浅草路地裏人情草紙(一の弐)

文字数 9,134文字

                              NOZARASI 2-2
 浅草裏街人情草紙(一の弐)
  みずき 其の壱 
    悪意の剣

 そろそろ正二郎も江戸の町に慣れてきたかな、と云う頃であった。
「今日から仙波屋さんに泊り込みになります。朝夕の食事は仙波屋さんでという事ですので」と、知らせに現れた正二郎の言葉に、
「承知してますよ」と、お喜多が応えた。
「えっ」
「昨夜、京橋の呉服屋に盗賊が押し入ったんですって。手口や、店の人の話から、以前にも江戸を荒らした、ましら(猿)の要造じゃないかって。あいつら一度やると立て続けに二、三件の荒稼ぎをし、すぐに姿を消しちまう、今度こそお縄にしてやるって、お父つぁんが意気込んでました」
 みずきがそう言いながら盆に湯呑みを乗せ、台所から出てきた。
「それで親分はお出かけなのですか」
「はい、昨夜からずーっと。騒ぎが収まるまで、滅多なことでは戻ってきませんよ」
「大変ですね」
「十手お預かりしてんだもの、仕方がないわね」
「盗賊の中に、かなり使える奴がいるって言ってました。八宇田様お気を付け下さいね」
 みずきが心配げに言う。
「ありがとう、みずきさん」
「おっ、今帰ぇったよ」
 滅多な事では帰ってこない筈の仙吉が戻って来た。
「あら、お前さん。いいのかい抜けたりして」
 お喜多が、気にして訊いた。
「すぐにまた行く。八宇田様、二人斬られやしたよ、店の用心棒が」
「二人もですか」
「それも見事な切り口。いずれも一太刀で、右肩から袈裟斬りに、骨ごとバッサリ。見た者の話では、二人共に最初の一刀で斬られたとか。鋭く、悪意に満ちているような目だったと」
「悪意に満ちた目、そして左袈裟斬り……」
「そのように見受けられやす」
「……」
「御心当たりでもございやすか」
 さすが岡っ引きである、正二郎の顔色を見、それと敏感に感じ取ったようである。
「はい、左利き、それも見事な袈裟斬りと云うのは珍しいので、よーく覚えておりますが、いくら目つきが鋭く世を拗ねたような目の光をしているからと云って、広い世の中に、あの武芸者だけとは限りませんので、確かとは」
「何か特徴はございやせんでしたか」
「うーん。左の手首の少し上、ここらあたりでしょうか、八双に構えを取ったとき、かなり大きな刀疵が見えましたが」
 正二郎が、自分の左手首の少し上を指し示し、そう応えた。
「左手のここんとこに、大きな刀疵でやすね」
「名は……」
 正二郎が記憶を辿るように天井を見上げて目を瞑り、その武芸者の名を思い出そうとしていた。
「名も御存じなんでやすか」
「一応立ち合いの折りに名乗り合いましたので」
「なんて名なんでやす」
「うーん。ちょっと待って下さい、今思い出しますから」
 じれったそうに待つ仙吉に、
「大丈夫です、今思い出します。立ち合って戴いた方の名は皆覚えておるつもりですから」と、正二郎が蟀谷に人差し指を当てた。
「……」
 黙ってはいるが、仙吉がじれている。
「綾瀬京之進」
「あやせきょうのしんでやすか」
「確かな文字は分りかねますが」
「いえ、それだけでも十分役に立ちやす、ありがとうございやす」
「間違いかも知れませんよ」
「今はこれっぽっちの手掛かりでも欲しいとこなんでやすよ、間違いでも何でも……」
 仙吉の様子に、苛立ちのようなものが露わになる。なにがなんでもと意気込んでいるのであろう。
「大変ですね」
「いえ、あっしは岡っ引きでやすから。それより、仙波屋さんに泊まり込みでやしょ、八宇田様こそ気を付けてくださいやしよ」
「はい、ありがとうございます」
「おいっ、三人分握り飯頼むよ」
「はいっ、もうこさえてあるよ」
 お喜多が、台所から竹の皮に包んだ握り飯を持って出てきた。
 先程からみずきと二人、奥でごそごそとやっていたのは、お握りを作っていたらしい。
 出て行きかけた仙吉が入口で振り返って、
「押し入って来るのはおそらく五人、多分見張りが外に一人か二人いやす。逆らったり、逃げようとしたりしなければ殺された者はいやせん。仙波屋さんに、そこんとこしっかりとお伝え下さいやし」
 仙吉が、念を押すように言った。
「心得ました。親分も気を付けてくださいよ」
「ありがとうございやす。それじゃ」
 仙吉は、半分駆けるように出て行った。
「八宇田様、お食べになられますか」
 みずきが、手にしたお握りを勧めた。
「ありがとう、戴きます」
「おいしそうですね。うっ」
 一気にかぶりついた正二郎が咽た。
「どうしました」
「いえ」
「あっ、分かった。梅干しでしょ、苦手なんですね」
「うー、はい。あー酸っぱかった」
「ふふふ、おっかさん、八宇田様、梅干し苦手なんですって」
「あらら、ごめんなさいね、気がつかなくて」
「いえ」
「はい、お茶。微温い方が良いわよね」
 みずきが急須からお茶を注ぎ足してくれた。
「ありがとう。ちょっと失礼」
 正二郎が、口の中をお茶で漱いでゴクンと飲み込んだ。
 三人顔を見合せて笑った。
「盗賊、早く捕まんないかしら」
「大丈夫ですよ、親分達がやってくれます」
「八宇田様も気を付けてくださいね」
「ありがとうございます」
「あっ、それからこれ」
「?」
「呼子。今朝、お父つぁんが出がけに渡しておいてくれって」
「呼子を、ですか?」
「何かあったら、こうやって、家の外で吹いてくれって。こうすると遠くまで音が良く通るらしいですよ。特に夜は静かだから、かなり遠くまで聞こえるって言ってました」
 みずきが手の平を漏斗のようにして呼子を吹く真似をした。
「分かりました。ありがとうございます」

「八宇田様、お酒はいけますか」
「少しであれば」
「では、今夜はお付き合いくださいませ」
「いえ」
 正二郎は、みずきが言った「あいつら、続けて二、三件の荒稼ぎをやると姿をくらますと、お父つぁんが言ってた」と云う言葉を思い出し、仙波屋の勧めを断った。
 もし、綾瀬京之進が盗賊達の仲間に加わっているのだとすれば、酒の入った状態では危な過ぎると思ったのだ。
「では私も、事の収まるまでお酒を断ちましょう」
 正二郎の用心を悟った仙波屋がそう言って嬉しそうに微笑んだ。
「いえ、私に遠慮なさらず、仙波屋さんはお飲みになって下さい」
「仙吉親分の話では、そう長くは続かないと云う事なのですよね」
「はい、二、三件荒稼ぎをやると、すぐに姿をくらますと」
「見世の主として、八宇田様に頼み事を致しお酒を断って頂くのに、同じ屋根の下で自分だけ飲むと云う訳には参りませぬ。事が落ち着いたら、ゆっくりと心ゆくまでお付き合いさせてくださいませ」
「それはもう、喜んで」
「頼もしい限りでございます」
 正二郎は仙波屋の言葉に、この男の律儀な人の好さを感じ、気持ちを新たにした。

 三日後の午後、花川戸に顔を出すと、夕べ蔵前の札差がやられたとみずきが教えてくれた。
「ここと目と鼻の先でしょ、馬鹿にしやがってと、お父つぁん歯ぎしりしてたわ。また一人、浪人さんが斬られたって。三人も雇っていたのに、余りの強さに尻込みして、後の二人はお調べが終わると、さっさとお店から姿を消したみたいだって」
「面目ないと思ったのでしょう、親分の悔しさはよーく解ります。皆で警戒していたのですから、悔しいですよね」
「三度目をやるとすれば、今夜か明日の夜だって」
「えっ、昨日押し入ったのに、今夜か明日なんですか」
「やらないかもしれない、これで終わりにしてずらかるかもしれないとも言ってました」
「もう江戸を離れたと云う事ですか」
「そうみたいです。だから、もう一件やるとすれば、急ぎ働き、手っ取り早くやってずらかるって」
「手っ取り早くですか」
「そう、以前の時も、三件目では、気が立っていたのか、ちょっと躓いて大きな音を立ててしまったお店の手代も斬られてるって」
「……」
「気を付けてくださいね、八宇田様」
 みずきの顔が心配げに曇る。
「ありがとう」
 正二郎、それを拭ってやるかのように笑って応えた。

「今夜か明日の夜でございますか。見世の者にも十分に気配りさせましょう」
「用心に越したことはございませんから」
「はい、賊に入られた人達には申し訳ありませんが、思ったより早く八宇田様と飲めそうですね」
 仙波屋が嬉しそうに笑った。
「ははははは」
 正二郎、仙波屋の思わぬ豪胆さに、笑って返した。
 寝ずの番、そろそろ、もう今夜は大丈夫かなと思い始めた深夜であった。
 裏庭に人の気配のようなものを感じ、正二郎は気を集中させた。
「五、六人か。数は合うな」
 廊下に面した障子を静かに取り払うと、雨戸の戸袋の陰に片膝を付き、相手の動きを待つ。
 押し込んで来るとすればここからだろうと、予測を立てていた通りになりそうであった。
 小さく細い手鉤のようなものが雨戸の隙間に差し込まれ、まるでそこにある事を知っているかのように、心張棒と小さな閂を、いとも簡単に外した。音も無く、雨戸が滑り始める。
 刀を抜き身を潜めていた正二郎の一撃が、身を低くし、中を窺うようにしながら最初に忍び込んだ男を襲った。
「どすッ」と、峰撃ちの鈍い音が廊下に籠った。
「グェ!」
 男は首筋を峯撃ちにされ、踏み潰された蛙のような声をあげ、屈んだ姿勢のまま後ろ向きに庭に転がり落ちた。
「何だっ、どうした」
 押し殺したような戸惑いの声が聞こえ、賊たちの統率の乱れが伝わってくる。
 正二郎は思いっきり雨戸を外へ蹴った。そうすることで相手を威嚇し、店の者へ事を知らせる意味もあった。
 庭の男達が、慌てふためき後ろへ飛び下がった。
 正二郎はゆっくりと廊下から庭へ下りると右袖の中を探り、男たちに気取られぬように手の中に包み込んだ呼子を、素早く口に宛がった。
 甲高い呼子の音が、闇を切り裂いて響き渡る。
「おのれ!」
 あの武芸者と思しき覆面の男が前に出た。
 呼子を吹くのはまだ早かったか、まずい、時間を稼がなければ幾人かは逃げられてしまう。いや、すでにもう逃げで そうとしている者もいた。
「わっ!」
 端を切り身を翻して逃げようとした男が、鈍い音とともに無様に仰向けに転がって悶絶した。
 正二郎と盗賊を挟み込むように男が一人、庭の暗がりに峰を返した白刃を構え、すっくと立ち塞がっていた。
「仙波屋さん!」
「八宇田様、雑魚は私にお任せを」
 ポカンとしている正二郎に、
「そちらの侍をお願い致しますよ。お話の武芸者なら、私には到底歯が立ちませぬでしょうから」と、不敵に笑って言った。
「あっ、はい。心得ました」
 何だか正二郎の方が仙波屋に気圧されている。がどうやら千人力の味方を得たようである。
「久し振りだな、八宇田」
 覆面を毟り取るようにして外したのは、紛れもなくあの男であった。
「綾瀬京之進」
「ほう、覚えていてくれたか」
「なに故盗賊なんぞに」
「この節、何処の稽古場も金回りが悪いようでな。おまけに臆病者ばかりでは、門前払いばかりよ、道場破りだけでは食ってはゆけぬようでな」
 平然と言い放つ綾瀬京之進から、狂気のような怖ろしさがひしひしと伝わり、正二郎を身震いさせ、以前相対した時とは比べ物にならぬほどの悪意に満ちた殺気に、人にあらぬものを秘めた物の怪が降臨したかのような怖気を覚えるのであった。
「……」
 綾瀬の後ろで盗賊二人を相手に仙波屋が大立ち回りをやっているのであったが、とても手助けの出来る状況では無かった。
 綾瀬京之進から目を離さずに、「大丈夫ですか、仙波屋さん」と、声を掛ける。
「私は大丈夫です」
 仙波屋、中々の腕である。それに、平常心を保っているようで、これならば安心だろうと思えた。
「行くぞ、八宇田。あの時の借りを返してやる」
「……」
 綾瀬が左八相に構えた。
 正二郎は峯を返したまま右八相から上段へ構えを移す。
「貴様、俺を愚弄しているのか。あの時は木剣で不覚をとったが、今日は真剣だぞ、同じだとは思うなよ」
 正二郎が峯を返したままなのを見、綾瀬はその目に、怨嗟と怒りに狂った魔性のもののような光をギラギラと漲らせていた。
 仙波屋が最後の一人を撃ち伏せた時、呼子を吹きながら仙吉達が裏庭へ雪崩れ込んできた。
 仙波屋が素早く刀を納め、背中に回すと、廊下へ駆けあがった。
「遅くなりやした、八宇田様」
 仙吉の目が鋭い。盗賊を目の前にし気魄が漲っているのだ。
「この野郎!」
 太吉がいきなり綾瀬に向かった。
「危ない!」
 正二郎の言葉より早く、無言のまま綾瀬が蠅でも払うかのように一閃した。
「うわっ!」
 太吉が、右腕を押さえて怯んだ。その手指の間から血が流れ出していた。
「太吉さん、大丈夫ですか」
 正二郎が顔を曇らせて心配する。
「大丈夫でさぁ、こんなの掠り傷でさぁ」
 太吉が強がっているが、なんとまぁ向こう見ずな男だ。
「みなさん、こいつには手を出さないで下さい、人を殺すことなんぞ何とも思っちゃいないやつです、そちらを片付けてください」と、庭に転がっている盗賊の始末を頼んだ。
「分かりやした」
 そう応えた仙吉の声も、その場のただならぬ殺気を敏感に読み取って緊張している。
 せせら笑うように太吉を見ていた綾瀬が、正二郎の方に目線を移し直した。
「どうやら俺も年貢の納め時のようだな」
「分っているのなら刀を納めろ」
「何を馬鹿な事をほざくか、お前さえ倒せば後はクズだ、生きている限り何処までも逃げてやるさ。八宇田、まずはお前だ、あの時の怨みを晴らしてやる。その後でお前達だな、そこで静かに待っていろ」
 ギロリと仙吉達を睨みつけた。
「……」
 仙吉達が、綾瀬の凄みのある殺気に気圧されて思わず半歩退いた。
 正二郎は、この男の持つ悪意に満ちた殺気に、言い知れぬ怒りを覚え始めていた。
 正二郎は、まだ人を斬った事は無かった。信念として、人は斬りたくない、剣は人を斬るためのものではないと己に言い聞かせ修業を重ね、数多の剣客と木刀のみで立ち合ってきた。
 是非に真剣でと望まれることもありはしたが、頑なに己れの信念を貫き通してきた。時には、臆したかと罵られることもありはした。が、人と人とが殺し合うような、そんな無意味な立ち合いはなんとしてもやりたくはなかった。
 今、初めて殺意のようなものを抱いた自分に戸惑っている。
 ジリジリと間合いを詰めてくる綾瀬に対し、正二郎は戸惑いを抱いたまま後退してゆく。
「自分に人が斬れるのか」
 そう正二郎は自問していた。
 正二郎の戸惑いを見抜いたのか、綾瀬が一歩踏み込んで左袈裟斬りに来た。
 小さく後ろに跳びながら綾瀬の剣を弾いた正二郎が下手から返すように斬り返したが、綾瀬は事も無げに躱し、再び左八相へ構え直した。
 まだ正二郎は迷っていた。
 綾瀬が嵩にかかって、また袈裟斬りに来る。
 正二郎がそれを躱すと、綾瀬はすかさず返す刀で逆袈裟に来た。
 正二郎がその目をカッと見開き、「トリャーッ」と気合いを吐きながら真っ向斬り下ろしに出る。
 火花が散って、凄まじい刀のぶつかり合う音が闇に響いた。
 綾瀬の刀は真ッ二つに折れていた。
 綾瀬が脇差に手を掛けた瞬間、正二郎の峰打ちがその左手を撃ち、次に胴を払った。
 顔を歪めて綾瀬が崩れるように蹲り、悶絶した。
「ふーっ」
 正二郎が、大きく息を継いで、「お願い致します、仙吉親分」と、仙吉を見た。
「がってん承知」
 その時、周りから、驚きとも称賛とも知れぬ声が挙がった。
 いつの間にか、そんなに広くは無い庭に、かなりの捕り方達が集まっていたのであった。
 結局、見張りの男を取り逃がしはしたが、一応盗賊騒ぎは収まった。

「良い剣でございますね、心が洗われるようでございました」
 仙波屋が銚子を持ち上げ、正二郎に杯を促しながら、心底満足げに言うのであった。
「お恥ずかしい」
「いえいえ、初めて親分に紹介されたときから、お強いのだろうとは感じていましたが、私の思いを遥かに超えておりました」
「仙波屋さんこそ」
「ははは、みっともないものをお目に掛けてしまいました。若い時分に、護身のために町の稽古場で習い覚えました付け焼刃、雑魚を相手なら役には立ちましょうが、とてもとても、及ぶべくもございません」
 約束の酒を酌み交わしながら、二人は次第に見世の主と雇われ用心棒という垣根を越えていった。
「あの綾瀬とかいう侍の刀、かなりの業物と見えましたが、それを一撃で真っ二つ、見事な撃ち下ろしでした。相手の力を利するため、逆袈裟に来るのをお待ちになっていたのでございますか」
「いえ、相手も強い、流れの中でああなっただけで、たまたま運が良かっただけですよ」
「私には、始め、八宇田様の中に殺気のようなものが感じられたのでございますが、あの真っ向斬り下ろしに行かれた時には消えていました。どうしてあの時、一度湧き上がった殺気を抑えられたのでございますか」
「分かりません。自分の内に生まれた初めての殺気に戸惑いを覚えていました」
「真剣を持ち対峙する相手の、怒りを覚えるような赦しようのない悪意に立ち向かえば、誰でも殺意を抱くのではございませんか」
「そうなのでしょうね。ですが、私は神でも仏でもありません、明らかに赦しようのない悪意を持った者だからといって、それを裁く資格が己にあるとは思えませんし、まして怒りに任して殺してしまうことなど、私には出来なかったのです。剣という力を持って悪を裁く事が正義だとは思えないのです」
「御裁きは奉行所の方で付けることなのでしょうから……」
「盗賊全て、私が倒したことになってしまったようですが……」
「それで良いのではございませぬか、商人が刀で盗賊を捕まえても、何の自慢にもなりは致しませぬ。商いで認められてこそ商人なのですから」
「恐れ入ります」
 軽く会釈をした正二郎の心と仙波屋の心が、一つの器に清き二つの水の馴染むが如く融け合って行く。

「太吉さんは大丈夫でしたか」
 翌日、みずきに訊ねると、「大丈夫のようですよ。疵は余り深くはなかったみたいだし、触ると痛いなんて言ってましたけど、唯之助先生に傷口縫ってもらったようですから」
「それは良かった。一瞬、ヒヤッとしましたよ」
「あいつは、おっちょこちょいの向こう見ずだからね」
 お喜多が、湯呑みを片手に出て来て笑っている。
「それにしても凄い腕だって、内のが言ってましたよ」
「斬れば斬れただろうに、わざわざ峯撃ちにして下さった。俺もお蔭で鼻が高いよって、お父つぁん低い鼻を引っ張ってました」
「ははははは、聞こえたら大変だ」
「ゲンコが飛んで来るわね」
 みずきが首を竦めて悪戯っぽく笑った。
「今夜は大手柄のお礼と祝だ、早めに戻って来るから、ゆっくりと飲んでもらっといてくれって言ってましたよ」
「それに、お手柄の褒美も貰えるから、みんなも連れて来るって」
「いいですねぇ。じゃぁ、皆さんお揃いになられるまでゆっくりとしていますか」
「先におやりになっていればいいんじゃないですか」とお喜多が言ってくれたが、正二郎はみんなを待つことにした。
 七つの鐘が聞こえていくらも経たぬ内に仙吉達が戻って来た。
「お世話になりやした。お蔭さまであっしも鼻も高うございやす」
 みずきが仙吉の肩越しに、鼻を引っ張る仕草をしながら笑っている。
「ははは、私は仙波屋さんの用心棒としての役目を果たしただけです。それが、仙波屋さんを紹介して戴いた親分のお役に立て、少し恩返しができたということですので、もう言う事無しですよ」
「御番所の中は八宇田様の話で持ちっきりでやすよ」
「俺達も、親分を待ってる間、話を聞きてぇ門番やら小者やらに引っ張り蛸でさぁ。身振り手振り、手足が八っ本じゃ、とっても足りねぇくらいでやした」
 ははは、太吉め、引っ張り蛸の駄洒落かな、これなら傷は大丈夫であろう。
「これが今日戴いた手柄の褒美だ」
 仙吉が懐から紙に包まれた金子を出し、懐紙に包まれた褒美の金を机に並べた。
「これが御奉行様から、これが内与力の富田様から。この二つは富田様から直々だぜ、よくぞ汚名を雪いでくれたってな。これが赤田様から」
「赤田様というのが、お父つぁんのお世話になってる定町廻りの御方」
 みずきが正二郎の耳に囁いた。
「うわっ、二分金が二枚。一分金が二枚。それに二朱銀四枚。二両だよ、二両」
「すげぇ」
「まあな、あれだけ質の悪い奴等を誰一人犠牲者も出さずにお縄にしたんだ、当ったり前だろうよ」
 仙吉が、踏ん反り返らんばかりである。
「じゃぁこれ、みーんな八宇田様のものね」と、みずきが言うと、「うーん、やっぱそういう事になるなぁ」と、仙吉が納得顔をする。
「がっかり」
 太吉が泣きっ面を作り、肩を落とす仕草をした。
「ははは、私は貰えませんよ、仙波屋さんに御給金の外だと、ちょっと過分の御礼を戴きましたから、私はそれで十分です」
「さすがだねぇ、仙波屋さんは」と、お喜多。
「太吉さん、良かったわね」と、みずきが太吉を見た。
「へへへ」
 太吉が嬉しそうに笑う。
「八宇田様、宜しいんでやすか」
 仙吉が心苦しそうに正二郎に訊ねている。
「勿論です」と正二郎、さっぱりとした返事だ。
「よしっ、国松、太吉、手を出しな」
 差し出された二人の手の平に、「ひぃ、ふう、みぃ、ほれっ、これで終いだっ」と、仙吉が最後の一枚を太吉の手の平に勢いよく放り込んだ。手の平の上で、銭の鳴る音がした。
「あれっ、親分は」
「俺はいい、今回は久し振りに気分がいいからな」
「いよっ、親分、いい男だねぇ」
「馬鹿っ、何言ってやんだ」 
 みずきが入れた茶々に仙吉が照れている。
「ははははは」
 みんなの笑い声が挙がった。
「一両だよ。こんなに銭貰ったの、初めてだよな」
「うん、二分金なんて見るのも久しぶり」
 太吉の言葉に、国松が大袈裟に応えた。
「悪かったな、いつもしみったれた小銭でよ」
 仙吉が拗ねて見せる。
「いえ、そんな積りで言ったんじゃ」
「お前ら、無駄な銭遣いするんじゃねぇぞ」
「分ってやすよ、親分」
「さぁ、飲んどくれ。今夜は親分の奢りだよ」
 お喜多が威勢のいい声を出し酒を運んできた。
「あっ、いけねぇ。国、太吉っ、今日の酒代引いてなかった。その一分金、一枚ずつ寄こせ」
「今さらそれはねぇでやしょ」
 国松と太吉が慌てて銭を握った手を背中に回した。
「いいじゃないか、お前さん」
 国松と太吉がお喜多に手刀を切って、「さすが姐さん、ありがとうございやす」と、満面の笑みである。
「いいんだよ、これからも宜しく頼むよ」
 お喜多の一言でその場は片がついた。
 暖簾の仕舞われた路地裏に、みんなの楽しそうな笑い声が遅くまで響いていた。

 浅草路地裏人情草紙(一の弐)
    其の壱、みずき完     其の弐「みずき」 勾引しへ続く。お楽しみに

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