浅草路地裏人情草紙(二)

文字数 18,861文字

                              NOZARASI 2-3
 浅草裏町人情草紙(二)
    みずき 其の弐 勾引し

 翌年、江戸の町に再び春の気配が濃くなり始めた針供養の日であった。
「行って来ます」と、使い古しの針を持って浅草寺境内の淡島神社に出掛けたみずきが、いつまで経っても戻って来なかった。
「今帰ぇったぞ」と、夕刻前仙吉が戻ってきた。
「お前さん、みずきが遅いんだよ。昼過ぎに出掛けたまま、まだ戻ってこないんだよ」
「針供養に行ったんだろ。淡島神社は目と鼻の先、ものの半時も要らねぇじゃねぇか。誰か探しに行ったのか」
「国松がさっき顔を出してくれたんで、頼んだんだけど」
「よしっ、俺も行って来らぁ」
「こんばんは」
 仙吉が腰を上げようとしたその時、暖簾を分けて正二郎が現れた。
 少し暗い表情をした二人に、すぐに気付いて、「何かあったのですか」と正二郎が訊いた。
「みずきが針供養に出掛けたまま戻ってこないんだよ」
 お喜多の曇った顔の額に皺が寄せられた。
「淡島神社でしたよね。去年みずきさんに案内してもらった時に、毎年如月の供養の日には、針を持ってお参りに来るのだと……」
「昼過ぎに出掛けたまま、まだだそうなんで」
 気はもうここにないといった感じの仙吉に、「探しに行かれるのですね、私も行きます」と、正二郎も浮き足立つかのような不安に駆られて申し出る。
「一人でも多い方が心強ぇや、お願ぇ致しやす」と小さく頭を垂れた仙吉は、気ぜわしく、もう暖簾を割って表へ出ようとしていた。
 広い浅草寺の境内を隈なく探し、仙吉は浅草寺界隈の出見世や、顔見知りの人々に、みずきを見かけなかったかと尋ね歩いた。
 国松が探していたという事以外は、何も掴めなかった。
 店に戻ると、直ぐ、「親分、様子が変ですぜ」と、国松が飛び込んできた。
「どうしたっ」
「雷門の方へ、肩を押されるように急かされながら、四十絡みの職人風の男と歩いてゆくみずきちゃんを見かけたって聞き込んだんで、その先を辿って見やしたら、田原町から下谷の方へ、それらしき男とみずきちゃんが行くのを見かけたと言う者が何人かいやした」
「雷門から田原町ですか、それは変ですね」
「何が変なのですか」
 正二郎の言葉に、国松が小首を傾げながら訊ねた。
「ほら、初めてみずきさんに案内してもらった時、雷門や田原町の方へは行きたくないと言ってましたから」
「そうでやすか。心のどこかに、あの火事の事が引っ掛かっているんでやしょうね」
「そのようでした」
「その四十絡みの男に、誰も心当たりは無かったのか」
「へい、ここら辺りでは見かけない顔だと言ってやしたが。田原町から先が、皆目辿れねぇんで」
「あの辺りから先は寺社地ばかりで、人通りも少ないからねぇ」
 お喜多の顔が曇りを増す。
「寺社地には無闇と入れねぇしなぁ、あれ寺も今のところは無いよな」
「坊さんが片棒なんてことは無ぇだろうしなぁ、その先も、田畑ばかりで人の通りはほとんどありやせんで」
「勾引しか、畜生!」
 仙吉が呟く。
「何の狙いで、みずきが勾引されなきゃいけないの」
 仙吉の呟きに、お喜多の顔が更に曇って行く。
「分からねぇ」
「親分への恨みでもあるんですかねぇ」
 国松が、思い当ることは無いのかという風に仙吉を見て言った。
「岡っ引きだ、無ぇとは言い切れねぇが……」
「思い当たらないのですね」
 正二郎が念を押す。
「へい、みずきを勾引してまでとなると……」
「だとすると……」
 正二郎の心に陰が差す。
 敏感にその場の空気を察して、「いやだよ、お前さん」と、お喜多が暗い顔をもっと暗くして、縋るように言った。
「ちょっと出掛けてくる」
「何処へ行くんだい」
「界隈の親分に頼んで来る」
「頼むよ、お前さん」
「ああ」
 もう日はとっぷりと暮れ、外はすっかり暗闇に包まれていた。
「おいっ、明日は明けたらすぐに田原町から先を探すぞ、それから、暖簾はしまっとけよ。だが灯りは消すんじゃねぇぞ」
 そう言い残し、仙吉は国松を従え、足早に暗がりの中へ消えていった。
 正二郎も、お喜多も、言葉を交わす事もなく不安げな顔をして、ただじっと腰かけていた。何人か顔を見せた客も、お喜多の不安げな顔に事情を聴くと、一言二言慰めの言葉を掛けて、帰って行った。
「本当に勾引しかねぇ。銭金でよけりゃ、どんなことしたって金集めてくるんだけどねぇ。それに、御番所から御預かりしてる、みずきの親たちの金もあるし……」
 お喜多が正二郎に話しかけるという風でも無く、ぼんやりとした顔で呟いている。
「こうして待ってても落ち着かないし、夜の方が分ることもあるかもしれません、これから田原町から先辺りを探してみます」
「悪いねぇ」
 お喜多の声に元気がない。
「しっかりしてくださいよ、お喜多さん、留守番宜しくお願いしますよ」
「ああ」
「しっ」
 お喜多が正気に返ったように目を見開いき、口に指を当てた正二郎の真剣な目を見た。
 その直後、開け放たれたままの入口に、何かが飛んだ。
「待てっ!」
 正二郎が闇に向かって走り出した。だが、逃げ足の速い奴だ、二つ目の角を曲がった辺りで気配は消えた。
 すぐに戻ってきた正二郎に、お喜多が震える手で書付のようなものを差し出した。
「卑怯な!」
 みずきを勾引した連中からのものであった。
“明日もう一度繋ぎを付ける。そこで待っていろ”
 たったそれだけであった。
 みずきのことは分っているだろ、と言わんばかりに、何も触れられてはいなかった。それに、今夜では無く、明日だという、急がないということは金が目当てではないのだ、恐らく遺恨を抱いた者達の仕業に違いはないだろう。人の心を不安に陥れ、その時間の長さだけ苦しみ続けるであろう事をあらかじめ計算に入れ、それを楽しんでいるような陰湿な悪意が秘めれているのだと正二郎は感じていた。
 お喜多にはとても言えることではなかったが、正二郎にはそれが却って不気味であった。
「畜生!これじゃ何も出来やしねぇ」
 太吉も連れて戻ってきた仙吉が、雲を掴むようなその文に、唇を噛みしめた。
「今夜はどうせ眠れやしない、みんな腹拵えしとくれ。明日に備えて食べておいた方が……」
 お喜多の声が、そこまで言って、詰まって途切れた。
「心配ぇするな、無事だよ、みずきは」
「そうですよ、恨みがあるとすれば親分です。みずきさんは大事な人質、滅多なことでは手は出しません、安心して下さい」
 正二郎がお喜多に掛けた慰めの言葉のすぐ後で、「畜生っ!」と国松が腹から絞り出すような声で悔しそうに呻いた。

 翌日、日暮れ前の頃、昨日からの待ち惚けに、ジリジリとした焦りを募らされていく皆の前に、使いを頼まれたらしい男の子がやって来た。いつも浅草寺や広小路辺りで遊んでいる安坊という子であった。
「おじさん、仙吉親分だよね?」
「ああ、そうだよ、安坊だったよな」
「うん、これ」
 子供の差し出した手に、小さく折られた紙切れが握られていた。
「来たか。安坊、ありがとうな」
 お喜多がその子に小銭を渡しながら、「どんな人だったかい、これを持って行けと頼んだ人は」と訊く。
「大きなおじちゃん」
「お侍かい。見たことある人かい」
「ううん、お侍じゃないよ、見た事無い人。おじさんと同じような着物着ていたよ」
 国松を見て子供が言った。
 国松は紺地の格子柄の着物を着ていた。
「今夜五つ、親分と私だけで下谷正覚寺の石灯籠に来い。見張りなんぞ付けるとどうなるか分っているなとあるだけです」
「八宇田様と二人だけ?」
「私もという事は、ましらの要造の一味ですね」
「捕り逃がした見張り……」
「そうですね、でもそいつ一人の企みではないでしょう」
「畜生っ!」
 皆、臍を噛むような思いと怒りは一緒であった。
「親分、俺達も行く」
 国松が切なそうな顔で仙吉に言った。
「来るな、みずきの命が掛かっているんだ、下手に動く訳にはいかねぇんだよ」
「畜生っ!」
 国松が、悔しさを堪えきれず、目の前の柱を叩いた。
「国、太吉。お前達は帰ぇれ」
「そんな、親分」
「今すぐ帰ぇる振りをして、木戸の方から田んぼの中を行き、立花様の御屋敷の辻に回り込んで隠れていろ。助けの要る時は、あの真っ直ぐの道から提灯を大きく振って合図を送るから、そしたら走って来い、いいな」
「へい、承知致しやした」
「見張られているかも知れねぇ、用心しろ」
「へい」
 国松達が出て行った後、微妙な沈黙が三人を包んだ。
「どう致しやすか」
 仙吉が、思案し倦ねるように正二郎を見て訊いた。
「どうもこうも、相手の動きに合わせるしかありませんね」
「そうでございやすよね」
「でも、ひとつだけ、これだけはお願い致しますよ、親分」
 そう念を押しながら、正二郎は仙吉に、「私が何とかして切り開きます、親分はみずきさんを守ることだけをお願い致します。では、腹拵えでも致しますか」と、念を押したその口で、飯を食おうと言う。
「解りやした。ですが、あっしは食いもんなんて、とてもじゃねぇが喉を通らねぇ」
 仙吉が、苦しげに首を横に振る。
「すんなりといけばよいのですが、長引きでもしたら空っ腹の力では戦えませんよ、親分」
「そうだよお前さん、何か食べといとくれな、いざというときのためだよ」
 お喜多が、そう言って仙吉に食べておくよう促した。
「そうだな、そうするか」
 仙吉が、重いものでも持ち上げるかのように盆の上の握り飯を取った。

 五ッの鐘の鳴る少し前頃に、仙吉と正二郎は正覚寺へ向かった。
 少し大きな武家屋敷へ差しかかった時、「国たちはここいらに隠れている筈でやすよ」と、仙吉が小声で言った。
「これが立花様のお屋敷ですか」
「へい、この真っ直ぐの道の先が正覚寺でやす」
「来る奴を見張るには絶好の場所ですねぇ、しっかりと下見し計画されてますよね、恐らく手練れも何人かは雇っているでしょう」
 正覚寺の境内に入ると、幾つかの石灯籠が並んでいた。
「誰もいねぇじゃねぇか」
「親分、あれ」
 仙吉の持つ提灯の明かりに照らし出された石灯籠の一つに荒縄が結ばれていた。その荒縄の縒りに、小さな紙切れが挟んであり、そよ風に時折ひらひらと舞っていた。
「これですかね」
 正二郎が荒縄の縒りを戻し紙切れを手にとって開き、提灯の明りに翳した。
「五行松の橋を渡れと書いてありますが」
「畜生、用心深ぇ奴等だ。これで国達は役に立たねぇ」
「かえって好都合じゃありませんか」
「好都合?」
「危ない目に合わせなくて済みますよ」
「そうでやすね。八宇田様にそう言って戴けると、ははは、心強いや」
 はははと笑う仙吉の声に元気がない。
「この先は、あの蕎麦屋さんですよね」
「春小父の。あっ、奴等、春小父を出汁にみずきを誘い出しやがったな。そうでなきゃぁ、みずきが知らねぇ男なんぞに付いて行く訳がねぇ」
「そんな細かいところまで下調べして、かなり周到に仕組んだと見えますね。やはり一筋縄では行きそうもありませんね、心して掛かりましょう、親分」
「へい」
 根岸の不動尊前、五行松の橋を渡ると、田畑の中に百姓家が点在する辺りに出る。
 提灯に照らし出された行く手の暗がりに、男がひとり屈み込んでいた。提灯の明かりでは少し分かりづらいような格子柄の着物を着ているところを見ると、子供に使いを頼んだのはこの男らしい。
「こちらで」
 男はそれだけ言うと、「みずきは?」と訊く仙吉の問いには一言も応えず、黙って歩きだした。
 百姓家から大分離れた田んぼ脇の粗末な小屋の羽目板から蝋燭の明かりが洩れていた。男はその前で立ち止まり、板を打ち付けただけのような戸を軽く叩いて中の者に合図を送ると、「中へ入れ」という風に顎を刳った。
 二人が中へ入ると、待ち構えていた一人の男が戸を閉め、この企みの為に拵えたのであろう閂を二つ、ガタガタと差し込んだ。
 バタバタと足を踏み鳴らすような音と呻き声のようなものが聞こえ、意外に広い奥を見やると、みずきが縛られた上に猿轡まで噛まされ、壁際の莚の上に座らされていた。その傍に二人の男がみずきを挟むようにでんと構えてこちらを睨んでいる。その他に、頭目なのであろうか、目つきの鋭い男が胡坐をかいて座り、二人の浪人が、その脇を固めるようにし、みずきとの間に更に三人の手下が、それぞれに匕首を握りしめていた。浪人たちも片膝を立て、いつでも行くぞといった風に、刀に手を掛けている。
 怯えたみずきの目が助けを求めている。
「みずき!」
 仙吉が、思わずみずきの名を呼んだ。
 みずきが何か言いたそうに、「うー、うー」と踠いた。
「大丈夫でしたか」
 正二郎が片手を挙げ、にっこりとみずきに微笑みかける。
 その途端、みずきの顔が安堵したかのように急に穏やかになっていった。
「残念だったな、子分達は置いてけ掘りで」
「ははは、お気づきでしたか」
 正二郎が事も無げに笑った。
「この野郎、馬鹿にしてやがるのか!」
 男達の一人が息巻いた。
「何が狙いだ」
 仙吉が男達に向かって声を荒げた。
「まだお分りじゃないんですか、それでまぁ、よく岡っ引きが務まりますねぇ。兄貴と子分達の仇討ちですよ」
 頭目と思しき男が口を開いた。
「ましらの要造の身内か」と、仙吉が呻く。
「そう、ましらの要造の、か、た、き、討ち」
 やはり、あの時の盗賊の片割れであった。
「ましらの要造はね、私の兄、それもこの世で一人っきりの血を分けた肉親でさぁ。お蔭さまで、私は天涯孤独の身にされちまったってわけ。それに獄門や島送りにされた子分達の仇討もですよ。仙吉親分、八宇田様」
 妙に口振りが穏やかである。
「逆怨みもいいところですね」
 対する正二郎もまた、悠然としたものである。
「うるせぇやい、てめぇらにとっちゃぁ逆怨みでも、こちとらには立派な仇討ちなんだよ」
 頭目の脇に居た若い男が大声を張り上げた。
「みずきさんは返して下さい。仰せの通りに、二人だけでここまで来たのですから」
「てめぇらを切り刻んだ後で返してやらぁ、どこかの街道の女郎屋にでもな。滅多にゃぁ拝めねぇ上物だ、生娘のようだしな、高く売れるぜ」
 若い男のとんでもない言葉に、みずきが男達の後ろで目を剥いて、首を小さく激しく横に振っている。
「この野郎、何てことを……」
 今にも掴み掛からんばかりの仙吉が、唇を噛みしめ呻いている。
「みずきさん、心配はいりませんよ、そんなことは絶対にさせませんから」
 目を剥いたみずきの恐怖の表情が、正二郎の一言で、また穏やかになってゆく。
「先生方、お願い致します」
 馬鹿に落ち着いた感じでニヤリと笑い、その陰湿さを露わにし、頭目が浪人たちを促した。
「心得た」
 このために雇われたらしい二人の浪人が、前へ出て刀を抜いた。
「親分」
「へい」
 正二郎の言葉に、十手を構えた仙吉が分かりやしたという風に正二郎の目を見据え応えた。
 浪人は二人ともかなりの使い手のようであった。恐らく、あの仙波屋での正次郎の噂を聞き込み、それなりの者を探し出したに違いない。
 二人で息を合わせジリジリと正二郎を板壁に追い詰めてゆく。
 仙吉は、正二郎の背後に邪魔にならぬよう間を取り、いつでも飛び出せるよう腰を低く落としながら十手を構えていた。
 刀を抜いて峯を返しては見たものの、広いといっても派手な立ち回りをするには小屋は狭く、梁も低い。これでは思うように刀を捌けない。二人与して掛かられたのでは危ういかなと、正二郎は内心焦りを覚えていた。かといって、峯を戻すことはしたくなかった。
 仙吉も、後ろを他の者達に囲まれ、万事窮すと言った按配である。
 先ず何とか外へ出ることだと思ったのか、正二郎が入口へ向かう動きを見せた。
 浪人の一人がそれを察して入口を塞ぎに動いた。
 正二郎の揺動策に掛かったのだ。
「キェーッ」
 何処からそんな声が出るのだと思うような奇声を挙げて、正二郎が入り口を塞ぎに動いた浪人ではなく、もう一人の浪人に襲いかかった。
 一瞬怯んだ浪人の刀を激しく弾くと、横っ跳びに、みずきを取り囲む男達の一人を叩き伏せた。
「うわーっ」
 正次郎の峯撃ちに、骨でも砕けたのだろうか、その痛みに悲鳴を挙げて転がる男の姿に、みずきを囲んだ男たちが怯んで乱れた。その間隙を突き、仙吉が跳び込むように走るのと、正二郎が頭目に襲いかかるのと、全く同時であった。
 正二郎の一撃を、頭目が辛うじて躱した。
 切っ先が掠めて、頭目の頬から一筋の血が伝い落ちてゆく。
 頭目が、手の甲でそれを拭って、「聞いたほどでもないな。今の一刀で俺を斬れぬとはな」と、不敵な笑いを浮かべた。
「……」
 正二郎が、仙吉の動きを助けようとし、峰を返した切っ先を、わざと掠めさせ脅した事に頭目は気づいていない。
 正二郎の後で仙吉がみずきを助け起こし、縄を解いてやっている。
 縄を解かれ、猿轡を外されたみずきが、助けるように手を差し延べた仙吉の手の下をスルリと擦り抜け正二郎の背中に縋った。
 呆気に取られたのは仙吉ばかりではなく、正二郎も同じであった。
「親分、行きますよ」
 正二郎が苦笑いのような笑みを見せ、気を取り直してくださいというかのように仙吉に声を掛けた。
「承知!」
 仙吉も気を引き締め直すかのようなしっかりとした声で応じた。
 ジリジリと入口へ向かう。
 そうはさせじとする男達だが、先程の正二郎の動きとその気迫に気圧され、踏み込んで行くのを躊躇っている。が、中々思うように外へは出れそうもなかった。
 その時、遠くから走り来る何人かの足音がし、入口の方から、「親分、無事ですかい!」と、国松と太吉の叫ぶような声が聞こえた。
 取り囲む男達が一瞬怯んだ。
 すかさず正二郎が一歩踏み込んで、入口を塞ぐ男の一人を叩き伏せた。
 仙吉が素早く閂を外すと、板戸を蹴飛ばし、三人は外へ飛び出す。それを追って男達も外へ雪崩れ出てきた。
 農作業に使うのであろう、広く奇麗に平された小屋の前に国松達数人の男がいた。
「親分っ!」
「おうっ、国、太吉。よくここが分かったな」
「日暮里の辰親分が」
 そう言おうとする国松の目線の先の男に、「おうっ、日暮里の」と、仙吉が親しく声を掛けた。
「でぇ丈夫か、花川戸の」
「おうっ、ありがとうよ」
「日暮里の親分ですかお初にお目にかかります、八宇田です、お話は後で」
 正次郎、暢気に日暮里の親分に挨拶なんぞをしている。挨拶をされた当の親分は、こんな時にと呆れ顔で、一瞬ぽかんとしていた。
「国松さん、太吉さん、みずきちゃんを頼みますよ」
「合点!」
 国松と太吉がみずきを正二郎から引き離そうとしたが、みずきはしっかりと正二郎の着物を掴み、背中に縋りつき離れようとしない。
 正二郎が、軽く後ろを振り向いてみずきに離れるよう声を掛けようとした、その時であった。
 浪人の一人が、この機だとばかりに上段から斬り込んできた。
 着物を必死に掴む背中のみずきが正二郎の動きに障った。
 みずきを庇うのが精一杯であった。
 正二郎の左の肩口から血飛沫が飛んだ。
 その血飛沫が、みずきの顔に飛ぶ。
「いやーっ!」
 断末魔の様な叫びを挙げ、みずきが気を失った。
 一瞬たじろいだ国松と太吉だったが、正二郎に促され、すぐに気を失ったみずきを運んでゆく。
「でぇ丈夫でやすか」
「ちょっと痛いですねぇ。でも刀は握れるようですから、大した事はありません。それより、みなさんを下がらせて下さい。こうなったら暴れまくりますから」
「暴れまくるんでやすか」
「はい」
 目付きの据わった正二郎に、仙吉は身体中を走り抜ける戦慄を覚え、鳥肌がゾワゾワと立ち全身に広がってゆくのを感じた。
 正二郎が男達に正対したまま手を後ろへ振りながらみんなを下がらせる。
 腰を低く落とし、右八相に構えた正二郎の気魄は、火焔を背にした不動明王の如き凄まじさを感じさせた。
 この男の何処にそんなものが隠されているのか、普段のおっとりとした頼りなさからは誰も想像できるものではなかった。
 半円に正二郎を囲む男達も、その気魄に気圧されているのか、明らかに怖れを抱いている。
「行くぞっ」
 正二郎が、身体の奥底から絞り出すような声でそう言い放ち、半歩前に踏み出すと、取り囲む半円が怯んで崩れた。
「とりゃーっ!」
 緊張の闇を正二郎の白刃が斬る。
 ひとり、またひとり。正二郎が奇声を発し身を翻し白刃を光らせる度に、男達が呻き声を発し倒れてゆく。
「凄ぇ、後二人ですぜ」
 国松が、誰に言うでもなく驚きの言葉を口にした。それは、その光景を見ている者皆同じであったろう。
「全く、背筋がぞくぞくしてくるぜ」と、太吉が両の手を前に抱え込み肩を震わせた。
 残ったのは、手下たちの後ろにいた頭目と、それを守るように立つ浪人一人だけになっていた。
 頭目が出ようとするのを、その浪人が遮って前に出た。
「頭、こいつはちと高くつくぞ」
「分かってまさぁ、お願ぇ致しますよ」
 正二郎の顔から先程の凄まじい気魄が消え、いつもの穏やかな表情で構えを上段にゆっくりと振り被り直してゆく。
 浪人も同じく上段に静かに構え、二人の動きが止まった。
 動けないのか、動かないのか、互いの力を見極めようとしているのか。ジリジリとした時が闇の中に流れてゆく。
 異様な殺気が男の全身から感じられ、この男が数多の修羅場を潜り抜けてきたであろうことが察せられた。その殺気は悪意に満ち、恐らく人を斬り殺すことに何の躊躇いも感じることはないであろうことも推察できた。
 正二郎は、ふと自分の中に、あの時のようにまた殺気が生まれようとしている事に気付いた。こんな恐ろしい男を生かしておけば、いずれまた人が斬られて死ぬ。それを断ち切ってしまえるのなら、殺してしまったほうがよいのではないのだろうかと、そう思えたのだった。
 正二郎は辛うじてその感情を抑えた。自分は神でも仏でもない、この男と同じ人間なのだ、人を裁くことなど自分に出来ようはずもない。まして命を奪うなんぞという事は……。
 正二郎の身体が前後に揺れ、上段に構えた刀もその動きに連れ、ゆっくりと同じような動きを見せ、
スーッと、滑るように正二郎の体が前に送られていった。
 二つの光が上段から交差した。鋭い鋼のぶつかり合う音と火花が、まるでこの世の終わりのように闇を引き裂き、そして吸い込まれていった。
 すばやく身を引いた二人が、また前に出ると、互いに振り被り直し上段へと構えを移す。僅かに早く斬り下ろされた浪人の刀を、正二郎の一撃が追った。追った刀が、浪人の刀を上から押え込み、鋭い鋼と鋼の滑る音がした。巻きつくように捻られた正二郎の刀に、その刀を跳ね上げられた浪人の脇ががら空きになる。
 捻り上げた刀を返しざまに、浪人の左脇腹をしこたま打ち据えた。
「グッ」と呻いた浪人が膝を折り、うつ伏せに崩れ落ちて行った。
 ひとりになって、最早これまでと覚悟を決めたのか、それとも戦い終えたばかりの正二郎に隙を見つけたのか、頭目が長匕首を腹に抱え込むようにし、右横の方から正二郎に向かって突っ込んで来た。
 正二郎が、横向きになっていた体を跳んで捻りながら、振り払うように横様に刀を一閃した。
 鈍い音がした。右の二の腕が峯で撃たれ、骨が砕けたのであろうか、右手がダラリと下がり、苦痛の表情を浮かべる頭目の手から長匕首が転がり落ちた。
 一瞬の静寂が辺りを制し、次の瞬間、湧き上がるような声がして、国松達が飛び掛かっていった。
 さすがに手際よく、男達を三寸縄に縛り上げてゆく。
「でぇ丈夫でやすか」
 仙吉が正二郎の肩口の傷を心配する。
「大丈夫。もう血も止まってきたみたいですし」
 斬られた袖を引き千切ると傷口に充てる。
「あっしが縛りやしょう」
 仙吉に縛ってもらいながら、「ありがとうございます。みずきさんは?」と気遣う。
「まだ気を失ってやすよ」
 仙吉がホッとしたように小さく笑って、畑の畔の草叢に横たわるみずきを見た。
 みずきを負ぶおうとした仙吉が、「八宇田様、お願ぇ出来やすか」と、複雑な顔で正二郎を振り仰いだ。
「……」
 何か言おうとした正二郎であったが、黙って仙吉に頷き返した。
 温かいみずきの体温が背中から伝わってくる。小さな寝息が耳のすぐ傍から聞こえて、正二郎は、なぜか心が穏やかに静まってゆくのを覚えていた。
「あっしらは、こいつらを御番所の方へ突き出して参りやす。八宇田様、みずきを内までお頼み致しやす」
「心得ました」

 みんなと別れ、金杉町を抜ける。中天に昇った満月に近い月明かりが、辺りを煌と照らし出す静寂の中を行く。
 かなり歩いたか、あの立ち回りで少し疲れたか、背中のみずきが次第に重く感じられ始めてきた。
 起こさぬように、そっと負ぶい直す。
 みずきが背中で少しむずかり、また静かになった。
 ホッと胸を撫でおろした時、入れ替わりに正二郎の胸の中に、故知れぬ感情が湧き上がってきた。
 その不可思議なものが齎すのであろうか、胸に広がりゆく熱い痛みに、正二郎は戸惑っていた。
 もう一度みずきを負ぶい直した時、正二郎はみずきを愛しいと感じる自分に気付いていた。
 みずきを背負って歩きながら、正二郎は泣いていた。
 涙の故は分らなかった。
 歩みゆくほどにみずきへの愛しさが込み上げ、涙が溢れて止まらない。
 やっと田原町に出た。花川戸まではもう一息である。
 背中のみずきがまたむずかるように動いた。
 気がついたらしい。
 正二郎は涙のまま黙って歩いた。
「また泣いているのね正二郎様」
 正二郎は小さくこっくりと頷いた。
 その時、「あっ」と、みずきが小さく声を挙げて身体を固くした。
 背中のみずきがブルブルと小刻みに震えだし、身を小さくしようとしているのか、負ぶい辛くなってしまった。
 そうか、ここは田原町だ、正二郎がそれに気付き、負ぶい直そうと一度下ろしてみずきに向き合った時、肩口から袖口へべっとりと滲んだ刀傷の血糊が、みずきの目に触れた。
 尻餅をついたような恰好のまま、正二郎を怖れるかのように、みずきが後退ってゆく。
 正二郎が戸惑ってみずきの目を見た。
 明らかに何かに怯えている。
 正二郎が腕を差し出し身体を寄せようとしたその時、
「来ないでっ!来ないでっ!」とみずきが、悲鳴に近い叫び声を挙げた。
「!」
 明らかにみずきの心の中で何かが起こっている。
 正二郎は、ここ田原町から早く離れた方がいいのではと思い、強引に負ぶおうとしてみずきの方に踏み込むように身体を寄せた。
「いやっ、来ないでっ!」
 みずきの体が正二郎を拒むかのように硬直し、また気を失った。
 茫然と立ち尽くす正二郎。
 この血のせいかと、肩口から胸にかけてべっとりと滲んだ血糊に目をやった。
 この血に怯えたのか……。
「八宇田様っ!」
 背後からお喜多の声がした。独りで店で待つには堪えきれなかったのだ、見通しのいいこの通りまで様子を見に来たのであった。
「お喜多さん……」
「みずき、無事だったんだね」
 そう言うなりお喜多がみずきを抱き締めた。抱き締めながら、おんおんと声を上げ泣いていた。
 正二郎は気を失ったみずきを再び負ぶうと、黙ったまま雷門の方へ向かって歩き出した。

 布団の中に眠るみずきの前で、お喜多に事の顛末を話す。
「そうでしたか、やはりあの時の盗賊の……。でもみんな無事で良かった。あっ、八宇田様、薬を塗らなくっちゃ」
「大丈夫ですよ、これしきの傷。夜が明けたら唯之助先生のところへ行って来ますから」
「いえ、万が一ってこともございますから、傷薬を塗っておいた方が」
「そうですね、お願い致します」
「そのお着物は、もう駄目ですよね。そこにある内の人のを着て下さいな」
 壁の衣紋掛に、仙吉の物らしい上着が掛けられていた。
「はい」
 お喜多が、隣の間から下着も持って来てくれた。
「ちょっと傷口を洗ってきます」
 お喜多から着物を受け取ると、正二郎は井戸端へ出た。
 上着を脱ぎ、傷口を洗い確認する、どうやら傷は浅く大したことはなさそうだ。洗い終わる頃、中の方で何やら声がした。
 みずきがまた気がついたらしい。
 正二郎は先程の事を思い出し、顔を出すことを躊躇い、もう一度丹念に傷口を洗い直していた。
「八宇田様」
 声を殺して、お喜多が正二郎に手招きをしている。
「気がつきましたか」
 お喜多が、小さく頷いた。
「みずきが、あの時の事を思い出したようなんです」
「あの火事の時のですか」
「はい」
「……」
「驚かさないように、そっと入って下さいね」
「はい」
 仙吉の着物を着ながら入って行くと、みずきは起き上がって布団の上に座っていた。
 怯えている。それはすぐに見てとれた。
「正二郎様……」
 だが先程とは違って、怯えてはいたが、いつものみずきであった。
 正二郎が布団の脇に座ると、みずきが縋るように抱きついてきた。
「どうした。もう心配はいらないよ」
 正二郎は優しくみずきの肩を抱いた。
「……」
 黙ったままのみずきの両の手に力が込められてゆく。
 正二郎の手も、それに応えるかのように力が籠もる。
 正二郎はみずきのなすがままにし、黙していた。
 そして、今はなにも訊かない方がいいのではないかと思った。
 今、みずきの胸の中は千々に乱れていよう、傷ついていよう、自分にその痛みが分る筈も無い。みずきの心が静まるのであれば、このまま黙って抱かれていよう、みずきを抱きしめていよう。死ぬまでだって抱かれていよう、死ぬまでだって抱いていよう。そう思うのであった。
 故知れぬ涙が、また頬を伝って流れていった。
 お喜多が目がしらを押さえ、そっと座を外した。
 どれくらいの時が流れたのであろうか、
「おっかさんは?」と、みずきが正二郎を抱く手を緩めて訊いた。
「お喜多さん」
 正二郎が声を掛けた。
「もう大丈夫かい」
 お喜多が入ってくると、みずきに笑いかけた。
「あっ」
 慌ててみずきが正二郎から離れた。
 お喜多がそれを見て優しく笑った。
「お調べは明日だってよ」
 仙吉の帰って来た声が見世の方から聞こえた。
「おっ、みずき、もう良さそうだな」
「お父つぁん、ありがとう」
「泣くな。泣くなよ」
 みずきも、仙吉も、涙を流していた。そして、お喜多もまた泣いていた。
 いい親子だ。
 正二郎は故郷の両親を思い出していた。
「お父つぁん、私、思い出したの。いえ、思い出そうとする勇気が出てきたの」
「そうか、そうじゃねぇかと心配してたんだ。あの時の目、火事の時の目をしてたからな」
「私、話すわね」
 みずきの決心が三人の心に痛みを伴って響いてくる。
「いいよ、辛い事は話さなくていいんだよ、もう終わったことなんだから」
 その痛みに耐え切れぬように、仙吉が優しく言った。
「いえ、私、話す。話したら本当のみずきに戻れそう。お父つぁんやおっかさんの本当の子になれそう。正二郎様に抱かれていてそう思った」
「!」
 優しく微笑んでいるお喜多とは裏腹に、仙吉の目が驚いたように正二郎を見た。
 正二郎が慌てて首を横に振って仙吉を見、お喜多に助けを求めるような目を向けた。
 お喜多が優しく微笑んだまま、そうじゃないよと、仙吉に首を横に振って見せた。
「何でぇ、驚かすんじゃねぇよ」
 仙吉が、自分の心の動揺の照れを隠すかのように邪険に言った。
 みずきが真剣な目をして語り始めた。
「すぐそこまで迫って来た火事の火に、私の手を引いたおっ母さんと、風呂敷包みを背負ったお父つぁんが逃げ出そうとしていた時、出刃包丁を持ったあのおじさんが入って来たの。顔見知りだったみたいで、お父つぁんがそのおじさんの名前呼んでた。その内何か罵り合っていたけど、お父つぁんも晒しから包丁取り出して揉み合いになって、おっ母さんは止めようとしてたみたいだった。でも、お父つぁん、刺されたみたいで、胸から血が流れてた。おじさんもどこか刺されたみたいだった。腰が抜けたようなおっ母さんも刺されてたみたい。おじさんが泣いていた私に気付いて……、私に迫って来たの。でも、優しい顔をしていたわ。今思えば、私を殺すつもりは無かったんだと思うの。何か人の名前を呼んでいたような気がする。おじさんの子供の名前かな、何とかちゃんて女の子の名前らしい苦しげな声が聞こえたから。おじさんが苦しそうに咽て、口から血を吐いたの。それがとても怖かった。そして覆い被さるように私の上に倒れて来たの。私の耳元で、何とかちゃん、苦しい、殺してって、そう言うの。おじさんが、ゴロンと横に転がって仰向けになって、苦しそうにまた咽て、涙流して、何とかちゃん、殺して苦しいって、転がってた柳葉を血まみれの手で私の方に寄せようとしてまた言うの。きっと、あのおじさんの子供の名前ね。私と同じ女の子ね。いつのまに手にしたのか分からない私の持ってた包丁が、おじさんのお中にスーッと吸い込まれるように刺さって行ったわ。お父つぁんの仕事に使う大事な包丁だった」
 みずきの身体が、また小刻みに震えだし、その顔に恐怖の色がありありと浮かんだ。
「もういい、もう話さなくていいよ」
 お喜多が、泣きながらみずきの肩を揺すった。
 仙吉も頷きながら泣いていた。
「ううん、大事な事はこれからなの。私、話さなければいけないの」
 みずきが何かを決心し、全てを話そうとしている。きっとみずきの心を今日まで閉じ込め続けた扉を打ち破ることで、ここまで自分でなかっであろう自分を取り戻そうとしているのだ。
 みずきが自分の身体の震えを止めようとするかのように、両の腕を胸に抱え込んだ。それは、あの田原町で正二郎に見せた拒むようなそれではなく、自分の心をしっかりと護ろうとするかのように見えた。
「私は、おじさんのお中の包丁を抜いてまた刺したの。それからゆっくり、何度も何度も刺したの、血だらけになりながら。おじさんの苦しそうな顔が、優しそうな顔に変ったみたいだった。それで刺すのを止めたの。それから先はよく思い出せないわ。でも、おじさんの身体を、何度も何度も刺しながら、私は何処かで醒めていたと思うの。涙も止んでいたわ。思い出せなかったのは、自分の本性みたいなものを見つめるのが怖かったからなのね。あの時、全てを忘れたのも、そんな自分の怖さに気付いて、思い出すのが恐ろしかったからね。誰に訊かれても、思い出そうとすると、自分が悪魔の化身のようにおじさんを刺し続けている光景が一瞬浮かんで、そして闇の中に消えてゆき、後は何も思い出せないし、考えられないの、寒気のようなものがして、身体が震えだして……」
 みずきが途切れ途切れの声で話し続け、やがて静かに全身の力を抜いていった。
 しばらくの沈黙が続いた後、正二郎が口を開いた。
「人は誰でもそんな魔性のようなものを心のどこかに住まわせているのではありませんか。私とて同じ、憎しみのような感情に捕らわれ、殺してしまいたいと思うようなことも幾度か在りました。それを辛うじて押し止めさせてくれたのは、多分、自分が生きてきたこれまでの時の流れの中で培われた何かだと思います。自制心というものを私に与えてくれたのは、私を今日まで支えてくれた人々の優しさ、温かさなのではないかと。まだ親の温かみしか知らぬ幼い心が、その親の死と耐えきれぬ恐怖に出くわしたとき、大人と同じ行動を取るとは思えません。なにも意識せぬまま、そのおじさんに頼まれるままに動いたのではないでしょうか。おじさんの顔が、苦しみから安らぎに変ったのを見て刺すのを止めたのでしょ、それは優しい心のなせる業、それで良かったんですよ。自分の心が醒めていたと思うのは、余りに鮮やかにその記憶がみずきさんの心に焼き付いてしまったから、今、冷静になった大人の心でそう思い込んでしまったのですよ。みずきさんの優しい本性とは違うのではないでしょうか。おじさんも、苦しくて助からないと思ったから、早く楽に死なしてくれとみずきさんに助けを求めたのではないのでしょうか。安らかな顔で死ねたという事は、みずきさんの心が通じたという事なのですよ。その記憶は拭い去ることの出来ぬ傷なのでしょうが、しっかりとそれを見つめる事が出来た今、みずきさんは、人の心、自分の心をしっかりと取り戻せたという事なのです。もう何も畏れる事はありませんよ」
 正二郎の言葉に、仙吉も、みずきを助け出した火事の時のことを思い出していた。
 みずきを助け、国松たちの運び出した目の前に並ぶ三人の亡骸を前に、まるでこの世のものとは思えぬ美しさを醸し出す、燃え盛る紅蓮の炎と舞い狂う桜の花びら。その地獄絵のような光景に感動していた自分が恐ろしかった。まして、そこに横たわる二人は、今しがた助け出しその胸に抱く、頑是ないこの子の父と母ではないか。己の心が、岡っ引きという世過ぎの修羅場の中で、何か人間らしさを失おうとしていたのではかったのか。あの時、それに気づかされ、今の自分があるのではないのかと。
 みずきを庇うように支えていたお喜多が、いつまでも震えの治まらぬのを案じたのか、正二郎を縋るように見た。
 正二郎がお喜多と入れ替わり、みずきに寄り添い優しく肩を抱きしめた。
 抱きしめながら、己の内に湧きあがって来た愛しい者への情念に、自然、その手に力が込められてゆく。その時、何故か正二郎の脳裏に、故郷の山河と母の面影が鮮やかに蘇り、瞼の裏が熱くなって行くのを覚えた。
 みずきの震えが次第に収まり、呪縛の解けたが如く表情が柔らかになって行く。
 頬を伝い落ちていった正二郎の涙が、みずきの頬に落ちた。
 驚いたように正二郎を振り仰いだみずきの指が、優しく正二郎の頬の涙を拭った。
 そのみずきの瞳の奥に、正二郎は、幼き頃、悲しみに泣く自分の涙を優しく拭ってくれた母の指を思い、またその目に、母と同じ光を見たのであった。頬を伝うみずきの指から、母の温もりの伝い来るのを心地よく感じていたのであった。
 そっとその手を己の手に包み込み、頬に重ねた。
 やがてみずきは、全身の力が抜けるかのように正二郎に凭れかかり、目を閉じ、そして静かに寝入っていった。
 真底疲れ切っているのであろう。
 正二郎がみずきを布団にそっと寝かせる。
 安心しきったような、穏やかな寝顔であった。
 仙吉が不思議な顔をして二人を見つめている。
 お喜多が、優しい眼差しで涙を流している正二郎に黙って頭を垂れた。

 二日後、みずきはもう元気に働いていた。
「どこか違って来たような気がするんですよねぇ」
 お喜多が正二郎に嬉しそうに言った。
 奥から出てきたみずきが正二郎に気付き、「いらっしゃい、正二郎様。いろいろありがとうございました」と、深々と頭を下げるのであった。
「元気になりましたね、みずきさん」
「はい、とっても。肩の傷、大丈夫ですか」
 そう言ったみずきの微笑みの奥に、ちょっと恥じらいのようなものが浮かんでいた。
「私のために、ごめんなさいね」
 申し訳なさそうに、みずきが謝る。
「ははは、みずきさんのせいではありませんよ、奴らの逆恨み。みずきさんこそ、大変でしたね。大丈夫、私の傷は大したことはありませんよ、念のため、唯之介先生に縫ってもらいましたしね」
「今帰ぇったぞ」
 仙吉が戻って来た。
「御苦労様です」
「八宇田様、昨日は大変でやしたでしょ、御苦労さまでやした」
「あっ、いえ」
 昨日は奉行所の御調べ。ほぼ一日、何やかやと訊かれっぱなしで、慣れぬ事ゆえ、正二郎、大変と言われれば大変な気疲れの一日であった。
 仙吉の御蔭もあって、御調べそのものはのんびりとしたものではあったが、やはり慣れぬこと故、それなりの気疲れは致し方ないところか。
「みずき、近い内に一緒に御番所へ行くぞ」
「はい」
「なーに、粗方の事はお話ししてある、形だけのようなものだ」
「はい」
「昔の事はもう済んだことで、調べるほどの事ではないだとよ。何も訊かれまいよ」
「はい」
 正二郎は、仙吉の「昔の事」といった言葉に、みずきがちょっと眉根を曇らせたような気がした。が、すぐに明るい顔に戻ったのを見、お喜多が嬉しそうに「どこか違って来たような」と言った言葉を思い出していた。
 明るく振る舞う姿が、真底楽しげに感じられるのは、正二郎の気のせいばかりでもないようであった。
「昨日、御番所の帰りにお寄りになられると思って、首を長ーくして待ってたんですよ」
「済みません、昨日は仙波屋さんからお呼びが掛かって事の顛末を訊かれましたので、話が長くなり、そのまま」
「元々は仙波屋さんにも関わり合いがあったんだもの、訊きたくなるのも無理はないわね。それで仙波屋さんにお泊りになられたんですか」
「はい」
「仙波屋さんとは気が合うみたいね、また大分飲んだんでしょ」
「はぁ、夜更けまで……」
「じゃ、今日は控えめですよね」
「はい、いえ……」
 みずきの攻勢に応える正二郎の声が段々小さく萎んでゆく。
「みずき、それより、早く酒だろ」
「あっ、ごめんなさい」
 仙吉の助け船に救われた正二郎とみずきが目で笑いを交わした。どことなくほっとしたような和んだ空気が流れ、仙吉もお喜多も、嬉しそうな笑顔で二人を見ていた。
「日暮里のがね」
「辰親分ですか」
「あっしがみずきのこと頼んだ翌日、つまりあの日の夕方にね、手下があの畑の小屋に胡散臭いのが出入りしているって百姓から聞き込んで、それで知らせに来てくれる途中、あっし等は何処へ行っちまったんだと、焦って探し回っていた国達とバッタリ。あそこに急ぎ駆け付けてくれたという事でやした」
「いい時に来てくれました。あれで外へ逃げられたから事が上手く運びました。あのまま狭い小屋の中ではどうなっていたか」
「前のときもそうだったが、見事な腕でやすねぇ。仙波屋さんの用心棒なんかにゃ勿体ねぇ、何処かに仕官か、大きな稽古場の師範にでもおなりになった方がいいんじゃございやせんか」
「ははは、すまじきものは宮仕えとか申します。こうやってみんなとのんびり飲めなくなるなんて、まっぴら御免ですよ。それに、ここの暮らしは、旅の暮しや、そんな宮仕えの暮らしより、自分の性に合っているような気が致します」
「それに、わたしと会えなくなっちゃうと寂しいでしょ」
 銚氂と肴を運んできたみずきが、茶化すように割り込んできた。
「はぁ」
「わたしと会えなくなると寂しいと思わないんですか」
「はぁ、それは……」
「みずきは寂しいけどなぁ」
 みずきの攻勢に正二郎が困っている。
「みずき、今日は機嫌が悪いのか」
「何で?」
「さっきから、八宇田様に絡みっぱなしだ」
「絡んでなんかいません」とみずきはつっけんどんである。
「そうかなぁ、俺にはそう見えるがなぁ」
「お父つぁんの僻みです」
「ひがみ?」
「娘に構ってほしいんでしょ」
 奥でお喜多が笑いを噛み殺している。
「ははははは」
 正二郎が思わず大きな声で笑いだしてしまった。
 みずきが下がって行った後、正二郎が小声で仙吉に、「もう間違いなく本当の親子ですね」と、嬉しそうに言った。
「そう見えやすか」
 仙吉も嬉しそうな顔であった。
「はい。お喜多さんも言っていましたが、みずきさん、どこか違って来ました」
「あっしもね、そう思うんでやすよ。昨日の今日なのに、まるで違うってね。嬉しいでやすねぇ」
「思い出したくない失った記憶が、心のどこかに棘のように刺さっていたのですね。それが、あの修羅場の最中に蘇った。いつもならそこで心を閉ざしていたのが、あの時は何かが違った。その違った何かが、みずきさんに自分というものをしっかりと見詰めようとする勇気を与えた。生まれ変わったのですよ。勿論、親分やお喜多さんのこれまでの情愛があってこその賜物です」
「その何かは八宇田様だったんじゃねぇかと、あっしは思うんでやすが、違いやすかねぇ」
「はぁ、私だったんですか」
 仙吉は、「あの子にとって大切なのは、その傷を優しく包んでくれる人の情愛なんじゃないのかなぁ」と言った、唯之介の言葉を思い出していた。
 勿論、お喜多と二人、みずきを慈しんではきた。が、これからのみずきの心を温め育んでゆくのは正二郎であろうと、そう思えるのであった。
「みずきを宜しく御願ぇ致しやす」
 仙吉が真剣な目で正二郎の目を見つめ、小さな声でそう言った後、机に額を擦りつけるようにして頭を下げた。
「はぁ」
 正二郎が、困惑というのではない、どこか照れ臭ささのようなものを感じ、生返事を返した。
「おとっぁん、何をお頼みしてるの、正二郎様、何が、はぁなのですか」
 みずきが肴の皿を手に、いきなり顔を出して来て訝る。
「何でもねぇよ。何でもねぇでやすよね、八宇田様」
「あっ、はい。何でもねぇでやすよね、親分」
 正二郎、慌てて仙吉の言葉を鸚鵡返しになぞってしまった。
「正二郎様、何か焦ってる。怪しいわねぇ」
「みずき、何でもねぇんだよ。それより次の酒頼まぁ」
「はいはい」
「何だ、そのはいはいは、お喜多にそっくりじゃねぇか」
「そっくりで悪うございました」
「ほらまたそっくりだ」
「だって……」
「私に似てて悪うございましたね」
 お喜多が銚氂を手に仙吉のすぐ脇に立っていた。
「わっ、悪かぁねぇけどよ」
「ははははは」
 正二郎の大きな笑い声に、三人も引き込まれるように笑った。その笑い声が、暮れ泥む菫色の露地裏に響いて吸い込まれていった。
 もう直に、客達も来る時分である。

  浅草路地裏人情草紙(二) 完
                                     
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