文字数 4,669文字

 新型ウイルスが人間にもたらしたもの、距離と時間。移動や行動の制限は、ゆるやかに強められていった。新型ウイルス措置法も新たに改正され、法的拘束力が強まった。こんなド田舎でもそれなりに感染者が出てしまい、この三ヶ月で町は様変わりした。人々のリモートワーク化は進み、学校はオンライン授業を実施、不必要な外出はみんな避けるようになった。東京を三月に出ておいてよかった。凪人は最近よくそう話す。東京をはじめとした政令指定都市は、国民番号の一の位の数字によって毎日の外出を管理されている。SFかよ。
 距離と時間。距離は越えられない壁になり、持て余す時間は増えた。翔太とも、おそらく年内は会うことはできないだろう。下手したら来年だって危うい。その間、ずっとこのまま、電波を介すだけの関係が続くのかと思うとうんざりで、うんざりする自分にさらにうんざりする。実際に大事なのは、会う頻度ではなくて、会おうと思えば会えるという環境なのだと知った。
 凪人はいつでも会いたければ(おかまいなしに)会いに来るし、俺もすぐにそうできる距離にいるけど、そう毎日あいつの尻ばっかり追ってもいられない。追いかければその分逃げられてしまいそうで怖かった。
 秋になって、それまで眉毛にかかっていた前髪をバッサリと切った。襟足も刈り上げると、冷たい風が吹き込んでちょっと気恥ずかしい。
「なんか、ムカつくけど似合ってんじゃん」
 美容室で髪を切ってから、(いつものように急に)呼び出されて凪人のアパートの前に車を付けると、開口一番にそう言われた。「もとのポテンシャルが高いからな」
「うぇー色気づいちゃって」
 助手席に乗り込み、凪人は俺の刈り上げた部分に手を伸ばしてくる。ジョリジョリと乱暴に撫でたかと思えば、急にぎゅっと引っ張られた。
「いでっ」
「航也のくせに生意気だよまったく」
「なんだよ、お前だってずっとツーブロックでモテ狙いじゃん」
 おまけに最近じゃ顎髭まで生やし始めて、いかにも都会のゲイって感じだ。
「俺はいいの! カッペはカッペらしくしてればいいんだよ」
 言い返してもさらにヒートアップされるのはわかりきっているので無視する。凪人は「あーもうっ」と言いながらヘッドレストに頭を打ち付けたかと思うと、窓を全開にして顔を出した。
 なんだこいつと思いながら、俺はアクセルをゆっくりと踏む。五分もすると凪人の機嫌は治って、ラーメン食べに行こうと言い始めた。
 狭いコミュニティで暮らしていると、こんなときでもやっているラーメン屋がどこそこにあるという話は勝手に耳に入ってくる。Twitterよりも便利だ。噂を頼りにラーメン屋に行くと、同じ考えを持った人々で長蛇の列ができていた。
「どうする、並ぶ?」
「俺、行列に並ぶ時間って、この世で一番嫌い」
「まあな、それは同感」
「航也、ラーメン作れないの?」
「作れるよ。うちでラーメン食べるか?」
「やったー! 煮卵も乗ってたら嬉しいなぁ。メンマはだめ、あれは割り箸の漬物」
「ほうれん草は?」
「許可します」

 煮卵を三つも乗せたのに、凪人は平気な顔をしてラーメンを間食した。替え玉もした。
「ビール飲もうよビール」
「こんな昼間っから?」
「サイコーでは?」
「いいけど、帰り凪人のこと送れないよ」
「歩いて帰る!」
 言いながら、勝手に冷蔵庫を開けて(発泡酒も入っているにもかかわらず)プレモルを二本持ってきた。乾杯すると、凪人はすぐに缶の半分ほどを一気に飲んだ。
 テレビをつけても新型ウイルスの話しかしないので、Amazon primeでバラエティ番組を流す。酔った凪人が頬を赤くして笑っているのを目の前で見るのは、控えめに言っても最高だ。

 気が付くと夕方になっていた。というのも、ハイペースで飲んでいたらそのまま寝てしまったので。凪人も床に腕を大きく広げて寝ている。面倒くさいなと思いながら立ち上がり、寝室からブランケットをもってきて凪人にかけてやった。こいつ、夕飯も食ってくかな、食ってくよな。何が作れるかなと冷蔵庫の中を見に行こうとしたとき、テーブルの上に置いてあったiPhoneが震える。
 バイブレーションの音で凪人を起こさないよう、すぐに電話に出た。翔太だった。
『ごめん、LINE送ったんだけど返事なかったから、通話かけちゃった』
「ああ、ごめん。寝てたんだ」
『昼寝なんて珍しいね』
「酔っぱらっちゃて」
『昼間から飲んでたの?』
「うん、なんか飲みたくなっちゃって」
『航也にしてはめずらしい……でもまぁ、どこにも行けなくて暇だもんね』
 しれっと凪人の存在を隠してしまう。翔太には今まで、一度も凪人の話をしたことがない。
『ねぇ、なんでずっとカメラミュートなの?』
「あ、本当だ、悪い」
 いつも通話のときはカメラをオンにしているので、翔太の指摘は当然だ。凪人が起きたらやばいけど、致し方ない。こういう時には空気が読めるやつ、だと思いたい。
 ベランダに出て、手すりにiPhoneを置きカメラをオンにした。
「やっほ」
『天気いいんだね』
 特に変にも思われないようでホッとする。そのまま、髪を切ったことや、最近の仕事の話なんかをしていた。
『そういえば、車もらったんだ』
「え、このご時世に? ってか誰に?」
『親にワゴン車もらった。まあ、新しいの買うからなんだけど』
「へえ、車中泊できんじゃん」
『うん。だからその、車で航也のところまで行ってもいい?』
「ええ?」
『ほら、今までの軽じゃ無理だったけどさ』
「え、だってお前、三日くらいかかるんじゃない? ひとりだし、それこそ他県ナンバーの車なんて見られたら袋叩きだぞ」
『昼はずっと走ってて、夜は山の中で休んでたら平気じゃないかな……』
「いやいや……」
『……嘘、ごめん気にしないで』
 本気だっただろ。俺が引かなきゃ、絶対に実行に移してた。
「無理しなくても、もう少しすれば会えるって」
『もう聞き飽きたよ。結構限界なんだよ俺』
 会おうと思えば会える。そうだ、確かに会おうと思えば会えるのに、俺はその選択肢を翔太に適用してなかった。今だって、全然会いたいなんて思えていない。自分が凪人に惹かれているのは十分実感している。でも、それと翔太への気持ちは全く別のものだと思っていた。全部新型ウイルのせいにしていた。翔太に会えないのはウイルスのせい。凪人と一緒にいるのも、ウイルスのせい。
「翔太ごめん、俺……」
『大丈夫、わかってる……もう俺のこと好きじゃないんでしょ』
 画面の中の翔太は、一つも傷付いたそぶりを見せていない。
『そっちで、いい人ができちゃった?』
「それは……」
 全く攻める口調ではない。本当にただわからないから聞いている、という風な口ぶりだった。なんて言えばいい? 本当のことを言うのが本当にいいのか?
 その時、ベランダのドアが開く音がした。振り向くと、凪人が頭だけだして俺のiPhoneを、その中に移る翔太を見つめていた。まずい。
「ごめん、聞いちゃった……俺、航也の友達なんだけど、こいつ、本当浮気なんてしてないよ。端から見てて、本当に健全に暮らしてる。マジでつまんない生活送ってて気の毒なくらいだよ。だからほら、安心しなよ」
 思考停止とはこのことだった。凪人の言っていることが、言葉として頭の中にうまく入ってこない。翔太もいきなり知りもしない男が現れて文字通り目を見開いている。
「こういうこと、きっとよくあるんだよ。好きな者同士でも、うまく旋律が合わなかったり、お互いの関係のないことがじわじわと影響を及ぼしたりさ。タイミングなんだよ、俺たちには手の届かないところで全部決められてんの。あなたも悪くないし、航也も悪くない。だから許してやって。それだけ」
 言い終えると、凪人はまた部屋の中に戻っていった。
「あ、あのな、これは、翔太、あの」
 しどろもどろになる俺にかまわずに、翔太はケラケラ笑い始めた。
『なんかどうでもよくなっちゃった。お友達によろしく、元気でね。今までありがとう』
 翔太はひらひらと手を振ると、そのまま一歩的に通話を終わらせた。え、嘘、今ので終わりなのか俺たち?
 放心状態のまま、部屋の中に戻る。凪人はソファとテーブルの間に座り込んでスマホをいじっていた。
「なんだよ、さっきの」
「だって全然戻ってきてくれないんだもん航也。なんで俺が来てるのに彼氏と電話なんてしてるの」
「いや、寝てたじゃん」
「寝てたら何してもいいの? 無視されてるみたいですごく悲しかった」
「もういい加減にしてくれよ、なんでいっつもそんな自分勝手なんだよ!」
 思わず声を荒げると、翔太の身体がわずかに強張るのがわかった。
「いつもいつも人のこと小バカにして……俺バカみてぇだわ。ここは東京じゃねぇんだよ、何もかも自由じゃねえんだよ」
 言ってしまった。本心じゃないこともない、でも、できることならば今吐き捨てた言葉を全部回収してごみ箱に捨てたい。なかったことにしたい。
 凪人は黙って聞いてたかと思うと、急に立ち上がった。
「……航也みたいに、何でも我慢して自分の中に押し込むとか、俺にはできないから。つまらない時間もムカつく時間も一秒だって過ごしたくない、でもその代わり何があっても誰かのせいにはしない」
 凪人はテーブルの上に置いてあったプレモルを一気に煽ると、「まずい!」と叫んで缶を俺の方に投げつけると、そのまま玄関の方に向かっていった。ドアを乱暴に閉める音が短く響くと、もう何の音もしなくなった。
 床に転がったプレモルの空き缶を拾い上げる。まだ中身が普通に入っていた。なんでこんなことになっちゃったんだ。凪人と俺は元に戻れるだろうか。もう終わりだろうか。缶の飲み口をそっと唇に押し当てて、そのままビールを飲んだ。
 まずい。

 凪人は、俺の部屋に腕時計を置いていった。まっ黄色のベルトを付けられたapple watchは、まさに凪人らしさを体現するようなアイテムだった。
「わざと忘れて行ってあげるから、頭が冷えたら届けて」
 そう言われている気がして、癪だけど仕事終わりに凪人のアパートに向かった。凪人になんて言えばいいだろうか、それとも言葉はいらないだろうか。きっと何かを用意したって、凪人の前ではうまくは進まない。めちゃくちゃムカつくし、一緒にいるとイライラすることも多いけど、俺はあいつのブルトーザーみたいなところに惹かれたんだと思う。
 黄色いapple watchを持って部屋に向かう。ブザーを押してしばらくしても戻ってこない。市民体育館にでも行ったのだろうかと思い、車に戻って待機する。三時間待っても戻ってこない。嫌な予感がして、もう一度部屋に向かう。凪人の部屋は一階なので、バルコニーの側に向かって中の様子を見る。電気はついていない。中で倒れているのかもとさらに目を凝らして室内を見渡すと、まさにも抜けの空、部屋の中には何もなかった。凪人は一晩にして、俺の前から消えてしまった。

 数日後、内閣総理大臣の緊急記者会見が、テレビのすべてのチャンネルで一斉中継された。東京、名古屋、大阪、福岡、沖縄の五つの都市が、暫定的に今後三年間、文字通り封鎖される。一般市民は出入りを原則禁止されることになった。
 そんなの、俺の知ったこっちゃない、マジで。
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