09

文字数 1,898文字

 桂はスマホの音でびくっとして目を覚ました。
 いつの間にか眠っていた。画面を見ると、母から着信とメールが続いている。メールを読んで、桂は急いで返信した。
「電車で気分が悪くなって、駅員に救急車呼ばれただけです。病院で寝て起きたら兄貴がいたので逃げてきた」
 桂はビジネスホテルの窓から外を見た。すっかり暗くなっている。
 帰郷した目的を果たすのは明日。それまで逃亡者だ。
 久しぶりに会った、兄の恭平の姿が浮かんだ。

 兄は病院のベッドのそばの椅子に座っていた。兄だと気付いた瞬間、息が止まりそうだった。
「起きたか」
 静かな声だった。窓を背にしていて表情はよく見えなかったが、見えなくて良かった。怒りが激しい時の方が、兄は態度も声も冷たくなる。
 何か言わなければと思ったが、喉が詰まった。
「水、飲むか」
 返事もできないでいるうちに、兄はベッドの柵にかかっていたスイッチで、ベッドを上半身を起こす角度にしてくれた。そして水のペットボトルを、キャップを開けてから、手渡してくれた。
 その手際の良さから、祖母の看病をしていたのは兄だと察しがついた。
 「ばあちゃんが死んだよ」――あの時も、兄の声は淡々としていた。
 祖母が危ないらしいと母から聞いて、家を出てから初めて、電話してみた。「あの」と呟いただけで弟だと気付いた兄は、ただそれだけを告げた。桂はそのまま通話を切った。
 祖母の具合が悪いことも知らず、見舞いにも行かず、臨終にも立ち会わなかった。せめて葬式に参列して、祖母に別れを告げ、父や兄の怒りや冷たい視線を向けられるくらいするべきだったのに、その勇気もなかった。
 何の役にも立たない――結局、祖母の言う通りだった。
 今まで連絡もせずどこで何をしていたのか、祖母が死んだと知っても戻らなかったのはどういうつもりか、なぜ今更帰ってきたのか、兄は詰問してくるだろう。
 正直に近況を話しても、兄が納得してくれるとは思えなかった。
 どうする――でもその時、兄のスマホが音を立てた。兄はスマホを見やると「ちょっと電話してくる」と言い、足早に出て行った。
 桂はとっさにベッドを降りて靴を履き、祈る思いで窓を開けた。1階の部屋から眠っていた間に移動してなかったとわかって安堵した。
 ペットボトルのキャップを締めてカバンに放り込み、財布を出して、病院の会計用に五千円札を枕にはさんだ。見つけた誰かが懐に入れてしまうリスクはあるが、仕方ない。
 窓を乗り越え、病院を抜け出して、ほっとした。
 ここに来た理由は言えない。言いたくない。父と兄を激怒させるだけだ。暴力を振るわれたことはなかったが、以前とは状況が違う。おびえることで止めてくれた万璃がいない。かばってくれた母も。身勝手な次男への鬱屈がたまっているとしたら、ボコボコにされてもおかしくない。逃がさないために、兄はそばにいたのかもしれない。
 もう兄のことを考えるのはやめよう、桂は思った。
 「起きたか」。あの声は、祖母の死を告げた声と同じように、頭から離れないだろう。でも、もう振り返らない。
 待ってる人達がいるところに帰る。
 山の中の、小さなレストラン兼ホテル。働き始めてまだ1年にしかならないが、一緒に働いていきたい人達がいる。役に立ちたい、支える1人になりたい。かけがえのない場所、今はその片隅に住んでいる。
 仕事の幅を広げたくて、運転免許を取ることにした。教習所は卒業したが、免許証を取得するには、住民票がある県の免許センターで本試験を受けなければならない。
 住民票は実家の住所のままだった。帰郷するしかなかった。
 風邪気味かなと思いながら電車を乗り継いできたが、気分が悪くなって降りた。そこが家の最寄り駅なのがわからない程、意識が飛んでいた。「桂ちゃん」――祐也。全然変わってなかった、高校生っぽくなっていたが。
 祐也から兄に連絡がいったのだろうが、責められない。自分が逆の立場だったら、家族に言わないでほしいと頼まれても、同じことをしただろう。
 桂は窓のカーテンを閉めた。明日は朝イチで免許センターで手続き。休暇を取って泊まり込みで来ている。一発で合格しないといけない。
 こんな用事で戻ってきているとは誰も思わないだろう、と楽観してるのは自分だけかもしれない。もし兄に見つかったら、その時はばちが当たったか、祖母のたたりだと思うことにしよう。
 でも何があっても、あの場所に帰る。
 他に帰りたい場所はない。もう実家には帰らない。
 生まれ育った土地だが、会いたい家族は、ここにはいない。
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