第4話

文字数 1,788文字

 もうお花はいりません-
 ノートの切れ端に書かれた手紙を手に翔太はつぶやいた。そう口に出すと心に小さな穴が空いたような気がした。最近花にも少し詳しくなり、今度はどんな花を入れてもらおうかと考えるようになっていた。手紙をもらった日以来レナの姿も見なくなった。ご飯を作りに来てくれていたおばさんの家に引き取られたのだろうか。それから数日が経った。やはりレナの部屋に人がいる気配はない。レナの置かれた状況、心情を想像すると悲しい映画を観た時の様に、鼻の奥がツンと痛んだ。
 それからもしばらくレナの姿を見ることはなかった。忙しさもあったが、花屋に行くこともなくなり、写真を撮りに行くことも億劫になり、ただ季節だけが少しずつ変わろうとしていた。

 ある日の出勤前、いつものように部屋のソファに寝ころび、Youtubeを流したまま時間をやり過ごしているとチャイムが鳴った。覗き窓からは30前後の女性が見える。ドアを開けると、その女性の側にレナがくっついていた。レナのおばさんか、と見当を付けた時「レナの母です。入院中は娘が大変お世話になりまして」とその女性が言った。それから「お花本当にありがとうございました」と続けた。
「いえ、どういたしまして・・・退院されたんですね」と翔太は言った。
「はい、先週退院してしばらく姉の家で休んでいたんですけど、具合が良くなったので今日戻ってきまして、ようやくこの子と一緒に家に戻って来れて」
 母はそう言って娘の頭を撫でた。レナは母親の腕にくっついたまま、もじもじと体を動かしている。表情がいつもと少し違うことに気づく。相変わらず笑顔は無いが、何かを我慢しているような表情だ。ちょっと針でつついたら何かがあふれ出してしまいそうな。
「お花、本当ありがとうございました。正直入院中はちょっと気が塞いでいたんですが、この子が花を持ってきてくれると心が軽くなって・・・これつまらないものですが」といってレナの母が菓子折りを差し出した。「そんな、お気遣いありがとうございます」翔太はそう言って菓子折りの袋を受け取った。それから「そうだ・・・もしよければ、お願いがあるんですけど」と言った。「はい、なにか」とレナの母親が言った。
「よかったら・・・退院の記念に、お二人の写真を撮らせてもらえませんか」
「え・・・はい、構いませんけど。そう言えばレナの写真もありがとうございました。きれいに撮って頂いて・・・」
 礼を言う母親とレナを金網のフェンスの前に連れて行く。夕暮れの日差しが母娘の顔が照らす。敷地に咲き始めた金木犀の香りがあたりをやさしく包んでいる。母親が前に立つ娘の肩に両手を置く。娘はその両手を掴む。
「じゃあレナちゃん、お母さん、お帰りって言ってみて」口角を上げさせようとして翔太は言った。「いいかな?」レナはこくんと頷いた。「オーケー、お母さんお帰り!だよ。いい、せーの」
「おかあさんおかえり」
 子猫が鳴くような小さな声でレナは言った。当然口角も下がったままだ。「もう一回、もう一回言ってみようか」翔太がそう言うとレナが母親の方を見上げた。母親は柔らかい笑顔を浮かべて「レナ、お母さんおかえりって言って」と言った。
「じゃあいいかな、もう一回撮るよ。せーの」
「おかあさん、おかえりー!」
 雷鳴のような大声がアパートに響きわたり、その瞬間翔太は連続でシャッターを切った。

 翌朝の夜勤明け、翔太はアパートに戻るや否や一眼レフをPCにつなぎ、データを取り込んだ。それからレナ母娘の画像が収められたファイルを開く。ディスプレイに映し出された画像を見つめて翔太は大きく息をついた。「大輪の笑顔ってやつだ」
 画面には今まで見たことの無い、また想像もできなかったレナの笑顔が爆発していた。口を目いっぱいに広げ、目が見えなくなるくらい顔をくしゃくしゃにしている。
「どんな花でもかなわない」

 部屋にいつもの朝陽が部屋に差し込む中、翔太はディスプレイの前でしばらくその画像に見入っていたが、ふと我に返って画像をPCに保存した。バックアップもしっかりと保存されているのを確認してから、翔太は台所に立ってお湯を沸かした。コーヒーのフィルターを取り出し、粉をいつもより少し多めに入れる。ケトルが鳴り始めるまで翔太は流しに両手をついて立っている。写真のタイトル案をいくつも頭の中で呟きながら。

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