浅草路地裏人情草紙(一の壱)

文字数 18,195文字

                              NOZARASI 2-1
 浅草路地裏人情草紙 (一の壱)

   みずき、其の壱、出逢い

 明るく楽しそうに振る舞っているみずきの心の奥底に潜んだ闇に、誰も気付きはしない。いや、当のみずきにも、心の片隅に漠とした何かを感じるだけで、今はもうその闇の正体を、確かと解かりはしなかった。

 乾ききった春の嵐が、大川端の満開の桜を一気に散らしながら吹き荒れる日の夕、三軒町辺りから出火した火が、逃げ惑う人々を嘲笑うかのように、地鳴りのような凄まじい轟音を轟かせ、紅蓮の火柱を天に向かって噴き上げながら、まるで怒り狂った龍の炎を吐くが如く田原町に迫ろうとしていた。
 岡っ引きの仙吉は、風下の家々に逃げ遅れた者は居無いかと、手下の二人とともに一軒一軒確かめに走りまわっていた。火はもうすぐそこまで迫り来て、肌を刺し身を焦がすような熱気と焦げ臭い匂いが辺りに充満し始めていた。
もうこれ以上は無理だ。板前の源助の家で終わりだと飛び込んだその中にみずきを見つけた時、飛び火した火は、隣家の軒先をパチパチと音を立て燃えあがらせ始めていた。
 赤い炎に浮かびあがった家の中は、運び出そうとした大事なものなのであろうか、風呂敷包みの中身が散らばり、みずきの父親源助と母親の多香が倒れ臥し、更に三十過ぎの男が、滅多刺しにされた姿で血まみれになって倒れていた。源助の手には柳刃包丁が握られており、血まみれのその男の前に蹲り小刻みに震えていたみずきの手にも、板前だった源助のものらしい柳刃包丁が握られていた。風呂敷包みの中からこぼれ出したのを握ったのであろうか、包みの周りに、板前の使う幾種類かの包丁が散乱していた。
 燃え盛らんとする炎の熱さの中、蹲り震えているみずきもまた血に塗れていた。。

 みずきは、奉行所の取り調べに何も応えなかった。いや、応えられなかった。仙吉や奉行所の役人がいくら尋ねても、尋ねた直後に、必ずあの時のように身体を小さく丸め小刻みに震えだし、一点を見据えたままになってしまうのであった。
 男の身元をやっとのことで探し当てると、数か月前まで源助と同じ小料理屋の板場でともに働いていた男であった。その手に握られていた血だらけの出刃包丁も、源助の包丁の数や銘から割り出され、男のものである可能性が高く、景気の悪さから、客足の遠のいた小料理屋の板前を首になり、四人の子供を抱え、暮らしに困って火事場泥棒に及んだのではないかと推察された。あの場の状況から、火事場泥棒に入った男が包丁を翳していたので、源助が持ち出そうと包み持っていた包丁で対抗し、敵わず殺され、止めようとした多香も殺されたのではないのだろうかと推察されるのであった。
 源助の働いていた小料理屋の話では、源助は腕も良く、一、二年後には自分の店を出せるくらいの蓄えも出来ていたらしい。源助の懐の中には、その金らしい大金が、粗末な布切れに大事そうに幾重にも包まれ抱かれてあった。それを知った上での男の犯行と見られた。
 何故みずきが柳刃を握りしめ血だらけとなり、包丁を持った男が腹に無数の刺し傷を負い、その傍らで死んでいたのか。十やそこらの幼い子供が、大の男を柳刃で刺し貫けるのだろうか、それも、滅多刺しに出来るのだろうか。でなければ何かが、いや誰かが居たのか。が、それも考え難かった。柳刃は、確かにしっかりとみずきの手に握られ、血糊もべったりと付いていたのだ。
 これ以上は、幼いみずきに酷であろうという事で、お調べは打ち切られた。
 二年続きの飢饉で、江戸の庶民も苦しい暮らしを強いられ、親戚は誰も名乗りを上げず、みずきは行く先を失った。
 子供に恵まれなかった仙吉は、奉行所に願い出、浅草花川戸の片隅で小ぢんまりとした一膳飯屋を営むこの家にみずきを引き取った。
 よく働く子であった。
 その姿を、「何だかこき使っているようで、世間様の目が気になってしまうよ」と、女房のお喜多が、いつも笑いながら目に涙を浮かべて、仙吉に零すように言うのであった。
 この子は、懸命に働きまわることで、あのことを忘れようとしているのだろうか。仙吉夫婦にはそう思えてならず、懸命に働くみずきを見ているのが辛いような時もあった。
 あれから九年、みずきの心は二人の愛情と界隈の人々の優しさに包まれ、少しずつ癒され明るさを取り戻してはいった。が、その心の片隅は、今もなお固く閉ざされたままであった。
 みずきがその記憶を完全に忘れている訳では無い事は、時々夢に魘され、悲鳴のような声を挙げることから、仙吉夫婦にはそれとなく分かっていた。

「あんちゃん、それはあまりの怖ろしさか何かに、その部分の記憶を失ってしまっているのかも知れないよ。心のどこかに、その強烈な怖ろしさみたいなものだけが残り、前後の事を思い出そうとしても思い出せない。いや、思い出そうとすること自体を心が拒否しているのかも、十やそこらの幼い子供には堪え切れぬものを見たのではないのかなぁ」
「ふた親が目の前で殺されたんだ、無理もねぇやな」
「そうだよね」
 蘭法医学の修行へ出かけた長崎から二年程前に戻って来た幼馴染みの唯之助に、仙吉はみずきの事を話してみたことがあった。
 唯之助とは、幼いころからの仲間、つまり、ガキ大将とその子分といった仲で、何でも気軽に話せた。
 大店とまではいかないが、そこそこの商家の次男坊であった唯之助が医者になったのは、十四の時、親に、「家業を手伝う気が無いのなら、いつまでもフラフラしてないで、いい加減に自分の将来のことを決めなさい。このままでは、こちらにも考えがありますよ」と脅され、少し以前に、病に罹り苦しんでいたのを治してくれた医者に覚えた感動が新鮮に残っていたので、その気もないくせに、つい、「医者になりたい」と口走ってしまったからであった。
 これ幸いと、即、その町医者に弟子として預けられたのだが、それがなんと、唯之助の性に合っていたらしく、見込まれて町医者の養子となり、長崎へ修業に行き、戻ってきて三年目の今では、ちょっとした武家屋敷からも声の掛かるほどになっていた。
「何かのきっかけで思い出す事があるかも知れない、その時の方が大変なのでは……」と、唯之介は心配する。
「そうだろうな、忘れている今の方が幸せなのかも知れねぇな」と、仙吉もみずきの心を思うのであった。
「その辺りは難しいところだよね。でも、あんちゃんの所にいれば大丈夫だよ、俺、あんちゃんの優しいの、よーく知ってるもの」
 唯之介が、ガキ仲間の頃を思い出すかのように言った。
「けっ、何言ってやんでぇ」と仙吉が迷惑そうな顔を作る。
「ほら、すぐ照れちゃって、昔のまんまだ」と、仙吉にはお構いなし、唯之介が冷やかしている。
「うるせぇんだよ唯は。そのあんちゃんて呼ぶのは、もういいかげんに止しな、いつまでもガキじゃ無ぇんだから」
「ははは、俺にとっては、何時まで経っても大事なあんちゃんだ。あんちゃん、あの子にとって大切なのは、その傷を優しく包んでくれる人の情愛なんじゃないのかなぁ」と、唯之介がしみじみと言った。
「そうか、そうだよな……」
 仙吉は、みずきを助け出したあの日を思い出していた。
「そういえばみずき、あの時泣いていなかったよなぁ」
「えっ」
「俺がみずきを助けた時、みずきは泣いてなかったんだよ」
「そう。十にもなれば、親が死んだ、殺された、という事は分かるよね。それを目の前にして泣かないというのもおかしいよね」
「涙も出ないほど怖ろしかったという事か」
「そうなんだろうね、きっと」
 仙吉は、みずきの心の傷は、目の前で親を殺され、自分がその男を刺し殺したという事だけでは無いような気がずっとしていたのであった。がそれは、当のみずきにさえ今はもう解らぬことであったのだ。
 今でも火事騒ぎがあり半鐘の音などが聞こえると、みずきの目に怯えたような光がありありと浮かび、身体が小刻みに震えだすのであった。
 だが、みずきにはそれが、あの時のことによるものだとは分っていないのかも知れない。思い出せない、いや、消え去った記憶の奥底に潜む恐怖だけが、みずきの心に蘇っているのではないのか。
 何とかしてやりたいと思うのではあるが、余りに凄惨な現場をその目で見た仙吉には、それを思い出した時のみずきのことを思うと、このままの方がいいのではと思わなくもないのであった。
「それ以外にも、もっと怖ろしい事があったのかもしれないな」
 ぽつんとそう言った仙吉の言葉に、「その辺りはよく解んないけど、十の女の子にとって、目の前で父と母が殺され、自分がその男を刺し殺したという事だけで十分に怖ろしい出来事なんだものね」と、唯之助は、沈んだ面持ちで言うのであった。
「そういう事だろうなぁ」
 仙吉は、唯之助の言葉に頷いては見たが、心の何処かに引っ掛かるものは、そう簡単には消えて行くものではなかった。

 あの火事の日から九回目の桜が咲いた。
 仙吉は、春の大風が大川堤の桜の花びらを吹雪のように舞い狂わせると、あの日を思い出し、心が騒ぐのであった。
 あの日仙吉は、手下の国松と太吉に現場から三人の仏を運び出させながら、その胸にしっかりと血まみれのみずきを抱き、紅蓮の炎に降りかかり舞い狂う桜の花びらを、まるで夢の中にいるかのように茫然と見つめていた。
 あの時、己の心の何処かに、その美しくも幻想的な光景に感動しているような心を感じ、一瞬の戸惑いを覚えたのではなかったか。
 ふた親を失い、血まみれになった幼子を抱きしめながら、己の内に生じた残酷な心。その胸に抱かれたみずきは泣く事もせず、ただ小刻みに体を震わせていた。
 数多の修羅場を、岡っ引きたるが故に目撃してきた。若い頃は目を逸らしたその凄惨な光景、まともに見る事すら出来なかったものが、いつに間にか正視出来るようになり、今はもう人間らしい感情さえも浮かばず、ただ状況を把握し犯人を追い求める。世の理不尽さに出遭う度に、俺は岡っ引きになって弱い者や困った者たちを助けてやるのだという思いやりさえ薄らいで来ているのではないのか。
 理不尽に殺されたり虐げられたりした者たちの怒り、悲しみと憐情。初めて十手を握ったあの若き日に覚えた、その痛みにも似たものを、己のものとして感じる事の出来た心が、あの頃はもう自分の心から失われ始めていたのではなかったのか。
 重なり行く己の心と、みずきの悲しみを胸に、「火事なんぞ起こさないでくれよ」と呟きながら、日本堤を吉原大門の方へ向かって、風に背中を押されるように小走りに仙吉は歩いて行った。

 あれほど盛りを見せていた桜の花も、散り急ぐかのように辺りに散り敷き、見上げれば、花よりも成長し始めた若葉が目立ち始め、いよいよ葉桜の季節になろうかという頃であった。
 そろそろ暖簾を仕舞おうかと思案する時分、客の誰もいなくなった一膳飯屋に、襤褸同然の服を纏い、見るからに汚い若い侍が、足元も覚束ない様子で転がり込んできた。
「済みません、何か食べさせて戴けませぬか」
 余りの空腹に、言葉にも張りを失い、何を言ってるのやらも定かには聞き取れない。身形風体と言えば、まぁあまり傍には来てほしくないというところか。
「どう致しやした」
「もう三日、何も食べておりませぬ。頼みます、何か食べせて戴けませぬか」
 様子からして旅の果てであろう事は推察できたし、三日も食っていないということは、まぁ間違い無く懐はすっからかんであろう。
「おいっ、急いで何か誂えてくれ」
 そんな事には躊躇も頓着も無く、仙吉がお喜多に声を掛ける。
「あいよっ」
 これもまた亭主と同じ、心得たとばかし、お喜多が奥から威勢良く応える。
 有り合せのものといっても、そこは食い物商売、それなりの物はまだ残っているし作り置きもある。手際よく腹熟れの良さそうなものを盛りつけた盆をお喜多から受け取り運んできたみずきが、「はい、御飯と煮魚、それにお豆腐の味噌汁ね。ゆっくり、良く噛んで食べて下さいよ」と、優しい笑みを見せ、男の前に並べた。
「済みません、戴きます」と、一言。しかし、ちゃんと両の掌を合わせ、親指と人差し指の間に箸を挟み、頭を深く垂れるや否や、侍は丼に顔を突っ込むようにしガツガツと食べ始めた。
「良く噛んでくださいね。三日もお食べになっていないのでしょ、噛まずに飲み込むと、お中が痛くなりますよ」
 みずきが少し笑って侍の食いっぷりを窘め、仙吉を見た。仙吉も目を丸くし、苦笑いをしている。 
 食い終わった丼を差し上げて、もう一杯と催促をする。
「駄目よ、急にお中いっぱい食べては駄目なの。今はこれだけで我慢してくださいね」
 みずきが優しく言った。
「そうですね、旅の途中にそんなことが何度かありました、ありがとう」
 侍は机に頭を擦りつけるようにして礼を言った。礼を言ったその目に涙が溢れようとしていた。
 侍は羽前上山藩牢人、八宇田正二郎と名乗った。剣術修行の旅の途中だと言い、勿論文無し、頼りの下屋敷にも、余りの風体に気後れしたか、門前払い同様追い払われ、身を寄せ泊るところももう無いと、自分を蔑むように笑った。
「ここは狭いからな、ちょっと国ん所まで行って来らぁ。あいつは一人もんだ、厭とは言うまいよ。何せ人助けだ、なに、預けたらすぐに戻って来らぁ。おっ、手土産に酒でも持って行ってやるか」と、仙吉はお喜多に渡された高田徳利を片手に下げ、東橋を渡った先の長屋に住む、子分の国松の所に正二郎を案内して行った。
 半刻程して戻ってきた仙吉が、
「国の野郎、貧乏徳利見やがったら二つ返事だ。酒飲みは卑しくていけねぇや」と、笑って言った。
「何言ってんの、国松が人助けと聞いて断る訳がないのは、あんたが一番良く知ってるじゃないの。それに、あんただって、その酒飲みの一人でしょ」と、お喜多に遣り籠められている。
「俺は卑しくなんかねぇやさ」と仙吉が拗ねている。
「あら、だったら、今夜はお酒断ってみる」と、お喜多の厳しい追い打ち。
「それは無いだろ。みずき、助けてくれよ」
「どうしようかなぁ」
 みずきが、二人の顔を見比べるようにして戯けた。
「ははははは」
 三人の楽しげな笑い声が、小さな一膳飯屋から人通りの絶えた裏露地に響いていった。
 他人から見れば、違いなく仲の良い暖かい家族に見える事だろう。

 あくる日の朝少し遅く、国松が正二郎を連れてやって来た。
「おっ、来なすったな。お喜多、朝飯頼まぁ、国の分もだ」
「あいよっ」
 五人、みんなで楽しげに朝飯を食う。
「こんな朝餉は、もう随分長らく忘れていました」
 正二郎の言葉に、「こんな朝餉って?」と、みずきが訊いた。
「故郷を出て以来、飯なんていつも一人。それも、ただ生きんがために食べるだけで、朝も昼も夕もお構いなし。食べられる時に食べておかなければ、この次はいつ食えるやら。当然味なんてお構いなし、その成れの果てが昨日の有様です。他の人と、こうやって楽しく、美味しい朝飯を味わいながら食べるなんてことはあり得ませんでした。本当にありがとうございます」
 正二郎が、その目に涙を浮かべ頭を下げる。
 四人、みんな同じように、返事のしようもないといった困ったような目で顔を見合わせている。
「朝から湿っぽいのはいけねぇや。これも何かの縁でさぁ、銭金の心配は抜にして、暫くのんびりしなすって下せぇやし」
「それは……」
 仙吉の言葉に、正二郎が遠慮からか躊躇いを見せる。
「狭いけど、俺んとこだったら構やぁしませんよ、独りもんでやすが、元々賑やかな方が好きでやすからね。それに、八宇田様といれば、しょっちゅうこうして美味い飯や酒にもありつけるってもんだ。願ったり、叶ったりだ」
 国松も、変な勧め方ではあるが、歓迎の素振りである。
「八宇田様、そうなされば」
 みずきも真顔で勧める。
「遠慮なんて止しにしてくださいな、内は一応食べ物屋ですからね、八宇田様おひとり分なんて、どうって事もございません」
 お喜多も、胸を叩かんばかりである。
 正二郎が泣いている。頭を垂れたまま泣いている。
 みずきが正二郎の茶碗を摂り、飯をてんこ盛りにすると、「はい、八宇田様、昨日の御代わり分」と、笑いながら正二郎の目の前に差しだした。
「おいおい、いくら昨日たらふく食えなかったからとはいえ、朝からそんなには食えねぇだろ」と、仙吉が目を剥く。
「それもそうね」と、みずきが茶碗を戻そうとするのを、「いえ、謹んで戴きます」と、正二郎がみずきの方に拝むように両手を差し出し、ニッコリと笑った。
「ははは、そう来なくっちゃね」
 お喜多の間の手に、みんな相好を崩し、ホッとしたような笑顔を見せた。
「剣術修行なんて名ばかり、このところの飢饉続きで、出羽を始め奥州の諸国は、侍だって食うや食わず、体のいい口減らしですよ。後継ぎ以外は、皆穀潰しです」
 朝飯を食べ終わると、正二郎はポツリポツリと自分のことを語り出した。
「十八の年に出羽を出て、もう五年になります。各地を転々としながら稽古場を訪ね歩き、腕を磨いて参りました。西国の方が飢饉はの影響は少ないだろうと、出羽の国から西の大きな町は、江戸近辺を除いては粗方廻り尽くしました。食うや食わずの旅を続けることに少し疲れ果て、大きな町で少し落ち着いた暮らしをしたいと思い、それならまだ行ったことの無い江戸がいいかと東海道を下って来たのですが、ここひと月ばかり、訪ねる稽古場、稽古場に、皆門前払いを食わされ、路銀が底をついて一文無し。数日前に江戸へ入ったのですが、お蔭様でやっと三日ぶりに食い物にあり付けたという訳なのです」
 そういった剣術修行の武芸者たちは、各地の稽古場を訪ねることで、いくらかの心付けなどを貰い、旅の糧にしていた。しかし、このところの打ち続く飢饉で稽古場も門弟が減り続け実入りも乏しく、押しかける武芸者は門前払いされることが多くなっていた。増して正二郎、この風体である、断られることは必定といったところか。
「それは大変でやしたね」
 仙吉の納得の仕方が何となく暗いのは、正二郎の話しぶりの暗いせいのようである。
「いや、ここまで来る途中でも、十軒ばかりの食い物屋にお頼み致したのですが、どこも渋い顔で追い返されました」
「ははは、この節だ、江戸だってあちこちから飢饉で食い詰めた人間がわんさと押し寄せ、仏心を出していちいち構っていたら大変な事になりまさぁ。みんなも食って行くのに必死なんでやすよ、赦してやっておくんなさい」
 飢饉が二年も続くと、江戸の町は食い詰めた浪人や百姓たちが仕事を求めて流れ込んで来るのが常であったが、このところは特に酷かった。
「いえ、悪いのはこちらの方、こんな汚い形をした男が、いきなり食い物を恵んでくれなんぞと店先を騒がせたのでは、商いにも差し障りましょう」と、正二郎は自分の形を確かめるように見ながら言う。
「そういえば汚いですねぇ、八宇田様、湯屋にでも行かれたら。あんた、どうせこれから行くんでしょ、一緒にお連れして差し上げなよ」とお喜多が笑っている。
「おっ、そうだな。参りやすか、八宇田様」
「お願いできますか」
「おいっ、桶と手拭いだ」
「はいよ」
「ふた月ぶりになるのかなぁ」
 正二郎の呟きに、「えっ、お風呂がですか」と、黙って傍で聞いていたみずきが、その言葉に驚き素っ頓狂な声を出した。
「済みません」
 正二郎が、消え入りそうな声で謝った。
「ははははは、なにも謝る事なんかもございやせんやね、武者修行の旅の途中だ、そこいらの優男みたいな訳にはゆくまいよ。そうだろ、みずき」と、仙吉が助け船を出す。
 仙吉のその言葉に、みずきも優しい笑顔っ笑って頷いている。
「それから、このご恩返しは、いずれ働き口を見つけ必ずや致します、それまでご容赦をお願い致します」
「そんなことお気になさらずとも大丈夫ですよ、のんびり旅の垢でも落として、それからで十分ですので」と、お喜多が困っている。
「済みません」 

「遅いわねぇ、いつまで湯に入ってんのかねぇ」
 一刻を過ぎても戻らぬ仙吉たちに、お喜多が心配というのでもないのだろうが、気にしている。
「ふた月もお風呂に入ってないんでしょ、凄い垢で何遍もゴシゴシ」
 お喜多の心配に、みずきが背中を擦る身振りをしながら真顔で言った後に、小さく悪戯っぽく笑った。
「おっ、今帰ぇったよ」と、二刻もした頃、仙吉が威勢よく暖簾を分けて入ってきた。
「何だい、その威勢の良さは、それにしても長い湯だったねぇー」と、如何にも待ち草臥れたと言わんばかりのお喜多である。
「おかみさん、みずきちゃん、へへへへへ、見せたかったねぇ」
 国松が思わせぶりに言う。
「何をだよ?」
「ひょっとして、垢がボロボロ」
 お喜多とみずきは、思わず顔を見合わせた。
「アカ?うんそれは凄かった。違う、違う。何を言ってんでやすか、八宇田様の大立ち回りでやすよ」
「湯屋で喧嘩をしたの?」
「素っ裸でバンバンバンッと、じゃなくて、湯屋の表で喧嘩の仲裁」
「ははぁん、それで肩で風切って暖簾をくぐってきたんだね」と、お喜多が渋い顔で睨み付けた。
「あれを仲裁というのかねぇ」
 仙吉が小首を傾げて宙を見た。その顔に思い出し笑いが浮かんでいる。
「済みません」
 仙吉の言葉に、正二郎が頭を掻きながら謝った。
「ははははは」
 仙吉も国松も笑っているが、その後ろ、正二郎は首を引っ込めるように小さくなっている。
「八宇田様が仲裁したのね、それでどうしたの?」とみずきが話しの先を催促する。
「ははは、喧嘩の連中、みーんな殴り倒しちゃったの」と、国松が自分の手柄のように踏ん反り返っている。
「八宇田様が仲裁したんでしょ」と、今度はみずきが国松を睨みつけた。
「そう、仲裁に入ったのを、逆に絡まれちゃって、連中が束になって殴りかかってきたのを、刀も抜かず、両の拳骨二つで、バンッ、バンッって、あっという間に。十二、三人はいやしたかね、さすがの親分も、俺も、まるっきり出番無し。もっとも親分は、最後に奴らを並べてひと説教ぶっていい役やってやしたけど。二人ほど、肩の関節が外れた奴と、唇の切れた奴が出ましたんで、唯之介先生の所まで」
 仙吉が、国松の話に相槌を打ちながら笑って、「ははは、一応十手持ちだからな。でも、連中も野次馬も、みんな呆気に取られていたな。唯の奴なんか、仲裁なんですから、ほどほどにして下さいよなんて、八宇田様を睨みつけて笑っていたよ、ははは」と、また笑う。
「あいつらとんでもないお人に仲裁に入られて、ちょっと可哀想な事をしやしたかねぇ」と、国松も他人ごとのように笑った。
「いいってことよ、朝っぱらから酒なんか飲んで酔っぱらいやがって、俺たちが先だとか何とか、たかが湯屋の暖簾を潜る順番でいざこざなんか起こし、他人様の迷惑そっちのけ、天下の往来でゴチャゴチャやってやがって、町のダニみたいな野郎どもにはいい薬になったろうて」と仙吉が少し顔を顰めながら言う。
「済みませんでした、たぁだ騒ぎを大きくしたみたいで」
 どうやら正二郎、反省しているところを見ると、やり過ぎたのは確かのようである。
「それにしてもお強いですねぇ、やっとうの方も相当お強いんでやしょうね」
 仙吉の問いに、「人並みには」と、正二郎が小さな声で応えた。
「見てみてぇなぁ」
 国松が、羨望の眼差しで言う。
「馬鹿野郎、何てことを言いやがる、仮にも十手を御預かりする身なんだぞ」
 国松が仙吉に怒鳴られ、青菜に塩と萎んだ。
「しかし、俺も見てみてぇなぁ」
「何でぇ、親分だって同じじゃねぇの」
「ははははは」
 仙吉に促されて、昼前に男三人は連れだって出掛けて行った。
「いいお方のようだねぇ」
 お喜多が、三人を見送りながらそう言った。
「そうね、とってもいいお方みたい」
 みずきが、微笑みながらお喜多の言葉に応えた。

「おっ、今帰ぇったぞ」
 暖簾を分けて、仙吉が一人で戻って来た。
「あら、八宇田様は」
 みずきの問いに、「後で夕飯食いに来るよ」と、仙吉が言う。
「ふーん。どうして一緒じゃないの」
 みずきの問いに、お喜多も身を乗り出してきた。
「仙波屋さんにな、これはと思う腕の立つお人がいたらと頼まれていたのを思い出してな。以前にも強そうなの一人連れてったんだけどよ、見かけ倒しだったのかなぁ、気に入らなかったみたいで、一目即断というのかなぁ、その場で断られたんだが、八宇田様は本物みたいだからな。でもよ、頼まれたのが大分以前だったんで、もう駄目かと思ったけどよ、ひょっとしてと思い行ってみたのよ」
 所謂用心棒である。飢饉による人の流れ込みで、このところ江戸の町は治安が悪く、陸奥方面の産物を手広く扱う仙波屋などの店は夜出歩くことも多いしというので、それなりの腕を持った浪人を一人か二人は雇っていた。
「あのボロボロの格好で?」と、お喜多が目を剥く。
「いや、太吉の所に寄って全部取っ換えた」
「全部?」
「ああ、下帯から、全部」
「お前さん、そんな銭持ってたのかい」
「いや、ツケだ」
「馬鹿だね、いくら手下だからって、親分ともあろう者が、始めたばかりの子分の古着屋にツケは無いだろ。遠くはないんだから、国松でもひとっ走り寄越せばよかったのに」
 さすがはお喜多、その辺りは気が回る、言うことに一理ある。
 去年の暮れに稲荷町で古着屋を始めた太吉は、それ以前から、人手の欲しい時などに仙吉の手伝いをしていた。
「今朝の大立ち回りで気が昂ぶっていたのかなぁ、そこまで気が回らなかったよ」
「何年岡っ引きやってんだよ、お前さんは。すぐ払っとくんだよ」
「面目ねぇ」と、まぁ仙吉とお喜多はこんな具合だ。
 その二人の会話を後で聞いているみずきが笑っている。
「それで、仙波屋さんはどうだったの」
 みずきでなくとも、誰しも知りたいところはそこだろう。
「まだ見つかって無かったよ」と、仙吉が安堵したような顔でおみずきを見た。
「それで仙波屋さんに置いてきたのかい」
「荷物じゃあるめぇし、置いてきたなんぞと、失礼じゃねぇかよ」
「でもねぇ、何だか、どこか頼りなくてねぇ」
 お喜多のその言葉に、
「そうだよな、確かに強ぇことは強ぇえんだが、見かけは頼りねぇよな。でも安心しな、何故か、仙波屋さんは二つ返事だったから。御誂え向きに仙波屋さんの裏店に空きがあってな、一日中見世内では何かと落ち着かねぇだろうからって気ぃ利かしてくれてよ、そこも決まったよ」と、仙吉が自慢げに応える。
「あそこは、仙波屋さんの見世の裏も裏、庭から声懸ければすぐさま押っ取り刀だものね」とみずきが言うと、
「という事は、店賃もロハだねぇ」とお喜多が、してやったりというような表情でみずきの顔を見て嗤った。
「御明察。おまけに当座の賄いも戴いた。今頃、国の案内で古道具屋で鍋釜なんか買い揃えているんじゃねぇのかな」
「さすがお前さん、大したもんだ」
「ふふふ、今日は、下がったり、上がったりね」
 お喜多の後にいたみずきが、そう言いながら二人の会話にまた小さく笑った。
「大体の行き先と帰る時間を教えといてくれれば、江戸に慣れるまでは当分気楽にしてていいんだとよ」
「さすが仙波屋さんだねぇ、気持ちが大きいわね。それに、なんたって江戸の町は広いからね、不案内じゃ、いざという時に御役に立たないものねぇ」
「そうよね」と、お喜多の言葉にみずきも相槌を打つ。
「お邪魔致します、色々お世話になりました」
 一刻と断たぬうちに、草臥れた旅の衣を脱ぎ捨てこざっぱりとした正二郎が、暖簾を分けて入って来た。うん、中々の男っぷりである。
「仙波屋さんのこと聞きましたよ、良かったですね、八宇田様」
「はい、お陰様で」
 みずきの言葉に、正二郎が深々と頭を垂れた。頭をあげた時、正二郎の目が潤んでいた。
「ありがとうございました、太吉さんのところによって、ツケ、お支払いしておきました。それから……」
「内でやすか、そんなことは気にしっこなしでさぁ、八宇田様なら、食い詰めたらいつでもいらしてくださいまし、大歓迎でさぁ」
「ありがとうございます、ですが、今日からは食い詰め浪人廃業ですので」
「じゃぁ、次からはちゃんと戴くことにし、手打ちとしますか」
「ありがとうございます」
 正二郎が低頭したままそれを戻せない、泣いているのだ。長く苦しかった旅の経験が、他人の情けの重みを身に染みて知っているからであろう。
 涙を誘われ潤んだみずきの眼差しが優しくそれを見つめていた。
「さっ、そろそろお客さんも来るよ。先ずは美味しい肴で飲んでください。今日は御祝いさせて下さいな」
 お喜多の言葉に、正二郎がまた小さく頭を下げた。下げた拍子に涙が一粒ポロリと落ちたのをみずきは見ていた。

 明日からも仙波屋さんに用が無ければ夕飯だけはこちらで戴きますと言っていた正二郎であったが、翌日、陽が落ちる頃になっても現れなかった。
「どうしちまったんだろうね、仙波屋さんに何か急ぎの用でも頼まれたのかねぇ」
 心配げなお喜多の言葉に、
「お江戸見物。まさか、迷子?」と、みずきが冗談ぽく笑った。
「おいおい、子供じゃねぇんだよ、いくらなんでもそれはねぇだろ」
 仙吉も、まさかという顔で笑っている。
「そうよね」
「遅くなりました」
 正二郎が、みんなの心配を余所に、笑顔で暖簾を割ってやっと現れた。
「遅かったですね、何かあったんですか」
 みずきの心配に、正二郎が照れた。
「ちょっと道を……」
「迷子!」
 みずきが、やっぱりといった様な顔をして、目をまん丸にした。
「お城を拝見に行ったのですが、ぐるりと回って浅草に戻るつもりが、芝という所で……。それから八丁堀、日本橋と、道行く人に尋ねながら随分歩き廻り、やっと……。いえ、曇っていなければ、御天道様にお縋りできたのですが……」
 長い旅をしてきたのだ、見知らぬ土地であろうとも、太陽の傾きで自分の位置や大体の時間は判断できるのであるが、今日はあいにくの曇りだ、江戸の町は何となく似通った通りが多い、初めてでは、歩き回り過ぎると迷子にもなりかねない。
 面目なさそうに、言葉の端々を詰まらせながら弁解する正二郎に、「ははははは」と、三人が同時に笑い声を挙げた。
「ここにお戻りになられる時は、大川に出て、汐の満ち干に気を付け、汐の香りが強ければ上流へ、家も少なく、汐の香りもあまりしないようなら下流へ辿れば浅草ですよ。それから、橋の名前を覚えれば簡単ですよ、江戸は橋だらけですから。ちなみに大川は、海の方から永代橋、大橋、両国橋、すぐそこの橋が東橋。その上流は千住になります」
 みずきの言葉に、「はい」と、正二郎が小さくなって応えた。
「みずき、一度にそんなには覚えられねぇよ、明日は案内して差しあげな」
 仙吉がみずきに言った。
「明日は四の日、お休みの日ね。いいわ、案内して差しあげます」
 袖口を引っ張り上げ手薬煉を引くようにしながらみずきが応えた。
「済みません、宜しくお願い致します」
「稽古場になさいますか、それとも名所になさいますか」
「仙吉親分のお陰で、当分懐の心配もしないで済みそうだし、稽古場は止しにします」
「そうすると名所ね。桜はもう終わりだから、何処にしようかな」
「先ずは近い所から御案内して差し上げたら」
 お喜多の言葉に、
「そうね、では先ず、お江戸一番の観音様からね」と、みずきが楽しそうに言った。
「宜しくお願い致します」と正二郎神妙である、今日の迷子に少し懲りているのかな。

「今日は、何か縁日の日なのですか」
「観音様はいつもこうなの。御縁日でなくても人がいっぱい」
 浅草寺界隈、縁日などのときは、もっとすごい人である。みずきにはそれほどの人混みとは感じられないのであるが、正二郎にはそうではないらしい。
 花川戸傍、刻の金を撞く鐘楼から、浅草寺御本堂正面に出てお参りを済ませると、右手三社権現様から念仏堂を抜け、ぐるりとほぼひと廻りし雷門へ抜けようとして、みずきが、「あれが雷門ね」と指さし、雷門へ向かおうとしていた正二郎の袖を引いて左手へ曲がった。
 正二郎は、見るからに見事な雷門を潜ってみたい気でいたので、「あれ」と思ったのであるが、引かれるままに正智院から馬道へ出、仙台掘を渡って橋場へ抜けた。
 寺の立ち並ぶ狭い道を抜けると大川端へ出る。
「これが大川、墨田川ね。あの橋場の渡しから向島へ行けるわ。もう少し早いと桜がとっても綺麗なの。つい先日まで咲いていたと思っていたのに、いつの間にかもう葉桜ね」と言うみずきの説明に、「葉桜も捨てたものではないですよね、私は好きです」と、正二郎が微笑んだ。
「私もそう思います。これから夏へ向かうのねって感じさせられ、花の頃の華やかさや、芽吹きの柔らかな優しさとは違い、何処か力強い命の息吹みたいなものが満ちてゆくようで、気持ちが落ち着くの。花の頃も綺麗だけど、すぐに散って行くから、何となく寂しさが漂って落ち着かないような気がしませんか」
「それが桜の花のいいところなのかも知れませんが」
 田地の中を行くと、遠くに吉原の甍が見えた。
 田畑の中に聳えるように立つ楼閣に異質なものを感じたのか、「あそこは」と、正二郎が指差しながら尋ねた。
「よ・し・わ・ら」
 みずきが顔を少し赤らめ、消え入りそうな声で応えた。
「?」
「男の人の遊び場」
 やっと気づいた正二郎が、「済みません」と謝ると、「ううん」と、首を小さく横に振って、みずきは少し歩を速めた。
 下谷金杉町の手前で、
「お中、空きませんか」と、みずきが正二郎を見た。
「そういえばそんな時分ですよね」
「おいしいお蕎麦食べさせてくれる所がすぐそこ。お蕎麦嫌いですか」
「いえ、大好物です」
「良かった。少し狭い所だけど、小父さんもとってもいい人よ」
 小さな見世の前から、みずきが、「はるおじさぁん」と中に声を掛ける。
「おっ、誰かと思えばみずきちゃんじゃねぇか、久し振りだな、元気にしてたかい」と、五十絡みの人の好さそうな小太りの男が現れた。
「はい、元気よ。みんなも元気にしています」
「そうかい、そうかい。親分は時々寄ってくれるんだがね、大げぇは座りもしねぇで、立ったまま蕎麦掻っ込んで、はいおさらばだよ。まったく味気のねぇお人だ」
「ごめんなさいね」
「ははは、みずきちゃんに謝って貰っても仕方ねぇやなぁ」
「ふふふ、それもそうね」
 二人で肩を窄めて笑いながら、男が正二郎の方を見て、「おっいい男だねぇ、今日はいい人と一緒かい」と冷やかしてまた笑う。
「そんなんじゃありません、八宇田正二郎様。剣術修行中、とってもお強いの。お父つぁんが仙波屋さんに口利きしたんだけど、江戸は初めてなので土地勘付けなきゃぁって、今日は御案内なの」と、みずきがちょっと反発するかのように言ったが、「そうかい、土地勘なくちゃ、あさっての方へ押っ取り刀になりかなねえからな。初めまして、春吉と申しやす、お見知りおきを」と、春吉は笑って正二郎に挨拶をするのであった。
「こちらこそ、宜しくお願い致します」
「そんなにお強いんでやすか」と、春吉が嬉しそうに正二郎に訊ねた。
「いえ、そんなに強くはありません、人並みです」
「いや、腕自慢しねぇで、人並みだなんて言う人ほど強ぇえもんだ、うん」
 などと言いながら春吉は奥へ入ってゆく。
 表の縁台で待っていると、「盛り多くしといたよ」と、優しく笑いながら蕎麦を運んできた。
 口の中でモグモグと味わった正二郎が、「ンめ!」と、思わず口にした。
「?」
 みずきがきょとんとした顔で正二郎を見た。
「ははは、あまりに美味しいので、思わず故郷の言葉が……」
 まんまる目のみずきに、正二郎が照れ笑いである。
「ふふふ、美味しいでしょ。死んだ父の大事な仲間だった人なの」
「えっ、仙吉親分は……」
 絶句している正二郎を見て、みずきが黙ったままコクンと頷いた。
「母も同じ火事で一緒に焼け死んだの。仙吉お父つぁんが、私を火の中から助けてくれたらしいの。でも私、十にもなっていたのに、その時のことよく覚えていない。思い出そうとすると、体が震えて怖くなって、何も考えられなくなるの」
 みずきの顔が曇った。
「ごめん、嫌なこと思い出させて」
「ううん、いいの。火事があったり、その頃住んでた田原町を通ったりすると、身体の中から何だか分からない熱いものが込み上げてきて怖くなって来るの。さっき、観音様で雷門へ行かずに左へ曲がったでしょ。あの先は田原町だから……」
「そうでしたか。忘れなさい。嫌な事は皆忘れるといい」
「……」
「……」
 みずきの目を見、その心の奥の哀しい傷を垣間見たような気がした正二郎の胸に、何故か、鮮やかに故郷の山河が蘇って来た。
 雪解けの始まり、そこここに芽吹きの緑が広がりゆく、あの柔らかな早春の山河であった。正二郎にとっては、帰りたくても、もう二度と帰る事の出来ないであろう憧憬の山河であった。
 その時みずきも、正二郎の目に宿った哀しみのようなものを垣間見たような気がしたが、黙っていた。
 人は皆、他人には言えぬ哀しみや寂しさを隠し持っているのだ。自分だって、正二郎だって、今、目の前を往き交う人々だって……。
 でも、自分の哀しみの訳をみずきは知らない。知りたいと思うと体が震え、恐怖のようなものに包まれ、思考さえ止まってしまう。仙吉やお喜多は、思い出させないように気遣ってくれている。今では、父であり母であると、心の底から感じてはいるのであるが……。
 異質ではあろうが、正二郎の心の底に潜む哀しみの匂いを嗅いだこの時から、みずきの恋は始まっていたのかも知れなかった。
「小父さん御馳走様でした。また来るわね」
「御馳走様。久しぶりに美味しい蕎麦を戴きました、故郷を思い出してしまいました」
「そりゃぁ良かった。こんなもんで宜しかったら、何時でもお出で下さいやし」
 蕎麦代を払おうとする正二郎を制し、「みずきちゃんからは金は取れねぇ。御一人の時だって、遠慮無くお出で下せぇやし。銭の事なんざぁお気に掛けずにね」と、春吉に笑って送り出される。
 くねくねとお寺の間を縫うように抜け武家屋敷の中を行くと神田川に当たる。新し橋を渡った所で、
「この先に稽古場があるわ。うーんと、そうだ、玄武館とかいうんじゃなかったかしら」と、みずきが思い出したように言った。
「北辰一刀流、千葉道場のことですね」
「あっ、そうそう、千葉道場よ。知ってるんだ」
「ははは、千葉周作を知らない武芸者はいませんよ」と、正次郎が笑う。
「そうなんだ。話に聞く事はあるけれど、私には無縁だものね」
「それはそうだ。ははははは」
「見て行く?」
「いえ、今日は止しておきます」
「負けるのが怖いのであるか」
 みずきが役者のように声音を変え、戯けて言った。
「いや、そうではござらぬ。今日は楽しくて、剣を握る心の準備が出来ておりませぬ」と、正二郎もお戯けて応える。
「そんなものでござるか」
「生きるか死ぬか。勝負とは、木刀であろうとも命がけなのです」
 みずきの戯れに思わず乗せられてしまった正二郎であったが、最後は少し反発するような口調になってしまった。
「ふーん、心の準備かぁ」
 みずきの顔から戯けた表情が消え、真剣な目で正二郎を見た。
「いつか立ち合ってみたいとは思っていますが、私なんかでは門前払いでしょうね」
「そんなものなんですか」
「大概はそうですね」
「では、今日は剣を忘れて、のんびりと」
「お願い致します、みずき殿」
「お任せあれ」
 春吉の店の縁に並んで蕎麦を食べた頃から、二人の間の垣根が低くなってきているのが会話の端々に感じられた。二人とも、それを気持ちよく受け止め楽しんでいた。
 柳原を神田川に沿って大川の方へ下り、両国広小路に出る。
 柳原の土手を歩きながら、「ここいらは古着屋さんが多いの、いつも人通りが絶えないところ。見世物小屋や芝居小屋が立つと、もっとうんと賑やかになるんですよ。胡散臭い小屋もありますけどね」
「胡散臭いのですか」
「はい、ろくろッ首とか、大蛇とか。大概、分かりきった偽物か駄洒落」
「ダジャレ?」
「ふふふ、ろくろッ首は提灯の蛇腹。大きな板に赤い血のような色水を流して、大鼬なんてのも在るみたい。江戸の人は、そういうのに騙されて喜んでいるの、それも江戸っ子の粋だって」
「大きな板に血で大鼬、それでなのですか」
「ふふふ、馬鹿みたいでしょ、でも良く出来たものもあるのよ。本物ではないと一目で分るんだけど、なんか凄い迫力があったりして、本物より怖いんじゃないかって。でも、そういう小屋は、大概鐚銭で入れるでしょ、だから笑い話で済んじゃうみたいね」
「ははは、どうせ偽物とは分かっていても、怖いもの見たさみたいなものについつい乗せられてしまうんだよね、分る、分る」
 大川に突き当り、両国橋の上に立つ。
「夏になると、川開きの日に花火が打ち上げられるの、それは見事なものよ。でも、ものすごい人出よ、足が宙に浮いて歩けないのよ」
「宙に浮いて歩けないのですか」
「そう、人の流れに押し流されるだけ。小さい子や女の人なんか花火どころじゃないんだから、それはもう大変なんだから」
「あまり近づきたくはないですね」
「人込みは嫌いなんですか」
「はい。苦手ですね、頭痛がしてきます」
「じゃぁ花火は無理ね。どこか離れた所から見なくちゃ駄目ね」
「好い所がありますか」
「みんな、屋根の上に登って見てるわ」
「屋根の上ですか」
「一番良い席ね。お金も要らないもの」
「そうか、酒と肴を持って、屋根の上で見ればいいのか」
「落ちるわよ、屋根の上でお酒なんか飲むと」
「ははははは、みずきさんと綱で振り分けにして、屋根のあっちとこっち」
「それはいい思い付きかも知れないけど、私はお断りね」
「駄目ですか」
「だって酔っ払いと一緒でしょ、必ず落ちるわ。お父つぁんとおやりください」
「仙吉親分とかぁ、味気ないけど、そう致しますか。ははは」
 両国橋を渡りきり、回向院に立ち寄り、少し戻って大川沿いに出る。回向院の前でみずきが長い間手を合わせていた。
「江戸の大火で亡くなった人たちを供養して戴いている寺の一つなの」
「そうなのですか」
 正二郎も、しばし手を合わせた。
「あれが江戸の御用米を取り扱う浅草御蔵。前一帯を蔵前って呼んでるわ」
 対岸の堤を歩きながら御用蔵見物である。
「昨日迷って、あの前を通りました。さすがに大きな蔵ですね、それに通りも広い」
 川向うの御蔵辺りの大川には、米俵を積み込んだりした大小の川舟が行き来し、大層な賑やかさであった。
「おっ、東橋だ」
「分かった?」
「いくら私でも、東橋は昨日教えられたばかり、それも、お見世の目の前ですよ、すぐに分かります」
 正二郎は、みずきに不服そうに口を尖らせて見せた。
「ふふふ」と、みずきが嬉しそうに笑った。
「今帰りました」
「丁度良かった、今終わったところ」と、お喜多が額の汗を拭うかのようにしながら言った。
「あっ、ごめんなさい、ちょっとゆっくりし過ぎちゃったかしら」
「いいのよ、今日は身内の分だけで、大した物は拵えてないから」
「だって、みんな見えるんでしょ」
「ああ、国松も、太吉も来るよ」
「ごめんなさい」
 一緒に用意をするつもりであったのだろう、みずきがまた謝っている。
「まだ言ってるよ。それより楽しかったかい」
「はい、お蕎麦も久しぶりに戴いたの」
「春小父さんところへ寄ったのかい。喜んだだろ」
「はい」
「元気にしてた」
「とっても」
「それは良かったねぇ」
「とても美味しい蕎麦でした」
「そりゃぁもう、元はちゃんとした料亭の板前だったんだもの、こと出汁にかけては江戸一番だろうねぇ」
「そうなのですか。久しぶりに故郷の事を思い出しました。故郷では蕎麦掻きや、法度だったりが多いですけど」
「はっとって何?」
「蕎麦で作ったお餅かな、味噌塗ったり黄な粉を塗したりして食べるんですよ」
「食べたこと無いけど、何だかおいしそうですね」 
「いいねぇ、蕎麦掻きもいいもんだよね、わたしゃ大好きだよ」
「今度作ってあげるわ、おっかさんと三人分」
「三人だけかよ、俺も食いてぇな」
「俺も」
「俺も」
 いつの間にか、仙吉が国松と太吉を連れ後ろに立っていた。
「今日はお相伴、御馳になりやす」
 国松がそう言って、太吉と二人、正二郎に頭を下げた。
「えっ」
「今日は、みんなで八宇田様の歓迎と御祝いだよ」
「祝は一昨日……」
「あれはあれ、今日は今日。みんなで揃って飲めるなんて滅多にございやせんし、こいつらも一緒に飲みてぇって申しやすんで」
「ありがとうございます」
 正二郎は黙ってみんなに頭を下げた。
「フフフ、本当に泣き虫なのね、八宇田様は」
 五年ばかりとはいえ、苦しかった修行の長旅、その果てに出遭うことのできた人の温かさに、正二郎はまた涙を堪えきれない。
 みずきが正二郎の涙の浮かんだ目を見て笑った。その言い方が、優しかった。

    浅草路地裏人情草紙 (一の壱)終わり
             (一の弐)へ続く

 
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