第1話

文字数 1,317文字


 大森栄吉(おおもり えいきち)は苦境に立たされた。
 かつての栄光は呆気なく過ぎ去り、人々からは一発屋と揶揄され、消え去った印象しかないと言えた。まぶたを閉じると持てはやされていた過去の自分が鮮明に浮かび上がり、喜びに浸っていた頃の恍惚感だけが蘇る。目を開けると空席だらけの客席が心に突き刺さって、震える身体を押さえることが出来ない。
「どうしてこんなことに……」
 そんな黄昏色の溜息をつかない日は無かった……。

 幼いころから歌うことが大好きで、親の反対を押し切り、中学を卒業と同時に上京してから大物演歌歌手の岸田健三郎の弟子となった。
 大森は付き人として岸田と共に行動し、彼の厳しい修業に耐える日々が続いた。その甲斐もあって、十八歳の時に岸田の勧めで大手のレコード会社に所属することができ、念願のデビューを飾る事になった。大森は師匠の恩に報いるために懸命に練習に励み、血のにじむような努力を重ねてレコーディングを迎えた。
 心を込めて熱唱を繰り返す。OKが出ても納得がいくまでは何度もリテイクを重ねていく。予定を三時間もオーバーしてようやく録音を終える頃には、喉がすっかりと枯れてしまい、それでも充実感に満たされる大森であった。
 するとファーストシングル「越後のいちご街道」が新人賞を受賞する事に。
 大森はマネージャーの小木と抱き合いながら涙を流して祝杯を挙げると、両親に感謝の電話を掛けた。父親は喜びの声で賞賛し、母親は涙を交えながら歓声を上げる。
 続けて師匠の岸田に報告すると、「それはお前の実力だ、俺は何もしておらん。これにおごることなく稽古に励めよ」と激励の言葉を貰った。

 大森栄吉の名は少しずつ世間に届くようになると、小木の助言虚しく生活態度は次第に荒れるようになっていく。
 毎晩のようにキャバクラに通い、歌の稽古もサボりがちになっていたが、それでも一向に改めようとしない。
 元々新人賞を取ったからといっても、所詮は演歌の世界での話。オリコンチャートの総合ランキングでは初登場で二十一位。演歌部門に限っても四位だった。演歌の世界ではベテランの人気が根強く、ぽっと出の新人が、例え新人賞を取ったところで売り上げには直結しないのである。やがて半年もするとチャートからも姿を消して仕事が目に見えて減ってくると、さすがの大森も生活態度を改め真面目に歌のレッスンに励むようになった。

 ところがである。
 そんな不摂生な生活が祟ったのか、続くセカンドシングルの「札幌さっきの五月晴れ」が大々的なプロモーションをしたにもかかわらずに全く売れず、所属しているレコード会社からバッシングを受ける。小木も必死でフォローしたが、キャバクラ通いの件で信用を失った大森はすっかりやる気をなくしていた。
 演歌の世界では一曲当てれば十年は持つと言われるが、大森の場合はそれほどヒットしたわけでもなく、営業には結びつかない。その後も「長崎長過ぎ恋歌」や「知床よかとこ人情旅」などのCDを出し続けたが、デビュー曲の「越後のいちご街道」には遠く及ばず、ヒットチャートを賑わせる事は無かった。
 それでも腐る事は無く、小木と一緒に地方営業の仕事に地道に精を出していた。
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