第6話 武道

文字数 12,202文字

 学校という閉鎖空間は部外者からわたしたちを守ってくれる反面、内部の人間からは逃れられない厄介なところでもある。
 いじめがその典型的な例だ。たとえ今日もいじめられるとわかっていても、学校には行かなくてはならない。『危険な場所には近付かない』という護身術の原則が通用しない。
 勇気を出して先生に相談しても、よほどのことがない限り隔離はおろか監視すらしてくれない。ほとんど野放しのような状態で同じ場所に居続けなくてはならないのだ。これでは報復の可能性を怖れて言い出せなくなるのも無理はない。
 現在、わたしはそれと似たような状況下にある。例の不良三人組が報復に来るかもしれないからだ。停学から明けて間もない状態でそんなことをすれば、今度こそ退学処分は免れないだろう。だからといって彼らが襲ってこない保証はどこにもない。
 先生から聞いた話によると、三人はいずれも二年生。
 学年によって教室の階が違うので、自分の教室にいる限り不意に遭遇することは通常ない。
 廊下も階段付近でなければ安全と言える。
 でも、それ以外の場所では絶えずビクビクしながら行動しなければならない。彼らが卒業するまで、あと一年と四ヶ月近くも。
 あんな不良たちのために、わたしの高校生活の約半分が台無しになってしまった。
 そのくせ、当の本人たちは今日ものうのうと学校に通ってくる。
 何の賠償もせず、謝罪すらなく。
 どう考えても報復すべきはこちら側だ。しかし、社会はそれを許さない。
 ひたすら防衛に甘んじるしかないのだ、被害者は。
 とはいえ、泣き言ばかり言ってはいられない。今は自分にできることをしなければ。
 部活もその一つだ。剣道の技が護身に向いていないとはいえ、体力作りはしておいた方がいいし、襲撃者を威嚇する意味でも竹刀は持っていたい。
 何より、部員のみんなが力になってくれるのが心強かった。
 同じ一年生部員の子が、今まで以上にわたしたちと行動してくれるようになった。帰る方向が同じ先輩が途中まで一緒に歩いてくれた。あの三人の動向を教えてくれる先輩もいた。
 みんなの優しさが、わたしを守ってくれた。油断はできないものの、これなら安心して高校生活を送れるようになる日も遠くない。だんたんとそう思えるようになってきた。
 そんなある日の帰り道。
「お、おい」
 突然、電柱の陰から見覚えのある男子生徒が姿を現した。
 例の三人組の一人、名前は確か花井。あの時わたしの右側にいた男だ。
 背は高いが身体は細い。その上、妙にそわそわしているので威圧感がなく、それほど恐怖心が湧いてこなかった。
 だが油断は禁物。
 わたしと紗月、さらに一緒にいた先輩も、素早く竹刀を袋から出し正眼に構えた。
「待ってくれ! 何もしねえ。話があるだけなんだ」
 花井は降参するように手のひらをこちらへ向けてきた。
「話?」
 わたしは構えたまま応じる。
「そう、大事な話だ。けどこれじゃ目立つから、とりあえず竹刀を下ろしてくれよ」
「花井! あんたその前に、この子に言うことがあるだろ!」
 先輩が怒鳴った。
「わ、わかってるよ。新條さんだったか? ……悪かったよ」
 花井は小さく言った。
「なんだよ、そのいい加減な態度は? 本当に反省してんのか!?
 さすが剣道部随一の威勢を誇る先輩だ。この人が味方で良かった。
「してるって。その証拠に今日は重大な情報を持ってきたんだ。だから、あまり大声出さないでくれよ」
 あの時とはまるで立場が逆だ。
 そのせいか、憎いはずの相手に不思議と怒りが湧いてこない。不良とは一人ではこんなにも弱々しいものかと拍子抜けした。
 先輩がこちらを見て言う。
「どうする、新條? 被害者はあんただ。あんたが決めな」
 罠の可能性がある以上、のこのこ付いていくわけにはいかない。話を聞くなら今この場だ。
 でも、このままでは周囲にはわたしたちが彼を脅しているようにしか見えない。下手をすると通報される恐れもある。
 わたしはゆっくりと竹刀を降ろした。
「話を聞きます。二人とも、竹刀を……」
 紗月と先輩も竹刀を降ろした。ただし、袋には入れない。
「あ、ありがとな、新條さん。で、話の方なんだが――」
「その前に」
 彼の言葉を遮って、わたしは聞いた。
「反省してるなら、どうしてもっと早く来なかったの? 停学が明けてから一週間も何してたの?」
「そ、それは、お前らの警戒が厳し過ぎて近付けなかったんだよ。それに、こんなとこ(れん)に見つかったら殺されるから、なかなか機会がなくて……」
 なるほど、それで慌てていたわけね。半分はもっともな理由だけど、もう半分は保身か。
 そして、蓮こと紀藤蓮。あの時わたしの正面にいた茶髪の男子。三人組のリーダー格。
 この花井と違って、彼に反省の色はないようだ。
「殺されるって……。蓮ってのはそんなにヤバい奴なの?」
「ああ。あいつは執念深いからな。お前のことだってまだ諦めちゃいない。絶対このままじゃ済まさねえって言ってた。今日はそれを伝えに来たんだ」
 急に立ちくらみがしてきた。ようやく晴れてきた胸中に再び暗雲が立ち込めてくる。
 用心していたとはいえ、実際に狙われていると聞かされるのはショックだった。
 言葉が出せないわたしに代わって、紗月が聞く。
「じゃあ、もう一人は? 名前は確か……平田? そいつはどうなの?」
 あの時わたしの左側にいた小太りな男のことだ。
「あいつは一人じゃ何もできない奴だから、仕返しとかは考えてないと思うけど……。たぶん来る時は蓮と一緒に来るよ。あいつ、蓮には逆らえねえんだ」
 要するに舎弟みたいなものか。不良同士のくだらない上下関係だ。
 紗月がさらに聞く。
「あんたはどうなの? あんたも蓮ってのには逆らえないの?」
「え、いや、俺は……」
 花井は声を詰まらせる。
 もう聞くまでもなかった。この様子では彼も蓮には逆らえないようだ。それを認めない態度がなんとも見苦しい。
 紗月にもそれはわかっているだろうに、容赦なく追い打ちをかける。
「もし本当に反省してるなら、あんたが責任持って止めなさいよ」
 先輩も強気で続く。
「そうだよ。紀藤と対等だってんならできるよな?」
「い、いや、それは無理だ!」
 花井は両手を左右に振りながら後退する。
「とにかく、蓮が狙ってることは伝えたからな。あとはそっちで何とかしてくれ」
 それだけ言って、そそくさと逃げていった。


 まだ終わってなかったなんて……。
 わたしは帰って着替えた後、ベッドで横になった。そんなに疲れてはいないはずなのに、目覚めの悪い朝のようにだるくて起き上がる気がしない。
 とりあえず、明日の朝一番で先生に相談しに行こう。でも結局、同じようなこと言われるんだろうな。一応注意はするけど、現時点では何もしてないからそれ以上のことはできないって。
 注意で止まるわけないでしょう。隔離でも監視でも拘束でも、いくらでも手段はあるんだから、被害者を守るためにやってくれればいいのに。被害者の安全より加害者の人権が優先されるなんておかしいよ。
 親に相談したところで毎日学校まで来られるわけではない。来たら来たでいい笑い者だ。
 警察に相談してもムダ。
 強力な武器を持つのもダメ。
 先に仕掛けて降伏させるのもダメ。
 学校を休むのもダメ。
 あれもこれもできない、ムリ、ムダ、ダメ。
 この社会には、まっとうな方法で暴力に対抗する手段が一つもない。まるでいじめを助長するような規則ばかりだ。
 剣道部のみんなが守ってくれるとはいえ、全く隙がないわけじゃない。あるいは、人目のあるところでもなりふり構わず襲ってきたら……。
 わたしと同じく紀藤に恨みを買っている福富先輩には、生徒会への勧誘を断った手前もあって相談しづらい。残る手段は一つしかなかった。
 わたしは、太刀河さんに相談すべく電話をする。
『来るのがわかっているなら、こちらから先に手を打った方がいい。先手と後手、どちらが有利かは教えただろう?』
 返ってきた答えは予想外のものだった。
「でも、こっちから仕掛けてやっつけたら、こっちが悪者にされちゃいますよ?」
『やっつけろとは言っていない。戦うのは最終手段だ。戦わずして事を収める方法を考えてみなさい』
「そんなの、どうやって?」
『彼がそんな人間になってしまったのも何か理由があるはずだ。それを突き止めれば、彼を止める方法が見つかるかもしれない。あとは安全策を用意した上で駆け引きだ』


 翌日、わたしは紀藤蓮に関する情報を集めることにした。
 まずは彼と同じ二年生である剣道部の先輩から話を聞いたところ、少なくとも高校生になった時点で、すでに不良だったという。停学処分になったのは今回が初めてだが、陰で暴力沙汰を幾度となく起こしているらしい。
 次に、先輩から紀藤蓮と同じ小中学校に通っていた人を紹介してもらった。
 その人から聞いた話によると、紀藤は元々真面目な人間だったが、中学二年生の秋頃から急に非行に走るようになったそうだ。
 原因は家庭の事情。
 紀藤の家は親が大企業の重役で、けっこうなお金持ちらしい。
 かといって、親が仕事人間で子供をほったらかしにしたわけではなく、家庭内暴力を振るったわけでもなく、誰もが羨むような家庭環境だった。
 そんな家庭に亀裂が走ったきっかけが父親の部下の事故死だった。仕事中に起きたその事故は本人の不注意ということで片付けられてしまったが、過労が原因なのは誰の目にも明らかだったという。
 要するに、父親の会社はいわゆるブラックな企業だったのだ。そして、経営者側である父親は従業員を平気で酷使する人間だった。自宅に警察や部下の遺族が来ても、責任逃れに必死で反省する気のない父親の姿を見て、彼はおかしくなったのだという。
 結局、彼も社会の犠牲者だったわけだ。本当に悪いのは無責任な大人であり、そんな大人の存在を許す社会そのものだ。
 でも、それがわかったところで彼の凶行から身を守る方法は思い浮かばなかった。
 家に帰って着替えを済ますと、昨日と同じように部屋のベッドに寝転がって考えた。
 太刀河さんは何が言いたかったんだろう? 
 紀藤が不良になってしまった理由を踏まえた上で戦わずして事を収める。そんなことが本当に可能なのだろうか? カウンセラーじゃあるまいし。
 もう一度相談してみようかな。
 ……いや、ダメだ。もっと自分の頭で考えなければ。相談するのは、考え抜いてどうやっても答えが出せなかった時だ。
 でも戦う以外の方法となると、説得するか、脅迫するか、取引か。
 説得は難しいだろう。
 彼は社会に絶望してあんな人間になってしまったのだ。そんな彼を説得するには、それ以上の希望を示す必要がある。家族でも友達でもない自分にそれができるとは思えない。
 脅迫も無理だろう。
『わたしに手を出せば、父親が部下を死なせたという話を広める』などと脅してもあまり効果はない。なぜなら、彼の評判はすでに地の底だからだ。
 取引はどうだろう?
 わたしに危害を加えない約束をさせる代わりに、わたしも何かをする。もちろん、お金を渡したり写真を撮らせたりするのは論外だ。それ以外で、わたしにできること、彼が望むもの。
 彼は何を望んでいるのだろう? 家族がひどいことをしているのを知って、誰にも相談できなくて、自分の中に溜め込んで……。
 わたしなら誰かに聞いてほしい。気持ちをわかってほしい。
 では、彼はどうなの?
 きっと同じだと思う。誰だって悩みを聞いてくれる相手はいてほしいものだ。
 でもおそらく、彼にはその相手がいない。一緒にいた花井と平田も、悩みを打ち明けられる本当の友人ではなさそうだ。だから、あんなに荒れてしまっている。
 それなら、わたしが――
「ふふっ」
 思い付いた途端、なぜだか笑えてきた。
 なんとも馬鹿馬鹿しい話だ。わたしを襲おうとする人間の悩みを、わたしが聞こうだなんて。でも、戦いをやめさせる方法であることに違いはない。
 きっと、これも一つの武道の形なのだと思う。上手くいくかどうかはわからないが、やってみる価値はある。
 わたしは身体を起こし、具体的な策を練ることにした。


 十一月になり、だいぶ冷え込むようになった朝の通学路で、わたしは昨日考えたことを紗月に話した。
「本気で言ってるの? いくらなんでも危険でしょう」
「でも、向こうから攻めてくるのを待つのはもっと危険だよ。向こうだってわたしたちが警戒してるのは知ってるから、きっと相応の準備をしてくる。そうなったら、わたしたちに勝ち目はないよ。だから先に手を打つの」
「そうは言ってもね……」
「危険なのはわかるけど、現行の法規に(のっと)って身を守ろうとしたらこれしかないの」
 納得できないといった表情の紗月に、わたしは力強く言った。
「小鞘……」
 紗月は歩きながらじっとこちらを見つめてくる。
 それから、呆れたようにため息をついた。
「よくそんなこと思い付いたね」
「太刀河さんに相談してヒントをもらったの。それで思い付いたのがこの方法。戦わずして相手を止めるんだから、これだって立派な武道だよ」
「あの人の考えそうなことだね。でも、どうやってその紀藤って人と話をするつもりなの?」
「まずは手紙で呼び出してみる。一人で来るようにって」
「そんなんで来るのかな?」
「手紙に『昔お父さんの会社で起きた事故のことを詳しく聞きたい』って書いておくの。そうすれば乗ってくる可能性はあると思う。しかも仲間には聞かれたくないだろうから、来る時はきっと一人で来る」
「もし乗ってこなかったら?」
「その時はその時で、また考えるよ」
 そう言うと、紗月はようやく納得した表情になった。
「わかった。で、わたしはいざという時の護衛に付いていけばいいんだよね?」
「それはそうなんだけど、一緒に来るんじゃなくて、どこか物陰に隠れててほしいの。二人だと、ましてや竹刀なんか持っていくと、話を聞いてもらえなくなるかもしれないから」
「あくまでも誠心誠意で接するように見せかけるってことね」
「そう。元々は真面目な人だって聞いてるから、その部分に賭けてみるよ。もし危なくなったら、すぐ助けにきてね」


 その日、わたしと紗月は事情を話して部活を休ませてもらった。
 一緒に行くと言ってくれる人もいたが、あまり大人数で行っては目立つので丁重に断った。
 その代わり何かあったらすぐに紗月が連絡するということで納得してもらった。
 わたしが指定した場所は二年A組の教室。紀藤蓮のクラスだ。
 ひと気のない場所を指定すれば、こちらが罠を張っていると疑われる。かといって人の多い場所では彼に嫌がられる。
 教室なら放課後とはいえ多少の人通りはあるから迂闊に乱暴な真似はできないし、彼にとっては自分のクラスだからそんなに居心地は悪くないはず。
 案の定、紀藤はいた。一人で。
 茶色く染まった髪、着崩した制服。身長は平均的だが肩幅が広く、野生の獣のように鋭い眼光が高校生離れした迫力を醸し出している。同じ不良でも、仲間とつるんでいなければ何もできない花井とは違う。本質的には一匹狼の人間だ。
 やっぱり怖い。
 でも、引き下がるわけにはいかない。
 わたしは窓際の一番後ろの席に座る彼に近付き、対峙する。
 それから数秒間にらみ合った後、紀藤はフッと嘲るように笑った。
「ほんとに一人で来やがったのかよ。しかも丸腰で。お前、頭おかしいんじゃねえのか?」
「あなたに言われたくないんだけどね」
 わたしは毅然と言い返した。 
 紀藤の表情から笑みが消える。
「で、何が狙いだ?」
「そんなの、あなたに馬鹿なことやめさせるために決まってるでしょ」
「馬鹿なことだと?」
 紀藤の表情が険しく歪む。
 わたしは怖くて膝が震えそうになるのを何とか堪えた。
「違うの? 今わたしに手出しすれば退学なるかもしれないんだよ? メチャクチャじゃない」
「まあそうだなぁ。ここで退学なったら俺の人生メチャクチャだ。けどよ、ちゃんと卒業したって結局はメチャクチャな社会に放り込まれるだけなんだぞ? 俺のこと調べたんなら少しは知ってんだろ? 俺の親父はな、俺なんか比べ物にならないくらいメチャクチャな野郎なんだよ。けど社会は、そんな親父みたいな人間を裁きもしねえ。違法行為を平気で容認するんだ」
 よし、かかった。
 やはり彼は話したがっている。
「その話、もっと詳しく聞かせてくれる? どうして社会がそんなにメチャクチャなのか」
 だから、こう聞いてあげれば彼は喜んで話を続けるはず。
「要するにこの社会はだな、一部の特権階級が庶民から金と労力を巻き上げる仕組みができ上がってるんだよ。政治家と富裕層がグルになってな。うちの親父の会社がいい例だ。従業員が過労でぶっ倒れるまでコキ使ったり、残業代を支払わなかったり。それで儲かった分は経営者の懐に入るんだ」
 紀藤は得意気な様子だ。
 わたしは黙って耳を傾ける。
「経営者は労働者のことなんか使い捨ての道具としか思ってねえ。違法行為だってやりたい放題だ。けど、企業側の違法行為は、よほどのことがない限り摘発されることがない。なぜだかわかるか?」
 わたしは首を小さく横に振った。
「俺はバイトしてたからわかる。労働者自身がそういう空気を作っちまってるんだよ。違法だろうが何だろうが、それが当たり前だと思って受け入れちまってる。訴えりゃ勝ちなのに訴えない。現状を変えようとしないんだ」
 彼の言葉には怒りが籠っている。きっと彼自身も理不尽な扱いを受けたに違いない。
「けどな、国民がそんなふうになっちまったのはこの国の教育方針のせいだ。世の中に疑問を持たない、議論しない。俺たちはいつの間にかそんな人間に育てられて、政治家や富裕層にとって都合のいい存在になっちまってる。なにもかも最初から仕組まれてんだ」
 この人、ある意味わたしと同類だ。疑問に思ったことを放っておかず原因を追求している。
「だからさ、真面目にやったってしょうがねえんだよ。この末期的資本主義社会じゃ上位1%の勝ち組に入らない限り、みんな社会の奴隷みたいなもんだ。結局、ずる賢い奴が得をして真面目な奴が馬鹿を見る社会なんだよ」
 長々としゃべったせいで多少疲れたのか、紀藤は一息入れる。
 ――ここだ。
「わたしもそう思う」
 彼が望む答え、彼が求める反応をすることで、わたしに対する敵意を削ぐ。
「人間よりお金を大事にする社会なんて、絶対間違ってると思う」
 少しの間、紀藤は意外そうな目でわたしを見つめてきた。
「ハハッ」
 それから、皮肉っぽく笑った。
「そいつはちょっと違うな。人間よりお金を大事といっても、自分は例外だからな」
「あ、そっか」
 わたしも小さく笑った。
「庶民と違って富豪は身内も敵だらけだからな。ほんとに自分だけだよ」
「遺産相続とかで揉めるあれだね」
「そうそう。金持ってる奴らほど、自分が金に踊らされてんのに気付かねえんだよ」
「本末転倒だよね。人間のために存在するはずのお金が、人間を狂わせるだなんて。どうして、こんなふうになっちゃったんだろうね?」
「そこまでは知らねえよ。だが、人を人とも思わねえ奴らが管理するこの社会は間違いなく腐ってる。俺は幸か不幸か、この歳でそれに気付いちまった。もうどうしたらいいのかわかんねえんだよ……」
 紀藤は気の抜けた表情で窓の外に目を移した。
 その様子を見て、彼の話を聞いて、わたしは確信した。やっぱりこの人は根っからの悪人なんかじゃない。ただ不幸な出来事のせいで、進む道が逸れてしまっただけの人だ。
 だから、この言葉に対して返ってくる答えはきっと――
「もっと、人が人を大切にする社会だったらいいのにね」
「……そうだな」
 紀藤は窓越しに空を仰いだまま、小さく言った。
 上手くいった。これで紀藤はわたしを攻撃できなくなった。それは自己の発言を否定することになるから。
 紀藤がじっとこちらを見つめてくる。
 その表情は、まるで憑き物が落ちたかのようにスッキリしていた。
 そして、何かを悟ったようにフッと笑う。
「お前、俺をハメやがったな?」
 わたしは否定しなかった。
 もう隠す必要はない。そう断言できる空気だった。
「上手いことやりやがったな。その作戦、自分で考えたのか?」
「半分はね。でも残り半分は武道の先生に教えてもらったの」
「武道ってことは剣道部顧問の樋口先生か?」
「ううん。偶然知り合った小学校の先生。その先生はね、武道は戦うためのものじゃなく、戦いを止めるためのものだって言ってた。だから、戦わずに解決する方法を考えたの」
「そっか、今時そんな先生がいるのか……」
 親だけでなく教師にも恵まれなかった。そんな発言だ。
 事実、この学校の教師はこの人を停学処分にしただけで、彼の内面を変えられなかった。
 やっていることが的外れなのだ。罰を与えれば、それで解決だと思っている。
 この人だってなりたくて不良になったわけじゃない。いくつかの不運が重なったせいで、こうなってしまっただけ。それを考慮せず人の内面を変えられるはずがない。
 そう思うと太刀河さんと出会うことができた自分は幸運だ。
 この人だって、太刀河さんと会えば変われるかもしれない。
「良かったら今度会ってみる?」
「はぁ?」
 紀藤は首を傾げ、眉をひそめた。
「いいのかよ。俺みたいなのが、そんな……」
「大丈夫だよ。そういうの気にする人じゃないから」
「いや、お前がだよ。俺、お前にひどいこと……」
 言いかけて、止まった。
 それから、座ったまま両手を膝に置く。
「俺……」
 悔しそうな、それでいて悲しそうな表情。
 紀藤はほんの少しだけ頭を下げた。
「悪かったよ、あんなことして。……すまん」
 ぶっきらぼうではあるものの、その態度の変化にわたしは戸惑った。
 でも、すぐに胸の奥が暖かくなってきた。
「もういいよ。済んだことだし」
 さっき彼が見せた悔しそうな表情。それはわたしに謝るのが悔しいのではなく、自分の不甲斐なさが悔しいからだとわかったから。
 紀藤は顔を上げ、立ち上がった。
「こんな腐った社会にも、お前みたいな奴がいるんだな。なんか、ちょっとだけ希望が湧いてきたよ」
「そう。じゃあ、お仲間の二人にもそれを伝えてあげて。それが今のあなたにできる最大の罪滅ぼしだよ」
「それもそうだな」
 すぐにでも実行せんとばかりに、紀藤は教室の外へ向かって歩き出した。
 とても頼もしい背中だ。これでもう、ひと安心かな。
 そう思った次の瞬間のことだった。
「あん?」
 教室の後ろの扉から出るところだった彼がよくわからない声を出し、硬直した。
「どうしたの?」
「……逃げろ!」
 かすれた声を出しながら、紀藤は脇腹を抱えて膝から崩れ落ちた。
 その様を引きつった表情で見下ろすのは、赤く染まった果物ナイフを手にした小太りの男。
 彼の仲間であるはずの平田だった。
「お、お、お前が悪いんだぞ。いつもいつも俺のこと見下しやがって。しかも、敵の女と仲良くなるなんて! ふざけんな!」
 平田は、うつ伏せに倒れた紀藤の脇腹を蹴った。
「うぐ!」
 床に鮮血が広がる。
「やめて!」
「小鞘、下がって!」
 廊下から紗月の声が響いた。
 次の瞬間、振り向いた平田の鎖骨辺りに竹刀が降り下ろされる。
 防具を打つような高い音ではなく、肉を打つ鈍い音がした。
「がっ!」
 平田は呻きながら前屈みになる。が、倒れない。
「いい加減に――しなさい!」
 紗月の二撃目。今度は、竹刀が平田の右手首を打った。
「あぅ!」
 手からナイフが落ちる。
 それでも、平田は怯まなかった。
「邪魔だぁ!」
 竹刀もろとも吹き飛ばすように肩から突進する。
「きゃっ!」
 紗月は吹き飛ばされ、壁に叩き付けられた。
 尻餅を付き、ぐったりする。
「紗月!」
 大声で呼び掛けるが返事はない。気を失ったのかもしれない。
 そんな紗月には目もくれず、平田は鬼のような形相でこちらを向く。
「お前だよ、お前! せっかく蓮の野郎を退学に追い込んでやろうと思ったのに、余計なことしやがって!」
 叫びながらナイフを拾おうとするが、床に倒れたままの紀藤が奪い取った。
「この野郎が!」
 平田が紀藤の肩口を蹴る。
「やらせ……ねぇ」
 紀藤はナイフを抱え込んだまま、何度蹴られても離さなかった。
 わたしは武器になりそうなものを探すが――ない。
 椅子を投げつけたら紀藤に当たるかもしれない。机はもっと無理。紗月が落とした竹刀は遠過ぎる。
 迷っている時間はない。もうこれでいい!
 わたしは背面黒板から黒板消しを手に取り、投げ付けた。
「うっ!」
 黒板消しが平田の頬に当たり、白い粉が舞い散る。
 わずかだが隙ができた。
 わたしは前進し、男子最大の急所をつま先で思い切り蹴り上げた。
「おぅ――」
 声にならない声を上げ、平田は崩れ落ちた。


 不幸中の幸いにも、紀藤の腹部に刺さったナイフは内臓から外れており、重傷には至らずに済んだ。三週間ほどで学校に復帰できるという。
 平田には退学処分が下った。さすがに刃物による傷害事件で逮捕されてしまっては学校側も救済のしようがないらしい。逆に言えば、このくらいの大事件が起きないと学校側は本気で動いてくれないわけだが。
 当然、わたしと紗月は正当防衛で無罪。紗月に怪我はなく、翌日から普通に登校し、部活にも出た。
 そして数日後の土曜日。
 わたしは紗月と二人で、紀藤が入院する病院にお見舞いに行った。
 病室に着くと、そこには花井の姿があった。事件後、毎日お見舞いに来ているらしい。
 平田と似たような境遇の花井だったが、彼は紀藤を恨むことなく、今では互いに悩みを打ち明けられる本当の仲間になったという。最初に知らせに来てくれたことといい、この人もまた根っからの悪人ではなかったようだ。
 ベッド上で身体を起こした紀藤に、わたしは聞く。
「具合はどう?」
「だるい。ずっと寝てるから身体がうずうずして仕方がねえ」
「元気そうじゃない」
「元気じゃねえよ。まだ動くと腹が痛むんだ」
「それだけしゃべれるなら元気だよ」
 紀藤は苦笑した。
「容赦ねえな」
「わたしたちみたいな弱者は容赦してる余裕なんてないからね」
「どこが弱者だよ。お前らけっこう強かったじゃねえか」
「そんなことないよ。剣道の練習をして、護身術を習って、いろいろ考えて、準備して。そこまでやってようやくギリギリの勝利だもん。これからますます治安が悪くなるっていうし、安心なんてしてられないよ」
「そうだな。俺だって一瞬の油断でこの様だ。怖えよな……」
 しばらくの沈黙。
 それから、紀藤は意を決するように言う。
「二人とも聞いてくれ。今回の詫びにってわけじゃねえが、今後もし困ったことがあったら、いつでも言ってくれ。少なくとも卒業するまでは、俺がお前らを守ってやる」
「お、俺もだ」
 花井が続く。
「特に蓮が退院するまでは俺が何でも引き受けるから、二人とも頼ってくれよな」
 まさか、かつての敵がこんなに心強い味方になってくれるとは思いもしなかった。これも武道のおかげだ。ただ身を守るだけの護身術ではこうはいかなかった。太刀河さんのくれたヒントが、わたしをここまで導いてくれた。
 もっと武道のことを知りたい。その想いはいっそう強くなった。


 翌日、日曜日。
 今日は二回目のレクチャーの日だ。わたしたちは約束通り午後二時に駅で待ち合わせをして、太刀河さんの家に向かう。
 先日の事件内容については太刀河さんにも事細かに伝えてある。
 それに対するわたしたちへの評価はというと――
「六十点だな。武道の本質を理解し彼を説得したのは見事だが、敵の襲撃に対する準備が甘過ぎる」
 やっぱりそうでしたか……。
「まず護衛が玉野さん一人というのが良くない。最低でもあと二人、フォローする係と連絡する係を連れてくるべきだった。それに武器も竹刀では心許ない。木刀を用意すべきだったな」
 実際、平田は鎖骨に直撃を受けても倒れなかった。わたしたちの力では、竹刀は一撃必倒の武器にはならないことを痛感した。
「次に、『平田は一人では何もできない』という花井の言葉を鵜呑みにしてしまったのが今回最大の失点だ。所詮、人の心など本人にしかわからないものだ。ましてや、成長期の人間は心の変化が起きやすい。だが君たちは平田という男のことをろくに調べもせず、結果彼の行動が全く予測できなかった。最低でも花井を使って平田の動きを封じておくべきだったな」
 返す言葉もない。
 太刀河さんの言うとおり、わたしたちは平田という男のことをほとんど意識していなかった。
 花井は紀藤には逆らえなかったが、平田にまで逆らえないことはなかっただろう。
 事情を話せば、紀藤と話をしている間、平田を引き離すことくらいはしてくれる可能性は高かった。そこに頭が回らなかったのが悔しい。
「それから最後に」
 太刀河さんが不意に立ち止まり、振り返った。
 そして、穏やかな表情で言う。
「二人とも、よくがんばったな。たった一度のレクチャーでこれだけできれば上出来だ。君たちの考える力には正直驚いてるよ」
 いきなり褒められるとは思ってなかったから、どう反応すればいいのかわからなかった。
 気が付いたら、頬が緩んでいた。
 わたしは恩師の顔をまっすぐに見上げる。
「太刀河……先生!」
「ん……?」
 先生と呼ばれたのが初めてだったからか、太刀河さんは目を丸くした。
「護身術のレクチャーが終わったら、今度は武道を教えてくれますか?」
 本気で教わりたいのであれば、これからは先生と呼ぶべきだと思った。
「武道を? でも、俺の武道は名前もない独自のものだ。それでもいいのかな?」
「名前より大事なのは中身です。わたしは太刀河先生の武道以上の武道を知りません。だから、太刀河先生に教えてほしいんです」
「新條さん……」
 紗月が一歩前に出た。
「わたしもです。わたしにも武道を教えてください。わたし、今回のことでわかったんです。武道は身を守るだけのものじゃなくて、きっとこれからの厳しい時代を生きていく上で必要なものなんだって」
「玉野さん……」
 太刀河さんは少しだけ困惑していたが、やがて静かに頷いた。
「わかった。君たちがそう言うなら、引き受けよう」
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