文字数 5,547文字

 新型ウイルスが突然変異してから二週間がたった。一時期ウイルス関係の話題は少なくなってきていたのに、ここに来てまたメディアはウイルスの新たな危険性を四六時中報じ、危機感を煽っている。でも、いまだに続く都市圏のロックダウン(東京に続いて北海道と大阪、福岡もロックダウンされた)は功を奏し、他県での感染は縮小傾向にあった。俺の住む県も他のド田舎県も、いまだに感染者はゼロだ。
『はぁ……俺たち、いつになったら会えるんだろうね』
 パソコンの画面越しに、翔太がもう何度目かわからない嘆きをつまらなそうに口にする。
「こればっかりはな……飛行機も一般客の乗車はできないし……しょうがない」
『しょうがないのはわかってるよ……』
 だったらどうのこうの言ったってしょうがなくね? って思うけど、翔太はいつも文句を言う。まるで、俺たちが会えない原因が俺にあるかのように。
 翔太と付き合い始めて、もうじき一年半になる。ゲイ向けマッチングアプリでやり取りを始めて、会う約束をした。俺と翔太を隔てるのは六〇〇キロの距離。歴代の二人の彼氏は二五〇キロ、四二〇キロなので、最遠距離恋愛だ。初めて会ったのは、二人の中間地点の温泉地で、二泊三日のちょっとした旅行だった。今まで一緒に生きてきたのではないかと思うくらい意気投合した気がして、写真で見るよりも翔太はずっとかわいくて、会った次の日の朝に、宿の近くの海辺を散歩しながら俺から告白した。
「俺も、航也君とそうなれたらなって思ってた」
 冬の、空気がとても乾燥した日だったのをよく覚えてる。眩しいくらいの日差しが波に反射してキラキラ光っていて、その背景のせいか、翔太までなにか神々しい存在のように見えた。
「じゃあ、俺と付き合ってくれる」
「うん……よろしくお願いします」
 ニヤニヤしながらお辞儀する翔太がたまらなく愛しくて、俺は周りを見て人がいないの確認し、翔太を抱きしめた。それからしばらく、二人で瑠璃色の海を眺めながら、お互いがいつからどんだけお互いを好きだったのかを話し合っていた。
 その後は、月に大体一、二回のペースで会いながら、毎日LINEやビデオ通話でのコミュニケーションを重ねた。遠距離恋愛は、その距離の遠さから交通費が高くつくとかよく勘違いされがちだけど、実際には毎週デートしてるカップルの方が出費は高いのではないかと思う。翔太と過ごさない週末、俺は本当にお爺ちゃんみたいな生活をしている。仲のいいゲイの友達もいないし、あんまり自分のことを人に話すのも得意ではないので、他に比較もできないけど。
『もう四ヶ月くらい会って無くない?』
「東京のロックダウンからだもんな」
 あいつが帰れなくなってからもうそんなに経つのか、と自動的に凪人の顔を思い浮かべる自分を殺してやりたい。慌てて翔太を見つめる。何か話さなきゃ。でも、俺たちの共通の話題は日ごとに減っていく。ウイルスの話題も仕事の話も共通の趣味(ほとんどないけど)の話も全て消化してしまった。髪切ろうかなぁとか、そんな言葉しか思い浮かばない。
『そろそろ夕飯食べて、今日は早めに寝ようかな。俺、明日早いんだ』
 画面の中の翔太がわざとらしく目をこする。時計を見ると、まだ一八時半。
「……そうだね。また明日な、おやすみ」
 お互いにあいさつを交わし、ビデオ通話を終了させる。本当に明日早いのか? どうせ夜更かしする癖に。翔太へのちょっとしたイラつきと、通話が終わってほっとした気持ちがない交ぜになる。
 急に手持無沙汰になって、ほとんど無意識に冷蔵庫を開ける。実家(と言っても、俺の家から車で十五分も走れば着いてしまうけど)からもらった桃が真ん中の段に四個転がっている。さっさと食わないとなと思いながら一個を取り出し、包丁とまな板を用意した。
 母親が果物好きなせいで、実家に帰るたびに半ば無理矢理、季節ごとの果物を持たされる。家に持ち帰り、食べるために皮をむいて身を切るその瞬間が苦手だ。俺の果物の切り方は、母親のそれと手順が全く一緒で、子どもの頃、食後によく母さんがデザートに食卓で果物を切ってくれてたのを思い出してしまう。そして、今ここには俺が一人しかいないのだと思い知る。
 桃の皮を剥こうとして手を止め、まな板と包丁をしまってから、iPhoneのロックを解除してLINEを立ち上げる。
『なあ桃いらん?』
 間髪入れずに既読がつく。
『いります。市民体育館にいるから』
 いるから。いるから何やねん。

 フリーウェイトでベンチプレスをする凪人の横に座ってそのフォームを眺める。重すぎず軽すぎない負荷で、乱れることのない腕の伸び縮みを見ていると、なんとなく気分がいい。
「……はい、交代」
 凪人がベンチから離れると、シートの上には凪人の分身みたいに汗が光っていた。そこにぴったり重なるように寝そべると、凪人は俺を見下ろしながらバーベルをおろしてくる。
「肩甲骨もっと寄せて」
 凪人の指示に従いながら、バーベルを上げ下げする。凪人が持っていた重さよりもさらに軽いのに、結構きつい。凪人に連れてこられるまで、俺はジムでのトレーニングなんてしたことがなかった。というかたぶん、この市民体育館のフリーウェイトでコンスタントに筋トレしてるのなんて、大げさでなく凪人くらいじゃないだろうか。
 そんな風に前に言ったら「東京のおかまはこれがデフォだから」とさらっと言われた。急に自分の身体が恥ずかしくなって、それからは俺もここに通うようになった。
「で、今日もまた彼氏とつまんないビデオ通話してたの?」
「……いやっ……つまんねぇわけじゃ、ないから」
「でも憂鬱なんでしょ?」
「共通の、話題が……なくって……困るだけっ」
「変なの。なんで共通のこと喋らないといけない前提なの?」
 その前に、俺ずっとバーベル持ち上げながら会話してるんだけど。めちゃくちゃきついんだけど。息継ぎがうまくいかずに何も話さないでいると、凪人はそのまま一人で話しはじめた。
「わざわざ自分以外の人と話すなら、知らないこと知れた方がいいじゃん。俺は、好きな人がその日どんなことを考えてたとか全部知りたいし、自分がその日何をしたとか、全部聞いて欲しいけどなぁ」
「っ……はい交代」
 俺がベンチから立ち上がっても、凪人は交代するそぶりを見せなかった。
「……全部聞いて欲しいけどなぁ!」
 凪人が俺を睨む。
「まあ、人それぞれなんじゃない?」
「航也は彼氏のこと本当に好きなの?」
「……もうやらないの? ベンチ」
「やんない。今日は終わり」
 吐き捨てるみたいにそういうと、更衣室の方に向かっていく。ベンチをタオルで拭き、急いで追いかけた。なんなんだよあいつ。
 更衣室に行くと、凪人はすでにリュックを背負っていた。
「なに急に。怒ってるの?」
「怒ってる人に怒ってるのって聞くの反則だからね」
「だって意味わかんねぇんだもん」
「俺だってよくわかんないけど、ムカつくんだもん」
 よくわかんないまま怒るなよ。そう言ってもどうせ言い返されるので黙っておく。タオルやペットボトルをショルダーに詰め込んで、凪人に続いて更衣室を後にする。
 駐車場に出ると、凪人は自転車置き場に一直線に向かっていく。このまま別れるのは良くないとわかってはいる。ただ、ごめんと謝ったところで「悪いと思ってないのに謝るな」と言われるのも予想できた(前にも言われた)。よくよく考えると、翔太にも昔言われたことがあった。
 と、そもそも俺はトレーニングしに来たのではなく、凪人に桃を渡すために来たのだと思い出した。
「凪人、桃!」
 凪人は大げさな動作で振り向いた。
「桃、渡していい?」
 しばらく立ち止まってから、凪人が俺の方に戻ってくる。ただそれだけなのにちょっとした安堵感があった。
 車の後部座席に紙袋に入れた桃を置いていたので、それを取り出そうとしていると、凪人は何も言わずに助手席のドアを開けて車に乗り込んだ。
「送って」
「……いいけど、チャリは?」
「明日取りに来るからいい」
「ふうん」
 勝手な奴だなと思いつつ、いつものことなので放っておく。エンジンをかけて、凪人のアパートに向かった。
「ねえ航也、桃ってどうやって食べるの?」
「どやってって?」
「皮はどうやってむくの? 皮むき器持ってないよ俺」
「いや、包丁でむけるけど」
「えーむいて」
「自分でやれよ」
「ケチ野郎。いいじゃん、明日仕事午後からでしょ?」
 くそ、バレてる。
「……冷えてないまま食べることになるけどいいの?」
「うん。ぬるいほうが甘い」
 ぬるいほうが甘い、たしかに。

 凪人の家に来るのは初めてではない。なんならキッチンに立つのも初めてではないので、包丁や皿がどこにあるのかもちゃんと知っている。二つ持ってきたうち一つは冷蔵庫にいれて、もう一つの桃の表面を軽く水洗いしてから、皮をむいていく。
 凪人の家に上がり込むことに、最初は翔太への罪悪感があった。ただ、俺と凪人は三ヶ月前のあの日に手をつないだっきり、何もなかった。きっと俺だけがちょっと傷ついただけで、本当にただの友達同士みたいに日々を過ごしている。
「めっちゃ甘い匂いする〜」
 凪人が俺の隣に並んで手元をのぞき込んでくる。そんなに大きいものでもないので、大きく切って皿に入れようとすると、凪人は隣から手を伸ばしてきた。
「ここで食べちゃえばいいよ」
「行儀悪いな」
「だってここ俺んちだもーん」
 凪人がドヤ顔で桃にかじりつくと、果汁が唇の端から溢れて顎を伝っていく。
「うぎゃあ」
「だから皿にって言ったのに」
 急いでティッシュを渡すが、垂れた果汁は首筋を伝って凪人のティシャツを汚した。
「あーあ、染みになるぞ」
「えー買ったばっかなのに」
 口元を乱暴に拭うと、凪人は乱暴にティシャツを脱ぎ捨てた。インナーのメッシュタンクトップと、ちらりと見える鎖骨や脇にどうしたって目を奪われる。血が煮えるようだ。
 と、凪人の右側の胸元に、黒くて細い何かが見えた。
「あ、見つかっちゃった」
 凪人がタンクトップを引き上げてそれを隠す。
「タトゥー?」
「うん……」
「なんて書いてあるの?」
「やだ、恥ずかしいもん。若い時に入れたやつだから」
「いいじゃん、見たい」
「笑っちゃだめだよ?」
「笑わねえよ」
 凪人はタンクトップの胸元に指をかけて、そのまま下まで引っ張った。少し盛り上がった胸の右側、薄い色の乳首の斜め上に、糸を垂らしたみたいに抽象化された筆記体が描かれていた。
「wanderlust?」
「うん」
「何て意味?」
「……絶対教えない」
 照れ笑いしながら凪人が目を伏せる。気付くと俺は勝手に手を伸ばし、凪人の肌に指を這わせていた。
「触っていい?」
「もう触ってるじゃん」
 文字の上を、ゆっくり親指で撫でる。凪人はいつ、なんでこのタトゥーを入れたんだろう。いったい何の、誰の影響を受けて、消えない文字を胸に彫ったんだろう。
「航也の指、冷たいね」
「ごめん……」
「ううん、いやじゃないよ」
 凪人が俺の身体に一歩近づく。凪人の胸においた指はそのまま、左手で凪人の腰を抱いた。こんなに近くで凪人の顔を見たのは初めてだった。涙袋の下にうっすらと、南十字のように小さいほくろがあって、そこに口づけたくてたまらない。このまま進んでいいのか、最後の確認をしたくて目をのぞき込む。でも凪人は全然目を合わせてくれない。
 ドーンッ
 急に大きな音が外から響いてくる。雷? でも雨なんか降ってなかったし、なにか爆発した?
「花火だ! 花火!」
 至近距離で凪人が大きな声を上げる。反動で、腰に回していた手をほどいてしまった。
 ドーンッ
「航也、早く、屋上っ!」
 凪人は俺の手を取り、一直線に玄関に向かった。鍵もかけずに飛び出し、エレベーターが一階にあるのを確認すると、待ちきれずに非常階段を駆け上がる。あーあ、せっかくいい雰囲気だったのに。ってゆーか桃置きっぱなしだし、茶色くなっちゃうな。凪人の手も俺の手も果汁まみれだし。
「航也急いで!」
「これでも急いでんだよ!」
 一段抜かしで一気に四フロアを駆け上るのは、さすがにしんどかった。凪人はそんなの気にもせずに、屋上に続く扉を開けた。
 ドーンッ
 屋上からは、ちょっと小さいけれど花火の全貌を見ることができた。
「……間に合ったぁ、今日だったんだね」
 はあはあと肩で息をしながら、凪人は子どものように笑った。
 全国一斉花火。新型ウイルスのせいで、全国の花火大会が中止になり、見せ場をなくした花火を、場所日時非公表で全国一斉に打ち上げるイベントをするらしく、それが今日だったのだ。
 ドーンッ
「ここからだとちっちゃいね」
「ああ、いつもの花火大会だと、河川敷まで行けるから結構見ごたえあるんだけどな」
 来年一緒に行こうか、そう口が滑りそうになって慌ててやめる。来年、ここに凪人はいるだろうか。
 凪人は握ったおれの手を離さなかった。というかたぶん、掴んでいることを忘れている。息を整えながら花火を凝視していた。スターマイン。次から次に花火が打ち上って、さっき爆発したばかりの輝きを上書きしては、やがて夜空に消えていく、その繰り返し。打ち上げ終わると、さっきまでの光景が嘘みたいに、夜は真っ暗だった。

 次の日、俺と翔太は初めて一切の連絡を取らなかった。俺からもしなかったし、翔太からもコンタクトはなかった。
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