芳蓉と蒲公英(七)

文字数 3,624文字

 陣幕の外で指揮を執る上官摘星と楚興義の前に、次々と伝令がもたらされた。
 どの兵士も、傷だらけで、矢がたくさん刺さっていた。
 中には報告が終わると同時に、地面に倒れ伏してそのまま動かなくなる者もいた。
「申し上げます。敵騎兵集団、お味方右翼へ突入いたしました」
「右翼は大混乱にございます。すぐに救援を!」
「申し上げます。楊興業さま、奮戦空しく討ち死になさいました。右翼は潰走を始めております」
「左翼の劉興世さま、苦戦なさっております。どうやら敵本隊、呼延将軍自ら攻め立てている模様。呼延の旗印が多数はためいております」
「左翼、瓦解いたしました! 敵は左右から本陣を挟撃する動きを見せております」
 隣の公英が小さな悲鳴を上げた。上官摘星があたしに目配せを送る。
「さすがは音に聞こえた呼延平。まさに神速の用兵と言えよう」
「は。忠勇随一の名に偽りはないかと。数で劣るのを逆手に取り、平野において騎兵の機動力を最大に活かす。おかげで我が軍の半包囲陣はまるで用をなしませぬ」
 不思議だったわ。どうしてこの二人はここまで落ち着いているのだろう。
「軍師どの」
「は。伝令、敗残兵を本陣に集めよ。一本のくさびとなって、敵将呼延平を撃つのだ」
 慌ただしく銅鑼が打ち鳴らされた。楚興義は車椅子から降りると、四人の兵士が担ぐ輿に乗り換えた。
「我が君。三弟戦死の報はまだ入っておりませぬ。望みは有り申す」
「うむ。小益徳の威名、今こそ存分に示してもらおう」
 二人はそう言うと、天に向かって笑い声を上げたわ。
 あたしも天を仰いだ。蒼天は二人の笑声を吸い込み、ただどこまでも果てしなく続いていた。
「さあ、お二人はそろそろ行きなされ。いかに剣仙といえど、まだまだ少女。あまりに凄惨な場面を見るのは宜しくない」
 楚興義は相変わらず陰気な顔をしていた。でもどことなく、清々しいようにも見えた。
「せっかくだもの、もう少し一緒にいてあげる。大丈夫よ、自分たちの身はきちんと守るから」
「……わかり申した。では、我らの戦い、しっかと後世に伝えて頂きましょう」

 あたしは公英を背負って駆けた。馬に付いて行くぐらいなら造作もない。
 上官摘星率いる反乱軍は密集隊形をとって、呼延平の主力へ突っ込んだ。ここを突破して、劉興世と合流するつもりだった。
 飛来する矢。迫る長槍。
 あたしは背中の公英を守るので精一杯だった。両手が塞がっているので、かわすしかない。
 何度も包囲されたわ。
 そしてそれを抜けるたび、確実に人数は減っていった。
 さっきまで誇っていた威容はどこにもない。従う兵士はどんどん討たれ、数百くらいになっていた。
 背中の公英はずっと震えていたわ。あたしの首筋に顔を埋めて、すすり泣いている。
 ほんとうは、すぐにでも離脱すべきなんだけれど。
 気がかりがあるのよ。
 ね、そうでしょ、公英。

「兄貴! 無事だったのか!」
「生憎な」
「はは、相変わらず辛気くせえな」
「お前こそ相変わらず陽気だな」
「当たり前よ。ここからひっくり返してこそ、小益徳ってもんだからよ。すげえことになるぜ」
 そう言うと、劉興世は血に濡れたボロボロの蛇矛をかざして見せた。
 不思議と首の襟巻きは綺麗なままだったわ。
 あたしたちの周りには、もう十数名の兵士しかいなかった。
 上官摘星も血まみれで、手にした剣も刃こぼれが目立つ。
「この辺りが潮だな」
 竹の棒が小さく掲げられた。輿が地面に下ろされる。楚興義は両の手で這うと、地面の上にあぐらをかいた。
「ここまでだ。三弟、私のことは置いていけ。輿を担ぐ兵たちに、我が君の警護を」
「兄貴……」
「私は精一杯やった。不倶戴天の仇、薄汚れた官吏どもを地獄に叩き落としてやった。私を虐げ、こんな体にしたヤツら全てをな。先に黄泉へ行って、後から来るヤツらにせいぜい先輩面をしてやるさ」
「へへっ、そうかよ。ならあっちでもオレが弟分ってわけだな。そんときゃ、先輩の権力で宜しく計らってくれよ」
「ああ」
 楚興義は懐から短剣を取り出した。刃を口にくわえると、そのまま地面に倒れ伏す。
 肉を割く鈍い音がして、陰気な男は動かなくなった。
「さて、もうよかろう。最期の刻まで少女を伴っていたとあっては、好漢として少し格好が付かぬ」
 遠くの方から馬蹄の響きが近づいてきた。
 なびく無数の旗には「呼延」の文字。
「……桃園結義を気取ったものの、楊の兄貴は違う場所で逝っちまった。しかし、どうやら……同年同月同日だけは果たせそうだぜ」
 公英が地面に膝をついた。馬上の劉興世に向けて手を伸ばそうとする。
「すまねえ、公英。……こんなことになっちまって。だがよ、このオレの最期の戦い、しっかり見届けてくれよな。……芳蓉どの、公英のことは頼んだぜ!」
 劉興世は笑顔で叫ぶと、迫る騎馬隊目がけて突っ込んでいった。鈍い陽の光を受けて、蛇矛が無言のきらめきを発する。主の意図を知ったのか、馬が一際高いいななきを上げた。
「では、ご免!」
 上官摘星がそのあとを追う。彼らに付いてきた兵士も、あたしたちに目礼をすると、我先にと突撃を開始した。
 十数名の姿がみるみるうちに小さくなる。
 やがて土煙に巻かれるようにして、馬群の中へその姿を消した。
 喊声が上がる。
 金属音が聞こえる。
 いくつもの悲鳴が響いてくる。
 公英は、真っ直ぐに土煙を見つめていた。
 やがてそれが晴れていく。
 劉興世が、たった一人で、蛇矛を振るっていた。
 上官摘星の姿は見えない。
 そして、不思議なことが起こった。
 包囲を敷いていた無数の兵士たちが、その輪を少しずつ大きくした。
 まるで劉興世に遠慮をするように。
 やがて、包囲網の中から、一人の武将が姿を現した。
 両手に長い鉄の棒を提げている。
 その武将は劉興世に何か語りかけているようだった。
 やがて――劉興世は馬をあおると、武将目がけて突っ込んだ。
 蛇矛が空を切る。次の瞬間――
 二本の鉄の棒が、劉興世の脳天を打ち砕いた。

 太原での決戦は官軍の一方的な勝利に終わった。
 敗残兵は蜘蛛の子を散らしたように逃亡し、上官摘星率いる反乱軍は完全に崩壊した。
 みんな死んだ。
 上官摘星も、楊興業も。楚興義も、そして劉興世も。
 逃げればよかったのに、みんな競うようにして討ち死にした。
 呼延平率いる官軍は、劉興世を討ち取ったあと、まるで潮が引くようにしていなくなった。さっきまでの激闘が嘘みたいで、ただ静寂だけが平野を満たしていた。
 公英のすすり泣きが幽かに聞こえる。
 広い広い世界の中で、独りぼっちになってしまったようだった。
 震える背中。絶え間ない嗚咽。
 あたしは意を決すると、劉興世の所まで駆けた。
 劉興世はうつ伏せになって倒れていた。表情は見えない。頭頂からこぼれた血が、大地を赤黒く染めていた。
 右手には蛇矛を握りしめたまま。首には綺麗なままの襟巻き。あれだけ戦ったのに、どうして汚れていないのか不思議だった。
 うなじの匕首を抜き、蛇矛の矛の部分を切り落とした。うねる刃は刃こぼれし、輝きもくすんでしまっている。襟巻きをそっと外すと、わずかな体温をそこに感じた。
 劉興世は何も語らない。可哀想だけど、ここに置いていくのがいいように思えた。薬で溶かしてしまうのは、何だか少し違うような気がするから。
 あたしはすぐに公英の傍に帰った。泣き続ける彼女に、どんな言葉をかけたらいいのかまるでわからない。地面に伏した彼女の前に、蛇矛の欠片と襟巻きをそっと置いた。
 公英の顔が持ち上がった。二つの遺品をじっと見つめた公英は、それに取り縋ると、言葉にならない嗚咽を漏らしながら、いつ果てるとも知らない涙の海へと沈んでいった。

 あたしは途方に暮れていた。
 ここを離れて、どこへ身を寄せよう。
 反乱軍はもうダメだし、今さら七龍鎮に帰っても仕方がない。
 とにかく、人事不省の公英を回復させないと。
 あたしの内傷だって軽くはない。
 どこか、人目に付かないところがあれば。
 身を潜ませるのにちょうどいい場所があれば。
 牛耕村はもうないし、断機島だって――。
 そうだ。織女真経を検索したら、断機島への行き方がわかるかもしれない。
 目を閉じて意識を集中させる。
 すると、頭の中に地図が浮かび、断機島の場所を示してくれた。
 地理関係はよくわからないけれど、ここからずっと東へ行けば海がある。その海の上に浮かぶ小さな島。それが断機島だった。
 何もしないよりはまし。あたしはそう決断すると、およそ六年ぶりに、あの島へ帰ることにした。
 泣き疲れ、気を失ってしまった公英。涙の痕が痛ましい。
 規則正しい寝息だけが、あたしの心を安心させた。
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