第1話  災い

文字数 5,848文字

 わたしは体育の授業が嫌いだった。
 運動が苦手というわけではない。陸上や水泳などの個人競技であれば、平均に近いくらいの運動能力はあると思う。
 でも、団体競技は全くダメだ。
 協調性がないとかいうレベルの話ではない。身長が一四〇センチしかないのが致命的なのだ。
 考えてもみてほしい。高校生女子の平均身長はおよそ一五八センチ。
 それに対して、一四〇センチは小学五年生の平均以下だ。
 こんな体格差の人間が一緒になって競技をしたらどうなることか。
 バレーやバスケットなどの球技では、露骨なまでに戦力差が出てしまう。そうなるとチームメイトからも相手側からも戦力外と見なされ、たまたま転がってきたボールを無難に処理するだけの存在に……。
 これで体育を嫌いにならない方がどうかしている。
 でもまあ、それはいい。
 成績は筆記試験で補えるのだから、どんなにみじめでも怪我だけしないよう気を付けていれば大きな問題はない。誰にだって嫌いな教科の一つや二つはある。
 ただ、それと違って割り切れないことがある。
 想像してほしい。
 女子の間でもこれだけ違うのだ。ここに男子も混ぜたらどうなってしまうのか。
 高校生男子の平均身長はおよそ一七○センチ。わたしとは頭一個分も違う。ましてや、クラスに一人か二人はいる一八○センチ超えの男子など、わたしから見れば巨人みたいなものだ。
 比べるまでもなく、どんな競技をやっても勝負にならないだろう。
 高さの問題もあるが、それ以上に重量と筋力が違い過ぎる。身体の大きな男子に本気を出されたら、四〇キロにも満たないわたしなんて簡単に吹き飛ばされてしまうだろう。勝敗がどうとかいう以前に、同じコートで全力を出されること自体が危険過ぎる。
 同学年でありながら、これほどまでに圧倒的な力の違い。
 その力関係の最下層にいるわたしだからこそ、ふと不安に思うことがある。
 ――もし襲われたらどうする?
 もちろん、同じ学校の人間をいちいち疑っていてはキリがない。あくまでもゼロではないというだけだ。
 でも裏を返せば、わずかながら襲われる可能性もあるということ。
『同じ学校の仲間を疑うなんてひどい!』なんて思わないでほしい。現にテレビやインターネットでは、生徒間のいじめや教師によるわいせつ行為などの事件が頻繁に報道されているのだから。
 ましてや、学校の外に目を向ければ尚更だ。わたしより小さな子はもっと襲われやすい。
 一度標的にされてしまったら、戦うことはもちろん、逃げることさえ難しい。
 そして、事件や事故は何時(いつ)なんどき起こるかわからない。誰も予告なんかしてくれない。
 わたしの時もそうだった。
 それは、あまりにも突然の出来事だった。
 中学三年生の秋。学校の帰り道で、わたしは――

 
 薄暗い路地を一人で歩いていたわたしのすぐ横に、見慣れない黒の乗用車が止まった。
 ……なんだろ?
 特に警戒するでもなく、ぼんやりとそちらに顔を向ける。
 瞬間、助手席と後部座席から黒い影が飛び出てきた。
 え、なに!?
 手から鞄がこぼれ落ちる。
 飛びかかってきたのが全身を黒い服と目出し帽で覆った男たちだと気付いたのは、二人に捕まった後だった。
 一方の男に背後から捕まれ、もう一方の男に正面から手で口を塞がれる。
(んー!)
 声が出せない。
 背後の男に脇を抱えられ、身体を持ち上げられる。
 車の中に連れ込む気だ。
(んー! んー!)
 声にならない声を上げ、わたしは必死にもがいた。
 しかし、男二人の力に対抗できるはずもなく、車のドアはもうそこに。
 涙で視界がにじんできた。
 ウソ……わたしの人生が、こんなワケのわからない人たちに――
 絶望が脳裏をよぎった瞬間、突として塞がれていた口が解放された。
 正面の男が膝から崩れ落ちる。
 え……?
 何が起きたのかは理解できなかったが、目出し帽の男たちとは別の誰かが、そこに立っていることだけはわかった。溢れる涙のせいで、どんな人なのかはよくわからない。
 でも、その人がわたしの目を見てわたしに発した言葉は、すぐに理解できた。
「空を見ろ。早く!」
 わたしは言われたとおり、空を見上げる。
 すると、ゴンっと後頭部が何かにぶつかった。
 男のうめき声と同時に、わたしの脇を抱えていた腕が離れる。
 後頭部が男の顎に当たったようだ。
「こっちだ!」
 また〝その人〟の声。 
 わたしは半ば反射的に〝その人〟の胸に飛び込んだ。
「もう大丈夫だから、下がってて」
〝その人〟は優しくわたしの肩を抱き、反転させて後ろにかばってくれた。
「この野郎……!」
 男が顎を押さえながら、こちらをにらんでくる。
 さらに運転席からもう一人、目出し帽の男が出てきた。
「おい、時間かけ過ぎだ。とっととやるぞ」
「おう」
 まずい、二対一だ。しかも、二人とも身体が大きい。
 でも大丈夫と言っていたし、この落ち着きよう。何か現状を打破する手立てがあるかもしれない。
 期待と不安が胸をよぎる間も、男たちはジリジリと迫ってくる。
 不意に〝その人〟は男たちの後方を指し、声を上げた。
「おい、警察が来たぞ」
 誰もいないのに。
 しかし、わたしと違って向こうの様子が見えない男二人は慌てて振り向く。
 その隙に〝その人〟は、運転席から出てきた方の男に急接近し、こめかみの辺りに肘打ちを叩き込んだ。
 打たれた男は声もなく地に伏した。
「お、お前……」
 残った方の男が動揺と怒りの混じった声を出す。
「卑怯だろうが!」
「二対一は卑怯じゃないのか?」
 すぐに返され、男は声を詰まらせた。
「それにもう時間切れだ」
 見ると、〝その人〟が目配せした先には携帯電話を手にした通行人が。
「ぐっ……」
 男の目元が歪む。
「自首しろ。今ならそこまで重い罪にはならない」
「黙れぇ!」
 男は勧告に従わず、暴れ馬のように遮二無二突っ込んできた。
「やれやれ……」
 男とはまるで正反対の冷静さで、〝その人〟は真っ直ぐ腰の高さに蹴りを出した。
「おぐぅ!」
 今まで聞いたこともない奇妙なうめき声とともに、男の身体がくの字に折れ曲がる。
 わたしは見た。〝その人〟の蹴り足が男の下腹部よりさらに下の部分を捉えたところを。
 続けざま〝その人〟は、ふらつく男の顎に肘を横薙ぎに叩き込む。
 男は横向きに倒れ、ピクリとも動かなくなった。
 だ、大丈夫かな……。いくらなんでも、死んではいないよね。
 そんなわたしの心配を余所に〝その人〟は素早く呼吸を整え、さっき落とした鞄を拾ってくれた。
 それから、空いている方の手をこちらに差し伸べてくる。
「とりあえずこの場を離れよう。警察には後で連絡すればいい」
「は、はい」
 わたしは〝その人〟に続き、早足でその場をあとにした。


 しばらくの間、わたしは〝その人〟と一緒に歩き、人通りのある商店街までやってきた。 
「この辺りなら大丈夫だろう」
 通行の邪魔にならないところで足を止めて向かい合う。
〝その人〟は見た感じ二十代後半くらいの真面目そうな男性だった。
 身長はわたしより二十センチほど高いが、わたしが一四〇センチしかないから男性としてはかなり小柄だ。服装は黒とグレーを基調としたフォーマルっぽい無難なもの。髪は癖のないショートヘア。先ほどまで勇敢に戦っていた人物とは思えないくらい、穏やかな顔をしている。
 どちらかというと細身だし、少しも格闘家っぽくない。さっきの戦いにしても、不意打ち、騙し打ち、急所攻撃と、反則技のオンパレードだった。
 いったい何者だろう?
 困惑と緊張が混じった不思議な鼓動を感じながら、わたしは深くお辞儀をした。
「あ、あの、ありがとうございました。わたし、新條(しんじょう)小鞘(こさや)といいます。助けていただいて、ほんとに、なんてお礼を言っていいか……」
「どこか怪我はない?」
「あ、はい。おかげさまで」
「そっか。じゃあ、今後はああいう人気のない道を一人で歩かないことだ。少しくらい遠回りでも、人通りのある道を通った方がいい」
〝その人〟は優しく言ってくれる。
「そ、そうですね。気を付けます」
 助けてくれただけでなく、わたしのことを心配してくれているのが嬉しい。
「ところで、家は近くかな?」
「えっと、ここからだと歩いて十五分くらいです」
「よかったら家まで送るよ」
「え、いいんですか?」
「あんな事件の後に一人で帰すわけにはいかないだろう。また襲われたら大変だ」
 また鼓動が高鳴る。突如、降って沸いた不幸の中、こんなに優しい人が駆け付けてくれたのだ。偶然とは思えない。
 わたしは何か運命的なものを感じずにはいられなかった。


「あの、よかったらお名前を聞かせてくれませんか?」
 歩きながら、わたしは尋ねた。
太刀河(たちかわ)(しん)。職業は小学校の教師だ」
「え、先生だったんですか!」
「そうは見えないかな?」
「あ、いえ……。ただ、公務員がああいう事件に関わると、ニュースになっちゃうかなって心配で」
「なるかもしれないな。そしたら、俺のやったことを非難する人間も少なからず出てくるだろう。困ったものだ……」
 太刀河さんは気だるそうにため息をついた。
「そんな! 太刀河さんは全然悪くないです。人助けのためにやむを得ず戦ったんですから、正当防衛です」
「それでも、武力行使は許さないって人間はいるんだよ。特に教師ともなればね」
「じゃあ、通報だけしてあとは何もするなってことですか? わたし、連れていかれちゃいますよ?」
「もちろん、それもダメだ」
「じゃあ、いったいどうすれば?」
「口で説得しろってことだろうな。あるいは、掠り傷一つ負わせず三人とも取り押さえるか」
 太刀河さんは皮肉っぽく笑った。
 わたしは笑ってなどいられなかった。
「そんなの、どう考えても無理じゃないですか! どうして、そんな……?」
「当事者にならなきゃわからないんだろうな。それが平和ボケってヤツさ。自分が襲われた時のことなんか考えちゃいない」
 わたしには返す言葉がなかった。
 ついさっき襲われるまで、わたしも平和ボケ状態だったのだから。
 あの道が危険だなんて考えてもみなかった。ただ近道だから通っていただけだ。
 それなのに当事者になった途端、自分のことは棚に上げて……。
 会話が途切れる。少しだけ空気が重い。
 余計なこと言わなきゃよかった。
 そうして歩いているうちに家が見えてきた。
「あ、あそこです」
 わたしは前方にある二階建ての一軒家を指した。
「今、家に家族はいるかな?」
「はい。この時間なら母がいるはずです」
「なら、少し上がらせてもらっていいかな? さっきのこと、俺から親御さんに説明するから」
 

 リビングで太刀河さんから説明を受けた母は、恐縮しきった様子で何度も頭を下げた。
「本当にありがとうございました。後日、改めて夫とお礼に伺いますので」
「あ、ありがとうございました」
 わたしも母と一緒に頭を下げた。
 大人同士の会話を聞くうちに、だんだんと自分が犯罪被害に遭ったのだという実感が蘇ってきた。もう運命がどうとかいう雰囲気ではなくなってしまった。
 母と二人、太刀河さんを玄関で見送る。
 その後、一瞬だけ追いかけてみようかという衝動に駆られたが、やっぱりやめておいた。相手は学校の先生だ。ただでさえ今回の暴力沙汰で肩身の狭い思いをするかもしれないのに、女子中学生と親密になってしまっては社会的に抹殺されかねない。
 母が台所に戻っていく。
 わたしは少しだけ未練がましく玄関で佇んでいたが、やがて踵を返した。
 二階にある部屋へ行くため、玄関を上がってすぐのところにある階段を昇る。
 二、三段昇ったとこで、ピンポーンとインターホンの音がした。
 誰だろう。警察の人かな。それとも太刀河さんが戻ってきた?
 微かな期待を胸に寄せながら、わたしは階段を降り、扉を開けた。
 そこにいたのは、やっぱり太刀河さんだった。
「ええと、忘れものですか?」
「ああ、君に言い忘れたことがあった」
「な、なんでしょう?」
 連絡先の交換とかかな? あるいは、何か優しい言葉でもかけてくれるとか?
「今回の件だが、運が悪かったとは思わないことだ」
 太刀河さんが発した言葉は予想外のものだった。
「またいつか、同じような事件が起こる可能性は高いと思った方がいい。もう何年かしたら、こんな事件が日常茶飯事になるかもしれない」
「どういうことですか?」
 わたしは眉をひそめた。
「この先、国内の治安が悪化する可能性が高いということさ。今、この国の体制は確実に傾き始めている。崩壊するのはまだ先にしても、そのうち国も警察も当てにならなくなるだろう。だから、今のうちに自衛手段を身に付けておくことをお勧めする」
 それだけ言って、太刀河さんは帰っていった。
 

 後日、捕まった犯人たちの証言について警察の人から聞かせてもらった。
 犯行の目的は身代金。わたしを狙ったのは偶然ではなく、祖父が議員をやっていてお金を持っているからだという。下校時間、帰宅ルートなどを綿密に調べた上での計画的犯行で、もし太刀河さんが居合わせなかったら間違いなく……。
 想像すると、身体が震え出した。
 人質は生きてさえいれば人質としての価値を失うことはなく、解放されるまでに何をされるかは犯人の気分次第。犯人が男性で人質が若い女性の場合、性的暴行を受ける可能性は高い。
 そんな話をどこかで聞いたことがある。
 この日本で身代金目的の誘拐などほとんど成功しない。誘拐自体は成功しても、犯人はその後ほぼ確実に捕まり、法の裁きを受ける。
 事件はそれで解決だが、被害者が心と身体に負った傷までは誰も癒してくれない。法も警察も、基本的には事後処理しかしてくれない。結局は泣き寝入りだ。そうならないためには、自分の身は自分で守るしかない。
 警察の人から話を聞くうちに、太刀河さんの言っていた〝自衛〟の重要性がだんだんとわかってきた。
 でも、具体的にどうすれば?
 思い起こせば、学校でも家庭でも自衛についてそれほど詳しく教えてもらったことがない。
 大声を出すとか防犯ベルを鳴らすとか、そのくらいしか頭に浮かばない。
 あの時は、いきなり捕まって口を封じられたから、それすらできなかった。そうなった時どう対処すればいいのか、誰にも教わった記憶がない。
 そうなると、やっぱり武道でも習って太刀河さんみたいに強くなるしかないのか……。
『武道』
 わたしが初めて、その言葉を強く意識した瞬間だった。
 高校生になったら、武道系の部活に入ってみようかな。
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