目に神田に仕事を教えようとしたところで結果は見えているが、と正義は思った。
 それに比べると、瀬戸の順応性は異常に思えた。主に教育係をしている米子の教え方もいいのかもしれないが、彼女の物覚えの良さには正義も驚いた。学生時代にいくつかのアルバイトの経験があり、レジを扱ったことのある正義でも、レジのメーカーや仕組みが変われば操作の方法も多少変わってくる為、夕方に研修という形で五時間ほどレジに入って、扱い方を覚えたのだった。それを、瀬戸は米子と一緒に一時間程度レジに入っただけで、レジの操作法をある程度習得してしまった。初めて見た時のパンチの効いたルックスからは想像できない程、お客さんに対する人当たりもよく、応対も丁寧で、物腰も柔らかかった。聞くところによれば、彼女はまだ大学一年生のようであった。正義は、あんな仕事どうでもよいと言っている割には、何となく悔しいような気持ちになった。そして同時に、自分の才能の無さを再認識した。何でも簡単にできてしまう奴というのが、少なからず、この世には存在しているということを改めて感じたのだった。一方で、そうした能力は無くても、うまく周囲に取り入って社会に溶け込んでいくコミュニケーション能力の高い者もいて、それが神田のような人間だろうと正義は考えた。どちらの人間も結果的に世の中をうまくわたっていくものだが、自分にはそのどちらの術もないことを実感し、正義はまた落ち込んだ。そして、そんな気持ちを引きずったまま、部屋の扉を開けた。
 三月ももう終わりが近づき、夜風の厳しい寒さも、多少治まり、暖かい春の兆しが見えてきていたが、それは正義にとっては本格的なアレルギーとの闘いを意味していた。いつもの線路沿いのアスファルトが、何とも憎らしく思える今日この頃であった。
 正義が店に到着し、身支度を済ませ売場に出て行くと、米子と瀬戸が事務所の横に突っ立っていた。ここ数日、よく目にする光景であった。
「齋藤さん、おはようございます。」
米子の挨拶に、正義は会釈で返した。
「おはようございます。」
今度は瀬戸が正義に挨拶の言葉をかけた。にこりと笑った口元がきらりと光った。
「あ、どうも・・・。」
と、そっけない反応をし、正義は再び会釈した。
「先程、新川さんから聞いたのですが、ナイト部にまた求人の応募があったそうですよ。今度はフリーターの男性と、主婦の女性みたいです。」
米子の情報提供に対し、正義は、
「へえ、そうですか。」
と、まるで他人事のように答えた。正義にとっては、一緒に働くメンバーがどんな人間であるかということはあまり重要なことではなかった。正義にとっての一番の関心事は、その人間が自分にとって害があるかどうかという事だけだった。自分にとって害のない人間であれば、たとえその人間が男でも女でも、何歳であっても、どんな人間であっても、さほど気にならないと、彼は思っていたのだった。大体が、この職場にはおかしな人間や思考の理解できない人間、簡単に言ってしまえば変な奴が多過ぎると正義は常々考えていた。
だからこそ、この職場の人間とはなるべく関わらないようにしようと思っていた。もっと言えば、この職場で働く者のみならず、ここに来る客たちも変な人間が多いと彼は感じていた。それ故に、非常に不可解で理不尽な理由で客から怒鳴られ、叱責されることも少なくないと彼は考えた。彼は、そんなここの客たちへの対応に辟易としていた。もはや、「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」などの最低限度の接客用語でさえ、彼らに対して使うことはふさわしくないように思えていた。そこで彼は、それらの代用語として、別の言葉を発し、あたかも接客用語を使っているように見せかける方法を考えた。「いらっしゃいませ」の代わりに、彼は「いらっしゃいません」と巧みに前者に聞こえるような発音で言っていた。語尾に「ん」を滑り込ませるという方法だった。また、「ありがとうございました」に関しては、語頭の「あ」の部分の発音を、ドイツ語のO(オー)のウムラウトの発音と同様に、「オ」を発音する口の形のままで「エ」と発音するイメージで言葉を発していた。その為、正確には、「オリゴ糖ございました」と言っているのに近い発音になっていたのだが、それを、何とか「あ」に聞こえるように、正義は発声の度に修正していた。正義は大学時代に学び、それ以来使いどころがなかった第二外国語の知識を、このような形で無駄使いしていた。そんなくだらない小細工をしてまで、客に対しきちんと挨拶をすることを、彼は拒んでいた。人間としての質の低い、この店の客たちのような人間に正しく挨拶をしてしまったら負けだと、正義は本気でそう信じていた。まだまだ働き始めてから日の浅いこの職場に対し、正義はほとほと嫌気がさしていたのであった。
「いい人たちだといいですね・・・。ありがとうございます・・・。」
少し間を置いて、米子に対し正義が返したこの言葉もまた、発音で言うと、極めて「オリゴ糖」に近いものだった。

 そうこうしていると、神田、青山、小島が順番に売場へと入って来た。正義が壁の時計に目をやると、九時を五分ほど過ぎたところだった。これもまた、ここ数日よく目にする光景であった。特に小島から連絡事項があるわけでもなく、各々が自分の持ち場へと散っていった。正義がレジの方を見ると、神田がのろのろと、慣れない手つきでレジを打っている姿が見えた。レジを待つお客さんが増えていくのを横目で見ながら、正義は二階の倉庫へ向かおうとしていた。すると、米子が走ってレジまで駆け付け、神田の入っているレジの向かい側のレジに応援に入った。神田がレジをできないで困るのは、真面目に仕事を覚えようとしないのが悪く、自業自得なのだから何も自分の仕事の手を止めてまで助けてやらなくても良いのにと、倉庫へ向かいながら正義は思った。
 ナイト部の人数が少なくなった影響で、ここのところ、米子と共に仕事をする機会が増えてきた正義であったが、先程のような光景を何度も目にしていた。神田に対してのみならず、瀬戸の教育も誰に言われるでもなく買って出ていた。おそらく、小島達は神田に付きっきりだった為、明らかに瀬戸のことは放置するつもりであっただろうと、正義は思っていた。自分がされたように、小島達が前時代的な「見て覚えろ」、「技を盗め」、「真似をしろ」という教育方針で突っぱねるつもりであったことが目に見えていた。それを理解していたかどうかはわからないが、米子はさりげなく瀬戸に仕事を教えていた。米子自身、ろくに仕事など教えてもらっていなかったはずなのに、と正義は考えていた。彼女らのみならず、青山が質の悪い客に絡まれていると必ず応援に駆け付けていた。米子自身が困っていても、誰も手を貸さないようなこの職場で、何故そのようなことをするのか、正義は米子のことがここ数日でさらに理解できなくなっていた。何か特別な理由や目的があるのではなかろうかと勘繰っていた。
 そんなことを考えながら、ペットボトルを積んだ台車を押しつつ売場に戻ると、米子が客と思われる女性に熱心に説明をしているところに出くわした。よくよく見ると、この女性客が毎晩来ているという事に、正義は気が付いた。そして、いつもどうでもいいような、本当にそれが知りたいのかどうかも疑わしいような、まるで、店員の知識を試しているかのような質問を投げかけてくる客だという事を、彼は思い出した。年齢は六十代前後であろうか。従業員が自分の質問に答えられずに悩んでいたり、質問に答えられず謝ったりしているのを見て、ニタニタと薄ら笑いを浮かべていることが多いようで、従業員の間では「いじわるBBA(ばばあ)」として有名な人物であった。そんな、いじわるは、ここ数日、米子にしつこく絡んでいた。よって、彼女と米子が話している姿は、これもまたいつもの光景と言えるものになりつつあった。ただ、ここで不思議なのが、米子が彼女の質問にすべて的確に答えていることであった。正義は、今度は一体何の質問をしているのか気になった為、台車を売場の広いスペースに停め、何となく二人に近づいてみることにした。すると、例のいじわるの声が聞こえてきた。
「この辺のうま味調味料って、どれも同じなの。あたしはこれが欲しいんだけど、どうせ、どれだっておんなじだよね。これは今ここにないもんねえ。」
と言いながら、自分が普段使っていると思われる商品の袋をおもむろにバッグから取り出し、米子に手渡した。米子はその袋をじっくりと見ていた。何かわかったとでもいうのだろうか。正義は二人のやり取りに、何故かワクワクしていた。
「やっぱり、わかんないならいいや。何使ったって変わりゃしないから、この辺にあるのを適当に貰ってくよ。」
と、いつものニヤニヤ顔のいじわるが言い終わるその刹那、
「少々お待ちください、お客様。」
と言って、米子がいじわるを呼び止めた。そして、いじわるが持ってきた袋を見せながら、何か説明を始めた。
「お客様がいつもお使いになられている、こちらの商品ですが、主成分はイノシン酸ナトリウムで、こちらの配合量が多い商品ですね。」
「それがどうしたの。」
「こちらの棚にございます弊社が取り扱っている商品ですが、これらは全て、L‐グルタミン酸ナトリウムが主に多く配合されている商品で、お客様の使われているものとは、主成分や成分の配合量が違う商品でございます。」
「え。何、それ。どういうこと。どれもうま味調味料でしょうが、何が違うのよ。」
「簡単に申し上げますと、味が多少変わると考えられます。これは私見ですが、特に出来上がった料理の甘みが違うかと思われます。」
「味・・・。甘さ・・・。」
「はい。例えば、一般的には、昆布に含まれているうま味成分がグルタミン酸、かつお節のうま味がイノシン酸、干しシイタケに含まれるのがグアニル酸と言われております。」
「あ、なるほどね、その三つじゃ全然違うわね。」
な、なんと、あのいじわるババアを説明で納得させている、と正義は驚嘆した。
「そうなんです。ちなみに、当店で取り扱っている、この辺りの商品は、サトウキビからグルタミン酸を摂っている商品でございます。」
「ちなみに、同じ成分を使っている商品同士でも、その配合の量が違うと若干味も変わってくるといわれております。」
「へえ・・・そうなんだ。あ、そうだ、この、色んなやつに入っているリボ・・・ヌクレ・・・オ、チ、ドナトリウムっていうのは何。」
「5‐リボヌクレオチドニナトリウムというのは、イノシン酸ナトリウムという成分とグアニル酸ナトリウムというものを混合したもののことです。ということで、グルタミン酸、つまりは昆布のうま味を主に使った商品にも、これが入っているという事は・・・」
「あ、一応、昆布とシイタケのうま味も入っているってことなのね。」
「おっしゃる通りです。ところで、当店の品物を買っていただけるのは大変ありがたいことなのですが、当店の商品を使ってしまうと、お料理の出来上がりのお味が少し変わってしまうかもしれません。」
「そうか・・・。わかった。ごめんね。いっぱい説明してもらって申し訳ないけど、今日は買わないで帰るわ。」
「いえいえ、とんでもございません。いつもご利用いただきありがとうございます。」
「それにしても、あんた。最近よく見かけるけど、何でも知ってて助かるわ。」
「いえいえ、恐縮です。ありがとうございます。」
「いつも、ありがとね。」
米子に対してそう言うと、いじわるは店を出ていった。だが、彼女の帰り際の笑顔は、決して人を蔑んでいるようなニタニタとしたものではなく、気持ちのいい笑顔であった。彼女は本当にただのいじわるだったのだろうかという謎に対して正義が思考にふけっていると、米子の元に小島と青山がやってきた。
「マイニチマイニチ、アノヒトニジカンツカッテ、ナニヤッテンノ。」
小島が米子への叱責を開始した。
「すみません。ですが、お客様の対応も仕事ですので・・・。」
米子が至極真っ当なことを言いかけると、青山が割って入って来た。
「お客様って・・・。あの人、毎日ぶつぶつ話しかけてくるだけで、ろくに買い物しないじゃないすか。おまけに、あれだけ時間かけて熱心に説明してると思ったら、商品を買わせない方向で話しを進めてるし。そんな無駄な時間あったら、もっと有効なことに時間を使ってくださいよ。客と無駄話ばっかりしてないで、しっかり仕事しましょう。」
この言い草は何なのだろうか。大体自分たちがしている雑談は有効な時間の活用法だとでもいうのか。青山に至っては、二人の会話の詳細まで聞いていたような口ぶりではないか。いつもの事ながら、何て理不尽な説教なのだろうかと、正義は隣の商品棚の列で息をひそめながら、憤っていた。
「はい・・・。すみません。気を付けます。」
正義の怒りとは裏腹に、当の本人は、さらっとその場をやり過ごし、仕事に戻っていった。
「マッタク。カネニナラナイキャクト、ハナシテタッテ、ムダナノヨ。アタシタチニモ、メイワクガカカルンダカラ、ヤメテホシイノヨネ」
「そうですよね。ああいうのと仲良くすると、調子に乗って、周りの従業員にも絡んできますから。すごい面倒ですよ・・・。」
要は、自分たちが商品の知識など何もないから、いじわると関わりたくないだけだろう。自分たちの無知を理由に米子を叱責する二人の方が、正義にとっては、よっぽど関わりたくない人間のように思えた。

 それにしても、やはり、この店には変わった客が多いと、改めて正義が思っていると、入り口から、二メートルはあるかと思われる、長身の黒人が入って来た。彼は昼に来ることが多く、正義もレジ研修で夕方に勤務した際に見かけたことがあった。一見、陽気な外人風な男で、普段は片言の日本語を使うが、一度、自分の欲しい商品がなかったり、目的の商品がどこにあるのかわからなかったりと、自分の意にそぐわないことがあると、英語でぶつぶつと何か文句を言いだし、片言の日本語で従業員を怒鳴りつけたりするのだという事を、正義は新川から聞いていた。同じく長身で英語も少しであれば理解ができる宮本さんが、いつも彼の応対をしているようで、彼も宮本がいるときは気分よく帰っていくらしいが、宮本がいないときは決まって、前述のような状態になるらしいのだった。店内でわめき始め、なかなか帰らない時もあるというので、本当に面倒くさい客であるが、その彼が最近、やたらと深夜に来店することが増えてきているのであった。その理由はまたしても、米子であった。
「ア、ヨナコサン、イタ。コンバンハ。」
「ああ、どうもベルさん。こんばんは。」
会って早々、二人はハイタッチを交わした。正義はその姿を見た瞬間、その昔テレビで観た、ブーマーが門田博光にハイタッチして、門田が肩を脱臼したシーンが脳裏によぎった。米子が脱臼することはなかったが、これもまた、いつもの光景になりつつあった。それにしても、彼は厄介な客に好かれるものだと、正義は思った。また、米子がベルさんと呼んだことで、あの大男の名がベルモントであると新川から聞いたことを思い出した。
「今日は何をお探しですか。」
「ソレガ・・・well・・・」
「あ、英語でもゆっくり話していただけたら大丈夫ですよ。自信ないですけど、お伺いします。」
「ソウ。タスカル。」
ベルモントがそう言うと、二人は英語で話し出した。そう、これも驚きなのだが、米子は英語が理解できるようなのだった。そう言うこともあり、宮本以外にも話せる人間がいる安心感からか、この時間にも彼は来店するようになったようだ。
ベルモントの話を聞くと、米子は何かわかったようで、彼を店の奥の方へと案内した。そして、店の奥からは二人の談笑する声が聞こえてきた。何がそんなに面白いのかは、正義には理解できなかった。

 数分後、米子がベルモントを送り出すと、またも小島と青山が彼の背後から現れ、彼に説教をした。内容は先程と変わらなかった。何度言えばわかるのだと、米子を叱責する二人を陰から見ていた正義は、それならば、面倒な客は全部、自分たちで対応すればいいではないか。それもせず、そういった客が来ればすぐに雲隠れするのにもかかわらず、ちゃんと対応した人間をああして叱責するのだ。結局、変な客と関わるとどのみち損をするようになっているのであった。それならば、変な客とはなるべく関わらないようにするのが普通だし、ベターな選択であるように正義には思えた。だが、米子の様子を見ていると、わざと、自分からそう言った変な客と積極的に関わっているように正義には見えた。そしてその結果、小島に叱責される。その姿ももはや、いつもの光景になろうとしていた。彼はその一連の流れを全て受け止めたうえでなお、癖のある客と積極的に関わっているように正義には見受けられた。一体、米子に何のメリットがあるというのか。やはり、これにも何か特別な目的や理由があるのだろうか。でなければ、ただただ自分が損をするだけの馬鹿らしい行動ではないか。そう思うと、余計に正義は、米子のことが解からなくなっていった。彼はどういう理念で行動し、どんな信条を掲げているのだろうか。正義はそれを知りたいような気もしたが、何となく、直感的にそれは聞いてはならない内容のような気がして、すぐにその思いを打ち消した。

 ペットボトル飲料の補充を一通り済ませた正義がふとレジの方に目をやると、またもやレジが混雑していた。どうせ神田の不手際だろうと思いつつも、神田とお客さんにピントを合わせると、どうも想像とは違うようであった。中年の痩せぎすな女性客が、何やらレジでわめいていた。
「いいから、あなたは触らないで!触ったものは一旦横に避けて置いてって、言ってるでしょ!拭かなくちゃなんないんだから!」
大きな声でそんなことを訴えている女性。彼女も近頃よく見かける変な客の一人であった。彼女が持参した除菌用ウエットティッシュのボトルをレジの台に乗せて、従業員がレジを通すために手に取った品物を、レジを通した品物から順番にウエットティッシュで入念に拭いていく、というより磨いていく光景は、今や当店二十二時頃の風物詩と化していた。彼女は米子の天敵とも言える存在であった。米子の見た目を「汚らしい」、「不潔」と言って毛嫌いし、何か嫌なことがあって従業員にクレームを言う度に、二言目には必ず、「あいつをまだ雇っているのか。早く辞めさせろ。」と、本来のクレームの内容が米子とは直接関係のない場合でさえ言い出す始末であった。レジに米子一人しかいない際は、他の従業員を呼ぶ為に、レジ周辺で「誰かほかの奴はいないのか。」と騒ぎ立てることもあった。確かに米子は見た目に清潔感があるかと言えば、決してそうではないし、伸びきった髪は不潔感も漂わせるところは多少あるかもしれないが、この客の米子への反応は明らかに異常だと正義は常々感じていた。どちらかと言えば、この女性が極度の潔癖症なのではないかと正義には見受けられた。それに加えて、彼女は接客応対の細部に対して、いちいち難癖をつけてきて、従業員の言葉尻をとって人の上げ足をとったりしていた。もはや、レジで彼女に当たったら、事故だと思って諦め、彼女の罵倒に耐えながら、ただただ時間が過ぎ去るのを待つのが得策というのが、従業員全体の共通認識であった。
 にもかかわらずだ。米子ときたら毎回わざわざ彼女に近づいていくのだ。彼女のせいでレジが混雑していれば、必ずレジに駆け付けてきて、空いているレジに応援に入るのだった。その際、米子は毎回のように彼女からの罵倒を受けていた。正義には、そうまでしてわざわざ彼女に近づいていく米子の気持ちが、やはり理解できなかった。もはや、正義には米子がマゾヒストか何かではないかと思えるくらいであった。そんなことを考えながら混雑するレジを正義がぼんやりと見つめていると、米子が駆け足でレジに近寄ってきた。
「大変お待たせ致しました!お次にお待ちのお客様から順番に、こちらのレジでお会計致します!」
そう言って、神田の向かいのレジに入った米子に対して、
「ああ、気持ち悪い奴が来た。誰がお前なんかに自分が買うものを触らせるか。汚らしい。いつまでここにいるんだ。早く辞めろ!今すぐ辞めろ!消えろ!汚らわしい!」
という具合に、例の女は散々な言葉を米子に投げつけた。正義は彼女の行為が刑法ニ三一条、侮辱罪に当たるのではないかとさえ思った。だが、そんな罵詈雑言もどこ吹く風で、米子は今日も精算を待つ人々をいち早く帰路につかせることだけに集中していた。その様子を見ていると米子は取り立てて喜んでいるようにも見えず、マゾヒストではないようだが、一方で、怒っているようにすら見えない。何というか、何も考えていないようだ。まるで感情がないロボットでも見ているかのようだ。正義がそんなことを真剣に考えている間に、潔癖女やその他のお客さんは一人残らず店を去っていた。何事もなかったかのように、無表情でレジを後にする米子に対し、神田も特に礼を言うこともなかった。それこそ、米子がレジに応援に入ったところで、礼を言っている従業員など見たことがなかった。全くもって、米子にとっては何のメリットもないのであった。それなのに、同じことを繰り返す彼の心情が、正義は日増しに理解できなくなってきていた。まあ、そのうち嫌になってレジの応援も変な客の対応もしなくなるのが関の山だろうと自分に言い聞かせ、正義はそれ以上考えることを止めにした。
 このように、この店の変な客など枚挙にいとまがないほどであった。むしろ一般的に見てまともな思想や規範、いわゆる常識的なものの考え方、コモン・センスのようなものを持ち合わせていると思える客の方が少ないように正義には思えた。もっと言うと、上記のような客の存在は皆無だとさえ思えた。そう考えると、彼らに挨拶をすることなど実に無意味で馬鹿らしいことだと正義は再認識した。クズに挨拶なんてしたら負けだと改めて実感していた。ましてや、あんな奴らに謝るなんて絶対に嫌だと正義には思えた。たとえこちらに非があったとしても、あんなクズどもに謝罪をするのはできる限り避けたいと考えていた。
 ところで、謝罪の際の言葉であるが、普通、他人に対して謝るときには、「ごめんなさい」や「すみません」、「申し訳ありません」などを使用するものだが、正義はこの店に入社以来、それらの言葉を使ったことがなかった。正義はここでも例の“オリゴ糖”と同じ手法を駆使していた。全く無駄な努力である。「ごめんなさい」には「いらっしゃいません」と同じ要領で語尾に巧みに「ん」を滑り込ませ、「すみません」は「すみ」の部分を英語の「SWIM」という単語の現在進行形を短縮したもの、つまり「SWIMMIN,」を素早く発音することで代用していた。正確な発音は「すうぃみんません」に近いものであった。「申し訳ありません」に関しては、正義は「もう鮭(シャケ)ありません」と言っていた。この言葉は割と正義が多用しているもので、誤っているようでいて、実際は鮭の在庫がないことを報告しているだけで、心が全く痛まないため、正義はこのセリフを多用していた。正義にとっては、質の悪い客に謝ることもまた、負けることを意味しているのであった。彼にとって、「オリゴ糖」をはじめとする挨拶と謝罪の代用文たちは、自分の心が傷つかないようにする為の大事なツールなのであった。このツールが、先のグレープフルーツのお客さんや、小島に対しても適応されていたことは、言うまでもないことであった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み