文字数 2,203文字

 東京は、冬が一番美しいと思っていた。葉が全部落ちた桜の枝が空に伸びているのや、澄んだ空気の中でキラキラと光る太陽の光、歩く人たちの吐く白い息。切なかったり寂しかったり、そういう気持ちになる雰囲気や景色が、俺は昔から好きだった。だけどそれは、決して自分が孤独ではない状況下での話しだったのだと、今になってわかる。今年の冬はだめだ、寂しい景色は見たくない。そっか、俺、寂しいんだ。
 厚生労働省に努めている元セフレから連絡があったのは、俺がまだR県にいたときのことだった。『久々にケツ掘りたい』というモラルのかけらもないメッセージだった(文末ににこちゃんマークもついてた)。そこで、長期出張に来たらロックダウンのせいで東京に戻れなくなってしまったことを伝えたところ、急にまじめなトーンの返事が返ってきた。あと二週間で、東京をはじめとした都市が三年間封鎖される。戻ってくるなら今しかない、俺がどうにかしてやることもできる、戻ってきてまた前みたいにエッチしようよ。
 なんとなく、戻らなくてもいい気がしていた。もちろん東京は居心地がいい。友達もいるし、情報が早いし、何でも手に入る。たとえロックダウン中だとしても、この田舎生活よりも格段に暮らしやすいだろう。でも、長い人生のたった三年間くらい、田舎暮らしをしてみてもいいと思った。決して孤独じゃない、航也がいるんだから。
 そう、航也だ。俺があそこにいた理由は、航也だけだった。

「竹内さん、三番診療室にお入りください」
 受付にいるナースのおばさんに言われて、診療室のドアに向かう。この時代に、他人の前であんなに堂々と苗字呼ぶ?
 ドアを開けると、油ギッシュな小太りの先生が座っていて、どうぞと対面にあるソファを進めてきた。壁の一面はガラス張りになっていて、墨田川と対岸の街が一望できる。
「竹内凪人さん、今日はどうされましたか」
「……三日前くらいから、食べ物の味がしないんです」
「新型ウイルスの検査は受けましたね?」
「はい。陰性だったので、心療内科の受診を勧められて、こちらに来ました」
「なるほど、ではストレスでしょう。ウイルスで行動が制限されますからね、多いんですよ最近。サプリをお出ししますから、なるべくストレス発散を心がけてください」
「はい」
 返事をしつつも、ストレス発散を心がけるって何だろうと、頭がはてなだらけになる。心がけて対処できることなら、そもそもこんなところに来ていない。
「もう結構ですよ、お大事に」
 さっきソファに促されたのと同じ動きでドアを示される。ムカつく。まあ、別にこのおっさんに何かわかってほしいわけでもないからいいか。
 クリニックでサプリを受け取って(ただの亜鉛だった)、外に出る。十四時だというのに、もう薄暗い。ポケットからマスクを取り出して、ゴムを耳にかける。田舎では、こんなものつけなくてもよかったのに。マスクは嫌いだ。話すときに口元が見えないのも、見てもらえないのも気持ちが悪い。
「いいよね」
 誰に聞かすでもなく呟いて、マスクをはずす。他の人にばれないように、マフラーをぐるぐる巻いて、口元を隠した。カシミヤのいい匂いがする。匂いはわかるのになぁ。

 航也に彼氏がいてもよかった。ずっと近くで一緒にいれば、勝手に結果はついてくるだろうと思った。航也が俺のことを好きなのは明白だったから。あんな風に、まるで俺が航也にとっての特別であるみたいな、あんな風に大事にしてもらったことはなかったから。
 ウェルターズオリジナルっていう飴があるでしょ。あなたもまた特別な存在だから、というコマーシャルの、あの飴。俺にとって航也は、あの飴。
 ぶち壊したのは俺だった。だって、もっと欲しかったから。そんな自分が怖くなったから、自分をこの東京に閉じ込めることにした。

 今日はせっかくの外出許可日だった。十七時までに家に入ればいいので、まだお出かけができる。とは言っても、大半の店はやってないけど。
 ひとりっきりで、何をしたらいいんだろう。
「……ストレス発散ねぇ」
 カラオケもやってないし、ファッションビルも全部閉まってる。と、急に思い立ってiPhoneを手にする。どうにか店名を思い出してsafariで検索すると、まだあのスタジオは存在していた。すぐに書かれている番号に電話をかけた。
「すみません、八年前くらいにお世話になったんですけど……今からって大丈夫ですか?」

「本当にいいの、入れて?」
施術士のおじさんは、なかなか施術を開始してくれなかった。このおじさんは八年前、「wanderlust」を俺の胸に入れた掘り師だ。こんなにかっこよく入ってるのに、二重線で消すなんて正気か? 訂正印おして無効になるわけじゃねえぞ?
「いいから、入れてください」
「まあ、客がそう言うならやるけどよ……」
 元から入っていたタトゥーの上に短い線を二本入れるだけだったので、あっという間に完了した。クールダウンをしてからスタジオを出ると、もう空は夕暮れ。二重線の引かれたwanderlustに触れると、ピリッと痛みが走った。ここを愛しさが隠しきれない表情で触れていた、あの指を思い出す。俺を特別に思ってくれていたあの眼差しの記憶があれば、俺はこれからも生きていける。傷口は痛いけれど、確かな心地よさがあった。
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