文字数 3,738文字

 東京のロックダウンは突然に始まった。世界的に新型ウイルスの感染が広まる中、これまでも可能性は示唆されていたけど、ついに今日発動されたと夕方のニュースが報じる。とは言っても、俺の住むR県は東京から遠いこともあって、他人事だ。なんなら東京のやつら、ちょっといい気味だ。ふふん、と思いながら冷凍庫からカルピスアイスを一本取り出して口に突っ込んでいると、そんなに他人事でもないことがわかった。
「……あいつ、どうすんだろ」
 あ、違う。やっぱり他人事だ。他人だ他人。くそっと一思いにカルピスアイスをかじると、右奥歯の根っこに激痛が走る。知覚過敏つらい。年齢を重ねるほど、いろんなことに鈍くなるのに、逆に知覚過敏はひどくなる一方だ。さらにつらいのは、こんなに痛くてもそれを分かち合う人が今ここにいないこと。なんて風に考えると、あいつの顔がちらついて、さらにイライラしてくる。
 他人ではあるが放っておくのも人としてどうかと思うよなぁ、と自分に謎の言い訳をしながら、あいつにLINEするべくiPhoneを手にする。でも、なんて送ればいいの?
『大丈夫?』
 くそつまらない俺のメッセージに、すぐに既読がつく。
『なにがー?』
『ロックダウン、東京の』
『あーね。やばい』
 あーね。やばい。で終わらすお前がやばくない? あと二週間ほどで東京に帰るって言ってたけど、大丈夫なんだろうか。
『もし困ることあれば言って』
 なんていいヤツなんだ俺、さすがだなと思いながら返事をしてやったのに、その後結局既読はつかない。あいつのコミュニケーションはすべてがこんな感じ。くそムカつく。カルピスアイス追加だ。
 その後もLINEは全く通知が光ることもなく、それを気にする自分も嫌なので画面を下向きにしてサイドボードに置いたまま、ぼーっとAmazon primeでバラエティを流し見する。そろそろシャワーでも浴びるかなと立ち上がったその時に、窓の外からチリンチリンと自転車のベルがけたたましく響く。チリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリン……この音は、俺がベランダから顔を出さない限りやまないことを、すでに何度も経験する中で学んだ。くそ、既読しないくせに。
 言いなりになるようで嫌だけど、しぶしぶベランダから顔を出す。待っていました、というように、凪人(なぎと)は自転車にまたがったまま俺に向かってニカっと笑う。
「ねえ、ドライブ行こ!」
「はあ? お前、何時だと思ってんだよ」
「逆に何時までとか決まってんの?」
 凪人は俺が断らないことを確信している。いつもそうだ。俺は全部、結局は凪人の思うままだ。
「はやく~」
 チリンチリンチリンチリン。
「わかったからやめろって。今降りる」
 ため息を吐くと、白くなってすぐ消えた。もう四月だというのに、夜はまだ寒い。俺を待つ凪人は、THE NORTH FACEのロゴが書かれている高そうなパーカーに、短めのハーフパンツを合わせて、キャップを無造作にかぶっている。その背には、真っ暗な畑が広がっていた。もっと奥の方で、ちょうど高架橋の下に、夕焼けが細く眩しく光りながら沈んでいく。
 
「ドライブ、どこ行きたいの?」
 俺の車に乗り込むと、凪人はわが物顔で自分のiPhoneとカーオーディオをペアリングして、よくわからないメロウな曲を流し始めた。
「行ったことない場所がいい」
「もうお前を連れて行けるようなところなんてないよ」
航也(こうや)が勝手にこの土地の限界を決めたらだめだよ」
 そんな風に言われても、ここには田んぼと山とイオンとスーパー銭湯しかない。
「……とりあえず出すか」
 車を出発させると、いつものように凪人は車の窓を全開にした。ひんやりとした空気が入り込んでくるが、閉めろといっても聞かないので何も言わない。
「蒼紫山でも行くか。展望台、行ったことあるっけ」
「ないない! いいじゃん、展望台。遠くまで見える?」
「うん、たぶん」
 蒼紫山は、この地域に育った人間なら小学校の遠足なんかで一度は行ったことのある、小さい公園や植物園、資料館なんかがくっついた小高い山だ。俺ですら、十数年は行っていない。
 しばらく走らせてから、いつも通勤で通る交差点を真逆に曲がる。しばらく行くと民家は減り始める。昔、数回だけ行ったことのあるラーメン屋も、もうなくなっていた。助手席の凪人は、車中に流れる音楽とは全然違う八〇年代のアイドルソングをハミングしながら、左手をお椀のような形にして外に出している。
「今何キロ?」
「五〇キロちょい」
「うーん、じゃあBカップかな」
 手のひらに感じる風圧が、おっぱいの柔らかさに似ているという、子どもの頃によくやったあれだ。Cカップにするためにアクセルを踏み込むと、凪人が嬉しそうに俺の横顔を見つめるのがわかったけれど、気付かないふりをした。

 二十二時を過ぎたころ、蒼紫山に到着した。こんな時間のこんなところに人なんていない。駐車場に車を止め、凪人と俺は途中の自販機でホットのお茶を買い、展望台に向かって歩き始めた。でこぼこの石畳で、凪人は何回か足を踏み外しそうになる。
「歩くの下手だな」
「違うし、道作るのが下手なんだよ」
「ペットボトル持ってやろうか?」
「いいよ別に。歩ける」
 勇みながら、凪人はスピードを速めた。ああクソ。頭一つ分、俺より小さいその背中を、俺はどうしたって目で追ってしまう。
 展望台に到着すると、眼下には見事な夜景が、と言うほどでもなく、まあそれなりの街の光がぽちょんとあるだけで、凪人もふーんという感じだった。
「なんだよ、夜景がしょぼいのは俺のせいじゃないぞ」
「誰も何も言ってないじゃん。夜の山の匂い、好きだよ」
 開けた方向に向かって設置してあるベンチが、かろうじてここが展望台であることを定義づけている。凪人がそこに座るのにならって、俺も隣に腰を下ろした。
「なぁ、お前、結局いつまでこっちにいるの?」
「早く帰ってほしいの? ひどい」
「ちげえよ、ロックダウンで東京に入るの大変って言ってたし、その、色々あるんじゃないの? 帰れなくて困ることとか、寂しいとかさ」
「別に、ちょっとこっちの生活が長くなるだけだし、どこでも仕事はできて、食べるものもあって、航也が話し相手になってくれるじゃん」
「そういうもんなの?」
「うん。俺、この街好きなんだ。楽しいの方が多いよ」
「ならいいけど」
「だからもっと俺のこと構って」
「構ってんじゃん」
「もっと。明日は何する?」
「明日は残業確定だしなー」
「ちぇっ。困ったら何でも言えって言ったくせに」
 言ったよ? 言ったし本心だし別になんなら明日の残業なんてしなくてもどうにかなるけどさ。
「あれ、これ見て見て」
 今の会話なんてなかったかのように、凪人は足元に落ちてた何かを拾って、俺に見せてきた。桜の花びらだった。
「どこかで咲いてるのかな?」
「あーそういえば、あっち側に下ると桜の木が結構あったかも」
「いいじゃん」
 すっと立ち上がると、凪人の付けていた香水がふわっとかすかに香った。
「行こうよ」
「ああ、うん」
 自分のペースでとっとこ行ってしまう凪人を追いかける。

 俺は、今の彼氏を含めて三人の男と付き合ってきた。三人とも、結構な遠距離恋愛なんだけど、それしか経験がないから、いいことなのかつらいことなのかわからない。遠く離れているので、付き合う前も頻繁に会うことはできなくて、会う時は泊りがけの旅行なんかが多かった。知らない土地では決まって有名な観光地に行く。そういうところには決まって綺麗な風景があって、例えば刺すような日差しに照らされた瑠璃色の海とか、一面に広がる真っ赤なコキアの畑とか、時間が止まったみたいに静かな、夕焼けに染まる雪原とか、そういった美しいものを共有する相手を大切で愛しいと感じてしまうようになっていた。だから本当は、凪人と夜桜なんて見るわけにはいかないとわかっていたのに、躊躇するにはもう遅くて、俺も弱くて、凪人が振り向いて俺を見つめて笑う頃、強めの風が吹いて花弁が舞いあがって俺たち二人を包み、そこには誰もいないみたいになってしまった。
「すっごい桜の匂いがする」
 凪人は、夜空を仰ぐみたいにして桜の木を見上げていた。隣に立って、同じように顔を上げる。月の光が、花弁のピンク色を照らし出していた。
「夜景はしょぼかったけど、これは結構いいね」
「やっぱりしょぼいと思ってたんじゃん」
「まあ……」
 肘で凪人を小突くと、いたずらっぽく笑いながら、凪人もやり返してくる。胸がいっぱいになってきて、ちょっとイライラしてきた。黙って桜を見ながら、ぶらんと下げられた凪人の腕に意識を手中させる。ゆっくりと凪人の手の甲に自分の手の甲を近づけて、振り払われたって冗談にすり替えればいいと自分に言い聞かせながら、そっと手を繋いだ。凪人は桜を見上げたまま、顔色一つ変えない。そのくせに指を恋人つなぎに組み替えてぎゅっと握ったりしてきて、めちゃくちゃズルい。
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