4 演戯について

文字数 955文字

四 演戯について
 福田恆存は、『人間・この劇的なるもの』において、演戯に関して次のように述べております。

 演戯によって、ひとは日常性を拒絶する。日常的な現実は私たちを自分の平面に引き倒そうとして、つねに寝わざをしかけてくるからだ。私たちはそれに負けまいとする。あくまで地上に、しゃんと立っていようとする。そのための現実拒否なのだが、それは現実からの逃避ではない。逃避したのでは、私たちは現実の上に立てない。現実を足場とし材料として、それを最大限に利用しなければならぬのだ。現実と交わるというのは、そういうことである。私たちの意識は、現実に足をさらわれぬように、たえず緊張していなければならぬと同時に、さらに、それを突き放して立ちあがれる「特権的状態」の到来を、つねに待ち設けていなければならない。

 ただ現実を再現することが演戯ではありません。もしそうなら、マクベスを演じられるのはオーソン・ウェルズやジョン・フィンチではなく、ニコラエ・チャウシェスクやソロボダン・ミロシェヴィチのような独裁的な政治家だけになるでしょう。演戯は日常性を拒絶するものだとしても、「現実からの頭皮」でもないのです。いい演戯は日常性と非日常性の拮抗から生まれるのであります。

 このような意見を持つ福田恆存自身、戦後の言論界において、こうした演戯をし続けたと言えますまいか。「さっき言ったように芝居ばかりでなく、小説でも、これはお話ですよ、物語ですよというふうに進めてゆくべきじゃないか。そういう時代があったのです。ドン・キホーテ、ボッカチオはもちろん十八世紀ぐらいまでの小説はそうだった。それが十九世紀になると、今やわれわれが人生の真実を描いた、それのみで小説がなりたつというふうに思いはじめた。しかし、十九世紀の小説家でも一流の人、たとえばドストエフスキーやトルストイをよく読んでごらんなさい。これはお話ですよ、お話ですよという語り口でやっている。その語り口が水引に相当する。その水引きをどっかに忘れてきちゃったんじゃないでしょうか。すべての小説がそうだというのじゃなくて、現代の作家でもそれを心がけている人もいるでしょうが。読者もそれを忘れかけていやしないだろうか。批評家もですね」(福田恆存『今までだれも知らなかったことだ』)。
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