芙蓉と芳槿(三)

文字数 6,628文字

「あ、あの、えっと。よ、よろしくね。あたしは」
「師娘から聞いてるわ。隠娘、聶隠娘ね」
「う、うん」
「あたしは芙蓉よ。で、こっちは」
「芳槿。よろしく」
 芙蓉って自己紹介した子は、どこか明るい雰囲気だった。赤茶けた髪を後ろで束ねて、首をかしげるたびにそれがぴょこぴょこ左右に動く。少し釣り目がちで気が強そうに見えるけれど、いいお友だちになれそうな印象を受けたわ。
 逆に、芳槿って子は大人しそう。腰まで伸びた黒髪は静かにゆらめいて、まるで星一つない夜空みたいだった。それが真っ白な衣に映えている。垂れ目でおっとりしているようだけど、おしゃべりはあまり好きじゃないのかしら。あたしをじっと見つめる瞳は、さざ波一つ立たない静かな水面のようで、どこか神秘的だった。
「ね、ねえ」
 あたし、二人とおしゃべりしようと思って、口を開いたの。でもすぐにつぐんでしまった。だって、芙蓉って子がものすごく鋭い目つきであたし睨んでいるんだもの。
 こんな視線、あたし初めてだった。顔を合わせれば決まって罵ってくる小宝だって、こんなきつい目で睨んでくることはなかった。なんだか怖くなってしまう。
「芙蓉」
「はいはい。わかってるって。でもね」
「それはまだこれからでしょ。きっと大丈夫」
「だといいけど。もちろん後悔なんて絶対にない。ただ、どうせなら、って思っただけ」
「そうね。その気持ちはわかるわ」
 二人で何か相談を始めたわ。もしかしてあたしのことを言ってるのかしら。
「いい、聶隠娘」
「う、うん」
 そう返すのだけでやっとだった。
「とりあえず三人でチームだかんね。明日から一緒に修行するワケだけどさ、早く追いついてもらわないと困るのよ。わかった?」
「わ、わかった」
 足がすくんでしまう。どうしてこの子、こんなに厳しい口調なの? あたし会ったばかりなのに。二人のこと何にもわからないのに。
「心配いらないわ。あたしたちがついてる」
 芳槿はすごく優しかった。表情はあまり動かないけれど、視線と言葉に慈しみが込められていたわ。
「甘やかしたらだめよ、芳槿。あたしたちが納得できるくらいになってもらわないと。化けて出てやるんだからね」
 いちいち大げさだわ。化けて出るだなんて。
 芙蓉の話によると、この子はあたしの二つ上の十二歳、芳槿はさらにもう一つ上だった。二人とも去年ここに連れてこられてから、ずっと修行をしているらしいの。
「太陽が昇ってから沈むまで」
「そうよ。早く上達しなくちゃいけないから、休んでいる暇なんてなかったわ。もちろん、アンタが来た以上は、さらに厳しい修行になるんだけどね」
「そう。時間が惜しいの」
「さっき霊薬飲んだでしょ? あたしたちも服用しているけど、そのおかげで疲れなんて感じないの。だからそんな顔しない!」
 なんだかちょっと後悔してしまった。つい帰りたくなったけれど、父さまも母さまも賛成しているのなら、頑張らなくっちゃいけないわ。二人の喜ぶ顔をご褒美だと思うことにしよう。それに老三も鼻が高いに決まってるわ。剣術ごっこ、よくしてくれたもの。
「ああ、それと。これは喜んでいい話なんだけど」
「う、うん! なあに?」
 思わず急き込んで訪ねてしまった。どんなお話なんだろう。
「食事はないからね」
「ええっ!?」
 気を失うかと思ったわ。修行するのはいいけれど、食べられないだなんて。あたしの頭の中に大好物の料理やおやつが次々と姿を現した。途端にお腹が情けない声を上げてしまう。
「なによ。それだけめんどくさい家事が減るじゃない。食べないのも修行の一環なのよ。身体を軽くして、やがては空を飛ぶほどの勢いで駆けなきゃいけなんだからさ。心配しなくても、霊薬の効果があるから、空腹なんてまるで感じないわ」
「そんなぁ……」
「これだからお嬢さんはさあ。裕福な家庭に育ったアンタにはわかんないでしょうけど、人間ってね、命があるだけ儲けものなのよ。贅沢言わないの」
「うん。それだけで幸せ」
 あたしは二人の言葉に驚いたわ。おうちでは父さまと母さまがいて、召使いたちがいて、美味しいご飯に暖かいベッドがあるものじゃないのかしら。
「えっ。その、芙蓉ちゃんと芳槿ちゃんは違うの?」
 二人は目を伏せた。少しの沈黙が流れる。この空気、あたし何となくわかる気がしたの。以前、梅花姉さまのお家に行ったときのことだったわ。姉さまには恋人がいたんだけれど、急に旅に出たって聞いたの。寂しそうに顔を伏せる姉さまに、あたしがそのわけを尋ねたときの雰囲気とまるでそっくりだった。
「あたしらのことはいいの。どうしても知りたいんなら、そのうち教えてあげないこともないわ。気が向けばだけどね。今はとにかく、ここでの生活に慣れて、ガンガン修行を積んで、ぐんぐん強くなることが大事。それが全てなの。最優先事項よ」
「そうよ。だからもう寝ましょ。明日からの修行に響くわ」
 芳槿は静かにそう言うと、小さく揺らめいていた蝋燭を吹き消した。なんだかあたしの話を遮るようにも思えたけれど、せっかくお友だちができたんだもの、余計な詮索をして気まずくなるのもいけないわ。それにまだ知り合ったばかりなんだし、これから少しずつ仲良くなっていけばいいと思う。
 あたしたち三人は川の字になって、冷たい石の上で横になった。昨夜、父さまと母さまと寝ていたことを思い出して、ついべそをかいてしまったら、あたしを挟んで眠っていた二人がそっと手を握ってくれたの。暖かくて優しい手だった。あたしがその手を握り返すと、それ以上に確かな感触で応えてくれた。

「ほら、いつまで寝てるのよ」
 ぐらぐらと乱暴に揺すられて目を覚ますと、そこには芙蓉と芳槿の姿があった。
「ええ? もう朝なの」
「初日からこれじゃ手がかかりそうね。さっさと顔洗っちゃいなさいよ。師娘が来るわよ」
「師娘?」
「尼さん」
「そ。これからはそう呼びなさいよね」
 芙蓉はそう告げると、あたしに背を向けて洞窟を出て行った。二人とも、背中に剣を一本背負っていたわ。あたしは慌てて飛び起きると、洞窟の奥にあった泉で洗顔をすませた。あまりの冷たさに、心臓が止まってしまうかと思ったわ。ここではぬるま湯で顔を洗わないのかしら。
 手ぬぐいも何もないから、袖でゴシゴシこすってから急いで洞窟の外へ出てみたの。まぶしいお日さまの光に、思わず目を細めてしまう。
 頬を撫でる風は、ちょっぴり湿り気を含んでいた。ほんのりと潮の香りがする。この洞窟、なんだか岡の中腹にあるみたい。見下ろすと、一面の青だった。その青がずっとずっと遠くまで、果てしなく続いている。
 これって、海だわ。あたし、初めて見た。
 口を開けたままきょろきょろしていると、尼さんに平伏する芙蓉と芳槿が目に入った。
 あたしもすぐ二人に倣って平伏したの。すると、
「今朝は随分ゆっくりね。あなたたちにとって時間は有限のもの。おろそかにしてはなりませんよ」
 尼さんは立ち上がるよう促すと、一振りの剣を取り出して見せてくれた。ちょうど両手を目一杯広げたくらいの長さで、あたしの身体には不釣り合いなように思えた。
「隠娘はこの剣を使いなさい。肌身離さず携行し、自分の体の一部として扱えるように」
 両手でそれを受け取ったけれど、ずしりとした重さがあまりに生々しかったわ。芙蓉と芳槿の真似をして背負うと、なんとなく自分が強くなったような気がしてきた。
「芙蓉、芳槿。あなたたちの剣を抜いてご覧なさい」
 二人はすらりと剣を抜き放った。朝日を受けてきらめく剣身は、なんとなく冷たい感じに見えたわ。思わず見とれてしまったけれど、二人の剣にはどこか違いがあるようだった。あたしが首をかしげていると、
「気づいたようね。二人の剣はそれぞれ長さが違うの。習い始めは長かったけれど、使い込むうちにどんどん削れて短くなったのよ。芳槿の方がやや短いのがわかるかしら。彼女の剣術が芙蓉よりも磨かれていることの証拠ね。やがてもっと短くなり、手のひらに収まるくらいになるわ。そうなって初めて一人前、いや天下に敵なしといえるのよ」
「そうなの? あたしはてっきり長い方が強いのだとばかり。講談で出てくる一騎当千の猛将たちなんかは、ものすごく長い武器を振り回していたわ。それはもう縦横無尽って感じだったのよ。ねえ、あま」
 そこまで言ったとき、脇腹に鈍い痛みが走った。隣にいた芙蓉の肘だった。
 思わず涙目になってしまう。
「師娘だって。さっき言ったじゃない? それに言葉遣いももっと改めなさいよ」
「そうね。この子の躾は二人がしっかり行うこと。では早速基本から仕込むことにしましょう。二人はおさらいのつもりで、気を抜くことなく取り組みなさい」
 芙蓉と芳槿は両手を胸の高さで合わせると、恭しく頭を垂れた。あたし、これ知ってるわ。抱拳といって、武芸者が目上の人に行う礼なのよ。横目で二人の仕草を盗み見たあたしは、すぐに真似をして礼をした。はしたないけれど、少しだけワクワクしてしまったわ。
 師娘は満足そうに微笑むと、あたしたち三人を連れて歩き出した。洞窟のある岡からずっと離れたところに、先っぽのとんがった山が見える。もしかして、あのてっぺんまで行くのかしら。
 山道はあちこちにツタが生い茂って、剥き出しの岩肌がどことなく寂しい感じを抱かせた。師娘も、芙蓉も芳槿も、すいすいと登っていく。あたしはついて行くのがやっとだったけれど、不思議と全然息切れしなかったの。昨日飲んだ薬のせいかしら。
 やがて切り立った崖の上に着いた。振り向くと、洞窟が豆粒みたいに見える。風はさっきよりも冷たく、そして強く吹いていた。
「よく見ておくのよ。芙蓉、芳槿。軽功で駆けなさい」
 二人は短く返事をすると、たちまち身を翻した。あたしの目には、絶壁から飛び降りたようにしか見えなかった。
「芙蓉ちゃん、芳槿ちゃん!」
 目を覆ってしまいそうになったけれど、二人はまるで雲を踏むかのようにして、向かいにそそり立つ岩壁の上に立っていたの。まるで信じられない光景だったわ。驚くあたしをよそに、二人はさらに駆けていった。
 垂直に切り立った岩を駆け上がる。宙に身を舞わせてくるくる回転すると、今度は枯れた松の枝先に立っていたわ。宙返りを何度もしながら、今にも崩れ落ちそうなカズラの上をつたって走って行く。全く速度が落ちることなく、まるで疾風のようだった。
 二人はひとしきり縦横無尽に駆け回ると、やがて師娘の前に控えて礼をした。
 何の言葉も出てこない。だって、少しも息を切らせていないもの。山奥に住むお猿さんたちでも、これほどの芸当はできそうにないわ。
「次は隠娘、あなたの番よ。二人で手を引いてあげなさい」
 尻込みするあたしにはまるでお構いなし。二人があたしの手を握った途端、世界がぐるりと一周した。
「きゃあああっ!」
「大丈夫だって。信用しなさいよね」
「任せて」
 あたしは目をかたくつむり、二人の手を思い切り握り込んだ。耳元では風がごうごうと唸りを上げ、足はまるで空気でも踏んでいるかのように、何の感触もない。ただ頬を切る風だけが、確かなものとして感じられるばかりだった。
「ほら。目を開けてみなさいよ。そうしないと何にもわかんないわよ」
 芙蓉の言葉に、恐る恐る目を開けてみると、真下では谷が大きな口を開けていた。途端に意識を失いそうになってしまう。
「着地」
 あたしたち三人は細いツタの上に立っていた。こんなの着地だなんて言わないわ。でも全然ぐらつかない。地面の上にいるのと全く変わらなかった。
「ようは慣れなのよ。あたしたちが一緒に駆けてあげるから、身体の使い方とかいろいろ実地で覚えること。これができないとどうにもなんないかんね。ほら、行くわよ芳槿!」
 そのまましばらく駆けずり回らされたわ。途中で何度も気持ち悪くなったけれど、少しだけコツをつかめたような気がした。
 師娘の待つ断崖の上に帰ると、そこには小さな杯に入った液体が用意されていた。きっと霊薬ね。ご飯を食べないってほんとうなんだわ。途端にお腹が空いてくる。
「世俗の食べ物はあなたたちにとって害でしかない。やがて食欲など消え失せてしまうから、何の心配もないわ」
 差し出された杯をあおる。師娘は目を細めると、あたしたちに座るように言った。そして武功の基礎についていろいろ教えてくれたの。芙蓉は退屈そうだったけれど、あたしにとっては初めてのお話。忘れないよう、心にとめておかなくっちゃ。
 まず、軽功について。今あたしが体験した、あらゆる武功の根っこになるもの。身体を極限まで軽くして、思いのままに宙を駆ける技。達人の域になれば、ホコリ一つたてることなく、向かい合っている相手の背後に回ることさえできるようになるんだって。
 次が内功。これはおへその下にある丹田っていうところで気を練り上げて、全身に行き渡らせ、身体を内部から強化する技なの。この気を内力って呼ぶんだけれど、極めると内力をあらゆる物に流し込んで補強ができるようになる。髪の毛一本でも、人を殺せる凶器になるわ。相手の体内に内力を送り込んで、中からズタズタにもできるの。なんだか怖い力だけど、内力を応用すれば体内の傷を治すこともできるんだって。少しだけ安心した。
 三つ目が外功。これは気を身体の表面に行き渡らせることで、皮膚を鋼鉄のように強化し、外からの攻撃を弾くもの。でも、内力を防ぐことはできないから、身につけなくてもいいって言われたわ。軽功を極めてかわせば問題ないらしいの。
 四つ目が点穴。指先や剣の先なんかに内力を集めて、人体にあるツボ――経絡に気を通す技なの。体内を流れる気の流れを遮断して行動不能にしたり、気の流れを変えて治療したりするんだけど、これも達人ならそのまま命を奪えるんだって。あたしが初めて霊薬を飲んだとき、師娘がしてくれたのがこの点穴で、暴れ出した気を静めてくれたらしいの。上手く使えば傷を癒やせるってところは内力と同じだわ。
 最後に暗器。これは隠し武器で、小さな刀でもいいし、石ころでも何でもいい。闇討ちに使うちょっと卑怯な感じの技だけど、内力と点穴との合わせ技が強力なんだって。例えば、石ころに内力を流して、それを相手の経絡目がけてなげうつの。上手く決まれば、そのまま意識を失って倒れるしかないって言ってた。
「隠娘、いいかしら。一番大事なのは内功よ。それによって練られた内力ほど強大なものはないわ。この純度を上げるためにも、霊薬は必要不可欠なの。芙蓉と芳槿も随分よい内力を練れるようになってきた。もう一息よ。二人とも、今後も精進を怠らぬこと。いいわね」
 そのあとは剣術を教わったわ。左手の人差し指と中指を立てて、あとの三本は軽く握り込む。これを剣訣っていうの。点穴はこの剣訣でするのが基本なんだって。
 師娘の剣術は「織女素心剣」っていう流派で、芙蓉も芳槿もそれを習っていた。
 織女素心剣ってね、女の子専用の武功なのよ。師娘が言っていたわ、純粋無垢な心と体を持つ少女だけが、その奥義を極めることができるって。
 あたし、絶対に頑張るわ。剣仙聶隠娘って呼ばれるようになって、かわいそうな人々を助けて回るの。どうしてもっていうのなら、小宝をお供の一人にしてあげてもいいかもね。強くて頼りにされる剣仙少女には、おっちょこちょいな従者がきっとよく似合うわ。こういうの、引き立て役っていうのよ。

 今まで知らなかった武芸の話を聞けたのはとてもためになったし、あたしも奥義を身につけることができるのは嬉しかった。でも、一つだけ残念なことがあったの。
 武芸の流派では上下関係が厳しくて、あたしはもう「芙蓉ちゃん」とか「芳槿ちゃん」とか呼べなくなってしまった。二人のことは「姉さま」って呼ぶことになったの。師娘の一番弟子になるのが芙蓉姉さま、次が芳槿姉さま。で、あたしなの。ちょっぴり寂しく感じたけれど、一人っ子だったあたしにはとても新鮮だった。
 それに、もしかしたらあたしにもいつか妹分ができるのかしら。そう思うと、少しだけ楽しみにも思えたわ。
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