第1話 名前のない空を見上げて

文字数 9,706文字

 窓の外、帰路に着く人々の喧騒と行き交う車の走行音が、再び彼を、まどろみから現実へと引きずり戻した。もう諦めれば良いのだ。結果は明らかなのだ。また、いつものように、眠い目をこすりながら、出掛けていくことになるのは目に見えていた。
それでも、彼は特にすることもないので、毎回、惰性でそのまま目を閉じ、懲りずに眠りへの挑戦を続けるのだ。こんな時はいつも、彼の両耳はやたらと力を発揮する。どうでもいいような外界の音を、必要以上にとらえてしまうのだった。世間や他人の事など、もう一切考えたくもないと思う、彼の心とは裏腹に。
 ふと、子どもの泣き声が聞こえてきた。泣いて親に駄々をこねているのだろうと彼は思った。泣いたからといって、物事は自分の思い通りになるわけでは決してない。なのに、どうしてだろう。人は大人になり、それを充分に理解しているにもかかわらず、なす術もない状況を前にして涙を流すことがある。泣いても仕方ないと、わかっているのに。瞼の裏の暗闇の中で、彼は、そんなことを思っていた。自分はもうどれくらい、涙を流していないだろう、と。
 度々、睡眠との勝負に勝つことがあった。だが、その場合、決まって大切な何かを引き換えにした。今日はどう言おうか。彼は今夜も、自分の置かれている状況を、より上手に取り繕うことができて、なおかつ、整合性を伴った言葉、つまりは、都合の良い言い訳を必死になって頭の中から引っ張り出そうとしていた。このままだと、また遅刻をする。もう何度目だろう。一度使った手は通用しない。彼の頭の中で、様々な思いが交錯していた。度重なる失態を補える程の智略や機転は、今の彼には到底、備わってはいなかった。なぜあの時、目を覚ましておかなかったのかという後悔が、彼の中に渦巻くが、これももはや、お決まりの思考パターンだった。自分の中にわずかに残った、完璧主義的な一面がそうさせるのか。それとも、毎回、出勤前にはうまく眠れなくなるという状況が、さながら、睡眠という当たりを引くまで、金をつぎ込み続ける博打打ちのような、異様なまでの執着心を生み、そうさせるのか。はたまた、世の中に疲れ、特に楽しいと思うこともなく、辛い現実から目を背けたい一心での眠りへの固執なのか。彼は、決まって、遅刻の原因となるメカニズムを解明しようとするが、未だに自分の心理構造は解き明かせないでいた。というのも、いつも、その先を考えることを止めるからだ。今考えるべきことではないと、現実に立ち戻るからだ。そう、原因などは、本来、後で考えればいいものである。彼が今すぐにすべきことは、出勤時間の迫る勤務先に対し、正直に、寝坊したという事実を話し、素直にそれを詫びる事である。彼自身もそれはわかっていた。だが、彼はそれをしたことがない。いつだって、自分の失態を認めることが出来なかった。何かミスをする度、最終的には平謝りをするが、初めに口をついて出るのは言い訳で、心の中でもたっぷりと時間をかけて、自分は悪くないという屁理屈をこねまわし、自分勝手に納得をして、自分が傷つかぬようにしてきたのだ。そうやって、何とか自分の心を保っていたのだった。それが、何て無意味で、愚かな考えか、彼も充分に理解していたからこそ、彼はそういう自分を責め続けてきた。それでも、他方では、自分の現状は、彼をここまで傷つけ、追い込んできた、周囲の人間や社会のせいではないかと言い訳を続け、彼自身の非を認める、ましてや、自分を改めようなどという気は少しも起きなかった。今まで彼は、何度も心に言い聞かせてきたのだ。    俺は悪くない。絶対に悪くない。   
 そもそも、みんな真面目になんて働いていない職場だし、遅刻してくるのも自分だけではない。適当な言い逃れに終始したバイト先への電話の後で、彼は、自転車に跨りながら、お決まりのセリフを頭の中で反芻していた。虚偽の遅刻理由の辻褄合わせを、勤務先へ着くまでに考えなくてはと、彼は毎回考える。しかし、そのモチベーションは、やる気のない職場の状態や、彼の無気力によって、毎度潰えることとなる。どうだっていい。面倒だ。もう無駄な努力などしたくはない。これらは近頃の彼の口癖だ。周りがいい加減なのだから自分もそうしようと、彼は思っていた。ある時期から彼は、無意識のうちに、自分の行動を決める基準を、常に他人に委ねるようになっていたのだ。これまでの人生を左右するような、人生の大事な局面。そこだけは、周囲に流されてはいけないという、自分の意志で決めなければならないという場面で、彼はいつも、他者の判断に頼ってきたのだ。

 あの時もそうだった。彼が中学三年の頃、それ以前より不仲であった両親の離婚が決定的になり、二人は、息子である彼をどちらが引き取るのかで揉めていた。ただでさえ、自分の養育権で親同士が争うことなど、子どもにしてみれば良い心持はしないが、それ以前より両親との関係がギクシャクしていた環境で育った彼にとって、その事実は、逆に、計り知れない危機感や恐怖を彼に抱かせた。
 彼の父親は、自身が大学受験に失敗して大学に通っていなかったからか、大学など通う必要はないという考えの持ち主だった。そのため、彼にも大学には通わせないという旨を、早くから伝えていた。現に、五歳上の姉は、高校を卒業すると、すぐに就職していた。また、彼の父親は、二人の子どもたちに、口癖のように、早く大人になって、金を稼いで、楽をさせてくれと言っていた。父親についていった場合、大学はもちろん、高校への進学さえも許されないのではないかと、彼は懸念していた。
 一方、母親が彼を引き取ると主張した理由も、明白だった。養育費だ。元々、病気がちで、パートに出たこともなかった母親は、離婚以後も収入は安定しないだろうと思われた。そんな母親にとって、彼の養育費として入って来る金銭は、貴重な収入源になると考えられた。両親との不仲を考えると、父親にしても、母親にしても、彼を養うつもりはないのだろう、と彼は考えていた。それどころか、彼はもう十五歳で働ける年齢だったため、自分の稼ぎすらあてにしているのではないかと考え、自分の行く末を悲観した。両親はそれぞれの利害のために、彼を手中に収めようとしているように思われた。両親が自分のことで争うのは、彼にとってはネガティヴな感情しか生み出さない出来事であった。もはや彼は、両親のどちらにもついて行きたくはなかった。どちらを選んだところで、その先には、過酷な運命が待っているように思えたからだ。その頃の彼は、どちらについて行くか悩むというよりも、どちらでもいいという気持ちになっていた。現実的ではないが、もういっそのこと、一人になりたいとさえ思った程であった。
 両親の不仲が深刻化した当初、父母それぞれとうまく関係を築けていなかった彼は、二人とも自分を引き取ることは無いだろうと考えていた。一人で社会を渡り歩いていくことへの、言い知れぬ危機感や恐怖から逃げるように、彼は、それまで一度もまじめに取り組むことなどなかった勉強に没頭した。近い将来、自分の力だけで生きていくことになった際、たとえ進学はできなくとも、少しでも学があった方がいいだろうと、彼なりに考えたからであった。その時の彼ができる事は、それだけだった。だが、そんな思いに駆り立てられてか、必死で勉強した彼は、両親が離婚の意向を固める頃には、どんどん成績を上げ、学年でもトップクラスの学力になっていた。皮肉なことに、進学すら危うい状況にも関わらず、進路相談では、大学までエスカレーター式に進学できる、私立の進学校を薦められる程だった。それでも、そんな夢のような話は、彼にとっては、どうでもいいことだった。たとえ両親のうち、どちらを選ぼうとも、実現する可能性のない話だと、彼には思えたからであった。どう転んでも自分の思うようにはならないと、半ば自棄的になっていた頃、彼の周囲の大人たちは、彼が意見を求めたわけでもないのに、収入のない母親についていくべきだと彼に助言した。その中で言われた「母ちゃんの力になってやれよ。男だろ。」という言葉。「母親のため」という大義名分を得た彼は、既に思考が停止していたこともあり、すんなりとそれらの意見に従って、母親と暮らす決断をしたのだった。しかし、その先で彼を待っていたのは、目的を達成し終えた母親からの無関心と、父親との決別だった。彼は望んでいた孤独を、このような形で手に入れることになったのだ。
 その次の決定機は、彼が高校三年生の時に突然訪れた。母方の祖母の援助で何とか高校には通えることとなった彼も、大学への進学は諦めていた。公立の進学校に通っていた彼であったが、そのモチベーションは完全に失われていた。高校生活やアルバイトでの肉体的・精神的な疲労の蓄積。とりわけ、クラスメイトやアルバイト先の同僚、社員からのいじめや嫌がらせ。そして、それらが原因の病気の存在。それらは、彼に、努力という名のちっぽけな抵抗を終わらせるのに充分な要素だった。そんな中で見えた希望の兆しだった。彼の祖母は年金暮らしの中、密かにコツコツと貯金していたお金を、入学金に充てるよう、渡してくれたのだった。彼は思った。これで、もう少しの間、勉強が続けられる。今度は自分が好きな学問を専門的に学べる。好きなことをするのであれば、やる気も出て、日々悩まされている倦怠感にも打ち勝てるかもしれない。四年制大学に行くのであれば、その間に、病気を治すこともできるかもしれない。彼の目に、一筋の光のようなものが見えたのも束の間、彼はまたしても、他人に自分の将来を決めさせてしまうのであった。
 彼はかねてより、生粋の文系であり、歴史や哲学を好んでいた為、文学部への進学を望んでいたが、彼の母親や、学校の担任など、周囲の人間はことごとく、それに反対をした。本来であれば、到底、進学を考えられるような家庭環境ではないのにもかかわらず、卒業したところで、あまり就職の役に立ちそうにない学部への進学など認めないと言うのだった。さらには、同じ家庭環境下で、親を説得できずに進学をあきらめていた彼の姉も、彼の進学を良く思っておらず、反対意見に便乗した。この頃になると、彼の無気力は、自分ではどうすることもできなくなっていた。ただでさえ、何をするのも億劫に感じていた頃に、そうした周囲を熱心に説得しようという気力や体力は、彼には残されていなかった。そして、彼はまた、どうでも良くなってしまった。せせらぎに漂う一枚の枯葉のように、ただ、流れに身を任せてしまうのだった。何故、周囲を説得するために努力しなかったのか。自分の置かれている状況や病気を打ち明け、真剣に向き合って話をすれば、周囲も理解してくれたのではなかろうか。どうしていつも、肝心な場面で、行動を起こす前から諦めてしまうのか。それらの疑念について、真面目に考える事さえも、彼にとっては、ただただ面倒なことになっていたのかもしれない。彼は結局、周囲の勧める、行きたくもない大学に入り、したくもない勉強をすることに身を委ねた。
 そうやって、要所で常に周囲を気にしながら周りの意見に流されるのが、彼の人生だった。つい数分前に、袖を通したばかりの、彼の洋服にさえも、そんな人生がにじみ出ていた。雑誌に書かれていたトレンドを元にしただけの無難な髪形。当たり障りのない、何の面白みもない、流行のスタイルをなぞるだけで、上辺だけの、それでいて安物で身を固めたハリボテみたいな、量産型のファッションセンス。まるでファストファッションの申し子のようだ。そこに彼自身の好みなど一つもない。それらについて、自分で思考することはしたくはないが、かといって、自分の身なりについて周囲から、ダサい、みっともない、などと言われることを気にしているのだ。外見や服装に関してのみならず、彼の行動や思考は常に、他人の目や意見に支配されているようだった。彼は、今も昔も、自分の主義や主張など何もない、何とも中途半端な男なのだ。それは、彼自身が誰よりもわかっていた。まだまだ寒さの厳しい二月の夜道で、そんな思いが、彼の心身をより一層凍らせていくのを、彼は静かに感じていた。毎晩の道すがら、彼は、こんなことばかりを考えるが、その度、いつも冬の寒さが彼を現実へと引き戻した。気が付くと、また、彼の手はかじかんでいた。手が凍り付きそうで、もはや冷たすぎて痛いと感じる日が続いていた。街頭もなく薄暗い、線路沿いの一本道を、思い出したばかりの寒さと闘いながら進んでいると、寂れた駅前の通りに出て、久しぶりの明るさに感動する間もないまま、程なくして職場に到着した。それが、彼の毎晩の出勤風景だった。もう一カ月近く続いたこの往来も、最近では、二日に一回は、遅刻が原因の後ろめたさを抱えながらのことが多く、そして彼は再び、重たい気分を引き連れて、従業員通用口の重い扉を開いた。
 わずかながらも申し訳なさがあるのか、彼は小走りでロッカールームに向かうと、背負っていたバックパックから、エプロンを取り出した。大抵、遅刻か時間ぎりぎりに出勤する彼は、いつもエプロンを焦った手つきで装着しようとするため、背中で紐を縛るときに、手が震え、なかなかうまく紐が縛れないことが多かった。彼はこの作業が嫌で仕方がなかった。エプロンをつけると、カッターナイフと軍手をそのポケットへと押し込み、彼は荷物をロッカーへと投げ入れた。そして、ロッカールームを後にすると、再び小走りで、売場へと出ていった。
「おはようございます。」
はっきりとしない言い方と音量で挨拶をするが、彼に挨拶を返す人間はいなかった。挨拶の代わりに彼に返されたものは、同僚からの冷たい視線や侮蔑のまなざしだけであった。そういう態度をとる自分たちだって、日常的に遅刻をしては、へらへらしながら出勤してくるくせにと、自分の失態を棚に上げつつ、彼は周囲の態度に反抗心を抱いていた。怒りを覚えながらも、彼はバイトリーダーに挨拶をするため、彼女の待つ、事務所へと向かった。部屋に入るや否や、彼に怒号が放たれた。そして、毎度、お決まりのように説教の後に繰り出される決まり文句、「ツッタッテナイデ、トットト、シゴトシロ」と彼女が言い終わるかどうかのタイミングで、彼は、そそくさと事務所の扉を閉めた。自分の行いが正しくないことは、彼自身も理解していた。だが、彼は、彼女から叱責を受ける度、釈然としない思いを抱えていた。他の同僚たちが、同じような頻度で、同じ過ちを繰り返しているのに、彼らにはこれ程強い口調で、そのことを咎めたりはしないことに、彼はどうしても納得がいかなかったのだ。
 わからない。理解できない。そもそも、ろくに働きもしないで威張っているバイトリーダーや、他の同僚たちに、自分を責める資格などあるのか。今だって、バイトリーダーは事務所の中で、いつもと変わらず、お気に入りの漫画を読んでいるだけで、仕事などしていなかったではないか。自分が間違っているのだろうか。仮に自分も間違っているにしても、間違えているのは、彼らも同じなのではなかろうか。一体、ここでは、どうすることが正しいのか。彼の中で、様々な思いが交錯していた。彼はこういう時が一番困るのだ。これまで、散々、重要な決断から逃げてきた彼の中には、物事を考える際の基盤や確固たる価値判断の基準が存在しないからである。そう。彼は、物事に対して、自分の意見を持つこと、自分で考えることを、ずっと避けてきたのだった。

 彼は出勤の打刻をするため、事務所の入り口脇に置いてあるタイムカードレコーダーへと歩を進めるが、いつにも増して、その足取りは重いように感じられた。彼の手にしたタイムカードに書かれた、「齋藤 正義」という文字。それが、彼の名だ。よりによって、これ程までに、「自分」というものが欠如した人間の名が、「正義」というのは、何たる皮肉だろうか。ほんの数秒前に、正しさが何かわからないと嘆いていた者が、正義の何たるかなどわかるはずもなかった。彼も自分のそうした性質を嫌というほど理解していた。だからこそ、昔から、自分の名前が好きになれず、自分の名を読み書きする度に、人知れず苦悩してきた。彼は毎日タイムカードを打刻する際も、後ろめたいような、自分の名前に咎められているような気分になるのだが、この日は一段と、自分の名が、背中に重くのしかかってくるように思えた。
「おはよう、齋藤君。どうした、暗い顔して。また、こっぴどく叱られたのか。」
挨拶がてら、彼に話しかけてきたのは、グロッサリー担当の社員、宮本であった。彼は一九〇センチメートルくらいあろうかという大男だったが、その柔和な表情のおかげで、正義にとっては、この職場で数少ない、会話のしやすい人物であった。威圧感のかわりに正義が受け取るものは、三〇センチメートルはあると思われる身長差からくる、肩こりや首こりくらいであった。正義から見て宮本は、普段はいつも笑顔を絶やさず、お客さんとも明るくコミュ二ケーションをとる人物のように見えた。怒るととんでもなく怖いという噂から、他の従業員からは少し距離をとられているように感じられたが、正義はそれを見たことは無く、器の大きい人物だと思っていた。ハードロックが好きという、宮本の趣味と掛けて、正義は心の中で彼に、「ミスタービッグ」というあだ名をつけていた。付き合いは短く、彼について深く知っているわけではなかったが、正義は宮本を、少なくとも、他の従業員とは違う存在、尊敬に値する人物だと考えていた。
「とはいえ、遅刻は良くないからな。気をつけろよ。」
「まあ、奴らは奴らで他人の遅刻を注意できる立場じゃないとは思うけどな。小島さんに怒鳴られたことはあんまり気にしすぎるなよ。じゃ、上がります。お先に。」
そう言って、宮本は店を後にしようと外に出た。それを見送るように、正義も一緒に店の外へ出た。正義は、自分の持つ同僚へのわだかまりを理解してくれそうな人物がいることをうれしく思った。だが、そんな相手にもまだ言えない事がある。その事が彼から束の間の喜びを奪っていった。自分の病気や睡眠に関する悩みをわかってくれる人は、これまで同様、この先も現れないだろうと思えて、少しの寂しさと不安が襲って来た。だが、彼は、その思いをすぐに心の中で打ち消した。面倒な思いをしてまで、一生懸命に説明したところで、どうせただの言い訳と捉えられ、まともに取り合ってもらえるわけがない。無駄な努力になるくらいなら、自分のことなど他人に話すべきではない。遠ざかっていく宮本の背中を見つめながら、彼は静かに決意した。相変わらず、吐く息は白かった。正義はふと空を見上げた。東京の空は星が少ない。そんな、少ししか見えない星の一つ一つにも、自分が知らないだけで、きっと人間が勝手につけた名前が付けられている。それでも、空には名前はない。自分がこの空のようであったなら、いくらか心もらくだろうと、彼は、そんなことを考えながら、店内へと戻って行った。

 正義は、二十四時間営業のスーパーマーケットで、深夜帯にアルバイト従業員として働いている。他の店の事情は分からないが、殊、この店において、ナイトタイムの従業員は、その他の従業員から、完全に独立した存在であった。時間帯という分け方でいえば、日勤、夕勤、深夜と分けられるが、深夜帯以外の時間区分で働く従業員は皆、それぞれの部門に属していた。この店では、レジ部門、青果、精肉、鮮魚の生鮮食品三部門、生もの以外の食品や雑貨を担当するグロッサリー部門、そして総菜部門があるが、それらの他に独立した部門として、ナイト部門、つまり、深夜帯従業員の部門が存在している。ところで、この店の従業員全体の気質として、他部門のことに関しては、あまり積極的に関与しないという向きがある。別々の部門であっても、働く時間帯を同じくする者同士の交流は、少なからず存在するが、それが他の時間帯ともなると、関わりは極端に減ってしまう。単に、会うことがないからということでもあるが、わざわざ、自分の専門外の部門のことにまで首を突っ込み、厄介ごとに巻き込まれたくないという雰囲気が、どことなく存在していた。そんな中で、ナイト部門は、他の部門からの評判が特に良くなかった。理由は明白で、入社から日の浅い正義ですら、身をもって体感する程の、怠慢な仕事ぶりであり、他部門の従業員も、そんなナイト部の現状を、一緒に働いてはいないとはいえ、感じ取ることは容易にできた。こうした事情から、ナイト部は店内でどんどん居場所を失い、孤立していったが、それと同時に、干渉する者もいないため、どんどん無法地帯と化していったのであった。正義のことを気にかけてくれる宮本でさえ、部門同士の干渉を避けるこの店の風潮に従うように、ナイト部の劣悪な環境を理解はしているようであっても、特段にナイト部に介入をするそぶりはない。せいぜい、ナイト部との関わりは、仕事の引き継ぎのための短い会話くらいであった。しかし、店全体を統括する店長には、店舗において発生した問題に対して解決する義務があり、問題解決のために動くべきように思われる。この店にも店長は当然ながら存在している。にもかかわらず、ナイト部の怠慢が半ば容認されているのは、なぜか。そもそも、この店は、東京都内とその近郊、二十ヵ所以上に店舗を持つ、グループ店舗の一つである。それ故に、店長の異動も頻繁にあり、数カ月で店長が交替するという事例も珍しくはなかった。そんな中で、店の問題に積極的に関わろうとする店長はおらず、大抵どの者も事なかれ主義的な態度をとるために、ナイト部の悲惨な状態が数年来続いていたのだった。
 さて、ナイト部の主な仕事内容は、納品される各部門の商品の搬入、及び陳列。それと並行して、店舗に訪れる客への対応、レジ打ち。他には、商品の鮮度チェックや値引き処理などである。それを八時間程の勤務時間のうちに終わらせるのが、ナイト部に課されたノルマである。納品される商品は、平均して、決して少なくはなかったが、その分、毎日、四、五人の従業員が出勤していたため、一旦、仕事に取り掛かり、それを終わらせてしまえば、他は休んでいても、何をしていても、特に誰からも何も言われないような状態であった。むしろ、現状は、働いている時間より、休んでいる時間の方が多いのではないかと、正義が思うほどであった。そのような、比較的楽な就業環境においても、中には、面倒な作業の押し付け合いをする者がおり、極力体力を使わぬように、楽をしてお金をもらおうという姿勢が蔓延していた。全体的にナイト部の従業員は、仕事に対し極めて消極的で、働く意欲に乏しい者の集まりであった。正義は、このような職場の環境に若干のわだかまりを感じてはいたが、元来の流される性格ゆえに、結局、この店の雰囲気やナイト部のスタイルに身を委ねてしまっていた。正義はことある毎に、「郷に入れば郷に従え」という諺を心中で唱えては、自分自身に言い訳をしていた。長いものには、まかれていればいいのだ。どうせ、ここには、正しいことをしている奴などいないではないか。正義はいつもそうやって、自分に言い聞かせていた。そう。そんな人間は存在しない。正義はそう信じて疑わなかった。少なくとも、この日、一人の男が、彼の前に現れるまでは。
 それは、十年ひと昔というならば、ひと昔よりもう少し前のこと。東日本を大地震が襲う少し前、日本中をパンデミックの恐怖が包むよりはだいぶ前。日本野球界に現れた二刀流のスーパースターが海を渡り、日本中に明るいニュースを提供するよりもずっと前。そんな時代の出来事であった。

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