2 『マクベス』

文字数 3,412文字

二 『マクベス』
 現代演劇協会理事長は、『人間・この劇的なるもの』において、「劇は究極において倫理的でなければならない。元来は、それは宗教的なものであった。その本質は、今日もなお失われてはならぬ」と言い、さらに、シェイクスピアの四大悲劇のうちで、「もっとも純粋な悲劇」として『マクベス』を挙げております。と申しますのも、「マクベスは自由でありえた。それにもかかわらず、かれは自分の宿命を探りあて、性急にそれに到達しようとあがく」のがその一因だからであります。

 すでにいったように、私たちが欲しているのは、自己の自由ではない。自己の宿命である。そういえば、誤解をまねくであろうが、こういったらわかってもらえるであろうか。私たちは自己の宿命のうちあるという自覚においてのみ、はじめて自由感の溌刺さを味わえるのだ。自己が居るべきところに居るという実感、宿命感とはそういうものである。それは、なにも大仰な悲劇性を意味しない。宿命などというものは、ごく単純なものだ。
(『人間・この劇的なるもの』)

 スコットランドの将軍マクベスは、フォレス近くの荒野で、友人の将軍バンンクォーと共に、三人の魔女に出会い、自分が王になるという予言を聞きます。彼自身は半信半疑だったのですが、野心家の妻に押され、城に立ち寄ったスコットランド王ダンカンを殺害します。魔女の予言通り、スコットランド王となったマクベスは、自分の権力をさらに強固なものにするため、魔女の予言を再度仰ぎ、殺戮を重ねるのですが、その罪の意識に苛まされて、精神の平衡感覚を失い、自滅へと向かい始めるのです。マクベス夫人も精神が錯乱し、狂死してしまいます。そうしている間に、父がマクベスによって殺されたことを知った王子マルカムは貴族を集め、マクベス打倒に立ち上がります。女から生まれたものに敗れることはないという魔女の予言を信念にマクベスは動じません。けれども、城は難攻不落だという魔女の予言を完全には信じきれず、マクベスは城から出て戦闘を挑み、月足らずで母親の腹を裂いて出てきたマクダフに討ちとられるのです。

 予言にはマクベスが王になるとしても、国王を殺さなければならないのか、国王を殺さなくともいずれは国王になれるのかどうかは明らかではありません。マクベスもそれを承知しております。が、妻の後押しもあって、彼はダンカン王を殺害して、後釜に座ってしまうのです。

 予言はそもそもが曖昧なものであります。第一幕第一場の魔女のセリフでそのとりようによってどうとでも解釈できる性質が予言されておるのです。

ALL: Fair is foul, and foul is fair:

 福田恆存は「きれいは汚い、汚いはきれい」、小田島雄志は「いいは悪いで悪いはいい」と訳しておりますが、”fair”と”foul”にはいずれの意味もあります。予言は意味の平衡状態にある言葉で、それをある心理的状況に置かれた人物が解釈し始めた途端、臨界に達してしまうのです。確かに、予言では、”fair”は“foul”であり、“foul”は“fair”であります。

 こうした曖昧さは予言に囚われた人物を主人公にしたこの作品の至るところに見られます。第五幕第五場におけるマクベスが夫人の死を聞いて語る劇中で最も有名な次のセリフにもそれがあるのです。

SEYTON: The queen, my lord, is dead.
MACBETH: She should have died hereafter;
There would have been a time for such a word-
Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow,
Creeps in this petty pace from day to day
To the last syllable of recorded time,
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.

 この最後の”sound and fury”は、ウィリアム・フォークナーの革新的な小説『響きと怒り(The Sound and the Fury)』(一九二九)のタイトルに使われております。コンプソン家の悲劇的没落を三部構成で描いているのですが、各章が三人の人物それぞれの独白であり、三つの異なる視点で語られた事実が提示されています。中でも、第一章は知的障害者の口を通して話されており、断片的な印象を受けます。この構造は作者が追求していく意欲的な語りの技法の先駆けであります。

 “There would have been a time for such a word”は仮定法過去完了であり、「将来」や「来世」の意味を持つ”hereafter”は”tomorrow”の類義語である以上、マクベスのこの言葉はマクベス夫人の死について語られたのか、それとも自分自身のその後に続く言葉に対して言及されたのかというように、どちらにかかるのかはっきりしません。仮定法過去完了は過去の出来事の逆を述べ、話し手はそこに直接法で言えない自分の気持ちを託し、聞き手はそれを読み取ることが求められるのです。もちろん、”hereafter”に”tomorrow”とも予言にかかわっていることは言うまでもありますまい。

 福田恆存はここを次のように翻訳しております。

シートン は、お妃様が、お亡くなりあそばして。
マクベス あれも、いつかは死なねはならなかったのだ、一度は来ると思っていた、そういう知らせを聞くときが。あすが来、あすが去り、そうして一日一日と小きざみに、時の階を滑り落ちて行く、この世の終りに辿り着くまで。いつも、きのうという日が、愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、つかの間の灯!人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、わめいたり、そしてとどのつまりは消えてなくなる。白痴のおしゃべり同然、かやがやわやわや、すさまじいはかり、何の取りとめもありはせぬ。

 福田恆存の翻訳ではマクベスの言葉は死への意識に重点が置かれております。心理的に追いつめられたマクベスが自己劇化している光景が目に浮かびます。福田恆存は、『人間・この劇的なるもの』の中で、「マクベスだけが、しかも劇中たえず自己を演出しつづけたマクベスだけが、私たちのまえに自己の死を演出することを禁じられている。死にたいして、もっとも意識であったかれだけが、自分の死を眺めることができないのだ」と指摘しております。彼は『マクベス』をモチーフに戯曲『明智光秀』を書いていますが、そこではこの点がより強調されております。「生はかならず死によってのみ正当化される。個人は、全体を、それが自己を滅ぼすものであるがゆえに認めなければならない。それが劇というものだ。そして、それが人間の生きかたなのである。人間はつねにそういうふうに生きてきたし、今後もそういうふうに生きつづけるだろう」(『人間・この劇的なるもの』)。この「自己」の「演出」をめぐる認識が福田恆存の傾向を示しているのであります。

 訳を比較することによって、その翻訳者の認知傾向が明らかになります。『ジュリアス・シーザー』の"Speak, hands, for me!" を福田恆存は「この手に聞け!」と訳していますが、坪内逍遥か「もう……この上は……腕ずくだ!」と歌舞伎のように和訳しておりますし、中野好夫は「こうなれば、腕に物を言わせるのだ!」としております。福田恆存の翻訳は自己劇化の色彩が強いのです。仲代達也や平幹二郎が手をかざしている姿が思い起こされます。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み